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泉岳寺に行進した理由は、回向院に入り上杉の追ってと構える予定でした。しかし院側が危難を恐れて開門を拒んだためです。やむなく泉岳寺に向かいました。
自力救済社会の最後の時代討ち入りをしなければ大石たちの未来も開けなかった風潮は確かにあった
朝廷からの勅使と将軍の席順の意見の相違が、浅野内匠頭と吉良上野介の対立の原因と言うのは大変参考になりました。いずれにせよ忠臣蔵は日本歴史史上最大のミステリーですね。
忠臣蔵の元になったのは、幕府(綱吉)が勅使に対しての扱いが重大な要因となっていたらしいです。将軍への会見では本来、勅使が上座に対し将軍が下座でなければならないのを、、逆であった為、浅野内匠頭が指摘したが聞き入れられず吉良上野介は聞き入れずに「田舎大名は黙っておれ」と言い放ち「松の廊下」事件が起きた!が、幕府(将軍)は「喧嘩両成敗」を無視し、浅野家のみに処分を押し付けた事、内匠頭の切腹も一国一城の主人への対応が酷すぎた!
他の時代の刀傷事件も調べられてはいかがですか、毛利師就は応戦しているにも関わらず問われていませんよ。
三船敏郎の大忠臣蔵は最高です。月をみながら三船敏郎が演じる大石内蔵助の言葉に号泣しました。
私は山村聰でした。中学生くらいだったと思います。討ち入り日に寄せて放映されるのが待ち遠しくて、1週間まだかまだかと気を揉んだ覚えがあります。
愛知県の三河地区の者ですが、吉良上野介についてはかなり見解が分かれます。地元吉良(西尾市)では名君と讃えられて毎年討ち入りの日には供養が行われます。自分の住む知立市には「忠臣蔵」における「連判状」にて、大石の次に読み上げられる吉田忠左衛門の奥方の墓があり、こちらもその日には御磨きが行われます。吉良と赤穂が仲直りしたのは昭和のはじめと聞いています。
吉良邸の引っ越しは、幕府の命令で安全だった場所から、警備が薄く安全じゃない場所に移された、よって、討ち入りしやすくなった。という解説を聞いたことがあります。ここでの開設は逃げたみたいな感じだけど、どちらが正しいのかなぁ。。。なぞ
解説します。吉良邸はわかりやすく言えば元の住所は城塞都市の中にあり至るところに木戸(関所)が設けられています。隠居を理由に郊外に転居させられたのです。
無役の旗本を一等地に住まわせる理由はないからね。
吉良家のすぐ側にあった蜂須賀家から、「目と鼻の先で、赤穂の連中に切り合いされては困る。どこか、離れた場所へ、吉良を移して欲しい」と言われて吉良家を本所松坂町に移したのが真相です。
切り捨てられたと考える方がいいでしょうね。元の場所で討ち入りされたら幕府の面子が立たないし、近隣大名家も困る。そもそも、戦国時代と違って人を切った事の無い武士ばかりの時代ですから、江戸のど真ん中で合戦されてもです。吉良の子供は上杉に養子入してますが、上杉も巻き込まれたら最悪は改易ですから、重役達にも関わりたくないってのはあるかと。吉良は隠居してたから、それを名目に、郊外に移させたのでしょう。そもそも、既に太平の世ですから、江戸城の真ん前で事件起こされては困るってのが本当のところかと。
@@yoshihironishida2540 武器等の援助をしていたのが水戸藩と聞いています❗尊皇思想の強い藩ですね‼️山鹿素行を本来召し抱えしたかったのが水戸光國で ただこの時光國も幕府へ権中納言への申請中の為 動きが出来ず それを赤穂藩が家老待遇で迎えた❗山鹿素行も事後水戸に移り住み大石神社を作った❗水戸は関わりが無いを貫いた❗
史実にもとずいて作られる物語も好きだけど、フィクション加えられた作品もロマンあって好き。「まくをおろすな!」って映画が好きなんだけど、ほぼフィクションな上にストーリー的にあやふやな部分も多いから映画を楽しむと言うよりは演者の演技とあやふやな部分が多い分妄想をしやすいというのが好き
吉良上野介は森繁久彌浅野内匠頭は風間杜夫で大石内蔵助は里見浩太朗かな!私の歳だと…
18:001703年と西暦表記するのであれば1月31日が正しい年月日。12月14日は旧暦なので元禄15年12月14日になります。ついでに江戸時代の旧暦では日付変更は日の出基準なので、深夜2時半頃発生と伝わる討ち入り日は、深夜24時で日付変更される西暦では1703年1月31日となります。
「考えられている」って便利だな ただの一説じゃないか 少数派の説も多数ある
一つ史実として言っておきたいのは、吉良はかなりの浪費家で、養子として米沢藩主となっていた上杉綱憲にとっては実父であるが故に かなりの金品を 吉良に注ぎ込んでいた。これにより米沢藩は財政赤字が何年も続いた。領民は餓死者が多数を 数えたし、武士も困窮を 極めた。後年この窮地を救ったのは「成せばなる」でお馴染みの日向国高鍋生まれの上杉鷹山公であった。米沢の領民からすれば吉良は決して善人ではないと思う。
浅野匠頭が殿中にて吉良上野介に刃傷・・即日切腹、藩はとり潰し・・その間の赤穂藩士達の行動はドラマ等々で伺う事が出来るが、領民の反応はどうだったのだろうか?ドラマではどうしてもその部分がぼやけてしまっているのだが・・
赤穂藩なら、昔のドラマでは藩札も改易にしてはわりとまともな比率で交換してお金を返している(1対1とはいかないけど、踏み倒すのが普通の時代に何割かでお金を返しているって意味)し、蔵を開いて借金を返してはいるから、わりとすんなり行ったのでは?また、赤穂藩は石高以上に塩田の塩から利益出してたから、財政的には、わりと裕福だったみたいですよ。姫路から赤穂にかけては、私の子供の頃には塩田後地がかなりありましたので。その意味では、浅野内匠頭の時代は領民の反応は良かったのでは?
@@yoshihironishida2540 様興味深いお話を有り難う御座います。史実でも大石内蔵助の配慮で藩札の交換比率は6部替えでしたね。つまり60パーセントを保障した訳ですね。
19:48 大石の三男は浅野本家に就職できた。浪士を預かった熊本藩では助命されたら仕官させようとしていた。
その三男はかなりのポンコツだったみたいね
@@ずんだもち-m7r 一応役職には就いたけど発達障害で品行が悪かった。完全に内蔵助の息子だから役職に就けたと思う。
山鹿の赤穂藩への影響は何とも言えない。配流された身を大石の大叔父が預かってるけど大石本人はまだ十代だったし、山鹿も冷遇されたと言う記録しか残していない。ちなみに、赦免されたのちに山鹿を厚遇してパトロンとなってくれたのが他ならぬ吉良義央。また、吉良家と大石家は公家である進藤家を通じて遠縁(大石のいとこ叔父が吉良の岳母の実家の当主)関係にあり、少なくとも吉良はむしろ赤穂藩には見ず知らずの仕事上の関係だけとは思ってなかったのではないか。実際、二回も饗応役でペアを組むと言うのは異例なことだった訳で。
一番やばいのはどう考えても刃傷沙汰犯した奴なんだよな…吉良さんがただただ気の毒だった
しかも10代そこそこならまだしも、人間50年の時代の34歳だからなw
名誉棄損は自力救済するしかない時代だと知らないアホの発言。そもそも刃傷の原因は?吉良が悪い可能性は極めて強い(借りパクの達人だった)。そして一部のドアホが放言する統合失調症ならば、今でもこの当時でも無罪か大幅減刑。ちゃんと勉強しなさい
大勢の前で恥をかかされたから切りかかったんだよ。この当時は、大勢の前で罵られるのは、死にも等しい辱しめだったからか。
指導料という名の金払わなかったからじゃないの?当時として不当なら仇討ち前にそれ相応の措置してるでしょ。
浅野内匠頭は切れやすくてアブナい人だったらしい。
『四十七人の刺客』と言う小説が本当に素晴らしいですね。
未読ですが、これまでの忠臣蔵モノと違い討ち入りの戦闘に特化した内容だそうですね。映画も屋内戦闘に拘った内容でした
@@仁科博美-x8g また、吉良邸が何故本所のような場所に移ったのかと言う理由も納得いくものでした。
芭蕉門下の榎本其角が襲撃の場に居合わせて見分を残している。それをかいつまんでみる。 裏門が打ち破られそれに使われたらしき掛矢が打ち捨てられていた。近くの番所に行くと屋敷から逃げてきた者が寒い寒いと震えていた。屋敷から出てきた浪士たちにこれからどうなる?と尋ねるとハハハ、切腹、切腹と返ってきた。最後の状況は浪士らが切腹を覚悟しており、再就職志向とは違った見方となるが、情報の錯綜などいろんな解釈があるということだろう。
再就職は考えて無いでしょうね。それなら、2年間の間に新しい生活を始める機会があったかと。大工の棟梁に見そめられて跡取りのチャンスがあった者、親族から就職先を斡旋してもらえる者、幾つもチャンスがあったはず。そして、既に内匠頭から追放受けていた者まで参加してますから。途中で脱落してはいますが、それでも討ち入りと考えた人だけ残ってますので。太平の世でも、教育的には武士の名誉は戦場で戦って死ぬ事、つまり逃げない事だった時代ですから。
赤穂浪士の討ち入りを理解するには、赤穂浪士の討ち入りの30年前の浄瑠璃坂の仇討ちが重要な鍵になってくると思います宇都宮藩の前藩主の法要の席での刃傷事件から、喧嘩両成敗となるところ奥平内蔵允は切腹して家族は追放、奥平隼人は改易となるが護衛付きで江戸に送り出しています4年後、内蔵允の遺児源八は藩の裁定に不満を抱いて脱藩した一党42人と火事装束に身を包み、隼人が匿われていた浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に討ち入りました10数人を斬るも仇の隼人は不在、屋敷から引き上げて牛込御門前で手勢を引き連れて追ってきた隼人達と斬り合いになり、隼人を討ち取りましたこの時一党は幕府に出頭し源八は流罪になるが、後に赦されて彦根藩に召し抱えられ、他にも他藩に召し抱えられた者がいました 未明に火事装束を着て討ち入り 仇討ち後、幕府に出頭するなど大石内蔵助は、明らかに浄瑠璃坂の仇討ちを意識した行動を行なっています大石内蔵助は仇討ちが成功した後、自分は流罪になるが他の浪士達が他藩に召し抱えられ厳しい浪人暮らしから救ってやることも計画に入っていたと私は考えています、誤算だったのは全員切腹を命ぜられたことでしょうしかし仇討ちが成功して生き延び、他藩に召し抱えられた浄瑠璃坂の仇討ちは現代では忘れ去られてしまい仇討ち後、全員が切腹した赤穂浪士は武士の鑑として今でも語り継がれているのだから歴史は面白いですね
吉良家の実家である上杉家に老中より吉良邸の警固を禁じられたのを聞いて何かあったら加勢すると表明したのは、山鹿宗家を召し抱えた津軽藩です。
タイムマシンがあったら討ち入り直後の吉良邸に行って四十七士全員を現代につれてきて、事件の詳細を取材したり怪我人の治療をしたりしたあと、居酒屋を借り切って思う存分飲み食いさせてあげたい。
赤穂浪士と30年前にあった浄瑠璃坂の仇討ちは、かなりの共通点があります刃傷事件に端を発し、片方の当事者だけ切腹、そのことに不満を持って江戸に匿われていた屋敷に「火消し装束を着て徒党を組んで」未明に討ち入りしています違うのは浄瑠璃坂は息子が討ち入りに参加していて、赤穂浪士は親族が参加していないことです当時の常識では仇討ちは父母兄妹などの親族によって行われるもの臣下が主君の仇を討つことは認められていませんでした内匠頭の弟、浅野大学が参加していれば正式な仇討ちと認められていたはずですそのため幕府内で仇討ちとして認めるか認めないかで議論が続き、裁定まで2ヶ月半もかかってしまいました最終的に将軍のお膝元である江戸で徒党を組んで騒がせた罪ということで切腹となりました正式な仇討ちとして浄瑠璃坂の方は、首謀者のみが遠島となり後に赦されて参加した多くの者が再士官しています大石内蔵助が浄瑠璃坂の仇討ちを意識していたのは、討ち入りの装束からも間違いありません仇討ちに成功するも、再仕官したため江戸三大仇討ちといわれながら、現代ではすっかり忘れ去られた浄瑠璃坂の仇討ち切腹して果てたために、美談として後世まで名が残った赤穂浪士明暗がわかれていますね
赤穂藩における山鹿素行の思想的影響が大きいと言われています。皇道忠臣蔵で検索してみて下さい。
中央義士会は公式に否定してますし、実行犯を追撃したのは、山鹿宗家を召し抱えた津軽藩だし、もう一つの宗家を召し抱えた平戸藩主松浦清は著作甲子夜話の中で大石を批判しています。また、山鹿素行は仇討ちは衆人環視の下行うべきと言っており、夜陰に紛れて行った浪士達の行動は山鹿流の考えに合いません。
中央義士会が、浪士と山鹿流は無関係であると公式に否定していますが?
「吉良が公衆の面前で浅野をバカにした。」というのが本当なら、なぜ目撃者(公衆)が手紙や日記にその事実を書き残さなかったのか?
それは、近松門左衛門の脚色です。浅野内匠守が相当のDQNだったのは有名で、実際は、吉良を馬鹿にしていたのでしょう。吉良方は旗本クラス、対して赤穂浅野は大名クラス。喧嘩にもならない兵力差。今風にいえば、支店の課長が本店の次期社長候補に馬鹿にする様なもの?無理筋がすぎるぞ?近松門左衛門、
@@桜庭まな しかも昔の小説やドラマでは吉良が浅野を田舎者と馬鹿にしているけど、基本的に嫡男なら皆江戸生まれの江戸育ちだから田舎者ではない。
仮名手本忠臣蔵ってのが有ってだな、それを元に小説もドラマも映画も作ってたから中身は作り話が多数あるのも当然なのよ。作り話も入れないと怒られちゃうし😂
@@桜庭まな吉良家は高家旗本で、源氏の足利一門。浅野家など比較にならないほど由緒正しい家柄で家格も高い。
@@アオノセカイ もちろん知っています。高家。足利幕府の様式を伝える家柄です。ですが、石高はどうですか?吉良の領地は2千石。浅野の領地は?そういう事をいっています。赤穂事件と忠臣蔵は違うものという認識がない方とはお話になりません。歴史や史料をよく読んでからどうぞ嫡子なら江戸生まれ?そういう意味合いではありません。吉良は足利幕府の様式指南の家柄浅野は大名ですが外様。わかりやすくいえば、中央の文官が地方の王を馬鹿にしてます。わかりますか?
暴れん坊将軍の 徳川吉宗諸国漫遊の 水戸黄門薩長同盟の 坂本龍馬小説があまりに上手なので信じる人が多いみたいですねえ
天皇からの勅使を上座に迎えることを幕府に約束させ(数十年後だけど)、且つ幕府側も約束を実行したと他のチャンネルでやっていたよ。
人情型の理由の一つで吉良が浅野匠の上に塩田の作り方の教授を断られたことがいじめの原因とも言われてるかな
浅野殿は、松の廊下で持病のテンカンが発症して刀を抜いて踊り回ってる時に、たまたま吉良様がいて吉良様の額に当たったと言う信じられない出来事だった。浅野が、なんで吉良様を切りつけたのが不明なのは、テンカン発症のためであったので、1番不運なのは、吉良様であった。それなのに就職の為に、討ち入りして、首を切り10キロも歩いて見せ場にした大石は、打ち首獄門にせないかんかった!
四七士の内寺坂吉右衛門は切腹してないから全員切腹ではないですね
あくまでも、個人的に。私は歌舞伎や時代劇の様なドラマの方が好きですね❗😁👍真実は、それで興味深いけれど。やはり脚色がある方が好きですよ❗なので、ガチ派の方々からの返信は、ご遠慮いただきます❗😁🙏👎🖕
18:00 討入りの年が翌年になっている。
赤穂の浪士達の討ち入りは幕府側では前から予想されていたのではないだろうか?吉良上野介の屋敷替えは偶然だった可能性はあるが、江戸府内で吉良邸を探り、府内にて散り散りになっている浪士達を幕府側もマークしていたはず。又討ち入りの夜大石内蔵助一党の動きが一度も見咎めるられなかったのは不自然だ。47人もの人間の足音が江戸の町々の人々に気付かれないはずはないと思う。結論幕府側から町奉行~各町内に「赤穂の浪士達が事を構えても敢えて無視する様に」と 前もってお触れが出ていたと言うのが真実ではないか。もちろん吉良邸近辺の旗本屋敷にも黙認すると言う上意が出されていた。
「赤穂浪士の47人は全員切腹」は誤りです。寺坂吉右衛門が唯一切腹せずに天寿を全うしています。
寺坂は討ち入り自体参加していない説も有り。
これには諸説有りますよね。そもそも歌舞伎の仮名手本忠臣蔵は大幅に脚色されていますので信憑性が低い事が大前提で諸説を分析してみます。諸説共に46人目までは比較的一致しているのですが、問題の47人目が難しいんですよね。47人目の墓標に俗名と没年が記されていない為、これが誰なのか永きに渡って論争になっていますよね。候補となっているのは、寺坂吉右衛門、萱野三平、村上喜剣の3名ですね。46人の同士を゙弔い天寿を゙全うした寺坂吉右衛門という説。討ち入りの1年前に自らの生命を絶った萱野三平という説なかなか討ち入りを決行しない大石内蔵助を゙罵倒し離脱した後、討ち入り決行を知り、大石内蔵助に詫びる思いで46士の墓標の前で切腹した村上喜剣という説・・ただどれも明確な史実が残っていないので確証は有りませんよね。そもそもこの3名か実在の人物という資料も残っていないので、話の色付けとして作られた架空の人物という可能性も専門家の間では語られていますよね。
寺坂は、討ち入りから数年後、幕府に出頭したが、何の責任も問われなかったという。
大石さんのご配慮でしょうね。寺坂さんは身分が足軽なので武士に対しての罰則は適用外になるから?かと。@@pain-m1x
寺坂吉右衛門←大石家の「使用人」だった。大石が,妻を「離縁=類が及ばないようにした」後,彼の「こまずかい役」として「お軽(正確には,1文字屋おかじ)」を側に置き,彼女の妊娠が判明した😓それで「寺坂」に彼女の身柄を預けた😨これが真実です❗(私の祖母が子孫として,NHK=私の秘密㊙️に出演😅)
いろんな説がでてますけど、ひとまずは勧善懲悪な物語として一方的に嘘を描くようなドラマとかが最近はなくなったのはよかったと思います。
勧善懲悪ではないものの、それなりに教訓のあるのが忠臣蔵だからね。吉良上野介は、泥棒行為もしていたし、人殺しもしていた事実を知っている?ある意味、成敗されても仕方のない人物だったんだよな。その証拠に、身内からは「切りつけられたのは、身から出た錆」と言われるし、奥さんからは、浅野だけでなく、自分も腹を切るように言われるし、まあ、散々な評価だからね。奥さんにしても、自分の実の兄が、夫の吉良上野介に毒殺されているのだから、そう言うのも仕方ない。忠臣蔵に関して言えば、相当、深く研究した上で、何らかの教訓を得る材料の一つにするのが正しいあり方かと思われる。
絶縁関係にある陸奥仙台伊達家と安芸浅野家との和解を幕府が計り接待係をお互いの分家に担当させました吉良上野介義央が浅野内匠頭長矩に伊達家を許すように説得した為に刃傷事件へと進展します幕府は吉良上野介義央に対しても苦い思いをしていたのでこれを機に江戸市内から本所という川向こうの僻地に飛ばしてしまいます赤穂浪人の討ち入り後、吉良家を都合良く潰す事に成功しました徳川家は源氏を名乗る為に系図を偽造しますがそれを行ったのが足利家の末裔である吉良家でした徳川将軍家には都合の悪い史実を知る吉良家を潰す口実を見つけるように絶縁状態にある伊達・浅野家に接待係を任せる幕府の深慮遠謀ですね
山鹿流陣太鼓の話が無かった。山鹿素行はずっと前の時代の人かと思ってました。でも、忠臣蔵は人気があるのかの何故への回答はなかった。何故人気があるんだろう?
ねずさんの説そのままw
自らの思想のために、お家取り潰しと家臣を露頭に迷わせてしまった。無責任という評価もあり得る。
ソースくらいは示してくれないと・・・。
浅野内匠頭長矩の弟さんの大学さんの家系だと分かったのは、高倉健さんが業者に頼んで調べてもらったら、大原麗子さんが、浅野内匠頭長矩の末裔だと分かりました。
綱吉:だから命大切にしろって言ってんだろが。斬りかかるとか討ち入りとは何事だ。見せしめに全員切腹。
生ぬるいから全員火炙りで浅野本家は改易。
討入り口上書を見て、綱吉は心を打たれてしまったのだが。何とか助けたくて長引かせたものの、高名な僧侶からは、「切腹させなさい」と暗にさとされ、やむなく切腹させた。
今じゃ9割の人が創作だと思ってるけどな
トンデモ過ぎる、なんだこれ浅野は元々アレな奴で、高家への付け届け(指南料)もしないし、インフレ無視して昔の費用負担しかしない吉良がその辺のダメな部分を指摘して直させたのに、それを根に持って拗らせたってだけでしょ。
今となっては事実は誰にもわかりません、一方的な思い込みが逆恨みに繋がり一番危ない、京アニの容疑者と同じ。
吉良のほうが名君で治水工事とか村人達のために善政している人で浅野は癇癪持ちのバカ殿と言われておて、松の廊下でも刀ふるえば改易とか藩の人たちのことさえ考え無いアホがそれも後ろから斬りつける卑怯者なのに、初めてこの話でわかったのは食い扶持のためにテロを起こした大蔵達の悪党共が後に正義で吉良が悪党にされたことだよね。バカ殿浅野のためについ最近まで吉良家が、悪党にされて可哀相だったね。さすがに最近は忠臣蔵は、やらなくなったね、真実は馬鹿殿と赤穂浪士のほうが悪党だからね。
賄賂が少なくて嫌がらせをしたのは、徳川家の公式記録にも残っているからね。
確かに朝廷が上位と言う考えもあるだろうけど御家断絶を掛けてやるとも思えない。吉良氏は地元では名君と言われているが現在の政治家も同様、中央では強欲で知れていて献上品にはうるさい人間だったようですよ。ただ世の中では質素倹約が常で浅野家の江戸表が良かれと思って質素な献上品にしたがそれが気に要らなかったのも原因として大きいでしょう。また式次第も大筋は同様でも細部は指南役により微妙に違う。出来ても形式的に指南役を置いたからややこしくなる。特に高家筆頭でプライドも高い吉良が相手だが浅野も生まれついての殿様で同じくプライドが高い、耳にする吉良の強欲にも苦々しく思っていただろう。いくら高家でも国持ちの自分とは格が違うという思いが浅野にはあったと思う。不愉快に思う中、つい何かの切っ掛けで国元を忘れたのは浅野の方だと思う。
現在の政治家云々って、献上品とかあるの?
就活じゃなくて終活になってますね・・・一回でいいから極力史実にに近い形での「赤穂浪士」を見てみたい、スペシャルドラマで
脚本の一本や二本、こちらでいくらでも書けるけど、時代劇一本5000万円の制作費がかかるご時世では、今の時代、予算の関係で無理。全ては予算次第。
@@kuru-qg1iu 脚本だけでそんなにかかるんですね、今ドラマ関連は予算が付きにくいってよく聞くので無理ですね。ネットフリックスはドラマとか作るのに予算が潤沢みたいなのでやれるとしたらそこぐらいですね。
私の考察です。浅野内匠頭が13歳の頃、延宝年5月8日(西暦1680年6月4日)(松の廊下刃傷の21年前)叔父(母の弟)・内藤忠勝(当時26才。家督は兄が辞退したために継いでいる。兄も癇癪持ちであったらしい)は芝増上寺において家綱の77日法要の警備に当たっていた時に、同じく警備に当たっていた永井尚長(普段から仲が悪く、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとしたらしいが、これとて癇癪が原因で仲が悪かったのかもしれない)を斬り殺し、切腹・お家断絶となっている。17歳で国元に初めて向かったとのことなのでこの件は当然記憶にあったはずでなのに事件を起こしたのは、遺伝的に彼も癇癪持ちであったと推測される。綱吉の母は庶民の出であったと言われていて、そのコンプレックス解消のためか綱吉は母に従一位を与えるよう働くよう側用人柳沢吉保に命じていた、実際の交渉は高家の上野介が担当したはずで、京都におそらくこの件を含め年賀に出かけ帰ってきたのは2月末であった。前例のないことのためきっとイライラしていたため口うるさくなっていたのかもしれない。松の廊下は昼でも薄暗く、そのなかで老人をまず後ろから切りつけ(三針縫う程度)、その後烏帽子帽の金具で助かったものの頭を切りつけた。上野介の引っ越しは、柳沢が世間の動向を見て城内近くではなく討ち入りしやすいところに移したと考えられる。仇討ちというのは、殺された側の身内が行うもので、切った側が行うには無理があると思う。時代背景として世間は試し切りなどが行われていた時代を綱吉が生類憐れみの令などで治安をよくしようとしていた頃で、庶民や多くの武士も改易になってしまった状況には応援したくなるそれこそ判官びいきが働いていて、本来は柳沢など幕府にもの申すべきだが、上野介を打つ方向に向かったと思う。
るるるろろろらららさ😂かふるるる
😅😅
内藤事件とは無関係だよ。また、隣の蜂須賀家から、「すぐ側で赤穂の浪人達に、切り込まれては困る」と陳情され、吉良を遠くに移しただけ。
既存権力と尊王思想との確執と言うべきかな?
吉良義周は嫡孫で上杉綱憲の子ですね。
米沢の上杉鷹山も吉良上野介の子孫ですよね
忠臣蔵の話は、経済的な面が抜けているように感じる。吉良が、赤穂藩に製塩の技術を教えて欲しいと頼んだが、門前払いされて、後接待のやり方をわざと間違えて教えたとして争いになったというのも加えないと話が通らないんじゃないか…
それは峠の群像というドラマの影響を受けすぎ。実際は、大勢の目の前で、田舎者呼ばわりされて頭に来て切りつけたというのが真相。
吉良家の領地の近くには塩田がありましたが、それは他家の領地ですある作家の方が忠臣蔵は、製塩をめぐるトラブルという、よく調べないで小説を書かれたせいで広がってしまったフィクションです
吉良名君説はたまに出てきますが、地元吉良吉田の領民達が地元愛から悪役説を覆すべく必死で顕彰している話に過ぎないようですね。上杉家は上野介の息子を養子に迎えていますが、上野介の金の無心に苦しめられ家臣達は蛇蝎のごとく嫌っていたとか。地位はあっても金に困っている人間のやる事はいつの時代も同じでしょう。
高家は江戸常駐で参覲交代しないのを無視した妄想だしなw
昭和39年の大河以降、観光のために吉良名君説をでっちあげているだけだよ。旧吉良町は、それで経済効果で少しは潤ったらしいから。
吉良さんの治める藩と赤穂さんの治める藩は、どちらも塩が名産だったけど、赤穂の塩が江戸で評判だった事に、吉良さんが恨みを募らせていたと言う話もありますよね。
そもそも吉良にある塩田は吉良家の領地の外。だからあり得ない。
浅野内匠頭突然の乱心とゆうことにでもしておけばここまで大事にならず違った流れになっていたのに……
「もしかしたらこうだったかも」という程度の説を「9割の人が知らない…本当の理由」とするのは誇張が過ぎる。
どうしてもドリフ大爆笑の忠臣蔵を思い出してしまう・・・。ところで2:51「赤穂浪士47士」って、そこは漢数字で書いて欲しい・・・笑。
ビートたけしの忠臣蔵がこれの内容に近いね
吉良の功績は後年から。ぶっちゃけ吉良町に近い所に住んでる人間ですがいい話あまり聞かない。
浅野と吉良コンビは2回目1回目は無事終えているからなあ今でいえば逆恨みで襲撃して、ぶち殺したって話ですわね
一回目と二回目の間に「かかる遺恨」だと仮説される事件があるよ、ウィキペディアに載ってるからそれ位は勉強してから書いてね。
ウィキペディアは、間違いだらけなので鵜呑みにしないように。賄賂が少なくて嫌がらせしたのは、徳川実記にも記されている事実。
みんな大好き忠臣蔵は赤穂事件を脚色した近松門左衛門のフィクションである。あと、吉良家は足利幕府筋の礼儀儀礼を教える家で執事。対して浅野家は大名。兵力がまったく違うのはご存知かしら?吉良方は雇えて10人浅野家不貞浪士49人。しかも寝込みの奇襲。勝てないわな。でも、吉良上野介奮戦してるんだよね?なんでわかるか?幕府方の死体検分で20箇所の刀傷、槍に突かれた殺傷10箇所。ま、ジジイを私刑にしてなぶり殺しにしたかもしれないけど?そんな奴等は忠義者じゃないよね?弱いものいじめしたってだけだもの。大筋は赤穂事件。しかし、一部は脚色ありが忠臣蔵。
浅野内匠守が今でいうDQNだったのは史料をよめばわかるので、忠臣蔵は当事者の証言を元にしたフィクションというのが実情です。だから、今風にいえば支店の課長を本店のDQNが逆上して刺殺しようとしたになります。どちらが悪者かおわかりになりますよね?
動画主?吉良方が四十人も雇えるか?といえば疑念が残る。あの当時の給金は一週間で一両よ?40両も隠居ジジイが賄える?そりゃ上杉がバックアップしていたけど、そんなに兵力確保できないだろう?上杉家の家臣かもだけど、それでも多い。史料や文献はあるかな?
吉良は仮にも、4200石。それなりに人は雇えるよ。討入りの日には、3000坪の敷地に、150人も人がいた事を知っている?前日の茶会で家来の多くを長屋に引かせたから、普段はもっと多い。浅野は5万石。しかし、討入り直前は、資金が尽きかけて餓死しかねない状態に近かった。
武士の鏡ですね。
田村邸の別れ😂
超マザコンの綱吉が僕の大切なママのおめでたい席で人情沙汰なんて浅野内匠頭はなにを考えているんだ。絶対に許さない。よし切腹じゃとなって、喧嘩両成敗の習わしを無視したから赤穂浪士が討ち入りするはめになったかも😂
2.26も何か似たようなオーラを感じる。
😅😅😅😅😅😅😅😅 20:42 20:42 わ、
浅野の逆恨み、乱心が原因。 いまや定説です。
吉良と浅野を診察した医者が、浅野の乱心を否定しているのだが?
吉良家はお家断絶になったんんだよね。浅野家は復興できたけど。
赤の他人が名跡だけ継承している
どうしても私は忠臣蔵も綱吉も吉良さんも好きになれない。
三国志における三国志演義みたいなものか。
クリスロック、次はお前の番だ!
刃傷事件後に十分な詮議なしに即日切腹とか普通におかしいやんか
8代将軍吉宗の代にも刃傷事件があったけど斬りつけられた相手が軽傷だったから改易で済んだ。
@@yh6146 どちらかと言えばこの「松の廊下」事件がこれ以降の刃傷の処分決定の反面教師的資料になっている。ウィキペディアで江戸城の刃傷事件が載ってるけど、即日処刑は本件くらい。いかに綱吉・柳沢吉保路線が適当身勝手だか理解できる。
この事件の背景をご存知ですか?綱吉の母に位を授けるための接待中にDQNの内匠守が起こした傷害事件。これにより、公家は京都に帰ってしまい、接待が水泡にきしました。綱吉公の怒りは並々ならぬものでありました。公儀と申しますが、将軍がトップの合議制政府ですので将軍の意向を尊重しますよ?勅使饗応の席での刃傷だから即日切腹になったのかもしれませんが。挑発的な物言い。殺害予告やそれに類する発言は通報させていただきます。
@@桜庭まな あのさあ、それは綱吉の私的感情だよ。この時代の公儀=公的な立場で私的な立ち居振る舞いしていいわけ?俺んちの庭に違法駐車したからってドライバーを56していいの?君が一秒でも違法駐車したら処分されないように、当然覚悟の上だよね?
@@桜庭まな 私的な立場なら、一億分の一理くらいあるかもね。でも公儀=公的は立場の将軍がそれだから犬公方って侮蔑されるんだよ。ヒトの命よりも自分の感情を優先させるなら。それから公家が帰ったのは別に事件に驚いたからじゃない。役目が終わったから。綱吉擁護派はウソしか吐かないね。呆れるよ。つまりこの思想もどきを要約・現代語訳すると俺んちに違法駐車したドライバーを56していいわけだ。それじゃあ君は一秒でも違法駐車したら処分されないようにね。もっとも覚悟しているんだよね?じゃなきゃあ自己矛盾=虚言だからね。
忠臣蔵が創作なのはわかるが、この動画だって証拠も無く逆張りしてるだけやん
赤穂浪士達は吉良邸に討ち入りして、江戸幕府に抗議をしたんだと思う。
真実って、図々しい奴だな。
討ち入りは就活です。前に討ち入りして高待遇で仕官したやつらいました。本人たちは、就活が終活になっただけ。
3百年以上も前の出来事で何が事実なのかは確証の仕様も無いのだけれど、まともな史実も残っていない上、9割の人が知らないような怪しい説を、何でいきなり「本当の理由」と決め付けられるのか謎だし、その神経が理解出来ない。これはもう、投稿者のアタマがおかしいとしか考えられないね。
9:20 殺意がないとか現在の思想を当時の事件に持ち込まれてもw10:55 それまでに2度発生しており豊島氏、稲葉氏ともに切腹の上に改易されています。11:20 敬意を払われる状況か? これも現在の思想を当時に当てはめただけ。特別不自然な状況ではない。
吉良が領民からの評判が良かったのは表の顔で裏の顔は違ったってことだよ
賄賂は大名から搾り取るので、領民から搾り取らなかっただけの話だよ。金のある奴に賄賂を求めた方が、効率も良かったしね。
これが「真実」?吉良の背中の傷はけっこう深かったから「殺意なし」とは言えないし、殿中での刃傷は切腹&改易やむなしなのにそんな危険犯す?47人全員は切腹してないし「根拠」が曖昧過ぎてとても「真実」と言えるか疑問🤔
確か塩の製法原因とか浅野が癇癪持ちで注意されてキレたとか説があったような
吉良領に塩田はないよ。地元の郷土研究家が丁寧に調べて、そう結論している。妄想にとらわれるのはやめたほうがいい。
@@提灯屋八郎衛門吉良に塩田はあるけど、塩田のある場所は吉良家の領地では無いと聞いた事がある。
吉良上野介の墓に参った自分は知っていた。
テレビの忠臣蔵でいいじゃない。
これはひどい
「やめちゃえば、今年は?」「今年はーっ!?」
江戸むらさき特急
地元の名君 忠臣蔵大嫌い。うそやんね
9割ってどこから出てきた数字?デタラメ言っちゃぁイカンよ!
泉岳寺に行進した理由は、回向院に入り上杉の追ってと構える予定でした。しかし院側が危難を恐れて開門を拒んだためです。やむなく泉岳寺に向かいました。
自力救済社会の最後の時代
討ち入りをしなければ大石たちの未来も開けなかった風潮は確かにあった
朝廷からの勅使と将軍の席順の意見の相違が、浅野内匠頭と吉良上野介の対立の原因と言うのは大変参考になりました。いずれにせよ忠臣蔵は日本歴史史上最大のミステリーですね。
忠臣蔵の元になったのは、幕府(綱吉)が勅使に対しての扱いが重大な要因となっていたらしいです。
将軍への会見では本来、勅使が上座に対し将軍が下座でなければならないのを、、逆であった為、浅野内匠頭が指摘したが聞き入れられず吉良上野介は聞き入れずに「田舎大名は黙っておれ」と言い放ち「松の廊下」事件が起きた!が、幕府(将軍)は「喧嘩両成敗」を無視し、浅野家のみに処分を押し付けた事、内匠頭の切腹も一国一城の主人への対応が酷すぎた!
他の時代の刀傷事件も調べられてはいかがですか、毛利師就は応戦しているにも関わらず問われていませんよ。
三船敏郎の大忠臣蔵は最高です。月をみながら三船敏郎が演じる大石内蔵助の言葉に号泣しました。
私は山村聰でした。中学生くらいだった
と思います。討ち入り日に寄せて放映されるのが待ち遠しくて、1週間まだかまだかと気を揉んだ覚えがあります。
愛知県の三河地区の者ですが、吉良上野介についてはかなり見解が分かれます。地元吉良(西尾市)では名君と讃えられて毎年討ち入りの日には供養が行われます。自分の住む知立市には「忠臣蔵」における「連判状」にて、大石の次に読み上げられる吉田忠左衛門の奥方の墓があり、こちらもその日には御磨きが行われます。吉良と赤穂が仲直りしたのは昭和のはじめと聞いています。
吉良邸の引っ越しは、幕府の命令で安全だった場所から、警備が薄く安全じゃない場所に移された、よって、討ち入りしやすくなった。という解説を聞いたことがあります。ここでの開設は逃げたみたいな感じだけど、どちらが正しいのかなぁ。。。なぞ
解説します。吉良邸はわかりやすく言えば元の住所は城塞都市の中にあり至るところに木戸(関所)が設けられています。隠居を理由に郊外に転居させられたのです。
無役の旗本を一等地に住まわせる理由はないからね。
吉良家のすぐ側にあった蜂須賀家から、
「目と鼻の先で、赤穂の連中に切り合いされては困る。どこか、離れた場所へ、吉良を移して欲しい」
と言われて吉良家を本所松坂町に移したのが真相です。
切り捨てられたと考える方がいいでしょうね。
元の場所で討ち入りされたら幕府の面子が立たないし、近隣大名家も困る。
そもそも、戦国時代と違って人を切った事の無い武士ばかりの時代ですから、江戸のど真ん中で合戦されてもです。
吉良の子供は上杉に養子入してますが、上杉も巻き込まれたら最悪は改易ですから、重役達にも関わりたくないってのはあるかと。吉良は隠居してたから、それを名目に、郊外に移させたのでしょう。
そもそも、既に太平の世ですから、江戸城の真ん前で事件起こされては困るってのが本当のところかと。
@@yoshihironishida2540 武器等の援助をしていたのが水戸藩と聞いています❗尊皇思想の強い藩ですね‼️山鹿素行を本来召し抱えしたかったのが水戸光國で ただこの時光國も幕府へ権中納言への申請中の為 動きが出来ず それを赤穂藩が家老待遇で迎えた❗山鹿素行も事後水戸に移り住み大石神社を作った❗水戸は関わりが無いを貫いた❗
史実にもとずいて作られる物語も好きだけど、フィクション加えられた作品もロマンあって好き。
「まくをおろすな!」って映画が好きなんだけど、ほぼフィクションな上にストーリー的にあやふやな部分も多いから映画を楽しむと言うよりは演者の演技とあやふやな部分が多い分妄想をしやすいというのが好き
吉良上野介は森繁久彌
浅野内匠頭は風間杜夫
で
大石内蔵助は里見浩太朗かな!
私の歳だと…
18:00
1703年と西暦表記するのであれば1月31日が正しい年月日。12月14日は旧暦なので元禄15年12月14日になります。ついでに江戸時代の旧暦では日付変更は日の出基準なので、深夜2時半頃発生と伝わる討ち入り日は、深夜24時で日付変更される西暦では1703年1月31日となります。
「考えられている」って便利だな ただの一説じゃないか 少数派の説も多数ある
一つ史実として言っておきたいのは、吉良はかなりの浪費家で、養子として米沢藩主となっていた上杉綱憲にとっては実父であるが故に かなりの金品を 吉良に注ぎ込んでいた。これにより米沢藩は財政赤字が何年も続いた。領民は餓死者が多数を 数えたし、武士も困窮を 極めた。後年この窮地を救ったのは「成せばなる」でお馴染みの日向国高鍋生まれの上杉鷹山公であった。米沢の領民からすれば吉良は決して善人ではないと思う。
浅野匠頭が殿中にて吉良上野介に刃傷・・即日切腹、藩はとり潰し・・その間の赤穂藩士達の行動はドラマ等々で伺う事が出来るが、領民の反応はどうだったのだろうか?ドラマではどうしてもその部分がぼやけてしまっているのだが・・
赤穂藩なら、昔のドラマでは藩札も改易にしてはわりとまともな比率で交換してお金を返している(1対1とはいかないけど、踏み倒すのが普通の時代に何割かでお金を返しているって意味)し、蔵を開いて借金を返してはいるから、わりとすんなり行ったのでは?
また、赤穂藩は石高以上に塩田の塩から利益出してたから、財政的には、わりと裕福だったみたいですよ。
姫路から赤穂にかけては、私の子供の頃には塩田後地がかなりありましたので。
その意味では、浅野内匠頭の時代は領民の反応は良かったのでは?
@@yoshihironishida2540 様興味深いお話を有り難う御座います。史実でも大石内蔵助の配慮で藩札の交換比率は6部替えでしたね。つまり60パーセントを保障した訳ですね。
19:48 大石の三男は浅野本家に就職できた。浪士を預かった熊本藩では助命されたら仕官させようとしていた。
その三男はかなりのポンコツだったみたいね
@@ずんだもち-m7r 一応役職には就いたけど発達障害で品行が悪かった。完全に内蔵助の息子だから役職に就けたと思う。
山鹿の赤穂藩への影響は何とも言えない。配流された身を大石の大叔父が預かってるけど大石本人はまだ十代だったし、山鹿も冷遇されたと言う記録しか残していない。ちなみに、赦免されたのちに山鹿を厚遇してパトロンとなってくれたのが他ならぬ吉良義央。
また、吉良家と大石家は公家である進藤家を通じて遠縁(大石のいとこ叔父が吉良の岳母の実家の当主)関係にあり、少なくとも吉良はむしろ赤穂藩には見ず知らずの仕事上の関係だけとは思ってなかったのではないか。実際、二回も饗応役でペアを組むと言うのは異例なことだった訳で。
一番やばいのはどう考えても刃傷沙汰犯した奴なんだよな…吉良さんがただただ気の毒だった
しかも10代そこそこならまだしも、人間50年の時代の34歳だからなw
名誉棄損は自力救済するしかない時代だと知らないアホの発言。
そもそも刃傷の原因は?
吉良が悪い可能性は極めて強い(借りパクの達人だった)。そして一部のドアホが放言する統合失調症ならば、今でもこの当時でも無罪か大幅減刑。
ちゃんと勉強しなさい
大勢の前で恥をかかされたから切りかかったんだよ。この当時は、大勢の前で罵られるのは、死にも等しい辱しめだったからか。
指導料という名の金払わなかったからじゃないの?当時として不当なら仇討ち前にそれ相応の措置してるでしょ。
浅野内匠頭は切れやすくてアブナい人だったらしい。
『四十七人の刺客』と言う小説が本当に素晴らしいですね。
未読ですが、これまでの忠臣蔵モノと違い討ち入りの戦闘に特化した内容だそうですね。映画も屋内戦闘に拘った内容でした
@@仁科博美-x8g また、吉良邸が何故本所のような場所に移ったのかと言う理由も納得いくものでした。
芭蕉門下の榎本其角が襲撃の場に居合わせて見分を残している。それをかいつまんでみる。
裏門が打ち破られそれに使われたらしき掛矢が打ち捨てられていた。近くの番所に行くと
屋敷から逃げてきた者が寒い寒いと震えていた。屋敷から出てきた浪士たちにこれから
どうなる?と尋ねるとハハハ、切腹、切腹と返ってきた。
最後の状況は浪士らが切腹を覚悟しており、再就職志向とは違った見方となるが、
情報の錯綜などいろんな解釈があるということだろう。
再就職は考えて無いでしょうね。
それなら、2年間の間に新しい生活を始める機会があったかと。
大工の棟梁に見そめられて跡取りのチャンスがあった者、親族から就職先を斡旋してもらえる者、幾つもチャンスがあったはず。そして、既に内匠頭から追放受けていた者まで参加してますから。
途中で脱落してはいますが、それでも討ち入りと考えた人だけ残ってますので。太平の世でも、教育的には武士の名誉は戦場で戦って死ぬ事、つまり逃げない事だった時代ですから。
赤穂浪士の討ち入りを理解するには、赤穂浪士の討ち入りの30年前の浄瑠璃坂の仇討ちが重要な鍵になってくると思います
宇都宮藩の前藩主の法要の席での刃傷事件から、喧嘩両成敗となるところ奥平内蔵允は切腹して家族は追放、奥平隼人は改易となるが護衛付きで江戸に送り出しています
4年後、内蔵允の遺児源八は藩の裁定に不満を抱いて脱藩した一党42人と火事装束に身を包み、隼人が匿われていた浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に討ち入りました
10数人を斬るも仇の隼人は不在、屋敷から引き上げて牛込御門前で手勢を引き連れて追ってきた隼人達と斬り合いになり、隼人を討ち取りました
この時一党は幕府に出頭し源八は流罪になるが、後に赦されて彦根藩に召し抱えられ、他にも他藩に召し抱えられた者がいました
未明に火事装束を着て討ち入り
仇討ち後、幕府に出頭する
など大石内蔵助は、明らかに浄瑠璃坂の仇討ちを意識した行動を行なっています
大石内蔵助は仇討ちが成功した後、自分は流罪になるが他の浪士達が他藩に召し抱えられ厳しい浪人暮らしから救ってやることも計画に入っていたと私は考えています、誤算だったのは全員切腹を命ぜられたことでしょう
しかし仇討ちが成功して生き延び、他藩に召し抱えられた浄瑠璃坂の仇討ちは現代では忘れ去られてしまい
仇討ち後、全員が切腹した赤穂浪士は武士の鑑として今でも語り継がれているのだから歴史は面白いですね
吉良家の実家である上杉家に老中より吉良邸の警固を禁じられたのを聞いて何かあったら加勢すると表明したのは、山鹿宗家を召し抱えた津軽藩です。
タイムマシンがあったら討ち入り直後の吉良邸に行って四十七士全員を現代につれてきて、事件の詳細を取材したり怪我人の治療をしたりしたあと、居酒屋を借り切って思う存分飲み食いさせてあげたい。
赤穂浪士と30年前にあった浄瑠璃坂の仇討ちは、かなりの共通点があります
刃傷事件に端を発し、片方の当事者だけ切腹、そのことに不満を持って江戸に匿われていた屋敷に「火消し装束を着て徒党を組んで」未明に討ち入りしています
違うのは浄瑠璃坂は息子が討ち入りに参加していて、赤穂浪士は親族が参加していないことです
当時の常識では仇討ちは父母兄妹などの親族によって行われるもの
臣下が主君の仇を討つことは認められていませんでした
内匠頭の弟、浅野大学が参加していれば正式な仇討ちと認められていたはずです
そのため幕府内で仇討ちとして認めるか認めないかで議論が続き、裁定まで2ヶ月半もかかってしまいました
最終的に将軍のお膝元である江戸で徒党を組んで騒がせた罪ということで切腹となりました
正式な仇討ちとして浄瑠璃坂の方は、首謀者のみが遠島となり後に赦されて参加した多くの者が再士官しています
大石内蔵助が浄瑠璃坂の仇討ちを意識していたのは、討ち入りの装束からも間違いありません
仇討ちに成功するも、再仕官したため江戸三大仇討ちといわれながら、現代ではすっかり忘れ去られた浄瑠璃坂の仇討ち
切腹して果てたために、美談として後世まで名が残った赤穂浪士
明暗がわかれていますね
赤穂藩における山鹿素行の思想的影響が大きいと言われています。皇道忠臣蔵で検索してみて下さい。
中央義士会は公式に否定してますし、実行犯を追撃したのは、山鹿宗家を召し抱えた津軽藩だし、もう一つの宗家を召し抱えた平戸藩主松浦清は著作甲子夜話の中で大石を批判しています。また、山鹿素行は仇討ちは衆人環視の下行うべきと言っており、夜陰に紛れて行った浪士達の行動は山鹿流の考えに合いません。
中央義士会が、浪士と山鹿流は無関係であると公式に否定していますが?
「吉良が公衆の面前で浅野をバカにした。」というのが本当なら、なぜ目撃者(公衆)が手紙や日記にその事実を書き残さなかったのか?
それは、近松門左衛門の脚色です。
浅野内匠守が相当のDQNだったのは有名で、実際は、吉良を馬鹿にしていたのでしょう。
吉良方は旗本クラス、
対して赤穂浅野は大名クラス。
喧嘩にもならない兵力差。
今風にいえば、支店の課長が本店の次期社長候補に馬鹿にする様なもの?
無理筋がすぎるぞ?近松門左衛門、
@@桜庭まな しかも昔の小説やドラマでは吉良が浅野を田舎者と馬鹿にしているけど、基本的に嫡男なら皆江戸生まれの江戸育ちだから田舎者ではない。
仮名手本忠臣蔵ってのが有ってだな、それを元に小説もドラマも映画も作ってたから中身は作り話が多数あるのも当然なのよ。作り話も入れないと怒られちゃうし😂
@@桜庭まな吉良家は高家旗本で、源氏の足利一門。浅野家など比較にならないほど由緒正しい家柄で家格も高い。
@@アオノセカイ もちろん知っています。高家。足利幕府の様式を伝える家柄です。
ですが、石高はどうですか?
吉良の領地は2千石。
浅野の領地は?
そういう事をいっています。
赤穂事件と忠臣蔵は違うものという認識がない方とはお話になりません。
歴史や史料をよく読んでからどうぞ
嫡子なら江戸生まれ?
そういう意味合いではありません。
吉良は足利幕府の様式指南の家柄
浅野は大名ですが外様。
わかりやすくいえば、
中央の文官が地方の王を馬鹿にしてます。わかりますか?
暴れん坊将軍の 徳川吉宗
諸国漫遊の 水戸黄門
薩長同盟の 坂本龍馬
小説があまりに上手なので信じる人が多いみたいですねえ
天皇からの勅使を上座に迎えることを幕府に約束させ(数十年後だけど)、且つ幕府側も約束を実行したと他のチャンネルでやっていたよ。
人情型の理由の一つで吉良が浅野匠の上に塩田の作り方の教授を断られたことがいじめの原因とも言われてるかな
浅野殿は、松の廊下で持病のテンカンが発症して刀を抜いて踊り回ってる時に、たまたま吉良様がいて吉良様の額に当たったと言う信じられない出来事だった。浅野が、なんで吉良様を切りつけたのが不明なのは、テンカン発症のためであったので、1番不運なのは、吉良様であった。それなのに就職の為に、討ち入りして、首を切り10キロも歩いて見せ場にした大石は、打ち首獄門にせないかんかった!
四七士の内寺坂吉右衛門は切腹してないから全員切腹ではないですね
あくまでも、個人的に。私は歌舞伎や時代劇の様なドラマの方が好きですね❗😁👍
真実は、それで興味深いけれど。やはり脚色がある方が好きですよ❗
なので、ガチ派の方々からの返信は、ご遠慮いただきます❗😁🙏👎🖕
18:00 討入りの年が翌年になっている。
赤穂の浪士達の討ち入りは幕府側では前から予想されていたのではないだろうか?吉良上野介の屋敷替えは偶然だった可能性はあるが、江戸府内で吉良邸を探り、府内にて散り散りになっている浪士達を幕府側もマークしていたはず。又討ち入りの夜大石内蔵助一党の動きが一度も見咎めるられなかったのは不自然だ。
47人もの人間の足音が江戸の町々の人々に気付かれないはずはないと思う。
結論幕府側から町奉行~各町内に「赤穂の浪士達が事を構えても敢えて無視する様に」と 前もってお触れが出ていたと言うのが真実ではないか。もちろん吉良邸近辺の旗本屋敷にも黙認すると言う上意が出されていた。
「赤穂浪士の47人は全員切腹」は誤りです。寺坂吉右衛門が唯一切腹せずに天寿を全うしています。
寺坂は討ち入り自体参加していない説も有り。
これには諸説有りますよね。
そもそも歌舞伎の仮名手本忠臣蔵は大幅に脚色されていますので信憑性が低い事が大前提で諸説を分析してみます。
諸説共に46人目までは比較的一致しているのですが、問題の47人目が難しいんですよね。
47人目の墓標に俗名と没年が記されていない為、これが誰なのか永きに渡って論争になっていますよね。
候補となっているのは、寺坂吉右衛門、萱野三平、村上喜剣の3名ですね。
46人の同士を゙弔い天寿を゙全うした寺坂吉右衛門という説。
討ち入りの1年前に自らの生命を絶った萱野三平という説
なかなか討ち入りを決行しない大石内蔵助を゙罵倒し離脱した後、討ち入り決行を知り、大石内蔵助に詫びる思いで46士の墓標の前で切腹した村上喜剣という説・・
ただどれも明確な史実が残っていないので確証は有りませんよね。
そもそもこの3名か実在の人物という資料も残っていないので、話の色付けとして作られた架空の人物という可能性も専門家の間では語られていますよね。
寺坂は、討ち入りから数年後、幕府に出頭したが、何の責任も問われなかったという。
大石さんのご配慮でしょうね。寺坂さんは身分が足軽なので武士に対しての罰則は適用外になるから?かと。@@pain-m1x
寺坂吉右衛門←大石家の「使用人」だった。大石が,妻を「離縁=類が及ばないようにした」後,彼の「こまずかい役」として「お軽(正確には,1文字屋おかじ)」を側に置き,彼女の妊娠が判明した😓それで「寺坂」に彼女の身柄を預けた😨これが真実です❗(私の祖母が子孫として,NHK=私の秘密㊙️に出演😅)
いろんな説がでてますけど、ひとまずは勧善懲悪な物語として一方的に嘘を描くようなドラマとかが最近はなくなったのはよかったと思います。
勧善懲悪ではないものの、それなりに教訓のあるのが忠臣蔵だからね。
吉良上野介は、泥棒行為もしていたし、人殺しもしていた事実を知っている?
ある意味、成敗されても仕方のない人物だったんだよな。その証拠に、身内からは「切りつけられたのは、身から出た錆」と言われるし、奥さんからは、浅野だけでなく、自分も腹を切るように言われるし、まあ、散々な評価だからね。
奥さんにしても、自分の実の兄が、夫の吉良上野介に毒殺されているのだから、そう言うのも仕方ない。
忠臣蔵に関して言えば、相当、深く研究した上で、何らかの教訓を得る材料の一つにするのが正しいあり方かと思われる。
絶縁関係にある陸奥仙台伊達家と安芸浅野家との和解を幕府が計り接待係をお互いの分家に担当させました
吉良上野介義央が浅野内匠頭長矩に伊達家を許すように説得した為に刃傷事件へと進展します
幕府は吉良上野介義央に対しても苦い思いをしていたのでこれを機に江戸市内から本所という川向こうの僻地に飛ばしてしまいます
赤穂浪人の討ち入り後、吉良家を都合良く潰す事に成功しました
徳川家は源氏を名乗る為に系図を偽造しますがそれを行ったのが足利家の末裔である吉良家でした
徳川将軍家には都合の悪い史実を知る吉良家を潰す口実を見つけるように絶縁状態にある伊達・浅野家に接待係を任せる幕府の深慮遠謀ですね
山鹿流陣太鼓の話が無かった。山鹿素行はずっと前の時代の人かと思ってました。でも、忠臣蔵は人気があるのかの何故への回答はなかった。何故人気があるんだろう?
ねずさんの説そのままw
自らの思想のために、お家取り潰しと家臣を露頭に迷わせてしまった。無責任という評価もあり得る。
ソースくらいは示してくれないと・・・。
浅野内匠頭長矩の弟さんの大学さんの家系だと分かったのは、高倉健さんが業者に頼んで調べてもらったら、大原麗子さんが、浅野内匠頭長矩の末裔だと分かりました。
綱吉:だから命大切にしろって言ってんだろが。斬りかかるとか討ち入りとは何事だ。見せしめに全員切腹。
生ぬるいから全員火炙りで浅野本家は改易。
討入り口上書を見て、綱吉は心を打たれてしまったのだが。
何とか助けたくて長引かせたものの、高名な僧侶からは、「切腹させなさい」と暗にさとされ、やむなく切腹させた。
今じゃ9割の人が創作だと思ってるけどな
トンデモ過ぎる、なんだこれ
浅野は元々アレな奴で、高家への付け届け(指南料)もしないし、インフレ無視して昔の費用負担しかしない
吉良がその辺のダメな部分を指摘して直させたのに、それを根に持って拗らせたってだけでしょ。
今となっては事実は誰にもわかりません、一方的な思い込みが逆恨みに繋がり一番危ない、京アニの容疑者と同じ。
吉良のほうが名君で治水工事とか村人達のために善政している人で浅野は癇癪持ちのバカ殿と言われておて、松の廊下でも刀ふるえば改易とか藩の人たちのことさえ考え無いアホがそれも後ろから斬りつける卑怯者なのに、初めてこの話でわかったのは食い扶持のためにテロを起こした大蔵達の悪党共が後に正義で吉良が悪党にされたことだよね。バカ殿浅野のためについ最近まで吉良家が、悪党にされて可哀相だったね。さすがに最近は忠臣蔵は、やらなくなったね、真実は馬鹿殿と赤穂浪士のほうが悪党だからね。
賄賂が少なくて嫌がらせをしたのは、徳川家の公式記録にも残っているからね。
確かに朝廷が上位と言う考えもあるだろうけど御家断絶を掛けてやるとも思えない。
吉良氏は地元では名君と言われているが現在の政治家も同様、中央では強欲で知れていて献上品にはうるさい人間だったようですよ。ただ世の中では質素倹約が常で浅野家の江戸表が良かれと思って質素な献上品にしたがそれが気に要らなかったのも原因として大きいでしょう。また式次第も大筋は同様でも細部は指南役により微妙に違う。出来ても形式的に指南役を置いたからややこしくなる。特に高家筆頭でプライドも高い吉良が相手だが浅野も生まれついての殿様で同じくプライドが高い、耳にする吉良の強欲にも苦々しく思っていただろう。いくら高家でも国持ちの自分とは格が違うという思いが浅野にはあったと思う。不愉快に思う中、つい何かの切っ掛けで国元を忘れたのは浅野の方だと思う。
現在の政治家云々って、献上品とかあるの?
就活じゃなくて終活になってますね・・・
一回でいいから極力史実にに近い形での「赤穂浪士」を見てみたい、スペシャルドラマで
脚本の一本や二本、こちらでいくらでも書けるけど、時代劇一本5000万円の制作費がかかるご時世では、今の時代、予算の関係で無理。
全ては予算次第。
@@kuru-qg1iu 脚本だけでそんなにかかるんですね、今ドラマ関連は予算が付きにくいってよく聞くので無理ですね。ネットフリックスはドラマとか作るのに予算が潤沢みたいなのでやれるとしたらそこぐらいですね。
私の考察です。浅野内匠頭が13歳の頃、延宝年5月8日(西暦1680年6月4日)(松の廊下刃傷の21年前)叔父(母の弟)・内藤忠勝(当時26才。家督は兄が辞退したために継いでいる。兄も癇癪持ちであったらしい)は芝増上寺において家綱の77日法要の警備に当たっていた時に、同じく警備に当たっていた永井尚長(普段から仲が悪く、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとしたらしいが、これとて癇癪が原因で仲が悪かったのかもしれない)を斬り殺し、切腹・お家断絶となっている。17歳で国元に初めて向かったとのことなのでこの件は当然記憶にあったはずでなのに事件を起こしたのは、遺伝的に彼も癇癪持ちであったと推測される。綱吉の母は庶民の出であったと言われていて、そのコンプレックス解消のためか綱吉は母に従一位を与えるよう働くよう側用人柳沢吉保に命じていた、実際の交渉は高家の上野介が担当したはずで、京都におそらくこの件を含め年賀に出かけ帰ってきたのは2月末であった。前例のないことのためきっとイライラしていたため口うるさくなっていたのかもしれない。松の廊下は昼でも薄暗く、そのなかで老人をまず後ろから切りつけ(三針縫う程度)、その後烏帽子帽の金具で助かったものの頭を切りつけた。上野介の引っ越しは、柳沢が世間の動向を見て城内近くではなく討ち入りしやすいところに移したと考えられる。仇討ちというのは、殺された側の身内が行うもので、切った側が行うには無理があると思う。時代背景として世間は試し切りなどが行われていた時代を綱吉が生類憐れみの令などで治安をよくしようとしていた頃で、庶民や多くの武士も改易になってしまった状況には応援したくなるそれこそ判官びいきが働いていて、本来は柳沢など幕府にもの申すべきだが、上野介を打つ方向に向かったと思う。
るるるろろろらららさ😂かふるるる
😅😅
内藤事件とは無関係だよ。
また、隣の蜂須賀家から、
「すぐ側で赤穂の浪人達に、切り込まれては困る」
と陳情され、吉良を遠くに移しただけ。
既存権力と尊王思想との確執と言うべきかな?
吉良義周は嫡孫で上杉綱憲の子ですね。
米沢の上杉鷹山も吉良上野介の子孫ですよね
忠臣蔵の話は、経済的な面が抜けているように感じる。吉良が、赤穂藩に製塩の技術を教えて欲しいと頼んだが、門前払いされて、後接待のやり方をわざと間違えて教えたとして争いになったというのも加えないと話が通らないんじゃないか…
それは峠の群像というドラマの影響を受けすぎ。
実際は、大勢の目の前で、田舎者呼ばわりされて頭に来て切りつけたというのが真相。
吉良家の領地の近くには塩田がありましたが、それは他家の領地です
ある作家の方が忠臣蔵は、製塩をめぐるトラブルという、よく調べないで小説を書かれたせいで広がってしまったフィクションです
吉良名君説はたまに出てきますが、地元吉良吉田の領民達が地元愛から悪役説を覆すべく必死で顕彰している話に過ぎないようですね。上杉家は上野介の息子を養子に迎えていますが、上野介の金の無心に苦しめられ家臣達は蛇蝎のごとく嫌っていたとか。地位はあっても金に困っている人間のやる事はいつの時代も同じでしょう。
高家は江戸常駐で参覲交代しないのを無視した妄想だしなw
昭和39年の大河以降、観光のために吉良名君説をでっちあげているだけだよ。旧吉良町は、それで経済効果で少しは潤ったらしいから。
吉良さんの治める藩と赤穂さんの治める藩は、どちらも塩が名産だったけど、赤穂の塩が江戸で評判だった事に、吉良さんが恨みを募らせていたと言う話もありますよね。
そもそも吉良にある塩田は吉良家の領地の外。だからあり得ない。
浅野内匠頭突然の乱心とゆうことにでもしておけばここまで大事にならず違った流れになっていたのに……
「もしかしたらこうだったかも」という程度の説を
「9割の人が知らない…本当の理由」とするのは誇張が過ぎる。
どうしてもドリフ大爆笑の忠臣蔵を思い出してしまう・・・。
ところで2:51「赤穂浪士47士」って、そこは漢数字で書いて欲しい・・・笑。
ビートたけしの忠臣蔵がこれの内容に近いね
吉良の功績は後年から。ぶっちゃけ吉良町に近い所に住んでる人間ですがいい話あまり聞かない。
浅野と吉良コンビは2回目
1回目は無事終えているからなあ
今でいえば逆恨みで襲撃して、ぶち殺したって話ですわね
一回目と二回目の間に「かかる遺恨」だと仮説される事件があるよ、ウィキペディアに載ってるからそれ位は勉強してから書いてね。
ウィキペディアは、間違いだらけなので鵜呑みにしないように。
賄賂が少なくて嫌がらせしたのは、徳川実記にも記されている事実。
みんな大好き忠臣蔵は赤穂事件を脚色した近松門左衛門のフィクションである。
あと、吉良家は足利幕府筋の礼儀儀礼を教える家で執事。
対して浅野家は大名。
兵力がまったく違うのはご存知かしら?
吉良方は雇えて10人
浅野家不貞浪士49人。
しかも寝込みの奇襲。
勝てないわな。
でも、吉良上野介奮戦してるんだよね?
なんでわかるか?
幕府方の死体検分で20箇所の刀傷、槍に突かれた殺傷10箇所。
ま、ジジイを私刑にしてなぶり殺しにしたかもしれないけど?
そんな奴等は忠義者じゃないよね?弱いものいじめしたってだけだもの。
大筋は赤穂事件。
しかし、一部は脚色ありが忠臣蔵。
浅野内匠守が今でいうDQNだったのは史料をよめばわかるので、忠臣蔵は当事者の証言を元にしたフィクションというのが実情です。
だから、今風にいえば支店の課長を本店のDQNが逆上して刺殺しようとしたになります。
どちらが悪者か
おわかりになりますよね?
動画主?
吉良方が四十人も雇えるか?といえば疑念が残る。あの当時の給金は一週間で一両よ?
40両も隠居ジジイが賄える?
そりゃ上杉がバックアップしていたけど、そんなに兵力確保できないだろう?上杉家の家臣かもだけど、それでも多い。史料や文献はあるかな?
吉良は仮にも、4200石。それなりに人は雇えるよ。討入りの日には、3000坪の敷地に、150人も人がいた事を知っている?
前日の茶会で家来の多くを長屋に引かせたから、普段はもっと多い。
浅野は5万石。しかし、討入り直前は、資金が尽きかけて餓死しかねない状態に近かった。
武士の鏡ですね。
田村邸の別れ😂
超マザコンの綱吉が僕の大切なママのおめでたい席で人情沙汰なんて浅野内匠頭はなにを考えているんだ。絶対に許さない。
よし切腹じゃとなって、喧嘩両成敗の習わしを無視したから赤穂浪士が討ち入りするはめになったかも😂
2.26も何か似たようなオーラを感じる。
😅😅😅😅😅😅😅😅 20:42 20:42 わ、
浅野の逆恨み、乱心が原因。
いまや定説です。
吉良と浅野を診察した医者が、浅野の乱心を否定しているのだが?
吉良家はお家断絶になったんんだよね。浅野家は復興できたけど。
赤の他人が名跡だけ継承している
どうしても私は忠臣蔵も綱吉も吉良さんも好きになれない。
三国志における三国志演義みたいなものか。
クリスロック、次はお前の番だ!
刃傷事件後に十分な詮議なしに即日切腹とか普通におかしいやんか
8代将軍吉宗の代にも刃傷事件があったけど斬りつけられた相手が軽傷だったから改易で済んだ。
@@yh6146 どちらかと言えばこの「松の廊下」事件がこれ以降の刃傷の処分決定の反面教師的資料になっている。ウィキペディアで江戸城の刃傷事件が載ってるけど、即日処刑は本件くらい。いかに綱吉・柳沢吉保路線が適当身勝手だか理解できる。
この事件の背景をご存知ですか?
綱吉の母に位を授けるための接待中にDQNの内匠守が起こした傷害事件。これにより、公家は京都に帰ってしまい、接待が水泡にきしました。綱吉公の怒りは並々ならぬものでありました。公儀と申しますが、将軍がトップの合議制政府ですので将軍の意向を尊重しますよ?
勅使饗応の席での刃傷だから即日切腹になったのかもしれませんが。
挑発的な物言い。
殺害予告やそれに類する発言は通報させていただきます。
@@桜庭まな あのさあ、それは綱吉の私的感情だよ。この時代の公儀=公的な立場で私的な立ち居振る舞いしていいわけ?
俺んちの庭に違法駐車したからってドライバーを56していいの?
君が一秒でも違法駐車したら処分されないように、当然覚悟の上だよね?
@@桜庭まな 私的な立場なら、一億分の一理くらいあるかもね。でも公儀=公的は立場の将軍がそれだから犬公方って侮蔑されるんだよ。ヒトの命よりも自分の感情を優先させるなら。
それから公家が帰ったのは別に事件に驚いたからじゃない。役目が終わったから。綱吉擁護派はウソしか吐かないね。呆れるよ。
つまりこの思想もどきを要約・現代語訳すると俺んちに違法駐車したドライバーを56していいわけだ。
それじゃあ君は一秒でも違法駐車したら処分されないようにね。もっとも覚悟しているんだよね?
じゃなきゃあ自己矛盾=虚言だからね。
忠臣蔵が創作なのはわかるが、この動画だって
証拠も無く逆張りしてるだけやん
赤穂浪士達は吉良邸に討ち入りして、江戸幕府に抗議をしたんだと思う。
真実って、図々しい奴だな。
討ち入りは就活です。
前に討ち入りして高待遇で仕官したやつらいました。
本人たちは、就活が終活になっただけ。
3百年以上も前の出来事で何が事実なのかは確証の仕様も無いのだけれど、まともな史実も残っていない上、9割の人が知らないような怪しい説を、何でいきなり「本当の理由」と決め付けられるのか謎だし、その神経が理解出来ない。
これはもう、投稿者のアタマがおかしいとしか考えられないね。
9:20 殺意がないとか現在の思想を当時の事件に持ち込まれてもw
10:55 それまでに2度発生しており豊島氏、稲葉氏ともに切腹の上に改易されています。
11:20 敬意を払われる状況か? これも現在の思想を当時に当てはめただけ。特別不自然な状況ではない。
吉良が領民からの評判が良かったのは表の顔で裏の顔は違ったってことだよ
賄賂は大名から搾り取るので、領民から搾り取らなかっただけの話だよ。
金のある奴に賄賂を求めた方が、効率も良かったしね。
これが「真実」?
吉良の背中の傷はけっこう深かったから「殺意なし」とは言えないし、殿中での刃傷は切腹&改易やむなしなのにそんな危険犯す?
47人全員は切腹してないし「根拠」が曖昧過ぎてとても「真実」と言えるか疑問🤔
確か塩の製法原因とか浅野が癇癪持ちで注意されてキレたとか説があったような
吉良領に塩田はないよ。地元の郷土研究家が丁寧に調べて、そう結論している。妄想にとらわれるのはやめたほうがいい。
@@提灯屋八郎衛門吉良に塩田はあるけど、塩田のある場所は吉良家の領地では無いと聞いた事がある。
吉良上野介の墓に参った自分は知っていた。
テレビの忠臣蔵でいいじゃない。
これはひどい
「やめちゃえば、今年は?」
「今年はーっ!?」
江戸むらさき特急
地元の名君 忠臣蔵大嫌い。うそやんね
9割ってどこから出てきた数字?デタラメ言っちゃぁイカンよ!