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素晴らしい動画をありがとうございます。魏志倭人伝で紹介された伊都国という国名は他の国名と異なります。これは夏王朝末期から殷(商)王朝初頭の有名な政治家伊尹(いいん)に因む嘉字で記された国名で、とても深い意味があることを発見しました。これによって、行程記事が誰によって書かれたのかも分かり、邪馬台国問題を解明することができました。この動画からも分かるように、当時の倭人の中には漢字を読み書きできる人がいたのです。詳しくは「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください!
平原遺跡の周囲について私の理解している「伊都国」周辺と「平原遺跡(ヒロバル),伊都国、糸島、細石神社(サザレイシ)」を「音形」読みしてみまして,その簡略文を書きます。〇文中の「爾支、泄謨觚、柄渠觚」は、「魏志倭人伝」内で「伊都国」の官として書かれた倭王権執行王権者の三官名です。爾支 … 弥奴国王泄謨觚 … 斯馬国・伊万里地区王柄渠觚 … 好古都国王「邪馬壱国」の倭王権執行は,上記内に「卑弥呼」が加わります。平原遺跡(ヒラバル) … 音形読み簡略文のみ「倭国」内に「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」が併存した「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」内の倭王権を「邪馬壱国」が立体内にする。「邪馬壱国」の「卑弥呼」内にして「爾支、泄謨觚、柄渠觚」(倭王権執行王権者)が「伊都国の糸島」内に駐屯した、「伊都国内の糸島」内となる「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」内の死亡者を交わった(埋葬した)。伊都国(イツコク) … 音形読み簡略文のみ「倭国」内になった「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」内を交わる(統一する)「邪馬壱国」内倭王権を(伊都国内で)交わる。糸島(イトシマ)… 音形読み簡略文のみ「倭国」内になった「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」を集めて(連合統一して)「邪馬壱国」が獲得した倭王権を内蔵する「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」が島内になる。細石神社(サザレイシ) … 音形読み簡略文のみ「倭国」内連合をした「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」内にして「邪馬壱国」が連合統一をした(倭王国となった)、「邪馬壱国」内倭王権者を立体内に広げた「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」がつながりきる(一体になる)、「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」内王権者内を立体内につなげきる(祭る)。
とても興味深いのですが、これは何かの記述ですか?一次資料はどういったものでしょうか?教えていただければありがたく思います。
この時代なら夫婦じゃなくてきょうだいじゃないですかね?
つまり現代の発掘調査が全然出来てない掘ればなんか絶対ドデカイもんが出てくる場所って言うのは分かった。
近畿系の土器が大量に出土していることも知らせる必要がある。
そうなんですよ。これは卑弥呼の死後(247年ころ)に男王が立ったために内戦があったと魏志倭人伝に記されています。その時に東海、畿内、山陰・近江などの土器が北部九州で見られるようになります。纏向遺跡の外来土器に見られる地方の人々がやってきています。日本建国のハイライトはここから起こっています。詳しくは「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。
@@katumoku103世紀初頭から庄内式土器が博多湾周辺に多量に見つかっている。吉野ヶ里は3世紀に衰退するが逆に環濠が埋められ戦闘の痕跡がない。北部九州に戦闘の跡も都市遺跡もない。
@@renren5491 さん いいご指摘ありがとうございます。3世紀初頭はⅠA期ですが、在来系の土器がほとんどで、庄内式土器は筑前型庄内土器ですから北部九州人が交流した畿内人から教わったと考えていますので、畿内人はまだ北部九州には来てないようです。238年公孫氏が魏の司馬懿に討たれて卑弥呼が魏に朝貢する頃は、倭国は隆盛になるので、阿波・讃岐・紀州の勢力が狗奴国(纏向)を裏切って奴国に交易のためにやってきています。これは纏向遺跡のこの時期の外来土器にこれらのものが見られなくなり、奴国に畿内系土器が在来系と半々になることで分かります。ⅠB期です。詳細は「刮目天の古代史 【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」を参照ください。吉野ヶ里遺跡はおっしゃる通りです。二世紀末の倭国大乱期に菊池川流域の方保田東原遺跡に結集した狗奴国側の山陰や畿内の勢力が吉野ヶ里などの倭国の集落を攻撃していることが鉄鏃の出土状況から判明しています。詳細は「刮目天の古代史 【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」を参照してください。
それは、だって伊都国の女王は、天照大神の女王系列だから。神武天皇が東征しても、一部の皇室先祖たちは九州に残ったはずで、たまには近畿ー九州間で、手土産などのやりとりがあったと予想されます。平原遺跡は、あきらかに皇室の三種の神器の原型、八咫鏡同デザイン鏡がでているし、勾玉も剣も出ているし、太陽信仰のあとがあると原田大六先生がいっていて、玉依姫の墓だといっています。だから、伊都国の王様と女王様は、要は皇室の先祖といえます。
@@sunsun2181 すべて妄想。推古9年から逆算して1260年前に建国した神武。3せいきとは全く関係のない神話。九州が弱体化し近畿邪馬台国の連合体に組み込まれた事実しか残っていない。型湾沿岸、北部九州一円から近畿系土器が出ていて、吉野ヶ里からも大量に出土している。3世紀中葉、邪馬台国の時代に博多湾に小型前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡を伴っている。交易拠点港の遺跡西新町遺跡では、出土土器の3割が朝鮮式、3割が近畿式。これが実態だった。どこにも「東遷」する勢力はない。時間的隙間も存在しない。邪馬台国の遺跡も出ないのによくもまあ。妄想だけの論理で押し通せるものだ。呆れかえる。
原田大六氏の著書を古本屋で見つけて大事にしています。一言二言。邪馬台国は朝倉扇状地でしょう。天照大神は2代。日御子と豊です。豊は豊の国豊前豊後を本貫とし日御子は肥の国を本貫とします。北九州勢力が日向・大隅・薩摩を傘下に収めて瀬戸内海奥に栄えていた黒歯国に神武東遷したという処まで。
原田先生は素晴らしいですが、邪馬台国は縄文人国家です。産地からして、四国山上説が有力だと思います。一方、ご承知のように皇室、天照大神は渡来系です。つまり、外国人の帰化人みたいなものです。弥生人です。人種が違います。原田先生は昭和時代なので、DNA鑑定や、ミームという生物学知識がなかったので、読み誤ったのです。
伊都国はコシの糸魚川では??
私は伊都国の歴史があった、残念ながら消された‼️🙇
イトウ神を知りましょう…。😄記紀原本ホツマツタヱより
糸島高校にはたくさんの興味深い遺跡の破片?が保管されてた記憶が有ります!
なんでみなさん、邪馬台国の話ばっかりしてるんですかね?魏志倭人伝に、「邪馬台国には馬はいない、カササギもいない」と書いてある。九州は「馬もいたし、カササギもいた」ので、邪馬台国ではない。むしろ、伊都国は、皇室の先祖である、天照大神の直轄地といえます。平原遺跡が、玉依姫の墓だと原田大六先生がいっています。要するに天照大神の子孫ってことです。おそらく、代々、皇室の先祖は、淡路島周辺に外国(中国?→朝鮮半島のようです。ただ中国が支配していました)からたどりついて、しばらく瀬戸内海や四国に住んでいたが、九州に移住して、しばらくはこの地を治めていたのでしょう。そのあと、神武天皇は九州北部から、近畿に移住したかもしれないわけです。糸島市も、はっきりと「糸島は天皇の先祖がおさめた土地」っていいきってもいいんじゃないかなあ。三種の神器が、こんなにはっきりと出てくる土地って、他にあるんですか???
すみません。訂正です。> 鹿児島や宮崎に移動して → 日向は、宮崎県ではなく、糸島市内の日向峠のことでした。つまり、糸島市内が日向なのです。原田大六先生の研究では、高祖山が 高千穂であり、クシフル岳は同じ名前の山があります。ついでに、ちょっと移動して福岡市内の海岸沿いに、なんと「小戸」という場所があって、そこはイザナギが、根の国から逃げてきて死の穢れにふれて汚いというので、禊をした場所です。小戸神社というのもありまして、周囲はなかなかいい公園になっています。鹿児島にいくことはあっても、どうもコノハナサクヤヒメの実家に、通い婚とかしていただけかなと思います。そして、ここで説明されている、女性の墓はどうもコノハナサクヤヒメのものらしいです。結婚して安定したら、本拠地の糸島市内に戻って来たのでしょう。この遺跡は大変すばらしく、皇室の先祖が眠る土地であり、中国や朝鮮半島との貿易拠点の王国でもあったのです。素晴らしいので、もっと宣伝していただきたいです。がんばってください。
値皆炉棚買わなき
魏志倭人伝に出てくる伊都国は糸島市じゃありませんからね!
笑止千万片腹痛いって始めて思った🎉……おめでたいですね😊
素晴らしい動画をありがとうございます。魏志倭人伝で紹介された伊都国という国名は他の国名と異なります。これは夏王朝末期から殷(商)王朝初頭の有名な政治家伊尹(いいん)に因む嘉字で記された国名で、とても深い意味があることを発見しました。これによって、行程記事が誰によって書かれたのかも分かり、邪馬台国問題を解明することができました。この動画からも分かるように、当時の倭人の中には漢字を読み書きできる人がいたのです。詳しくは「刮目天の古代史 伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください!
平原遺跡の周囲について
私の理解している「伊都国」周辺と「平原遺跡(ヒロバル),伊都国、糸島、細石神社(サザレイシ)」を「音形」読みしてみまして,その簡略文を書きます。
〇文中の「爾支、泄謨觚、柄渠觚」は、「魏志倭人伝」内で「伊都国」の官として書かれた倭王権執行王権者の三官名です。
爾支 … 弥奴国王
泄謨觚 … 斯馬国・伊万里地区王
柄渠觚 … 好古都国王
「邪馬壱国」の倭王権執行は,上記内に「卑弥呼」が加わります。
平原遺跡(ヒラバル) … 音形読み簡略文のみ
「倭国」内に「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」が併存した「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」内の倭王権を「邪馬壱国」が立体内にする。
「邪馬壱国」の「卑弥呼」内にして「爾支、泄謨觚、柄渠觚」(倭王権執行王権者)が「伊都国の糸島」内に駐屯した、
「伊都国内の糸島」内となる「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」内の死亡者を交わった(埋葬した)。
伊都国(イツコク) … 音形読み簡略文のみ
「倭国」内になった「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」内を交わる(統一する)「邪馬壱国」内倭王権を(伊都国内で)交わる。
糸島(イトシマ)… 音形読み簡略文のみ
「倭国」内になった「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」を集めて(連合統一して)「邪馬壱国」が獲得した倭王権を内蔵する「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」が島内になる。
細石神社(サザレイシ) … 音形読み簡略文のみ
「倭国」内連合をした「九州人国、邪馬壱国、狗邪韓国渡来人国」内にして「邪馬壱国」が連合統一をした(倭王国となった)、
「邪馬壱国」内倭王権者を立体内に広げた「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」がつながりきる(一体になる)、
「卑弥呼、爾支、泄謨觚、柄渠觚」内王権者内を立体内につなげきる(祭る)。
とても興味深いのですが、これは何かの記述ですか?一次資料はどういったものでしょうか?教えていただければありがたく思います。
この時代なら夫婦じゃなくてきょうだいじゃないですかね?
つまり現代の発掘調査が全然出来てない掘ればなんか絶対ドデカイもんが出てくる場所って言うのは分かった。
近畿系の土器が大量に出土していることも知らせる必要がある。
そうなんですよ。これは卑弥呼の死後(247年ころ)に男王が立ったために内戦があったと魏志倭人伝に記されています。その時に東海、畿内、山陰・近江などの土器が北部九州で見られるようになります。纏向遺跡の外来土器に見られる地方の人々がやってきています。日本建国のハイライトはここから起こっています。詳しくは「刮目天の古代史 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。
@@katumoku103世紀初頭から庄内式土器が博多湾周辺に多量に見つかっている。吉野ヶ里は3世紀に衰退するが逆に環濠が埋められ戦闘の痕跡がない。北部九州に戦闘の跡も都市遺跡もない。
@@renren5491 さん いいご指摘ありがとうございます。3世紀初頭はⅠA期ですが、在来系の土器がほとんどで、庄内式土器は筑前型庄内土器ですから北部九州人が交流した畿内人から教わったと考えていますので、畿内人はまだ北部九州には来てないようです。238年公孫氏が魏の司馬懿に討たれて卑弥呼が魏に朝貢する頃は、倭国は隆盛になるので、阿波・讃岐・紀州の勢力が狗奴国(纏向)を裏切って奴国に交易のためにやってきています。これは纏向遺跡のこの時期の外来土器にこれらのものが見られなくなり、奴国に畿内系土器が在来系と半々になることで分かります。ⅠB期です。詳細は「刮目天の古代史 【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」を参照ください。
吉野ヶ里遺跡はおっしゃる通りです。二世紀末の倭国大乱期に菊池川流域の方保田東原遺跡に結集した狗奴国側の山陰や畿内の勢力が吉野ヶ里などの倭国の集落を攻撃していることが鉄鏃の出土状況から判明しています。詳細は「刮目天の古代史 【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」を参照してください。
それは、だって伊都国の女王は、天照大神の女王系列だから。
神武天皇が東征しても、一部の皇室先祖たちは九州に残ったはずで、たまには近畿ー九州間で、手土産などのやりとりがあったと予想されます。
平原遺跡は、あきらかに皇室の三種の神器の原型、八咫鏡同デザイン鏡がでているし、勾玉も剣も出ているし、太陽信仰のあとがあると原田大六先生がいっていて、玉依姫の墓だといっています。
だから、伊都国の王様と女王様は、要は皇室の先祖といえます。
@@sunsun2181 すべて妄想。推古9年から逆算して1260年前に建国した神武。3せいきとは全く関係のない神話。
九州が弱体化し近畿邪馬台国の連合体に組み込まれた事実しか残っていない。
型湾沿岸、北部九州一円から近畿系土器が出ていて、吉野ヶ里からも大量に出土している。3世紀中葉、邪馬台国の時代に博多湾に小型前方後円墳が出現し、三角縁神獣鏡を伴っている。交易拠点港の遺跡西新町遺跡では、出土土器の3割が朝鮮式、3割が近畿式。これが実態だった。どこにも「東遷」する勢力はない。時間的隙間も存在しない。
邪馬台国の遺跡も出ないのによくもまあ。妄想だけの論理で押し通せるものだ。呆れかえる。
原田大六氏の著書を古本屋で見つけて大事にしています。一言二言。邪馬台国は朝倉扇状地でしょう。天照大神は2代。日御子と豊です。豊は豊の国豊前豊後を本貫とし日御子は肥の国を本貫とします。北九州勢力が日向・大隅・薩摩を傘下に収めて瀬戸内海奥に栄えていた黒歯国に神武東遷したという処まで。
原田先生は素晴らしいですが、邪馬台国は縄文人国家です。産地からして、四国山上説が有力だと思います。一方、ご承知のように皇室、天照大神は渡来系です。つまり、外国人の帰化人みたいなものです。弥生人です。人種が違います。
原田先生は昭和時代なので、DNA鑑定や、ミームという生物学知識がなかったので、読み誤ったのです。
伊都国はコシの糸魚川では??
私は伊都国の歴史があった、残念ながら消された‼️🙇
イトウ神を知りましょう…。😄記紀原本ホツマツタヱより
糸島高校にはたくさんの興味深い遺跡の破片?が保管されてた記憶が有ります!
なんでみなさん、邪馬台国の話ばっかりしてるんですかね?
魏志倭人伝に、「邪馬台国には馬はいない、カササギもいない」と書いてある。九州は「馬もいたし、カササギもいた」ので、邪馬台国ではない。
むしろ、伊都国は、皇室の先祖である、天照大神の直轄地といえます。
平原遺跡が、玉依姫の墓だと原田大六先生がいっています。要するに天照大神の子孫ってことです。おそらく、代々、皇室の先祖は、淡路島周辺に外国(中国?→朝鮮半島のようです。ただ中国が支配していました)からたどりついて、しばらく瀬戸内海や四国に住んでいたが、九州に移住して、しばらくはこの地を治めていたのでしょう。
そのあと、神武天皇は九州北部から、近畿に移住したかもしれないわけです。
糸島市も、はっきりと「糸島は天皇の先祖がおさめた土地」っていいきってもいいんじゃないかなあ。
三種の神器が、こんなにはっきりと出てくる土地って、他にあるんですか???
すみません。訂正です。
> 鹿児島や宮崎に移動して → 日向は、宮崎県ではなく、糸島市内の日向峠のことでした。つまり、糸島市内が日向なのです。原田大六先生の研究では、高祖山が 高千穂であり、クシフル岳は同じ名前の山があります。
ついでに、ちょっと移動して福岡市内の海岸沿いに、なんと「小戸」という場所があって、そこはイザナギが、根の国から逃げてきて死の穢れにふれて汚いというので、禊をした場所です。小戸神社というのもありまして、周囲はなかなかいい公園になっています。
鹿児島にいくことはあっても、どうもコノハナサクヤヒメの実家に、通い婚とかしていただけかなと思います。
そして、ここで説明されている、女性の墓はどうもコノハナサクヤヒメのものらしいです。結婚して安定したら、本拠地の糸島市内に戻って来たのでしょう。
この遺跡は大変すばらしく、皇室の先祖が眠る土地であり、中国や朝鮮半島との貿易拠点の王国でもあったのです。
素晴らしいので、もっと宣伝していただきたいです。がんばってください。
値皆炉棚買わなき
魏志倭人伝に出てくる伊都国は糸島市じゃありませんからね!
笑止千万片腹痛いって始めて思った🎉……おめでたいですね😊