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「7年または8年で変わり目が訪れる」って養命酒みたいですね
今川軍の実数ですが、今川家が支配していた領地の当時の石高から考えて、多くても2万人程度だったと思われます。それが分散して配置されていたのはこの動画で説明されている通りですが、2万人と言っても、当時の軍は全員が戦闘員という訳ではありません。全軍の3割〜4割程度は兵糧や武具を運んだり陣地作成をしたりする人夫等の非戦闘員です。今川軍本隊の人数は、一般的に5千人程度と言われていますが、5千の内、戦闘員は恐らく3千人程度で、対して織田軍は2千人と言っても、荷駄隊等は連れておらず、全員が戦闘員で編成されていて、実質的には2000対3000程度の戦力差だったと思われます。信長直卒部隊の精強さや今川軍が分散してしまっていた事を考えれば、戦況を覆す事は十分に可能でしたね。織田軍の戦死者ですが、それぞれ兵500程度が守っていたと考えられる砦2つが落ちていて、今川軍本隊との一連の戦闘でもそれなりに損害が出ているので、1000人近くの戦死者は出ていてもおかしくないですね。
今回のシリーズでは一貫して信長さんは「周辺の情報収集および地形把握等の日頃の積み重ねをベースとした決断力と実行力の化身」という印象でした。見る→知る→戦うのサイクルが異様に速く、それでいて直属部隊が恐ろしく強いとあれば信長の本領は1000~2000規模の軍を動かしてこそだったのかもしれません。逆に大大名となってからはそんな兵数では戦えないので基本的に戦争は部下に任せ、自分はなるべく大軍を揃えられるような状況作りに専念したのではないのかなと思います。
起業家としても経営者としても優秀ってことか…やっぱりすごいな
得手不得手を周りよりご本人が一番弁えてたからと言うのが大きいんでしょうね。ただ能力や事象(評価評判含む)の把握は得意でも人の内心を掴むのは苦手そうなのがまた人間臭いというね。
大高城近辺を散策したことが有りますが鷲津砦、丸根砦はホントに大高城の目と鼻の先に有ります。両砦は急峻な小さな丘の上に有り攻め落とすには相当苦労したと思います。当時は海岸線が現在より内陸に入り込んでおり、大高城と鳴海城は共に海に面しており、両城の間は満潮時には海面下となるような干潟となっていたはずです。大高と鳴海を陸上で行き来するには東に大きく迂回しなければなりません。鳴海城周辺の中島砦、善照寺砦等も鳴海城の至近にあり、当時はむしろ今川方の大高、鳴海の二拠点は織田方に包囲されて孤立して陥落の危機に有ったのでしょう。今川義元としては二城周辺の織田方の拠点を制圧して包囲を打破したかったのだと思います。桶狭間の前哨戦で戦死した千秋四郎は熱田神宮の宮司ですが、大高には熱田神宮の末社の氷上姐子神社が有り、大高は熱田と繋がりが強い地域です。信長配下となっていた熱田衆がこの戦いに参戦した理由はこの辺にありそうですね。あと伊勢湾は織田方の佐治家等の水軍によって海上封鎖されており、陸上からしか兵糧を運び込めなかったとも聞いたことがあります。
実にわかりやすかったです!紹介されてる、戦術の本(やっと買えた!!)も大変面白かったです🥰
ありがとうございます!
ノッブの凄い所は、この戦勝を成功体験として美化せずに第二の桶狭間に陥るような行動をとらなかった事だと思う。
講談などで語られるようになった時に「神君家康公は最初今川家の人質だった、その当主義元は上洛を狙えるほどの大大名、その大物を尾張のうつけと呼ばれた信長が倒した」そのあと独立をもくろむ家康公に「同盟を結ぼう」と働きかけてきたこういう流れにすることで「権現様はこの2人の英傑に若いころから見込まれていたのだ!!」と言う風にした方が都合が良かったんだろうと思います
史実はどういう関係だったのかはわかりませんが、創作でよく見る「のぶやす」の交流は映えますよね。二人とも物凄い長所を持ちながらも、バーターとなる致命的な短所があり、それを努力で克服した故人間的な魅力が豊かで面白いってイメージがあります。実は信長は今川吉元を尊敬しており、奪い取った彼の刀を愛用し、その統治手腕を積極的に真似して、さらにその息子の氏真とも大名廃嫡後、交流が深かったというのも面白いです。氏真に関してはよく無能扱いされますが、実際にはこの辺りは有能しかおらず、さらにはそれぞれがその能力を認め合いながら戦っていた。戦国時代という時代がどのようなものだったのか、考察が捗ります。
流石天下を盗んだ徳川、歴史まで盗むかw
小回りの利く機動戦が真骨頂やったんちゃうかなって思いますね~主さんの考えに同感です
冷静に考えると、家康のやった事って可成り酷いんですよね。本来岡崎松平を潰して今川の譜代を入れても良いしそこまでしなくても多くの松平同族の誰かを岡崎城主に任命してもよかったわけですしねそれなのに家康の立場を保証し、姪を嫁がせて一門衆に組み込むのですから一応今川に恩義があると言えます。「神君様が今川に酷く虐められた」って伝説、そうでもしないと家康の行動の火道さが目立つからだと思います
今川家は花倉の乱の影響もあって一門が極端に少ない。義元-氏真以外のラインは全滅状態で(それが原因で初陣すらできなかった位?)それだから松平家を一門衆にしてまで取り込む方向になったのかな。
信長さん見て思ったが、日頃の地道な準備の積み重ねってマジで大事だよな。日頃から全力で備えや準備をしているから、多くの場合は有利な条件で戦えるし、桶狭間みたいに兵数不利でも勝ち筋見つけて勝利につなげる事ができる。
ここの主の動画は1時間弱あっても全く飽きないし考察が深くてわかりやすいからつい見ちゃうんだよなあ…それはともかく信長さんあまりにも有能すぎないか…?現場指揮官と戦略家、どちらかに優れている人は史上たくさんいるけどどちらも優れてる人って中々居ないよなあ
大高城から鳴海城は平坦な地形ですが、大高城から見ると丸根砦や大高緑地などは標高が高く、大高と桶狭間の間に山がある感じになって物理的に見通せず気づかない気がしますね。逆に鳴海城からだと桶狭間は比較的なだらかな上りで山になっていないので当時も見通しやすいと思います。自領でなく戦闘中で豪雨ならなおさら気づかないでしょうね。
麒麟が来るのときの桶狭間の戦いの演出が好きだったなぁ一連の流れが信長はただ者じゃないってことを示していて良かった
お疲れ様です次回も信長希望です!
国土地理院の1945~50年の宅地化される前の航空写真と起伏図を見ると、確かに桶狭間に入った時点で大軍の優位性は無くなっていますね。手前の境川を渡ったあたりが丘陵地帯の入口で、その先の谷間の少し開けた場所が桶狭間です。義元が境川を渡ったと聞いて信長はウキウキだったのかもしれません。
うぷおつです。まさに兵は詭道なりの戦いですね。
義元上洛のソースは【甫庵信長記】からきてるらしいです。義元が討たれた後は義元の母親寿桂尼が今川家を執り仕切っていたようです。ちなみに寿桂尼は旦那である前当主氏親存命の時も仕切っていたことがあったみたいです。
「こいつがいい加減なこと書くから歴史学者が苦労する」人物No1の甫庵先生かぁ
この迂回奇襲を参考にしよう!と大日本帝国が参考にしようとした結果がガダルカナル…
歴史学者は苦労したけど信長を人気にしたのも甫庵先生だと思う。だって民衆が喜ぶのは歴史の教科書ではなく、だろう小説だもんまあ三河物語の作者の大久保忠教はブチ切れたらしいけど-この辺は橙が悪態ついて欲しいまであるw-
@@kyokatayama1845ナンバーワンは司馬遼太郎先生、その次は頼山陽先生と思う
善照寺砦や中島砦から桶狭間だと中間にちょっとした丘があったり桶狭間の古戦場よりも低地にあったりで恐らく本陣が見えていたという事は無いと思います。斥候は出していたでしょうし、沓掛城から桶狭間の駅の辺りを行軍するのは見えていたと思うのですが。
桶の狭間だから桶のような沼の狭間つまりなだらかな丘だしな視野なら今川のほうが恐らく広く取れてる
沓掛から大高に向かう道は中京競馬場前駅の隣の道じゃないと思う。もう一つ丘陵を南に越えたところを東西に通っている。西に進むと田楽狭間の南端に通づる。摺鉢状の窪地じゃないよ。視界は最悪
桶狭間の戦い、思っていたのと結構ちがった・・・。見応えがありました。
織田信長の戦術的センスは卓越してますね。尾張統一編は戦術巧者としての織田信長を体感できました。
勉強になります途中のボケが面白すぎます
いや、マジで面白すぎるわ。50分あっという間でまだ聞きたいわ。ホンマに面白かったです。
図解で説明して下さるとすげー分かりやすいやね~拙速兄貴いつもうpおつ!
登場人物の「視線」が戦果を決定したと考えると、本能寺の変もまさにこれなんでしょうね。
家康さんもこの時に合戦の兵糧入れ成功させて良かったねこれで織田と同盟できたと思う
大河ドラマ「功名が辻」の桶狭間の回で、かの名斬られ役の福本清三氏が今川家家臣で出演されているのを見た時代劇好きの兄が大喜びしていたのを思い出しました。
19:04 ここ、違う動画で主が言ってたけど、我々が桶狭間の戦いが起きたって知っているからここで強襲って発想ができるけど、同じ状況に置かれたとしたらここで桶狭間に行くっていう発想は出来ないよなぁ
今回の冒頭の説明の部分って結構重要で盲点だったりしますよねゲームとかだと大名と他全員配下武将みたいな感じになってるから勘違いしますけど、配下武将って言ってもそれぞれが独自に地元に地盤と兵力を持ってたりする。会社員というよりは個人事業主、もしくは協力会社みたいなイメージですよね。ゲームだと同じ信長の配下扱いの武将でも実際は織田家じゃなくて羽柴家や柴田家に仕えてたみたいな武将もいますしこれは三国志とかでも同じで例えば関羽は劉備の配下じゃなくて同盟者、協力会社の社長同士みたいな関係だったという説もありますし、呉とかもそれぞれの武将がかなりの個人勢力を持っていて連邦国家みたいな形だったみたいですね
ほんと毎回素晴らしい動画だわ…毎週金曜に出してくれてほんとありがとう
この50人の戦死というのは、確か捨て石作戦と聞いたのですが、実際はどうなのですか?その勝利で油断と安心を生んだそうですが…。
今川氏真するのか?今川義元退場後駿河方面(今川領)は放置かな?美濃進行どこまで行けるのかな~
今川を攻めると3国同盟発動して武田北条とも敵対モードになるから面倒な事になる北から斉藤が窺っているのに武田と合戦している場合ではない
@@naoki4138仮に今川領を全て織田方が取れたとしても北と東からそれぞれ武田、北条に狙われますしねそこに斎藤氏とも対立してますし…
やっぱり面白い時間は短く感じる
53分だけど一気に最後まで見てしまう内容の濃さだった。
長時間の動画投稿お疲れ様でした!後から記録として見ると10倍の兵力差みたいに数字で考えてしまうけど当時の人はもっとミクロな視点で戦うのでその辺を考慮するの大切ですよね
信長、信長、信長!ジェットストリームアタックを敢行する!(もちろん信長の独り言)
利根坂しかり、状況に応じて目的を即座に切り替えられる能力が信長のヤバさの一つなんだなぁと
今日観光がてら桶狭間行ってきました。地図だけだと分かりづらいのですがこの辺り本当に起伏が激しくてびっくりしました。義元公最後の地は公園になっていますが、そのあたりだけが確かに微かな盆地と言うか山の下り坂でした。本陣を動かした義元を見逃さず乾坤一擲、討ち果たした信長公の見事さを改めて感じましたね。
桶狭間は超有名だがその前の1559年の上洛の話は意外に知られてない。足利義輝は1559年に信長以外にも斎藤義龍、さらに二度目の上洛の上杉謙信と有力大名を集めてる。義輝24歳くらい、三好に土下座して許してもらった直後になるので後の弟の義昭のように手のひら返しで調子こいてたのかもしれない。足利義輝の行動からして信長から働きかけたというより義輝から上洛要請を受けてる可能性が高い。なお信長パパも一度上洛して10代半の義輝に拝謁してるらしい。
その織田信長の少数の突撃を見た家康が大坂夏の陣で真田の突撃を受けてしまうのはキツすぎる。
43:40 フラン「っていうかこの辺り今では全部平坦な宅地なんだよね」 さすがに「平坦」ではないかと。有松駅から有松インターまでの広めの一本道(県道243号)をたどるだけでも「狭間」感かなりありますし、 観光案内所添いの道(国1有松交差点~口無池)もなかなかの谷底感があるかと
熱田を巡る経済圏の争い…かな。織田家にとっては死活問題だし、今川としては自国の守りの兵残しつつ2.3万の軍を養える場所が欲しかった…。
他のyoutuberはもちろん、NHKも38:25までで終わってしまいます。うぷ主あんたはエライ
信長の野望的に信長の武勇値は戦国大名の中では上から3番目くらい高くてもいいと思う
でも彼の戦いの9割は倍ぐらいの兵力でもみつぶしてますよ寡兵での戦いは対柴田と桶狭間と天王寺ぐらい
@@syogekinofuryokawasaki 持ってはいてもそれを出さなくてよい局面ならば出さないで済ませるのが『武』その出さないでよい局面を作るのが『戦略』信長は両方(武と戦略)に長じていたという事でしょうね
ゲーム的に面白みが無くなるからあれだけど、史実を見ると一位だとおもう。
尾張1国で石高は57万石駿河、遠江、三河の3国合わせても70万石程度実は国力の差はそれほどでもない
但し海西軍は一揆勢に抑えられているし、知多郡は将軍直轄地や他の豪族の勢力が根を張ってほぼ統治できていない。上四郡はつい最近制圧したばっか、というわけでまともに動員できるのは海東郡と春日井郡(但し三河付近は今川領)だと思われる。
石高考えると織田軍2千はちょっと辻褄が合わんね
美濃、伊勢方面に敵がいるから結構厳しい
当時は貫高制です 大寧寺の変で明から入ってきていた貨幣が輸入できなくなり、全国で税金を綺麗な銭で払えなくなったから秀吉期以降石高制にシフトしていきました父・信秀は全盛時でも海東軍と愛知郡西部の二郡に満たない勢力であり、単独兵力は稲生の戦における双方の兵力を足した2400人-清州勢くらいが妥当(三河出兵は3000,美濃は5000と捻出してるけど、当然攻める時守る時で動員する兵力も異なる)農繁期はNGだし、前回の戦で男手が足りなくなったと村が拒否するケースもあるし、大名がより多い動員をかける為には、出兵を要請する国人との関係を絶対的な主従関係にする必要がある…→分国法や婚姻で関係の整備
信長公記によると今川義元の本陣は桶狭間山にあったとの事なので、桶狭間は地名であって地形としての狭間では当時からなく、義元本陣はむしろ小高い所にあったのではないでしょうか?
さすがノッブニキや!尾張統一お見事!
松平勢を囮と割り切ればA.今川本陣強襲B.荷駄隊強襲C.緒川城まで打通してから後方撹乱という選択肢でしょうか
今川義元「覚えておれ…わしの仇は必ず息子と元康が取ってくれる…はず…」
なお氏真と元康が敵対し元康は信長と同盟結ぶ模様
氏真は頑張ったよ……
元康「嫌ですよ。」
なお仇はよくわからない理由により信長の家臣が討つ模様
謙信「よろしくニキーwww(小田原に殴り込み)」氏真「うわっ舅殿が危ない…!同盟なくして護りきれない…(北条に援軍)」元康「は?俺ら見捨てる気か?」
桶狭間の戦いをみると太平洋戦争のミッドウェー海戦を思い出す。今川軍(日本軍)砦の攻撃が目標(飛行場)信長本隊(空母)なんて来るはずがない。織田軍(アメリカ軍)今川義元本陣のみ(日本空母群の殲滅)兵力の配分に関してもそう日本軍はアリューシャン方面に部隊の一部を展開、南雲機動艦隊の後ろに山本大将大和を旗艦とする部隊を展開させ戦力が分散し日本の空母部隊が丸裸になっていた点本当に似てる。
楽しかった🎉
25:48広告好き
今、マキャヴェッリの「ディスコルシ」を読んでます。第三巻39章に「指揮を執る将軍は地形を熟知していなければならない」とありました。ではどうやってこれを習得したら良いか?「狩猟を通して地形に関する知識を我が物とするにしくはない。」大切なことは、洋の東西を問わず大切なのですね。マキャヴェッリが信長を知ったらどう評価するだろう?「君主としての用心を怠った」かな?
むきゅむきゅする北斗の拳状態教育この辺りの言い回し好きすぎる
普通の人間なら思ってもやろうとはしないようなことを迅速に行った信長はやっぱりすごい
?「こんな戦力差で勝てるわけないやろ……せや!迂回して本陣に奇襲したんや!」
最近は正面突撃説が有力
義元も信長を誘い出そうとして自身を囮にしようとしてたらしいけど、どうなんだろ。で、信長は自分が清洲から出たことがバレたら勝ち目がないから、この行動を伏せに伏せた。義元は油断していたわけじゃなく、斥候から「信長は清洲にいる」って情報を得ていた(信長にうまく騙された)からであり、信長の動きは探ってたはず
楽しく鑑賞させて頂いています!桶狭間が有るから信長が好きって人は少なくなさそうですよね?遅かれ早かれ豊臣の世、って感じの小田原攻めなんかとは全く訳が違うといいますか。
勝負はともかく三方原は戦略的に桶狭間の焼直しなんですよね(結果惨敗)今川方の戦死者からも、武断派ではなく吏僚衆を今川は多く失っていて見事に操縦不能(スタン)に陥っていきます。戦術的に桶狭間は面白いですね
中島砦から続く一本道で長槍と打ち捨てのコラボレーションはスパルタ並の戦闘力を発揮しただろうな~
今川が無能と程遠いのと信長さんバケモンってことはよく分かった
こーしんが…は、はやいっ!ありがとうございます^_^
もし、今川義元が生きて撤退してたらどうなってたんだろう? 今川義元の戦死で東国の軍事バランスが崩壊した。今川義元の死はある意味歴史のターニングポイントだったかも。
義元消せてなかったら斎藤今川2国を相手に領土を取り合う日々で一生を終えてたかもしれないな美濃を取ったところで寿命が来て息子よ後は任せたってなりそう
この後、信長は自分の姪っ子を養女として武田勝頼に嫁がせて同盟を結び、戦国最強と呼ばれた今川・武田・北条の三国同盟を内部崩壊させている。
戦略戦術戦闘術全部持ってその上に世界観まで持ってる人はもっと強い説
哲人皇帝……!マルクス・アウレリウス・アントニヌス!
【世界観(いわゆるイデオロギー・国体に相当)】・・・(広義の)国益の決定【大戦略(国家元首もしくは内閣が担当)】・・・戦争(和平)の決定、外交【軍事戦略(将軍が担当)】・・・軍事力の配置・運用計画の策定【作戦術(高級将校が担当)】・・・個別の戦場での戦力の運用計画の策定【戦術(現場指揮官が担当)】・・・個別の戦場での戦闘指揮、およびその術【戦闘術(小隊以下個別兵士が担当)】・・・個々の兵士間での戦いのスキル ↑基本的に上位ほど抽象度が高く下位ほど具体度が高いまた下位レベルでの失敗を上位レベルでの成功で挽回することは可能(※必ずしも簡単ではないが)だが上位レベルでの失敗を下位レベルの成功で覆すのは極めて困難(できないとは言ってない)クラウゼヴィッツの戦争論では上記【軍事戦略】【作戦術】【戦術】にあたる部分に多く言及され(※クラウゼヴィッツの時代に【作戦術】という概念はまだないが)、その運用者は内閣(もしくは君主。つまりここで言う【大戦略】の決定者)の方針に従う事が前提とされた。ここからクラウゼヴィッツを「シヴィリアンコントロールの祖」とする見解もある孫子では【大戦略】【軍事戦略】【作戦術】【戦術】の各レベルでの要諦に触れながらも【大戦略】レベルでの戦争(紛争)の未然抑止に重点を置いている点が特徴とされる(※無論こちらも孫子の時代には【作戦術】はおろか【戦略】【戦術】という概念すらなかったであろうが)余談だが孫子と並ぶ兵法書とされる呉子では孫子のような【大戦略】的視点での指摘はほぼほぼ見られず(「敵が大国と同盟してたらやばいね」とか「王様は普段から内政ちゃんとしようね」程度)、逆に「兵士個人のスキル」、具体的には「力が強い(弱い)」「背が高い(低い)」「復讐心に燃えているか?」等々まで注目して彼らの運用方法に言及、つまりは【戦闘術】レベルの視点まで踏み込んでいる点が孫子とは対照的である(馬のよい飼育方法、戦車の車軸のメンテにまで言及している笑) ※上記用語分類も含めすべて個人の見解です😗✌
15:56 ピサロの手先みたいな感じかな?
確か木崎原の戦いや土器山の戦いでも勝利した勢力も壊滅状態というのは割とよくある話ですよね。後桶狭間の戦いの戦死者は丸根鷲津攻防戦や佐々隼人のような抜け駆け組も含まれているでしょうから、信長主力は半壊レベルの被害はなかったのではないかと。
うp乙です。いつも興味深く視聴しています歴史の教科書ではただの暗記項目で済ませてしまう話がすらすらと入ってくるので楽しいです「隣の市町村とか都道府県の人間が武装して襲って来るかも」現代ではいまいち想像しづらい戦国時代の空気感をこの簡潔な例え一つで説明できるセンスよ…
まさに納得です。昔読んだ本でも今川軍2万の過半が輸送部隊で戦闘兵力は6千ばかり、本陣を守っている兵力はさらに数分の一。対して信長軍2千は全てが戦闘兵力で、局所的に戦力が上回っていたとか。本陣の場所にしても領内の事なので特定は難しくなかったはずというし、信長が有能なら十分勝機があったようですね。
ようするにガンダムがオルテガ・マッシュ・ガイを突破するってことですね、わかります
1552年にあった扱いされた桶狭間さん信長の本質は前線で大活躍する猛将でもある…そして突撃したら本陣あるのは運が強い
士気差も凄そうですね。織田兵は家がある尾張平野が狙われている(実際は家が危なくなる前に講和があるかもしれないが、そこまで考えない又はこの信長の姿勢だと早期講和は無い)ので逃げても不利益が確定している(逃げた上で信長勝ちでもその後暮らしにくいですし)のに比べ、今川軍は2.5万人の内、普段から駿河城(及び北条との小競り合い)で兵役に従事していた3000人の(今川家で戦役が多かった1450年(10年前)以前の戦闘経験を持った人は更にその一部)多くは前線大高城の攻撃に回していたでしょうし、大高城周辺では善戦できていました。(1553年仮名目録追加で寄子の数は増えて総動員兵数は増えましたが、その後大きな戦役は桶狭間まで無かったのでその質には疑問が残ったまま)結果本陣手元に残していた兵の中に精鋭と呼べるまともに〇し合いができる人は少数で、他の人は逃げる裏切るで混乱を冗長する結果にもなっていそうです。(妄想長文すみません)
ファー!(大声)は草
稲生で信行が勝ってたら義元が来ただけで降伏やろなぁ…
家康君かわいそうが定番ネタになってきたそれにしても今川君ところの兵隊はなんで士気が低かったんやろなあ
(最大の危機と最強の敵に定評がある織田信長さん。)
義元「ガハハ勝ったな!能を見てくるわ!」そりゃイケイケだった頃のノッブには勝てませんわ。
刀根坂の戦いでも朝倉家を瞬殺したんだもんな、アレクサンダーみたいだ
桶狭間の戦いのあった具体的な場所はわかっておらず、名古屋市と豊明市、学者同士で論争が続いています。
日本の戦国時代って今からじゃ想像できないくらいの凄まじい乱世だったわけだけど、それ以上に凄まじい状況だった中国の五胡十六国時代とかどんだけ修羅の国だったんだろう。異民族とは実に恐ろしい。
桶狭間古戦場の近くでは今でも馬が元気に走り回ってるなんて(中京競馬場)、今川義元も心休まらないだろうなぁ…
なぜ義元自身が尾張まで攻め込んだのかも謎、それまでそんなことしなかったのに
これみると信長は最初からこのこと想定していたんでしょうね。今川は完璧に勝てる準備が整った理想形の状態で戦争を仕掛けた。逆に完璧だったからこそ信長は予想できたと思います完璧な合理であるがゆえに、そこを信長につかれたのかなと。これだけの兵数で城攻めすると最終的にはこの陣形になると予想していたかもしれません。やっぱり信長はすごいなと
でも、動画(47:22)だと、タイマン勝負を3回して今川義元を討ち取る作戦ですよね。普通なら第一陣を突破した時点で全滅に近い損害出しているはずで、恐らく第2陣辺りで織田軍壊滅となっているはずなんですが。やはり『甲陽軍鑑』の通り今川軍は「乱取」、つまり略奪に走っていて警戒態勢になかったということですかね。戦争そっちのけで部署を離れて将兵がそういうことをするのって『孫子』地形篇で言う「將弱不嚴教道不明吏卒無常、陳兵縱橫」状態、漢字1字で現わせば「亂」ですよね。
こうして解説を聞くとこの戦い、第二チャンネルの孫子解説の虚実第六に則った戦い方をしてるんだな
信長視点で立てば、当初から中央突破を考えており、奇襲でも何でもなかった、だからその後の戦でも奇襲戦法なんて一度も採用していない。さらに言えば、この辺りの地域を巡って今川義元と信長の父親信秀との戦いは過去行われており、経緯は途中まで同じにように進行して信長としてはある程度シミュレーションできたと思われる。
織田信長は尾張統一までの戦いが面白いけど、桶狭間の戦いがやはり織田信長伝説を語る上では一番の大逆転劇だし、小が大を下す戦国時代最大のジャイアントキリングだし、日本史の中でも1番人気があって強い君主になるのも分かるような気がします。桶狭間の戦いに関しては見事としか言えません。今川義元は格下と見下していた織田信長に手のひらで踊らされていたと思うし、神と戦国という時代が織田信長を新時代の申し子として選んだような気がしますね。天候まで味方につけてしまう織田信長、神に選ばれたとしか思えません。
???「尾張がダメになるかならないかなんだ、やってみる価値はありますぜ!」
織田側って一方的に偵察で優位をとってたとしか思えない感じですね。今川から見て織田の大将が近くにいるとわかったらそちらに軍を差し向けて城攻めより早く終わらせたくなるでしょうし。
チルノ、大ちゃん、ルーミアの3人がアップを始めました。
あ、そういえば前半に言ってた上洛で尾張守護の権限をとれてないってことは今川と組もうとしてた斯波氏がまだ守護のまま・・・??正義は斯波氏の手伝い名目の今川にあったからそもそも籠城なんか無理ってことならそのとおりやんよく勝ったなコレただ、ノッブやから10倍ぐらいならツッコンでいってもいけるっしょとか思ってそうなんだよな…
今川家は義元パパの氏親が病気に倒れ る事なく家臣団をまとめた上で義元に継承出来てたら信長の未来もかなり変わってただろうなぁ
氏輝と氏親間違えてない?
そもそも義元は五男で出家もしていて家督継承される立場ではなかったから花倉の乱で勝ち取ったも同様
父親の氏親の跡取だった氏輝とその万が一の場合の代理の彦五郎は同日に死んでるから義元がやった臭いんよね
義元が6年間動かなかった、というよりも動く気がなかったのかなと。動かなかった6年間。2年目の1555年に太原雪斎が亡くなった。前年も体調悪いと考えると→公家かぶれとまでは行かなくとも名門としてのプライドが高かった義元は保守に走り内を固める(内政)→6年間の大規模進軍無し信長が挑発するかのように砦を鳴海大高両城の周りに建てる→出兵内で余程のことがない限りは荒れる尾張を放置して動かないのは謎だなと思ってます。
1555年から3年掛かりで三河での反乱に処置してますんでね尾張進撃とかそういう状態じゃないのよね…三河を安定させたので次は尾張東部という状況が桶狭間
最近の説だと、義元の本陣は「おけはざま山」と言う丘の上だったらしい。
ぶっちゃけ身内に甘い以外の弱点らしい弱点無い希代のスーパーマンだと思う
それが身を滅ぼす一因になるあたり中世は難しい
@@呑龍ハルカ 浅井ー朝倉のつながりなんか、とくに何もないやろ。京極家から独立した後は、六角。長政の時に六角から離れた後は、織田と婚姻だしね。だからか、朝倉の救援も必死さがない。
京に入ってからは結構うっかりが多い。美濃尾張制圧までは完全無欠だと思うけど。
本能寺の変1582年の語呂合わせ「いちごぱんつ」だけは覚えてる
アテブレーデオブリガードで締めるのかと思った
ノーブさん…第六天魔王になりつつあるのぉ??
今川方は農兵なのに対して織田方は足軽主体だから気を付けないとね、って桶狭間の前に朝比奈さんがお手紙書いてたそうです
実際問題として織田も今川も動員した主体は軍役衆だろうけどね
適当な部隊を叩いて士気を上げようとしただけなのに、そこに今川義元がいたという説もあるな。柴田や丹羽や林は何処に行ってたんだという事もあるな。(佐久間は善照寺砦守備)
最初は「脇腹突いたらビックリして帰るやろ」ってつもりだったんだろうか?
信長は普段から家臣と自分を鍛えていたからこそのこの結果。
甲相駿三国同盟で唯一プラスで得している(武田はプラマイゼロ、北条に至っては北東より旨味のある西方への拡張が断たれたので実質マイナス)今川家が、この戦いが原因で武田・北条より先に脱落してしまったのが皮肉ではある。
昔のコーエーゲーはノッブの能力値が統率高め武勇やや低めだったけど、最近は武勇高めになったよな
「7年または8年で変わり目が訪れる」って養命酒みたいですね
今川軍の実数ですが、今川家が支配していた領地の当時の石高から考えて、多くても2万人程度だったと思われます。
それが分散して配置されていたのはこの動画で説明されている通りですが、2万人と言っても、当時の軍は全員が戦闘員という訳ではありません。全軍の3割〜4割程度は兵糧や武具を運んだり陣地作成をしたりする人夫等の非戦闘員です。
今川軍本隊の人数は、一般的に5千人程度と言われていますが、5千の内、戦闘員は恐らく3千人程度で、対して織田軍は2千人と言っても、荷駄隊等は連れておらず、全員が戦闘員で編成されていて、実質的には2000対3000程度の戦力差だったと思われます。
信長直卒部隊の精強さや今川軍が分散してしまっていた事を考えれば、戦況を覆す事は十分に可能でしたね。
織田軍の戦死者ですが、それぞれ兵500程度が守っていたと考えられる砦2つが落ちていて、今川軍本隊との一連の戦闘でもそれなりに損害が出ているので、1000人近くの戦死者は出ていてもおかしくないですね。
今回のシリーズでは一貫して信長さんは「周辺の情報収集および地形把握等の日頃の積み重ねをベースとした決断力と実行力の化身」という印象でした。見る→知る→戦うのサイクルが異様に速く、それでいて直属部隊が恐ろしく強いとあれば信長の本領は1000~2000規模の軍を動かしてこそだったのかもしれません。
逆に大大名となってからはそんな兵数では戦えないので基本的に戦争は部下に任せ、自分はなるべく大軍を揃えられるような状況作りに専念したのではないのかなと思います。
起業家としても経営者としても優秀ってことか…やっぱりすごいな
得手不得手を周りよりご本人が一番弁えてたからと言うのが大きいんでしょうね。
ただ能力や事象(評価評判含む)の把握は得意でも人の内心を掴むのは苦手そうなのがまた人間臭いというね。
大高城近辺を散策したことが有りますが鷲津砦、丸根砦はホントに大高城の目と鼻の先に有ります。両砦は急峻な小さな丘の上に有り攻め落とすには相当苦労したと思います。当時は海岸線が現在より内陸に入り込んでおり、大高城と鳴海城は共に海に面しており、両城の間は満潮時には海面下となるような干潟となっていたはずです。大高と鳴海を陸上で行き来するには東に大きく迂回しなければなりません。鳴海城周辺の中島砦、善照寺砦等も鳴海城の至近にあり、当時はむしろ今川方の大高、鳴海の二拠点は織田方に包囲されて孤立して陥落の危機に有ったのでしょう。今川義元としては二城周辺の織田方の拠点を制圧して包囲を打破したかったのだと思います。
桶狭間の前哨戦で戦死した千秋四郎は熱田神宮の宮司ですが、大高には熱田神宮の末社の氷上姐子神社が有り、大高は熱田と繋がりが強い地域です。信長配下となっていた熱田衆がこの戦いに参戦した理由はこの辺にありそうですね。
あと伊勢湾は織田方の佐治家等の水軍によって海上封鎖されており、陸上からしか兵糧を運び込めなかったとも聞いたことがあります。
実にわかりやすかったです!
紹介されてる、戦術の本(やっと買えた!!)も大変面白かったです
🥰
ありがとうございます!
ノッブの凄い所は、この戦勝を成功体験として美化せずに第二の桶狭間に陥るような行動をとらなかった事だと思う。
講談などで語られるようになった時に「神君家康公は最初今川家の人質だった、その当主義元は上洛を狙えるほどの大大名、
その大物を尾張のうつけと呼ばれた信長が倒した」
そのあと独立をもくろむ家康公に「同盟を結ぼう」と働きかけてきた
こういう流れにすることで「権現様はこの2人の英傑に若いころから見込まれていたのだ!!」
と言う風にした方が都合が良かったんだろうと思います
史実はどういう関係だったのかはわかりませんが、創作でよく見る「のぶやす」の交流は映えますよね。二人とも物凄い長所を持ちながらも、バーターとなる致命的な短所があり、それを努力で克服した故人間的な魅力が豊かで面白いってイメージがあります。
実は信長は今川吉元を尊敬しており、奪い取った彼の刀を愛用し、その統治手腕を積極的に真似して、さらにその息子の氏真とも大名廃嫡後、交流が深かったというのも面白いです。氏真に関してはよく無能扱いされますが、実際にはこの辺りは有能しかおらず、さらにはそれぞれがその能力を認め合いながら戦っていた。戦国時代という時代がどのようなものだったのか、考察が捗ります。
流石天下を盗んだ徳川、歴史まで盗むかw
小回りの利く機動戦が真骨頂やったんちゃうかなって思いますね~主さんの考えに同感です
冷静に考えると、家康のやった事って可成り酷いんですよね。本来岡崎松平を潰して今川の譜代を入れても良いしそこまでしなくても多くの松平同族の誰かを岡崎城主に任命してもよかったわけですしね
それなのに家康の立場を保証し、姪を嫁がせて一門衆に組み込むのですから一応今川に恩義があると言えます。
「神君様が今川に酷く虐められた」って伝説、そうでもしないと家康の行動の火道さが目立つからだと思います
今川家は花倉の乱の影響もあって一門が極端に少ない。
義元-氏真以外のラインは全滅状態で(それが原因で初陣すらできなかった位?)それだから松平家を一門衆にしてまで取り込む方向になったのかな。
信長さん見て思ったが、日頃の地道な準備の積み重ねってマジで大事だよな。
日頃から全力で備えや準備をしているから、多くの場合は有利な条件で戦えるし、桶狭間みたいに兵数不利でも勝ち筋見つけて勝利につなげる事ができる。
ここの主の動画は1時間弱あっても全く飽きないし考察が深くてわかりやすいからつい見ちゃうんだよなあ…
それはともかく信長さんあまりにも有能すぎないか…?現場指揮官と戦略家、どちらかに優れている人は史上たくさんいるけどどちらも優れてる人って中々居ないよなあ
大高城から鳴海城は平坦な地形ですが、
大高城から見ると丸根砦や大高緑地などは標高が高く、
大高と桶狭間の間に山がある感じになって物理的に見通せず気づかない気がしますね。
逆に鳴海城からだと桶狭間は比較的なだらかな上りで山になっていないので当時も見通しやすいと思います。
自領でなく戦闘中で豪雨ならなおさら気づかないでしょうね。
麒麟が来るのときの桶狭間の戦いの演出が好きだったなぁ
一連の流れが信長はただ者じゃないってことを示していて良かった
お疲れ様です
次回も信長希望です!
国土地理院の1945~50年の宅地化される前の航空写真と起伏図を見ると、確かに桶狭間に入った時点で大軍の優位性は無くなっていますね。
手前の境川を渡ったあたりが丘陵地帯の入口で、その先の谷間の少し開けた場所が桶狭間です。
義元が境川を渡ったと聞いて信長はウキウキだったのかもしれません。
うぷおつです。
まさに兵は詭道なりの戦いですね。
義元上洛のソースは【甫庵信長記】からきてるらしいです。
義元が討たれた後は義元の母親寿桂尼が今川家を執り仕切っていたようです。
ちなみに寿桂尼は旦那である前当主氏親存命の時も仕切っていたことがあったみたいです。
「こいつがいい加減なこと書くから歴史学者が苦労する」人物No1の甫庵先生かぁ
この迂回奇襲を参考にしよう!と大日本帝国が参考にしようとした結果がガダルカナル…
歴史学者は苦労したけど
信長を人気にしたのも甫庵先生だと思う。
だって民衆が喜ぶのは歴史の教科書ではなく、だろう小説だもん
まあ三河物語の作者の大久保忠教はブチ切れたらしいけど
-この辺は橙が悪態ついて欲しいまであるw-
@@kyokatayama1845ナンバーワンは司馬遼太郎先生、その次は頼山陽先生と思う
善照寺砦や中島砦から桶狭間だと中間にちょっとした丘があったり桶狭間の古戦場よりも低地にあったりで恐らく本陣が見えていたという事は無いと思います。斥候は出していたでしょうし、沓掛城から桶狭間の駅の辺りを行軍するのは見えていたと思うのですが。
桶の狭間だから桶のような沼の狭間
つまりなだらかな丘だしな
視野なら今川のほうが恐らく広く取れてる
沓掛から大高に向かう道は中京競馬場前駅の隣の道じゃないと思う。もう一つ丘陵を南に越えたところを東西に通っている。西に進むと田楽狭間の南端に通づる。
摺鉢状の窪地じゃないよ。視界は最悪
桶狭間の戦い、思っていたのと結構ちがった・・・。
見応えがありました。
織田信長の戦術的センスは卓越してますね。
尾張統一編は戦術巧者としての織田信長を体感できました。
勉強になります
途中のボケが面白すぎます
いや、マジで面白すぎるわ。
50分あっという間でまだ聞きたいわ。
ホンマに面白かったです。
図解で説明して下さるとすげー分かりやすいやね~拙速兄貴いつもうpおつ!
登場人物の「視線」が戦果を決定したと考えると、本能寺の変もまさにこれなんでしょうね。
家康さんもこの時に合戦の兵糧入れ成功させて良かったね
これで織田と同盟できたと思う
大河ドラマ「功名が辻」の桶狭間の回で、かの名斬られ役の福本清三氏が今川家家臣で出演されているのを見た時代劇好きの兄が大喜びしていたのを思い出しました。
19:04 ここ、違う動画で主が言ってたけど、我々が桶狭間の戦いが起きたって知っているからここで強襲って発想ができるけど、同じ状況に置かれたとしたらここで桶狭間に行くっていう発想は出来ないよなぁ
今回の冒頭の説明の部分って結構重要で盲点だったりしますよね
ゲームとかだと大名と他全員配下武将みたいな感じになってるから勘違いしますけど、配下武将って言ってもそれぞれが独自に地元に地盤と兵力を持ってたりする。会社員というよりは個人事業主、もしくは協力会社みたいなイメージですよね。ゲームだと同じ信長の配下扱いの武将でも実際は織田家じゃなくて羽柴家や柴田家に仕えてたみたいな武将もいますし
これは三国志とかでも同じで例えば関羽は劉備の配下じゃなくて同盟者、協力会社の社長同士みたいな関係だったという説もありますし、呉とかもそれぞれの武将がかなりの個人勢力を持っていて連邦国家みたいな形だったみたいですね
ほんと毎回素晴らしい動画だわ…毎週金曜に出してくれてほんとありがとう
この50人の戦死というのは、確か捨て石作戦と聞いたのですが、実際はどうなのですか?
その勝利で油断と安心を生んだそうですが…。
今川氏真するのか?今川義元退場後駿河方面(今川領)は放置かな?
美濃進行どこまで行けるのかな~
今川を攻めると3国同盟発動して武田北条とも敵対モードになるから面倒な事になる
北から斉藤が窺っているのに武田と合戦している場合ではない
@@naoki4138仮に今川領を全て織田方が取れたとしても北と東からそれぞれ武田、北条に狙われますしね
そこに斎藤氏とも対立してますし…
やっぱり面白い時間は短く感じる
53分だけど一気に最後まで見てしまう内容の濃さだった。
長時間の動画投稿お疲れ様でした!
後から記録として見ると10倍の兵力差みたいに数字で考えてしまうけど当時の人はもっとミクロな視点で戦うのでその辺を考慮するの大切ですよね
信長、信長、信長!ジェットストリームアタックを敢行する!(もちろん信長の独り言)
利根坂しかり、状況に応じて目的を即座に切り替えられる能力が信長のヤバさの一つなんだなぁと
今日観光がてら桶狭間行ってきました。
地図だけだと分かりづらいのですがこの辺り本当に起伏が激しくてびっくりしました。
義元公最後の地は公園になっていますが、そのあたりだけが確かに微かな盆地と言うか山の下り坂でした。
本陣を動かした義元を見逃さず乾坤一擲、討ち果たした信長公の見事さを改めて感じましたね。
桶狭間は超有名だがその前の1559年の上洛の話は意外に知られてない。足利義輝は1559年に信長以外にも斎藤義龍、さらに二度目の上洛の上杉謙信と有力大名を集めてる。義輝24歳くらい、三好に土下座して許してもらった直後になるので後の弟の義昭のように手のひら返しで調子こいてたのかもしれない。足利義輝の行動からして信長から働きかけたというより義輝から上洛要請を受けてる可能性が高い。なお信長パパも一度上洛して10代半の義輝に拝謁してるらしい。
その織田信長の少数の突撃を見た家康が大坂夏の陣で真田の突撃を受けてしまうのはキツすぎる。
43:40 フラン「っていうかこの辺り今では全部平坦な宅地なんだよね」
さすがに「平坦」ではないかと。有松駅から有松インターまでの広めの一本道(県道243号)をたどるだけでも「狭間」感かなりありますし、
観光案内所添いの道(国1有松交差点~口無池)もなかなかの谷底感があるかと
熱田を巡る経済圏の争い…かな。
織田家にとっては死活問題だし、今川としては自国の守りの兵残しつつ2.3万の軍を養える場所が欲しかった…。
他のyoutuberはもちろん、NHKも38:25までで終わってしまいます。うぷ主あんたはエライ
信長の野望的に信長の武勇値は戦国大名の中では上から3番目くらい高くてもいいと思う
でも彼の戦いの9割は倍ぐらいの兵力でもみつぶしてますよ
寡兵での戦いは対柴田と桶狭間と天王寺ぐらい
@@syogekinofuryokawasaki 持ってはいてもそれを出さなくてよい局面ならば出さないで済ませるのが『武』
その出さないでよい局面を作るのが『戦略』
信長は両方(武と戦略)に長じていたという事でしょうね
ゲーム的に面白みが無くなるからあれだけど、史実を見ると一位だとおもう。
尾張1国で石高は57万石
駿河、遠江、三河の3国合わせても70万石程度
実は国力の差はそれほどでもない
但し海西軍は一揆勢に抑えられているし、知多郡は将軍直轄地や他の豪族の勢力が根を張ってほぼ統治できていない。
上四郡はつい最近制圧したばっか、というわけでまともに動員できるのは海東郡と春日井郡(但し三河付近は今川領)だと思われる。
石高考えると織田軍2千はちょっと辻褄が合わんね
美濃、伊勢方面に敵がいるから結構厳しい
当時は貫高制です 大寧寺の変で明から入ってきていた貨幣が輸入できなくなり、全国で税金を綺麗な銭で払えなくなったから秀吉期以降石高制にシフトしていきました
父・信秀は全盛時でも海東軍と愛知郡西部の二郡に満たない勢力であり、単独兵力は稲生の戦における双方の兵力を足した2400人-清州勢くらいが妥当(三河出兵は3000,美濃は5000と捻出してるけど、当然攻める時守る時で動員する兵力も異なる)農繁期はNGだし、前回の戦で男手が足りなくなったと村が拒否するケースもあるし、大名がより多い動員をかける為には、出兵を要請する国人との関係を絶対的な主従関係にする必要がある…→分国法や婚姻で関係の整備
信長公記によると今川義元の本陣は桶狭間山にあったとの事なので、桶狭間は地名であって地形としての狭間では当時からなく、義元本陣はむしろ小高い所にあったのではないでしょうか?
さすがノッブニキや!
尾張統一お見事!
松平勢を囮と割り切れば
A.今川本陣強襲
B.荷駄隊強襲
C.緒川城まで打通してから後方撹乱
という選択肢でしょうか
今川義元「覚えておれ…わしの仇は必ず息子と元康が取ってくれる…はず…」
なお氏真と元康が敵対し
元康は信長と同盟結ぶ模様
氏真は頑張ったよ……
元康「嫌ですよ。」
なお仇はよくわからない理由により信長の家臣が討つ模様
謙信「よろしくニキーwww(小田原に殴り込み)」氏真「うわっ舅殿が危ない…!同盟なくして護りきれない…(北条に援軍)」元康「は?俺ら見捨てる気か?」
桶狭間の戦いをみると太平洋戦争のミッドウェー海戦を思い出す。
今川軍(日本軍)砦の攻撃が目標(飛行場)信長本隊(空母)なんて来るはずがない。
織田軍(アメリカ軍)今川義元本陣のみ(日本空母群の殲滅)
兵力の配分に関してもそう
日本軍はアリューシャン方面に部隊の一部を展開、南雲機動艦隊の後ろに山本大将大和を旗艦とする部隊を展開させ戦力が分散し日本の空母部隊が丸裸になっていた点
本当に似てる。
楽しかった🎉
25:48
広告好き
今、マキャヴェッリの「ディスコルシ」を読んでます。
第三巻39章に「指揮を執る将軍は地形を熟知していなければならない」とありました。ではどうやってこれを習得したら良いか?「狩猟を通して地形に関する知識を我が物とするにしくはない。」
大切なことは、洋の東西を問わず大切なのですね。マキャヴェッリが信長を知ったらどう評価するだろう?
「君主としての用心を怠った」かな?
むきゅむきゅする
北斗の拳状態
教育
この辺りの言い回し好きすぎる
普通の人間なら思ってもやろうとはしないようなことを迅速に行った信長はやっぱりすごい
?「こんな戦力差で勝てるわけないやろ……せや!迂回して本陣に奇襲したんや!」
最近は正面突撃説が有力
義元も信長を誘い出そうとして自身を囮にしようとしてたらしいけど、どうなんだろ。
で、信長は自分が清洲から出たことがバレたら勝ち目がないから、この行動を伏せに伏せた。
義元は油断していたわけじゃなく、斥候から「信長は清洲にいる」って情報を得ていた(信長にうまく騙された)からであり、信長の動きは探ってたはず
楽しく鑑賞させて頂いています!
桶狭間が有るから信長が好きって人は少なくなさそうですよね?
遅かれ早かれ豊臣の世、って感じの小田原攻めなんかとは全く訳が違うといいますか。
勝負はともかく三方原は戦略的に桶狭間の焼直しなんですよね(結果惨敗)今川方の戦死者からも、武断派ではなく吏僚衆を今川は多く失っていて見事に操縦不能(スタン)に陥っていきます。戦術的に桶狭間は面白いですね
中島砦から続く一本道で長槍と打ち捨てのコラボレーションはスパルタ並の戦闘力を発揮しただろうな~
今川が無能と程遠いのと信長さんバケモンってことはよく分かった
こーしんが…は、はやいっ!ありがとうございます^_^
もし、今川義元が生きて撤退してたらどうなってたんだろう?
今川義元の戦死で東国の軍事バランスが崩壊した。
今川義元の死はある意味歴史のターニングポイントだったかも。
義元消せてなかったら斎藤今川2国を相手に領土を取り合う日々で
一生を終えてたかもしれないな
美濃を取ったところで寿命が来て息子よ後は任せたってなりそう
この後、信長は自分の姪っ子を養女として武田勝頼に嫁がせて同盟を結び、戦国最強と呼ばれた今川・武田・北条の三国同盟を内部崩壊させている。
戦略戦術戦闘術全部持ってその上に世界観まで持ってる人はもっと強い説
哲人皇帝……!
マルクス・アウレリウス・アントニヌス!
【世界観(いわゆるイデオロギー・国体に相当)】・・・(広義の)国益の決定
【大戦略(国家元首もしくは内閣が担当)】・・・戦争(和平)の決定、外交
【軍事戦略(将軍が担当)】・・・軍事力の配置・運用計画の策定
【作戦術(高級将校が担当)】・・・個別の戦場での戦力の運用計画の策定
【戦術(現場指揮官が担当)】・・・個別の戦場での戦闘指揮、およびその術
【戦闘術(小隊以下個別兵士が担当)】・・・個々の兵士間での戦いのスキル
↑基本的に上位ほど抽象度が高く下位ほど具体度が高い
また下位レベルでの失敗を上位レベルでの成功で挽回することは可能(※必ずしも簡単ではないが)だが上位レベルでの失敗を下位レベルの成功で覆すのは極めて困難(できないとは言ってない)
クラウゼヴィッツの戦争論では上記【軍事戦略】【作戦術】【戦術】にあたる部分に多く言及され(※クラウゼヴィッツの時代に【作戦術】という概念はまだないが)、その運用者は内閣(もしくは君主。つまりここで言う【大戦略】の決定者)の方針に従う事が前提とされた。ここからクラウゼヴィッツを「シヴィリアンコントロールの祖」とする見解もある
孫子では【大戦略】【軍事戦略】【作戦術】【戦術】の各レベルでの要諦に触れながらも【大戦略】レベルでの戦争(紛争)の未然抑止に重点を置いている点が特徴とされる(※無論こちらも孫子の時代には【作戦術】はおろか【戦略】【戦術】という概念すらなかったであろうが)
余談だが孫子と並ぶ兵法書とされる呉子では孫子のような【大戦略】的視点での指摘はほぼほぼ見られず(「敵が大国と同盟してたらやばいね」とか「王様は普段から内政ちゃんとしようね」程度)、逆に「兵士個人のスキル」、具体的には「力が強い(弱い)」「背が高い(低い)」「復讐心に燃えているか?」等々まで注目して彼らの運用方法に言及、つまりは【戦闘術】レベルの視点まで踏み込んでいる点が孫子とは対照的である(馬のよい飼育方法、戦車の車軸のメンテにまで言及している笑)
※上記用語分類も含めすべて個人の見解です😗✌
15:56 ピサロの手先みたいな感じかな?
確か木崎原の戦いや土器山の戦いでも勝利した勢力も壊滅状態というのは割とよくある話ですよね。
後桶狭間の戦いの戦死者は丸根鷲津攻防戦や佐々隼人のような抜け駆け組も含まれているでしょうから、信長主力は半壊レベルの被害はなかったのではないかと。
うp乙です。いつも興味深く視聴しています
歴史の教科書ではただの暗記項目で済ませてしまう話がすらすらと入ってくるので楽しいです
「隣の市町村とか都道府県の人間が武装して襲って来るかも」
現代ではいまいち想像しづらい戦国時代の空気感をこの簡潔な例え一つで説明できるセンスよ…
まさに納得です。昔読んだ本でも今川軍2万の過半が輸送部隊で戦闘兵力は6千ばかり、本陣を守っている兵力はさらに数分の一。対して信長軍2千は全てが戦闘兵力で、局所的に戦力が上回っていたとか。本陣の場所にしても領内の事なので特定は難しくなかったはずというし、信長が有能なら十分勝機があったようですね。
ようするにガンダムがオルテガ・マッシュ・ガイを突破するってことですね、わかります
1552年にあった扱いされた桶狭間さん
信長の本質は前線で大活躍する猛将でもある…そして突撃したら本陣あるのは運が強い
士気差も凄そうですね。
織田兵は家がある尾張平野が狙われている(実際は家が危なくなる前に講和があるかもしれないが、
そこまで考えない又はこの信長の姿勢だと早期講和は無い)ので逃げても不利益が確定している
(逃げた上で信長勝ちでもその後暮らしにくいですし)のに比べ、今川軍は2.5万人の内、普段から
駿河城(及び北条との小競り合い)で兵役に従事していた3000人の(今川家で戦役が多かった1450年
(10年前)以前の戦闘経験を持った人は更にその一部)多くは前線大高城の攻撃に回していたでしょうし、
大高城周辺では善戦できていました。(1553年仮名目録追加で寄子の数は増えて総動員兵数は
増えましたが、その後大きな戦役は桶狭間まで無かったのでその質には疑問が残ったまま)
結果本陣手元に残していた兵の中に精鋭と呼べるまともに〇し合いができる人は少数で、
他の人は逃げる裏切るで混乱を冗長する結果にもなっていそうです。
(妄想長文すみません)
ファー!(大声)は草
稲生で信行が勝ってたら義元が来ただけで降伏やろなぁ…
家康君かわいそうが定番ネタになってきた
それにしても今川君ところの兵隊はなんで士気が低かったんやろなあ
(最大の危機と最強の敵に定評がある織田信長さん。)
義元「ガハハ勝ったな!能を見てくるわ!」そりゃイケイケだった頃のノッブには勝てませんわ。
刀根坂の戦いでも朝倉家を瞬殺したんだもんな、アレクサンダーみたいだ
桶狭間の戦いのあった具体的な場所はわかっておらず、名古屋市と豊明市、学者同士で論争が続いています。
日本の戦国時代って今からじゃ想像できないくらいの凄まじい乱世だったわけだけど、
それ以上に凄まじい状況だった中国の五胡十六国時代とかどんだけ修羅の国だったんだろう。
異民族とは実に恐ろしい。
桶狭間古戦場の近くでは今でも馬が元気に走り回ってるなんて(中京競馬場)、今川義元も心休まらないだろうなぁ…
なぜ義元自身が尾張まで攻め込んだのかも謎、それまでそんなことしなかったのに
これみると信長は最初からこのこと想定していたんでしょうね。今川は完璧に勝てる準備が整った理想形の状態で戦争を仕掛けた。逆に完璧だったからこそ信長は予想できたと思います
完璧な合理であるがゆえに、そこを信長につかれたのかなと。これだけの兵数で城攻めすると最終的にはこの陣形になると予想していたかもしれません。やっぱり信長はすごいなと
でも、動画(47:22)だと、タイマン勝負を3回して今川義元を討ち取る作戦ですよね。
普通なら第一陣を突破した時点で全滅に近い損害出しているはずで、恐らく第2陣辺りで織田軍壊滅となっているはずなんですが。
やはり『甲陽軍鑑』の通り今川軍は「乱取」、つまり略奪に走っていて警戒態勢になかったということですかね。
戦争そっちのけで部署を離れて将兵がそういうことをするのって『孫子』地形篇で言う「將弱不嚴教道不明吏卒無常、陳兵縱橫」状態、漢字1字で現わせば「亂」ですよね。
こうして解説を聞くとこの戦い、第二チャンネルの孫子解説の虚実第六に則った戦い方をしてるんだな
信長視点で立てば、当初から中央突破を考えており、奇襲でも何でもなかった、だからその後の戦でも奇襲戦法なんて一度も採用していない。
さらに言えば、この辺りの地域を巡って今川義元と信長の父親信秀との戦いは過去行われており、経緯は途中まで同じにように進行して信長としてはある程度シミュレーションできたと思われる。
織田信長は尾張統一までの戦いが面白いけど、桶狭間の戦いがやはり織田信長伝説を語る上では一番の大逆転劇だし、小が大を下す戦国時代最大のジャイアントキリングだし、日本史の中でも1番人気があって強い君主になるのも分かるような気がします。桶狭間の戦いに関しては見事としか言えません。今川義元は格下と見下していた織田信長に手のひらで踊らされていたと思うし、神と戦国という時代が織田信長を新時代の申し子として選んだような気がしますね。天候まで味方につけてしまう織田信長、神に選ばれたとしか思えません。
???「尾張がダメになるかならないかなんだ、
やってみる価値はありますぜ!」
織田側って一方的に偵察で優位をとってたとしか思えない感じですね。
今川から見て織田の大将が近くにいるとわかったらそちらに軍を差し向けて城攻めより早く終わらせたくなるでしょうし。
チルノ、大ちゃん、ルーミアの3人がアップを始めました。
あ、そういえば前半に言ってた上洛で尾張守護の権限をとれてないってことは
今川と組もうとしてた斯波氏がまだ守護のまま・・・??
正義は斯波氏の手伝い名目の今川にあったから
そもそも籠城なんか無理ってことならそのとおりやん
よく勝ったなコレ
ただ、ノッブやから10倍ぐらいならツッコンでいってもいけるっしょ
とか思ってそうなんだよな…
今川家は義元パパの氏親が病気に倒れ る事なく家臣団をまとめた上で義元に継承出来てたら信長の未来もかなり変わってただろうなぁ
氏輝と氏親間違えてない?
そもそも義元は五男で出家もしていて
家督継承される立場ではなかったから
花倉の乱で勝ち取ったも同様
父親の氏親の跡取だった氏輝とその万が一の場合の代理の彦五郎は同日に死んでるから
義元がやった臭いんよね
義元が6年間動かなかった、というよりも動く気がなかったのかなと。
動かなかった6年間。2年目の1555年に太原雪斎が亡くなった。
前年も体調悪いと考えると→公家かぶれとまでは行かなくとも名門としてのプライドが高かった義元は保守に走り内を固める(内政)→6年間の大規模進軍無し
信長が挑発するかのように砦を鳴海大高両城の周りに建てる→出兵
内で余程のことがない限りは荒れる尾張を放置して動かないのは謎だなと思ってます。
1555年から3年掛かりで三河での反乱に処置してますんでね
尾張進撃とかそういう状態じゃないのよね…三河を安定させたので次は尾張東部という状況が桶狭間
最近の説だと、義元の本陣は「おけはざま山」と言う丘の上だったらしい。
ぶっちゃけ身内に甘い以外の弱点らしい弱点無い希代のスーパーマンだと思う
それが身を滅ぼす一因になるあたり中世は難しい
@@呑龍ハルカ 浅井ー朝倉のつながりなんか、とくに何もないやろ。京極家から独立した後は、六角。長政の時に六角から離れた後は、織田と婚姻だしね。だからか、朝倉の救援も必死さがない。
京に入ってからは結構うっかりが多い。美濃尾張制圧までは完全無欠だと思うけど。
本能寺の変1582年の語呂合わせ「いちごぱんつ」だけは覚えてる
アテブレーデオブリガードで締めるのかと思った
ノーブさん…第六天魔王になりつつあるのぉ??
今川方は農兵なのに対して織田方は足軽主体だから気を付けないとね、って桶狭間の前に朝比奈さんがお手紙書いてたそうです
実際問題として織田も今川も動員した主体は軍役衆だろうけどね
適当な部隊を叩いて士気を上げようとしただけなのに、そこに今川義元がいたという説もあるな。
柴田や丹羽や林は何処に行ってたんだという事もあるな。(佐久間は善照寺砦守備)
最初は「脇腹突いたらビックリして帰るやろ」ってつもりだったんだろうか?
信長は普段から家臣と自分を鍛えていたからこそのこの結果。
甲相駿三国同盟で唯一プラスで得している(武田はプラマイゼロ、北条に至っては北東より旨味のある西方への拡張が断たれたので実質マイナス)今川家が、
この戦いが原因で武田・北条より先に脱落してしまったのが皮肉ではある。
昔のコーエーゲーはノッブの能力値が統率高め武勇やや低めだったけど、最近は武勇高めになったよな