中野竹子からわかる自分たちの国、日本を守る意味|小名木善行

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  • Опубликовано: 14 ноя 2024

Комментарии • 55

  • @宇野道夫
    @宇野道夫 2 года назад +76

    実家が会津です。18歳まで会津で育ち、それからもう30年以上が過ぎてしまいましたが、子供の頃は娘子軍が散った泪橋(柳橋)の近くに住んでいた祖母からよく戊辰戦争の話を聞いていました。中野竹子を取り上げていただいて嬉しく思います。

    • @チュンチュン丸-y5z
      @チュンチュン丸-y5z 2 года назад +15

      生き方にしろ 死に方にしろ 大変立派な人生です。時代は違いますが、そんな生き方に近づける自分になりたいと思います。

  • @長谷努
    @長谷努 2 года назад +18

    18歳のときに中野竹子の娘子隊のことを知りました。とても衝撃を受けたことを覚えています。100年ちょと前の日本人の強さを思い知らされ、自分にもできるかと問うてみたけど、怖くて何もできないだろうと思いまし
    た。大切なものを守るための勇気と行動力、死を恐れぬ行動力。何一つ先人たちに勝るものがない自分を含め、多くの日本人が忘れてしまったのがとても悔しくて堪らない。明治維新も欧米の策略で内戦を仕掛けられたものと理解していますが、現代も形を変え、この日本を奪おうとしている勢力が分断を仕掛けてきています。でも日本人の魂まで外国人に渡せません、世界最古の皇室が続くこの国を簡単に譲ることはできないと思うので、国を守るために抵抗しようと思います。

  • @ヌピくん
    @ヌピくん 2 года назад +2

    先生ありがとうございます😭前に会津藩について質問した者です。私は涙なみだで😢日本人の先輩としてすごい女性の逸話を復習できてとてもよかったです😢

  • @taihan5971
    @taihan5971 2 года назад +16

    中野竹子、優子のお二方を私の胸に刻みます。
    ありがとうございます。

  • @和江福本
    @和江福本 2 года назад +4

    涙しました。かっこいいです。心意気が半端ないですね。会津…すごい。柴五郎さんも涙しました、かっこいいです。

  • @yamatosakura6319
    @yamatosakura6319 2 года назад +2

    中野竹子さんの話は存じませんでした。一所懸命の魂とはこのこと、胸の熱くなるお話ありがとうございました。二本松少年隊という隊もありました。福島は松平家がありますから、どの藩よりも幕府に忠実でした。当時の話を聞くと涙が出てきます。

  • @いち-o8m
    @いち-o8m 2 года назад +16

    会津出身です。白虎隊、八重さんは有名ですが、会津の女は勇敢な方が多いです。
    西郷頼母の家族、瓜生岩子さんなど。
    今回、あげていただきありがとうございます。

    • @チュンチュン丸-y5z
      @チュンチュン丸-y5z 2 года назад +6

      女だからなんだから何てみじんも見せない魂は、憧れしかないです。

    • @獅子原鱗
      @獅子原鱗 Год назад

      西郷頼母と妻子もノーブレスオブリマージュの精神で会津市民を守るために人柱になりましたからね

  • @aizunotanukiti
    @aizunotanukiti 2 года назад +12

    なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け
    西郷千恵子の辞世の句が好きです。
    これからも会津のお話をよろしくお願いします。
    今の日本に一番足りないもののような気がします。

  • @真壁あつ子
    @真壁あつ子 2 года назад +10

    小学校修学旅行以来、約50年ぶりに、鶴ケ城を見学し、何と平地に建てられた城を見て、思わず涙が出ました。NHK八重の桜での勇敢な女性達を観ましたが、無理とは思わなかったのか不思議です。知り合いの会津出身の女性は、血筋なのか今でもキリッと凛々しい態度をしています。

  • @かしこナッツ
    @かしこナッツ 2 года назад +11

    見習いたい。

  • @user-umeboshi
    @user-umeboshi 2 года назад +16

    もうすぐ60歳になる私ですが、
    中野竹子さんと同じ思いです。

  • @JIN36air
    @JIN36air 2 года назад +3

    ありがとうございます。

  • @simban418
    @simban418 2 года назад +19

    思わず涙腺が緩む良いお話ありがとうございました。
    C国の脅威と半島情勢の緊張感が同時に増している昨今、このような悲劇が再び起きないことを祈りますが、万一のことがあっても我々日本人は先人達の精神を引き継ぎ立派に乗り越えていけると信じたいですね。

  • @Харусан-э7и
    @Харусан-э7и 2 года назад +1

    今回のお話しは大変感動いたしました。あまり知られていないところでこれほどの物語があるとは…探せばまだあるということですね。
    国を守る心は、男も女も関係なく大切なことですね。
    私も今は兵士として戦時下の国を守る立場です。今回の動画で、国は違えど、命がけで立ち向かう魂を新たに頂いたようです。
    ありがとうございました。

  • @leeside29
    @leeside29 2 года назад +11

    私は10歳から66歳の現在まで剣道を少しずつ続けていますが、確かに薙刀、槍、杖道とは交剣したくありません。実戦形式は薙刀だけですが、3つとも距離感が難しいです。佐賀県小城市が良く他流試合をしています。

  • @oranghitam4137
    @oranghitam4137 2 года назад +14

    残った会津藩の人たちは維新後も酷寒の地に送られて非常に苦しい生活を送りました。今でも会津の人は薩摩長州の人を嫌うとか。キャンプをしていると外にガヤガヤ人でないような気配がして武士のような人が「どこの者か」と聞いてきたので「東京です」と言ったら「江戸か」と言って気配が消えた体験をした人の話も聞きました。ほんとうに惨いことだったそうです。

  • @leeside29
    @leeside29 2 года назад +13

    年のせいか涙が止まらず聞き入っていました。あえて白人と言いますが、その都合で何故、日本人同士が戦わなければならなかったのか?鎌倉武士が何十万人の敵に勝ったのに本当に日本は負けたでしょうか?内乱を避ける事が出来なかった理由が、画策した誰かが居たのです!大東亜戦争もしかりです。歴史の流れ、と簡単に片付けたくないです。戦後の現在も未だその画策が続いています。

    • @simban418
      @simban418 2 года назад

      意図的にけしかけて対立させ紛争を起こし、それによって利益を得る連中がいる。昔から奴らはそうやって金儲けを続けていて、今も変わらず世界各地で活動を続けています。

  • @菊池敏浩-f2b
    @菊池敏浩-f2b Год назад +1

    会津の人間は薩長を官軍とは決して言いません
    でも中野竹子を世の中に紹介していただいてありがとうございました!

  • @Naraaogaki
    @Naraaogaki 2 года назад +8

    いくさ場で 珠とみたてし 手弱女の
    放つひかりは まばゆきかなし
    願わくば 屋根ともなりて 守りたき
    花を加えし なみだ陣立て
    火の雨に 尊き竹を 胸に抱き
    我が手で折るは 灼熱のとき

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b 2 года назад +11

    ・什
    (じゅう)は、会津藩における藩士の子弟を教育する組織。同様の組織に薩摩藩の「郷中」がある。
    概要
    町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けた。什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集めて後述の7ヶ条からなる「什の掟」を訓示した。什長は訓示だけでなく、反省会も行い、違反したとされる構成員は審問を受け、違反した事実があれば年長者との話し合いのもと「無念」、「竹篦」、「派切り」といった制裁が実施された。順に厳しく、「無念」は口頭謝罪、「竹篦」はしっぺ、「派切り」は什からの追放(父親や兄に付き添われての謝罪があるまで解かれない)である。
    什の掟は、ベストセラーとなった藤原正彦の著書『国家の品格』でも紹介され、会津出身の元衆議院議員の渡部恒三もたびたび引用したことから全国的にも知られるようになり、学校でのいじめなどが社会問題化するなか、テレビドラマ『白虎隊』などでも取り上げられ、教育関係者の注目も集めた。
    なお、什の掟の現代版として会津若松市が「あいづっこ宣言」を策定した他、最後の一節「ならぬことはならぬものです」を引用した「NN運動」が福島県で展開されている。この「ならぬものは――」ばかりが強調されるきらいがあるが、最も重要視されるのは第1条「年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ」、第2条「年長者には御辞儀をしなければなりませぬ」(上意下達)である。
    什の掟
    一、年長者(“としうえのひと”と読む。以下同じ)の言ふことに背いてはなりませぬ
    二、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
    三、虚言を言ふ事はなりませぬ
    四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
    五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
    六、戸外で物を食べてはなりませぬ
    七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
    ならぬことはならぬものです
    関連項目
    日新館
    会津藩
    郷人
    八重の桜
    ゼロ・トレランス教育
    ・新島 八重
    (にいじま やえ〈やゑ〉、弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和初期の日本の教育者、茶道家。同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島 八重子と書かれる場合もある。勲等は勲六等宝冠章。皇族以外の女性としてはじめて政府より受勲した人物 [2]。
    ・山本 覚馬
    (山本 覺馬、やまもと かくま、文政11年1月11日(1828年2月25日) - 明治25年(1892年)12月28日)は、幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また、同志社英学校(現:同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎[1]。
    ・萱野 長修
    (かやの ながはる)は、江戸時代末期(幕末)の会津藩家老。戊辰戦争に敗れた会津藩の責任者として処刑された。通称は権兵衛(ごんのひょうえ)[* 1]。
    生涯
    萱野家は会津藩の番頭や奉行を務める名家であり、父の長裕は家老[1]に取り立てられた。家禄1,500石[2]。長修は文久3年(1863年)に家督を継いで藩主・松平容保に仕えた[1]。慶応元年(1865年)に家老に任じられ[1]て以降は容保の側近としてその補佐役を務めた。権兵衛を襲名したのはこの年であった[3]。
    慶応4年(1868年)、戊辰戦争の端緒である鳥羽・伏見の戦いの時には京都におり(柴太一郎[* 2]の証言)、その後は日光方面へも出撃。会津戦争時には大寺にて迎撃体制にあるも、新政府軍は南方の母成方面を進路としたために戦闘にはならず、若松城が包囲されてからは、高久に布陣して城内との連絡や補給に従事した。開城後は東京へ送られ松平喜徳と会津藩士5名と共に久留米藩邸にお預けとなり新政府による沙汰を待つ事になった[1]。戦後、長修は「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて主君を命がけでかばった。このため容保は幽閉で済むことになった。その代わり、上席3人の処断が決まったが、上役3人は行方不明または戦死していたため、第4席の長修が刑死した。明治新政府『朝報掲要』の旧暦6月19日の項は「陸羽越等諸藩反逆首謀臣、菅野長修以下二十一名を斬に処す。既に死する者は其後を絶つ」となっている[4][注釈 1]。
    長修は一刀流溝口派の相伝者で、奥義が絶えるのを惜しみ、死を前に火箸を使って井深宅右衛門に伝授した[1]話が知られている。墓は東京白金の興禅寺[1]と会津若松市の天寧寺[6]にあり、現在も墓前祭が行われている。享年は40説と42説があり三男の郡寛四郎が作成した系図には42歳と記されている。

  • @チュンチュン丸-y5z
    @チュンチュン丸-y5z 2 года назад +6

    人に生まれたんだから、他の動物と違うところをみせてやろうって簡単な発想ですが、辛いことも、悲しい自分に落ちこる事も人だから出来る事を見つけていきましょう。そんな感想文です。

  • @ファミ魔-k3e
    @ファミ魔-k3e 2 года назад +1

    想像以上にグラスワンダーって強いと言う事になりますね♪

  • @rarikuma666
    @rarikuma666 2 года назад +1

    大河の八重の桜は悲しいシーンが多すぎたよね。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b 2 года назад +5

    ・婦女隊
    (ふじょたい)は、会津戦争において、会津藩江戸詰勘定役中野平内[1]の長女、中野竹子らにより自発的に組織された女性だけの郷里防衛隊である。
    名称
    娘子軍(じょうしぐん)、娘子隊(じょうしたい)と呼ばれることもある。娘子軍は、女性だけの参加する軍隊をさす普通名詞である。
    後世の新島八重(山本八重子)証言では、中野こう子は入城後に合流した八重に対し「なぜ娘子軍に加はりませんでした[2]」と発言したとされる。参加者の水島(依田)菊子証言でも「娘子軍に就ては、貴著と重複になりますが、御参考までに初めから申すと」云々[3]、蒲生(中野)優子証言でも「娘子軍の一人などゝいはるゝ程の働きはいたして居りません[4]」「元来娘子軍はいざといふ場合には二十人余も出陣することに語合居ました様です[5]」とされ、当事者証言を収めた『会津戊辰戦史 増補白虎隊娘子軍高齢者之健闘』(改訂増補第四版)も「娘子軍」表記を採用している(文中361、492、498、499、500頁など)。
    ほかには、参加者らは娘子軍や婦女隊と呼び合い[6]、『会津戊辰戦史』でも特に隊名を記さず[7]、単に「女隊」と表記している、と記述するものもあり[6]、また娘子軍は後になって『会津戊辰戦史』の編著者平石弁蔵が便宜的に命名したもので、当時の会津には存在しなかった呼称であるとする説もある[8]。当項目では「婦女隊」で統一する。
    概要
    鳥羽・伏見の戦いの敗報を聞いた会津藩武家の婦女子たちの中には、主君や戦死した夫のため雪辱を果たすとして薙刀の稽古を始めたグループがあった。西郷とみ子、永井定子、門奈りゑ、依田姉妹ら6、7名である[9]。慶応4年(1868年)8月23日、新政府軍が鶴ヶ城(若松城)下へ進攻してくると、依田姉妹は今こそ会津武士道の誉れを見せんと断髪し、武装して、自らも加わろうとする老母を押しとどめて家を出ると、道すがらに、岡村すみ子、次いで中野母子3名と合流した。
    城から来た侍から前会津藩主松平容保の義姉にあたる照姫[10]が会津坂下に避難していると聞いたことから、これに合流して姫を護衛しようと会津坂下に向かったが、誤報だったために発見できなかった[11]。すでに城門は閉ざされており、やむなく、会津坂下の法界寺に宿泊した。すると24日、付近の高瀬村に会津勢が通ったので、指揮官の家老萱野権兵衛に従軍を申し出たが、「会津藩は力尽きて婦人までも戦わしめたと嘲られる」という理由で拒否された。しかしさらに食い下がって、部隊長である町野主水に掛け合って、従軍が叶わなければ自害すると迫ったので、翌日先鋒となる古屋佐久左衛門の衝鋒隊の攻撃に加わることが許された。
    翌25日、宿願叶い戦闘に参加することになった。捕縛されて辱めを受けることも非常に恐れた婦女隊は文字通り死を決していて、涙橋の戦い[12]で壮絶な奮戦を見せた。新政府軍の大垣・長州勢[13]は衝鋒隊に女子が混ざっているのを嘲笑って生捕ろうとするが、その武勇に驚き、慌てて銃を取り、銃弾の雨を降らした。
    薙刀で突進した中野竹子は額に銃弾を受けて戦死した。首級を奪われることをよしとしなかったので、妹優子はすでに息絶えた姉を介錯[14]してその首を白羽二重に包んで回収した[15]。なお、竹子は胸を撃たれて倒れたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。
    当るを幸ひ斬り捲りましたが、竹子さんは遂に額に弾丸を受けて斃れました之を見たこう子さんと優子さんは怒り心頭に発し、獅子奮迅の勢ひにて之に近づき、漸くにして其首を介錯されました[16]。
    - 水島(依田)菊子
    砲声が敵の後方に起ると、敵は浮足立ちて動揺を始めたので、此機会だと味方は一層猛烈に斬込み、婦人方も其中に交って戦ひました、妾(わたし)は母の近くにて少しは敵を斬ったと思ひますが、姉がヤラレタといふので、母と共に漸く一方を斬り開き、戦線外に出ました、其の時農兵の人が妾共と一緒に戦って坂下に帰る途中は首を持って呉れたと記憶して居ります[5]。
    - 蒲生(中野)優子
    軍事奉行添役として鳥羽・伏見の戦いの不手際で自害させられた神保修理の未亡人で、美貌で知られた神保雪子は、同じくこの戦いで戦死したとも、捕縛されたとも言う。一説には、雪子は大垣兵に生け捕りにされた際に会津坂下長命寺に幽閉され、解放もされないので、脇差で自刃したという[17]。経過は不明だが、いずれにしてもこの日に彼女も死亡した。
    生き残った婦女隊の面々は、衝鋒隊、町野隊らに従い、高瀬村まで退却した。ここで萱野権兵衛は軍奉行柴太一郎と共に婦女隊を見舞った。血潮に染まった衣服で薙刀に初陣の手柄の跡が残っていると言う面々に涙を流して感服したが、「今日の実戦は大筒小筒の争いである」と諭して「婦女子が戦場の露と消えるは我らの本意にあらず」と再度説得。婦女隊は事実上、解散となった。
    その後、彼女たちは、数日間、涙橋周辺に留まってから鶴ヶ城に入り、他の女性と同様に籠城の支援に回った。同城下での戦闘では、極めて多くの藩士の妻や子女が自害している。
    婦女隊の服装、武装
    頭髪は(肩に届かないほどに)斬髪し、男姿となり、頭には白羽二重の鉢巻きをして、着物は女の着物に袴という服装。
    武器は大小の刀に薙刀であったが、新島八重は刀や薙刀ではなく鉄砲で戦うべきと考え、婦女隊には参加しなかった[6]。
    着物については、以下の服装であったとされる。
    中野こう子 鼠がかった黒の着物
    中野竹子 青みがかった縮緬の着物
    中野優子 紫の縮緬の着物
    依田まき子 浅黄がかった着物
    依田菊子 縦縞の入った小豆色の縮緬の着物
    岡村ます子 鼠がかった黒の着物
    婦女隊士構成
    中野こう子(中野平内の妻、竹子らの母、44歳)
    中野竹子(20歳または22歳)
    中野優子(竹子の妹、16歳)
    神保雪子(神保修理の未亡人、23歳)
    依田まき子(藩士依田源治の未亡人、35歳)
    依田菊子(まき子の妹、18歳)
    岡村ます子(30歳)
    平田小蝶[18](藩士平田門十郎の次女[19]・江戸の赤岡大輔の養女として竹子の義妹[20]、18歳)
    平田吉子[21](小蝶の妹、16歳)
    をはじめとした二十余名。中野竹子は隊長という説があるが、年長者である中野こう子が指図役(実質的な指導者)であったとする説もある[22]。基本的には母子・姉妹・知人友人の集まりであって、組織らしい組織をもっていなかったので、上下の差はなく結成時に隊長という定義はなかった。
    関連作品
    八重の桜 - 前半の会津編に登場する。
    「戊辰の紅葉」
    同名の『戊辰之紅葉』(二瓶由民著、明治23年刊)を基にして書かれた小説。福島県会津若松市の合同会社アレックのご当地萌えキャラ企画「萌えの桜」でスピンオフ題材として再構成。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b 2 года назад +4

    ・中野 竹子
    (なかの たけこ)は、幕末期の会津藩の女性である。会津戦争において自主的に婦女隊として戦い、戦死した。しばしば烈女(烈婦)と称される。雅号は小竹(しょうちく)で、中野 小竹とも言う。
    生涯
    会津藩の江戸常詰勘定役の中野平内[3]の長女として江戸和田倉の藩邸で生まれた。幼少より聡明で、5~6歳の頃に小倉百人一首を暗誦して一字も誤ることがなかった。容姿端麗、男勝りの女丈夫として知られた。その妹・中野優子[2][12]も評判の美人で、いわゆる、会津美人であった。
    平内は書道の達人で持明院流の総締方勤であり、溺愛する娘の教育に熱心であった。同藩士・赤岡大助(忠良)が文武に秀で、品性方正という評判だったので、竹子を門下に入れて学ばせた。大助は竹子の利発さに驚き、平内に請うて養女に迎え入れた。
    竹子は14~15歳で経書や史書を修め詩文や和歌をたしなむまでになった。成長すると、同藩士・黒河内兼規に薙刀術と短刀術を学び、薙刀は免許皆伝ほどの腕前であった。また書家・佐瀬得所にも書を習って、備中庭瀬藩の藩主夫人の祐筆を務めこともあった。養父・大助の甥と結婚する予定だったが、戊辰戦争が始まったために復籍して、家族と共に会津に帰った。
    法界寺に現在もある竹子の慰霊碑『嗚呼壮烈』。この寺には竹子の墓以外にも中野家の墓所もある。
    会津若松城城下の坂下で、婦女子に学問や薙刀を教えた。竹子は庭での行水をのぞきにくる男たちを薙刀で追い払ったという逸話がある。
    慶応4年(1868年)8月23日[13]、新政府軍が城下に侵攻した際に照姫を会津坂下で捜索していたことから、(籠城する)若松城へ入り損ねたが、「身はか弱い女であるとしても君国の危急を傍観することは忍びない」[14]として、母・こう子らと親族と友人と共に婦女隊(娘子軍)を結成することになった。初め「会津藩は力尽きて婦人までも戦わしめたと嘲られる」[14]として参戦を断られたが、許されなければ自害するとの真心が受け入れられて、古屋佐久左衛門の衝鋒隊に混ざって戦いに加わることを許された。
    戦闘の前夜、こう子と竹子は婦女隊で最年少の優子がこれに加わるのは無理ではないか、足手まといになるのではないかと話し合い、優子は同性すら見惚れるほどの美人だったこともあり、敵に捕まって辱めを受けるより先に殺してやろうと考えた。しかし眠っていた優子を殺そうとした矢先、同隊の依田姉妹が止めに入って、戦場で一緒に死のうということになった(依田菊子証言)[15]。
    8月25日、衝鋒隊は涙橋で新政府軍と交戦した。婦女隊も敵弾が飛び交う中で切り進むが、婦人がいると知った敵兵は「生け捕れ、生け捕れ」との声を上げた[14]。竹子はそうはさせじと奮戦したが、銃弾を頭に受けて戦死した。首級を敵に与えることを潔しとしなかったので、こう子と優子は敵を薙ぎ払って駆け寄り、涙を振るって竹子を介錯し[16][17]、彼女の首を回収した。なお、竹子は胸を撃たれたという説もあり、その場合はまだ息があって自ら優子に介錯を頼んだという話となる。首級は後にこう子または農民の手により会津坂下町の法界寺に埋葬された。享年は20と言われているが、18や22などの異説がある。戒名は美性院芳列筆鏡小竹大姉。
    辞世の歌は「ものゝふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも 」で、この句を認めた短冊を薙刀に結び付けて戦っていた。この薙刀は坂下町の骨董店より流出し、広瀬村長の生江家が所蔵していたが、現在は法界寺に寄贈されている。柄の長さ五尺三寸、刃の長さ一尺五寸、切先が欠けている。
    戦闘後、こう子や優子は鶴ヶ城に入って、山本八重らと合流した。
    ・鶴ヶ城
    (わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と呼ばれるが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では黒川城、または会津城とされることもある。城は復元された建造物であるため、国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。
    概要
    廊下橋
    若松城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸が周囲に配置されていた。城下町の南端に位置し、会津藩の政庁として会津の政治の中心であった。藩主の会津松平家は徳川将軍家と密接な関係にあり幕末には戊辰戦争の激戦地となった。現在、城跡は「鶴ヶ城公園」となっており、そのほとんどが国の史跡に指定されている[1]。史跡外の三ノ丸跡には陸上競技場、市営プールおよび福島県立博物館がある。天守閣は鉄筋コンクリートで外観復元され、内部は若松城天守閣郷土博物館となっている。

  • @池月映
    @池月映 2 года назад

    薙刀は田母神道場で学んだといわれるが、日新館師範黒河内伝五郎の道場でも稽古した。鉄砲が竹子の額に当たったとあるが胸ではないかの説もある。首を介錯したのは妹優子とあるは、会津の武士が介錯し、首を着物でくるみザルに入れて坂下村に持ちかえった説もある。
    当時、徳川家は静岡に引っ越し、7月に江戸は東京になった。10月には天皇の行幸が予定され、戊辰戦争は国の大事ではなくなった。国のためといっても藩のためである。刀・槍・薙刀で官軍の新式鉄砲・大砲に勝てるわけがない。白虎隊も同じである。会津藩のトップに天下の形勢に乗り遅れるなと、主張したのは非戦派の家老西郷頼母ぐらいです。もう少し早く降伏していれば悲劇は生まれなかった。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b 2 года назад +3

    ・白虎隊
    (びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した、武家男子を集めた部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。名称は、中国の伝説の神獣「白虎」に由来する
    会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃で知られるが、戦死や自刃をしなかった隊士約290人は明治維新後を生きた[1]。
    概要
    慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩主松平容保が江戸幕府を支えて活動してきたため、会津藩は佐幕勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
    白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤーゲル銃(英語版)、短銃身化したゲベール銃、前装式の銃)のみであったとされる。これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の新型銃器(ミニエー銃、スナイドル銃)に対して著しく劣っていた(そもそも東北地方諸藩のほとんどは、旧式軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入していた)[2]。
    会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めなかった。重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来は城下町防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
    しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて潰走し、そこで数名の戦死者が出ている。8月23日に負傷者を抱えながら残りの合計7人(20人という説もある)が郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。この時、深刻な負傷によりこれ以上はもはや戦えないと悟り、結果として7名(20名という説もある)が自刃を決行し、6名(19名という説もある)が死亡。唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留めた。
    1928年(昭和3年)に刊行された平石弁蔵『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって、白虎隊は若松城周辺から上がる煙を見て落城したと誤認し、自決を選んだという認識が一般に広まった。貞吉が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(貞吉からの聞き書きに本人が朱を入れたもの)を、会津藩士の子孫や研究家からなる「白虎隊の会」事務局長の飯沼一元(貞吉の孫)が2010年頃に親類宅で見つけ、若松城へたどり着くか、敵軍に斬り込むか「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」というやり取りがあったことを知った。白虎隊の会は2011年、落城誤認説は誤りであるとする説明文を飯盛山に建てた[1]。入城か突撃か、いずれを主張した隊士も、敵に捕まり生き恥を晒すよりはと、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したとみられる[3]。
    途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
    その後、飯沼は電信技士として明治・大正を生き抜き、1931年(昭和6年)に77歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年だったそうで、そこから白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。ちなみに飯沼は電信技士をしていた時期に日清戦争が勃発し、陸軍歩兵大尉として出征して漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された(ただし、飯沼の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられている)。
    このほか「士中二番隊」の隊士であった酒井峰治も生き残って北海道に移住し、米穀業を営んだ。没後の1990年、孫の酒井峯男が仏壇の中から『戊辰戦争実歴談』を発見し、戸ノ口原の戦闘や会津城攻防戦などを詳述した貴重な史料となっている。士中二番隊半隊頭だった佐藤駒之進のように、地元会津では戦死と思われていたが、存命で北海道に移住したことが高度経済成長期に知られたような例もある[1]。
    白虎士中二番隊
    隊長
    日向内記
    小隊頭
    山内弘人
    水野祐之進
    半隊頭
    佐藤駒之進
    原田克吉
    隊士
    安達藤三郎†
    池上新太郎†
    石山虎之助†
    井深茂太郎†
    片峯祐之進
    笹原傳太郎
    篠沢虎之助
    庄田保鉄
    多賀谷彦四郎
    津川喜代美†
    永瀬雄次†
    江南哲夫
    成瀬善四郎
    野村駒四郎†
    原鋧三郎
    間瀬源七郎†
    簗瀬勝三郎†
    矢島八太郎
    有賀織之助†
    石田和助†
    伊東悌次郎†
    伊藤俊彦†
    伊東又八郎(伊藤又八)
    飯沼貞吉†
    酒井峰治
    篠田儀三郎†
    城取豊太郎
    鈴木源吉†
    遠山雄午
    永野兵太郎
    西川勝太郎†
    林八十治†
    藤沢啓次
    原三四五郎
    簗瀬武治†
    吉田錺之助
    津田捨蔵†
    石黒寅三郎
    浮洲政
    小野田尚四郎
    志賀与三郎
    竹村幸次郎
    田中清三郎
    松原孫次郎
    向山仙吾
    うち†印の者は飯盛山での自刃者として名が挙がっている
    白虎隊の構成
    士中一番隊 49名、二番隊 42名
    寄合一番隊 106名、二番隊 67名
    足軽隊 79名
    から成り、合計343名である。
    ・朱雀隊
    (すざくたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、18歳から35歳までの武家の男性によって構成された実戦部隊である。野戦を想定した従来の長沼流兵学からフランス軍制への改革により作られ、主力部隊であった。総督は黒河内式部で、隊員は約1200名。他に白虎隊、玄武隊、青龍隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「朱雀」からである。
    朱雀隊の構成
    士中一番隊から四番隊 各100名前後
    寄合一番隊から四番隊 各100名前後
    足軽一番隊から四番隊 各100名前後
    ・青龍隊
    (せいりゅうたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、36歳から49歳までの武家の男性によって構成された国境守備隊である。総督は黒河内式部で、隊員は約900名。他に白虎隊、玄武隊、朱雀隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「青龍」からである。
    青龍隊の構成
    士中一番隊から三番隊 各100名前後
    寄合一番隊から二番隊 各100名前後
    足軽一番隊から四番隊 各100名前後
    ・玄武隊(げんぶたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、50歳から56歳までの武家の男子によって構成された予備隊の部隊である。総督は黒河内式部で、隊員は約400名。他に白虎隊、朱雀隊、青龍隊、幼少隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「玄武」からである。
    玄武隊の構成
    士中一番隊 100名前後
    寄合一番隊 100名前後
    足軽一番隊から二番隊 各100名前後

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b 2 года назад +4

    ・保科 正之
    (ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫、二代将軍秀忠の子にあたる。3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。将軍の「ご落胤」でもある。
    ・松平 容保
    (まつだいら かたもり、天保6年12月29日〈1836年2月15日〉- 明治26年〈1893年〉12月5日)は、幕末の大名。陸奥国会津藩9代藩主(実質的に最後の藩主[注釈 1])。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。
    ・佐川 官兵衛
    (さがわ かんべえ)は、幕末の会津藩士。明治時代の警察官。字は勝、諱は直清[1]。
    生涯
    幕末
    会津藩士・佐川直道(家禄は300石)の子として生まれた。文久2年(1862年)には藩主・松平容保に従って上洛し、物頭を務めたのち学校奉行に任じられた。
    慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣したが、戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、のち家老に進んだ。会津戦争では、8月29日に精鋭約1,000を率いて城外出撃の指揮官を任じられたが、出陣前夜に藩主から賜った酒に酔い、早暁に出撃が遅れて敗北を喫した(長命寺の戦い)。だが、9月5日の材木町(住吉河原)の戦いでは、少数の兵で新政府軍を破り、鶴ヶ城への糧道を確保した。戦後は藩主や家老、若年寄とともに東京で謹慎した。
    明治
    旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住した。廃藩後は川路利良の懇請により警視庁に出仕し、一等大警部に任命された。明治10年(1877年)の西南戦争では戦役初期より豊後口第一号警視隊一番小隊長[2]として従軍し、豊後から熊本県阿蘇郡に転戦、同地において被弾を原因として戦死した。享年47。墓は大分縣護國神社と福島県喜多方市の長福寺にある。
    ・西郷 頼母
    (さいごう たのも、1830年5月16日(文政13年閏3月24日) - 1903年(明治36年)4月28日)は、幕末の会津藩の家老。諱は近悳(ちかのり)。明治維新後は保科 頼母(ほしな たのも)と改名。号を栖雲、酔月、晩年は八握髯翁とした。
    経歴
    生い立ち
    会津藩家老西郷近思の子として生まれる。会津藩の家老は世襲制で身分意識が強く、会津の名門九家の門閥の者しか家老に就くことが許されなかった。また「ならぬものはならぬのです」という教えによって、身分が低くても優秀であれば出世できるなどということも許されなかった。
    少年時代は父が江戸家老になったことから、江戸で過ごした。小柄で三尺だるまのあだ名があり武術は苦手、学問を通じて長州吉田松陰とも交流があった。会津藩士林三郎は下級藩士の次男で幕府麹町教授所塾頭から勝海舟補佐役・幕臣になった。頼母は林と親しい間柄になり、学問、天下の情勢に詳しいという自負があった。
    ・西郷 四郎
    (さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) - 1922年(大正11年)12月22日)は、日本の柔道家、弓道・泳法指導者。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
    来歴
    会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれた。3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川(現:新潟県阿賀町)に移住。16歳の時、元会津藩家老・西郷頼母の養子となり、福島県伊達郡石田村(現:伊達市)の霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられた。
    ・武田 惣角
    (たけだ そうかく、安政6年10月10日(1859年11月4日) - 昭和18年(1943年)4月25日)明治戸籍・現在戸籍は万延元年(1860)生まれは、日本の武術家。武号は源正義。大東流合気柔術の実質的な創始者[注釈 1]。会津藩士・武田惣吉の次男として、陸奥国(現在の福島県)河沼郡会津坂下町で生まれた。母は黒河内兼規の娘・富。惣吉は宮相撲の力士で、剣術にも秀でていた。
    惣角は幼少期から父に相撲、柔術、宝蔵院流槍術を、渋谷東馬に小野派一刀流剣術を学んだ。剣術、柔術ともかなりの達人であったらしく、「会津の小天狗」と称される程の実力を持っていたが、学問には関心を示さず、いたずらが過ぎて寺子屋から追放された。

  • @池月映
    @池月映 Год назад

    会津藩は京都守護職で財政が苦しく、交代の武士は借金して京都へ向かった。会津戦争で武器を調達したのは家老梶原平馬、安い旧式鉄砲しか買えない。財政力がある長岡藩河井継之助は5000両のガトリング砲が買えた。庄内藩も新式鉄砲を買った。白河口で敗戦が続き、プロイセンの武器商人に新式鉄砲を発注、新潟港が新政府に抑えられ、会津藩は籠城戦になった。新式銃は新島八重のスペンサー銃ぐらい。会津藩の兵法・武器は時代遅れ、情報収集の遅れ、財政力の弱さで敗戦になった。中野竹子、白虎隊の戦いは報われなかったが、歴史遺産として伝えられています。

  • @松平一郎-q8e
    @松平一郎-q8e 2 года назад +4

    宮城県仙台市立小学校の修学旅行は猪苗代湖 会津若松 鶴ケ城 野口記念館他。

  • @松平一郎-q8e
    @松平一郎-q8e 2 года назад +4

    戊辰戦争糸魚川 棚倉戦争 白河戦争他もお願いします。

  • @松平一郎-q8e
    @松平一郎-q8e 2 года назад +5

    奥越 奥州列藩同盟も再度宜しくお願いします。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b 2 года назад +1

    ・森 要蔵
    (もり ようぞう、1810年(文化7年) - 1868年8月18日(慶応4年7月1日))は、江戸時代後期から幕末の武士、剣術家。諱は景鎮(かげちか)。号は一貫斎。
    生涯
    熊本藩士・森喜右衛門の六男。江戸芝白金台の熊本藩江戸屋敷に生まれる。北辰一刀流開祖千葉周作の道場・玄武館に入門し、稲垣定之助、庄司弁吉、塚田孔平と共に「玄武館四天王」と謳われた。その後江戸麻布永坂に道場を開き、多くの門弟を抱え、名声を轟かせた。要蔵の稽古は厳しく、指導する姿は雷を纏った龍のようであったという。
    1839年(天保10年)、常陸土浦藩の剣術指南役となる。1841年(天保12年)、上総飯野藩に中小姓・剣術指南役として登用され、「保科に過ぎたるもの」とまで呼ばれた。飯野藩に登用されたことで、戊辰戦争では藩主の縁戚である会津藩に味方することとなり、要蔵は藩主の命令で、次男の虎雄、高弟の勝俣乙吉郎と共に会津へと派遣された。要蔵・虎雄親子は下羽太で官軍と激突、奮戦したが、銃撃を浴び共に戦死した。享年59。虎雄は16歳であった。
    ・勝俣 乙吉郎
    (かつまた おときちろう、天保13年(1842年) - 明治5年(1872年)6月)は、幕末の武士(飯野藩士)、剣術家。
    生涯
    飯野藩足軽・能城国信の次男として生まれる。12歳から藩の剣術指南役・森要蔵の内弟子となり北辰一刀流剣術を学ぶ。16歳で同藩士・勝俣元右衛門の養子となる。戊辰戦争では、藩主の命令で会津へと派遣される師の森要蔵に従い、会津に赴いた。会津の各地で転戦したが負傷したため飯野に帰った。乙吉郎が帰った後、要蔵・虎雄親子は戦死した。
    明治3年末(1871年)、森要蔵の娘で剣術・鎖鎌術の達人であったふゆと結婚した(ふゆは再婚)。
    明治5年(1872年)、二人の間に鉄太郎が生まれたが、同年6月(1872年)、31歳で病没した。
    ふゆはその後、野間好雄と再婚し、講談社創業者の野間清治を産んだ。
    ・森 寅雄
    (もり とらお、1914年(大正3年)6月11日 - 1969年(昭和44年)1月8日)は、日本人の剣道家、フェンシング選手。剣道の段位は八段(範士追贈)。米国フェンシング界では「タイガー・モリ」の異名をとった名選手である。昭和初期の日本剣道界、米国フェンシング界でトップクラスの実力を持ちながら、さまざまな事情で優勝を逃した「悲運の剣士」としても知られる。
    ・野間 清治
    (のま せいじ、1878年〈明治11年〉12月17日 - 1938年〈昭和13年〉10月16日)は、講談社創業者であり、元報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ、昭和時代前期の出版界を牽引した[1]。
    人物
    父の野間好雄は北辰一刀流の剣豪森要蔵の高弟で、母ふゆは森要蔵の長女である。清治も剣道に励んだが、1912年(明治45年)、東京帝国大学での稽古中にアキレス腱を断裂し、修行を断念。その後は剣道家のパトロンとして活動する。屋敷内に野間道場を開設し、持田盛二や中山博道など有名な剣道家を歓待するとともに、講談社の全社員に剣道を奨励するなど全人教育として剣道の普及に努め、「剣道社長」と呼ばれた。ビジネスにおける倫理の大切さを主張。ビジネスに奔走した自らの経験を踏まえ、「成功への近道とは道徳的な道に他ならない」とし、「修養」(精神をみがき人格を高めること)を積むことの大切さを説いた。
    ・野間 恒
    (のま ひさし、1909年〈明治42年〉4月24日 - 1938年〈昭和13年〉11月7日)は、昭和時代前期の実業家、剣道家。大日本雄弁会講談社第2代社長を務めた。
    来歴
    大日本雄弁会講談社の創始者・野間清治の長男として東京市神田区台所町に生まれる。千駄木尋常小学校を卒業した後は父の意向で上級学校へ進学せず、一種の帝王学ともいえる独自の教育を受けて育った。
    ・野間 佐和子
    (のま さわこ、1943年(昭和18年)7月27日 - 2011年(平成23年)3月30日[1])は、株式会社講談社6代代表取締役社長、日本雑誌広告協会理事長、読書推進運動協議会会長、日本出版クラブ会長、国際文化フォーラム会長。元テレビ朝日非常勤監査役。活字文化推進会議推進委員[2]。東京都文京区出身[3]。
    ・野間 省伸
    (のま よしのぶ、1969年(昭和44年)1月13日 - )は、日本の実業家。講談社代表取締役社長(第7代)、日本電子書籍出版社協会代表理事。東京都出身[1][2]。

  • @gennbanndai8652
    @gennbanndai8652 2 года назад

    負け戦が無駄になる事は無い、戦う姿があれば歴史に体を成し子孫に名誉と誇りをもたらすのですね。日本人は味方を捨てて逃げる様な真似はしない。そうした繋がりと積み重ねが日本の国体となって今の我が国があり、その豊かさと平和が享受出来るわけだ。日本に生まれて感謝、先人方には頭が下がります。
    一方、ウクライナ戦争後にあってからでも、若者に対するアンケートで国の為に戦うか? Yesが日本の若者は十数%とダントツで世界一低いのだそうだ、嘆かわしい。

  • @tsutomuhayakawa9001
    @tsutomuhayakawa9001 2 года назад +3

    武器とすると、長いものは有利ですね。(飛び道具を除くと) 大変私事で、恐縮ですが、ヌンチャクと、棒だと棒の方が、有利です。つまらない話で申し訳ございません。我が日本には、強い女子が、居られましたね。

  • @福田理理子
    @福田理理子 Год назад

    自分の藩の上層部が本当に逆賊行為を知ってたらどうしてたかな?

  • @shinchangreen36
    @shinchangreen36 2 года назад

    とある調べ。10代20代への「国のために戦いますか?」という質問
    日本20%以下。諸外国60%以上。
    アメリカ合衆国日本州or中華人民共和国日本省どちらかになる未来が見える。

  • @KT-wc4il
    @KT-wc4il 2 года назад +2

    会津一度は行ってみたいと思っています。
    ですが歴史と教育方針を上部だけ聞きますと、柔軟性のある思考があれば防げた悲劇の事案があると感じます。

  • @hogohogehage
    @hogohogehage 2 года назад

    「南北戦争のおさがりの武器で会津を侵略しますた

  • @宗像克恵
    @宗像克恵 2 года назад +1

    宗家を越えんのが、藩祖の悲願だったがんない。😂

  • @松平一郎-q8e
    @松平一郎-q8e 2 года назад +3

    白虎隊の墓地 白虎隊の歌。

  • @宗像克恵
    @宗像克恵 2 года назад

    講談が過ぎでで艸。😂

  • @宗像克恵
    @宗像克恵 2 года назад

    架空のコスプレ藩でねーの。😂