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ありがとうございます!❤❤
まるでソフトバンク移籍するY川みたいだ。43:00
秀吉恐ろしい子。でも、ここで戦略の大事さを学んだのが、家康を天下人にしたんだね。
天正地震のせいで豊臣軍はこれ以上の徳川攻めができなくなったという説を読んだことがあるけれどもどうなんだろう?
長久手の戦い後の対陣の長さは意外な印象を受けるところ。長久手の敗北で不利を悟った秀吉が、さっさと講和したというように語られることが多いから。
馬謖「地図にペットボトル(水)があるのは、山登りしてやらかした私への当てつけでしょうか?」
チョイチョイ現場に出し貰えたら良かったのにね😅
この一戦の徳川方の健闘あってこそ豊臣政権下での重要ポジに繋がった訳でほんと日本史において重要な戦いですね
信雄「絶望した!半年経っても全然大名達が集まって来てくれない自分の求心力の無さに絶望した!」
秀頼「ワイも手紙出したら大名が誰も味方にならんかったやで」
個人的にはこの時の経験が関ヶ原前後の家康につながったのかなぁと
やはり高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処できる能力が何より重要やね
ビュコック「要するに、行き当たりばったりということではないのかな?」
「兵に常勢なく、水に常形なし。 能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神と謂う(孫子第六『虚実篇』)」さすが士官学校首席様、自由惑星同盟の天才軍師やで
???「攻勢ではありません大攻勢です」
アンドリュー・フォーク。↓「僕が考えた最強の作戦」で、アムリッツァ会戦において2000万人将兵の犠牲を出した史上最悪の無能。
実際、完璧にソレができたらね・・・笑将棋とかチェスのTOP棋士は大体ソレな気がする
小牧長久手の家康って信長時代の軍団長クラス、将官クラスをたくさん破っているし、討ち取っているから織田信長勢力だと信長の次くらいに強かったんだなぁって思う。豊臣政権での家康のポジションの重要性と高さがこの戦争の答えみたいなもんだし。
家康が一向宗と組めればバランス、包囲網的には良かったのかなぁ、と地図みながら思った。三河一向一揆鎮圧してるから、そんなん無理な可能性の方が高いと思うけど。
秀吉家臣団と家康家臣団の総力戦って感じで、派手な関が原みたいな一大決戦とは違った総合力が試された戦いで一番好きです
実際頼山陽は「家康が天下を取れたのは関ヶ原じゃなく小牧長久手のおかげや」と書いてる
長久手の奇襲、この時の三河武士団の索敵能力と機動力は謎レベルの高さです。この家康率いる三河武士団を三方ヶ原で鎧袖一触にして蹴散らした武田信玄の恐ろしさが際立ちます。
1:38 x三木城とか備中高松城みたいに◯ 三木城とか鳥取城みたいに
これ以外にも秀吉は小牧長久手で負けた後、ガチで陣容整えて力で家康ぶっ潰そうと準備まで整えたのにガチで大きな天正地震が発生(山内一豊の娘が亡くなる位でかい地震が発生)して近畿地方が壊滅したて秀吉は家康潰せなくなったって天下人になった家康の強運もデカイと思う。
敗北した側とされる家康も秀吉との決戦で軍事的に屈服しなかったことが後の彼の人生に利することになったから戦略、軍事も重要だなぁと
なんで家康さんはいつもいつも貧乏くじを引いてしまうのか。要所の謎の運の悪さが無ければ秀吉が台頭することもなかったかもしれないのに
徳川家康は戦術的にではあるが秀吉に勝ったという強力なネームバリューを得る事ができた。
家康との直接対決では勝てなくても「家康のいないところで全部勝てばいい」を実行した秀吉ローマがハンニバル戦以外で全部勝って最終的に追い詰めて行ったのと同じだね
後の時代の人なら結果を知ってるかつ俯瞰視点で見られるから色々情報をまとめる事が出来るけど当時の人はこれらを文書や手書きの絵で、タイムラグの発生する状況でしか伝えられない情報で把握し、そんな中で即断即決しなきゃいけなかったってんだから本当に恐れ入る…
長久手の戦闘での家康は、不利な状況下での戦闘に強い本多忠勝に小牧城をまかせることで防衛兵力を最小限度に抑えたり、知略に優れ戦闘の駆け引きが出来る榊原康政を先鋒にしたり、猪武者ぽい井伊直政に旧武田の精鋭を預けて攻撃力の中心にしたり部下の使い方も秀吉の上行ってたと思う。
10:40 標高86mの小牧山から見える地平線は35km程度とのことで春日井市の平野は十分範囲内ですが、落合公園のあたりの標高が小牧山と同程度なので、遮蔽物になって春日井市の平野のほとんどは見えないですね。徳川が中入り隊に気がついたのは別働隊の偵察が居たのだと思います。反面、秀吉は明治村の辺りの山(本宮山標高: 293m)に偵察を置けば徳川の部隊の動きが見えたかもしれませんが情報の差が出ましたね。
今回も勉強になりました。やる夫真田家という素晴らしいやる夫スレを思い出しました。
恐らくこの戦役の前まではお互い相手のことを自分より格下だと思っていたんじゃないかな。それがひょっとして自分に比肩できる、もしくは格上なんじゃないかとお互いに感じたことで下手に手出しできなくなり、その後の歴史に繋がっていったのではないか。
おもしれー、最高、ありがとうございます
森長可は戦国DQN四天王暴力担当と言われるだけあって常に前線で敵をぶった斬る上に制御不能気味だったから戦死しても秀吉は喜んだって言われてるからなぁ。
現代の米軍の教範でも重要な戦術機動とされる「迂回」ですな。
家康としてはここで自分の実力を見せたことで後々豊臣政権での発言力を示すことが出来たともいえる。やはり、対話するにしても「実力を示さないと」相手にいいようにされるだけという証明だと思う
ただ頭下げられるだけじゃ舐められるしね実際この戦があったからこそ信雄は豊臣政権で内大臣まで登り詰めたし
家康くらいの実力と状況分析能力があってこそだよね。北条は徳川の時みたいに母親人質に出せやなんて脳天気なこと言って結局滅ぼされてるし。実際に戦った家康だから秀吉の力をわかった上で自分を高く売りつけるぎりぎりの駆け引きができた。家康が並の武将だったら滅ぼされてるだろう。
銀河英雄伝説で圧倒的な兵力を誇る帝国軍に対し、数で劣る同盟軍が基本方針とした「有利な講和条件を引き出すために戦う」の成功例と言えるかもしれない。家康の場合は地震という幸運もあったけど、局地戦で勝ったのは紛れもない本人の才幹によるものだし
家康は生涯通して武士はまず武威を示さないと誰もついてこないっていうのを実践し続けてますね戦えない大将に武士はついてこないのです。大坂の陣で豊臣を滅ぼしたのも関ヶ原で武威を示し損なった秀忠の武威を示すためという要素もあったと思います義元の復讐戦を出来なかった氏真、高天神の後詰めを出来なかった勝頼、戦場に一度も出て来なかった秀頼は皆滅びました
36:08 織田信長の上洛って三好長慶死後だった気が…
このお二人は本当にすごい方々だ1番味わい深い戦ですね
家康って小牧長久手か天正壬午あたりから異様に情報戦に強くなってるんだよね個人的には伊賀越えの時に忍者を大量に召し抱えたんじゃないかと思ってる
そうか、忍者がいたか家康と戦う相手は真田以外、みんなアホ化するの不思議に思ってたんだけど情報戦が強いと考えれば納得だわ三方ヶ原の戦いですら徳川に勝った武田信玄だけど動きが疑心暗鬼で武田らしくないからおかしいと思ったんだよな
忍びの活躍がちゃんとした史料に残っている関東の諸将たちはどうして…
@@matukawatositane活躍がバレてる忍者雇ってたからやろ
この戦いの秀吉にとっての最大の意義は信雄を下したことだろうねえ
池田恒興って清須会議メンバー、つまり織田家の宿老。それがこの大舞台で寝返らずに秀吉に全力で味方したその功績をみると生き残ってたら前田利家と並ぶ五大老になっていた可能性が高いつまり秀吉亡き後の家康に「もう一人の前田利家」として立ちはだかる未来もありえた家康は期せずしてその生涯で最大の戦術的勝利で後の天下への大きな土台を築いていた本人が意識ないままそんな分岐点が存在しているのが歴史の面白さだね
徳川によって長久手でズタボロにされた池田・森の両家は後関ケ原で揃って徳川派になる。
ちくしょおぉぉぉぉ!戦闘エフェクトの音のせいで、機関銃陣地に騎乗・棍棒で斬り込んで蜂の巣になる森長可が見えてしまった。池田隊の武器が鋤鍬(工兵、城攻めで使う)。城に気を取られ過ぎた、って意味かしら。中入り隊を疲弊させた、岩崎の守備隊長。病気(疱瘡)のため出陣出来ず、城に残っていたそうです。丹羽氏重、十六歳没。城兵の戦死239。
秀吉、大坂を狙ってくる雑賀衆や長宗我部の動きには半端でないストレスを抱えていただろうに、それでも大阪方面には中村一氏ら守将を信用し充てて兵力を少なくしか残さず、東海方面へ兵力を集中させたのは、地味な話ながらやはりここでも彼の総大将としての見識の高さを示して余りある。並の総大将なら雑賀衆にキレて、東海方面と並行して紀州方面にも攻撃できるだけの部隊を組んでしまいかねない。秀吉はこの戦役も「決戦」と認識して全身全霊で臨んでいたと見れる
まぁぶっちゃけこの後大地震がなかったら、家康さんもお仕置きで消滅してた可能性大だったんだよね
一時は織田の中でも間違いなく重臣だったのに本能寺以降持ってないタッキーは可哀想になる
織田信雄 天下を翻弄した男こんな感じで大河ドラマにならんかな
やっぱり秀長の存在が一番のチートだと思う
まともに戦えてるのが夜目がきく犬(影狼)と猫(橙)だから夜襲だな。
この時点での長期戦は、圧倒的と思われた秀吉に疑問符が付くので、秀吉に不利。優位に長期戦をしているつもりが、第三者からは「この戦力差で手間取るのか?」「秀吉といえど、この程度か…徳川と組めばワンチャン、行ける?」などと成りかねない。秀吉といえど、薄氷の上に立っている天下。
過去に三河の一向一揆のゲリラ戦に悩まされ、心ならずも機動戦が得意になってた家康。秀吉は小牧山総攻撃の最中に別働隊の存在が家康に伝わるタイミングを狙っていたのでは、例えば長篠の戦で鳶の巣山陥落の情報が武田軍に伝わり戦線崩壊を招く一因となった例。
秀吉の凄みは山崎、賤ヶ岳、小牧長久手で一貫して織田家の家臣として自分の上に信長の遺児を置きながら家臣で首席の位置をとり続けてたところ。名目上の総大将は山崎は信孝、賤ヶ岳は信雄、小牧長久手は三法師。この間、家中で断トツの石高と兵力もち、京都を支配し、信長の遺児の信秀を養子としているが、あくまで織田家の臣下を演じている。
@@新党司馬遷自分が征夷大将軍についたのも豊臣家に関白の可能性を残すため、秀忠に将軍職を譲った時も官位は内大臣にしておいて秀頼は右大臣に。更に片桐且元の給料を徳川が負担し豊臣の内政を仕切らせる。滅茶苦茶豊臣に配慮しながら徳川政権を固めていったことがよくわかる。
長久手って桶狭間と似ているんですよね。(スタンさせて孤立隊を潰しまくる)家康の強さは野戦の場数と戦役研究ですが、後に総て家康有能に書き換えられてますが信雄の当時の幕僚にも信長の有能遺臣がついていたのかなと思っています
記憶違いじゃなかったら、戦術マップの要塞線のところの空堀を通り道にすることで秀吉軍に見つからずに移動できたとこの前NHKで見たような。
他の解説動画だと秀吉が信雄の上の官職を得る事に危機感を感じた信雄が講和の道を選んだと考察されたりもしてますねやっぱ畿内抑えてると強いですわ…戦時に於ける朝廷工作ができるという事から朝敵となる可能性を恐れたとかもあるんですかね?状況が状況なら朝敵認定もする事が可能になりますもんねえ…
@@新党司馬遷なので個人的には秀吉が遺言で「徳川内府は伏見にて政務を取れ」の時点で実質天下人の座を家康に譲る意思を示していたと考えています。大坂城はあくまでも豊臣の権力の源泉であり、天下人秀吉の権力の源泉は聚楽第であり伏見城、そこから朝廷と寺社、商人を抑えていたこと。
高蔵寺ニュータウンの開発や愛知万博を経た今でこそ、瀬戸・八草の山の中を抜けるのは犬山から長久手に下道で行く場合の早いルートだったりするけど、当時は抜けるの大変だっただろうな・・・
動画では一進一退と言ってるけど、時間がすぎるに連れて織田信雄領は削られていたから継戦は無理でしょうね三河でも飢饉が起きていたので、徳川にも継戦能力はなかったでしょう
織田恩顧の武将を抹殺するために、わざと追撃せんかったにしては、後継者候補を危険にさらすのも違和感があるよな
池田恒興を特攻隊に組み込んだのは何かしら思惑を感じます
この戦役、徳川でどのくらいの費用が掛かったのかわかりませんけど、相当な出費だったはずです。見返り無しじゃ、ほんとやってられませんね。
一年近く数倍の敵と対峙して領内に餓死者を出すほどの費用がかかったのに家康に無断で和睦した信雄に内心ぶちぎれてそうそれでもこの和睦を「天下にとってまことめでたき事」と秀吉に返事をした家康の凄みよ
官兵衛か何かがいなかったんやろかなその後はネチネチ信雄いじめて話終わらしてる
行政官や外交官として信雄を逆張り評価する人いるけど、天下人狙える位置にいたのに一部将としての評価してる時点で察する
家康からすれば試合(戦闘)に勝ったけど勝負(戦争)に負けただね
数年前、小牧山に抜け道らしきものを発見したというニュースを見た。ここから家康たちは出撃したのではないか、という話だった。工夫したからこそ敵にばれなかったんやね。😊
小牧長久手は包囲網で圧力を与える家康の戦略 包囲網拡大を防ぐため早期決着を狙う秀吉 家康の見事な戦術と粘り 織田徳川同盟の脆さを突いた秀吉の戦略眼とその後の包囲網勢力撃破の素早さ と双方実力者って感じがして好き。その後の歴史への影響も大きいし戦国時代有数の名勝負だと思う
ストーンウォール(石の壁)の徳川家康。
信雄単独講和は三家老の処刑が大きく影響しているそうです。つまり伊賀で反乱があったようで親族が参加したらしいです。これに秀長が迫ったら単独講和も致し方なしですかね?
織田信雄が三家老処刑→羽柴との外交担当を勝手に処刑されて秀吉激怒、戦争へ豊臣秀頼が片桐追放→徳川との外交担当を勝手に追放されて家康激怒、戦争へやはりいつの時代も外交の暴発はいけない
@@rekishiaoi341 豊臣政権は特に取次ガチャが凄い… 上杉や佐竹→石田(何事も上手くいく なお秀吉死後…) 宇都宮や伊達→浅野(前者は改易の憂き目に&後者は絶縁状叩きつけられるレベルに揉める) 里見や長曾我部→増田長盛(何かと踏んだり蹴ったり)北条→富田一白(上洛日時確定したのに、秀吉側にちゃんと日程伝わってないし秀吉本人から仕事してないといきなり更迭されて両家間で相互不信に→戦争へ) 最上→徳川(上杉の庄内割譲やら駒姫やらで悲惨だがそれでも生き残る)
家康「親族処刑されて日和ってる奴いる? いねーよな!」
@@フォード-i1w戦国から江戸初期にかけては大名たちは面子最優先なので、取次役がとても重要ですね
古文書研究の達人で有名な磯部さんが前に話しているのを聞きましたが、武田氏を吸収した後徳川家のシノビ(忍)の死亡率が格段に低くなっているとか。武田を吸収することで軍団だけでなく諜報部隊も劇的に強化されたのでしょうね。
ちょっと前にいつかやるさんのサラディンvsボードゥアン4世の戦いを見てたから分かるけど秀吉側が家康軍の動きを全く把握できなかったのは、家康側に圧倒的地の利があったからだと思います家康のホームグラウンド内だと索敵能力に圧倒的な差が出るでしょう
面白かった!これだけ完璧な奇襲を成功させているとなると、これ秀吉側に内通者でもいたんですかねぇ…
徳川の強さより羽柴の戦略より信雄のやる気の無さより、滝川さんが一体何をしたのかが気になる…開城時の約束破ってでも殺したかったって事なんですよね
(*´ω`*)…今回も楽しかったッス!!次もガンバってください〜!
秀吉が信雄を利用して戦局を動かした「個人の性質を戦争に利用する」やり方、家康が関ケ原で小早川を寝返らせたやり方に似ている気がした。敗北した相手から学んで強くなる・・・、少年漫画のようだ。
これ、家康が冬の陣でやり返すんだよな。真田後藤等浪人が手強いなら淀の心理を攻撃して和睦に持ち込む。
@@rekishiaoi341 家康って本当に学習能力が高いよな。
小牧長久手の戦→全体で見ると秀吉の勝ち、長久手だけ見ると家康の勝ち大坂冬の陣→全体で見ると家康の勝ち、真田丸だけ見ると秀頼の勝ち家康は真田丸の戦いでボコボコにされた時長久手で森と池田を壊滅させられた秀吉の気持ちが身に沁みたやろなあ
まあそこから秀吉「アカン狸は簡単に潰せへん...せや信雄から切り崩すか」家康「アカン秀頼簡単に潰せへん...せや淀殿から切り崩すか」ホンマ戦略>超えられない壁>戦術なんやなって
安土桃山時代と言われるこの時代ですが、依然として足利将軍家が征夷大将軍在位中の中で羽柴秀吉公が戦時中に官位叙任がなされ、爆速で従三位権大納言に就任することになったのか?をここで議論するのは違うのかもしれないですが、「統治の正当性は朝廷の権威持って行う」という「信長公の後追い」を完遂しきるという盤外戦術でもって単独講和が成功したのかな?と思う次第ですね※調べると従五位下から従三位権大納言任官の速度が室町時代の慣例から見て異例中の異例の(似たような事例は足利義政後の弟、足利義視ぐらいかとという)速度なので云々・・・
その解釈通りだと思います小牧長久手までの秀吉は官位が上の相手たちとひたすら殴り合ってきましたがその間も朝廷に官位を求め続け、それが漸く実現したのがこの時
なんだこの打開の道がまるで見えない神経戦は…。信雄君、ストレス酷すぎて頭があぼーんしちゃった説でも普通に納得出来るくらい先の見えない日々だったのかもですね。
父親のような強靭な忍耐力と決断力がなかったんでしょうな
@@あぼぼです あったらそもそもこんな状況になってないしね……
今回のどうする家康とか大昔のその時歴史が動いたとかであったけど長久手への空堀掘ってたから羽柴軍に気づかれず徳川軍が移動できた羽柴軍は空堀を小牧山の防御を固めるものと誤認していたって説もあるんだよな
織田氏の当主は三法師なので逆臣という要素はそれほど高くなかったのではないかと思っています。
池田恒興への遠慮と長可、秀次の脳筋を御しきれなかったに尽きる対陣の長期化についての解釈は三法師を擁してるのでうp主とは意見が違うがこの戦いは相手の庭で戦ってる限り陣地戦を徹底しつつ長期化覚悟で不利を背負いながら戦うべきだったかつ家康にも信雄にも殺したくないどころかボロ勝ちしたくなかったでしょ力を抑えつつ勝たなきゃいけないハンデ戦だったと思ってます
野戦のときの家康ってドン引きするくらいアグレッシブだよね止まったら死ぬマグロか何かですかってくらい走り回りやがる
中入り隊を捨て駒部隊にするなら虎の子の秀次を危険に晒す理由が分からないんだよなあ。本当に上手くいくと思ってたのか。池田、森は織田家重臣で秀吉としても厄介な存在、で、秀次との間に名人久太郎を入れておく。妥協の産物なのか狙いがあったのか。
秀吉が織田信雄と対立したから逆賊扱いされてるってのはどうなんでしょう?信雄が織田家の家督代行であったとは言え清洲会議で三法師が織田家の後継者であると定まり、小牧長久手の時点で秀吉占領下の京都に居たので秀吉に大義名分が全く無いわけではないと感じるのですが。
一応このころは信雄君が織田家当主やしどうなんでしょう?
これ、家康が担ぎ上げたのが信雄じゃなくてせめて信孝だったら・・・ていうか、「頭おかしなるで」ってこっちの台詞じゃ!!って感じですねw
賤ヶ岳の戦いで秀吉は信孝への対抗として織田信雄を担いでるが小牧・長久手の戦いでは織田家の当主は信雄ではない。この時の織田家の主人は三法師。織田家からみれば信雄は逆臣で、家康は臣従を離脱した謀反人。一般に秀吉側は大義が無いと言われるが、それはなあなあで小牧・長久手の戦いが終わった後で信雄が秀吉への臣従の代わりに織田家当主と認められたのが後に混同されているから。家康も主家乗っ取り批判や信長の遺児を助けるとは言ってるが、織田家の家臣の大半は織田家の家臣の状態で秀吉の側で参戦してるのが全て。
結局秀吉は関白になるまで織田家の筆頭家老以上の地位を作れなかったから、三法師が元服した後あの若さで岐阜中納言と滅茶苦茶秀吉が優遇したのかも
確かに、三法師が来てくれないと、大義名分は持てないですね。もし仮に三法師が来ても、この時、長曾我部、雑賀衆にとっては、他家のお家騒動に近く、旧織田家以外は意味をなさなかったのかもしれません。
この戦役後、秀吉は家康を総攻撃しようとしてたんだよね。デカい地震の為、被害甚大で講和に舵切ったんだけど。戦略と人たらしの面でまだ勝てなかったと思うよ家康は。かと言って、これ以上刺激すると秀吉も益が無いと思ったんだろうね。けど、それ以外には冷酷だったわ。佐々成政は酷い目にあったし。成政は余程嫌いだったんだな、秀吉の事。
まってました
家康公にしてみれば、やりきれない話だよなぁ。領国荒廃させただけで終わってしまった(渥美半島の一地方では、この戦の為に男子を全て動員されてしまい、耕作のできなくなった集落が飢餓で潰滅した話がある)もんなぁ。
信長さんが四国勢からの攻撃に手を焼いていた頃にはもう長慶はいないね
佐々成政の山越えも解説して欲しいです!!!
戦力的には秀吉 名目上の正義は家康に分があるという背景から諸将の心理は不安定で秀吉側は長期戦になれば不利ってとこまで考察するからここの歴史解説は自分的に一番面白い
天皇家抑えて親戚になりつつある秀吉相手に大義名分勝負はまあ無理なんよな
@@せるじいちょっと時系列が違うかもこの時点だとまだ官位は信雄>秀吉だから秀吉は武力でしか信雄の上に立てなかったこの戦役後半から秀吉が信雄と家康を官位で追い抜いて錦の御旗を掲げられるようになった
32:04 慌てての攻撃とはいえ、残された少数の兵で阻止するあたりさすがの本田平八ボロクソ言われてる信雄さんですが、後年大阪の陣前に豊臣方の総大将に担ぎ上げられそうになった時にさっさと逃亡したり無事生き延びる事に関しては嗅覚の効く人なんですよねぇw
小ネタ 大義名分を持ってる秀吉も批判はされる、主家乗っ取りや織田信孝を討ったと徳川家臣の榊原康政に高札で罵られた。三法師が織田家の家督相続をしてるのにそれを奪取しようとしてるのも、信孝を尾張で〆たのも家康と組んだ信雄なのに。ネットならそく突っ込まれて炎上しそう。後に小平太君は秀吉から直接官位をもらって高札の件は部下として当然と褒められてる。器がデカいのか余裕があったのか落首一つで地域ごと罰したのとエライ違い。
補給から考えると、家康君が、有利何だよな、
定説では信雄が馬鹿だから単独講和した、というが本当なんだろうか?動画の中でも言っているが家康も秀吉に勝ちきれないことは理解していたはず。であるなら信雄の講和は渡りに船だったと思う。ただ馬鹿な信雄が勝手に講和したから勝てなかった、と後世に言い触らしただけだと思うのだが、どうだろうか。
家康的には三河無視できないけど無理に行ったら三方ヶ原の二の舞になるところを信雄が尾張の領地を空にする危険性を顧みず三河を狙う別働隊撃滅に全軍を差し向けたのが功を奏した信雄も秀吉と面して相対してるのに、秀吉に感づかれる前に家康と一緒になって池田恒興と森長可の別動隊潰しに行ってるし、九鬼と滝川の裏切りとかあったのにそれもなんとか一度は切り抜けてるし腐っても信長の息子だったんだなとは思う信雄も家康も減封無しで自分を高く売る点では絶妙のタイミングだったからそういう意味では二人ともある意味の勝利ではあるかな(長宗我部らの末路を見ながら)
この後を考えると1. 長男を養子(人質)に出せ2. 重臣の息子も人質に寄越せ3. 故郷を捨てて関東に引っ越せ4. 家康は伏見に参勤しろ5. 豊臣の天下普請に出費しろ6. 唐入りするから名護屋に詰めろよく家康は乗り切ったなと思う
@@rekishiaoi341これ、まんま江戸時代の制度やん。
@@hiron114 自分がやらされて余程嫌だったんだろなw能く能く敵味方から学ぶ人だなと。
@@hiron114武家諸法度はほぼ秀吉が出した命令のパクリだったりしますwww
家康・信雄<負ける気せーへん地元やし。 秀吉&秀吉配下<いや、わしらも出身地なんだけどなあ。
秀吉方は同輩だった池田恒興などの信長遺臣が数多く居るから、秀吉も強く上として指揮出来る立場じゃなかったのかもね🤔中入りの別働隊と同時に本隊も出発して小牧山に釘付け出来ていれば・・・同輩の恒興などを自分の手を汚さずに排除・・・なんて邪推ですかね❔😅
池田はともかく森は戦死の情報が入り「天下を取る吉兆」と秀吉は喜んだとか
織田信雄が戦犯っぽいんだけれど、家康が秀吉と事を構えるためには家康が信雄を神輿に据える必要があって成立したわけで図としては秀吉VS信雄になっちゃったんだよなぁ。信雄にもっとカリスマや外交の才能があれば違った絵が描けたかもしれないけれど、そうはならなかった。秀吉VS家康にならなかった時点でもう決着は見えていたのかもしれませんね。
外交の才能自体は凄いあると思うよ 家康と秀吉の和睦を取りなした(家康の要求通り人質は秀康だけに留まった+家康の減封は無し)のも信雄だしそもそも信雄は「北畠に一度相続した出戻り」という「武田勝頼みたいな立場」なのでカリスマとか要求するのも無茶ぶりなので…
@@フォード-i1w家康の上洛にも信雄が大きく噛んでいたしね。信雄が仲介してなかったら天正地震の後でも徳川征伐が行われていたかもしれない
@@rekishiaoi341 まぁ秀吉側もこれ以上ぐだったら徳川と同盟してた北条軍まで参戦してぐっだぐだになる可能性嫌がったのもあるだろうね→沼尻の戦いで北条勝利で宇都宮は青色吐息、佐竹は真壁等から反感買う、常陸国衆内の内紛収拾で動けなくなる 思った通りの勝利じゃないからか太閤能では小牧長久手の戦いは演目から除外されてる(三木の干殺しから小田原征伐まで完勝!神の如き寛大さで敵将〇〇を許してやった!という喧伝内容が多い)
ぶっちゃけ内通者が居たんじゃない?と思うのは、気のせいかな……
ここだけ切り取って見ると当時だと徳川家の方が美談みたいなものを作りやすそうな状況ではある戦の正当性もあり圧倒的な大勢力相手にひるまず戦い一部では大戦果も上げて一生懸命織田家のために戦ったのに最後は秀吉が寝技を使い信雄の勝手な単独講和で見捨てられてしまったという状況だし
秀吉と家康の兵力差をあまり知らなかったから、てっきり互角なのかと思ってました。秀吉視点から見ると、「負けるかもしれない」という確かに怖い戦役ですが、家康視点から見るとこれだけやってなお「勝てるかもしれない」という半ば絶望的な戦いだなと思いました。上杉、北条がここに呼応していたのを見ますと、織田信雄が講和に踏み切らず戦役が長期化していた場合、更に派閥が拡大して、応仁の乱や関ヶ原の戦いのような全国規模の戦争になっていたのでしょうね。
@@新党司馬遷 朝倉を脱落したとみるのはちょっと違う気もするけどね
秀吉が逆臣ってのがよくわからない。当主の三法師を抱えてるのは秀吉なんだから逆臣なのはむしろ家康では?あと長期戦になったら領土も兵力も上の秀吉が有利だと思う清洲方面は守れても史実通り伊勢方面をじわじわ落とされるのは目に見えてる
石川数正の裏切りと天正大地震も見たかったけどここまでか…。まあこの時点で大局は確定して早かれ遅かれ秀吉が天下人になっただろうしな。
秀吉、家康の動きに気づいてなかったんじゃなくて、池田と森を排除させるためにわざと見逃したんじゃないかという可能性も?
それもちらっとは思ったけど作戦最初から排除狙うなら大将秀次に疑問が出るんだよなぁ…堀を森池田と秀次の間に挟んだから「上手いことやってくれるやろ」なんて考えは危険過ぎるし…
第二時小牧・長久手の戦いがみたい!史実で地震で潰えた秀吉の2回目の総攻撃を、徳川軍団は、撃退できるだろうか?
後知恵だけど、家康相手に欲をかいてどうせバレる奇襲なんて企図せずに、むしろ別動隊は「中入りするぞーしちゃうぞー」って大々的に宣言して警戒しながらゆっくり行軍して、同時に秀吉本軍が小牧山を力攻めしたほうがよかったのでは。
考察って 本当にすごいですね!先生、勉強になります&自分は結果だけ知っていて分かった気分になり池田つねおきバカだなぁしか思えなかった、、、先生、ありがとう🎉
歴史は勝者が作る。
これ、池田・森っていう子飼いじゃない武将をあえてお掃除した神君秀吉って可能性は微レ存?( ゚Д゚)
ありがとうございます!❤❤
まるでソフトバンク移籍するY川みたいだ。43:00
秀吉恐ろしい子。でも、ここで戦略の大事さを学んだのが、家康を天下人にしたんだね。
天正地震のせいで豊臣軍はこれ以上の徳川攻めができなくなったという説を読んだことがあるけれどもどうなんだろう?
長久手の戦い後の対陣の長さは意外な印象を受けるところ。
長久手の敗北で不利を悟った秀吉が、さっさと講和したというように語られることが多いから。
馬謖「地図にペットボトル(水)があるのは、
山登りしてやらかした私への
当てつけでしょうか?」
チョイチョイ現場に出し貰えたら良かったのにね😅
この一戦の徳川方の健闘あってこそ豊臣政権下での重要ポジに繋がった訳でほんと日本史において重要な戦いですね
信雄「絶望した!半年経っても全然大名達が集まって来てくれない自分の求心力の無さに絶望した!」
秀頼「ワイも手紙出したら大名が誰も味方にならんかったやで」
個人的にはこの時の経験が関ヶ原前後の家康につながったのかなぁと
やはり高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に対処できる能力が何より重要やね
ビュコック「要するに、行き当たりばったりということではないのかな?」
「兵に常勢なく、水に常形なし。 能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神と謂う(孫子第六『虚実篇』)」
さすが士官学校首席様、自由惑星同盟の天才軍師やで
???「攻勢ではありません大攻勢です」
アンドリュー・フォーク。
↓
「僕が考えた最強の作戦」で、アムリッツァ会戦において2000万人将兵の犠牲を出した史上最悪の無能。
実際、完璧にソレができたらね・・・笑
将棋とかチェスのTOP棋士は大体ソレな気がする
小牧長久手の家康って信長時代の軍団長クラス、将官クラスをたくさん破っているし、討ち取っているから織田信長勢力だと信長の次くらいに強かったんだなぁって思う。
豊臣政権での家康のポジションの重要性と高さがこの戦争の答えみたいなもんだし。
家康が一向宗と組めればバランス、包囲網的には良かったのかなぁ、と地図みながら思った。
三河一向一揆鎮圧してるから、そんなん無理な可能性の方が高いと思うけど。
秀吉家臣団と家康家臣団の総力戦って感じで、派手な関が原みたいな一大決戦とは違った総合力が試された戦いで一番好きです
実際頼山陽は「家康が天下を取れたのは関ヶ原じゃなく小牧長久手のおかげや」と書いてる
長久手の奇襲、この時の三河武士団の索敵能力と機動力は謎レベルの高さです。この家康率いる三河武士団を三方ヶ原で鎧袖一触にして蹴散らした武田信玄の恐ろしさが際立ちます。
1:38
x三木城とか備中高松城みたいに
◯ 三木城とか鳥取城みたいに
これ以外にも秀吉は小牧長久手で負けた後、ガチで陣容整えて力で家康ぶっ潰そうと準備まで整えたのにガチで大きな天正地震が発生(山内一豊の娘が亡くなる位でかい地震が発生)して近畿地方が壊滅したて秀吉は家康潰せなくなったって天下人になった家康の強運もデカイと思う。
敗北した側とされる家康も秀吉との決戦で軍事的に屈服しなかったことが後の彼の人生に利することになったから戦略、軍事も重要だなぁと
なんで家康さんはいつもいつも貧乏くじを引いてしまうのか。要所の謎の運の悪さが無ければ秀吉が台頭することもなかったかもしれないのに
徳川家康は戦術的にではあるが秀吉に勝ったという強力なネームバリューを得る事ができた。
家康との直接対決では勝てなくても「家康のいないところで全部勝てばいい」を実行した秀吉
ローマがハンニバル戦以外で全部勝って最終的に追い詰めて行ったのと同じだね
後の時代の人なら結果を知ってるかつ俯瞰視点で見られるから色々情報をまとめる事が出来るけど
当時の人はこれらを文書や手書きの絵で、タイムラグの発生する状況でしか伝えられない情報で把握し、
そんな中で即断即決しなきゃいけなかったってんだから本当に恐れ入る…
長久手の戦闘での家康は、不利な状況下での戦闘に強い本多忠勝に小牧城をまかせることで防衛兵力を最小限度に抑えたり、知略に優れ戦闘の駆け引きが出来る榊原康政を先鋒にしたり、猪武者ぽい井伊直政に旧武田の精鋭を預けて攻撃力の中心にしたり部下の使い方も秀吉の上行ってたと思う。
10:40 標高86mの小牧山から見える地平線は35km程度とのことで春日井市の平野は十分範囲内ですが、落合公園のあたりの標高が小牧山と同程度なので、遮蔽物になって春日井市の平野のほとんどは見えないですね。徳川が中入り隊に気がついたのは別働隊の偵察が居たのだと思います。反面、秀吉は明治村の辺りの山(本宮山標高: 293m)に偵察を置けば徳川の部隊の動きが見えたかもしれませんが情報の差が出ましたね。
今回も勉強になりました。
やる夫真田家という素晴らしいやる夫スレを思い出しました。
恐らくこの戦役の前まではお互い相手のことを自分より格下だと思っていたんじゃないかな。
それがひょっとして自分に比肩できる、もしくは格上なんじゃないかとお互いに感じたことで下手に手出しできなくなり、その後の歴史に繋がっていったのではないか。
おもしれー、最高、ありがとうございます
森長可は戦国DQN四天王暴力担当と言われるだけあって常に前線で敵をぶった斬る上に制御不能気味だったから戦死しても秀吉は喜んだって言われてるからなぁ。
現代の米軍の教範でも重要な戦術機動とされる「迂回」ですな。
家康としてはここで自分の実力を見せたことで
後々豊臣政権での発言力を示すことが出来たともいえる。
やはり、対話するにしても「実力を示さないと」相手にいいようにされるだけという証明だと思う
ただ頭下げられるだけじゃ舐められるしね
実際この戦があったからこそ信雄は豊臣政権で内大臣まで登り詰めたし
家康くらいの実力と状況分析能力があってこそだよね。
北条は徳川の時みたいに母親人質に出せやなんて脳天気なこと言って結局滅ぼされてるし。
実際に戦った家康だから秀吉の力をわかった上で自分を高く売りつける
ぎりぎりの駆け引きができた。
家康が並の武将だったら滅ぼされてるだろう。
銀河英雄伝説で圧倒的な兵力を誇る帝国軍に対し、数で劣る同盟軍が基本方針とした「有利な講和条件を引き出すために戦う」の成功例と言えるかもしれない。家康の場合は地震という幸運もあったけど、局地戦で勝ったのは紛れもない本人の才幹によるものだし
家康は生涯通して武士はまず武威を示さないと誰もついてこないっていうのを実践し続けてますね
戦えない大将に武士はついてこないのです。大坂の陣で豊臣を滅ぼしたのも関ヶ原で武威を示し損なった秀忠の武威を示すためという要素もあったと思います
義元の復讐戦を出来なかった氏真、高天神の後詰めを出来なかった勝頼、戦場に一度も出て来なかった秀頼は皆滅びました
36:08 織田信長の上洛って三好長慶
死後だった気が…
このお二人は本当にすごい方々だ
1番味わい深い戦ですね
家康って小牧長久手か天正壬午あたりから異様に情報戦に強くなってるんだよね
個人的には伊賀越えの時に忍者を大量に召し抱えたんじゃないかと思ってる
そうか、忍者がいたか
家康と戦う相手は真田以外、みんなアホ化するの不思議に思ってたんだけど
情報戦が強いと考えれば納得だわ
三方ヶ原の戦いですら徳川に勝った武田信玄だけど
動きが疑心暗鬼で武田らしくないからおかしいと思ったんだよな
忍びの活躍がちゃんとした史料に残っている関東の諸将たちはどうして…
@@matukawatositane
活躍がバレてる忍者雇ってたからやろ
この戦いの秀吉にとっての最大の意義は信雄を下したことだろうねえ
池田恒興って清須会議メンバー、つまり織田家の宿老。それがこの大舞台で寝返らずに秀吉に全力で味方した
その功績をみると生き残ってたら前田利家と並ぶ五大老になっていた可能性が高い
つまり秀吉亡き後の家康に「もう一人の前田利家」として立ちはだかる未来もありえた
家康は期せずしてその生涯で最大の戦術的勝利で後の天下への大きな土台を築いていた
本人が意識ないままそんな分岐点が存在しているのが歴史の面白さだね
徳川によって長久手でズタボロにされた池田・森の両家は後関ケ原で揃って徳川派になる。
ちくしょおぉぉぉぉ!
戦闘エフェクトの音のせいで、機関銃陣地に騎乗・棍棒で斬り込んで蜂の巣になる森長可が見えてしまった。
池田隊の武器が鋤鍬(工兵、城攻めで使う)。城に気を取られ過ぎた、って意味かしら。
中入り隊を疲弊させた、岩崎の守備隊長。病気(疱瘡)のため出陣出来ず、城に残っていたそうです。
丹羽氏重、十六歳没。城兵の戦死239。
秀吉、大坂を狙ってくる雑賀衆や長宗我部の動きには半端でないストレスを抱えていただろうに、それでも大阪方面には中村一氏ら守将を信用し充てて兵力を少なくしか残さず、東海方面へ兵力を集中させたのは、地味な話ながらやはりここでも彼の総大将としての見識の高さを示して余りある。並の総大将なら雑賀衆にキレて、東海方面と並行して紀州方面にも攻撃できるだけの部隊を組んでしまいかねない。秀吉はこの戦役も「決戦」と認識して全身全霊で臨んでいたと見れる
まぁぶっちゃけこの後大地震がなかったら、家康さんもお仕置きで消滅してた可能性大だったんだよね
一時は織田の中でも間違いなく重臣だったのに
本能寺以降持ってないタッキーは可哀想になる
織田信雄 天下を翻弄した男
こんな感じで大河ドラマにならんかな
やっぱり秀長の存在が一番のチートだと思う
まともに戦えてるのが夜目がきく犬(影狼)と猫(橙)だから夜襲だな。
この時点での長期戦は、圧倒的と思われた秀吉に疑問符が付くので、秀吉に不利。
優位に長期戦をしているつもりが、第三者からは「この戦力差で手間取るのか?」「秀吉といえど、この程度か…徳川と組めばワンチャン、行ける?」などと成りかねない。秀吉といえど、薄氷の上に立っている天下。
過去に三河の一向一揆のゲリラ戦に悩まされ、心ならずも機動戦が得意になってた家康。
秀吉は小牧山総攻撃の最中に別働隊の存在が家康に伝わるタイミングを狙っていたのでは、例えば長篠の戦で鳶の巣山陥落の情報が武田軍に伝わり戦線崩壊を招く一因となった例。
秀吉の凄みは山崎、賤ヶ岳、小牧長久手で一貫して織田家の家臣として自分の上に信長の遺児を置きながら家臣で首席の位置をとり続けてたところ。名目上の総大将は山崎は信孝、賤ヶ岳は信雄、小牧長久手は三法師。この間、家中で断トツの石高と兵力もち、京都を支配し、信長の遺児の信秀を養子としているが、あくまで織田家の臣下を演じている。
@@新党司馬遷
自分が征夷大将軍についたのも豊臣家に関白の可能性を残すため、秀忠に将軍職を譲った時も官位は内大臣にしておいて秀頼は右大臣に。
更に片桐且元の給料を徳川が負担し豊臣の内政を仕切らせる。
滅茶苦茶豊臣に配慮しながら徳川政権を固めていったことがよくわかる。
長久手って桶狭間と似ているんですよね。(スタンさせて孤立隊を潰しまくる)家康の強さは野戦の場数と戦役研究ですが、後に総て家康有能に書き換えられてますが信雄の当時の幕僚にも信長の有能遺臣がついていたのかなと思っています
記憶違いじゃなかったら、戦術マップの要塞線のところの空堀を通り道にすることで秀吉軍に見つからずに移動できたとこの前NHKで見たような。
他の解説動画だと秀吉が信雄の上の官職を得る事に危機感を感じた信雄が講和の道を選んだと考察されたりもしてますね
やっぱ畿内抑えてると強いですわ…戦時に於ける朝廷工作ができるという事から朝敵となる可能性を恐れたとかもあるんですかね?
状況が状況なら朝敵認定もする事が可能になりますもんねえ…
@@新党司馬遷
なので個人的には秀吉が遺言で
「徳川内府は伏見にて政務を取れ」の時点で実質天下人の座を家康に譲る意思を示していたと考えています。
大坂城はあくまでも豊臣の権力の源泉であり、
天下人秀吉の権力の源泉は聚楽第であり伏見城、そこから朝廷と寺社、商人を抑えていたこと。
高蔵寺ニュータウンの開発や愛知万博を経た今でこそ、瀬戸・八草の山の中を抜けるのは犬山から長久手に下道で行く場合の早いルートだったりするけど、当時は抜けるの大変だっただろうな・・・
動画では一進一退と言ってるけど、時間がすぎるに連れて織田信雄領は削られていたから継戦は無理でしょうね
三河でも飢饉が起きていたので、徳川にも継戦能力はなかったでしょう
織田恩顧の武将を抹殺するために、わざと追撃せんかったにしては、後継者候補を危険にさらすのも違和感があるよな
池田恒興を特攻隊に組み込んだのは何かしら思惑を感じます
この戦役、徳川でどのくらいの費用が掛かったのかわかりませんけど、相当な出費だったはずです。見返り無しじゃ、ほんとやってられませんね。
一年近く数倍の敵と対峙して領内に餓死者を出すほどの費用がかかったのに家康に無断で和睦した信雄に内心ぶちぎれてそう
それでもこの和睦を「天下にとってまことめでたき事」と秀吉に返事をした家康の凄みよ
官兵衛か何かがいなかったんやろかな
その後はネチネチ信雄いじめて話終わらしてる
行政官や外交官として信雄を逆張り評価する人いるけど、天下人狙える位置にいたのに一部将としての評価してる時点で察する
家康からすれば試合(戦闘)に勝ったけど勝負(戦争)に負けただね
数年前、小牧山に抜け道らしきものを発見したというニュースを見た。
ここから家康たちは出撃したのではないか、という話だった。
工夫したからこそ敵にばれなかったんやね。😊
小牧長久手は包囲網で圧力を与える家康の戦略 包囲網拡大を防ぐため早期決着を狙う秀吉 家康の見事な戦術と粘り 織田徳川同盟の脆さを突いた秀吉の戦略眼とその後の包囲網勢力撃破の素早さ と双方実力者って感じがして好き。その後の歴史への影響も大きいし戦国時代有数の名勝負だと思う
ストーンウォール(石の壁)の徳川家康。
信雄単独講和は三家老の処刑が大きく影響しているそうです。つまり伊賀で反乱があったようで親族が参加したらしいです。これに秀長が迫ったら単独講和も致し方なしですかね?
織田信雄が三家老処刑→羽柴との外交担当を勝手に処刑されて秀吉激怒、戦争へ
豊臣秀頼が片桐追放→徳川との外交担当を勝手に追放されて家康激怒、戦争へ
やはりいつの時代も外交の暴発はいけない
@@rekishiaoi341 豊臣政権は特に取次ガチャが凄い… 上杉や佐竹→石田(何事も上手くいく なお秀吉死後…) 宇都宮や伊達→浅野(前者は改易の憂き目に&後者は絶縁状叩きつけられるレベルに揉める) 里見や長曾我部→増田長盛(何かと踏んだり蹴ったり)北条→富田一白(上洛日時確定したのに、秀吉側にちゃんと日程伝わってないし秀吉本人から仕事してないといきなり更迭されて両家間で相互不信に→戦争へ) 最上→徳川(上杉の庄内割譲やら駒姫やらで悲惨だがそれでも生き残る)
家康「親族処刑されて日和ってる奴いる? いねーよな!」
@@フォード-i1w
戦国から江戸初期にかけては大名たちは面子最優先なので、取次役がとても重要ですね
古文書研究の達人で有名な磯部さんが前に話しているのを聞きましたが、武田氏を吸収した後徳川家のシノビ(忍)の死亡率が格段に低くなっているとか。武田を吸収することで軍団だけでなく諜報部隊も劇的に強化されたのでしょうね。
ちょっと前にいつかやるさんのサラディンvsボードゥアン4世の戦いを見てたから分かるけど
秀吉側が家康軍の動きを全く把握できなかったのは、家康側に圧倒的地の利があったからだと思います
家康のホームグラウンド内だと索敵能力に圧倒的な差が出るでしょう
面白かった!これだけ完璧な奇襲を成功させているとなると、これ秀吉側に内通者でもいたんですかねぇ…
徳川の強さより羽柴の戦略より信雄のやる気の無さより、滝川さんが一体何をしたのかが気になる…
開城時の約束破ってでも殺したかったって事なんですよね
(*´ω`*)…今回も楽しかったッス!!
次もガンバってください〜!
秀吉が信雄を利用して戦局を動かした「個人の性質を戦争に利用する」やり方、家康が関ケ原で小早川を寝返らせたやり方に似ている気がした。敗北した相手から学んで強くなる・・・、少年漫画のようだ。
これ、家康が冬の陣でやり返すんだよな。
真田後藤等浪人が手強いなら淀の心理を攻撃して和睦に持ち込む。
@@rekishiaoi341 家康って本当に学習能力が高いよな。
小牧長久手の戦→全体で見ると秀吉の勝ち、長久手だけ見ると家康の勝ち
大坂冬の陣→全体で見ると家康の勝ち、真田丸だけ見ると秀頼の勝ち
家康は真田丸の戦いでボコボコにされた時長久手で森と池田を壊滅させられた秀吉の気持ちが身に沁みたやろなあ
まあそこから
秀吉「アカン狸は簡単に潰せへん...せや信雄から切り崩すか」
家康「アカン秀頼簡単に潰せへん...せや淀殿から切り崩すか」
ホンマ戦略>超えられない壁>戦術なんやなって
安土桃山時代と言われるこの時代ですが、依然として足利将軍家が征夷大将軍在位中の中で羽柴秀吉公が戦時中に官位叙任がなされ、爆速で従三位権大納言に就任することになったのか?をここで議論するのは違うのかもしれないですが、「統治の正当性は朝廷の権威持って行う」という「信長公の後追い」を完遂しきるという盤外戦術でもって単独講和が成功したのかな?と思う次第ですね
※調べると従五位下から従三位権大納言任官の速度が室町時代の慣例から見て異例中の異例の(似たような事例は足利義政後の弟、足利義視ぐらいかとという)速度なので云々・・・
その解釈通りだと思います
小牧長久手までの秀吉は官位が上の相手たちとひたすら殴り合ってきましたがその間も朝廷に官位を求め続け、それが漸く実現したのがこの時
なんだこの打開の道がまるで見えない神経戦は…。
信雄君、ストレス酷すぎて頭があぼーんしちゃった説でも普通に納得出来るくらい先の見えない日々だったのかもですね。
父親のような強靭な忍耐力と決断力がなかったんでしょうな
@@あぼぼです あったらそもそもこんな状況になってないしね……
今回のどうする家康とか大昔のその時歴史が動いたとかであったけど
長久手への空堀掘ってたから羽柴軍に気づかれず徳川軍が移動できた
羽柴軍は空堀を小牧山の防御を固めるものと誤認していたって説もあるんだよな
織田氏の当主は三法師なので逆臣という要素はそれほど高くなかったのではないかと思っています。
池田恒興への遠慮と長可、秀次の脳筋を御しきれなかったに尽きる
対陣の長期化についての解釈は三法師を擁してるのでうp主とは意見が違うが
この戦いは相手の庭で戦ってる限り陣地戦を徹底しつつ長期化覚悟で不利を背負いながら戦うべきだった
かつ家康にも信雄にも殺したくないどころかボロ勝ちしたくなかったでしょ
力を抑えつつ勝たなきゃいけないハンデ戦だったと思ってます
野戦のときの家康ってドン引きするくらいアグレッシブだよね
止まったら死ぬマグロか何かですかってくらい走り回りやがる
中入り隊を捨て駒部隊にするなら虎の子の秀次を危険に晒す理由が分からないんだよなあ。本当に上手くいくと思ってたのか。
池田、森は織田家重臣で秀吉としても厄介な存在、で、秀次との間に名人久太郎を入れておく。妥協の産物なのか狙いがあったのか。
秀吉が織田信雄と対立したから逆賊扱いされてるってのはどうなんでしょう?
信雄が織田家の家督代行であったとは言え清洲会議で三法師が織田家の後継者であると定まり、小牧長久手の時点で秀吉占領下の京都に居たので秀吉に大義名分が全く無いわけではないと感じるのですが。
一応このころは信雄君が織田家当主やしどうなんでしょう?
これ、家康が担ぎ上げたのが信雄じゃなくてせめて信孝だったら・・・
ていうか、「頭おかしなるで」ってこっちの台詞じゃ!!って感じですねw
賤ヶ岳の戦いで秀吉は信孝への対抗として織田信雄を担いでるが小牧・長久手の戦いでは織田家の当主は信雄ではない。この時の織田家の主人は三法師。織田家からみれば信雄は逆臣で、家康は臣従を離脱した謀反人。一般に秀吉側は大義が無いと言われるが、それはなあなあで小牧・長久手の戦いが終わった後で信雄が秀吉への臣従の代わりに織田家当主と認められたのが後に混同されているから。家康も主家乗っ取り批判や信長の遺児を助けるとは言ってるが、織田家の家臣の大半は織田家の家臣の状態で秀吉の側で参戦してるのが全て。
結局秀吉は関白になるまで織田家の筆頭家老以上の地位を作れなかったから、
三法師が元服した後あの若さで岐阜中納言と滅茶苦茶秀吉が優遇したのかも
確かに、三法師が来てくれないと、大義名分は持てないですね。
もし仮に三法師が来ても、この時、長曾我部、雑賀衆にとっては、他家のお家騒動に近く、旧織田家以外は意味をなさなかったのかもしれません。
この戦役後、秀吉は家康を総攻撃しようとしてたんだよね。デカい地震の為、被害甚大で講和に舵切ったんだけど。
戦略と人たらしの面でまだ勝てなかったと思うよ家康は。かと言って、これ以上刺激すると秀吉も益が無いと思ったんだろうね。
けど、それ以外には冷酷だったわ。佐々成政は酷い目にあったし。成政は余程嫌いだったんだな、秀吉の事。
まってました
家康公にしてみれば、やりきれない話だよなぁ。領国荒廃させただけで終わってしまった(渥美半島の一地方では、この戦の為に男子を全て動員されてしまい、耕作のできなくなった集落が飢餓で潰滅した話がある)もんなぁ。
信長さんが四国勢からの攻撃に手を焼いていた頃にはもう長慶はいないね
佐々成政の山越えも解説して欲しいです!!!
戦力的には秀吉 名目上の正義は家康に分があるという背景から諸将の心理は不安定で秀吉側は長期戦になれば不利ってとこまで考察するからここの歴史解説は自分的に一番面白い
天皇家抑えて親戚になりつつある秀吉相手に大義名分勝負はまあ無理なんよな
@@せるじい
ちょっと時系列が違うかも
この時点だとまだ官位は信雄>秀吉
だから秀吉は武力でしか信雄の上に立てなかった
この戦役後半から秀吉が信雄と家康を官位で追い抜いて錦の御旗を掲げられるようになった
32:04 慌てての攻撃とはいえ、残された少数の兵で阻止するあたりさすがの本田平八
ボロクソ言われてる信雄さんですが、後年大阪の陣前に豊臣方の総大将に担ぎ上げられそうになった時にさっさと逃亡したり無事生き延びる事に関しては嗅覚の効く人なんですよねぇw
小ネタ 大義名分を持ってる秀吉も批判はされる、主家乗っ取りや織田信孝を討ったと徳川家臣の榊原康政に高札で罵られた。三法師が織田家の家督相続をしてるのにそれを奪取しようとしてるのも、信孝を尾張で〆たのも家康と組んだ信雄なのに。ネットならそく突っ込まれて炎上しそう。後に小平太君は秀吉から直接官位をもらって高札の件は部下として当然と褒められてる。器がデカいのか余裕があったのか落首一つで地域ごと罰したのとエライ違い。
補給から考えると、家康君が、有利何だよな、
定説では信雄が馬鹿だから単独講和した、というが本当なんだろうか?動画の中でも言っているが家康も秀吉に勝ちきれないことは理解していたはず。であるなら信雄の講和は渡りに船だったと思う。ただ馬鹿な信雄が勝手に講和したから勝てなかった、と後世に言い触らしただけだと思うのだが、どうだろうか。
家康的には三河無視できないけど無理に行ったら三方ヶ原の二の舞になるところを信雄が尾張の領地を空にする危険性を顧みず三河を狙う別働隊撃滅に全軍を差し向けたのが功を奏した
信雄も秀吉と面して相対してるのに、秀吉に感づかれる前に家康と一緒になって池田恒興と森長可の別動隊潰しに行ってるし、九鬼と滝川の裏切りとかあったのにそれもなんとか一度は切り抜けてるし腐っても信長の息子だったんだなとは思う
信雄も家康も減封無しで自分を高く売る点では絶妙のタイミングだったからそういう意味では二人ともある意味の勝利ではあるかな(長宗我部らの末路を見ながら)
この後を考えると
1. 長男を養子(人質)に出せ
2. 重臣の息子も人質に寄越せ
3. 故郷を捨てて関東に引っ越せ
4. 家康は伏見に参勤しろ
5. 豊臣の天下普請に出費しろ
6. 唐入りするから名護屋に詰めろ
よく家康は乗り切ったなと思う
@@rekishiaoi341
これ、まんま江戸時代の制度やん。
@@hiron114 自分がやらされて余程嫌だったんだろなw
能く能く敵味方から学ぶ人だなと。
@@hiron114
武家諸法度はほぼ秀吉が出した命令のパクリだったりしますwww
家康・信雄<負ける気せーへん地元やし。 秀吉&秀吉配下<いや、わしらも出身地なんだけどなあ。
秀吉方は同輩だった池田恒興などの信長遺臣が数多く居るから、秀吉も強く上として指揮出来る立場じゃなかったのかもね🤔
中入りの別働隊と同時に本隊も出発して小牧山に釘付け出来ていれば・・・
同輩の恒興などを自分の手を汚さずに排除・・・なんて邪推ですかね❔😅
池田はともかく森は戦死の情報が入り「天下を取る吉兆」と秀吉は喜んだとか
織田信雄が戦犯っぽいんだけれど、家康が秀吉と事を構えるためには家康が信雄を神輿に据える必要があって成立したわけで図としては秀吉VS信雄になっちゃったんだよなぁ。信雄にもっとカリスマや外交の才能があれば違った絵が描けたかもしれないけれど、そうはならなかった。秀吉VS家康にならなかった時点でもう決着は見えていたのかもしれませんね。
外交の才能自体は凄いあると思うよ 家康と秀吉の和睦を取りなした(家康の要求通り人質は秀康だけに留まった+家康の減封は無し)のも信雄だし
そもそも信雄は「北畠に一度相続した出戻り」という「武田勝頼みたいな立場」なのでカリスマとか要求するのも無茶ぶりなので…
@@フォード-i1w
家康の上洛にも信雄が大きく噛んでいたしね。
信雄が仲介してなかったら天正地震の後でも徳川征伐が行われていたかもしれない
@@rekishiaoi341 まぁ秀吉側もこれ以上ぐだったら徳川と同盟してた北条軍まで参戦してぐっだぐだになる可能性嫌がったのもあるだろうね→沼尻の戦いで北条勝利で宇都宮は青色吐息、佐竹は真壁等から反感買う、常陸国衆内の内紛収拾で動けなくなる 思った通りの勝利じゃないからか太閤能では小牧長久手の戦いは演目から除外されてる(三木の干殺しから小田原征伐まで完勝!神の如き寛大さで敵将〇〇を許してやった!という喧伝内容が多い)
ぶっちゃけ内通者が居たんじゃない?と思うのは、気のせいかな……
ここだけ切り取って見ると当時だと徳川家の方が美談みたいなものを作りやすそうな状況ではある
戦の正当性もあり圧倒的な大勢力相手にひるまず戦い一部では大戦果も上げて一生懸命織田家のために戦ったのに最後は秀吉が寝技を使い信雄の勝手な単独講和で見捨てられてしまったという状況だし
秀吉と家康の兵力差をあまり知らなかったから、てっきり互角なのかと思ってました。秀吉視点から見ると、「負けるかもしれない」という確かに怖い戦役ですが、家康視点から見るとこれだけやってなお「勝てるかもしれない」という半ば絶望的な戦いだなと思いました。上杉、北条がここに呼応していたのを見ますと、織田信雄が講和に踏み切らず戦役が長期化していた場合、更に派閥が拡大して、応仁の乱や関ヶ原の戦いのような全国規模の戦争になっていたのでしょうね。
@@新党司馬遷 朝倉を脱落したとみるのはちょっと違う気もするけどね
秀吉が逆臣ってのがよくわからない。
当主の三法師を抱えてるのは秀吉なんだから逆臣なのはむしろ家康では?
あと長期戦になったら領土も兵力も上の秀吉が有利だと思う
清洲方面は守れても史実通り伊勢方面をじわじわ落とされるのは目に見えてる
石川数正の裏切りと天正大地震も見たかったけどここまでか…。まあこの時点で大局は確定して早かれ遅かれ秀吉が天下人になっただろうしな。
秀吉、家康の動きに気づいてなかったんじゃなくて、池田と森を排除させるためにわざと見逃したんじゃないかという可能性も?
それもちらっとは思ったけど
作戦最初から排除狙うなら大将秀次に疑問が出るんだよなぁ…
堀を森池田と秀次の間に挟んだから「上手いことやってくれるやろ」なんて考えは危険過ぎるし…
第二時小牧・長久手の戦いがみたい!史実で地震で潰えた秀吉の2回目の総攻撃を、徳川軍団は、撃退できるだろうか?
後知恵だけど、家康相手に欲をかいてどうせバレる奇襲なんて企図せずに、むしろ別動隊は「中入りするぞーしちゃうぞー」って大々的に宣言して警戒しながらゆっくり行軍して、同時に秀吉本軍が小牧山を力攻めしたほうがよかったのでは。
考察って 本当にすごいですね!先生、勉強になります&自分は結果だけ知っていて分かった気分になり池田つねおきバカだなぁしか思えなかった、、、
先生、ありがとう🎉
歴史は勝者が作る。
これ、池田・森っていう子飼いじゃない武将をあえてお掃除した神君秀吉って可能性は微レ存?( ゚Д゚)