第539回「逆風の中を生きる」2022/6/29【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

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  • Опубликовано: 28 дек 2024
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    ■管長日記「逆風の中を生きる」
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    ■note
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    最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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    六月二十八日は、円覚寺の中興の祖と仰がれる大用国師誠拙周樗禅師のご命日でありました。
    例年ですと、円覚寺の山内の和尚様方をお招きして法要を勤めますが、今年も修行道場のみで行いました。
    そこで床の間に大用国師の墨蹟をかけて、禅師をしのんでいます。
    「東山水上行」の書であります。
    この言葉は、『禅語辞典』に、「東の山が水の上を歩いて行く。思慮を超絶したそれの胎動。」と解説があるだけで、実に難解な禅語であります。
    山が水の上を歩くのですから、常識では考えられない話です。
    入矢先生が「それの胎動」と書かれていますが、そのなにものかが確かに躍動しているところが、この大用国師の書から感じられます。
    そんな勢いの感じる書であります。
    大用国師は、四国の宇和島のご出身です。
    三歳の時に父と死に別れます。
    母はまもなく再婚して、新しい夫との間に子供も出来ます。
    そうして七歳で宇和島の佛海寺で出家します。
    自らの意志というよりも、新しい夫婦の子供も出来てやむを得ぬ事情だったのでしょう。
    仏海寺では小僧として禅僧の基礎を学び、十六歳で行脚に出て、本格的な参禅弁道に励みました。
    幾多のすぐれた禅僧方を訪ねて修行されました。
    最後に横浜永田の宝林寺東輝庵に隠栖されていた武渓老人こと月船禅師に参じます。
    誠拙禅師二十歳の時、師の月船禅師は六十三歳でした。
    この方は古月禅師の法系ですぐれた禅僧です。
    三春の高乾院に住されて後に、永田の東輝庵に寓居されていたのです。
    偈頌にもすぐれていてその詩偈集『武渓集』が知られています。
    『武渓集』は、私が禅文化研究所から訳注本を出版させてもらっています。
    当時の禅界の状況はというと、江戸時代の中期から後期にかけて沈滞の時期であったと言われます。
    もともと円覚寺なども創建当初は山内全体が修行道場でした。
    それが、山内に代々の住持の塔所である塔頭ができて、だんだんと塔頭に住する者達が独自に修行するようになって、本山の修行は形式だけになってきました。
    そして江戸期には、宗風が沈滞してしまったようです。
    さてそういう沈滞の気風の中で、九州の古月禅師がでて、禅風を挙揚され、その同じ系統にあたると言われる月船禅師が関東で教化を挙げられました。
    そうして月船禅師の元で修行がほぼ完成したころに、大きな転機が訪れます。
    当時の円覚寺では数名の心ある僧たちによって、何とか円覚寺にも宗風を復古させようという機運が起こっていました。
    舎利殿開山堂をいただく円覚寺一番の聖地である正続院だけでも僧堂として伝統の修行を復活させようと努力していました。
    そこでもっとも大切なのはその指導者を得ることです。
    僧堂を復興して宗風を挽回してゆくその任に堪える指導者が何としてでも必要でした。
    その白羽の矢が立ったのが、当時円覚寺末寺にあたる永田の宝林寺内の東輝庵にいた青年僧誠拙その人でした。
    当時まだ弱冠二十六歳、その若者に円覚寺の将来が託されました。
    その当時の事を誠拙禅師は晩年に「逆水に走る」と表現していますように決して順風満帆ではありませんでした。
    逆風の中を船出したのです。
    こんな逸話が伝わっています。
    円覚寺再興の使命を帯びて円覚寺に来たものの、当時の円覚寺はあまりにもひどい状況で、修行道場とは言い難い状態でした。
    あまりにもひどい状況にはじめ誠拙禅師もあきらめて、お師匠さんの月船禅師の元に戻ってきます。
    どうしたのかと問われる師に、誠拙は「あまりにもひどい状況です。こんなにまでひどいとは思ってもいませんでした」と言うと、月船禅師はたった一言「みそこなったな」と言われたそうです。
    賢明な誠拙禅師はその一言ですべてを理解しました。
    見損なったというのは、月船禅師にしてみれば、そのようなひどい状況だからこそ、あなたに行ってもらって頑張ってもらいたいと期待して託したのです。
    それをすぐにこんなにひどいとはなどと言って泣き言を言って帰ってくるようでは、見損なったということです。
    その一言にすべてを悟った誠拙禅師はすぐさま円覚寺に引き返して、こんどはそれこそみんな修行を怠っていても、そこでお茶を汲んだり、茶碗を洗いながら、一々身を低くして道場の再興に取り組んだのでした。
    そんな逆風の中をひたすら坐禅指導に励み一生涯を僧堂のために尽くされました。
    そうして円覚寺の僧堂を復興されました。
    これだけでも一大業績ですが、大用国師は円覚寺だけにとどまらずに、六十二歳の時に八王子の広園寺にも僧堂を開単されました。
    六十四歳で僧堂師家をご自分の弟子の清蔭禅師に譲られ一時山内の伝宗庵に隠居され、更に横浜金井の玉泉寺に隠居しようとされました。
    ところが隠居の間もなく、明くる六十五歳で京都相国寺の大会に拝請され師家をつとめて『夢窓国師語録』を提唱、誠拙の名は天下に広まり、六十九歳で天龍寺の大会も師家をつとめ、天龍寺にも僧堂の基礎を築かれました。
    さらに最晩年の七十六歳で再び上洛され、今日の相国寺僧堂を開単、今も相国寺僧堂にはその時の禅堂が残っています。
    ところが、その時病に倒れ、心華院という今の大光明寺でご遷化なされます。
    文字通り僧堂の為に捧げた御一生でした。
    お釈迦様が伝道布教の旅の途中でなくなった事を思い起こさせます。
    僧堂の開単だけでも円覚寺と広園寺、天龍寺と相国寺においてなされたのでした。
    逆風の中を勇ましく駆け抜け、却って禅風を大いに巻き起こした勢いを、この「東山水上行」の書にも感じるのであります。
     
     
    横田南嶺
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