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仮名手本の意味はそう言う事だったのですね。とかなくてしす・・・。本当に江戸時代の人々の知恵は奥が深い。
まだまアメリカに居た数年前ですが、地元の大学の日本文学の教授がドナルド・キーン教授の弟子で、非日本人では数少ない歌舞伎の専門家でして、大学で英語歌舞を演ってしまいました。定年前に是非忠臣蔵を演りたい、と言うのを実現して仕舞い、僕は義太夫の三味線を担当しました。日本から参加して下さった清元の方々に、英語の義太夫の意味をキチンと理解してそれに伴奏が付けられるのは世界で貴方だけだ、と言われました(笑)。
ほえー、すんげえなアメリカ的価値観だとやられっぱなしではすまされねえという考え方もあるのでしょうか
英語の義太夫!
@@michinobuiimori1894 忠臣蔵が史実に基づくかどうかは別にして歌舞伎の演目として日本人文化の一部となってきたのは事実ですよね。でも忠臣蔵が日本文化からフェイドアウトしていくと主張する人もいます。忠臣蔵の真実とは浅野内匠頭がサイコパスだったという事実につきますね。それに吉良さんや大石さんが不幸にも翻弄されて運命が狂わされた。それにしても殿中で刀抜いて斬りかかるなんてスゲ~ことすると思いますよ😏
@@user-sealseal 復讐というのは世界共通語のようです。でもどこかで断ち切らないと人類の未来はありませんね。
赤穂事件から仮名手本忠臣蔵について、詳しく解説されていて興味深く見させていただきました実際の事件と物語の対比が面白かったです 数年前、愛知県西尾市の吉良氏ゆかりの寺院等を巡る経験をしましたが、地元では名君として崇められており、忠臣蔵のイメージとは違うなぁと感じました。今回も見どころたっぷりの素晴らしい動画でした
名君としてはプロパガンダしているのは反動です。そりゃあんだけ悪者にされたら名君にしたい気持ちはわかる。当時の吉良を名君として見ている資料は0です。資料が出てこないのはもう当時の旗本は領地を統治ほぼしないで、専ら代官が政治やってたというのもあるのかも。吉良は名君だったと思いたいばかりに、伝承のみが残っているだけ。そういう資料が出てくるな私の意見を変えます。
そりゃ名君だよ。立派な人だよ。当時の日本人は全員そうだよ
「仮名手本忠臣蔵」の内容は知らなかったです それに浅野内匠頭の実像はショックでした でも、そんな人物だったから刃傷事件を起こしてしまったのですね今年の、義士祭に行って来ました 大石内蔵助は中村雅俊さんで、背が高くて威厳がありました。 パレードの最後にカチドキを「エイエイオー」ってみんなで大合唱して大いに盛り上がっておりました。
子どもの頃から12月になると どこかの映画会社の忠臣蔵がTVで放映されていましたね大映の忠臣蔵が好きでいつも見ていました 史実というよりファンタジーとして楽しんでいました そういえばもう長い事見てないなぁ・・
ほーりーさんの着物姿まぶしいです😆忠臣蔵とても大好きです。一説には山鹿素行の影響が大きいという話も聞きました。いつもおもしろい動画ありがとうございます😊
史実がー!とか新説ではー!とか聞く度に、従来から語り継がれてる歴史って、お話として面白く出来てるんだなぁと思いますね。
ホーリーさんこうした事実と向き合った歴史検証、さすがですね。事実と向かい合っての動画、嬉しいです。当地、米沢では吉良家と上杉家の間で3重の縁があり、愛知の旧吉良町とともに山形県米沢市でも忠臣蔵が上映されない街です。歴史の裏に迫ると、事実と歯異なる歴史か多すぎますね。幕末の歴史も事実に基づき描き出してほしい会津人の一人ですラジオも毎週聞いてますよ~
忠臣蔵って現代人の感覚からすると何故人気があるのか不思議だったけど言われてみれば、江戸時代の人々は時代も違う脚色されたフィクションのほうを楽しんでいたんだよね高師直なら吉良どころではない政権中枢の権力者だし、遺臣の恨みの矛先が向く展開も無理がないこれを史実に寄せてしまうのは、かえって本来の楽しみ方ではないのかもしれないなあ
庶民が反幕府、反政府演劇として利用したから。実際に物理で反政府運動した大塩平八郎、高杉晋作らは忠臣蔵のファン。
大河ドラマ、1999年の元禄繚乱を見る限りでは吉良が真の仇ではないと思う。どうしても徳川綱吉がラスボスに思えてならない。
新年の忠臣蔵また見たいけど 今度は吉良上野介視点で見てみたいわ。
確か寝坊して参戦出来ず生き残った人が居ましたよね。駆け付けた時には、塀によじ登って観戦してる町民とかが屋敷を囲んではやし立ててて、恥ずかしくて中に入れなかったんでしたね。
私が子供の頃は毎年この時期になると決まってどこかのテレビ局が忠臣蔵をやってましたね。最近は流石に飽きられたのか、内容が時代にそぐわなくなったのか、やらなくなりましたね。尤もテレビ自体が飽きられたのもあるかも知れません。かく言う私の家にもテレビは無くなってしまいました。
時代劇は映画の時代から人気コンテンツで、テレビに移行してブームに。個人的には「影の軍団」が好きでした。時代劇を好む層が高齢化して、スポンサーの望む視聴者層から外れたことと、時代劇を演じることが出来る若い俳優さんが減っている、という事情もあるようです。(時代考証に合った所作はそう簡単に身につかない)今のテレビ局が金を掛けて作っても、イケメンタレントが怪しげな所作をする和装ドラマがオチなのでは。
今年もその季節ですか!早いですね!
私の出身校は元をたどれば上杉藩の藩校ではありましたが成人以前は赤穂事件について特になにも思うところはありませんでした。しかしながら生きていれば91歳になる母親の子供の頃、米沢周辺では忠臣蔵の上演は禁じられていたそうです。今は吉良方には非がなく、元赤穂藩士によるテロ行為のすべての責任は、平成6年に398年ぶりに和解するまで儀礼的な挨拶すらしない不通を保ち絶交状態だった伊達家と浅野家に勅使饗応役を命じた幕府にあると思っています。
そりゃ米沢藩は吉良上野介の子孫ですからね。ぶっちゃけ言えば今川氏真の子孫。
赤穂藩は山鹿流を取り入れていて、天皇の使者の上座と下座の事でその事に意義を申し立てるためとも言われてますね。🙄
前期水戸学にも関わっていた山鹿素行が幕府推奨の朱子学を認めないから水戸藩を追放されて赤穂藩に匿われ、赤穂藩に尊王思想が根付いた、という話はどこかで見たような実際には山鹿素行は赤穂藩に半年くらいしか居らず、しかも浅野の対応に不満で自ら出て行っており、後にボロクソ不満書き残してます。動画内の浅野家悪評に近い内容です。浅野長矩に対しては、しきたりや慣習にこだわらず誹りを受けた、とあるので、吉良が言う「浅野が言うこと聞かない」に共通するものを感じます面白いのは、山鹿素行はその後朱子学批判で蟄居させられて、赦免後に一番良くしてくれたのが吉良だったことですね。お互いの秘伝書を書き写すくらい仲良かったようです
「仮名手本忠臣蔵」の話はよくわかりました。永代橋かぁ~(^-^)。今日のほーりーの着物の色が良かったです❗
赤穂浅野長矩が切腹のとき領民が喜んだらしい←苛烈な政治してたのかな?二度目の仕事で、さらに金銭払うだけの立場なのに、吉良義央から直には指示がなかったんだろうて、思われるからますます刃傷に及んだのかわからない事件
それと戦後になって反動で、吉良が善政をやっていたという根拠に基づかないプロパガンダもやめたほうがいいと思う。またねじ曲がったしまった。
小学生の頃にテレビで良く年末に忠臣蔵のドラマを毎年観ていたけど、最近は忠臣蔵を全く放送していないけど、この動画を観たら忠臣蔵がどんな出来事か良く分かりやすかったです。
吉良側の話として、星新一の小説「ああ吉良家の忠臣」という話が記憶に残っています。そこでは吉良様は名君として描かれていましたが、あながち間違いでは無かったと思います。
東京都立博物館の蔵書はすごいですね!
主従揃って、今で言うところのTe-.Ro.リスト。赤穂、大石、忠臣蔵と耳にするだけで胸KUSOがわるくなってくる。
ブラボー江戸紫のほうりー様源氏物語の少女巻で紫の上に取り留めのない虚構話が事実よりも生き生きと日常を描ける、と。 悪役を悪く、悲劇的に描くことこで盛り上がる、と。 小説の真髄を語っておりました🥰 江戸紫ほうり様は令和の紫の上に成長してくださいませ👌
ホーリーさん、ぜひ飛脚について詳しく教えてください🙇🏻🙏🏻
領地では善政を敷いていた、吉良上野介が主役のドラマを観てみたい😅
私の知っている忠臣蔵は、「上座に座るべきか下座にすべきか」を問うたのに「そんなことも知らんのか?と」頭を勺で何度もパンパン叩き、「おのれ!おなじ場所を何度も何度も!」と斬りつけた話し。😂ナツカシ
ただいま2作目を視聴し終えましたいやいや、とっても楽しいですね!引き続き、視聴続けたいと思ってますよ✌️さて、赤穂浪士かなり以前に歴史を現代から読み解いてゆく手法の本で読んだ事なのですが塩の販売権を巡るいざこざから始まったと書いてありましたどちらかと言えば、後追いの赤穂藩が市場を奪ってしまったと捉えていますまた、江戸城では刀を抜くことが禁止されており、処罰はそれに対するものとも書いてあった記憶があります劇中や浮世絵での四十七士の服装も、実際には見窄らしいものとも有りましたなんだか否定的なものばかりですね笑ただ、書では、古事記にまで遡るのですが、事実はまた別なものと捉えており、それらが様ざな形で受け継がれてきたことは確かなものであると作者は述べています面白いですね
先祖が浅野家に仕えていました。我が家に伝わる話では、殿様が馬鹿なことをしでかして処分を受け、「敵討ち? はぁっ!? 付き合ってらんねえよ」と刀を捨てて百姓になったらしいです。巻き添えを食うのを避けたかったのでしょうかね。身分も軽かったのかもしれません。忠臣蔵を見るたびに、吉良家に対してはいつも「うちの先祖の主君とその家臣がご迷惑をおかけしてすみません」という気持ちになります。
生活と見栄とどちらかを選択せねばならぬ・・・いつの時代も同じですね。ただそこを深く見た大石は「去る者は去れ」と慈悲の心を。そして本懐も仕損じたときのことを考え二番手を。深き人物だったんでしょうね、大石良雄さんは。
ほーりーさんの動画分かりやすくて、楽しく拝聴しています♪歴史好きの視聴者さんの、マニアックなコメント見てるのも面白いものです😊コメントでさえも勉強になる動画なんて、中々見かけません。
私の先祖は関宿藩本所下屋敷にいたそうです。代々言われていることには、父から聞いた事では、吉良様にはなんの引け目はないとの事、それなりの良い殿様だと聞かされてきました。忠臣蔵はあくまでも劇だよ、毎年年末が迫るときかされてきました。上野戦争までは住んでいたそうです。
赤穂事件の後に赤穂藩の旧臣が吉良を討つという評判が立ったのに、幕府は吉良邸を中心地から郊外へと移しているんですよね?お隣(?)の上杉藩(?)縁戚も『何事か尋ねた』だけで何もしなかったのは 他藩の揉め事に関与したくないのはわかるんですが、触れられていないのが残念。あまり興味がないので記憶があやふやですが。。。
吉良家の高家の最上位の地位を徳川に親しい今川家に移したかった幕府が、刃傷沙汰を利用したという一説があります。即日の切腹を命じる傍ら吉良にはお咎めなしにする事で、家臣らには主君の仇討ちを暗に促し世間には仇討ち止むなしの気運を高めました。幕府は吉良家の屋敷を城下町から奉行所の目が届きにくい辺鄙な地に転居させて仇討ちをし易くさせました高家など位の高い屋敷を辺鄙な地に追いやる事は例がない事です。浅野内匠頭は9歳で城主になった我儘育ちで、女好きで激しい癇癪持ちなのを大石も知っていた大石は仇討ちをせずに主君の弟で存続を模索していたけど日に日に強まる世間の仇討ち待望機運に負けて止むなく仇討ちを決行した。浅野の人格が不出来で起きた刃傷沙汰と、幕府が今川家を高家の最上位にしたかった刻がちょうど重なったのが忠臣蔵という一説があります。吉良は幕府の完全な犠牲者、浅野は幕府の準犠牲いう一説になりますが記憶が曖昧なので、話半分以下だと思ってください。
当時のお芝居では結構ダ・ヴィンチ・コードな感じでやってたんですね まあ現代もこういうのありますか😅浅野偶像ガラガラになりました
忠臣蔵のキーワードは現実には存在しない「山鹿流の陣太鼓」かも知れんと思ってる。山鹿素行は尊王思想の人。
ならば一度、吉良上野介義央(よしひさ)側からの目線で描かれたドラマ「忠臣蔵」も見てみたいモノだ…(* ̄∇ ̄*)😁👍❗️かなりの名君だったらしいから✨️
北野武監督のものはそれに近いかもしれません。
絶対吉良側から見たドラマや映画が放映されるべきです。あさの 内匠頭は統合失調症だったらしいとのことも。
あ~、そうですよね。なぜ他でこのような発想をする意見が出てこないのかと今思いました。
@user-ff1dg1nf7qパヨってるの?大丈夫?病院いく?
ドキュメントになっても?? 映画・ドラマには ならないでしょう。全然おもしろくな~い
浅野内匠頭は前回も勅使接待役を経験している為吉良に相談しなくてもやり方は知っていたはず
「仮名手本」なのはいろは47文字と赤穂浪士47人が同じ数だからだ、という説もありますね。咎なくて○すなのは吉良の方だったりする…(^_^;)
吉良は地元では評判がいいって話だけど
「傷害事件の加害者(=浅野内匠頭)が(幕府に)切腹を命じられた腹いせに、加害者の家臣が傷害事件の被害者(=吉良上野介)を惨殺した」って話なんですね。 こりゃ、たまげた😆😆
それはちょっと違います。当時は、喧嘩両成敗という慣例や制度がありました。浅野だけが切腹で吉良はお咎めなしという裁きは、やはり片手落ちであるという世論がありました。
これはかなりメンドクサイ話であるのだがそもそも、室町時代の価値観が相当にヤバいのだ。「道すがら、狭い場所ですれ違う際に立ち止まって会釈した」この会釈で、「お前誰や?」で斬り合いになり斬り合った当事者そっちのけで双方の勢力が衝突、小競り合い(戦)になったりしていた。この様な価値観から、状況を見て過失割合を考えて裁定すると片方が揉めるので、「もう裁定するのめどくせぇわ、取り敢えず双方腹切っておけよ」ってのが室町時代から江戸時代にかけて生まれた「連帯責任」とかもその一環だ。「もうめどくせぇからお前ら全員処罰な」という傾向が生じたしかし、まぁ実際は喧嘩両成敗とか言っても、実際は異なる。当然一方的に切りかかってきた方が悪いってのは、江戸時代人にも広く理解できる道理である。だから、他の刃傷沙汰ては喧嘩両成敗とはなっていない事の方が普通だ。同時に、江戸時代を迎え、徳川幕府は家臣に家臣たるものの心得を説くようになる。簡単な話「主従関係」の意識が変わる。事を面倒にしてるのは、主従関係のこの価値観の変更だ。室町時代なら、播州赤穂藩に浅野内匠頭を切腹させて、赤穂藩は本家浅野家の管理下に置くで揉める事は無い。当時者の所属するグループに当事者本人を処分させることで、グループ全体の体面を保ち納得させる。吉良上野介の処罰などは関係無かった。しかし、主君の主君(徳川家)の裁定に処分に従うのが道理だろうと、徳川幕府が勝手にさっさと浅野内匠頭を切腹させてしまった事により、「主君に対する仇討し、赤穂藩士の体面維持しなければならない」という当時の武士道にも沿った大義が生まれてしまった。江戸時代初期だと、加藤嘉明や最上義明など息子の代で潰れているが、家臣らが「主君、そんなの関係ねぇ」で揉めた結果のお取り潰しだが、彼らがお家の存続より家臣団の面目優先した結果とも言える。この面目、意地の張り合いは、井伊家二代目の相続にも非常に色濃く影響している。江戸時代に生じた主君への忠義や、室町時代からの武士の面目を果たす方向性がどこへ向くのか?赤穂浪士の場合は、「主君の仇討」という形になっていった。
@@silversurfer512さまそもそも喧嘩ではありません。切れやすい人間だった浅野内匠が、吉良の指導に切れて一方的に斬りつけたのです。現在なら信号無視の車に跳ねられた老人を、「事故が起きたからにはお前にも責任がある」と責めるようなものです。吉良は「全く身に覚えがない」と言っており、浅野は弁解すら出来ませんでした。浅野が「好色、悋嗇、士を愛さない」大名であることは、既に綱吉に報告がいっており、その札付きの男が、この直前京に上って、生母桂昌院の未曾有の昇位を成し遂げた功労者の吉良に、こともあろうに勅使を迎えての式典の場で、饗応役の身で斬りつけたのですから、即日切腹は免れません。浅野は17歳の時に勅使饗応役を経験しており、「吉良が意地悪をして必要な知識を伝えなかった」は成り立ちません。むしろその経験に慢心した浅野が、持ち前のケチぶりを発揮し、その後荻原重秀の貨幣改鋳に物価が騰貴したことを理解せず、費用を惜しんで吉良を苦しめ、再三の吉良の指導に切れたというのが真相でしょう。「忠臣蔵」の一夜の畳替えのエピソードなどこの辺を突いているのかもしれません。
吉良がお咎め無しのは、生類憐みの令も間接的に影響してると思います。あれは、もう戦国ではないという事で殺生を禁じようとした法令で、なにも犬だけ保護しようとする法令では無いのです。実際は、松の廊下事件では、吉良は防御のための刀を抜いてなく。それが綱吉に伝わり、浅野の一方的な攻撃と判断したのではないですかね。😊
@@silversurfer512😢
自分も忠臣蔵の話は懐疑的、否定的で美談とは思いません。喧嘩両成敗が適用されなかったのは浅野が一方的にしかも背後から抜刀して無抵抗の吉良に襲い掛かっているので喧嘩とはみなさなかったというもっともな理由がある。そもそも十分な詮議をせずに感情任せに即日切腹の沙汰を下した綱吉がそもそのの原因だろうに吉良が悪役とされているのは理不尽としか思えない。
戦国時代、背後からから切り掛かった者は卑怯者とみなされ味方から切腹を申し渡されたそうです。江戸時代でもそういう風習が残っていたのでしょう。
@@齋藤元気-s9c 一緒に勉強しましょう。浅野がよくなければ四七士は起ったただろうかという事も。
@@齋藤元気-s9c 浅野さんもさあ、遠い故郷から江戸詰にされたんだろ?心を病んでもしょうがねえかもしれんね。これでも誠意を持って対応しています。
ハラスメント体質"挑戦愚等"現代劇版カルト公庵👮♂️やって漫画な🇯🇵
まともに賄賂を送らないから、それで嫌がらせをしたと、徳川実記にも書いてあるのだが?
1:20 2:12 絵と名前が逆!
忠臣蔵関係の映像、書籍などから なぜ浅野と吉良が対立するか比較していただければ面白いと思いますドラマ、映画3,4本見ただけですがいろんな見方ができて面白かったです
吉良上野介も気の毒だが、モデルになった高師直も、相当お気の毒!😢太平記からね
仮名手本 いろは47字と47士をかけてるのがすごいな
こういう演目をぜひ現代演劇でもやってくれないかな悪行して咎めなしの政治家、医者、有力者皮肉混じりに演じてほしい
南出喜久治「皇道忠臣蔵」によれば、忠臣蔵は尊皇討幕運動の先駆とされる。吉良の高家は禁裏御所御定目(=禁中並公家諸法度の上書き)を定めるなど皇室の行動を規制した。一方赤穂浅野家は山鹿素行の薫陶を受け、皇室に多額の出費をするなど尊皇思想を貫いていた。朝廷勅使の扱いをめぐる確執があったとされ、この問題は終始皇室をどうか扱うかの問題だった。大石内蔵助の出自も中臣家の親戚、儀式を司る家系とされ、尊皇的だった。秦氏の影響下で赤穂藩はそもそも山鹿素行以前から尊皇志向だったと思われる。そうでなければ山鹿素行を招くはずがない。山鹿素行は『中朝事実』を記し、皇室と日本の独自性と重要性を示す論理を展開していた。山鹿流陣太鼓は虚構としてもその精神的影響は無視できない。この問題は明治維新まで続く。
勅使供応の場で刃傷事件を起こしておいて尊皇もナニも無いモンだ。皇家に対する最大の侮辱行為でしょうに。
まかり間違えばお上への反逆、腹いせによる暴挙、と取られかねない討ち入りを「義挙」にまで認知バイアスをプレゼンした大石内蔵助の手腕に驚愕しています。五代将軍自ら「あっぱれ」と評価してしまう(苦笑)
亡くなった方の血縁である身内が仇討ちを行うのは「合法」でした。大石内蔵助はじめ藩士達は浅野内匠頭の身内では無いので、合法とはなりません。ここでお触れを無視して仇討ちすべしという急進派15名と、弟の浅野大学(浅野長広)を立てて御家再興を目指す大石ら主流派93名に割れます。浅野大学は浅野内匠頭の罪に連座して閉門(自宅軟禁)されましたが、規定では3年後には連座により閉門が解かれます。その後に浅野大学を立てて御家再興を成して、浅野大学の命で仇討ちをすれば合法となるので、それまで待て、という形で大石は急進派を説得し、かの有名な「血判」を作成します。この時には120名が血判捺印しています。ところが浅野大学を閉門処分のまま本家の広島に返し、吉良上野介も引退して米沢に帰る、ということが決定してしまったため、大石プラン「合法的仇討ち」は実現不可能であることが確定してしまいました。行き詰った大石は血縁では無い浅野内匠頭を「君父」と呼ぶことを決め、正当な仇討ちであると主張し、仇討ち後の幕府の取り調べでもそう答えています。当然ながらこの理屈は通らず全員死刑となった史実はご存知の通りです。将軍綱吉の施政に窮屈さに庶民が苦しんでいた時代、最初に急進派が仇討ちをするという噂が立った頃から庶民からは絶大な支持を得ており、これが大石の判断を後押しした、と私は考えております。動画にもあった通り、仮名手本忠臣蔵が完成して大人気の演目となったのは討入の45年後です。実に45年間も人気というか庶民の支持が衰えなかったということでもあり、もはやドラえもんやガンダムやジブリ並みのコンテンツだったと言えると思います。
そもそも殿中で 刀を抜くなどとすればお家断絶と決められていました。朝廷への接待役が 接待中に上司?を 斬り付ける事件などを 起こせば 当然の責任を問われます。将軍様の顔に泥を 塗った事と同じです。それを「喧嘩両成敗」にする大石氏には 随分と無理があると思います。庶民が 「忠臣」ともてはやした事で 幕府もそれに乗ったのでしょうけれども 討ち入り後、なぜか上杉家が 更に減俸された事から 刃傷事件からの1年間で 幕府も赤穂浪士を 利用した事で 全て丸く片付けられたのではないかと思います。
松の廊下は刃傷沙汰御法度だったのでは?単なる廊下では無く、江戸幕府の威厳を示すような意味合いを持った廊下で、そんな場所で刀を振りかざし血で汚した事が、切腹の理由ですよね。それと、浅野内匠頭も江戸に来た当初は良い藩主だったのが、江戸での生活が続く中で上手く取り入って美味しい思いをしようとする人間に囲まれて堕落して行ってしまったのかな。吉良上野介の寸評も聞きたかったですね。
ほーりーさん初めまして、ねねです。そーだったんですね。私「浅野」と言うんです。なんか微妙!?👍ボタン、チャンネル登録しましたよ。これからも面白いお話聞かせてくださいね😊 もうすぐ10万人頑張って❤
そうそう!今度コメディの忠臣蔵の映画が上映されますよね!ほーりーさんは見に行きますか?
徳川家は今の西尾市の吉良の領地に流れていた矢作川を、洪水対策と称して自分の領地に流れるように河川改修工事をして、わざと干拓工事で領地が増えないようにしてるから、家臣なのに権威は有るから1度目は仕方なく吉良家に味方したけど、世論が許さなかったから、それなら良い取り潰しにするチャンスと極秘の仇討許可が有ったのかも知れないですね。
群馬県藤岡市白石は吉良さまが産湯をつかった井戸があり吉良さまの領地。吉良さまは名君だったらしく領民に慕われ、今でも白石の人は忠臣蔵を視ない。
吉良上野介というと強欲で陰険というイメージを持つ人が多いのではないか。忠臣蔵で事実以上に悪役にされてしまったのは不本意でしょう。
ちなみに吉良上野介は地元では名君なんだよね。
@@ジャックスミス-x2r 様へ 領民の言葉が真実でしょ。(地元人ですけど)
@@鈴木典子-q4wあんないい殿様をのお…。というので赤い馬に乗った吉良様というおもちゃが残っている。
@@夕刻夕刻 様へ 討ち入りの日は吉良様の命日なので、供養があるそうですね。市町村合併でも吉良の名前を守る子孫たちが真実でしょうね。
@@鈴木典子-q4w あなたは立派ですが
過去に愛知県の吉良上野介の墓所に行ってきました。領地では上野介は名君で領民の評判も良かったらしい。ただ江戸では気位が高く評判は今一つだったらしい。
地元では誰でも名君の筈です。高家の吉良はきっと自分より高禄な大名に意地悪だったと思います。
吉良が勅使饗応役を指導するのは親切心とかではなくれっきとしたお役目で、どちらにせよ浅野が失態やらかせば吉良もお咎めを受ける。 勅使を巻き込むなんてハイリスクな真似してまで嫌がらせなんてするかね?と言う話もありますね。
面白かったです。昔から、大石内蔵助は幕府に対してこそ、戦いを挑むべきだと思っていました。吉良を殺害した後、切腹をせずに、その先を幕府に決めさせることが、幕府へのささやかな抵抗という話も聞きますが、死ぬ覚悟があるなら、やはり江戸城を襲撃するべきでしょう。
12月14日は討ち入りの日、蕎麦を食って一力で遊ぶ、京都生まれはいいもんだ
志村けんと加藤茶の松の廊下のコントを思いだしてしまうんですよね、あれがある意味インパクトが強烈だった。
髪型可愛い!
藤原隆家の刀伊の入寇もスカッとするぜ!
15:05 主君が主君なら家臣も...
今晩は!ホーリーさん今回は人気の忠臣蔵ですね自分も子供の頃から相当な数の忠臣蔵を見てますね確かに松の廊下刃傷事件だけ見ると、ホーリーさんの言う様に浅野が一方的に吉良に斬りつけて吉良は逃げただけ、なので浅野は切腹で吉良はお咎めなしは当然の処置ですね。ただ何故に即日切腹だったのでしょう、両者や関係者からの詳しい取り調べをするべきだったと思いますよ、吉良を斬り付ける際「この間の遺恨覚えたるか」と浅野が言ったと言う周りの証言も有りますから、浅野と吉良の間に何かしらの確執が有った事は明らかです、事件の事の発端を探ろうとせずに浅野は即日切腹で吉良はお咎めなしでは赤穂藩士にすれば絶対に許せないし幕府側の落ち度と思ったんだと思いますよ。浅野は短気(精神疾患?)で女ぐせが悪い事は当時の資料から解りましたが、一方の吉良はどうでしょうか?領民に好かれていたと言う資料が有ると伴に悪い評判の資料も有る様です、ホーリーさんには吉良側の資料も明らかにして欲しかったですね。それにしても水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、忠臣蔵が大人気なのはホーリーさんが言う様に勧善懲悪が大好きな日本人だからでしょうかね。
小学校二年生のころ、泉岳寺にお参りした。それから、十年後くらいに、ほど遠くないところにある大学に入学した。何かのご縁があったのかも知れない。
忠臣蔵は大好きですが吉良様はおっしゃる通りかなりとばっちりだと思います。賄賂大好きとか言われてるけど今だって茶道・華道など道のつくお稽古は先生に贈り物を持ってご挨拶に行くのは当たり前だし、公家衆によしみをつないでもらうのに謝礼無しな訳ないじゃん!と思います。大体勅使饗応役は初めてじゃなかったし前回の記録もあるからもう聞かなくていいじゃん!って思ってたら上手くいかなくて改めて吉良様に泣きついたら「ほうらごらん!私、なんて言いましたっけね?」とか説教されてキレ散らかし・・な気がします。内匠頭のお爺さんは大名火消しの制度を作るのに功績があったそうで有能な人だったから「アレの孫なら」という幕府の期待がプレッシャーだったのかもしれないですね。うちでは年末忠臣蔵の映画を見ながらお蕎麦を食べてると妹が甥や姪に「ほーらごらん、人の上に立つ人に辛抱がないとみーんな迷惑!」とか言うし(幼稚園児にそんなこと言われたって)松の廊下で「この間の遺恨覚えたかーーー」ってやってると「老人なんだから覚えてるわけないじゃ〜ん」って突っ込むし、討ち入りの場面ではみんなでえいえいおーして盛り上がります。でも吉良様はいい人です。
喧嘩両成敗と言うけど、吉良は一方的に斬りつけられただけで、自分の刀には手をかけてない。喧嘩ではない。
浅野内匠頭は癇癪持ちで短気だったと聞いた事が有ります。
詳しく話されて楽しかったです、新歴だと1月30日だから雪景色の中の討ち入りになってるけど真相はどうなんですか?
こらゃ
くだものおお。😊😊😊😊😊
討入は元禄15年12月14日寅の上刻で、西暦1703年1月31日午前4時頃で、快晴で月齢13.6と満月に近いとても月が明るい状況だったようです。幕府の記録では道端に溶け残った泥まみれの雪がチラホラ残っていた程度、だそうです。「しんしんと雪が降りしきる中」というのは後世の脚色です。
赤穂には、仕事で何十回と行きました🙂お城にも何度か行きましたが、小さいお城とお堀で「へぇ😮」って感じですネ😔とても、大事件を惹き起こすとは思えない感じです😔但し、赤穂全体で四十七士を盛り上げる感じで、旗織物が多く立ってます🙂
そういえば最近年末になっても忠臣蔵が放映される事がない…。年末の風物詩だった。北斗の拳が地上波で放送できないのと同じかもしれない。
史実と違うと言えば、堀部安兵衛は下戸で酒に弱かったこと。また赤垣源蔵も下戸で、兄はなく、訪ねたのは妹夫婦の家だった。
討ち入り当日の天気は?雪が描かれていない昔の三枚組の絵があります。いろは札も描かれています。
仮名手本忠臣蔵の仮名手本がずっと意味不明だったが、謎が解けました。ちなみに吉良上野介の人となりは実際のところどんなだったのでしょう?
最近は年末の忠臣蔵が放映されず寂しい限りです😢忠臣蔵だけでなく年末の風景がドンドン失われていきます😢古き良き文化は残したいものですね😊
だって普通に考えたらただの逆恨みで47人で寄って集って人を殺して、それを日本中で喜ぶって異常事態ですから。そもそも喧嘩両成敗どころか一方的にムカつくからってだけで斬りつけられてますから。
@@綿帽子-x4s 病気だったらしいよ。
浮世絵解説の矢印(悪玉、善玉玉)逆じゃないか?
咎無くて死んだのはむしろ吉良上野介なんだよなぁ
吉良上野介は高家で大名と同等。地元では名君として崇められていて、神社まであるそうです😅 小説「無念吉良上野介」を執筆中です。現代でも逆恨みされて自殺に追い込まれるなんてことありそうですよね。
罪はあるじゃん。奥さん(三姫)の兄の上杉綱勝を毒殺しているし。泥棒も人殺しもしている吉良上野介が、殺されたのも仕方なし。
@@kuru-qg1iu 根拠なき妄説。権力者になればあれこれ噂を流すものはいる。上杉綱勝は生来病弱で死因は持病の内臓疾患といわれてる。
@@ヒライアツシ-q2y 上杉綱勝は生来病弱。死因は内臓疾患
@@kuru-qg1iu吉良のそういう話はみんな赤穂浪士の討ち入りが成功して拍手喝采となった後に吉良を悪人にし立てるための作り話。討ち入りが起こるまでは浅野がただの頭がおかしい殿様だった。
そもそも 浅野内匠頭が何を血迷ったか 松の廊下で血を流させた事が 綱吉にとって許しがたい事でしたからねなので人情問題としてではなく 江戸城で血を流した事が切腹の理由ですからねそう言う意味で 吉良上野介は全くとばっちりでしか有りませんね その上 殺されたんですからね尚、松の廊下は昼間でも真っ暗でしたからね 雨戸が閉まったままですから
ちょっと吉良さんがかわいそすぎだろう あきらかに被害者なのに仇討されちゃうなんて 浅野内匠頭の言い分もきかないで切腹させたことも問題があるよな
吉良は普通に考えて被害者なんだろうけど、武士の価値観は極端な軍人みたいな感じなのでなんともいえません。ちなみに反撃しなかった吉良も武士としては有罪らしいです。
@@vuytskkさま「場所柄をわきまえ、身斬られながらも抵抗をしなかったのは、神妙である」てされています。
@@vuytskkあそこで吉良が反撃してたら、それこそ弁解の余地無しで両家改易だったでしょうね。
墓も諏訪大社本宮の横にある法華寺の裏山に寂しく立っている。逆恨みで殺され、無念だったはず。
片方が善、片方が悪という図式は今の時代にそぐわないのでは。
仮名手本忠臣蔵、創作ではあるんだけど、それだけ人気が出た背景には、いろんな問題があったのだろうと思います。少なくとも、討ち入りから45年後の作品て事は、討ち入り自体がどの様に庶民に伝わっていたかですね。歌舞伎に取り上げるのだから脚本が入り、事実どうりでは無いでしょうが、庶民から否定される様な事件だったら間違えても美談には出来ないでしょうから。
殿中沙汰の日が綱吉の実母である桂昌院の誕生祝いの日でそれをぶち壊すマネをした内匠頭に切腹を命じるのも納得。
桂昌院の従一位の座がかかっていたからな。
この直前桂昌院の従一位昇位の話を京に上ってまとめてきた功労者が吉良上野介義央ですし。
どうのこうのと言っても。主君の仇は討つ。尽くす武 士の忠誠をしただけ、吉良 も名君と聞くが浅野のがその時どの様な気持ちだったか本人に聞かな分からない。
仇討ちは本来肉親に対して行うもので、主君の仇討ちは前代未聞だったんです。
松の廊下の刃傷、これには綱吉の正室信子と姑桂昌院の争いがあるとか。信子は皇室から嫁にきており“従三位”も位をもっている。桂昌院は“八百屋の娘”なのに“正一位”という高い位を授かろうとしていた。皇室の娘より八百屋の娘の方が高い?普段から仲が悪く、この高い位に怒った信子が刃傷事件を仕組んだとする話もあります。浅野内匠頭の叔父さんだったか増上寺で同じような刃傷事件を起こしており“短期”“乱心”は遺伝なのかもしれません。そこを信子に利用されたのかも?
赤穂浪士の話にはいつも違和感を持っていました。なので、むすび大学のチャンネルの説明ではすっきりしました。
いろは歌の縦読みは梅原猛の柿本人麻呂論「水底の歌」に出てくるんだけど、古くから知られていたのかな?
解説が分かりやすいから、赤穂事件は今で言えばパワハラにブチギレた人がやった傷害事件なんだってことが分かった
喧嘩両成敗なんて幻想。上層部のお気に入りが勝つ。だから忠臣蔵が市民に受ける。
数年前迄正月と成ると必ずと言って😮忠臣蔵を゙テレビで放映していたがこの頃観なく成りましたね🤔映画で忠臣蔵上映して居たのが最後かな😲❓
いいや、クリスロックの事件もあったし、また...!?
やるからにはショボイ出演者という訳にはいかないので出演料が馬鹿にならない。ドラマに掛ける費用が縮小傾向なのにセットの費用も飛び抜けて掛かるからと聞いた事があります
おばあちゃんが忠臣蔵のファンで泉岳寺まで一緒に行ったわ🙂🙂🙂
現代では忘れられているのが浄瑠璃坂の仇討ち、宇都宮藩で亡き主君の法要での刃傷事件からの仇討ち事件喧嘩両成敗ではなかったこと、浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に匿われていたところに火事装束を着て討ち入ったことなど大石内蔵助は、この仇討ちを参考にしていると思われます大きく違うのは仇討ちに成功した後、生き延びて他の藩に請われて仕官していること大石内蔵助は仇討ちに成功すれば、自分たちも他の藩に仕官できると思っての打算的な仇討ちだった可能性も大石内蔵助の切腹の際も立ち会った人の目撃談では見苦しかったとか、否定する人もいるけど仕官するための仇討ちだとしたら予想外の結末に動揺していたのかも
吉良亭討ち入りは路頭に迷った赤穂浪人の再就職活動の一環だったと思います。浅野家そのものは分家の旗本2家が残ってますから討ち入りの直線的な原因と言われる「御家再興の望みが断たれた」というのも言いがかりに聞こえます。
12月14日には、クラシック音楽の葬送行進曲を。ベートーヴェンの交響曲第3番の第2楽章も、葬送行進曲の一つです。吉良さんが可哀想で可哀想で…。
本質は、綱吉に対する反発ですよね。吉良ではない。朱子学に基づく体制の安定=階級の固定化ですから。江戸の町人から見れば、不満だったんだと思いますね。
忠臣蔵は「将軍○し」なのかについては、丸谷才一さんらによる延々とした議論がありましたが、最後に井沢元彦さんが、「高師直は武蔵守であり、武蔵守は将軍である」の一言で締めてしまいましたね。
堀口さん、いつも楽しい配信ありがとうございます😊浅野さんが女好きである事は分かりましたが、吉良さんの評判ってどうだったんでしょう?
いつもおもうけど、いい加減に吉良側からの視点でのドラマがみたいな。打たれたあとの吉良の領地の民衆の反応とかね。意外と赤穂の民衆は浅野の殿様はうざかったりしてな。
昔NHKの「天下御免」でやっていましたね。主人公平賀源内(山口崇)が吉良側に立った話を作ったが、三河旧吉良領の農民が、来てくれた他は入りが悪く「皆、嘘の話の方が好きなのかなぁ」。
忠臣蔵は年末やらなくていいですね 事実と違うので
赤穂浪士は卑怯だ。
夜討ちなどせず、せめて白昼堂々やればまだ良かったのに、後ろから斬りかかった主君共々卑怯です。
浅野が悪いんだけどね
吉良の言い分?と言うタイトルの本を読んだことがありますね。斬りつけられて、そして殺された吉良上野介被害者側目線で書いてあり面白かったです。作者さんのお名前は忘れましたが…😅
赤穂事件の本質は、朝廷と幕府の地位をどちらを上位とするかということでしょう。山鹿素行の「中朝事情」を見ればその地位、つまり座席の位置をどちらを上位にするかということが大問題であったはず。一方、吉良家は足利将軍家ゆかりの家だから、義満が日宋貿易をやった時点で、宋からの外交使節を対等に迎えるため、自らの席を朝廷の使者より上位に置いたということがあって、それを慣例化した事がこの事件の本質的な問題となっていると、拙者は思います。
日明貿易でした。訂正します。
仮名手本忠臣蔵では、吉良上野介とされる高師直(こうのもろなお)が、浅野内匠頭とされた塩谷判官(えんやはんがん)の妻の顔世御前(かおよごぜん)を好きになっちゃう件が元で師直の判官への"いじめ"が始まりますから、史実と虚構は全く逆のような感じですね。
ドラマでは吉良がしきりに浅野を「この田舎大名が・・・」と蔑むシーンがありますが、浅野も江戸の上屋敷に生まれてるんですね。領地が地方にあるから田舎者のように言うなら吉良の領地も田舎なので、人のことは言えない。ただ大名には参勤交代があるので赤穂でも生活しているから、田舎者イメージが。一方旗本は、参勤交代の義務がある交代寄合や一部在地が認められた旗本を除き領地に行くことはほとんどなく、吉良自身も生涯で領地を訪ねたことがほとんどなかったらしいので、領民も吉良の殿様を見たことはないはずなんです。なのでいい殿様かどうかわからないのが事実と思うのですが。
昭和の頃は、年末の風物詩、今の江戸の若い子は、興味無いらしいけどね。赤穂、山科だと義士祭は、一大イベント
忠臣蔵の話なのですがね、岡山県の県北の有る町の鍛冶屋に武器を頼み作り揃えたらしいですよ。
仮名手本の意味はそう言う事だったのですね。
とかなくてしす・・・。
本当に江戸時代の人々の知恵は奥が深い。
まだまアメリカに居た数年前ですが、地元の大学の日本文学の教授がドナルド・キーン教授の弟子で、非日本人では数少ない歌舞伎の専門家でして、大学で英語歌舞を演ってしまいました。定年前に是非忠臣蔵を演りたい、と言うのを実現して仕舞い、僕は義太夫の三味線を担当しました。日本から参加して下さった清元の方々に、英語の義太夫の意味をキチンと理解してそれに伴奏が付けられるのは世界で貴方だけだ、と言われました(笑)。
ほえー、すんげえな
アメリカ的価値観だとやられっぱなしではすまされねえという考え方もあるのでしょうか
英語の義太夫!
@@michinobuiimori1894 忠臣蔵が史実に基づくかどうかは別にして歌舞伎の演目として日本人文化の一部となってきたのは事実ですよね。でも忠臣蔵が日本文化からフェイドアウトしていくと主張する人もいます。忠臣蔵の真実とは浅野内匠頭がサイコパスだったという事実につきますね。それに吉良さんや大石さんが不幸にも翻弄されて運命が狂わされた。それにしても殿中で刀抜いて斬りかかるなんてスゲ~ことすると思いますよ😏
@@user-sealseal 復讐というのは世界共通語のようです。でもどこかで断ち切らないと人類の未来はありませんね。
赤穂事件から仮名手本忠臣蔵について、詳しく解説されていて興味深く見させていただきました実際の事件と物語の対比が面白かったです 数年前、愛知県西尾市の吉良氏ゆかりの寺院等を巡る経験をしましたが、地元では名君として崇められており、忠臣蔵のイメージとは違うなぁと感じました。
今回も見どころたっぷりの素晴らしい動画でした
名君としてはプロパガンダしているのは反動です。
そりゃあんだけ悪者にされたら名君にしたい気持ちはわかる。
当時の吉良を名君として見ている資料は0です。
資料が出てこないのはもう当時の旗本は領地を統治ほぼしないで、専ら代官が政治やってたというのもあるのかも。
吉良は名君だったと思いたいばかりに、伝承のみが残っているだけ。
そういう資料が出てくるな私の意見を変えます。
そりゃ名君だよ。
立派な人だよ。
当時の日本人は全員そうだよ
「仮名手本忠臣蔵」の内容は知らなかったです それに浅野内匠頭の実像はショックでした でも、そんな人物だったから刃傷事件を起こしてしまったのですね
今年の、義士祭に行って来ました 大石内蔵助は中村雅俊さんで、背が高くて威厳がありました。 パレードの最後にカチドキを「エイエイオー」って
みんなで大合唱して大いに盛り上がっておりました。
子どもの頃から12月になると どこかの映画会社の忠臣蔵がTVで放映されていましたね
大映の忠臣蔵が好きでいつも見ていました 史実というよりファンタジーとして楽しんでいました そういえばもう長い事見てないなぁ・・
ほーりーさんの着物姿まぶしいです😆忠臣蔵とても大好きです。一説には山鹿素行の影響が大きいという話も聞きました。いつもおもしろい動画ありがとうございます😊
史実がー!とか新説ではー!とか聞く度に、従来から語り継がれてる歴史って、お話として面白く出来てるんだなぁと思いますね。
ホーリーさん
こうした事実と向き合った歴史検証、さすがですね。事実と向かい合っての動画、嬉しいです。
当地、米沢では吉良家と上杉家の間で3重の縁があり、愛知の旧吉良町とともに山形県米沢市でも忠臣蔵が上映されない街です。
歴史の裏に迫ると、事実と歯異なる歴史か多すぎますね。
幕末の歴史も事実に基づき描き出してほしい会津人の一人です
ラジオも毎週聞いてますよ~
忠臣蔵って現代人の感覚からすると何故人気があるのか不思議だったけど
言われてみれば、江戸時代の人々は時代も違う脚色されたフィクションのほうを楽しんでいたんだよね
高師直なら吉良どころではない政権中枢の権力者だし、遺臣の恨みの矛先が向く展開も無理がない
これを史実に寄せてしまうのは、かえって本来の楽しみ方ではないのかもしれないなあ
庶民が反幕府、反政府演劇として利用したから。
実際に物理で反政府運動した大塩平八郎、高杉晋作らは忠臣蔵のファン。
大河ドラマ、1999年の元禄繚乱を見る限りでは吉良が真の仇ではないと思う。
どうしても徳川綱吉がラスボスに思えてならない。
新年の忠臣蔵また見たいけど 今度は吉良上野介視点で見てみたいわ。
確か寝坊して参戦出来ず生き残った人が居ましたよね。
駆け付けた時には、塀によじ登って観戦してる町民とかが屋敷を囲んではやし立ててて、恥ずかしくて中に入れなかったんでしたね。
私が子供の頃は毎年この時期になると決まってどこかのテレビ局が忠臣蔵をやってましたね。最近は流石に飽きられたのか、内容が時代にそぐわなくなったのか、やらなくなりましたね。尤もテレビ自体が飽きられたのもあるかも知れません。かく言う私の家にもテレビは無くなってしまいました。
時代劇は映画の時代から人気コンテンツで、テレビに移行してブームに。個人的には「影の軍団」が好きでした。
時代劇を好む層が高齢化して、スポンサーの望む視聴者層から外れたことと、時代劇を演じることが出来る若い俳優さんが減っている、という事情もあるようです。(時代考証に合った所作はそう簡単に身につかない)
今のテレビ局が金を掛けて作っても、イケメンタレントが怪しげな所作をする和装ドラマがオチなのでは。
今年もその季節ですか!
早いですね!
私の出身校は元をたどれば上杉藩の藩校ではありましたが成人以前は赤穂事件について特になにも思うところはありませんでした。しかしながら生きていれば91歳になる母親の子供の頃、米沢周辺では忠臣蔵の上演は禁じられていたそうです。
今は吉良方には非がなく、元赤穂藩士によるテロ行為のすべての責任は、平成6年に398年ぶりに和解するまで儀礼的な挨拶すらしない不通を保ち絶交状態だった伊達家と浅野家に勅使饗応役を命じた幕府にあると思っています。
そりゃ米沢藩は吉良上野介の子孫ですからね。ぶっちゃけ言えば今川氏真の子孫。
赤穂藩は山鹿流を取り入れていて、天皇の使者の上座と下座の事でその事に意義を申し立てるためとも言われてますね。🙄
前期水戸学にも関わっていた山鹿素行が幕府推奨の朱子学を認めないから水戸藩を追放されて赤穂藩に匿われ、赤穂藩に尊王思想が根付いた、という話はどこかで見たような
実際には山鹿素行は赤穂藩に半年くらいしか居らず、しかも浅野の対応に不満で自ら出て行っており、後にボロクソ不満書き残してます。動画内の浅野家悪評に近い内容です。
浅野長矩に対しては、しきたりや慣習にこだわらず誹りを受けた、とあるので、吉良が言う「浅野が言うこと聞かない」に共通するものを感じます
面白いのは、山鹿素行はその後朱子学批判で蟄居させられて、赦免後に一番良くしてくれたのが吉良だったことですね。お互いの秘伝書を書き写すくらい仲良かったようです
「仮名手本忠臣蔵」の話はよくわかりました。永代橋かぁ~(^-^)。今日のほーりーの着物の色が良かったです❗
赤穂浅野長矩が切腹のとき領民が喜んだらしい←苛烈な政治してたのかな?
二度目の仕事で、さらに金銭払うだけの立場なのに、吉良義央から直には指示がなかったんだろうて、思われるからますます刃傷に及んだのかわからない事件
それと戦後になって反動で、吉良が善政をやっていたという根拠に基づかないプロパガンダもやめたほうがいいと思う。
またねじ曲がったしまった。
小学生の頃にテレビで良く年末に忠臣蔵のドラマを毎年観ていたけど、最近は忠臣蔵を全く放送していないけど、この動画を観たら忠臣蔵がどんな出来事か良く分かりやすかったです。
吉良側の話として、星新一の小説「ああ吉良家の忠臣」という話が記憶に残っています。
そこでは吉良様は名君として描かれていましたが、あながち間違いでは無かったと思います。
東京都立博物館の蔵書はすごいですね!
主従揃って、今で言うところのTe-.Ro.リスト。
赤穂、大石、忠臣蔵と耳にするだけで胸KUSOがわるくなってくる。
ブラボー江戸紫のほうりー様
源氏物語の少女巻で紫の上に
取り留めのない虚構話が事実よりも生き生きと日常を描ける、と。 悪役を悪く、悲劇的に描くことこで盛り上がる、と。 小説の真髄を語っておりました🥰
江戸紫ほうり様は令和の紫の上に成長してくださいませ👌
ホーリーさん、ぜひ飛脚について詳しく教えてください🙇🏻🙏🏻
領地では善政を敷いていた、吉良上野介が主役のドラマを観てみたい😅
私の知っている忠臣蔵は、「上座に座るべきか下座にすべきか」を問うたのに「そんなことも知らんのか?と」頭を勺で何度もパンパン叩き、「おのれ!おなじ場所を何度も何度も!」と斬りつけた話し。😂ナツカシ
ただいま2作目を視聴し終えました
いやいや、とっても楽しいですね!
引き続き、視聴続けたいと思ってますよ✌️
さて、赤穂浪士
かなり以前に歴史を現代から読み解いてゆく手法の本で読んだ事なのですが
塩の販売権を巡るいざこざから始まったと書いてありました
どちらかと言えば、後追いの赤穂藩が市場を奪ってしまったと捉えています
また、江戸城では刀を抜くことが禁止されており、処罰はそれに対するものとも書いてあった記憶があります
劇中や浮世絵での四十七士の服装も、実際には見窄らしいものとも有りました
なんだか否定的なものばかりですね笑
ただ、書では、古事記にまで遡るのですが、事実はまた別なものと捉えており、それらが様ざな形で受け継がれてきたことは確かなものであると作者は述べています
面白いですね
先祖が浅野家に仕えていました。
我が家に伝わる話では、殿様が馬鹿なことをしでかして処分を受け、「敵討ち? はぁっ!? 付き合ってらんねえよ」と刀を捨てて百姓になったらしいです。
巻き添えを食うのを避けたかったのでしょうかね。身分も軽かったのかもしれません。
忠臣蔵を見るたびに、吉良家に対してはいつも「うちの先祖の主君とその家臣がご迷惑をおかけしてすみません」という気持ちになります。
生活と見栄とどちらかを選択せねばならぬ・・・いつの時代も同じですね。ただそこを深く見た大石は「去る者は去れ」と慈悲の心を。そして本懐も仕損じたときのことを考え二番手を。深き人物だったんでしょうね、大石良雄さんは。
ほーりーさんの動画分かりやすくて、楽しく拝聴しています♪
歴史好きの視聴者さんの、マニアックなコメント見てるのも面白いものです😊コメントでさえも勉強になる動画なんて、中々見かけません。
私の先祖は関宿藩本所下屋敷にいたそうです。代々言われていることには、父から聞いた事では、吉良様にはなんの引け目はないとの事、それなりの良い殿様だと聞かされてきました。忠臣蔵はあくまでも劇だよ、毎年年末が迫るときかされてきました。上野戦争までは住んでいたそうです。
赤穂事件の後に赤穂藩の旧臣が吉良を討つという評判が立ったのに、幕府は吉良邸を中心地から郊外へと移しているんですよね?
お隣(?)の上杉藩(?)縁戚も『何事か尋ねた』だけで何もしなかったのは 他藩の揉め事に関与したくないのはわかるんですが、触れられていないのが残念。
あまり興味がないので記憶があやふやですが。。。
吉良家の高家の最上位の地位を徳川に親しい今川家に移したかった幕府が、刃傷沙汰を利用したという一説があります。
即日の切腹を命じる傍ら吉良にはお咎めなしにする事で、家臣らには主君の仇討ちを暗に促し
世間には仇討ち止むなしの気運を高めました。
幕府は吉良家の屋敷を城下町から奉行所の目が届きにくい辺鄙な地に転居させて仇討ちをし易くさせました
高家など位の高い屋敷を辺鄙な地に追いやる事は例がない事です。
浅野内匠頭は9歳で城主になった我儘育ちで、女好きで激しい癇癪持ちなのを大石も知っていた
大石は仇討ちをせずに主君の弟で存続を模索していたけど
日に日に強まる世間の仇討ち待望機運に負けて止むなく仇討ちを決行した。
浅野の人格が不出来で起きた刃傷沙汰と、幕府が今川家を高家の最上位にしたかった刻がちょうど重なったのが忠臣蔵という一説があります。
吉良は幕府の完全な犠牲者、浅野は幕府の準犠牲いう一説になりますが
記憶が曖昧なので、話半分以下だと思ってください。
当時のお芝居では結構ダ・ヴィンチ・コードな感じでやってたんですね まあ現代もこういうのありますか😅浅野偶像ガラガラになりました
忠臣蔵のキーワードは現実には存在しない「山鹿流の陣太鼓」かも知れんと思ってる。
山鹿素行は尊王思想の人。
ならば一度、吉良上野介義央(よしひさ)側からの目線で描かれたドラマ「忠臣蔵」も見てみたいモノだ…(* ̄∇ ̄*)😁👍❗️
かなりの名君だったらしいから✨️
北野武監督のものはそれに近いかもしれません。
絶対吉良側から見たドラマや映画が放映されるべきです。あさの 内匠頭は統合失調症だったらしいとのことも。
あ~、そうですよね。なぜ他でこのような発想をする意見が出てこないのかと今思いました。
@user-ff1dg1nf7q
パヨってるの?
大丈夫?病院いく?
ドキュメントになっても?? 映画・ドラマには ならないでしょう。全然おもしろくな~い
浅野内匠頭は前回も勅使接待役を経験している為吉良に相談しなくてもやり方は知っていたはず
「仮名手本」なのはいろは47文字と赤穂浪士47人が同じ数だからだ、という説もありますね。
咎なくて○すなのは吉良の方だったりする…(^_^;)
吉良は地元では評判がいいって話だけど
「傷害事件の加害者(=浅野内匠頭)が(幕府に)切腹を命じられた腹いせに、加害者の家臣が傷害事件の被害者(=吉良上野介)を惨殺した」って話なんですね。 こりゃ、たまげた😆😆
それはちょっと違います。
当時は、喧嘩両成敗という慣例や制度がありました。
浅野だけが切腹で吉良はお咎めなしという裁きは、やはり片手落ちであるという世論がありました。
これはかなりメンドクサイ話であるのだが
そもそも、室町時代の価値観が相当にヤバいのだ。
「道すがら、狭い場所ですれ違う際に立ち止まって会釈した」この会釈で、「お前誰や?」で斬り合いになり
斬り合った当事者そっちのけで双方の勢力が衝突、小競り合い(戦)になったりしていた。
この様な価値観から、状況を見て過失割合を考えて裁定すると片方が揉めるので、「もう裁定するのめどくせぇわ、取り敢えず双方腹切っておけよ」ってのが室町時代から江戸時代にかけて生まれた
「連帯責任」とかもその一環だ。「もうめどくせぇからお前ら全員処罰な」という傾向が生じた
しかし、まぁ実際は喧嘩両成敗とか言っても、実際は異なる。当然一方的に切りかかってきた方が悪いってのは、江戸時代人にも広く理解できる道理である。
だから、他の刃傷沙汰ては喧嘩両成敗とはなっていない事の方が普通だ。
同時に、江戸時代を迎え、徳川幕府は家臣に家臣たるものの心得を説くようになる。
簡単な話「主従関係」の意識が変わる。
事を面倒にしてるのは、主従関係のこの価値観の変更だ。
室町時代なら、播州赤穂藩に浅野内匠頭を切腹させて、赤穂藩は本家浅野家の管理下に置くで揉める事は無い。
当時者の所属するグループに当事者本人を処分させることで、グループ全体の体面を保ち納得させる。吉良上野介の処罰などは関係無かった。
しかし、主君の主君(徳川家)の裁定に処分に従うのが道理だろうと、徳川幕府が勝手にさっさと浅野内匠頭を切腹させてしまった事により、「主君に対する仇討し、赤穂藩士の体面維持しなければならない」という当時の武士道にも沿った大義が生まれてしまった。
江戸時代初期だと、加藤嘉明や最上義明など息子の代で潰れているが、家臣らが「主君、そんなの関係ねぇ」で揉めた結果のお取り潰しだが、彼らがお家の存続より家臣団の面目優先した結果とも言える。この面目、意地の張り合いは、井伊家二代目の相続にも非常に色濃く影響している。
江戸時代に生じた主君への忠義や、室町時代からの武士の面目を果たす方向性がどこへ向くのか?
赤穂浪士の場合は、「主君の仇討」という形になっていった。
@@silversurfer512さま
そもそも喧嘩ではありません。
切れやすい人間だった浅野内匠が、吉良の指導に切れて一方的に斬りつけたのです。
現在なら信号無視の車に跳ねられた老人を、「事故が起きたからにはお前にも責任がある」と責めるようなものです。
吉良は「全く身に覚えがない」と言っており、浅野は弁解すら出来ませんでした。
浅野が「好色、悋嗇、士を愛さない」大名であることは、既に綱吉に報告がいっており、その札付きの男が、この直前京に上って、生母桂昌院の未曾有の昇位を成し遂げた功労者の吉良に、こともあろうに勅使を迎えての式典の場で、饗応役の身で斬りつけたのですから、即日切腹は免れません。
浅野は17歳の時に勅使饗応役を経験しており、「吉良が意地悪をして必要な知識を伝えなかった」は成り立ちません。
むしろその経験に慢心した浅野が、持ち前のケチぶりを発揮し、その後荻原重秀の貨幣改鋳に物価が騰貴したことを理解せず、費用を惜しんで吉良を苦しめ、再三の吉良の指導に切れたというのが真相でしょう。
「忠臣蔵」の一夜の畳替えのエピソードなどこの辺を突いているのかもしれません。
吉良がお咎め無しのは、生類憐みの令も間接的に影響してると思います。あれは、もう戦国ではないという事で殺生を禁じようとした法令で、なにも犬だけ保護しようとする法令では無いのです。実際は、松の廊下事件では、吉良は防御のための刀を抜いてなく。それが綱吉に伝わり、浅野の一方的な攻撃と判断したのではないですかね。😊
@@silversurfer512😢
自分も忠臣蔵の話は懐疑的、否定的で美談とは思いません。喧嘩両成敗が適用されなかったのは浅野が一方的にしかも背後から抜刀して無抵抗の吉良に襲い掛かっているので喧嘩とはみなさなかったというもっともな理由がある。そもそも十分な詮議をせずに感情任せに即日切腹の沙汰を下した綱吉がそもそのの原因だろうに吉良が悪役とされているのは理不尽としか思えない。
戦国時代、背後からから切り掛かった者は卑怯者とみなされ味方から切腹を申し渡されたそうです。江戸時代でもそういう風習が残っていたのでしょう。
@@齋藤元気-s9c 一緒に勉強しましょう。浅野がよくなければ四七士は起ったただろうかという事も。
@@齋藤元気-s9c 浅野さんもさあ、遠い故郷から江戸詰にされたんだろ?心を病んでもしょうがねえかもしれんね。
これでも誠意を持って対応しています。
ハラスメント体質"挑戦愚等"現代劇版カルト公庵👮♂️やって漫画な🇯🇵
まともに賄賂を送らないから、それで嫌がらせをしたと、徳川実記にも書いてあるのだが?
1:20 2:12 絵と名前が逆!
忠臣蔵関係の映像、書籍などから なぜ浅野と吉良が対立するか比較していただければ面白いと思います
ドラマ、映画3,4本見ただけですがいろんな見方ができて面白かったです
吉良上野介も気の毒だが、モデルになった高師直も、相当お気の毒!😢
太平記からね
仮名手本 いろは47字と47士をかけてるのがすごいな
こういう演目をぜひ現代演劇でもやってくれないかな
悪行して咎めなしの政治家、医者、有力者
皮肉混じりに演じてほしい
南出喜久治「皇道忠臣蔵」によれば、忠臣蔵は尊皇討幕運動の先駆とされる。
吉良の高家は禁裏御所御定目(=禁中並公家諸法度の上書き)を定めるなど皇室の行動を規制した。一方赤穂浅野家は山鹿素行の薫陶を受け、皇室に多額の出費をするなど尊皇思想を貫いていた。朝廷勅使の扱いをめぐる確執があったとされ、この問題は終始皇室をどうか扱うかの問題だった。大石内蔵助の出自も中臣家の親戚、儀式を司る家系とされ、尊皇的だった。秦氏の影響下で赤穂藩はそもそも山鹿素行以前から尊皇志向だったと思われる。そうでなければ山鹿素行を招くはずがない。山鹿素行は『中朝事実』を記し、皇室と日本の独自性と重要性を示す論理を展開していた。山鹿流陣太鼓は虚構としてもその精神的影響は無視できない。この問題は明治維新まで続く。
勅使供応の場で刃傷事件を起こしておいて尊皇もナニも無いモンだ。
皇家に対する最大の侮辱行為でしょうに。
まかり間違えばお上への反逆、腹いせによる暴挙、と取られかねない討ち入りを
「義挙」にまで認知バイアスをプレゼンした大石内蔵助の手腕に驚愕しています。
五代将軍自ら「あっぱれ」と評価してしまう(苦笑)
亡くなった方の血縁である身内が仇討ちを行うのは「合法」でした。大石内蔵助はじめ藩士達は浅野内匠頭の身内では無いので、合法とはなりません。ここでお触れを無視して仇討ちすべしという急進派15名と、弟の浅野大学(浅野長広)を立てて御家再興を目指す大石ら主流派93名に割れます。
浅野大学は浅野内匠頭の罪に連座して閉門(自宅軟禁)されましたが、規定では3年後には連座により閉門が解かれます。その後に浅野大学を立てて御家再興を成して、浅野大学の命で仇討ちをすれば合法となるので、それまで待て、という形で大石は急進派を説得し、かの有名な「血判」を作成します。この時には120名が血判捺印しています。
ところが浅野大学を閉門処分のまま本家の広島に返し、吉良上野介も引退して米沢に帰る、ということが決定してしまったため、大石プラン「合法的仇討ち」は実現不可能であることが確定してしまいました。
行き詰った大石は血縁では無い浅野内匠頭を「君父」と呼ぶことを決め、正当な仇討ちであると主張し、仇討ち後の幕府の取り調べでもそう答えています。当然ながらこの理屈は通らず全員死刑となった史実はご存知の通りです。
将軍綱吉の施政に窮屈さに庶民が苦しんでいた時代、最初に急進派が仇討ちをするという噂が立った頃から庶民からは絶大な支持を得ており、これが大石の判断を後押しした、と私は考えております。
動画にもあった通り、仮名手本忠臣蔵が完成して大人気の演目となったのは討入の45年後です。実に45年間も人気というか庶民の支持が衰えなかったということでもあり、もはやドラえもんやガンダムやジブリ並みのコンテンツだったと言えると思います。
そもそも殿中で 刀を抜くなどとすればお家断絶と決められていました。
朝廷への接待役が 接待中に上司?を 斬り付ける事件などを 起こせば 当然の責任を問われます。将軍様の顔に泥を 塗った事と同じです。
それを「喧嘩両成敗」にする大石氏には 随分と無理があると思います。
庶民が 「忠臣」ともてはやした事で 幕府もそれに乗ったのでしょうけれども
討ち入り後、なぜか上杉家が 更に減俸された事から 刃傷事件からの1年間で 幕府も赤穂浪士を 利用した事で 全て丸く片付けられたのではないかと思います。
松の廊下は刃傷沙汰御法度だったのでは?
単なる廊下では無く、江戸幕府の威厳を示すような意味合いを持った廊下で、そんな場所で刀を振りかざし血で汚した事が、切腹の理由ですよね。
それと、浅野内匠頭も江戸に来た当初は良い藩主だったのが、江戸での生活が続く中で上手く取り入って美味しい思いをしようとする人間に囲まれて堕落して行ってしまったのかな。
吉良上野介の寸評も聞きたかったですね。
ほーりーさん初めまして、ねねです。そーだったんですね。私「浅野」と言うんです。なんか微妙!?
👍ボタン、チャンネル登録しましたよ。これからも面白いお話聞かせてくださいね😊 もうすぐ10万人頑張って❤
そうそう!今度コメディの忠臣蔵の映画が上映されますよね!ほーりーさんは見に行きますか?
徳川家は今の西尾市の吉良の領地に流れていた矢作川を、洪水対策と称して自分の領地に流れるように河川改修工事をして、わざと干拓工事で領地が増えないようにしてるから、家臣なのに権威は有るから1度目は仕方なく吉良家に味方したけど、世論が許さなかったから、それなら良い取り潰しにするチャンスと極秘の仇討許可が有ったのかも知れないですね。
群馬県藤岡市白石は吉良さまが産湯をつかった井戸があり吉良さまの領地。吉良さまは名君だったらしく領民に慕われ、今でも白石の人は忠臣蔵を視ない。
吉良上野介というと強欲で陰険というイメージを持つ人が多いのではないか。
忠臣蔵で事実以上に悪役にされてしまったのは不本意でしょう。
ちなみに吉良上野介は地元では名君なんだよね。
@@ジャックスミス-x2r 様へ 領民の言葉が真実でしょ。(地元人ですけど)
@@鈴木典子-q4wあんないい殿様をのお…。というので赤い馬に乗った吉良様というおもちゃが残っている。
@@夕刻夕刻 様へ 討ち入りの日は吉良様の命日なので、供養があるそうですね。市町村合併でも吉良の名前を守る子孫たちが真実でしょうね。
@@鈴木典子-q4w あなたは立派ですが
過去に愛知県の吉良上野介の墓所に行ってきました。領地では上野介は名君で領民の評判も良かったらしい。ただ江戸では気位が高く評判は今一つ
だったらしい。
地元では誰でも名君の筈です。
高家の吉良はきっと自分より高禄な大名に意地悪だったと思います。
吉良が勅使饗応役を指導するのは親切心とかではなくれっきとしたお役目で、どちらにせよ浅野が失態やらかせば吉良もお咎めを受ける。 勅使を巻き込むなんてハイリスクな真似してまで嫌がらせなんてするかね?と言う話もありますね。
面白かったです。
昔から、大石内蔵助は幕府に対してこそ、戦いを挑むべきだと思っていました。
吉良を殺害した後、切腹をせずに、その先を幕府に決めさせることが、幕府へのささやかな抵抗という話も聞きますが、死ぬ覚悟があるなら、やはり江戸城を襲撃するべきでしょう。
12月14日は討ち入りの日、蕎麦を食って一力で遊ぶ、京都生まれはいいもんだ
志村けんと加藤茶の松の廊下のコントを思いだしてしまうんですよね、あれがある意味インパクトが強烈だった。
髪型可愛い!
藤原隆家の刀伊の入寇もスカッとするぜ!
15:05 主君が主君なら家臣も...
今晩は!ホーリーさん
今回は人気の忠臣蔵ですね
自分も子供の頃から相当な数の忠臣蔵を見てますね
確かに松の廊下刃傷事件だけ見ると、ホーリーさんの言う様に浅野が一方的に吉良に斬りつけて吉良は逃げただけ、なので浅野は切腹で吉良はお咎めなしは当然の処置ですね。
ただ何故に即日切腹だったのでしょう、両者や関係者からの詳しい取り調べをするべきだったと思いますよ、吉良を斬り付ける際「この間の遺恨覚えたるか」と浅野が言ったと言う周りの証言も有りますから、浅野と吉良の間に何かしらの確執が有った事は明らかです、事件の事の発端を探ろうとせずに浅野は即日切腹で吉良はお咎めなしでは赤穂藩士にすれば絶対に許せないし幕府側の落ち度と思ったんだと思いますよ。
浅野は短気(精神疾患?)で女ぐせが悪い事は当時の資料から解りましたが、一方の吉良はどうでしょうか?領民に好かれていたと言う資料が有ると伴に悪い評判の資料も有る様です、ホーリーさんには吉良側の資料も明らかにして欲しかったですね。
それにしても
水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、忠臣蔵が大人気なのはホーリーさんが言う様に勧善懲悪が大好きな日本人だからでしょうかね。
小学校二年生のころ、泉岳寺にお参りした。それから、十年後くらいに、ほど遠くないところにある大学に入学した。何かのご縁があったのかも知れない。
忠臣蔵は大好きですが吉良様はおっしゃる通りかなりとばっちりだと思います。賄賂大好きとか言われてるけど今だって茶道・華道など道のつくお稽古は先生に贈り物を持ってご挨拶に行くのは当たり前だし、公家衆によしみをつないでもらうのに謝礼無しな訳ないじゃん!と思います。大体勅使饗応役は初めてじゃなかったし前回の記録もあるからもう聞かなくていいじゃん!って思ってたら上手くいかなくて改めて吉良様に泣きついたら「ほうらごらん!私、なんて言いましたっけね?」とか説教されてキレ散らかし・・な気がします。内匠頭のお爺さんは大名火消しの制度を作るのに功績があったそうで有能な人だったから「アレの孫なら」という幕府の期待がプレッシャーだったのかもしれないですね。うちでは年末忠臣蔵の映画を見ながらお蕎麦を食べてると妹が甥や姪に「ほーらごらん、人の上に立つ人に辛抱がないとみーんな迷惑!」とか言うし(幼稚園児にそんなこと言われたって)松の廊下で「この間の遺恨覚えたかーーー」ってやってると「老人なんだから覚えてるわけないじゃ〜ん」って突っ込むし、討ち入りの場面ではみんなでえいえいおーして盛り上がります。でも吉良様はいい人です。
喧嘩両成敗と言うけど、吉良は一方的に斬りつけられただけで、自分の刀には手をかけてない。喧嘩ではない。
浅野内匠頭は癇癪持ちで短気だったと聞いた事が有ります。
詳しく話されて楽しかったです、新歴だと1月30日だから雪景色の中の討ち入りになってるけど真相はどうなんですか?
こらゃ
くだもの
おお。😊😊😊😊😊
討入は元禄15年12月14日寅の上刻で、西暦1703年1月31日午前4時頃で、快晴で月齢13.6と満月に近いとても月が明るい状況だったようです。
幕府の記録では道端に溶け残った泥まみれの雪がチラホラ残っていた程度、だそうです。
「しんしんと雪が降りしきる中」というのは後世の脚色です。
赤穂には、仕事で何十回と行きました🙂お城にも何度か行きましたが、小さいお城とお堀で「へぇ😮」って感じですネ😔とても、大事件を惹き起こすとは思えない感じです😔但し、赤穂全体で四十七士を盛り上げる感じで、旗織物が多く立ってます🙂
そういえば最近年末になっても忠臣蔵が放映される事がない…。年末の風物詩だった。
北斗の拳が地上波で放送できないのと同じかもしれない。
史実と違うと言えば、堀部安兵衛は下戸で酒に弱かったこと。
また赤垣源蔵も下戸で、兄はなく、訪ねたのは妹夫婦の家だった。
討ち入り当日の天気は?雪が描かれていない昔の三枚組の絵があります。いろは札も描かれています。
仮名手本忠臣蔵の仮名手本がずっと意味不明だったが、謎が解けました。
ちなみに吉良上野介の人となりは実際のところどんなだったのでしょう?
最近は年末の忠臣蔵が放映されず寂しい限りです😢
忠臣蔵だけでなく年末の風景がドンドン失われていきます😢
古き良き文化は残したいものですね😊
だって普通に考えたらただの逆恨みで47人で寄って集って人を殺して、それを日本中で喜ぶって異常事態ですから。
そもそも喧嘩両成敗どころか一方的にムカつくからってだけで斬りつけられてますから。
@@綿帽子-x4s 病気だったらしいよ。
浮世絵解説の矢印(悪玉、善玉玉)逆じゃないか?
咎無くて死んだのはむしろ吉良上野介なんだよなぁ
吉良上野介は高家で大名と同等。地元では名君として崇められていて、神社まであるそうです😅 小説「無念吉良上野介」を執筆中です。現代でも逆恨みされて自殺に追い込まれるなんてことありそうですよね。
罪はあるじゃん。奥さん(三姫)の兄の上杉綱勝を毒殺しているし。
泥棒も人殺しもしている吉良上野介が、殺されたのも仕方なし。
@@kuru-qg1iu 根拠なき妄説。権力者になればあれこれ噂を流すものはいる。上杉綱勝は生来病弱で死因は持病の内臓疾患といわれてる。
@@ヒライアツシ-q2y 上杉綱勝は生来病弱。死因は内臓疾患
@@kuru-qg1iu吉良のそういう話はみんな赤穂浪士の討ち入りが成功して拍手喝采となった後に吉良を悪人にし立てるための作り話。討ち入りが起こるまでは浅野がただの頭がおかしい殿様だった。
そもそも 浅野内匠頭が何を血迷ったか 松の廊下で血を流させた事が 綱吉にとって許しがたい事でしたからね
なので人情問題としてではなく 江戸城で血を流した事が切腹の理由ですからね
そう言う意味で 吉良上野介は全くとばっちりでしか有りませんね その上 殺されたんですからね
尚、松の廊下は昼間でも真っ暗でしたからね 雨戸が閉まったままですから
ちょっと吉良さんがかわいそすぎだろう あきらかに被害者なのに仇討されちゃうなんて 浅野内匠頭の言い分もきかないで切腹させたことも問題があるよな
吉良は普通に考えて被害者なんだろうけど、武士の価値観は極端な軍人みたいな感じなのでなんともいえません。
ちなみに反撃しなかった吉良も武士としては有罪らしいです。
@@vuytskkさま
「場所柄をわきまえ、身斬られながらも抵抗をしなかったのは、神妙である」てされています。
@@vuytskkあそこで吉良が反撃してたら、それこそ弁解の余地無しで両家改易だったでしょうね。
墓も諏訪大社本宮の横にある法華寺の裏山に寂しく立っている。逆恨みで殺され、無念だったはず。
片方が善、片方が悪という図式は今の時代にそぐわないのでは。
仮名手本忠臣蔵、創作ではあるんだけど、それだけ人気が出た背景には、いろんな問題があったのだろうと思います。
少なくとも、討ち入りから45年後の作品て事は、討ち入り自体がどの様に庶民に伝わっていたかですね。
歌舞伎に取り上げるのだから脚本が入り、事実どうりでは無いでしょうが、庶民から否定される様な事件だったら間違えても美談には出来ないでしょうから。
殿中沙汰の日が綱吉の実母である桂昌院の誕生祝いの日でそれをぶち壊すマネをした内匠頭に切腹を命じるのも納得。
桂昌院の従一位の座がかかっていたからな。
この直前桂昌院の従一位昇位の話を京に上ってまとめてきた功労者が吉良上野介義央ですし。
どうのこうのと言っても。
主君の仇は討つ。
尽くす武 士の忠誠をしただけ、吉良 も名君と聞くが浅野のがその時どの様な気持ちだったか本人に聞かな分からない。
仇討ちは本来肉親に対して行うもので、主君の仇討ちは前代未聞だったんです。
松の廊下の刃傷、これには綱吉の正室信子と姑桂昌院の争いがあるとか。信子は皇室から嫁にきており“従三位”も位をもっている。桂昌院は“八百屋の娘”なのに“正一位”という高い位を授かろうとしていた。皇室の娘より八百屋の娘の方が高い?普段から仲が悪く、この高い位に怒った信子が刃傷事件を仕組んだとする話もあります。浅野内匠頭の叔父さんだったか増上寺で同じような刃傷事件を起こしており“短期”“乱心”は遺伝なのかもしれません。そこを信子に利用されたのかも?
赤穂浪士の話にはいつも違和感を持っていました。なので、むすび大学のチャンネルの説明ではすっきりしました。
いろは歌の縦読みは梅原猛の柿本人麻呂論「水底の歌」に出てくるんだけど、古くから知られていたのかな?
解説が分かりやすいから、赤穂事件は今で言えばパワハラにブチギレた人がやった傷害事件なんだってことが分かった
喧嘩両成敗なんて幻想。上層部のお気に入りが勝つ。だから忠臣蔵が市民に受ける。
数年前迄正月と成ると
必ずと言って😮
忠臣蔵を゙テレビで放映していたがこの頃
観なく成りましたね🤔
映画で忠臣蔵上映して居たのが最後かな😲❓
いいや、クリスロックの事件もあったし、また...!?
やるからにはショボイ出演者という訳にはいかないので出演料が馬鹿にならない。ドラマに掛ける費用が縮小傾向なのにセットの費用も飛び抜けて掛かるからと聞いた事があります
おばあちゃんが忠臣蔵のファンで泉岳寺まで一緒に行ったわ🙂🙂🙂
現代では忘れられているのが浄瑠璃坂の仇討ち、宇都宮藩で亡き主君の法要での刃傷事件からの仇討ち事件
喧嘩両成敗ではなかったこと、浄瑠璃坂の鷹匠頭の屋敷に匿われていたところに火事装束を着て討ち入ったことなど大石内蔵助は、この仇討ちを参考にしていると思われます
大きく違うのは仇討ちに成功した後、生き延びて他の藩に請われて仕官していること
大石内蔵助は仇討ちに成功すれば、自分たちも他の藩に仕官できると思っての打算的な仇討ちだった可能性も
大石内蔵助の切腹の際も立ち会った人の目撃談では見苦しかったとか、
否定する人もいるけど仕官するための仇討ちだとしたら予想外の結末に動揺していたのかも
吉良亭討ち入りは路頭に迷った赤穂浪人の再就職活動の一環だったと思います。浅野家そのものは分家の旗本2家が残ってますから討ち入りの直線的な原因と言われる「御家再興の望みが断たれた」というのも言いがかりに聞こえます。
12月14日には、クラシック音楽の葬送行進曲を。ベートーヴェンの交響曲第3番の第2楽章も、葬送行進曲の一つです。
吉良さんが可哀想で可哀想で…。
本質は、綱吉に対する反発ですよね。吉良ではない。朱子学に基づく体制の安定=階級の固定化ですから。江戸の町人から見れば、不満だったんだと思いますね。
忠臣蔵は「将軍○し」なのかについては、丸谷才一さんらによる延々とした議論がありましたが、最後に井沢元彦さんが、「高師直は武蔵守であり、武蔵守は将軍である」の一言で締めてしまいましたね。
堀口さん、
いつも楽しい配信ありがとうございます😊
浅野さんが女好きである事は分かりましたが、
吉良さんの評判ってどうだったんでしょう?
いつもおもうけど、いい加減に吉良側からの視点でのドラマがみたいな。打たれたあとの吉良の領地の民衆の反応とかね。意外と赤穂の民衆は浅野の殿様はうざかったりしてな。
昔NHKの「天下御免」でやっていましたね。
主人公平賀源内(山口崇)が吉良側に立った話を作ったが、三河旧吉良領の農民が、来てくれた他は入りが悪く
「皆、嘘の話の方が好きなのかなぁ」。
忠臣蔵は年末やらなくていいですね 事実と違うので
赤穂浪士は卑怯だ。
夜討ちなどせず、せめて白昼堂々やればまだ良かったのに、後ろから斬りかかった主君共々卑怯です。
浅野が悪いんだけどね
吉良の言い分?と言うタイトルの本を読んだことがありますね。斬りつけられて、そして殺された吉良上野介被害者側目線で書いてあり面白かったです。作者さんのお名前は忘れましたが…😅
赤穂事件の本質は、朝廷と幕府の地位をどちらを上位とするかということでしょう。山鹿素行の「中朝事情」を見ればその地位、つまり座席の位置をどちらを上位にするかということが大問題であったはず。一方、吉良家は足利将軍家ゆかりの家だから、義満が日宋貿易をやった時点で、宋からの外交使節を対等に迎えるため、自らの席を朝廷の使者より上位に置いたということがあって、それを慣例化した事がこの事件の本質的な問題となっていると、拙者は思います。
日明貿易でした。訂正します。
仮名手本忠臣蔵では、吉良上野介とされる高師直(こうのもろなお)が、浅野内匠頭とされた塩谷判官(えんやはんがん)の妻の顔世御前(かおよごぜん)を好きになっちゃう件が元で師直の判官への"いじめ"が始まりますから、史実と虚構は全く逆のような感じですね。
ドラマでは吉良がしきりに浅野を「この田舎大名が・・・」と蔑むシーンがありますが、浅野も江戸の上屋敷に生まれてるんですね。領地が地方にあるから田舎者のように言うなら吉良の領地も田舎なので、人のことは言えない。ただ大名には参勤交代があるので赤穂でも生活しているから、田舎者イメージが。一方旗本は、参勤交代の義務がある交代寄合や一部在地が認められた旗本を除き領地に行くことはほとんどなく、吉良自身も生涯で領地を訪ねたことがほとんどなかったらしいので、領民も吉良の殿様を見たことはないはずなんです。なのでいい殿様かどうかわからないのが事実と思うのですが。
昭和の頃は、年末の風物詩、今の江戸の若い子は、興味無いらしいけどね。
赤穂、山科だと義士祭は、一大イベント
忠臣蔵の話なのですがね、
岡山県の県北の有る町の鍛冶屋に武器を頼み作り揃えたらしいですよ。