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この間に貨物も走ってたんですよね今は高松駅に旅客専用だけど
今は新幹線瀬戸大橋があり大変便利になりました。ただこの前松山に行きましたけど駅前には何もないですね。昔の方が混雑していたですか?松山から宇和島の宇和海もたった2両だし特急列車とは言えませんね?
ご視聴とコメントありがとうございます。昔の感覚からすると、短い編成の特急列車というのは違和感がありますね。現在は鉄道で移動する人が減ってしまったことを痛感します。
言うまでもないが、当時の四国エリアは電化区間の「で」の字もないTHEディーゼル王国だった。
四国の鉄道の玄関口として現在もその役割は果たしている8年後(1972年3月)、新幹線岡山延伸を機に特急「しおかぜ」「南風」がデビューした更にその16年後(1988年3月)、瀬戸大橋開業で寝台特急「瀬戸」が高松に延伸して、四国特急は本州に繋がった
ご視聴とコメントありがとうございます。宇野線は残念ながら寂しい状態になってしまいましたが、高松駅は今でもにぎやかな状態ですね。1951年に宇野線直通急行に「せと」と命名されてから、現在の「サンライズ瀬戸」に至るまで大変歴史の長い列車であることを実感しますね。
1964年(昭和39年)東京オリンピックイヤー
@SC RSご視聴とコメントありがとうございます。新幹線開業、オリンピック開催と、1964年は日本にとって大きなイベントの多い1年でしたね。
1972年くらいのバージョンも見てみたい…
@こばやしえいしご視聴とコメントありがとうございます。1972年の時刻表は残念ながら手元にはありませんが、68年や76年の時刻表は手元にありますので、今後取り上げさせていただきます。リクエストありがとうございました。
@@tomoyankun 特急が運行開始したのが確か1972だったので1972としただけで、特急が本格的に増える前つまり急行たくさんの時代の時刻表がみたい感じです💦楽しみにしております😊
@こばやしえいしありがとうございます。承知致しました。すぐに動画にすることは難しいかもしれませんが、急行たくさんの時代を取り上げさせていただきますね。急行が活躍していた時代も面白いですね。
急行道後号が松山まで3時間を切っていたのが驚き。今ですら特急の大半は2時間半ですから。当時は夜行もバリエーションがあって山陽側夜行と四国側夜行の二つのパターンが用意されていましたね。船との競合もあるなかかなりのやり繰りだったことと思います。関係する方々の苦労が偲ばれます。
@TSUYO Sいつもご視聴とコメントありがとうございます。気動車が優先的に配置されたこともあり、車両性能的には現在と大きく見劣りするところはなかったのかもしれませんね。驚きです。東京から各地方への移動を考えてくれていたダイヤでしたね。当時の東京駅の行き先表示はずっと見ていられそうです。
今より本数多くない?極端に過密なダイヤもある
@琥珀桜ご視聴とコメントありがとうございます。実は単純な本数比較でいくと、現在の方が本数は多いです。ただ、私もそうだったのですが、1964年の方が、間隔がつまっているところもあり、感覚的には多く感じますね。宇高連絡船との連絡も考慮されており、利用者目線で組まれていたダイヤなのかなと思います。
7:40間違いがある岡山発でなく大阪発
ご視聴とコメントありがとうございます。ご指摘の通り、説明文中の「岡山発」が誤りですね。「大阪発」が正解です。概要欄に誤りの内容を記載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
@@tomoyankun ちゃん人柄よきよき❣️あたいもいつも、楽しませていただいています。感謝🥲🥲
嬉しいお言葉ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。
新幹線が無くとも、東京から宇和島まで、日付けをまたがすに到着できたのが驚きましたな。(・ε・` )
@クモハ165ご視聴とコメントありがとうございます。もし今、鉄道だけで同じことをするとどうなるのか調べてみました。東京 6時00分発ー(のぞみ1号)ー岡山 9時9分着岡山 9時25分発ー(しおかぜ5号)ー松山 12時10分着松山 12時24分発ー(宇和海13号)ー宇和島 13時50分着なんと日帰りで往復までできてしまいます。しかし、新幹線や瀬戸大橋の無い時代に当日中に宇和島に着くのはすごいですね。
連絡船と列車の乗り継ぎが10分と言うのがタイトですね。いずれかが遅れたら待っていたこと、急行優先で普通列車に皺寄せが来ていたとは思うのですが。
@TSUYO Sコメントありがとうございます。私も大変タイトな乗り継ぎだなと思いました。ダイヤが乱れた際に、どのように対応していたのかが気になり、色々と調べてみたのですが、残念ながら実際の状況についてはみつかりませんでした。気になりますね。
東北の多層建て急行【たざわ】とか、よく毎日無事に運転できたもんだと思いますよ。当時の記事だと相手が遅れたら、とりあえず待つのみとか書かれていますな。
6;54に阿波池田と伊予三島行き 多度津で分割だろうが 7:10に琴平行きが出てるのよね土讃線内で間隔が異様に詰まってしまうと思うのよこのころの国鉄には謎ダイヤが多い
@ななしうたひとご視聴とコメントありがとうございます。おっしゃる通りです。多度津で分割しています。多度津をそれぞれ、阿波池田行きは7時52分、琴平行きは8時9分に出発していきます。1時間以上間隔ができる時もありますし、ランダムなダイヤが好きですよね。
@@tomoyankun さん当時は、普通列車でも客車と気動車があって、客車の場合通過する駅(香西・八十場・讃岐府中・讃岐塩屋・比地大・高瀬大坊(現:みの)→土讃線だと金蔵寺等)がありましたからね。
@原田寛コメントありがとうございます。確認致しますと、香西・讃岐府中・八十場・讃岐塩屋の駅にいたっては、気動車でも通過する列車がほとんどですね。片手で数えられそうな位、停車列車が少なくて、利用者は大変ですね。
@@tomoyankun さん私は、地元なので分かりますが、特に八十場は嘗ての名鉄西枇杷島並みのドアカット駅ですし、讃岐府中は何でこんな所に駅を作ったんや!とツッコミを入れたくなるような場所にありますからね。
@原田寛八十場駅、かつては1両分のホーム長しかなかったのですね。客車はもちろん、気動車も通過になっているのに納得しました。また、讃岐府中駅も地図で見てみると、川を渡った曲線上にありますね。
結構充実してますね
@アペンタロルなご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りですね。本数は少ないですが、ほとんどがディーゼル化されていますし、意外と充実しているなと、時刻表を読んでいた時に思いました。
香川県の観音寺市に親の実家があり良く子供の頃に宇高連絡船経由で高松からの列車に乗ってました。キハ58系の急行宇和島、伊予を利用した思い出が蘇りますね。DF50牽引の旧型客車使用の普通列車でのんびり急行や特急に抜かされながら乗ったのも楽しかった。。
@アンリご視聴とコメントありがとうございます。すてきな経験をお持ちですね。高松ー観音寺であれば約1時間で着くので、短か過ぎずで列車旅を楽しめますね。ただ、宇野駅、高松駅での乗り換えはそこまで余裕がなさそうですね。キハ58系は国鉄時代の旅行の思い出を支えた名車のひとつですね。私も思い出の情景の中にはキハ58系がいました。
土佐佐賀駅って、当時は中村線の終点なんですね。朝の5時から宇和島とか土佐佐賀行を設定しているのは、宇野線、宇高連絡船を介して、本州から四国へ渡る旅客が多かっただろうなと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。1970年に中村駅まで延伸されるまでは、土佐佐賀駅が終点でした。時刻表を色々と呼んで調べてみると、東京駅からの接続を考慮していたのかもしれませんね。東京15時30分発→(第2富士)→京都21時28分着京都21時35分発→(普 通)→宇野3時20分着宇野3時20分発→(宇高連絡船)→高松4時30分着高松5時10分発(うわじま1号) 5時21分発(足摺1号)
@@tomoyankun さんへ。特急と夜行運行の普通の組合せが凄いですね。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 京都から宇野への普通列車は、大阪で印刷した全国紙(朝・毎・読・日経・産経・スポーツ紙等)を輸送する為の荷物車が連結されていたと思いますね。
@@原田寛-e3u 様へ。新聞紙輸送ですか、それは気付きませんでした。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 さん私は四国出身ですが、朝刊の前日のプロ野球ナイトゲームの結果が、途中経過しか載って居ないのは当たり前でしたからね。
普通電車で 高松~松山を5時間切る電車もあるんですね 今と変わらないですね
@m yご視聴とコメントありがとうございます。今と昔、時刻表を並べて見ていると、色々な発見があって面白いですよね。
この間に
貨物も走ってたんですよね
今は
高松駅に旅客専用だけど
今は新幹線瀬戸大橋があり大変便利になりました。ただこの前松山に行きましたけど駅前には何もないですね。昔の方が混雑していたですか?松山から宇和島の宇和海もたった2両だし特急列車とは言えませんね?
ご視聴とコメントありがとうございます。
昔の感覚からすると、短い編成の特急列車というのは違和感がありますね。現在は鉄道で移動する人が減ってしまったことを痛感します。
言うまでもないが、当時の四国エリアは電化区間の「で」の字もないTHEディーゼル王国だった。
四国の鉄道の玄関口として現在もその役割は果たしている
8年後(1972年3月)、新幹線岡山延伸を機に特急「しおかぜ」「南風」がデビューした
更にその16年後(1988年3月)、瀬戸大橋開業で寝台特急「瀬戸」が高松に延伸して、四国特急は本州に繋がった
ご視聴とコメントありがとうございます。
宇野線は残念ながら寂しい状態になってしまいましたが、高松駅は今でもにぎやかな状態ですね。1951年に宇野線直通急行に「せと」と命名されてから、現在の「サンライズ瀬戸」に至るまで大変歴史の長い列車であることを実感しますね。
1964年(昭和39年)東京オリンピックイヤー
@SC RS
ご視聴とコメントありがとうございます。
新幹線開業、オリンピック開催と、1964年は日本にとって大きなイベントの多い1年でしたね。
1972年くらいのバージョンも見てみたい…
@こばやしえいし
ご視聴とコメントありがとうございます。
1972年の時刻表は残念ながら手元にはありませんが、68年や76年の時刻表は手元にありますので、今後取り上げさせていただきます。リクエストありがとうございました。
@@tomoyankun
特急が運行開始したのが確か1972だったので1972としただけで、
特急が本格的に増える前つまり急行たくさんの時代の時刻表がみたい感じです💦
楽しみにしております😊
@こばやしえいし
ありがとうございます。
承知致しました。すぐに動画にすることは難しいかもしれませんが、急行たくさんの時代を取り上げさせていただきますね。急行が活躍していた時代も面白いですね。
急行道後号が松山まで3時間を切っていたのが驚き。今ですら特急の大半は2時間半ですから。
当時は夜行もバリエーションがあって山陽側夜行と四国側夜行の二つのパターンが用意されていましたね。船との競合もあるなかかなりのやり繰りだったことと思います。関係する方々の苦労が偲ばれます。
@TSUYO S
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
気動車が優先的に配置されたこともあり、車両性能的には現在と大きく見劣りするところはなかったのかもしれませんね。驚きです。
東京から各地方への移動を考えてくれていたダイヤでしたね。当時の東京駅の行き先表示はずっと見ていられそうです。
今より本数多くない?極端に過密なダイヤもある
@琥珀桜
ご視聴とコメントありがとうございます。
実は単純な本数比較でいくと、現在の方が本数は多いです。
ただ、私もそうだったのですが、1964年の方が、間隔がつまっているところもあり、感覚的には多く感じますね。宇高連絡船との連絡も考慮されており、利用者目線で組まれていたダイヤなのかなと思います。
7:40
間違いがある
岡山発でなく大阪発
ご視聴とコメントありがとうございます。
ご指摘の通り、説明文中の「岡山発」が誤りですね。
「大阪発」が正解です。
概要欄に誤りの内容を記載させていただきます。
ご指摘ありがとうございました。
@@tomoyankun ちゃん
人柄よきよき❣️
あたいもいつも、楽しませていただいています。
感謝🥲🥲
嬉しいお言葉ありがとうございます。
これからもよろしくお願い致します。
新幹線が無くとも、東京から宇和島まで、日付けをまたがすに到着できたのが驚きましたな。(・ε・` )
@クモハ165
ご視聴とコメントありがとうございます。
もし今、鉄道だけで同じことをするとどうなるのか調べてみました。
東京 6時00分発ー(のぞみ1号)ー岡山 9時9分着
岡山 9時25分発ー(しおかぜ5号)ー松山 12時10分着
松山 12時24分発ー(宇和海13号)ー宇和島 13時50分着
なんと日帰りで往復までできてしまいます。
しかし、新幹線や瀬戸大橋の無い時代に当日中に宇和島に着くのはすごいですね。
連絡船と列車の乗り継ぎが10分と言うのがタイトですね。いずれかが遅れたら待っていたこと、急行優先で普通列車に皺寄せが来ていたとは思うのですが。
@TSUYO S
コメントありがとうございます。
私も大変タイトな乗り継ぎだなと思いました。ダイヤが乱れた際に、どのように対応していたのかが気になり、色々と調べてみたのですが、残念ながら実際の状況についてはみつかりませんでした。気になりますね。
東北の多層建て急行【たざわ】とか、よく毎日無事に運転できたもんだと思いますよ。当時の記事だと相手が遅れたら、とりあえず待つのみとか書かれていますな。
6;54に阿波池田と伊予三島行き 多度津で分割だろうが 7:10に琴平行きが出てるのよね
土讃線内で間隔が異様に詰まってしまうと思うのよ
このころの国鉄には謎ダイヤが多い
@ななしうたひと
ご視聴とコメントありがとうございます。
おっしゃる通りです。多度津で分割しています。
多度津をそれぞれ、阿波池田行きは7時52分、琴平行きは8時9分に出発していきます。1時間以上間隔ができる時もありますし、ランダムなダイヤが好きですよね。
@@tomoyankun さん
当時は、普通列車でも客車と気動車があって、客車の場合通過する駅(香西・八十場・讃岐府中・讃岐塩屋・比地大・高瀬大坊(現:みの)→土讃線だと金蔵寺等)がありましたからね。
@原田寛
コメントありがとうございます。
確認致しますと、香西・讃岐府中・八十場・讃岐塩屋の駅にいたっては、気動車でも通過する列車がほとんどですね。片手で数えられそうな位、停車列車が少なくて、利用者は大変ですね。
@@tomoyankun さん
私は、地元なので分かりますが、特に八十場は嘗ての名鉄西枇杷島並みのドアカット駅ですし、讃岐府中は何でこんな所に駅を作ったんや!とツッコミを入れたくなるような場所にありますからね。
@原田寛
八十場駅、かつては1両分のホーム長しかなかったのですね。客車はもちろん、気動車も通過になっているのに納得しました。また、讃岐府中駅も地図で見てみると、川を渡った曲線上にありますね。
結構充実してますね
@アペンタロルな
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りですね。本数は少ないですが、ほとんどがディーゼル化されていますし、意外と充実しているなと、時刻表を読んでいた時に思いました。
香川県の観音寺市に親の実家があり
良く子供の頃に宇高連絡船経由で高松からの列車に乗ってました。
キハ58系の急行宇和島、伊予を利用した思い出が蘇りますね。
DF50牽引の旧型客車使用の普通列車で
のんびり急行や特急に抜かされながら
乗ったのも楽しかった。。
@アンリ
ご視聴とコメントありがとうございます。
すてきな経験をお持ちですね。
高松ー観音寺であれば約1時間で着くので、短か過ぎずで列車旅を楽しめますね。ただ、宇野駅、高松駅での乗り換えはそこまで余裕がなさそうですね。
キハ58系は国鉄時代の旅行の思い出を支えた名車のひとつですね。私も思い出の情景の中にはキハ58系がいました。
土佐佐賀駅って、当時は中村線の終点なんですね。
朝の5時から宇和島とか土佐佐賀行を設定しているのは、宇野線、宇高連絡船を介して、本州から四国へ渡る旅客が多かっただろうなと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
1970年に中村駅まで延伸されるまでは、土佐佐賀駅が終点でした。
時刻表を色々と呼んで調べてみると、東京駅からの接続を考慮していたのかもしれませんね。
東京15時30分発→(第2富士)→京都21時28分着
京都21時35分発→(普 通)→宇野3時20分着
宇野3時20分発→(宇高連絡船)→高松4時30分着
高松5時10分発(うわじま1号) 5時21分発(足摺1号)
@@tomoyankun さんへ。特急と夜行運行の普通の組合せが凄いですね。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 京都から宇野への普通列車は、大阪で印刷した全国紙(朝・毎・読・日経・産経・スポーツ紙等)を輸送する為の荷物車が連結されていたと思いますね。
@@原田寛-e3u 様へ。新聞紙輸送ですか、それは気付きませんでした。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 さん
私は四国出身ですが、朝刊の前日のプロ野球ナイトゲームの結果が、途中経過しか載って居ないのは当たり前でしたからね。
普通電車で 高松~松山を5時間切る電車もあるんですね 今と変わらないですね
@m y
ご視聴とコメントありがとうございます。
今と昔、時刻表を並べて見ていると、色々な発見があって面白いですよね。