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とても興味深い解説です。一旦終わったように見えた源氏物語が、一条帝崩御による彰子の出家を阻止し、何とか立ち直らせ幼い二人の皇子を育て国母として生きて欲しいという強い願望があって執筆されたとは、驚きました。恋愛遍歴の物語と思われがちで現代ではかなりナイーブな感傷的要素が多いと感じられるわけも、こういう心理的理由が存在するのであれば、納得できます。作中で母の供養のため出家を望む秋好中宮を光源氏が思いとどまらせたり、紫の上の死を光源氏より先にして現実に生きる彰子に感情移入させるなど、作者のメッセージは読む人が読めばわかる設定になっているのですね。顕信の出家事件を婉曲的に薫の造形に使うなど、紫式部は観察眼や時勢にもさすがに鋭いです。以前の作風との違いは明らかに感じられますが、作者自身歳を重ね親族や周りの者の死や失脚など様々な経験を経ての厭世観や出家願望なども募ったのかもしれません。それでもこれほどの大作を完成させ、当時の人々の称賛を浴び時の権力者の心の内にまで影響を与えたその効果は、素晴らしいと思います。そんな中、この大作の最終話で最期まで変わらぬ男と変わる女という対比で男女の性行を端的にシンボライズした彼女は、さすがに当代一の物語作者ですね。
ドラマだと元気ですが、道長の病気時点で彰子はまだ相当悲しみの中にいたようですね。
本日のドラマ展開ともリンクしていて、タイムリーな配信ありがとうございます。彰子出家を止めるため、物語の順番を変えたとはテクニカルですね。源氏物語の政治的役割が変わり、道長のためではなく彰子のための物語になったのは興味深いです。宇治十帖は新しい世代の物語ですから、なるほど彰子周辺の皇族貴族の世界が反映されている訳ですね。匂宮のモデルが敦良親王とは知りませんでした。
やっぱり紫の上のモデルのメインは彰子だったんですね
改めて紫式部の彰子への貢献の大きさを知ることができました(感謝)。賢子はお母さんのお陰で高位に登り、この時代の女性としては考えられないような良い人生を送ったのですね。
先日の大河では式部が「雲隠」とだけ書いた紙を道長が発見する場面がありましたが、あれは、「雲隠」帖が書かれていたとも、タイトルだけ構想されて実際には書かれてなかったとも取れる描写ですね。
紫式部が実資の取り次ぎ役を辞した後、具平親王の所へ行って敦康親王を支えていた説は面白いですね。時系列もなんとなく合っているようにも思えますし。その説の通りなら彰子が道長の妨害で皇太子にしてあげられず遠ざけられた敦康親王を心配して手配したようで心が温まります。
宇治といえば平等院
宇治十帖定家作者説ってあったなぁ。大弐三位が言及してるらしいからその線はないでしょうけど。
「藤原伊尹・兼通の子供達のその後」をリクエストします。道長の親族たちのその後が体系的に知りたいです。
ほとんど行成、義懐と顕光の話で終わるんですよね…
とても興味深い解説です。一旦終わったように見えた源氏物語が、一条帝崩御による彰子の出家を阻止し、何とか立ち直らせ幼い二人の皇子を育て国母として生きて欲しいという強い願望があって執筆されたとは、驚きました。恋愛遍歴の物語と思われがちで現代ではかなりナイーブな感傷的要素が多いと感じられるわけも、こういう心理的理由が存在するのであれば、納得できます。作中で母の供養のため出家を望む秋好中宮を光源氏が思いとどまらせたり、紫の上の死を光源氏より先にして現実に生きる彰子に感情移入させるなど、作者のメッセージは読む人が読めばわかる設定になっているのですね。顕信の出家事件を婉曲的に薫の造形に使うなど、紫式部は観察眼や時勢にもさすがに鋭いです。以前の作風との違いは明らかに感じられますが、作者自身歳を重ね親族や周りの者の死や失脚など様々な経験を経ての厭世観や出家願望なども募ったのかもしれません。それでもこれほどの大作を完成させ、当時の人々の称賛を浴び時の権力者の心の内にまで影響を与えたその効果は、素晴らしいと思います。そんな中、この大作の最終話で最期まで変わらぬ男と変わる女という対比で男女の性行を端的にシンボライズした彼女は、さすがに当代一の物語作者ですね。
ドラマだと元気ですが、道長の病気時点で彰子はまだ相当悲しみの中にいたようですね。
本日のドラマ展開ともリンクしていて、タイムリーな配信ありがとうございます。
彰子出家を止めるため、物語の順番を変えたとはテクニカルですね。源氏物語の政治的役割が変わり、道長のためではなく彰子のための物語になったのは興味深いです。宇治十帖は新しい世代の物語ですから、なるほど彰子周辺の皇族貴族の世界が反映されている訳ですね。匂宮のモデルが敦良親王とは知りませんでした。
やっぱり紫の上のモデルのメインは彰子だったんですね
改めて紫式部の彰子への貢献の大きさを知ることができました(感謝)。賢子はお母さんのお陰で高位に登り、この時代の女性としては考えられないような良い人生を送ったのですね。
先日の大河では式部が「雲隠」とだけ書いた紙を道長が発見する場面がありましたが、あれは、「雲隠」帖が書かれていたとも、タイトルだけ構想されて実際には書かれてなかったとも取れる描写ですね。
紫式部が実資の取り次ぎ役を辞した後、具平親王の所へ行って敦康親王を支えていた説は面白いですね。時系列もなんとなく合っているようにも思えますし。
その説の通りなら彰子が道長の妨害で皇太子にしてあげられず遠ざけられた敦康親王を心配して手配したようで心が温まります。
宇治といえば平等院
宇治十帖定家作者説ってあったなぁ。
大弐三位が言及してるらしいからその線はないでしょうけど。
「藤原伊尹・兼通の子供達のその後
」をリクエストします。
道長の親族たちのその後が体系的に知りたいです。
ほとんど行成、義懐と顕光の話で終わるんですよね…