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歴史に書かれてないことを想像するから面白いんですよね。キングダムは「史記に書かれていること」ではなく「史記に書かれていないこと」を描いたフィクションですからね
いつも楽しい動画をありがとうございます。同じ歴史チャンネルを持つものとして切磋琢磨できるのはうれしいことです。
史記も読みました 1%も頭に残ってませんけど 今回も力作でしたね 頑張ってください 楽しみにしております
史記を読まれたんですね。列伝の辺りが物語形式になっていて読みやすいと感じております。信陵君列伝、刺客列伝、平原君列伝、廉頗藺相如列伝の辺りが読みやすいと感じている次第です。応援ありがとうございます。感謝しております。
龐煖って文官だけど燕を破ってるしあの作品と逆でめちゃくちゃ器用ですよね
一応キングダムの龐煖だと医術にも心得があるのか李牧の怪我治してたけどねwそこそこ器用なのは間違いないw
戦国四君として並列に語られる4人の中でも軍事的能力では信陵君が圧倒的に優れてたと思うし、その信陵君が亡くさらに各国が弱体化した状態だったら誰が率いても負けてたと思う。
確かに誰が率いても負けた可能性はありますよね。秦の圧倒的な国力もありますし・・。合従軍にとっては、かなり難易度の高い戦いだったんでしょうね。
だからこそ秦の自壊と秦にとって代わる絶対的存在の誕生が必要だと気付いた人(多分韓非子辺りか?)がいたのでは。秦の中華統一を経て始皇帝の死をきっかけに秦が崩壊するのは函谷関の戦いから更に30年以上経ってからの事。そして項羽と劉邦による楚漢戦争から劉邦を始祖とする漢王朝の成立へ至るだが、成立したばかりの漢は匈奴に負けたり粛清と権力争いや反乱が起きたりと舵取りを間違えれば秦の様に崩壊する危険性を孕んでいた。それらに真剣に対処する事で漢は長期政権を築く事に。勿論、匈奴との戦いの中で鉄器が普及し、転炉の誕生で更に頑丈で大量の鉄器が生産出来る様になったのも大きい。
キングダムとは違う発想ですね。 古代の歴史書は内容が端的だけど、いろいろと発想できるから面白いですね。しかも、著者によって、見方が違うので、複数の記録で真実を創造するのですね
合従軍の成すべきことは秦の力を大幅に削ぐことで、その為に抜きがたい函谷関を避け、精兵を以って秦国内の城邑を攻めるのは有り得たのかなと。敵国内に入り込んだ軍隊は略奪し放題で攻め続けられますし。動画でも語られたように、それらはあくまで函谷関に秦軍を引きつけられていればのお話ですが。亡国の危機にさらされた秦軍に対し、渋々合従軍では太刀打ちできなかったのも納得な感じします。これからもうぷ主さまの考察や妄想を盛りに盛った動画を楽しみにしてますね!
確かに、秦の首都に近い地域で略奪を行うだけでも、秦に打撃を与える事は出来ますよね。仰るように咸陽の付近まで来られて本気になった秦軍に、他国任せの部分もある合従軍では、きつかったのかも知れませんね。動画を見てくれてありがとうございます!感謝しております!
すみません。雰囲気を壊すことを言いますが、始皇帝がサイに陵墓を作ったのは、即位後すぐだそうです。子供の頃買った歴史本に「即位したばかりの少年王が自分の墓を作るのは奇妙なことだが」と書いてあり、すごく印象に残ってます。調べると即位が紀元前247年13歳の頃ですね。合従軍は動画の中でもご紹介されている通り前241年。でも今も残る始皇帝の墓が、あの漫画の一番クライマックスの中の最後の戦いの場所にあるなんてすごいですね。ホウケンは作りかけの陵墓の上に布陣したのかもしれません。張良はもちろんこの事件を知っていて、劉邦に進言して函谷関を避けて武関ルートで秦を滅ぼしたのでしょうね。
丁寧な返信ありがとうございます。私の方が間違っていたようです。申し訳ございません。動画を作っている時は気が付かなかったんですが、始皇本紀に連合軍が寿陵を取ったとする記述がありました。寿陵が自分は単なる地名だと思っていたのですが、「寿陵=生前に作るお墓」だったようです。それを考えると、始皇帝の陵墓を占領したという事になると思いました。考察お見事だと思いました。ご指摘ありがとうございました。
@@れーしch歴史 様、細かいことをすみません。もしかしたら、即位時にはサイじゃなくて別の場所に作ったけど、サイに感動して移したのかもしれませんね。昔ちょっと考えたけど、なんで墓みたいな荒らされる対象の場所(先代の霊廟は、現国王が一番守らなければならない場所、と古代中国史の本に書いてあった)を国の玄関口の方向に作ったんだ?と思いましたし。ある説では「征服した六国に対する威嚇」のように書いてあったので、あえて人々の目につきやすい場所に自分の墓を作って、自分や国の権威を高めようとしたのかな?とも思いました。これに関する質問を、ヤフー知恵袋でして見ますね。
@@パグ13 いえいえ、こちらこそ気を遣って貰って申し訳ないです。当時の陵墓に対する思想は分からないんですけど、不可解だと感じる部分もありますよね。それか秦王政が即位した時代は、秦が圧倒的に強く秦王政が「まさかここまで敵が攻めて来る事はないだろう」と思って作ったのかな??と想像した事もありました。でも、仰るように自分の権威の高さを見せつけるというのもあったと考えております!
拝見しました。アニメのキ○グ○ムでもいい感じですね。この簡素な記述を何巻にもわたって膨らませるのは本当にすごいです。この動画で知りましたが、さらっと書いているサイがそこまで近いとは思わなかったです。この動画をみるまでは知らないままだったと思います。最後に、、、ぎょう攻めは終わったのかなぁ。漫画喫茶は最近のアレがあるからいけないのが辛いです。
ぎょう攻めおわりましたよ
@@プリンライス 終わったのですね!お知らせありがとうございました‼️
ホウケンが知将…カン明が文官…漫画面白くする為に猛将に変えたんでしょうね。
33:43龐煖を蒙驁が討ち取ると逆になってしまっています
本当ですね。申し訳ございません。概要欄に訂正しておきます。ご指摘ありがとうございます。
@@れーしch歴史 ご丁寧に返信ありがとうございますコロナ始まったころからですが動画楽しく見させていただいております次回作も楽しみにしていますので頑張ってください
こんばんは。お久しぶりです。いつも動画を楽しんでいます。仕事が忙しく、なかなかれーしさんの動画のコメントできなかったのですが、久々にしてみました。蒙驁将軍の死の経緯ですが、私の持っている史記(中国古典文字大系10、平凡社出版)では、蒙驁の死の記述後に「竜・孤・慶都を攻めて、引き返した軍兵で汲を攻めた」とあるので、蒙驁の死と竜ら3都市を攻めたのとは関係ないんじゃないかな?と思います。また蒙驁程の大将が竜ら3都市を攻めた際に戦死する大敗をしたのに、引き返した際に汲を落とせたというのも変ですし…私個人の私見ですが・・・紀元前241年の合従軍による函谷関や蕞攻めは、函谷関に秦軍主力を引き付け動きを封じ、龐ケン率いる別軍が蕞など秦本土に攻め入り攪乱、王都咸陽を攻める素振りを見せて増援等の動きも押さえたうえで、前年に秦に奪われた東郡の奪還を図った。ところが予想に反して函谷関の秦軍主力が関に籠るどころが討って出てきて、合従軍主力を打ち破ってしまった秦本土に取り残された龐ケン率いる別軍は、脱出できなくなる前に蕞攻めを解いて東進し、東郡の確保を確実にしたため、反撃してきた秦軍も衛付近まで取り戻したが、東郡自体は取り戻せなかった翌240年、趙では慶舎や傅抵に平邑や東陽を守らせるなど、秦の東郡奪回に対して守りを固めなか、秦始皇帝本紀では彗星(ハレー彗星)が見えたという記述を経て蒙驁の死が記述され、その後竜・孤・慶都を攻めて、引き返した軍兵で汲を攻めた事が記述されている事から、なんとか東郡をほぼ奪還したのだと思いますこのような妄想をする理由として、始皇帝本紀では紀元前241年(始皇帝6年)に韓・魏・趙・衛・楚が攻め込んできた際に秦軍が出兵すると5国の軍が退いたとあり、また春申君列伝では函谷関につくと秦が兵を繰り出して諸侯の軍を攻め、皆敗走したとあるので、この時の戦いはキングダムで描かれる様な秦側が函谷関に籠って迎え撃ったというよりも、むしろ秦軍が諸侯の意表をついて守るどころか討って出てきたので、秦軍は籠るだろうと高をくくっていた春申君率いる諸侯は大敗してしまったのではないか?と思ったのが第一ですそして、その後の記述として、史記には東郡を再度攻めとるような記述が散見されます始皇帝本記では続いて秦軍は衛を抜いて東郡に迫ったと記述されていたりしてますし※個人的には衛はやはり秦を裏切り合従軍に加わったのだと思います。当時の王「元君」は魏の娘婿でもあるので、合従軍に加わった隣国魏に逆らえなかったのかもしれません結局元君は野王(現在の河南省沁陽市)に移されたわけですが、秦軍は東郡に迫ったとある事から、東郡は合従軍勢に奪われていた。秦は衛までは奪い返せたが、それ以降は紀元前241年までには奪還は出来なかったとも思えますまた趙世家では趙では紀元前241年に慶舎や傅抵に平邑や東陽(黄河北岸の地)を守らせたとあり、黄河南岸にも軍を配置していたことから、秦と東郡を遮断しているようにも思える事から、この配置は東郡奪還を図る秦への備えだったかもしれませんあと、汲は恐らく現在の河南省衛輝市(戦国期は汲邑だが、邑は村と同義の集落という意味なので名は汲と思えます)なので、東郡(現在の河南省濮陽市と山東省聊城市)よりも西、魏の王都である大梁の黄河を挟んで大体北側の地点です紀元前242年(始皇帝5年)に東郡を設置したのに、翌年の合従軍戦を経て紀元前240年(始皇帝7年)に汲を制圧している事から、この頃には東郡をほぼ奪還できたのかもしれません私個人としては、キングダムとは異なり、この時点ではもう秦の一人勝ちに近い状況だったと思いますその中で残りの侵略を受けている国が、連合して秦と戦うなら、秦本国に攻め込むよりも、秦主力を牽制しつつ、奪われた土地の奪還、前年にとられた東郡一帯を奪還して、少しでも国力差を埋める方に全力を尽くした方が、理にかなっているんじゃないかなと思います一人勝ちの秦、主力軍が籠る要害函谷関に籠らせて、五か国軍が決戦を挑んでも勝てるとは思えませんし、ましてや精鋭部隊だけとはいえ龐ケン率いる連合軍が秦本土に侵入して蕞を攻めても、函谷関で戦いつつ、これらを撃退するだけの余力を秦は持っていたと思いますし色々と私見を書かさせてもらいました。史実的に正しいと自信があるわけじゃないですが(笑)ご参考までに読んでいただければ幸いです
合従軍の作戦が並行して東郡の攻略も行う多正面作戦だったと言うのはとても興味深い指摘ですね。しかし、位置的に見て東郡に秦の有力な軍勢がいたのでは函谷関の攻略もままならないような気がするのですが。順番として、最初に合従軍が東郡の守備兵力を蹴散らしてそれから函谷関正面での戦いに移行したと言うことはないでしょうか?また、「攻める素振り」にしては蕞は突出し過ぎな気がします。やっぱりこの作戦は本気で咸陽を陥とすつもりで行われたのではないでしょうか?咸陽を陥とせば秦内部に動揺が拡がって有利な条件で講和できるかもしれないし撤退するにしても咸陽を劫掠してから引き揚げた方が大ダメージを与えられますから。
RedAluminum さん態々返信ありがとうございます東郡って秦から函谷関を経て趙と魏の国境間を東に伸びた先今現在キングダムで話題の趙(当時は魏領)の鄴の近くにある地なんですよねそういった、いわば国境の突起状態だった東郡の基部にあたる地点の函谷関を先に攻めた方が、東郡と秦本国を分断して東郡を孤立化させて攻略を容易にできる様にするという魂胆もあったのではないかと思います突起点であるので韓魏趙双方が攻めやすいという点もあると思いますし東郡は設置されてまだ一年も経っていない状態です秦の統治も一年どころか半年も経過していないかも知れない状況ですから秦が大軍を配置していたとしても、東郡自体を完全に掌握できていたとは思えませんその中で秦軍が退路を脅かされながら防衛するのは困難だと思います東郡に態々軍勢を差し向けずとも、秦本国との連絡路でもある函谷関を秦主力軍とともに封鎖すれば、東郡は自ずと合縦軍側に降る可能性はあると思いますまた始皇帝本記の方では韓魏趙衛楚の連合軍は函谷関を攻めたとは書いておらず寿陵を取ったとあります寿陵は前年に蒙驁が抜いた6拠点の一つ燕(国の燕とは別の土地名)を改名した土地らしいのですが、函谷関とは離れており、函谷関を攻めた春申君率いる軍勢とは別の軍勢が東郡奪還に動いたのかも知れません蕞攻めについては史記の趙世家でしか記録がなく文も少ないですが、そこには龐ケンは各国の精鋭軍を率いたとありますただ、同年に春申君が合縦軍を率いて函谷関を攻めてる状態で精鋭軍というのは少数だが一騎当千の精鋭を率いたと私は解釈しました少数精鋭の軍勢が敵国奥深くまで侵入してする軍事作戦といえば後方撹乱とかがメインです仮に咸陽など敵本拠地を本気で落とそうとするなら自国領との連絡線も補給線も考慮せずに敵地奥まで単独で侵入して攻めるというのは軍事的には有り得ないと思います選抜された精鋭軍といえども史実では蕞を落とせなかった訳ですから、キングダムの内容とは異なり実際は秦には龐ケン軍を防ぐだけの戦力を残していたと思えますしねまあ私の書いている考察は玄人が書いてるわけじゃなく歴史好きの考察なんで、穴も多いと自覚してるので、春秋戦国時代の様な資料に乏しく空想の入り込む余地の多い時代の話ですから「こういう考え方も面白いんじゃないかな」程度に思っていただければ幸いです
@@チャンモンモン さん横から失礼します自分としては合従軍が某漫画のような50万人規模の大軍であるなら、函谷関に陣を敷く前に東郡を制圧なり数の暴力による威圧行動で秦軍を追い払い、そこを兵站やそれこそ本気で秦に打撃を与える強い意志での軍事行動であるなら各本国からの増員補充兵の中継地点としたのも可能性あるのかなと。そこで東郡で兵を二手に分け春申君は喩えの例として45万人の大軍を率いて函谷関へ、龐煖は秦側が函谷関へ目が集まるだろうと見計らい少し遅れて蕞に向け進軍れーし氏は動画内で春申君の方は囮として秦の大軍を函谷関に釘付けにして、精兵を率いた龐煖の蕞攻めが本命との見方ですが自分としては龐煖は自身の軍が陽動も兼ねた二段構えの意図があったのかなと。龐煖が蕞を落とし西進するならよし、秦側に咸陽を狙う別動隊有りと動揺が広がり、函谷関の守備が甘くなれば春申君の合従軍が函谷関を抜けばよしな感じで。さすがに楽毅の時とは違いこれで秦を滅亡寸前まで追い込めるとは、春申君も龐煖もそういう甘い考えは持ってなかったと思うので適当な時期に領土の大幅割譲と戦時補償と有利な講和(不可侵条約的な)で手打ちにしたかったのかなとこの時代の合従軍各国の体力というか国力的にそこまでの継戦能力は無いだろうしただ、合従軍側の目論見とは違い秦軍は函谷関に籠らず門を開け放ち打って出て、龐煖も蕞を落とせず撤退してしまったが(もしかしたら春申君側がもっと粘っていたら蕞を落とせた可能性もあったのかも?)
なおじろういいやま さんご返事ありがとうございます私も先に東郡制圧をしてからの函谷関なり秦本国内侵攻もアリかなとは思ったのですが、以下の点から無理があるんじゃないかな?と感じました1東郡に最初に侵攻した場合、秦国内に侵攻する龐ケン率いる精鋭軍と合縦軍本隊が非常に離れて行動することになり連携が取りづらい漫画じゃ無線でもあるのか?って位情報がすぐに行き交ったりしてる様な感じだけど、実際は別れて行動する軍隊同士は互いの情報を何日も何十日もかけてでしか連絡とれないしかも合縦軍とはいわば多国籍軍互いに連携とる様な準備も訓練もしていない中で結成しているそれまでの合縦軍はそういった互いに国の思惑を背負いながら参戦している各国軍を1人のカリスマ指導者(楽キとか信陵君とか)がまとめ上げて一つの目標を目指したわけだけど、今回は合縦軍が実質二つ存在して其々別の人物が遠く分かれて指揮するという今までにない構成です自身が率いる多国籍軍を纏めつつ、もう一方の合縦軍と連携するのは思っているよりも難しいことですだから双方は互いに連絡が取れる位の距離で戦うと思いました。2春申君の合縦軍がまず東郡を攻めるとしたら、魏や趙、韓にしたら東に兵を向けることになりますれーしさんも言っていましたが東郡は思っているよりも東の地でキングダムで話題の鄴よりも中国大陸では東側の地です合縦軍がまずそちらを攻めたのなら、秦から見たら当然合縦軍は秦本土よりも遠方に移動したことになり、それらの国々の領国内に逆侵入できます東郡を奪い返せても、領国内に逆侵入されて土地を奪われては意味がありませんそうした危険を合縦軍側が負うことはないと思います3龐ケンの率いた軍は「各国の精鋭軍」とあります精鋭軍というのは、普通は「その国の軍隊で精強で優秀な戦力」です。そしてそういった兵力は大抵数的にはその国全体の動員兵力の一部分でしかありませんその国の動員兵力の殆どが「精強部隊」だなんて事はあまりないと思いますなので龐ケンの率いた部隊は、春申君の率いた合縦軍よりは少ない戦力だったと思いますここばかりはキングダムでの表現は合っていると思いますそして精鋭軍であったのに蕞を抜けなかったというのも、精鋭ではあったが城を落とせる様な大戦力も、長期戦となる城攻めに対応できる様な補給体制も持ち合わせていなかったなので龐ケン軍は秦本国内奥深くまで侵攻できるだけの機動性を持たせた少数精鋭のは遊撃戦力じゃなかったのかな?と推察した次第です以上から、合縦軍は先に東郡に侵攻するよりも函谷関を抑えた方が、東郡の補給線を断ち奪還が有利になる、函谷関、ひいては東郡の救援を企図する秦本国からの増援を龐ケンの軍勢が秦本国内に浸透して牽制するという戦略も考えられると思います私の空想がふんだんにある説ですが、元々この時代の記録は少ないですから、こういった空想も、他の皆さんの考えも、十分あり得ると思います龐ケン軍は遊撃だけではなく咸陽攻略を視野に入れてた可能性もあると思いますしこういった記録にない歴史の事象を色々と空想して話し合うのは歴史好きの醍醐味ですね
お久しぶりです。動画見てくれていた事に感謝です。何となくコメントしてくれる様な気がしておりました。蒙驁の最後ですが、自分は「ちくま学芸文庫」の記述を参考にしました。ご指摘してくださったように、読み直してみると、こちらも文章がおかしいと思う部分がありました。(ここから)将軍驁が竜・孤・慶都を攻めて死んだ。兵を引き返して汲を攻めた。」(ここまで)と記述がありました。蒙驁が亡くなっているのであれば、蒙驁が汲を攻めれるわけがなく、将軍を失った軍が単独で汲を攻めた事になってしまうかと思いました。自分は、その記述に従ったんですが、話を聞いてみてチャンモンモンさんの言う事が正しい様に思えてきました。チャンモンモンさんの考察は、かなり的を得ていると思いました。あと、自分は他のコメントで気が付いたのですが、始皇本紀にある寿陵の位置が蕞に当たると思うので、ホウケンの軍はやはり秦の奥地まで攻め込み、春申君が敗れた事での孤立を恐れて徹底したんだと思いました。あと、汲の位置ですが、調べてみるとやっぱり大梁の北のようです。それを考えると、仰るように東郡を一時的にでも奪還したのは十分にあり得ると思った次第です。さらに、趙世家の記述などを考えると、素晴らしい考察だと思いました。チャンモンモンさんのコメントを見て史記は、点で見るのではなく面で見なければいけないなと思った次第です。素晴らしい考察ありがとうございました。感謝しております!
趙のホウケンといい楚の汗明といい、キングダムでは猛将なのに史実だと文官なの面白い
春申君が敗走するとなると、やはり迷いが生じたそうなりますね、しかし蕞を抜けなかったってどういう戦いだったのかなぁ
キングダムの漫画みたあとだけど、これはこれで有り得る話ではありますね。
シャナデ 黙れ
ありがとうございます!そう言ってくれた事に感謝です。
足元を救われる → 足を掬われる が正しいような気がしますが.大辞泉には ,次のとおり書いてありました.相手のすきをついて失敗させる。「ライバルの―・う」〔補説〕文化庁が発表した「国語に関する世論調査」で、「足をすくわれる」と「足下をすくわれる」について、どちらの言い方を使うか尋ねたところ、次のような結果が出た。足をすくわれる(本来の言い方とされる)26.3パーセント足下をすくわれる(本来の言い方ではない)64.4パーセント
キングダムはここら辺が現時点でのピークですね。「不抜。」のクライマックスがすごすぎて超えようがない。ここ以降も確実に面白いのですが状況的にどうしても「攻めて勝つ」より「攻められて勝つ」ほうが面白いと感じます。
函谷関の戦いは、漫画でもかなり熱いと思いました。非常によく描けていて面白かったと感じています。史実でも、秦の最大のピンチが合従軍だというのもあるんじゃないかと思っております!
この後ピンチが楚と戦うだけなんだよな
@@あめぷらのファン 更に秦を滅ぼすのも楚の出身者だし。勿論、胡亥と趙高のせいで秦が自壊していた事も大きいが。
函谷関とサイの位置関係と地理的状態が気になりますね!
孝成王が暗君とされるのは長平の敗北のせいでしょうが、趙括の母親との約束を守り一族に処罰を及ぼしませんでしたし、趙を滅亡させなかったのも事実ですね。
自分は孝成王は結構好きで、約束は守る人だと感じております。あと、長平の戦いを通して孝成王も何か悟った部分があるのかな?と感じた事もあります!
@@れーしch歴史 さん そういうところもあったのだと思います。君主ではなく臣下ですが、孟明子と荀林父も国を滅ぼしかねない程の大敗北をしましたが、挽回して君主と国のために尽くした人で僕は好きです。
@@my-eg8ge 自分もそういう人が好きですね!どこか魅力を感じますよね!
因みに趙括の兄弟の子孫が馬援や三国志の時代の馬超・馬岱。
暗君といえば、信陵君の兄安釐王はかなりの暗君だと思います。理由としては、とても有能な信陵君を2回も疎んじたり、寵愛如姫の敵討ちに関しても全く取り合わなかったりと、猜疑心があまりにも強い上に、お気に入りの人間に対しての配慮もないといった問題点があるからです。
そして、秦が天下を獲れたのは彼だけでなくそれ以外が有能な家臣の話を全く聞かない暗君揃いだったからとも思います。
暗君は幽繆王かなぁ
秦VS合従軍で合従軍が勝った事が勝った事があるのだけど、その時の秦王が知りたいです。その時秦王は土地の割譲か徹底抗戦を迫られて家臣に問うと「王はどちらを選んでも後悔します。割譲に応じれば、後に合従軍など防げたと言い、抗戦すればあの時割譲に応じて置けばよかったと後悔します」。秦王は割譲したこと等悔いぬと言って、その後国を強化して割譲した土地を取り戻したのだけど、この時の秦王の覚悟はコロナ禍を防ぐのに各国の代表は必要だったと思う。台湾とフィリピンはその片鱗は見せたと思う。
函谷関って言うとある程度の年代のひとは童謡を思い出します。はっこねのやまは~天下の峰(けん)~♪函谷関もものならず~♪
自分は全然知らなかったんですが、童謡があったんですね!函谷関と箱根の山は、何となく共通点があるような気もしてきました!
@@れーしch歴史 うみゅ( ゚Д゚)ノちゃんと意味あるのです。箱根の関所は女(逃げ出した人質)と鉄砲(反乱したやつ)は江戸へ或いは江戸からは越えられないって江戸幕府の方針(入り鉄砲、出女)で、かなり厳しい調べがあったため、このような簡単に抜け難いというイメージの歌詞になったそうです。
へたれせいばー この歌のかんこくかんって函谷関だったのか。今まで韓国間だと思ってたw
うぷ主の考えはうぷ主の考えですって前置きあるから非常に勉強になります
合従軍に楚の虎項燕は参加してないんですかね?
始皇帝陵は秦王・政の即位直後に造営が開始されたのでは・・・
月夜見天音 そうですが?
自分が勘違いしていたんですけど、始皇帝の陵墓は即位直後に造られたようですね。申し訳ない汗あと、他の方のコメントで気が付いたのですが、始皇本紀の寿陵と言うのは、造っていた陵墓を合従軍が占領したという事なのかも知れません。でも、そうなるとサイを攻めた諸侯が「韓、魏、趙、衛、楚」になってしまうのですが・・。ご指摘ありがとうございます。
音声だけ聞きながら作業してたら、「韓国関」、「合唱軍」、「しんよう君(しんようって人を君読み)」と脳内で変換してしまったから、「中国の国名でてんのに韓国?」「鼓笛隊?」「この子だけ君w」と一瞬混乱した人w
中華の南半分は治水が困難過ぎてなかなか発展出来なかったんだよな。今だに国家の大問題なんだから当時はどれだけ大変だったかは想像にあまるな、
斉が参加してない時点で合従軍が秦に勝つのは難しかったでしょうね。仮に約定等を結んでいても、背後を斉に突かれる可能性を考えると、安心して秦軍とは戦えないでしょうしね。函谷関以外、例えば南の楚の辺りから秦に攻め入ることも出来そうな気もするんですが、その辺はどうなんでしょうね??
確かに、斉が背後にいるというのは、合従軍にとってはかなりの脅威だったでしょうね。春申君列伝で、朱英の言葉で秦が楚に攻めにくいような事を言っていたと思いましたので、南の方からは道などの関係で攻めにくかったんじゃないかと考えております!自分も本当の所は分からないんですが汗
れーしチャンネル みんなで一緒に協力して攻めるのがお互いの信頼と信用になっていたかもしれませんね。南方には楚の旧都もありますし、後の益州や漢中方面からは攻められなかったのか?と思いましたが、おそらく、秦側からは攻めやすく楚側からは攻めずらかったり、当時はまだ未開の地が多かったのかもしれませんね。
昭王は始皇帝の祖父ではなく曽祖父ですよ。
舞鶴 ん!
ご指摘ありがとうございます。仰る通りです。孝文王の事を忘れていました汗。概要欄に訂正を出しておきます。
楚漢戦争のラストは合従軍にはならんのかな?
楚漢戦争のラストの場合は、弱国が強国に立ち向かう意味合いが強い合従よりも、最強国である漢に従って、弱っている楚を攻めたので連衡に近いのかな~とか考えた事もあります。これは自分の戯言ですが汗
なるほど~たしかに、楚以外の国は劉邦が王を立てたから既に半分漢帝国になってたわけですね。
史記の合従軍の記録簡潔に書きすぎだよねw「四年、龐煖将趙·楚·魏·燕之鋭師、攻秦蕞。不抜。(紀元前241年、龐煖は趙·楚·魏·燕の精兵を率いて、秦の蕞を攻めた。抜けなかった。)」のみだもんなwこれしか書いてないのにあんだけキングダムで濃密にストーリー描いた原先生エグイなw
離間の策は、秦のお家芸ですね。
ちょっと今気づいたんだが今回の動画の途中で触れてた長平の戦いで趙が40万の兵失ったってよく考えたら凄いな漢代で総人口5000万人ぐらいだから趙一国の人口はどう考えても多くても一千万は超えないと思うんだがそのうちの40万、それも兵士になれるような若い世代のやつばかりいなくなるわけなんだから割と国家的壊滅状態だよな(畏怖)
一ノ宮貴音 ああいうのは宣伝のために一桁ぐらい盛るのが普通。最後には秦の記録しか残らなかった。
@@FGHJNHK625JF75GUT ご指摘の通り秦に投降して埋められたのが40万と言われてましたがそれが『盛ってある』ので現在は(投降して埋められた実数は20万ぐらいと言われていますねそこ(投降者20万)から逆算して戦死者、逃亡者合わせて損害40万というのは割とリアルな数だと私は思いますが(それなりの被害がないのに投降はしませんからね)
第一次世界大戦のフランスは人口4000万人中戦死140万(3.5%)、第二次世界大戦のソ連は人口2億人中戦死1400万(7%)って事なので耐えられないことはないのかも知れない―ただし、勝った場合に限る。
@@redaluminum2387 動画にあるように長平の戦いは最終決戦前夜の話なんですよねそこから秦の統一戦争(最終決戦)まで約一世代あるんですがどこまで国力回復できたのか…というカンジですね(;´Д`)というかおそらく長平の戦いで失ったのは実数がいくらかという話は置くとしても趙全軍のかなりの割合なんだと思うんですよ少なくとも趙に関してはこの時滅亡は決定していた気がします
今調べたら戦国七雄全部合わせて2000〜3000万くらいで、秦趙合わせて500〜600万程度ていうのが書いてあったから、趙は多くても300万くらいだとして、男の数がその半分の150万くらいとしたら、とんでもない被害だと思いました丸
👍1000個達成‼️🎉✨😆✨🎊
協力して戦っても、よく負ける、「チーム・ワーク」、だよね 〜 (^^♪
BC241年の函谷関の戦いは秦の天下統一を決定づける戦いになったのだが、丁度この頃生まれた連中が秦の次の覇権を争う楚漢戦争の中心的存在に。
原先生すごいな 資料少ないのにあれだけの話作り込むなんて
原文は数文なのに漫画は10巻以上w
合従軍を破ったんだから秦国の英雄とも言えるのに、なんで秦将は誰も書いてなかってんだろう。もしかして相当泥試合だったとか?
ほうけんか春伸君かか
紀元前238年、楚の春申君は妾を使って王に托卵を仕掛けた事で、食客の1人李園に暗殺された。
李園は春申君が生きている頃は裏で意外と活躍してる風だが春申君暗殺後はパッとしなかった。最期は春申君と同じくクーデター起こされて殺されているし。少なくとも李園が春申君暗殺に至ったのには対秦政策で食い違いがあった可能性も否定出来ないが。でもその後の変化が余りにも激しく、李園が殺されて5年後楚は項燕の奮戦も虚しく秦に滅ぼされることに。因みに李園が殺された頃劉邦が地元の村の村長になるのだが。
国がどうとか定期
国がどうとか民がどうとか・・・でしたっけ・・。
キングダム3期に便乗してるなこれは...
は?
配信者として正しい判断
この方はキングダム第三期が決定するよりも前から、この時代についての考察動画をよくされてる方ですよ?
少なくとも少しは狙ってる
三千というのは多い様を表しているので三千人じゃ無い中国での表現方法の三千で数の三千では無いです。
不抜❗️😭
この辺りが一番面白かったなと感じております( ;∀;)
はえーとこ某アニメ再開しねーかな。マンガは読んでるから結果は知ってるわけだが、アニメはアニメで見たいんだよなー。
なななね↥↳
正直 暗君とか言って趙のとうじょう王が悪い風に言われてるけれどどちらにしろ趙は秦に潰されてるわ朱海平原で李牧が王せんに負けたように趙は秦に破れる運命だったんだよ。秦の憂いがなくなったか斉からの援助がありかつんだよね李牧のもう疲れましたっていうのは負け宣言だよな詰んだんだろ。趙は我々はこんな時に何をやっているんだこんな時こそなあいらんなどせずに一致団結して秦に向かわなければならないのにということだろうな
ドンドン ドンドン ドンドン ドンドン
面白いと思うけど、聴きづらいよ(^_^;)
あんまり言うなよ。たった6年前の事を忘れてるキングダムの秦軍がバカしかいないことになるじゃないか。
聞き取りずらいなー
ゆっくりは声が悪いので聞きたくない!
歴史に書かれてないことを想像するから面白いんですよね。
キングダムは「史記に書かれていること」ではなく「史記に書かれていないこと」を描いたフィクションですからね
いつも楽しい動画をありがとうございます。同じ歴史チャンネルを持つものとして切磋琢磨できるのはうれしいことです。
史記も読みました 1%も頭に残ってませんけど 今回も力作でしたね 頑張ってください 楽しみにしております
史記を読まれたんですね。列伝の辺りが物語形式になっていて読みやすいと感じております。
信陵君列伝、刺客列伝、平原君列伝、廉頗藺相如列伝の辺りが読みやすいと感じている次第です。
応援ありがとうございます。感謝しております。
龐煖って文官だけど燕を破ってるしあの作品と逆でめちゃくちゃ器用ですよね
一応キングダムの龐煖だと医術にも心得があるのか李牧の怪我治してたけどねw
そこそこ器用なのは間違いないw
戦国四君として並列に語られる4人の中でも軍事的能力では信陵君が圧倒的に優れてたと思うし、その信陵君が亡くさらに各国が弱体化した状態だったら誰が率いても負けてたと思う。
確かに誰が率いても負けた可能性はありますよね。秦の圧倒的な国力もありますし・・。合従軍にとっては、かなり難易度の高い戦いだったんでしょうね。
だからこそ秦の自壊と秦にとって代わる絶対的存在の誕生が必要だと気付いた人(多分韓非子辺りか?)がいたのでは。秦の中華統一を経て始皇帝の死をきっかけに秦が崩壊するのは函谷関の戦いから更に30年以上経ってからの事。そして項羽と劉邦による楚漢戦争から劉邦を始祖とする漢王朝の成立へ至るだが、成立したばかりの漢は匈奴に負けたり粛清と権力争いや反乱が起きたりと舵取りを間違えれば秦の様に崩壊する危険性を孕んでいた。それらに真剣に対処する事で漢は長期政権を築く事に。勿論、匈奴との戦いの中で鉄器が普及し、転炉の誕生で更に頑丈で大量の鉄器が生産出来る様になったのも大きい。
キングダムとは違う発想ですね。 古代の歴史書は内容が端的だけど、いろいろと発想できるから面白いですね。しかも、著者によって、見方が違うので、複数の記録で真実を創造するのですね
合従軍の成すべきことは秦の力を大幅に削ぐことで、その為に抜きがたい函谷関を避け、精兵を以って秦国内の城邑を攻めるのは有り得たのかなと。敵国内に入り込んだ軍隊は略奪し放題で攻め続けられますし。動画でも語られたように、それらはあくまで函谷関に秦軍を引きつけられていればのお話ですが。亡国の危機にさらされた秦軍に対し、渋々合従軍では太刀打ちできなかったのも納得な感じします。これからもうぷ主さまの考察や妄想を盛りに盛った動画を楽しみにしてますね!
確かに、秦の首都に近い地域で略奪を行うだけでも、秦に打撃を与える事は出来ますよね。
仰るように咸陽の付近まで来られて本気になった秦軍に、他国任せの部分もある合従軍では、きつかったのかも知れませんね。動画を見てくれてありがとうございます!感謝しております!
すみません。雰囲気を壊すことを言いますが、始皇帝がサイに陵墓を作ったのは、即位後すぐだそうです。子供の頃買った歴史本に「即位したばかりの少年王が自分の墓を作るのは奇妙なことだが」と書いてあり、すごく印象に残ってます。調べると即位が紀元前247年13歳の頃ですね。合従軍は動画の中でもご紹介されている通り前241年。でも今も残る始皇帝の墓が、あの漫画の一番クライマックスの中の最後の戦いの場所にあるなんてすごいですね。ホウケンは作りかけの陵墓の上に布陣したのかもしれません。張良はもちろんこの事件を知っていて、劉邦に進言して函谷関を避けて武関ルートで秦を滅ぼしたのでしょうね。
丁寧な返信ありがとうございます。私の方が間違っていたようです。申し訳ございません。動画を作っている時は気が付かなかったんですが、始皇本紀に連合軍が寿陵を取ったとする記述がありました。寿陵が自分は単なる地名だと思っていたのですが、「寿陵=生前に作るお墓」だったようです。それを考えると、始皇帝の陵墓を占領したという事になると思いました。考察お見事だと思いました。ご指摘ありがとうございました。
@@れーしch歴史 様、細かいことをすみません。もしかしたら、即位時にはサイじゃなくて別の場所に作ったけど、サイに感動して移したのかもしれませんね。昔ちょっと考えたけど、なんで墓みたいな荒らされる対象の場所(先代の霊廟は、現国王が一番守らなければならない場所、と古代中国史の本に書いてあった)を国の玄関口の方向に作ったんだ?と思いましたし。ある説では「征服した六国に対する威嚇」のように書いてあったので、あえて人々の目につきやすい場所に自分の墓を作って、自分や国の権威を高めようとしたのかな?とも思いました。これに関する質問を、ヤフー知恵袋でして見ますね。
@@パグ13 いえいえ、こちらこそ気を遣って貰って申し訳ないです。当時の陵墓に対する思想は分からないんですけど、不可解だと感じる部分もありますよね。
それか秦王政が即位した時代は、秦が圧倒的に強く秦王政が「まさかここまで敵が攻めて来る事はないだろう」と思って作ったのかな??と想像した事もありました。
でも、仰るように自分の権威の高さを見せつけるというのもあったと考えております!
拝見しました。
アニメのキ○グ○ムでもいい感じですね。この簡素な記述を何巻にもわたって膨らませるのは本当にすごいです。
この動画で知りましたが、さらっと書いているサイがそこまで近いとは思わなかったです。この動画をみるまでは知らないままだったと思います。
最後に、、、ぎょう攻めは終わったのかなぁ。漫画喫茶は最近のアレがあるからいけないのが辛いです。
ぎょう攻めおわりましたよ
@@プリンライス 終わったのですね!お知らせありがとうございました‼️
ホウケンが知将…カン明が文官…
漫画面白くする為に猛将に変えたんでしょうね。
33:43
龐煖を蒙驁が討ち取ると逆になってしまっています
本当ですね。申し訳ございません。
概要欄に訂正しておきます。
ご指摘ありがとうございます。
@@れーしch歴史 ご丁寧に返信ありがとうございます
コロナ始まったころからですが動画楽しく見させていただいております
次回作も楽しみにしていますので頑張ってください
こんばんは。お久しぶりです。いつも動画を楽しんでいます。
仕事が忙しく、なかなかれーしさんの動画のコメントできなかったのですが、久々にしてみました。
蒙驁将軍の死の経緯ですが、私の持っている史記(中国古典文字大系10、平凡社出版)では、蒙驁の死の記述後に「竜・孤・慶都を攻めて、引き返した軍兵で汲を攻めた」とあるので、蒙驁の死と竜ら3都市を攻めたのとは関係ないんじゃないかな?と思います。
また蒙驁程の大将が竜ら3都市を攻めた際に戦死する大敗をしたのに、引き返した際に汲を落とせたというのも変ですし…
私個人の私見ですが・・・
紀元前241年の合従軍による函谷関や蕞攻めは、函谷関に秦軍主力を引き付け動きを封じ、龐ケン率いる別軍が蕞など秦本土に攻め入り攪乱、王都咸陽を攻める素振りを見せて増援等の動きも押さえたうえで、前年に秦に奪われた東郡の奪還を図った。
ところが予想に反して函谷関の秦軍主力が関に籠るどころが討って出てきて、合従軍主力を打ち破ってしまった
秦本土に取り残された龐ケン率いる別軍は、脱出できなくなる前に蕞攻めを解いて東進し、東郡の確保を確実にしたため、反撃してきた秦軍も衛付近まで取り戻したが、東郡自体は取り戻せなかった
翌240年、趙では慶舎や傅抵に平邑や東陽を守らせるなど、秦の東郡奪回に対して守りを固めなか、秦始皇帝本紀では彗星(ハレー彗星)が見えたという記述を経て蒙驁の死が記述され、その後竜・孤・慶都を攻めて、引き返した軍兵で汲を攻めた事が記述されている事から、なんとか東郡をほぼ奪還したのだと思います
このような妄想をする理由として、始皇帝本紀では紀元前241年(始皇帝6年)に韓・魏・趙・衛・楚が攻め込んできた際に秦軍が出兵すると5国の軍が退いたとあり、また春申君列伝では函谷関につくと秦が兵を繰り出して諸侯の軍を攻め、皆敗走したとあるので、この時の戦いはキングダムで描かれる様な秦側が函谷関に籠って迎え撃ったというよりも、むしろ秦軍が諸侯の意表をついて守るどころか討って出てきたので、秦軍は籠るだろうと高をくくっていた春申君率いる諸侯は大敗してしまったのではないか?と思ったのが第一です
そして、その後の記述として、史記には東郡を再度攻めとるような記述が散見されます
始皇帝本記では続いて秦軍は衛を抜いて東郡に迫ったと記述されていたりしてますし
※個人的には衛はやはり秦を裏切り合従軍に加わったのだと思います。当時の王「元君」は魏の娘婿でもあるので、合従軍に加わった隣国魏に逆らえなかったのかもしれません結局元君は野王(現在の河南省沁陽市)に移されたわけですが、秦軍は東郡に迫ったとある事から、東郡は合従軍勢に奪われていた。秦は衛までは奪い返せたが、それ以降は紀元前241年までには奪還は出来なかったとも思えます
また趙世家では趙では紀元前241年に慶舎や傅抵に平邑や東陽(黄河北岸の地)を守らせたとあり、黄河南岸にも軍を配置していたことから、秦と東郡を遮断しているようにも思える事から、この配置は東郡奪還を図る秦への備えだったかもしれません
あと、汲は恐らく現在の河南省衛輝市(戦国期は汲邑だが、邑は村と同義の集落という意味なので名は汲と思えます)なので、東郡(現在の河南省濮陽市と山東省聊城市)よりも西、魏の王都である大梁の黄河を挟んで大体北側の地点です
紀元前242年(始皇帝5年)に東郡を設置したのに、翌年の合従軍戦を経て紀元前240年(始皇帝7年)に汲を制圧している事から、この頃には東郡をほぼ奪還できたのかもしれません
私個人としては、キングダムとは異なり、この時点ではもう秦の一人勝ちに近い状況だったと思います
その中で残りの侵略を受けている国が、連合して秦と戦うなら、秦本国に攻め込むよりも、秦主力を牽制しつつ、奪われた土地の奪還、前年にとられた東郡一帯を奪還して、少しでも国力差を埋める方に全力を尽くした方が、理にかなっているんじゃないかなと思います
一人勝ちの秦、主力軍が籠る要害函谷関に籠らせて、五か国軍が決戦を挑んでも勝てるとは思えませんし、ましてや精鋭部隊だけとはいえ龐ケン率いる連合軍が秦本土に侵入して蕞を攻めても、函谷関で戦いつつ、これらを撃退するだけの余力を秦は持っていたと思いますし
色々と私見を書かさせてもらいました。史実的に正しいと自信があるわけじゃないですが(笑)
ご参考までに読んでいただければ幸いです
合従軍の作戦が並行して東郡の攻略も行う多正面作戦だったと言うのはとても興味深い指摘ですね。
しかし、位置的に見て東郡に秦の有力な軍勢がいたのでは函谷関の攻略もままならないような気がするのですが。
順番として、最初に合従軍が東郡の守備兵力を蹴散らしてそれから函谷関正面での戦いに移行したと言うことはないでしょうか?
また、「攻める素振り」にしては蕞は突出し過ぎな気がします。
やっぱりこの作戦は本気で咸陽を陥とすつもりで行われたのではないでしょうか?
咸陽を陥とせば秦内部に動揺が拡がって有利な条件で講和できるかもしれないし
撤退するにしても咸陽を劫掠してから引き揚げた方が大ダメージを与えられますから。
RedAluminum さん
態々返信ありがとうございます
東郡って秦から函谷関を経て趙と魏の国境間を東に伸びた先
今現在キングダムで話題の趙(当時は魏領)の鄴の近くにある地なんですよね
そういった、いわば国境の突起状態だった東郡の基部にあたる地点の函谷関を先に攻めた方が、東郡と秦本国を分断して東郡を孤立化させて攻略を容易にできる様にするという魂胆もあったのではないかと思います
突起点であるので韓魏趙双方が攻めやすいという点もあると思いますし
東郡は設置されてまだ一年も経っていない状態です
秦の統治も一年どころか半年も経過していないかも知れない状況ですから秦が大軍を配置していたとしても、東郡自体を完全に掌握できていたとは思えません
その中で秦軍が退路を脅かされながら防衛するのは困難だと思います
東郡に態々軍勢を差し向けずとも、秦本国との連絡路でもある函谷関を秦主力軍とともに封鎖すれば、東郡は自ずと合縦軍側に降る可能性はあると思います
また始皇帝本記の方では韓魏趙衛楚の連合軍は函谷関を攻めたとは書いておらず寿陵を取ったとあります
寿陵は前年に蒙驁が抜いた6拠点の一つ燕(国の燕とは別の土地名)を改名した土地らしいのですが、函谷関とは離れており、函谷関を攻めた春申君率いる軍勢とは別の軍勢が東郡奪還に動いたのかも知れません
蕞攻めについては史記の趙世家でしか記録がなく文も少ないですが、そこには
龐ケンは各国の精鋭軍を率いたとあります
ただ、同年に春申君が合縦軍を率いて函谷関を攻めてる状態で精鋭軍というのは少数だが一騎当千の精鋭を率いたと私は解釈しました
少数精鋭の軍勢が敵国奥深くまで侵入してする軍事作戦といえば後方撹乱とかがメインです
仮に咸陽など敵本拠地を本気で落とそうとするなら自国領との連絡線も補給線も考慮せずに敵地奥まで単独で侵入して攻めるというのは軍事的には有り得ないと思います
選抜された精鋭軍といえども史実では蕞を落とせなかった訳ですから、キングダムの内容とは異なり実際は秦には龐ケン軍を防ぐだけの戦力を残していたと思えますしね
まあ私の書いている考察は玄人が書いてるわけじゃなく歴史好きの考察なんで、穴も多いと自覚してるので、春秋戦国時代の様な資料に乏しく空想の入り込む余地の多い時代の話ですから「こういう考え方も面白いんじゃないかな」程度に思っていただければ幸いです
@@チャンモンモン さん
横から失礼します
自分としては合従軍が某漫画のような50万人規模の大軍であるなら、
函谷関に陣を敷く前に東郡を制圧なり数の暴力による威圧行動で秦軍を追い払い、
そこを兵站やそれこそ本気で秦に打撃を与える強い意志での軍事行動であるなら
各本国からの増員補充兵の中継地点としたのも可能性あるのかなと。
そこで東郡で兵を二手に分け春申君は喩えの例として45万人の大軍を率いて函谷関へ、
龐煖は秦側が函谷関へ目が集まるだろうと見計らい少し遅れて蕞に向け進軍
れーし氏は動画内で春申君の方は囮として秦の大軍を函谷関に釘付けにして、
精兵を率いた龐煖の蕞攻めが本命との見方ですが自分としては
龐煖は自身の軍が陽動も兼ねた二段構えの意図があったのかなと。
龐煖が蕞を落とし西進するならよし、秦側に咸陽を狙う別動隊有りと動揺が広がり、
函谷関の守備が甘くなれば春申君の合従軍が函谷関を抜けばよしな感じで。
さすがに楽毅の時とは違いこれで秦を滅亡寸前まで追い込めるとは、
春申君も龐煖もそういう甘い考えは持ってなかったと思うので
適当な時期に領土の大幅割譲と戦時補償と有利な講和(不可侵条約的な)で手打ちにしたかったのかなと
この時代の合従軍各国の体力というか国力的にそこまでの継戦能力は無いだろうし
ただ、合従軍側の目論見とは違い秦軍は函谷関に籠らず門を開け放ち打って出て、
龐煖も蕞を落とせず撤退してしまったが
(もしかしたら春申君側がもっと粘っていたら蕞を落とせた可能性もあったのかも?)
なおじろういいやま さん
ご返事ありがとうございます
私も先に東郡制圧をしてからの函谷関なり秦本国内侵攻もアリかなとは思ったのですが、以下の点から無理があるんじゃないかな?と感じました
1
東郡に最初に侵攻した場合、秦国内に侵攻する龐ケン率いる精鋭軍と合縦軍本隊が非常に離れて行動することになり連携が取りづらい
漫画じゃ無線でもあるのか?って位情報がすぐに行き交ったりしてる様な感じだけど、実際は別れて行動する軍隊同士は互いの情報を何日も何十日もかけてでしか連絡とれない
しかも合縦軍とはいわば多国籍軍
互いに連携とる様な準備も訓練もしていない中で結成している
それまでの合縦軍はそういった互いに国の思惑を背負いながら参戦している各国軍を1人のカリスマ指導者(楽キとか信陵君とか)がまとめ上げて一つの目標を目指したわけだけど、今回は合縦軍が実質二つ存在して其々別の人物が遠く分かれて指揮するという今までにない構成です
自身が率いる多国籍軍を纏めつつ、もう一方の合縦軍と連携するのは思っているよりも難しいことです
だから双方は互いに連絡が取れる位の距離で戦うと思いました。
2
春申君の合縦軍がまず東郡を攻めるとしたら、魏や趙、韓にしたら東に兵を向けることになります
れーしさんも言っていましたが東郡は思っているよりも東の地でキングダムで話題の鄴よりも中国大陸では東側の地です
合縦軍がまずそちらを攻めたのなら、秦から見たら当然合縦軍は秦本土よりも遠方に移動したことになり、それらの国々の領国内に逆侵入できます
東郡を奪い返せても、領国内に逆侵入されて土地を奪われては意味がありません
そうした危険を合縦軍側が負うことはないと思います
3
龐ケンの率いた軍は「各国の精鋭軍」とあります
精鋭軍というのは、普通は
「その国の軍隊で精強で優秀な戦力」
です。そしてそういった兵力は大抵数的にはその国全体の動員兵力の一部分でしかありません
その国の動員兵力の殆どが「精強部隊」だなんて事はあまりないと思います
なので龐ケンの率いた部隊は、春申君の率いた合縦軍よりは少ない戦力だったと思います
ここばかりはキングダムでの表現は合っていると思います
そして精鋭軍であったのに蕞を抜けなかったというのも、精鋭ではあったが城を落とせる様な大戦力も、長期戦となる城攻めに対応できる様な補給体制も持ち合わせていなかった
なので龐ケン軍は秦本国内奥深くまで侵攻できるだけの機動性を持たせた少数精鋭のは遊撃戦力じゃなかったのかな?と推察した次第です
以上から、合縦軍は先に東郡に侵攻するよりも函谷関を抑えた方が、東郡の補給線を断ち奪還が有利になる、函谷関、ひいては東郡の救援を企図する秦本国からの増援を龐ケンの軍勢が秦本国内に浸透して牽制する
という戦略も考えられると思います
私の空想がふんだんにある説ですが、元々この時代の記録は少ないですから、こういった空想も、他の皆さんの考えも、十分あり得ると思います
龐ケン軍は遊撃だけではなく咸陽攻略を視野に入れてた可能性もあると思いますし
こういった記録にない歴史の事象を色々と空想して話し合うのは歴史好きの醍醐味ですね
お久しぶりです。動画見てくれていた事に感謝です。何となくコメントしてくれる様な気がしておりました。
蒙驁の最後ですが、自分は「ちくま学芸文庫」の記述を参考にしました。ご指摘してくださったように、読み直してみると、こちらも文章がおかしいと思う部分がありました。
(ここから)
将軍驁が竜・孤・慶都を攻めて死んだ。兵を引き返して汲を攻めた。」
(ここまで)
と記述がありました。蒙驁が亡くなっているのであれば、蒙驁が汲を攻めれるわけがなく、将軍を失った軍が単独で汲を攻めた事になってしまうかと思いました。
自分は、その記述に従ったんですが、話を聞いてみてチャンモンモンさんの言う事が正しい様に思えてきました。
チャンモンモンさんの考察は、かなり的を得ていると思いました。
あと、自分は他のコメントで気が付いたのですが、始皇本紀にある寿陵の位置が蕞に当たると思うので、ホウケンの軍はやはり秦の奥地まで攻め込み、春申君が敗れた事での孤立を恐れて徹底したんだと思いました。
あと、汲の位置ですが、調べてみるとやっぱり大梁の北のようです。
それを考えると、仰るように東郡を一時的にでも奪還したのは十分にあり得ると思った次第です。
さらに、趙世家の記述などを考えると、素晴らしい考察だと思いました。
チャンモンモンさんのコメントを見て史記は、点で見るのではなく面で見なければいけないなと思った次第です。
素晴らしい考察ありがとうございました。感謝しております!
趙のホウケンといい楚の汗明といい、キングダムでは猛将なのに史実だと文官なの面白い
春申君が敗走するとなると、やはり迷いが生じた
そうなりますね、しかし蕞を抜けなかったって
どういう戦いだったのかなぁ
キングダムの漫画みたあとだけど、これはこれで有り得る話ではありますね。
シャナデ 黙れ
ありがとうございます!そう言ってくれた事に感謝です。
足元を救われる → 足を掬われる が正しいような気がしますが.大辞泉には ,次のとおり書いてありました.
相手のすきをついて失敗させる。「ライバルの―・う」〔補説〕文化庁が発表した「国語に関する世論調査」で、「足をすくわれる」と「足下をすくわれる」について、どちらの言い方を使うか尋ねたところ、次のような結果が出た。足をすくわれる(本来の言い方とされる)26.3パーセント足下をすくわれる(本来の言い方ではない)64.4パーセント
キングダムはここら辺が現時点でのピークですね。「不抜。」のクライマックスがすごすぎて超えようがない。ここ以降も確実に面白いのですが状況的にどうしても「攻めて勝つ」より「攻められて勝つ」ほうが面白いと感じます。
函谷関の戦いは、漫画でもかなり熱いと思いました。非常によく描けていて面白かったと感じています。史実でも、秦の最大のピンチが合従軍だというのもあるんじゃないかと思っております!
この後ピンチが楚と戦うだけなんだよな
@@あめぷらのファン 更に秦を滅ぼすのも楚の出身者だし。勿論、胡亥と趙高のせいで秦が自壊していた事も大きいが。
函谷関とサイの位置関係と地理的状態が気になりますね!
孝成王が暗君とされるのは長平の敗北のせいでしょうが、趙括の母親との約束を守り一族に処罰を及ぼしませんでしたし、趙を滅亡させなかったのも事実ですね。
自分は孝成王は結構好きで、約束は守る人だと感じております。あと、長平の戦いを通して孝成王も何か悟った部分があるのかな?と感じた事もあります!
@@れーしch歴史 さん そういうところもあったのだと思います。君主ではなく臣下ですが、孟明子と荀林父も国を滅ぼしかねない程の大敗北をしましたが、挽回して君主と国のために尽くした人で僕は好きです。
@@my-eg8ge 自分もそういう人が好きですね!どこか魅力を感じますよね!
因みに趙括の兄弟の子孫が馬援や三国志の時代の馬超・馬岱。
暗君といえば、信陵君の兄安釐王はかなりの暗君だと思います。
理由としては、とても有能な信陵君を2回も疎んじたり、寵愛如姫の敵討ちに関しても全く取り合わなかったりと、
猜疑心があまりにも強い上に、お気に入りの人間に対しての配慮もないといった問題点があるからです。
そして、秦が天下を獲れたのは彼だけでなくそれ以外が有能な家臣の話を全く聞かない暗君揃いだったからとも思います。
暗君は幽繆王かなぁ
暗君は幽繆王かなぁ
秦VS合従軍で合従軍が勝った事が勝った事があるのだけど、その時の秦王が知りたいです。その時秦王は土地の割譲か徹底抗戦を迫られて家臣に問うと「王はどちらを選んでも後悔します。割譲に応じれば、後に合従軍など防げたと言い、抗戦すればあの時割譲に応じて置けばよかったと後悔します」。秦王は割譲したこと等悔いぬと言って、その後国を強化して割譲した土地を取り戻したのだけど、この時の秦王の覚悟はコロナ禍を防ぐのに各国の代表は必要だったと思う。台湾とフィリピンはその片鱗は見せたと思う。
函谷関って言うとある程度の年代のひとは童謡を思い出します。
はっこねのやまは~天下の峰(けん)~♪函谷関もものならず~♪
自分は全然知らなかったんですが、童謡があったんですね!函谷関と箱根の山は、何となく共通点があるような気もしてきました!
@@れーしch歴史 うみゅ( ゚Д゚)ノちゃんと意味あるのです。箱根の関所は女(逃げ出した人質)と鉄砲(反乱したやつ)は江戸へ或いは江戸からは越えられないって江戸幕府の方針(入り鉄砲、出女)で、かなり厳しい調べがあったため、このような簡単に抜け難いというイメージの歌詞になったそうです。
へたれせいばー この歌のかんこくかんって函谷関だったのか。今まで韓国間だと思ってたw
うぷ主の考えはうぷ主の考えですって前置きあるから非常に勉強になります
合従軍に楚の虎項燕は参加してないんですかね?
始皇帝陵は秦王・政の即位直後に造営が開始されたのでは・・・
月夜見天音 そうですが?
自分が勘違いしていたんですけど、始皇帝の陵墓は即位直後に造られたようですね。申し訳ない汗
あと、他の方のコメントで気が付いたのですが、始皇本紀の寿陵と言うのは、造っていた陵墓を合従軍が占領したという事なのかも知れません。
でも、そうなるとサイを攻めた諸侯が「韓、魏、趙、衛、楚」になってしまうのですが・・。
ご指摘ありがとうございます。
音声だけ聞きながら作業してたら、「韓国関」、「合唱軍」、「しんよう君(しんようって人を君読み)」と脳内で変換してしまったから、「中国の国名でてんのに韓国?」「鼓笛隊?」「この子だけ君w」と一瞬混乱した人w
中華の南半分は治水が困難過ぎて
なかなか発展出来なかったんだよな。
今だに国家の大問題なんだから当時はどれだけ大変だったかは想像にあまるな、
斉が参加してない時点で合従軍が秦に勝つのは難しかったでしょうね。
仮に約定等を結んでいても、背後を斉に突かれる可能性を考えると、安心して秦軍とは戦えないでしょうしね。
函谷関以外、例えば南の楚の辺りから秦に攻め入ることも出来そうな気もするんですが、その辺はどうなんでしょうね??
確かに、斉が背後にいるというのは、合従軍にとってはかなりの脅威だったでしょうね。
春申君列伝で、朱英の言葉で秦が楚に攻めにくいような事を言っていたと思いましたので、南の方からは道などの関係で攻めにくかったんじゃないかと考えております!
自分も本当の所は分からないんですが汗
れーしチャンネル
みんなで一緒に協力して攻めるのがお互いの信頼と信用になっていたかもしれませんね。
南方には楚の旧都もありますし、後の益州や漢中方面からは攻められなかったのか?と思いましたが、おそらく、秦側からは攻めやすく楚側からは攻めずらかったり、当時はまだ未開の地が多かったのかもしれませんね。
昭王は始皇帝の祖父ではなく曽祖父ですよ。
舞鶴 ん!
ご指摘ありがとうございます。仰る通りです。
孝文王の事を忘れていました汗。
概要欄に訂正を出しておきます。
楚漢戦争のラストは合従軍にはならんのかな?
楚漢戦争のラストの場合は、弱国が強国に立ち向かう意味合いが強い合従よりも、最強国である漢に従って、弱っている楚を攻めたので連衡に近いのかな~とか考えた事もあります。これは自分の戯言ですが汗
なるほど~たしかに、楚以外の国は劉邦が王を立てたから既に半分漢帝国になってたわけですね。
史記の合従軍の記録簡潔に書きすぎだよねw
「四年、龐煖将趙·楚·魏·燕之鋭師、攻秦蕞。不抜。(紀元前241年、龐煖は趙·楚·魏·燕の精兵を率いて、秦の蕞を攻めた。抜けなかった。)」のみだもんなw
これしか書いてないのにあんだけキングダムで濃密にストーリー描いた原先生エグイなw
離間の策は、秦のお家芸ですね。
ちょっと今気づいたんだが今回の動画の途中で触れてた長平の戦いで趙が40万の兵失ったってよく考えたら凄いな
漢代で総人口5000万人ぐらいだから趙一国の人口はどう考えても多くても一千万は超えないと思うんだが
そのうちの40万、それも兵士になれるような若い世代のやつばかりいなくなるわけなんだから割と国家的壊滅状態だよな(畏怖)
一ノ宮貴音
ああいうのは宣伝のために一桁ぐらい盛るのが普通。
最後には秦の記録しか残らなかった。
@@FGHJNHK625JF75GUT ご指摘の通り秦に投降して埋められたのが40万と言われてましたが
それが『盛ってある』ので現在は(投降して埋められた実数は20万ぐらいと言われていますね
そこ(投降者20万)から逆算して戦死者、逃亡者合わせて損害40万というのは割とリアルな数だと私は思いますが(それなりの被害がないのに投降はしませんからね)
第一次世界大戦のフランスは人口4000万人中戦死140万(3.5%)、
第二次世界大戦のソ連は人口2億人中戦死1400万(7%)って事なので
耐えられないことはないのかも知れない―ただし、勝った場合に限る。
@@redaluminum2387 動画にあるように長平の戦いは最終決戦前夜の話なんですよね
そこから秦の統一戦争(最終決戦)まで約一世代あるんですがどこまで国力回復できたのか…というカンジですね(;´Д`)
というかおそらく長平の戦いで失ったのは実数がいくらかという話は置くとしても趙全軍のかなりの割合なんだと思うんですよ
少なくとも趙に関してはこの時滅亡は決定していた気がします
今調べたら戦国七雄全部合わせて2000〜3000万くらいで、秦趙合わせて500〜600万程度ていうのが書いてあったから、趙は多くても300万くらいだとして、男の数がその半分の150万くらいとしたら、とんでもない被害だと思いました丸
👍1000個達成‼️
🎉✨😆✨🎊
協力して戦っても、よく負ける、「チーム・ワーク」、だよね 〜 (^^♪
BC241年の函谷関の戦いは秦の天下統一を決定づける戦いになったのだが、丁度この頃生まれた連中が秦の次の覇権を争う楚漢戦争の中心的存在に。
原先生すごいな 資料少ないのにあれだけの話作り込むなんて
原文は数文なのに漫画は10巻以上w
合従軍を破ったんだから秦国の英雄とも言えるのに、なんで秦将は誰も書いてなかってんだろう。もしかして相当泥試合だったとか?
ほうけんか春伸君かか
紀元前238年、楚の春申君は妾を使って王に托卵を仕掛けた事で、食客の1人李園に暗殺された。
李園は春申君が生きている頃は裏で意外と活躍してる風だが春申君暗殺後はパッとしなかった。最期は春申君と同じくクーデター起こされて殺されているし。少なくとも李園が春申君暗殺に至ったのには対秦政策で食い違いがあった可能性も否定出来ないが。でもその後の変化が余りにも激しく、李園が殺されて5年後楚は項燕の奮戦も虚しく秦に滅ぼされることに。因みに李園が殺された頃劉邦が地元の村の村長になるのだが。
国がどうとか定期
国がどうとか民がどうとか・・・でしたっけ・・。
キングダム3期に便乗してるなこれは...
は?
配信者として正しい判断
この方はキングダム第三期が決定するよりも前から、この時代についての考察動画をよくされてる方ですよ?
少なくとも少しは狙ってる
三千というのは多い様を表しているので三千人じゃ無い
中国での表現方法の三千で
数の三千では無いです。
不抜❗️😭
この辺りが一番面白かったなと感じております( ;∀;)
はえーとこ某アニメ再開しねーかな。マンガは読んでるから結果は知ってるわけだが、アニメはアニメで見たいんだよなー。
なななね↥↳
正直 暗君とか言って趙のとうじょう王が悪い風に言われてるけれどどちらにしろ趙は秦に潰されてるわ朱海平原で李牧が王せんに負けたように趙は秦に破れる運命だったんだよ。秦の憂いがなくなったか斉からの援助がありかつんだよね李牧のもう疲れましたっていうのは負け宣言だよな詰んだんだろ。
趙は我々はこんな時に何をやっているんだこんな時こそなあいらんなどせずに一致団結して秦に向かわなければならないのにということだろうな
ドンドン ドンドン ドンドン ドンドン
面白いと思うけど、聴きづらいよ(^_^;)
あんまり言うなよ。たった6年前の事を忘れてるキングダムの秦軍がバカしかいないことになるじゃないか。
聞き取りずらいなー
ゆっくりは声が悪いので聞きたくない!