Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
特急や急行の合間にたまに普通が走るこのダイヤで、宇都宮から東京まで鈍行で通勤していたうちの父親は凄すぎる
今でこそ新幹線で通勤する術はあるもののこの時代に在来線の数少ない普通電車で毎日通われていたのは凄いですね。お疲れ様です。
この当時の普通列車の大半は大宮発着じゃなかったっけ?大宮から京浜東北線に乗り換えで
10:08 特急や急行に紛れて、しれっと入っている「普通・一ノ関」の存在感が凄いです。
内容もすばらしいですし、音楽の選曲も最高です。当時は、早朝から分単位で優等列車が発着していたのがよくわかります。特急がまだ少数派なのに対し、急行の全盛期ですね。
この当時の上野駅、いつ行っても優等列車がいてテンション上がりました。特に夜の地平ホームの雰囲気が大好きでした。
今はもう遠い夢のようになってしまった時刻表。懐かしの特急や急行の名前は胸にジーンと響き渡り涙が出てきます。これだけの素晴らしい列車名を考えてくださった国鉄の方々に感謝いたします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、大変嬉しいお言葉ありがとうございます。当時の列車名は旅情をかき立てるだけではなく、さまざまな思い出の風景を思い出させてくれる、素晴らしい名前ですね。
動画制作・投稿おつかれさまです。ご挨拶が遅くなりましたが、私も過去の時刻表や列車の運行体系の変遷を題材に動画投稿をしている者です。いつも動画を拝見し、題材・編集・BGMに加えて視聴者のコメント・反応なども参考にさせていただいています。さて、1970年代の上野駅の帰省ダイヤですが、私も大変興味があり、以前に1972年8月の発車列車を投稿したことがありました。特に上野駅の混雑回避の為、奥羽・磐越西線系統の列車を品川始発にしていた・・・というのは驚きであると共に、当時の国鉄がいかに混雑に悩まされていたかを物語っているように感じますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。チャンネルの動画を拝見いたしました。様々な時代の動画で変化を楽しめ、そして国鉄とLED表示の融合が大変印象的な動画ですね。時刻表を読むたびに、当時の国鉄関係者が頭を抱えながら様々な工夫をした形跡を発見でき、楽しいですね。
待ってました!!と言う感じです。今回も綿密な調査ありがとうございました。2〜3分おきに出る特急/急行は圧巻ですネ。ずーっと見ておきたい気分です。また、次回も楽しみにしています。よろしくお願いします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、嬉しいお言葉ありがとうございます。これに常磐線の優等列車もあったことを考えると、相当な人たちが移動していたことが伝わってきますね。
親父の実家が屋代で、子供の頃うっすら記憶で上野から湯田中行きってのに乗ったことがあります。(もしかしたらおふくろの実家の上田かも)いまじゃ長電の駅自体が無いんだから寂しいです。
17時53分発の小山行きは最初は「?」でした。(時間がかかりすぎる、小金井行きではない)高崎線、両毛線経由だったのですね。
情報の洪水、一度では観切れない動画(すごい!)。
幼少の頃、亡き父の郷里の仙台へ行きは”ひばり”で帰りは”ひたち”に乗りました今考えてみると贅沢な鉄道旅をさせてもらったなぁと思います
新幹線開通の目的は、本来地元の足の基本である普通列車のために在来線を空けることにあったのではないかと思うくらいの優等列車ラッシュですね。
実際高崎線がパンク状態で上尾事件とか起きましたしね
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りで、これに貨物列車が走るとなると、普通列車のスジを確保するのは至難の業であっただろうなと思います。
通過待ちがあるから、所要時間はかかるわ、列車の本数が増やせないわで、昔は、大変だったんですね。
懐かしい列車ばかりですね!特に夕方の福島行き125列車は何回も乗りました。当時はEF58,57が基本でしたが、電車化&黒磯打ち切りの前日の最終列車は、運用の都合かEF65PFが先頭に立ったのを今でも覚えています。更に約45年前、卒業旅行で信州を回った際に当時の長野運転所を見学させて頂き、189系の幕回しをして頂きましたが、あさま銀嶺の他にあずさ銀嶺も入っていたのを覚えています!
動画お疲れ様です。こうして見ると上野ほ本当に東北・上信越・常磐という各地への玄関口だったんだなと実感します。今や新幹線も東京・大宮中心、上野東京ライン開通で常磐線も品川発着。時代の移り変わりを痛感します。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在の上野駅は、在来線、新幹線ともに玄関口としての印象が薄れつつありますね。
錦糸堀で生まれ育ったアラ還オヤジです。小学生時代に日曜朝に錦糸町で10円の硬券入場券を買い、朝から1日上野駅で写真撮っていました。東北特急黄金時代で食堂車付きの12連の特急がバンバン出ていました。20番線脇の立ち食いそば屋が昼食のルーティン。食べ終わると上りのみちのく583系が長駆青森から上ってきます。本当に良い時代でした。体験できたのは貴重な財産です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在は新幹線の車内販売も縮小傾向にありますから、本当に貴重な経験ですね。当時の空気感が伝わってくるコメントありがとうございました。
早朝から深夜までひっきりなしに列車が発車しているのがわかりますね、特に特急・急行の本数のスゴさと言ったら……😅季節がらスキー列車が運行されていたのが時代を感じさせます😃品川駅発車の列車があったことには驚かされ、時刻が括弧で囲んでいるのがそうだとわかります😃
やはりワスレナグサ。このチャンネルのロマンにはこれです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。そう思っていただけて大変幸いです。何度聴いても飽きない名曲だなと思います。
そういえばこの動画の前年の1973年、新幹線工事のため特急「やまびこ」「ひばり」「つばさ」の東京駅乗り入れを中止したため、上野駅が完全に北の玄関口になりましたね。今は再び通過駅に戻ったような感じですね...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時は仙台駅も深夜帯は通過措置がとられていましたね。現在の上野駅は仰る通りで、通過駅になってしまいましたね。
東北、北関東、上信越行きの特急急行が目白押しこの当時の上野駅はものすごい賑わいを誇った東のドル箱ターミナル昼夜問わずフル回転の稼働を誇った
いつもご視聴とコメントありがとうございます。ラッシュ時間帯には、優等列車の数が減って、その分普通列車が増えるというように、運転本数自体は終日あまり変化がなかったようですね。本当に昼夜フル回転の稼働であったことがわかります。
生まれる4年数か月前の東北本線ですね…タイムマシンがあればぜひ行きたい。やまびこ・とき・つばさ・あさまは今も新幹線に名を残す。また、人生最初に買った図鑑にはここに名前の出た特急・急行が多々載ってました。本当にいい動画をありがとうございました。
いつもありがとうございます。これ、岩手・青森県方面の夜行は線路が空いているという理由から主として常磐線経由でしたから、それらを加えるとカオスになりますね。昼間も急行・特急がそこそこ走ってましたし…夜行の座席臨時特急で時刻表に「この列車の特急料金は100円引きです」とか記載があると、「あー、座席14系じゃなく12系か」と思ったもんです。
夜行だと今の人にはわからないかもしれないか14系よりも12系のほうが夜行には向いている。14系は簡易リクライニングシートなので背中に力を入れていないとにバタンバタンと音がして夜中だと眠れものではない。またシートピッチも狭く座席下には暖房用カバーがあり、足も伸ばせず窮屈だった。12系はボックスシートとはいえ従来よりもシートピッチが広くかえって楽だった。ただし夜行に限る。
このようなまとめを探してました…!ありがとうございます。ちょっと変な観点ですが…現代の帰省ラッシュの新幹線は最低10両731席(E5系)が4分間隔で来ます。485系13両編成で796席です。しかし、この動画を見る限り、着席機会は現代のほうが上のようです。現代に帰省で座って行けることに感謝したいです。
動画が10分経過してもまだ実際の発着は11時台・・・。もう時刻表のスジなんて真っ黒で何が何だか訳分からない、職人さんの芸術品だったかも知れないですね。ホームで駅員の発車案内のアナウンス聞いているだけで自分がどの列車に乗ってどこに行こうとしているのか分からなくなっちゃいそうです。これだけ詰め込みのダイヤだと、ほんのちょっとの事故とか、乗降の遅れとかでダイヤがめちゃめちゃに狂っちゃうんでしょうね。
運良く自由席に乗れても立ちっぱなし…。懐かしいね。私は、父と一緒に自由席の通路に新聞紙を敷いて、座りながら上野駅で買った冷凍みかんをよく食べて上越を目指してました。この時刻表が、子供の時の記憶を蘇らせてくれます。35年ぶりに…。
夜行列車ともなれば寝台やグリーン車や指定席は即ソールドアウト、自由席ですら事前に着席券を買わなければ延々と通路に座るしかありませんでしたね。各新幹線の有り難みが分かります。
それもまた、親父とのいい思い出だ。って感じです。いかに北の人が苦労して、出稼ぎに来ていたかがよくわかります。
「ゆうづるとみちのくと十和田が抜けてる」と一瞬思いましたが、いずれも常磐線周りだから掲載していないのですね。頻回運転されていた「ひたち」「ときわ」が未掲載なのも同様の理由ですね。そうすると、上野駅は今回の動画以上にもっと混雑していたということですか。。。
この当時の特急ひたちは6往復だけです。まだまだ急行ときわが主流だった。
上野~大宮間は東北本線で、大宮から東北側と上信越側に分岐するのでこの時刻表には上越線と信越本線の優等列車も掲載されているんですね。それにしても特急もさることながら急行列車の多いこと。新幹線なんてない時代、国鉄が必死にダイヤと列車編成をやりくりしていたのだと思うと、その努力に敬服する次第です。
これらの列車だけでなく折り返しのために客車を尾久や東大宮の車庫との間で移動させる回送運用もありましたね。電気機関車による低速での推進運転もあって更なる過密ダイヤになっておりました。
このためいわゆる中距離電車は大宮始発終着で運転されていた電車もありました(大宮上野間は京浜東北線に乗れという)
この中にはは115系で運転されていたなすのなどもあり損をした感じです。その他にもときわの401系もありました。首都圏ならではで関西地区では国鉄に抗議殺到です。
ウチの身内の生まれた年の84年前の時刻表ですね。身内もお陰様で今年の正月を無事に迎えられました。短距離列車は後の首都圏近郊区間の快速電車(常磐線経由成田行等)や中距離電車(東北本線、高崎線、常磐線等)のルーツに当たる列車も確認できますね。
すごい。終日、山手線のような頻度で特急と急行を中心に発車している…。
これだけでなく客車列車は尾久や東大宮の車庫への回送列車も。さほどスピードの出せない推進運転だったのでダイヤ設定は苦労したものと思います。
旅立ちの日に、もいい曲ですね
1974年12月、私は子どもでしたが鉄道マニアでした。上野駅&新宿駅、帰省客&スキー客の臨時列車がめっちゃ多かったですね。仙台在住の私はもちろん乗れず、どのような車両を使っているのだろう?と時刻表を見ながら想像して楽しんでいたような記憶があります。
時刻表見るだけでワクワクするなぁ…一回でいいからこの時代にタイムスリップして全部乗ってみたい
17時台だけ普通列車だらけなのは通常時の帰宅ラッシュ対策という事か
この時期、早朝に普通列車で遠くまで行くのありましたよね。高校のとき、普通の郡山行きに乗ってたのですが、友達が車内に忘れ物をして郡山まで持っていかれたらしいです。当時、車両はSLが引っ張るような乗降口がふたつで全部ボックスで乗客が中まで行かないから乗り降りが不便でした。ちなみに、友達は忘れ物取りに行くの諦めたそうです。
当時の撮り鉄的にはメシウマなダイヤだったものの、過密さが名鉄名古屋や銀座線と同等なので少しでも遅れたら大変なダイヤだったことでしょうね。19:08発の普通が1分後に急行が発車するので尾久でモタモタしてたら遅延確定という鬼ダイヤなのはビックリです。新幹線、飛行機、マイカーさらには高速バスが主流でなかった当時、国鉄の労力があってこその遠距離列車の運転ができたことでしょうが、指定席を取るのも一苦労だったことを考えると良い面と悪い面が出てきてしまっていますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。19:08発の普通は大宮駅発が19:35に対して、19:09発の急行は大宮駅まで通過し、大宮駅発が19:37でした。先発の普通の運転士はかなりのプレッシャーだったでしょうね。当時の新聞記事や映像を見ていると、大変な苦労があって、ロマンだけではないことがわかりますね。
日中の普通列車が少ないですが、増やそうにも増やせない状況だったんですね……。
この本数に常磐線経由の定期、臨時が加わる…よく列車を捌いていたものです正に北へ向かう玄関口上野ですね。
この時期は東北、上越、信越方面への急行スキー号が多数走っていました。
これをみると、西の東海道本線に対し、東の東北本線超過密ダイヤですね。しかも、上野大宮複線で裁いていたからあまりにも素晴らしい。一旦遅延が出ると大幅にダイヤが乱れそうですね。きっと走らせる列車などを考えていた方大変だったと思います。現在は🚄にとってかわられてはいるが、東北、上越、長野🚄も大宮東京間は東海道🚄以上の過密ダイヤです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在のように通信技術を含め、テクノロジーが発達していない中、どのように遅延に対処していたのか、大変興味があります。時刻表作成者、そして運行に携わっていた方々の苦労を想像すると、頭が上がりませんね。
ひばりは毎時0分発、ときは毎時38分発、記憶に残っています。後にこれらの列車のように運転頻度の高い特急にエル特急という愛称がつきました。電車に客車に気動車と多種多様の列車が頻繁に走り、スジ屋さんは苦労されたと思います。それらを正確に運行していた国鉄職員のみなさんに今更ながら頭が下がります。
リクエストにお答えいただき有り難うございます。12月号時刻表ではなく、12/29限定の発車時刻表ですか、盲点でした。欲を言えば、「わたらせ」の高崎行、「あかぎ」の小山行、「いいで」新潟行、普通「879M」、北陸方面など経由を行き先の下にでも入れて貰えるとうれしかったです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。大変お待たせいたしました。仰る通りですね。経路に特徴のある列車に関しては、経由があるとより楽しめるなと思います。今後の動画では経由も併記しようと思います。アドバイスありがとうございます。
当時、僕は予備校生、上野駅から発車する列車を見ることが癒しでした。晴れて大学生時代、仙台から夜行で帰省するとき、年末の上野駅は朝から乗客でごった返しでした。
L特急ひばりの別格の扱いが際立ちますね
ひばり9号の4分後にひばり52号...9号に乗り切れなかった客を詰んだのかなBGMも相まってか何故か感動した。感動要素なんてないのに。上越線、信越線経由羽越線方面の一部列車も品川発着みたいで、品川から新潟に行けるってことで胸が熱くなった。
私の生まれた年の上野駅時刻表ですね。日光線直通の各駅停車・日光行がレギュラーで運行されているのを初めて知りました。何両編成だったのでしょうか?あと、ビュッフェ付きの急行も乗って見たかったなぁ…。
この頃にはビュッフェは全国的に全ての列車で営業休止されています。
言い忘れましたが、急行妙高や信州とアルプスの一部では昭和51年10月改正まで営業していました。
夜行急行の北星・北陸の特急格上げと、特急つばさの電車化を除けば、1978年10月1日までは大体このダイヤで推移しましたね。ところでとき12号は、18時38分発でなく18時08分発でしたか?
これだけの列車を3分間隔で早朝から深夜まで動かしていたのも凄いですね。上野駅が東日本全体への玄関口として機能していた時代でしたね。夜の急行に乗るために着席券を購入したりさらには朝からテント村や品川駅も含めてホームに並んだりと言うのが大移動に国鉄が多く利用されていたことの証ですね。昨今の帰省ラッシュとは比べ物にならないものと思います。ここまでの輸送を完遂した国鉄関係者の皆様に御礼申し上げます。まさかここから13年でJRに移行したと言うのが信じられません。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。玄関口として堂々とした時刻表ですね。徹夜で並んで、並んでいる最中に酒盛りをしたり、トランプで時間を潰したりと、現在では考えられない状況ですね。帰省がいかに大変だったかがわかる時刻表です。
@@tomoyankun時代が違うんでしょうね。この頃はどんなに混んでいても、盆正月には規制したのでしょうね。今もその傾向はなくはないですが、あえてお盆や正月に帰省しない方が楽だと思う今日この頃です。GWも同じで、本当は少し前後に休んでGWは通常運転したいところです。が、子供がいるとそうはいかないのですが。。。
23:20急行佐渡なつかしい朝から働きづめの母が三人の幼子をひいて上野に。当時ホームには時期ということもあり臨時の札が所狭しと吊るされ揺れていた 座席は満杯で通路に新聞ひいて揺られ辛いおもいも周りの方々に助けてもらいひいきされたのもよくおぼえてる スキー板を担いで下りていく人たちたばこを吸う人たち 朝方、終点新潟に。越後線も待っててくれた よき思い出です
新潟駅も建て替えられて、様子が大きく変わりましたな。(*´ω`*)
4:56 当時は初代上野東京ラインがあったので東京・品川から東海道新幹線に接続できたりしたんですね今の草津四万も東京発着増やせばいいのに
いつもご視聴とコメントありがとうございます。民営化、そしてコロナによる減便や直通運転の廃止の流れがありますが、需要がありそうな列車はこれからも運転していってほしいですね。
この当時はもう東京直通運転はできません。もともとこの区間は単線でした。東京直通運転は48年4月改正でなくなっていてそれまで共通運用だった特急ときと、あずさが別運用になり、あずさから食堂車が消えました。
今は、新幹線1択。それしか無い。よりどりみどりで特急や急行に乗れた時代を経験できた世代で良かったです。
2901Mは通勤電車115系の折返し運用でした。また特急はくたかは1969年10月ダイヤ改正で向日町運転所の485系で雷鳥と共通運用のいわゆる関西系で他の東北本線特急とは違っていたが、1978年10月ダイヤ改正で白山と共通運用の489系になり食堂車が外されている。またこの頃は急行のビュッフェは上野口では信州と妙高だけになりその他はビュッフェの設備はあっても営業休止ばかりでした。夜行の寝台特急も食堂車は全て営業休止になっている。
年末年始なので、帰省用の臨時列車の他、上越、信越線のスキー臨も目立ちますね。朝5時、6時台の列車に乗る人は寒い中上野駅で前夜から来て寝て待っていたのでしょうか、、、。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。指定席券を購入できなかった人たちは、前日から並んでいたという新聞記事を見ることができますから、寒い中待つ人もいたのでしょうね。休みなく働いて、久しぶりの休みに故郷へ帰ろうにも、それもまた一苦労。今よりも大変不便な状態だったのでしょうね。
スキー臨時列車で銀嶺号は全車指定席でスキー号は自由席がある列車ですね!
こういう在来線特急急行が頻発する時刻表は楽しいですね。この前の1972年の岡山駅みたいです。これで当時の国鉄が大赤字だったというのは、経営体質(公社だったこと)、変な新線をたくさん作りすぎていたことや労組が強すぎたこと等が原因だったのでしょうね。(モータリゼーションの発達(高速道路網の整備を含む)による影響はもっぱらこの後のことでしょうから。)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。元気で賑やかな時刻表で、何度見ても楽しいですね。仰る通りで非効率的な経営が原因だったのでしょうね。当時は営業係数1000円越えの赤字路線がたくさんありましたね。
まさか“水の声”をこんなお天道様が出ている時間帯、それも次々バカスカ特急列車を出しまくってる戦場のような時間帯の電車列車の時刻表で聞ける機会が来るとは……そういやこの頃の1Mも最速時代でしたよね
かなり性能限界まで飛ばして運転されてたっぽいですね。国鉄時代の583は
特急つばさの14系座席車は車両不足というよりも臨時特急だったためでその前は12系座席車で100円引きの特急料金が設定されていた。この他には特急しおじの52号から55号や夜行のゆうづる51号や日本海51号や金星51号などもあった。これらは金星51号を除き12系時代から運転されていた。特にしおじは山陽本線のカーブの影響と停車駅の少なさで電車特急と比べても遜色なかった。
わあい、私当時2才、仙台の人。幼稚園のとき見てた時刻表のとっきゅうだー❤
夜行急行がまだまだ旧型客車がメインの頃でしょうか。臨時列車が12系なら当たり!(*´・∀・)だったんでしょうね。仙台や新潟なら特急の普通車よりも急行のグリーン車でも良いかと。(*´ω`*)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。繁忙期は特急が全車指定席になっていましたし、上野ー仙台間が特急で約4時間、急行で約5時間ですから、値段差を考えると、急行を選んだ人も多かったでしょうね。さすがにすし詰めの列車に乗るのは遠慮したいですが、当時の様々な優等列車に乗ってみたいですね。
臨時急行では背ずりが板張りのオハ61すらありましたからね。同じ急行でも天と地の差でしたが、それでも座れればまだ良かった方。着席券を購入しなければ座席なしで立って目的地までと言うケースも多数ありました。東北自動車道の開通、さらには国鉄の大幅値上げで客足が遠退き、数年後には「冷房付きの臨時急行のご利用を!」と時刻表に出ていたほどでした。
この頃は関西地区発着には12系や、14系座席車が優先的に使用されていた印象がある。急行壇ノ浦や、音戸51号など他にもたくさんある。グリーン車がついていなければたいがいですね!
朝の宇都宮方面の普通が少ないと思ったら大宮始発が多かったのかな?
運が悪いと大宮とか赤羽辺りから乗ろうとしても、デッキまでギュウギュウでどうしても乗れないとかありそうですな。( ノД`)…カエレネエ!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。乗ろうと思った急行や普通がいっぱいで乗れないということもあったかもしれませんね。大変な時代ですね。
この頃、というか70年代一杯までは帰省等でも特急はやはり「高嶺の花」で、やはり急行利用に流れていたと思われます。国鉄民営化で運賃値上げが相次ぎ、また在来線急行が軒並み廃止され、ようやく特急利用が一般化しただけで。私は関西〜九州への帰省でしたが、それでも「急行の指定席が取れた」というだけで大喜びだった事を覚えています。新幹線の食堂車なんて「夢の国そのもの」でしたし。時代はすっかり変わりましたね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。特急と急行料金に2倍以上の価格差があれば、やはり急行利用に流れることが想像できますね。「指定席」をとることの困難さが大変よくわかるエピソードですね。当時は徹夜で並んでいたのが、現在はスマホで家にいながら確保できる。時代の変化を痛感します。
昭和49年に値上げされたが、まだまだ物価に比べれば安価だった。このあと毎年のように値上げされていき航空機の値段が相対的に安くなった。
この当時、ワッペン列車なるものもあった
最後の挿入歌はなんというタイトルですか??
常磐線編もお願いします
急行よねやまですが、1961年運転開始になっているがこのよねやまとは全く関係がなく後の急行とがくしであってこのよねやまはヨンナナサンダイヤ改正で急行鳥海1号に併結されていて季節列車の柏崎行きがルーツです。何度も言いますが愛称だけを考えるとそうですが、実際はルーツが全く異なることがあるので愛称だけでは考えないほうがいいかと思います。
東北本線、高崎線が優等街道であったことを改めて認識しました(そりゃ、大宮ー東京間の線路容量が逼迫するワケだ。。。)。それと引き換えに普通列車の数がメチャメチャ少ない!まさに「都市間の大量輸送」という国鉄のミッションに沿った運営だったのですね。客レの普通列車も懐かしいです。確か、この頃はまだ旧型客車だったはず。子供の頃、上野駅で16時代の福島行を見て「乗りたいなぁ」と思ったことを思い出しました。
優等列車や貨物が頻繁に走り、普通列車は沿線に住宅が多数出来ても本数が少なかったからこそ上尾大暴動があったのでしょう。新幹線が出来て余裕が生まれ、宇都宮線や高崎線の普通が増え、湘南新宿ラインができて在来線も本当に快適になりました。
需要があるかわからないけど逆の上野着もみてみたいかな個人的には。今は所要時間は、短くなったけどその分、旅情なくなってしまったなぁと感じるこのごろです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。様々な地域から出発した列車が、上野駅に到着する様子も面白そうですね。現地での滞在時間は長くなりましたが、移動時間を楽しむことはしにくくなったなと思います。
リクエストはいつ叶えてもらえるのでしょうか?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。動画は可能な限りリクエストに基づいて、みなさまの反響をみながら順次作成しておりますが、投稿頻度以上にリクエストをいただいており、お応えできなかったり、お応えできたとしても大変お待たせしてしまったりしている現状にあります。大変申し訳ありません。以前、金沢駅の動画でコメントをいただいていたかと思いますが、富山駅のリクエストで間違いありませんでしょうか?
そうです。楽しみにしてます。
普通列車より急行特急の方が多いしの面白いな
19:09発、急行八甲田の座席に座って青森へ行ったことが懐かしい。ひたすら座っているだけだったから、お尻が痛くなったなぁ😂さらに青函連絡船に乗り継いで4時間で函館へ。翌朝10時半頃着いたんだよなぁ。
長距離を乗り通す列車でも、たとえば東北本線系統だと青函連絡船、その先の北海道内のダイヤにまで影響を及ぼすからダイヤ厳守で、運転に従事する人のストレスがすごそう・・・
スキー列車の行き先と愛称が結構ずれているのがなかなか謎ですな。スキーヤーは木島に早朝4時に着いてその先はどうしていたのかな?(・ε・` )
ちゃんと連絡のバスがあったはずです。
史上最強の東北特急「1M・下りはつかり5号」の前ではパターンダイヤの「ひばり」も16:00ヘッドから引くしかなかったと。
1974年には品川発はなくなっているはず!1973年4月から東京上野間の線路は休止されています。
列車ダイヤ作成をしてきた方が書かれた本によると、貨物列車を運休させて空いた機関車で臨時旅客列車を走らせていたとのこと。電車の臨時はどうやって車両をやりくりしたのだろうか。はつかり5号は国鉄時代表定速度最速の列車です。だからか、5号なのに1Mです。
連絡船も1便、函館からも1D
宇都宮からの通勤客は節約のために、東武線で都心へ通勤していた人も多かったんじゃないかな。当時、国鉄の運賃は私鉄よりも高かったらね。それにしてもこれだけ在来線の特急、急行の本数が多いと、関東の首都圏国鉄の東京近郊ダイヤでは、通勤用の普通列車の本数を増やそうにも増やせず、当時の東北本線の上野ー宇都宮間普通電車では相当な混雑があったのではないでしょうか。東北新幹線が上野まで開業した時、在来線にもかなりの余裕が出たと思います。
号数の打たれてない「やまばと」夜中に走る「つばさ52号」午前1時の上野発やっぱ、同じ日の大宮駅が見てみたいな
この頃は全車喫煙車だったんでしょうかだとしたらかなりきついですね
80年10月ダイヤ改正で東海道新幹線の1号車自由席が特急では初めて禁煙車が導入されています。それまでは禁煙車とイウ概念はなかった。
現代の東京駅年末ピーク時0600 はやこま新青森秋田(臨時)0604 やまびこ盛岡0608 とき新潟0612 つばさ新庄0616 かがやき金沢0620 やまびこ仙台0624 とき新潟(臨時)0628 はくたか金沢0632 はやこま新函館北斗秋田0636 たにがわ越後湯沢0640 やまびこ仙台0644 たにがわガーラ湯沢(臨時)0648 つばさ新庄(臨時)0652 あさま長野0656 はやこま新青森秋田(臨時)これとは別に上野発で宇都宮線が06時台4本高崎線 が06時台5本鉄オタからみて華はないかもしれんが何だかんだで今のほうがすごいわ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、情報をわかりやすく掲載していただきありがとうございます。このように見ると、過密さは今の方がすごいですね。運行管理システムも発展してきたことがよくわかります。
で、コレで「(*´Д`)¶<本日、指定席は満席を頂いております···」とかアナウンスがあるからね
年末、多くの人を故郷に無事送り出してあげようと職員総出で列車動かしていたのかな と思うだけで泣けてくるダイヤです( ´•̥ω•̥`)時刻表右側の備考コーナー豆知識満載で、いつも動画止めて拝読しています🎶
いつもご視聴とコメントありがとうございます。日本中から余っている車両を運んできて、当日は職員総出で駅の混雑の整理も行っていたと考えると、本当に当時の苦労が伝わってきますね。嬉しいお言葉ありがとうございます。鉄道にあまり馴染みのない方でも楽しめるように毎回内容を考えております。これからも面白い豆知識をお届けできるように頑張ってまいります。
注目したのは、上野発着の気動車列車。今では三大都市で唯一東京(上野)駅のみ気動車定期列車が1本も存在しないので。
急行よねやまはヨンナナサンダイヤ改正で柏崎行きとして急行鳥海に併結されていて季節列車だった。これが直江津行きのルーツで旧よねやまはヨンナナサンダイヤ改正で急行とがくしに改名されているのでこのよねやまとは全く愛称以外は関係ない。
帰省シーズンは上野ー赤羽、大宮間相互の乗客はお断りしますだったそうですね。
夕方16時台発の特急はつかりが1Mなんですね。あくまで、青森深夜着で深夜発の青函連絡船で函館早朝の、北海やおおぞらに連絡する筋が一番の筋なんだ。大阪から来る白鳥もこれに接続ですもんね。
青森からの青函連絡船が1便、函館からの特急が1Dで「1M→1便→1D」で接続していました。
既に昭和40年の時点で東京~札幌の輸送シェアは航空が逆転したもののエース列車の乗り継ぎは健在でしたね。
@@TSUYOS185とはいえ、東京・関西~札幌(北海道)が飛行機主流になったのは昭和の終わりから平成初期のような気がします。今や、鉄道乗り継ぎで行くこと自体難しいような状況で、この後新幹線が札幌まで通じた後、この状況を覆せるのか、見ものです。
@@kataakeo7730 さま昭和54年の時点で航空機の割合が9割を超えていたことから当時の国鉄の北海道支社は特急列車を札幌中心に、そして千歳空港駅の開設に至っています。北斗星、トワイライトエクスプレス、カシオペアは最初から航空機を意識せず、クルーズやリゾート列車というコンセプトで作られましたね。道民の意識が「東京へは新千歳から飛行機」となっている以上新幹線が出来ても航空機の優位は変わらないものとは思いますが、少しでも新幹線が使われると良いですね。
この頃には東京~釧路のフェリーもあったかと。乗り換え無しでも時化れば辛いでしょうな。(ヽ´ω`)
昔は「発駅着席券」なんてものがありました。詳しくは、Wikipediaでお調べ下さい。
発駅着席券は当時は50円だった。
たびたびのコメント申し訳有りません。何回か見ているうちに、そこそこ臨時が抜けているように思うのですが。「佐渡51号」「佐渡55号」「佐渡60号」や併結の「ばんだい」、あと、「あずま2号」は上野始発のはず、品川発は「ばんだい6号」だけです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。上越線、羽越本線方面の臨時列車が抜けていますね。また、「あずま2号」と「ばんだい6号」の始発が違うことは見落としておりました。大変面白い運用ですね。概要欄に訂正文を掲載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
27:28 桑名川行きに…そんな行き先あったんだ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。80年代前半までは付近にスキー場があったので、そのせいかもしれませんね。
当時は今の時代のようにまだ宅地化されていない場所もあったと思う。なので、普通列車は少なめですね。
ゴーサントー以前だけあって、特急が軒並み早く感じる。仙台・新潟まで4時間切りのインパクトは大きい
夜行「はくたか51号」「やまばと」の停車駅の時刻は?
たぶん 当時上野発で最重要列車ははつかり5号の1M
0:18 821M普通籠原行1時間11分で上野ー籠原結ぶの今2024年とほとんど変わらないんだな。
桑名川!?あんな駅が終点とか…
なんか中途半端ですよね。津南辺りならまだわかりますが。(・ε・` )?
しかし、こんな過密ダイヤでよく定刻で運用できたもねです、
急行津軽一号は新幹線か何か?
山手貨物線経由なのでそもそも東京、上野を通らない
常磐線の優等列車が無かったような!みちのく号やひたちときわが!
鉄道は夢を運ぶもの。効率化が進みすぎて鉄道はただの輸送機関になってしまった。私見ですが。
23:37 からのbgm なんか良い。それだけ。
普通郡山行・長岡行😳
「普通」が「普通」ではない。
はつかり3号って宇都宮止まらなかったんだ!
宇都宮や高崎通過の特急はかなりあった。特急ときの一部とかひばりの一部では停車しなかった。
特急や急行の合間にたまに普通が走るこのダイヤで、宇都宮から東京まで鈍行で通勤していたうちの父親は凄すぎる
今でこそ新幹線で通勤する術はあるもののこの時代に在来線の数少ない普通電車で毎日通われていたのは凄いですね。お疲れ様です。
この当時の普通列車の大半は大宮発着じゃなかったっけ?大宮から京浜東北線に乗り換えで
10:08 特急や急行に紛れて、しれっと入っている「普通・一ノ関」の存在感が凄いです。
内容もすばらしいですし、音楽の選曲も最高です。
当時は、早朝から分単位で優等列車が発着していたのがよくわかります。
特急がまだ少数派なのに対し、急行の全盛期ですね。
この当時の上野駅、いつ行っても優等列車がいてテンション上がりました。特に夜の地平ホームの雰囲気が大好きでした。
今はもう遠い夢のようになってしまった時刻表。懐かしの特急や急行の名前は胸にジーンと響き渡り涙が出てきます。これだけの素晴らしい列車名を考えてくださった国鉄の方々に感謝いたします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、大変嬉しいお言葉ありがとうございます。
当時の列車名は旅情をかき立てるだけではなく、さまざまな思い出の風景を思い出させてくれる、素晴らしい名前ですね。
動画制作・投稿おつかれさまです。
ご挨拶が遅くなりましたが、私も過去の時刻表や列車の運行体系の変遷を題材に動画投稿をしている者です。
いつも動画を拝見し、題材・編集・BGMに加えて視聴者のコメント・反応なども参考にさせていただいています。
さて、1970年代の上野駅の帰省ダイヤですが、私も大変興味があり、以前に1972年8月の発車列車を投稿したことがありました。
特に上野駅の混雑回避の為、奥羽・磐越西線系統の列車を品川始発にしていた・・・というのは驚きであると共に、当時の国鉄がいかに混雑に悩まされていたかを物語っているように感じますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
チャンネルの動画を拝見いたしました。様々な時代の動画で変化を楽しめ、そして国鉄とLED表示の融合が大変印象的な動画ですね。
時刻表を読むたびに、当時の国鉄関係者が頭を抱えながら様々な工夫をした形跡を発見でき、楽しいですね。
待ってました!!と言う感じです。今回も綿密な調査ありがとうございました。
2〜3分おきに出る特急/急行は圧巻ですネ。ずーっと見ておきたい気分です。
また、次回も楽しみにしています。よろしくお願いします。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、嬉しいお言葉ありがとうございます。
これに常磐線の優等列車もあったことを考えると、相当な人たちが移動していたことが伝わってきますね。
親父の実家が屋代で、子供の頃うっすら記憶で上野から湯田中行きってのに乗ったことがあります。
(もしかしたらおふくろの実家の上田かも)
いまじゃ長電の駅自体が無いんだから寂しいです。
17時53分発の小山行きは最初は「?」でした。
(時間がかかりすぎる、小金井行きではない)
高崎線、両毛線経由だったのですね。
情報の洪水、一度では観切れない動画(すごい!)。
幼少の頃、亡き父の郷里の仙台へ行きは”ひばり”で帰りは”ひたち”に乗りました
今考えてみると贅沢な鉄道旅をさせてもらったなぁと思います
新幹線開通の目的は、本来地元の足の基本である普通列車のために在来線を空けることにあったのではないかと思うくらいの優等列車ラッシュですね。
実際高崎線がパンク状態で上尾事件とか起きましたしね
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りで、これに貨物列車が走るとなると、普通列車のスジを確保するのは至難の業であっただろうなと思います。
通過待ちがあるから、所要時間はかかるわ、列車の本数が増やせないわで、昔は、大変だったんですね。
懐かしい列車ばかりですね!特に夕方の福島行き125列車は何回も乗りました。当時はEF58,57が基本でしたが、電車化&黒磯打ち切りの前日の最終列車は、運用の都合かEF65PFが先頭に立ったのを今でも覚えています。更に約45年前、卒業旅行で信州を回った際に当時の長野運転所を見学させて頂き、189系の幕回しをして頂きましたが、あさま銀嶺の他にあずさ銀嶺も入っていたのを覚えています!
動画お疲れ様です。
こうして見ると上野ほ本当に東北・上信越・常磐という各地への玄関口だったんだなと実感します。
今や新幹線も東京・大宮中心、上野東京ライン開通で常磐線も品川発着。
時代の移り変わりを痛感します。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在の上野駅は、在来線、新幹線ともに玄関口としての印象が薄れつつありますね。
錦糸堀で生まれ育ったアラ還オヤジです。小学生時代に日曜朝に錦糸町で10円の硬券入場券を買い、朝から1日上野駅で写真撮っていました。東北特急黄金時代で食堂車付きの12連の特急がバンバン出ていました。20番線脇の立ち食いそば屋が昼食のルーティン。食べ終わると上りのみちのく583系が長駆青森から上ってきます。本当に良い時代でした。体験できたのは貴重な財産です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在は新幹線の車内販売も縮小傾向にありますから、本当に貴重な経験ですね。当時の空気感が伝わってくるコメントありがとうございました。
早朝から深夜までひっきりなしに列車が発車しているのがわかりますね、特に特急・急行の本数のスゴさと言ったら……😅
季節がらスキー列車が運行されていたのが時代を感じさせます😃
品川駅発車の列車があったことには驚かされ、時刻が括弧で囲んでいるのがそうだとわかります😃
やはりワスレナグサ。
このチャンネルのロマンにはこれです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
そう思っていただけて大変幸いです。
何度聴いても飽きない名曲だなと思います。
そういえばこの動画の前年の1973年、新幹線工事のため特急「やまびこ」「ひばり」「つばさ」の東京駅乗り入れを中止したため、上野駅が完全に北の玄関口になりましたね。今は再び通過駅に戻ったような感じですね...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時は仙台駅も深夜帯は通過措置がとられていましたね。
現在の上野駅は仰る通りで、通過駅になってしまいましたね。
東北、北関東、上信越行きの特急急行が目白押し
この当時の上野駅はものすごい賑わいを誇った東のドル箱ターミナル
昼夜問わずフル回転の稼働を誇った
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
ラッシュ時間帯には、優等列車の数が減って、その分普通列車が増えるというように、運転本数自体は終日あまり変化がなかったようですね。本当に昼夜フル回転の稼働であったことがわかります。
生まれる4年数か月前の東北本線ですね…タイムマシンがあればぜひ行きたい。
やまびこ・とき・つばさ・あさまは今も新幹線に名を残す。
また、人生最初に買った図鑑にはここに名前の出た特急・急行が多々載ってました。
本当にいい動画をありがとうございました。
いつもありがとうございます。これ、岩手・青森県方面の夜行は線路が空いているという理由から主として常磐線経由でしたから、それらを加えるとカオスになりますね。昼間も急行・特急がそこそこ走ってましたし…
夜行の座席臨時特急で時刻表に「この列車の特急料金は100円引きです」とか記載があると、「あー、座席14系じゃなく12系か」と思ったもんです。
夜行だと今の人にはわからないかもしれないか14系よりも12系のほうが夜行には向いている。14系は簡易リクライニングシートなので背中に力を入れていないとにバタンバタンと音がして夜中だと眠れものではない。またシートピッチも狭く座席下には暖房用カバーがあり、足も伸ばせず窮屈だった。12系はボックスシートとはいえ従来よりもシートピッチが広くかえって楽だった。ただし夜行に限る。
このようなまとめを探してました…!ありがとうございます。
ちょっと変な観点ですが…現代の帰省ラッシュの新幹線は最低10両731席(E5系)が4分間隔で来ます。
485系13両編成で796席です。
しかし、この動画を見る限り、着席機会は現代のほうが上のようです。
現代に帰省で座って行けることに感謝したいです。
動画が10分経過してもまだ実際の発着は11時台・・・。もう時刻表のスジなんて真っ黒で何が何だか訳分からない、職人さんの芸術品だったかも知れないですね。ホームで駅員の発車案内のアナウンス聞いているだけで自分がどの列車に乗ってどこに行こうとしているのか分からなくなっちゃいそうです。
これだけ詰め込みのダイヤだと、ほんのちょっとの事故とか、乗降の遅れとかでダイヤがめちゃめちゃに狂っちゃうんでしょうね。
運良く自由席に乗れても立ちっぱなし…。
懐かしいね。
私は、父と一緒に自由席の通路に新聞紙を敷いて、座りながら上野駅で買った冷凍みかんをよく食べて上越を目指してました。
この時刻表が、子供の時の記憶を蘇らせてくれます。
35年ぶりに…。
夜行列車ともなれば寝台やグリーン車や指定席は即ソールドアウト、自由席ですら事前に着席券を買わなければ延々と通路に座るしかありませんでしたね。
各新幹線の有り難みが分かります。
それもまた、親父とのいい思い出だ。
って感じです。
いかに北の人が苦労して、出稼ぎに来ていたかがよくわかります。
「ゆうづるとみちのくと十和田が抜けてる」と一瞬思いましたが、いずれも常磐線周りだから掲載していないのですね。頻回運転されていた「ひたち」「ときわ」が未掲載なのも同様の理由ですね。
そうすると、上野駅は今回の動画以上にもっと混雑していたということですか。。。
この当時の特急ひたちは6往復だけです。まだまだ急行ときわが主流だった。
上野~大宮間は東北本線で、大宮から東北側と上信越側に分岐するのでこの時刻表には上越線と信越本線の優等列車も掲載されているんですね。それにしても特急もさることながら急行列車の多いこと。新幹線なんてない時代、国鉄が必死にダイヤと列車編成をやりくりしていたのだと思うと、その努力に敬服する次第です。
これらの列車だけでなく折り返しのために客車を尾久や東大宮の車庫との間で移動させる回送運用もありましたね。電気機関車による低速での推進運転もあって更なる過密ダイヤになっておりました。
このためいわゆる中距離電車は大宮始発終着で運転されていた電車もありました(大宮上野間は京浜東北線に乗れという)
この中にはは115系で運転されていたなすのなどもあり損をした感じです。その他にもときわの401系もありました。首都圏ならではで関西地区では国鉄に抗議殺到です。
ウチの身内の生まれた年の84年前の時刻表ですね。身内もお陰様で今年の正月を無事に迎えられました。
短距離列車は後の首都圏近郊区間の快速電車(常磐線経由成田行等)や中距離電車(東北本線、高崎線、常磐線等)のルーツに当たる列車も確認できますね。
すごい。
終日、山手線のような頻度で特急と急行を中心に発車している…。
これだけでなく客車列車は尾久や東大宮の車庫への回送列車も。
さほどスピードの出せない推進運転だったのでダイヤ設定は苦労したものと思います。
旅立ちの日に、もいい曲ですね
1974年12月、私は子どもでしたが鉄道マニアでした。上野駅&新宿駅、帰省客&スキー客の臨時列車がめっちゃ多かったですね。仙台在住の私はもちろん乗れず、どのような車両を使っているのだろう?と時刻表を見ながら想像して楽しんでいたような記憶があります。
時刻表見るだけでワクワクするなぁ…一回でいいからこの時代にタイムスリップして全部乗ってみたい
17時台だけ普通列車だらけなのは通常時の帰宅ラッシュ対策という事か
この時期、早朝に普通列車で遠くまで行くのありましたよね。
高校のとき、普通の郡山行きに乗ってたのですが、友達が車内に忘れ物をして郡山まで持っていかれたらしいです。
当時、車両はSLが引っ張るような乗降口がふたつで全部ボックスで乗客が中まで行かないから乗り降りが不便でした。
ちなみに、友達は忘れ物取りに行くの諦めたそうです。
当時の撮り鉄的にはメシウマなダイヤだったものの、過密さが名鉄名古屋や銀座線と同等なので少しでも遅れたら大変なダイヤだったことでしょうね。
19:08発の普通が1分後に急行が発車するので尾久でモタモタしてたら遅延確定という鬼ダイヤなのはビックリです。
新幹線、飛行機、マイカーさらには高速バスが主流でなかった当時、国鉄の労力があってこその遠距離列車の運転ができたことでしょうが、指定席を取るのも一苦労だったことを考えると良い面と悪い面が出てきてしまっていますね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
19:08発の普通は大宮駅発が19:35に対して、
19:09発の急行は大宮駅まで通過し、大宮駅発が19:37でした。
先発の普通の運転士はかなりのプレッシャーだったでしょうね。
当時の新聞記事や映像を見ていると、大変な苦労があって、ロマンだけではないことがわかりますね。
日中の普通列車が少ないですが、増やそうにも増やせない状況だったんですね……。
この本数に常磐線経由の定期、臨時が加わる…よく列車を捌いていたものです
正に北へ向かう玄関口上野ですね。
この時期は東北、上越、信越方面への急行スキー号が多数走っていました。
これをみると、西の東海道本線に対し、東の東北本線超過密ダイヤですね。しかも、上野大宮複線で裁いていたからあまりにも素晴らしい。一旦遅延が出ると大幅にダイヤが乱れそうですね。きっと走らせる列車などを考えていた方大変だったと思います。現在は🚄にとってかわられてはいるが、東北、上越、長野🚄も大宮東京間は東海道🚄以上の過密ダイヤです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在のように通信技術を含め、テクノロジーが発達していない中、どのように遅延に対処していたのか、大変興味があります。時刻表作成者、そして運行に携わっていた方々の苦労を想像すると、頭が上がりませんね。
ひばりは毎時0分発、ときは毎時38分発、記憶に残っています。
後にこれらの列車のように運転頻度の高い特急にエル特急という愛称が
つきました。電車に客車に気動車と多種多様の列車が頻繁に走り、スジ屋さんは
苦労されたと思います。それらを正確に運行していた国鉄職員のみなさんに
今更ながら頭が下がります。
リクエストにお答えいただき有り難うございます。12月号時刻表ではなく、12/29限定の発車時刻表ですか、盲点でした。欲を言えば、「わたらせ」の高崎行、「あかぎ」の小山行、「いいで」新潟行、普通「879M」、北陸方面など経由を行き先の下にでも入れて貰えるとうれしかったです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
大変お待たせいたしました。
仰る通りですね。経路に特徴のある列車に関しては、経由があるとより楽しめるなと思います。今後の動画では経由も併記しようと思います。アドバイスありがとうございます。
当時、僕は予備校生、上野駅から発車する列車を見ることが癒しでした。晴れて大学生時代、仙台から夜行で帰省するとき、年末の上野駅は朝から乗客でごった返しでした。
L特急ひばりの別格の扱いが際立ちますね
ひばり9号の4分後にひばり52号...
9号に乗り切れなかった客を詰んだのかな
BGMも相まってか何故か感動した。感動要素なんてないのに。上越線、信越線経由羽越線方面の一部列車も品川発着みたいで、品川から新潟に行けるってことで胸が熱くなった。
私の生まれた年の上野駅時刻表ですね。
日光線直通の各駅停車・日光行がレギュラーで運行されているのを初めて知りました。何両編成だったのでしょうか?あと、ビュッフェ付きの急行も乗って見たかったなぁ…。
この頃にはビュッフェは全国的に全ての列車で営業休止されています。
言い忘れましたが、急行妙高や信州とアルプスの一部では昭和51年10月改正まで営業していました。
夜行急行の北星・北陸の特急格上げと、特急つばさの電車化を除けば、1978年10月1日までは大体このダイヤで推移しましたね。
ところでとき12号は、18時38分発でなく18時08分発でしたか?
これだけの列車を3分間隔で早朝から深夜まで動かしていたのも凄いですね。上野駅が東日本全体への玄関口として機能していた時代でしたね。
夜の急行に乗るために着席券を購入したりさらには朝からテント村や品川駅も含めてホームに並んだりと言うのが大移動に国鉄が多く利用されていたことの証ですね。昨今の帰省ラッシュとは比べ物にならないものと思います。
ここまでの輸送を完遂した国鉄関係者の皆様に御礼申し上げます。まさかここから13年でJRに移行したと言うのが信じられません。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
玄関口として堂々とした時刻表ですね。
徹夜で並んで、並んでいる最中に酒盛りをしたり、トランプで時間を潰したりと、現在では考えられない状況ですね。帰省がいかに大変だったかがわかる時刻表です。
@@tomoyankun時代が違うんでしょうね。この頃はどんなに混んでいても、盆正月には規制したのでしょうね。
今もその傾向はなくはないですが、あえてお盆や正月に帰省しない方が楽だと思う今日この頃です。GWも同じで、本当は少し前後に休んでGWは通常運転したいところです。
が、子供がいるとそうはいかないのですが。。。
23:20急行佐渡なつかしい
朝から働きづめの母が三人の幼子をひいて上野に。当時ホームには時期ということもあり
臨時の札が所狭しと吊るされ揺れていた 座席は満杯で通路に新聞ひいて揺られ
辛いおもいも周りの方々に助けてもらいひいきされたのもよくおぼえてる スキー板を担いで下りていく人たち
たばこを吸う人たち 朝方、終点新潟に。越後線も待っててくれた よき思い出です
新潟駅も建て替えられて、様子が大きく変わりましたな。(*´ω`*)
4:56 当時は初代上野東京ラインがあったので東京・品川から東海道新幹線に接続できたりしたんですね
今の草津四万も東京発着増やせばいいのに
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
民営化、そしてコロナによる減便や直通運転の廃止の流れがありますが、需要がありそうな列車はこれからも運転していってほしいですね。
この当時はもう東京直通運転はできません。もともとこの区間は単線でした。東京直通運転は48年4月改正でなくなっていてそれまで共通運用だった特急ときと、あずさが別運用になり、あずさから食堂車が消えました。
今は、新幹線1択。それしか無い。よりどりみどりで特急や急行に乗れた時代を経験できた世代で良かったです。
2901Mは通勤電車115系の折返し運用でした。また特急はくたかは1969年10月ダイヤ改正で向日町運転所の485系で雷鳥と共通運用のいわゆる関西系で他の東北本線特急とは違っていたが、1978年10月ダイヤ改正で白山と共通運用の489系になり食堂車が外されている。またこの頃は急行のビュッフェは上野口では信州と妙高だけになりその他はビュッフェの設備はあっても営業休止ばかりでした。夜行の寝台特急も食堂車は全て営業休止になっている。
年末年始なので、帰省用の臨時列車の他、上越、信越線のスキー臨も目立ちますね。
朝5時、6時台の列車に乗る人は寒い中上野駅で前夜から来て寝て待っていたのでしょうか、、、。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
指定席券を購入できなかった人たちは、前日から並んでいたという新聞記事を見ることができますから、寒い中待つ人もいたのでしょうね。休みなく働いて、久しぶりの休みに故郷へ帰ろうにも、それもまた一苦労。今よりも大変不便な状態だったのでしょうね。
スキー臨時列車で銀嶺号は全車指定席でスキー号は自由席がある列車ですね!
こういう在来線特急急行が頻発する時刻表は楽しいですね。
この前の1972年の岡山駅みたいです。これで当時の国鉄が大赤字だったというのは、経営体質(公社だったこと)、変な新線をたくさん作りすぎていたことや労組が強すぎたこと等が原因だったのでしょうね。(モータリゼーションの発達(高速道路網の整備を含む)による影響はもっぱらこの後のことでしょうから。)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
元気で賑やかな時刻表で、何度見ても楽しいですね。
仰る通りで非効率的な経営が原因だったのでしょうね。当時は営業係数1000円越えの赤字路線がたくさんありましたね。
まさか“水の声”をこんなお天道様が出ている時間帯、それも次々バカスカ特急列車を出しまくってる戦場のような時間帯の電車列車の時刻表で聞ける機会が来るとは……
そういやこの頃の1Mも最速時代でしたよね
かなり性能限界まで飛ばして運転されてたっぽいですね。国鉄時代の583は
特急つばさの14系座席車は車両不足というよりも臨時特急だったためでその前は12系座席車で100円引きの特急料金が設定されていた。この他には特急しおじの52号から55号や夜行のゆうづる51号や日本海51号や金星51号などもあった。これらは金星51号を除き12系時代から運転されていた。特にしおじは山陽本線のカーブの影響と停車駅の少なさで電車特急と比べても遜色なかった。
わあい、私当時2才、仙台の人。
幼稚園のとき見てた時刻表のとっきゅうだー❤
夜行急行がまだまだ旧型客車がメインの頃でしょうか。臨時列車が12系なら当たり!(*´・∀・)だったんでしょうね。仙台や新潟なら特急の普通車よりも急行のグリーン車でも良いかと。(*´ω`*)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
繁忙期は特急が全車指定席になっていましたし、上野ー仙台間が特急で約4時間、急行で約5時間ですから、値段差を考えると、急行を選んだ人も多かったでしょうね。さすがにすし詰めの列車に乗るのは遠慮したいですが、当時の様々な優等列車に乗ってみたいですね。
臨時急行では背ずりが板張りのオハ61すらありましたからね。同じ急行でも天と地の差でしたが、それでも座れればまだ良かった方。着席券を購入しなければ座席なしで立って目的地までと言うケースも多数ありました。
東北自動車道の開通、さらには国鉄の大幅値上げで客足が遠退き、数年後には「冷房付きの臨時急行のご利用を!」と時刻表に出ていたほどでした。
この頃は関西地区発着には12系や、14系座席車が優先的に使用されていた印象がある。急行壇ノ浦や、音戸51号など他にもたくさんある。グリーン車がついていなければたいがいですね!
朝の宇都宮方面の普通が少ないと思ったら大宮始発が多かったのかな?
運が悪いと大宮とか赤羽辺りから乗ろうとしても、デッキまでギュウギュウでどうしても乗れないとかありそうですな。( ノД`)…カエレネエ!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
乗ろうと思った急行や普通がいっぱいで乗れないということもあったかもしれませんね。大変な時代ですね。
この頃、というか70年代一杯までは帰省等でも特急はやはり「高嶺の花」で、やはり急行利用に流れていたと思われます。国鉄民営化で運賃値上げが相次ぎ、また在来線急行が軒並み廃止され、ようやく特急利用が一般化しただけで。
私は関西〜九州への帰省でしたが、それでも「急行の指定席が取れた」というだけで大喜びだった事を覚えています。新幹線の食堂車なんて「夢の国そのもの」でしたし。
時代はすっかり変わりましたね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
特急と急行料金に2倍以上の価格差があれば、やはり急行利用に流れることが想像できますね。
「指定席」をとることの困難さが大変よくわかるエピソードですね。当時は徹夜で並んでいたのが、現在はスマホで家にいながら確保できる。時代の変化を痛感します。
昭和49年に値上げされたが、まだまだ物価に比べれば安価だった。このあと毎年のように値上げされていき航空機の値段が相対的に安くなった。
この当時、ワッペン列車なるものもあった
最後の挿入歌はなんというタイトルですか??
常磐線編もお願いします
急行よねやまですが、1961年運転開始になっているがこのよねやまとは全く関係がなく後の急行とがくしであってこのよねやまはヨンナナサンダイヤ改正で急行鳥海1号に併結されていて季節列車の柏崎行きがルーツです。何度も言いますが愛称だけを考えるとそうですが、実際はルーツが全く異なることがあるので愛称だけでは考えないほうがいいかと思います。
東北本線、高崎線が優等街道であったことを改めて認識しました(そりゃ、大宮ー東京間の線路容量が逼迫するワケだ。。。)。
それと引き換えに普通列車の数がメチャメチャ少ない!まさに「都市間の大量輸送」という国鉄のミッションに沿った運営だったのですね。
客レの普通列車も懐かしいです。確か、この頃はまだ旧型客車だったはず。子供の頃、上野駅で16時代の福島行を見て「乗りたいなぁ」と思ったことを思い出しました。
優等列車や貨物が頻繁に走り、普通列車は沿線に住宅が多数出来ても本数が少なかったからこそ上尾大暴動があったのでしょう。
新幹線が出来て余裕が生まれ、宇都宮線や高崎線の普通が増え、湘南新宿ラインができて在来線も本当に快適になりました。
需要があるかわからないけど逆の上野着もみてみたいかな個人的には。
今は所要時間は、短くなったけどその分、旅情なくなってしまったなぁと感じるこのごろです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
様々な地域から出発した列車が、上野駅に到着する様子も面白そうですね。現地での滞在時間は長くなりましたが、移動時間を楽しむことはしにくくなったなと思います。
リクエストはいつ叶えてもらえるのでしょうか?
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
動画は可能な限りリクエストに基づいて、みなさまの反響をみながら順次作成しておりますが、投稿頻度以上にリクエストをいただいており、お応えできなかったり、お応えできたとしても大変お待たせしてしまったりしている現状にあります。大変申し訳ありません。
以前、金沢駅の動画でコメントをいただいていたかと思いますが、富山駅のリクエストで間違いありませんでしょうか?
そうです。楽しみにしてます。
普通列車より急行特急の方が多いしの面白いな
19:09発、急行八甲田の座席に座って青森へ行ったことが懐かしい。ひたすら座っているだけだったから、お尻が痛くなったなぁ😂
さらに青函連絡船に乗り継いで4時間で函館へ。翌朝10時半頃着いたんだよなぁ。
長距離を乗り通す列車でも、たとえば東北本線系統だと青函連絡船、その先の北海道内のダイヤにまで影響を及ぼすからダイヤ厳守で、運転に従事する人のストレスがすごそう・・・
スキー列車の行き先と愛称が結構ずれているのがなかなか謎ですな。スキーヤーは木島に早朝4時に着いてその先はどうしていたのかな?(・ε・` )
ちゃんと連絡のバスがあったはずです。
史上最強の東北特急「1M・下りはつかり5号」の前ではパターンダイヤの「ひばり」も16:00ヘッドから引くしかなかったと。
1974年には品川発はなくなっているはず!1973年4月から東京上野間の線路は休止されています。
列車ダイヤ作成をしてきた方が書かれた本によると、貨物列車を運休させて空いた機関車で臨時旅客列車を走らせていたとのこと。電車の臨時はどうやって車両をやりくりしたのだろうか。
はつかり5号は国鉄時代表定速度最速の列車です。だからか、5号なのに1Mです。
連絡船も1便、函館からも1D
宇都宮からの通勤客は節約のために、東武線で都心へ通勤していた人も多かったんじゃないかな。当時、国鉄の運賃は私鉄よりも高かったらね。それにしてもこれだけ在来線の特急、急行の本数が多いと、関東の首都圏国鉄の東京近郊ダイヤでは、通勤用の普通列車の本数を増やそうにも増やせず、当時の東北本線の上野ー宇都宮間普通電車では相当な混雑があったのではないでしょうか。東北新幹線が上野まで開業した時、在来線にもかなりの余裕が出たと思います。
号数の打たれてない「やまばと」
夜中に走る「つばさ52号」
午前1時の上野発
やっぱ、同じ日の大宮駅が見てみたいな
この頃は全車喫煙車だったんでしょうか
だとしたらかなりきついですね
80年10月ダイヤ改正で東海道新幹線の1号車自由席が特急では初めて禁煙車が導入されています。それまでは禁煙車とイウ概念はなかった。
現代の東京駅年末ピーク時
0600 はやこま新青森秋田(臨時)
0604 やまびこ盛岡
0608 とき新潟
0612 つばさ新庄
0616 かがやき金沢
0620 やまびこ仙台
0624 とき新潟(臨時)
0628 はくたか金沢
0632 はやこま新函館北斗秋田
0636 たにがわ越後湯沢
0640 やまびこ仙台
0644 たにがわガーラ湯沢(臨時)
0648 つばさ新庄(臨時)
0652 あさま長野
0656 はやこま新青森秋田(臨時)
これとは別に上野発で
宇都宮線が06時台4本
高崎線 が06時台5本
鉄オタからみて華はないかもしれんが何だかんだで今のほうがすごいわ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、情報をわかりやすく掲載していただきありがとうございます。
このように見ると、過密さは今の方がすごいですね。運行管理システムも発展してきたことがよくわかります。
で、コレで「(*´Д`)¶<本日、指定席は満席を頂いております···」とかアナウンスがあるからね
年末、多くの人を故郷に無事送り出してあげようと職員総出で列車動かしていたのかな と思うだけで
泣けてくるダイヤです( ´•̥ω•̥`)
時刻表右側の備考コーナー
豆知識満載で、いつも動画止めて拝読しています🎶
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
日本中から余っている車両を運んできて、当日は職員総出で駅の混雑の整理も行っていたと考えると、本当に当時の苦労が伝わってきますね。
嬉しいお言葉ありがとうございます。鉄道にあまり馴染みのない方でも楽しめるように毎回内容を考えております。これからも面白い豆知識をお届けできるように頑張ってまいります。
注目したのは、上野発着の気動車列車。今では三大都市で唯一東京(上野)駅のみ気動車定期列車が1本も存在しないので。
急行よねやまはヨンナナサンダイヤ改正で柏崎行きとして急行鳥海に併結されていて季節列車だった。これが直江津行きのルーツで旧よねやまはヨンナナサンダイヤ改正で急行とがくしに改名されているのでこのよねやまとは全く愛称以外は関係ない。
帰省シーズンは上野ー赤羽、大宮間相互の乗客はお断りします
だったそうですね。
夕方16時台発の特急はつかりが1Mなんですね。あくまで、青森深夜着で深夜発の青函連絡船で函館早朝の、北海やおおぞらに連絡する筋が一番の筋なんだ。大阪から来る白鳥もこれに接続ですもんね。
青森からの青函連絡船が1便、函館からの特急が1Dで「1M→1便→1D」で接続していました。
既に昭和40年の時点で東京~札幌の輸送シェアは航空が逆転したもののエース列車の乗り継ぎは健在でしたね。
@@TSUYOS185とはいえ、東京・関西~札幌(北海道)が飛行機主流になったのは昭和の終わりから平成初期のような気がします。今や、鉄道乗り継ぎで行くこと自体難しいような状況で、この後新幹線が札幌まで通じた後、この状況を覆せるのか、見ものです。
@@kataakeo7730 さま
昭和54年の時点で航空機の割合が9割を超えていたことから当時の国鉄の北海道支社は特急列車を札幌中心に、そして千歳空港駅の開設に至っています。北斗星、トワイライトエクスプレス、カシオペアは最初から航空機を意識せず、クルーズやリゾート列車というコンセプトで作られましたね。
道民の意識が「東京へは新千歳から飛行機」となっている以上新幹線が出来ても航空機の優位は変わらないものとは思いますが、少しでも新幹線が使われると良いですね。
この頃には東京~釧路のフェリーもあったかと。乗り換え無しでも時化れば辛いでしょうな。(ヽ´ω`)
昔は「発駅着席券」なんてものがありました。
詳しくは、Wikipediaでお調べ下さい。
発駅着席券は当時は50円だった。
たびたびのコメント申し訳有りません。何回か見ているうちに、そこそこ臨時が抜けているように思うのですが。「佐渡51号」「佐渡55号」「佐渡60号」や併結の「ばんだい」、あと、「あずま2号」は上野始発のはず、品川発は「ばんだい6号」だけです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
上越線、羽越本線方面の臨時列車が抜けていますね。また、「あずま2号」と「ばんだい6号」の始発が違うことは見落としておりました。大変面白い運用ですね。概要欄に訂正文を掲載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
27:28 桑名川行きに…そんな行き先あったんだ
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
80年代前半までは付近にスキー場があったので、そのせいかもしれませんね。
当時は今の時代のようにまだ宅地化されていない場所もあったと思う。なので、普通列車は少なめですね。
ゴーサントー以前だけあって、特急が軒並み早く感じる。
仙台・新潟まで4時間切りのインパクトは大きい
夜行「はくたか51号」「やまばと」の停車駅の時刻は?
たぶん 当時上野発で最重要列車ははつかり5号の1M
0:18 821M普通籠原行
1時間11分で上野ー籠原結ぶの今2024年とほとんど変わらないんだな。
桑名川!?あんな駅が終点とか…
なんか中途半端ですよね。津南辺りならまだわかりますが。(・ε・` )?
しかし、こんな過密ダイヤでよく定刻で運用できたもねです、
急行津軽一号は新幹線か何か?
山手貨物線経由なのでそもそも東京、上野を通らない
常磐線の優等列車が無かったような!
みちのく号やひたちときわが!
鉄道は夢を運ぶもの。
効率化が進みすぎて鉄道はただの輸送機関になってしまった。
私見ですが。
23:37 からのbgm なんか良い。それだけ。
普通郡山行・長岡行😳
「普通」が「普通」ではない。
はつかり3号って宇都宮止まらなかったんだ!
宇都宮や高崎通過の特急はかなりあった。特急ときの一部とかひばりの一部では停車しなかった。