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ありがとうございます!これを励みとして、さらなる動画作成を頑張りたいと思います。投げ銭での応援感謝の気持ちでいっぱいです。
サオヒコの乱は文学作品としての『古事記』において、その頂点に君臨するエピソードになります。(僕も大好きです)カツラを被り玉の飾りや衣服が腐っているというのはつまり「死体になりつつある人間」を意味しており、イザナギ・イザナミの黄泉の国と同じなんですが、イザナギ・イザナミが「見るなの物語」という舶来品なのに対し、こちらは紛れもなく日本オリジナルという意味でも興味深いです。
このサホヒメが子供を炎の中で産むことなどコレハナサクヤ姫が神武天皇を産む話とそっくりだしサホヒメが生んだホムツワケオウだったかな?この人物は、皇太子にもなれなかった皇子なのにやたら詳しく記載されている。こうしたことから応神天皇と同一人物ではないかとする説が以前からありますよ
中国の春秋時代だったかにも少し近い話で確か父親と夫のどっちに味方するか?的に悩んでて実母に相談したら夫は他人だし代わりはその辺にいくらでもいるが実の父親はこの世にただ一人だと言われて夫の謀殺に協力した話があったような…こういう故事を思うと今の時代も血族で会社や組織を固めようとするのは人の性であり業なのかも
その話は確かに自分も聞いた事があります。価値観はやはり時代によって変わってくるものでもあるのかなとも感じました!いつも投げ銭ありがとうございます!励みにして頑張ります!
ブスは帰れと言うニニギの遺伝子しか感じないw
ありがとうございます!
ありがとうございます!励みとして頑張ります!感謝です。
ゆっくり動画は背景が動いていないことがコピペ動画とAIに判断される要因になってると聞いたことがあります背景を繰り返しでも意図的にモーションさせることで収益化が回復したようです
野見宿禰と当麻蹴速に相撲とらせたのが垂仁天皇。某漫画のネタにされてそれが一番知名度のあるエピソードかも。
長い!嬉しい❣️
こんなオモロい話を何故残したかが古代史最大の謎では?例の矢とか蛇もそうだけど。
そりゃあ、おもろいからでしょうねぇ笑記紀が政治的バイアスのもとで記されたというのは事実なのでしょうけど、編纂された時代よりだいぶ前なので、そんな余計な配慮もいらず、なんとしても残したかったのでしょう笑なんでもかんでも政治的に解釈すると、当時の人たちの感覚が理解できなくなりそうにおもえます。
動画ありがとうございます。今回は垂仁天皇の話ですが、妻を何とか取り戻そうとするエピソード、いとしい子どもに何とか言葉を発しさせようと格闘するエピソード、4人の娘のうち2人の娘を返す話とかを知ることで天皇個人の人間臭さ、俗っぽさに歴史上の人物の面白さを感じます。戦前の国史教科書だと天皇の神聖性を強調することで国家のアイデンティティを確立させていたから、不都合な部分はカットされてしまうのですけど、その意味では戦前の皇国史観は極めてイデオロギッシュなものであったと言えますね。任那をどう解釈するかはご指摘の通り、日本と韓国とでは解釈が異なりますからね。(近年では韓国側の説の方が妥当なのではというのが日本でも主流の説となっていますが)そこら辺も踏まえて考察したほうがいいかもしれません。」
サホヒコ王の乱は、ヒメヒコ制の終わりを告げるものだったとの説もある女性が巫女として神事を執り行い、男性がそれに基づいた政治を行う。当時の神権政治を続ける旧体制と軍事が重視される新体制の争いがサホヒコ王の乱ではなかったかとの事だもちろんここでの新体制とは天皇の側だがなそうなると、このサホヒコ王の乱は超古代と古代との歴史の境目でありより大きな意味があったのかも知れない。ついでに言えば、記紀では乱はさらりと書いているが。実際はより激しい畿内はもちろん、当時の朝廷を二分する大戦争だったのだろう
景光天皇になるとヤマトタケルの話は欠かせませんね。
私の地元には垂仁天皇の王子が奉られてる古墳付きの神社がありますね🙄なので管轄も寺社庁でなく宮内庁になってます😇
おぉ、面白かった。ネトラレは無かったとは思うが、心は完全に寝取られてたなぁ。垂仁天皇の度量が見えますなぁ。あれだ、皮肉かもしれん。が、国の歴史書に皮肉が書かれるとか、あるのでしょうかね。次の任那、伊勢神宮は非常に期待しております。
垂仁天皇とサオビメのエピソードはある意味垂仁天皇の執着というかプライド投げ捨てて追いかけていますよね。結構好きな話だったりします。(なお垂仁天皇の度量についてはノーコメントですw)朝鮮半島との関わりはこの時代は割けては通れないですし、れーしさんはニュートラルな立場で解説してくださるので個人的には楽しみにしています。
うぽつです。NTRは悪い文明。
遅ばせながら解説お疲れ様です人間臭いですなぁ(笑)この辺は昼ドラを読んでる気分になります。そして折角喋れたのに聞いて貰えないホムチワケwww
出雲から逃げ帰るオノコの多さよ
古代戦は稲で柵を築くのですね。まだ城を作る技術が発達してないから、下手な壁より稲穂の方が防御力高いのかな?
垂仁紀には野見宿禰や但馬守、都怒我阿羅斯人らの記述もあり、これらのエピソードではかなり度量も広く賢王として振る舞っていますよ。私は任那王となった都怒我阿羅斯人が魏志倭人伝と関係しているのではないかと考えています。彼のさ迷いながら大和に辿り着いたルートが魏志倭人伝の不思議な旅程に似ていると感じたことと、考古学的に見て魏志倭人伝の時代は祟神天皇、垂仁天皇の時代頃で纏向遺跡からは東は関東西は九州までの広い範囲から土器によって食糧等を運ばせていたことから当時の倭人国の中心が大和であり、任那なり筑紫なりが大和に無断で帯方郡と外交関係を持った為に皇室の正史に魏の記録が残らなかったのではないかと考えます。
この時代の支配は強固には確立してなかったのだろう。私は魏志倭人伝の畿内説を取るが。当時の朝廷は有力豪族による連合国家との説が有力だこの支配体制は室町幕府をみればわかるように不安定でさ実際、室町幕府は何人もの将軍が暗殺されたり、内乱が何度も起こったり色々とあるからな。当時の朝廷も、けっこう天皇を排出する家が変わる事も多かったのではないかそんな気がするよ万世一系を築くために、歴代天皇はどれも同じ血筋から出ている事になっているが。実際は何度も交代があったのではないか、記紀ではそれを隠して親子って事にしたり別の王権の支配であったのを、天皇の血筋が大王だったことにしたり。そんなこともあったのではないかとねだから、サホヒコ王の乱も、実は天皇側のクーデターだった可能性はないか。何て考えたりする当時、畿内を支配していたのはサホヒコの側であり、垂仁天皇の側がクーデターを起こして妥当したとかね
@@御神誉黎 まだ誕生したばかりの大和王権に万世一系が思想化していたわけでもないでしょう。また邇芸速日命も天孫族であり他にも尾張連の祖と言われる火明命など既に天孫族は各地で豪族として定着しており、これら天孫系豪族を纏める血統主義としてその血筋が重要視されていたのではないでしょうか。万世一系は清寧天皇から継体天皇までの間に直系男子で継ぐことができなかった時期に男系で継ぐことを考案されると共に生じた考えだったはずです。
@@御神誉黎 一方で地方領主によるニ重朝貢は江戸時代に朝鮮国にも臣下の礼を取った対馬藩等の例もあり地方分権社会ではまあまああったことではないでしょうか。足利義満なんて皇室に無断で日本国王として日宋貿易を行ってましたし。またこの時代の少し後の宋書倭国伝の倭の五王も天皇ではなく、朝鮮半島方面統治を命じられた大臣のことではないでしょうか。
@@神谷隆行 いや、万世一系は記紀編纂時は重視されていた。実際に記紀にどう記録されていたかが重要だからなあと、天孫とはニニギノミコトやそれに随伴して来た神々の末裔のことを言うのでありそれ以前の神々の血筋は国津神の末裔となり天孫ではないよ実際のところ、記紀が編纂されたのは七世紀のことであり。七世紀の政治状況が重視されて編纂されており。それをもって垂仁天皇の時代である三世紀・四世紀ごろのことを推測するのは難しいのだが記紀以外に信頼できる記録がない以上、そうするしかないそれを前提で考えているのですけど、私は物部氏などの神別氏族は朝廷への服属が遅れた外様大名的な有力氏族ではないかと推測しているよ。
@@御神誉黎 記紀編纂なら継体天皇よりずっと後じゃないですか。あと火明命は邇邇芸命の子ですよ。 火遠理命(山幸彦)火照命(海幸彦)の三兄弟の二男ですよ。
垂仁天皇「朕は…朕は…殺したくなんかなかったのにぃぃっ!!」 あんなに一緒だったのにー♪
御前試合でデスマッチをやらせて負けて死んだほうの土地を勝った方に与えるとか凄まじい。ウケイ的な要素もありそうですが。
「お前等は実家に帰れ」で何故か志村けんのバカ殿を思い出して笑ってしまった
「そちの名はなんと申す」「サホビメと申します」「じい布団をしけ」
良い天皇だな。ぬこ天皇と同じくらい好こ。イイハナシダナー😍
このサホヒメのことは古事記の中でもヤマトタケルの伝承と並んで物語性が強い話とされているがただ、よく言われるように兄との近親相姦だったかと言えば、実際にそういう事があったかどうかはわからないにしてもサホヒメが兄の側に行ったのは、恋愛云々よりも、当時の社会制度によるものだっただろう当時の日本は母系社会でね。生まれた子供は母親の一族に属し、母親とその兄弟とか一族で育てていたある意味、父系はどうでもよかったのだよ結婚制度もいまとは比較にならないくらい緩く、男は妻のもとに通い、通わなくなったらそのまま離婚が成立するって感じだだから一夫多妻というよりも、多夫多妻の時代でさ。サホヒメは皇后になったと言っても出身の氏族の人間だったわけでありサホヒコ王の一族が反乱を起こした以上は彼女も兄の側につくのは当然だったのだおそらく垂仁天皇の時代の三世紀から四世紀ごろに中国の考え方が入り、それ以前よりは男系も重視されるようになったのでしょうけど平安時代までは通い婚が普通であり母系を重視する習俗は続いていた。
お待ちしておりました!シャキ━━━━(`・ω・´)━━━━ン!!
サホヒコ王の乱の後で、丹波の四姉妹が垂仁天皇に嫁入りしているが。古事記の記述はサホヒメが進めたとあるが、もちろんこれをそのまま信じる事はできないサホヒコ王の乱で丹波が何等かの成果があったから、天皇は丹波を重視する必要が出来たと考えるべきだろうな興味深いのはサホヒコとサホヒメそれに宇斯王は開化天皇の皇子の彦坐王の子とされているこれもそのまま信じる事は出来ないな記紀編纂時に何かの事情でそうしたか。そうでないなら、何か歴史的な必然性があったか穿った見方をすれば丹波と佐保は同盟関係にあったと考える事もできる。氏族というのは疑似血縁関係だから同族の誼が丹波と佐保の氏族の間で結ばれていた。そのことが記紀に反映され、サホヒコと宇斯王は兄弟と言う事になったとなそうなると、丹波は佐保を裏切って漁夫の利を得たとか考えたりするがまあ、古事記の記録からの推測ですね
長髄彦の墓か 富雄古墳
垂仁天皇は纏向に都を置いて政治及び祭祀を行いました。
垂仁天皇は享年138歳、田中カ子さん119歳
大国主ごめんなさい
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このサホヒメが子供を炎の中で産むことなどコレハナサクヤ姫が神武天皇を産む話とそっくりだし
サホヒメが生んだホムツワケオウだったかな?
この人物は、皇太子にもなれなかった皇子なのにやたら詳しく記載されている。
こうしたことから応神天皇と同一人物ではないかとする説が以前からありますよ
中国の春秋時代だったかにも少し近い話で確か父親と夫のどっちに味方するか?的に悩んでて実母に相談したら夫は他人だし代わりはその辺にいくらでもいるが実の父親はこの世にただ一人だと言われて夫の謀殺に協力した話があったような…
こういう故事を思うと今の時代も血族で会社や組織を固めようとするのは人の性であり業なのかも
その話は確かに自分も聞いた事があります。価値観はやはり時代によって変わってくるものでもあるのかなとも感じました!いつも投げ銭ありがとうございます!励みにして頑張ります!
ブスは帰れと言うニニギの遺伝子しか感じないw
ありがとうございます!
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背景を繰り返しでも意図的にモーションさせることで収益化が回復したようです
野見宿禰と当麻蹴速に相撲とらせたのが垂仁天皇。某漫画のネタにされてそれが一番知名度のあるエピソードかも。
長い!嬉しい❣️
こんなオモロい話を何故残したかが
古代史最大の謎では?
例の矢とか蛇もそうだけど。
そりゃあ、おもろいからでしょうねぇ笑
記紀が政治的バイアスのもとで記されたというのは事実なのでしょうけど、編纂された時代よりだいぶ前なので、そんな余計な配慮もいらず、なんとしても残したかったのでしょう笑
なんでもかんでも政治的に解釈すると、当時の人たちの感覚が理解できなくなりそうにおもえます。
動画ありがとうございます。
今回は垂仁天皇の話ですが、妻を何とか取り戻そうとするエピソード、いとしい子どもに何とか言葉を発しさせようと格闘するエピソード、4人の娘のうち2人の娘を返す話とかを知ることで天皇個人の人間臭さ、俗っぽさに歴史上の人物の面白さを感じます。
戦前の国史教科書だと天皇の神聖性を強調することで国家のアイデンティティを確立させていたから、不都合な部分はカットされてしまうのですけど、その意味では戦前の皇国史観は極めてイデオロギッシュなものであったと言えますね。
任那をどう解釈するかはご指摘の通り、日本と韓国とでは解釈が異なりますからね。(近年では韓国側の説の方が妥当なのではというのが日本でも主流の説となっていますが)そこら辺も踏まえて考察したほうがいいかもしれません。」
サホヒコ王の乱は、ヒメヒコ制の終わりを告げるものだったとの説もある
女性が巫女として神事を執り行い、男性がそれに基づいた政治を行う。当時の神権政治を続ける旧体制と
軍事が重視される新体制の争いがサホヒコ王の乱ではなかったかとの事だ
もちろんここでの新体制とは天皇の側だがな
そうなると、このサホヒコ王の乱は超古代と古代との歴史の境目であり
より大きな意味があったのかも知れない。
ついでに言えば、記紀では乱はさらりと書いているが。実際はより激しい畿内はもちろん、当時の朝廷を二分する大戦争だったのだろう
景光天皇になるとヤマトタケルの話は欠かせませんね。
私の地元には垂仁天皇の王子が奉られてる古墳付きの神社がありますね🙄
なので管轄も寺社庁でなく宮内庁になってます😇
おぉ、面白かった。
ネトラレは無かったとは思うが、心は完全に寝取られてたなぁ。垂仁天皇の度量が見えますなぁ。
あれだ、皮肉かもしれん。が、国の歴史書に皮肉が書かれるとか、あるのでしょうかね。
次の任那、伊勢神宮は非常に期待しております。
垂仁天皇とサオビメのエピソードはある意味垂仁天皇の執着というかプライド投げ捨てて追いかけていますよね。
結構好きな話だったりします。(なお垂仁天皇の度量についてはノーコメントですw)
朝鮮半島との関わりはこの時代は割けては通れないですし、れーしさんはニュートラルな立場で解説してくださるので個人的には楽しみにしています。
うぽつです。
NTRは悪い文明。
遅ばせながら解説お疲れ様です
人間臭いですなぁ(笑)
この辺は昼ドラを読んでる気分になります。
そして折角喋れたのに聞いて貰えないホムチワケwww
出雲から逃げ帰るオノコの多さよ
古代戦は稲で柵を築くのですね。
まだ城を作る技術が発達してないから、
下手な壁より稲穂の方が防御力高いのかな?
垂仁紀には野見宿禰や但馬守、都怒我阿羅斯人らの記述もあり、これらのエピソードではかなり度量も広く賢王として振る舞っていますよ。
私は任那王となった都怒我阿羅斯人が魏志倭人伝と関係しているのではないかと考えています。彼のさ迷いながら大和に辿り着いたルートが魏志倭人伝の不思議な旅程に似ていると感じたことと、考古学的に見て魏志倭人伝の時代は祟神天皇、垂仁天皇の時代頃で纏向遺跡からは東は関東西は九州までの広い範囲から土器によって食糧等を運ばせていたことから当時の倭人国の中心が大和であり、任那なり筑紫なりが大和に無断で帯方郡と外交関係を持った為に皇室の正史に魏の記録が残らなかったのではないかと考えます。
この時代の支配は強固には確立してなかったのだろう。
私は魏志倭人伝の畿内説を取るが。
当時の朝廷は有力豪族による連合国家との説が有力だ
この支配体制は室町幕府をみればわかるように不安定でさ
実際、室町幕府は何人もの将軍が暗殺されたり、内乱が何度も起こったり
色々とあるからな。当時の朝廷も、けっこう天皇を排出する家が変わる事も多かったのではないか
そんな気がするよ
万世一系を築くために、歴代天皇はどれも同じ血筋から出ている事になっているが。
実際は何度も交代があったのではないか、記紀ではそれを隠して親子って事にしたり
別の王権の支配であったのを、天皇の血筋が大王だったことにしたり。そんなこともあったのではないかとね
だから、サホヒコ王の乱も、実は天皇側のクーデターだった可能性はないか。何て考えたりする
当時、畿内を支配していたのはサホヒコの側であり、垂仁天皇の側がクーデターを起こして妥当したとかね
@@御神誉黎 まだ誕生したばかりの大和王権に万世一系が思想化していたわけでもないでしょう。また邇芸速日命も天孫族であり他にも尾張連の祖と言われる火明命など既に天孫族は各地で豪族として定着しており、これら天孫系豪族を纏める血統主義としてその血筋が重要視されていたのではないでしょうか。
万世一系は清寧天皇から継体天皇までの間に直系男子で継ぐことができなかった時期に男系で継ぐことを考案されると共に生じた考えだったはずです。
@@御神誉黎 一方で地方領主によるニ重朝貢は江戸時代に朝鮮国にも臣下の礼を取った対馬藩等の例もあり地方分権社会ではまあまああったことではないでしょうか。足利義満なんて皇室に無断で日本国王として日宋貿易を行ってましたし。
またこの時代の少し後の宋書倭国伝の倭の五王も天皇ではなく、朝鮮半島方面統治を命じられた大臣のことではないでしょうか。
@@神谷隆行
いや、万世一系は記紀編纂時は重視されていた。実際に記紀にどう記録されていたかが重要だからな
あと、天孫とはニニギノミコトやそれに随伴して来た神々の末裔のことを言うのであり
それ以前の神々の血筋は国津神の末裔となり
天孫ではないよ
実際のところ、記紀が編纂されたのは七世紀のことであり。七世紀の政治状況が重視されて編纂されており。
それをもって垂仁天皇の時代である三世紀・四世紀ごろのことを推測するのは難しいのだが
記紀以外に信頼できる記録がない以上、そうするしかない
それを前提で考えているのですけど、私は物部氏などの神別氏族は朝廷への服属が遅れた外様大名的な有力氏族ではないかと推測しているよ。
@@御神誉黎 記紀編纂なら継体天皇よりずっと後じゃないですか。
あと火明命は邇邇芸命の子ですよ。 火遠理命(山幸彦)火照命(海幸彦)の三兄弟の二男ですよ。
垂仁天皇「朕は…朕は…殺したくなんかなかったのにぃぃっ!!」 あんなに一緒だったのにー♪
御前試合でデスマッチをやらせて負けて死んだほうの土地を勝った方に与えるとか凄まじい。ウケイ的な要素もありそうですが。
「お前等は実家に帰れ」で何故か志村けんのバカ殿を思い出して笑ってしまった
「そちの名はなんと申す」「サホビメと申します」「じい布団をしけ」
良い天皇だな。
ぬこ天皇と同じくらい好こ。
イイハナシダナー😍
このサホヒメのことは古事記の中でもヤマトタケルの伝承と並んで物語性が強い話とされているが
ただ、よく言われるように兄との近親相姦だったかと言えば、実際にそういう事があったかどうかはわからないにしても
サホヒメが兄の側に行ったのは、恋愛云々よりも、当時の社会制度によるものだっただろう
当時の日本は母系社会でね。
生まれた子供は母親の一族に属し、母親とその兄弟とか一族で育てていた
ある意味、父系はどうでもよかったのだよ
結婚制度もいまとは比較にならないくらい緩く、男は妻のもとに通い、通わなくなったらそのまま離婚が成立するって感じだ
だから一夫多妻というよりも、多夫多妻の時代でさ。サホヒメは皇后になったと言っても出身の氏族の人間だったわけであり
サホヒコ王の一族が反乱を起こした以上は彼女も兄の側につくのは当然だったのだ
おそらく垂仁天皇の時代の三世紀から四世紀ごろに中国の考え方が入り、それ以前よりは男系も重視されるようになったのでしょうけど
平安時代までは通い婚が普通であり母系を重視する習俗は続いていた。
お待ちしておりました!シャキ━━━━(`・ω・´)━━━━ン!!
サホヒコ王の乱の後で、丹波の四姉妹が垂仁天皇に嫁入りしているが。
古事記の記述はサホヒメが進めたとあるが、もちろんこれをそのまま信じる事はできない
サホヒコ王の乱で丹波が何等かの成果があったから、天皇は丹波を重視する必要が出来たと考えるべきだろうな
興味深いのはサホヒコとサホヒメそれに宇斯王は開化天皇の皇子の彦坐王の子とされている
これもそのまま信じる事は出来ないな
記紀編纂時に何かの事情でそうしたか。
そうでないなら、何か歴史的な必然性があったか
穿った見方をすれば丹波と佐保は同盟関係にあったと考える事もできる。氏族というのは疑似血縁関係だから
同族の誼が丹波と佐保の氏族の間で結ばれていた。そのことが記紀に反映され、サホヒコと宇斯王は兄弟と言う事になったとな
そうなると、丹波は佐保を裏切って漁夫の利を得たとか考えたりするが
まあ、古事記の記録からの推測ですね
長髄彦の墓か 富雄古墳
垂仁天皇は纏向に都を置いて政治及び祭祀を行いました。
垂仁天皇は享年138歳、田中カ子さん119歳
大国主ごめんなさい