学校では教えない大山捨松が貫いた日本を変えた強い信念の真相|小名木善行

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  • Опубликовано: 15 ноя 2024

Комментарии • 38

  • @五爪龍
    @五爪龍 2 года назад +9

    まさに會津生まれの者として、先人に感謝します。
    また、ご冥福をお祈りします。
    小名木先生、いつもありがとうございます。

  • @ヌピくん
    @ヌピくん 2 года назад +2

    この話を小説で聞いて私は悲しくなっただけだったけど、今は捨松の強さに感銘を受け逞しさに魅力を感じます。女性はただの飾りではない、内助の功という言葉もありますしね。留学した女性達でも体調不良で帰国を余儀なくされた人達もいたのに感服する生き様です。英語でデートとはハイソですね。捨松は後妻だけど人間としての器の大きさに魅力を感じたんではないですか。チャラい若い男では納得出来ないというか。

  • @素敵な人生
    @素敵な人生 2 года назад +7

    小名木善行先生のお話は私の知らない事ばかりで本当に勉強になります。
    この様な大切なお話は、もっと若い頃に聞きたかったです。
    本当にありがとうございます。

  • @こばやしあきら-o6p
    @こばやしあきら-o6p 2 года назад +6

    お能言葉が武士の共通言語で日本の基礎を築いた夫婦の共通言語が英語なんてむすび大学ならではの学びです。捨松なんてだれだろうと名前からはイメージできない優れた魅力的な女性だったなんて知らなかったです。相応しいひとが夫婦になるもんですね。そういえば安倍さんの奥様の昭恵さんも国葬の時の立ち振舞で週刊誌とかが伝えているのと違って相応しい女性だと言うことを思ってます。

  • @村田博-q5p
    @村田博-q5p 2 года назад +4

    配信🐜がとうございました!大山捨松は大河ドラマとかにも出てくる有名な👩女性何で存じ上げてましたがこの様に素晴らしい👩女性だったとは知りませんでした。会津戦争で互いに流血を流した敵同士の薩摩と會津が周囲の反対も有ったと思いますが其の恩讐関係を乗り越える物が大山捨松には有り大山巌は其れを直感で感じ取ったのかも知れません🐭迚も為になるお話し🐜がとうございました。

  • @高橋健治-r7e
    @高橋健治-r7e 2 года назад +2

    小名木先生のこのyoutubeに出会って。私の日本観、歴史観が大きく変わりました。目からウロコが落ちるような経験をたくさんさせていただきました。ありがとうございます。そんな中で、一点、最近少し残念なことがあります。それは小名木先生の名調子に欠かせない。クライマックスでの扇子の拍子の音が、小さくなったことです。おそらくあえて音が出ないようにされているかと思いますが、願わくば今までのように、講談調に大きく拍子していただけたらさらに内容が気持ち良く脳みそに刻まれるような気がしました。ほんの些細な気持ちですので、お聞き入れくださらなくても全く構いませんが。コメントさせていただきました。今後とも真実の素晴らしさをたくさん教えてください。よろしくお願いします。

  • @hidezoevo
    @hidezoevo 2 года назад +3

    素晴らしい♪👍✨いつも勉強になります。ありがとうございます。

  • @風林火山-k7d
    @風林火山-k7d Год назад

    本当に素晴らしいチャンネルです。
    人生が変わった。学習意欲ってこの事か!と思います。
    時代は時と共により良くなっていて、現代が一番進歩しているものだと思っていたから、歴史を勉強する必要性が分かりませんでしたが「時代が下る」という用語を知り、人間自体の能力は衰えている事に革命が走りました。
    日本精神を誇りに思います。
    日本人に生まれて良かったです!

  • @山椒らーめん専門店tv
    @山椒らーめん専門店tv 2 года назад +4

    ヘヴニーズのクライマックストークでお話を聞いた事があったんですが小名木先生のお話でよりよく理解出来ました。

  • @taihan5971
    @taihan5971 2 года назад +1

    会津には中野竹子.優子そして大山捨松お三方の日本女子の素晴らしい先人を供養させていただきたい気持ちで一杯です。
    感動しました。

  • @Naraaogaki
    @Naraaogaki 2 года назад +3

    敷島の やまと言葉を 人問はば
    かみ仰がずば いかで語れん
    こうしたお話を思いますと、やっぱり言葉にはなりません。
    大山捨松先生は、戦でなくなった御霊と対話を重ねられて生きておられたのではないかなと思います。
    古い日本の伝承には「捨て子は育つ」というものがあるらしく、捨松という名前には親御さんの娘を想う心、言祝ぎが詰まっているんだろうなと思いました。
    捨松は 拾うこころに 汲むこころ
    津に松島の 親のまごころ

    • @泰山岩坂
      @泰山岩坂 2 года назад

      『敷島』は、🚬とわざという⛰️🐱泰山😅より岩坂が、バカ殿様ヲ🛐⛰️🐱🗾⤴️☀️🐱🐾🍀🍀🍀

    • @Naraaogaki
      @Naraaogaki 2 года назад

      @@泰山岩坂
      敷島という銘柄のタバコがあったと初めて知りました(^_^;)

  • @好昭-q5f
    @好昭-q5f 2 года назад +26

    武家の子女は立ち居振る舞いや死と向き合う覚悟、国の為に尽力する事を教えられていたんですね。今の日本人もちゃんと生きる事を学ばなければいけませんね。

  • @qqpc7gp
    @qqpc7gp 2 года назад +1

    先生の話はいつも感銘を受け拝聴しています。先生はいつから日本人はこんなにかっこ悪くなったとおもわれますか?

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    大山捨松ー2
    滞米生活
    ヴァッサー大学在学中
    5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人は病気を理由にその年のうちには帰国してしまった[9]。逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。この3人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。
    捨松はすでにアメリカに渡っていた兄の山川健次郎の知人の仲介で、コネチカット州ニューヘイブンの会衆派の牧師レナード・ベーコン(英語版)宅に寄宿し、そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得した[10]。健次郎はアメリカに馴染みすぎると恐れ、日本語も欠かさず勉強するように命じたが、捨松はこれが最も難しかったと回想している[11]。また当時、健次郎はキリスト教を嫌っており、礼拝に出ることはかろうじて許可したものの、入信させないように依頼した[11]が、捨松はベーコン牧師より1876年[12]にキリスト教の洗礼を受ける[注釈 2]。
    このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンである[14]。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーにあるジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出したヴァッサー大学に進んだ[14]。しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学した。
    当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学であった[注釈 3]。東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代[注釈 4]、「サムライの娘」スティマツ[注釈 5]は、すぐに学内の人気者となった。捨松は英文学を専攻し、たびたび学内誌に寄稿するなど、成績はいたって優秀だった[15]。2年生のときには学級委員長となり、創立記念日には着物を着て実行委員長を務めている[15]。得意科目は生物学だったが、官費留学生としての強い自覚を持っていたようで、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかった。シェイクスピア研究会[15]やフィラレシーズ会[注釈 6]にも入会している。
    明治14年(1881年)には、この年に廃止される開拓使より、10年の留学期間が満了することによる帰国命令が出たが、後1年で学士号を取得できる見通しの捨松、後1年で高校卒業資格を取得できる見通しの津田梅子は1年間の延長を要請し、認められた[16]。永井繁子は、この年の6月にヴァッサー大学音楽科(3年制)を卒業して留学に区切りをつけており(「瓜生繁子」を参照)、開拓使の命令に従って明治14年10月に帰国した[16]。
    明治15年(1882年)6月14日[17]、学年3番目の通年成績で「偉大な名誉」(magna cum laude) の称号を得て卒業した(大学を卒業して学士号〈Bachelor of Arts〉を取得した最初の日本人女性[18][19])。卒業式に際しては卒業生総代(10人[17])の一人に選ばれ、卒業論文『イギリスの対日外交政策』[17]をもとにした講演を行い、ニューヨーク・タイムズが「完璧なまでにイギリスの保守主義政策を理解し、アメリカの自由と友愛の精神に対して惜しみない賛辞を送っている」と論評し、地元新聞シカゴ・スタンダードでも称賛された[15]。
    前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せていた捨松は、卒業後ニューヘイブン病院で2か月間、実地看護に従事し、看護婦の免許を取得した[20]。
    この間、山川家は東京で暮らしていたものの、多くの書生の面倒を見るなどして困窮しており、書生の一人であった柴五郎に借金をするほどであったという[21]。明治6年に帰国した兄の健次郎が送る手紙は日本政府の動向や国際情勢のことばかりであり、捨松は「もっと家族のことを知らせてくれればいいのに」とこぼしていたという[15]。捨松は筆まめで、兄の健次郎やモスクワに留学していた姉の操(みさお)ともこまめに文通していたが、兄には英語で、姉にはフランス語で手紙を書いている。

  • @masayamaz1767
    @masayamaz1767 2 года назад

    男と女、それぞれの役割を果たす、お互いに協力し合うのが日本の文化、まさにそれ。
    津田塾大学出の政治家って聞かないね、これからかな

  • @ツルマルひげまる
    @ツルマルひげまる 2 года назад +2

    僕達が 今 こうして 生きて自由を 謳歌していられるのは 「折角の命を自殺してしまう輩もいるが」
    武士道を持った我国の日本人、先人達が命を掛けて日本を守りかつ アジアを白人から解放してくれたからだよ
    詳しくは 「真理子と敬の青春アジア解放1」安濃豊著 花輪和一表紙絵
    むすび大学チャンネルさん応援しています

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    斗南藩
    斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)11月3日に松平容保の嫡男・容大に家名存続が許されて成立した、七戸藩を挟む形で現青森県の東部にあった藩である。
    会津藩を没収された会津松平家は、改めて元盛岡藩(南部藩)領に設置された旧三戸県5万2,339石の内、北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられて立藩した(旧三戸県の残部は江刺県に編入)[57]。斗南藩に与えられた村数、石高は、明治4年に青森県から大蔵省へ送られた文書によると以下の通りである。
    斗南藩の石高[58]
    郡名 村数 石高(石.斗升合)
    二戸郡 12 3,969.416
    三戸郡 50 22,048.680
    北郡 46 8,729.369
    総計 108 34,747.465
    ただし、旧会津藩士4700名余が謹慎を解かれたのは翌年の明治3年(1870年)1月5日のことである。当初は三戸藩と称していたが、明治3年6月4日付の七戸藩宛書簡に「猶々藩名斗南藩と唱ヘ候間、以来ハ右藩名ニ而及御懸合候」とあり、名称を斗南藩と改めた。柴五郎によると「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める州)からとったもので、この説が広く受け入れられているが、該当する古典漢詩が存在せず、会津藩士秋月悌次郎が慶応元年(1865年)に蝦夷へ左遷された際に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されている。一方、当時斗南藩の大属として藩政の中枢にいた竹村俊秀の『北下日記』には「「斗南」トハ外南部ノ謂ナリ」と記されており、当初「外南部」の略称に過ぎなかったものを大義名分に立って「北斗以南」の意義付けが行われたとも解釈される[59]。また葛西富夫は、「南、すなわち薩長政府と斗(闘)う」という意味が隠されているという口伝を紹介している[60]。同年4月18日、南部に移住する者の第一陣として倉沢平治右衛門[61] の指揮のもと第一陣300名が八戸に上陸した。藩主となった松平容大は、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り、五戸に向かった。旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現在の青森県むつ市田名部の円通寺に移った。また北海道後志国の歌棄(うたすつ)・瀬棚・太櫓(ふとろ)及び胆振国山越の計4郡も支配地となった。実際に入植したのは50戸あまり、220余人であった。明治3年閏10月までには旧会津藩士約2万人の内、4,332戸1万7,327人が斗南藩に移住したが、若松県内で帰農した者約2,000人を始めとし、残りは族籍を平民に移した。
    斗南藩の表高は3万石、内高は3万5000石であったが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地であり、実際の税収である収納高(現石)は7380石に過ぎなかった[62]。森林は豊富であったものの、隣藩のように林業を有効活用することが出来なかった。また南部藩時代から元々住んでいた約6万人の領民との軋轢も生じた。とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられ、その時の体験は柴五郎によって語られている。 その後、斗南藩は明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、その際斗南県少参事廣澤安任らによる明治政府への建言により、同年9月4日に弘前県・黒石県・七戸県・八戸県・館県との合併を経て青森県に編入され斗南の地名は消滅した。また、二戸郡の一部は岩手県に編入された。青森県発足時点では、会津からの移住人員1万7327人のうち3300人は既に他地域への出稼ぎで離散してしまっており、青森県内には1万4000人余の斗南藩士卒族が残留していた[63]。その後も廃藩置県による旧藩主の上京により、移住してきた者の送籍・離散が相次ぎ、明治7年(1874年)末までには約1万人が会津に帰郷している。当地に留まった者では、明治5年(1872年)に広沢らが日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員となった者が多く、子孫からは、北村正哉(元青森県知事)をはじめ衆議院議員、郡長・県会議員・市町村長や青森県内の各学校長などが出ている。容大は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。
    藩主:松平容大(まつだいら かたはる)〔従五位 知藩事〕

  • @室井修-k1r
    @室井修-k1r 2 года назад +8

    砲弾を撃っていた大山巌と結婚するとは、会津人や兄貴達からいろいろ言われたんだろうな。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    大山捨松ー6
    逸話
    『不如帰』と風評被害
    『不如帰』初版本
    大山巌は先妻との間に娘が3人いた。長女の信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルとして徳冨蘆花が書いた小説が、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の名ゼリフが当時の流行語にまでなったベストセラー『不如歸』である[43]。
    蘆花によれば、この小説はある女性が蘆花に話したことが元になっている。蘆花の夫人愛子によると、この女性は大山巌の副官の未亡人福家安子であり、信子が肺結核のため三島彌太郎と離縁されたこと、彌太郎が離婚を悲しんだこと、巌が怒って信子を引き取り邸内に療養室を建てて療養させたこと、最後に家族旅行を行ったこと、信子の葬儀の際に三島家から送られた花を突き返したことなどが述べられたという[44]。
    小説の中で主人公の浪子は結核をわずらうと、夫との幸せな結婚生活を姑によって引き裂かれ、実家に戻される。すると今度は薄情な継母に疎まれ、父が建ててくれた離れで寂しくはかない生涯を終える。ところが読者には、この小説に描かれた冷淡な継母のモデルは捨松だと信じて嫌悪感を抱いた者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあったという。舞台作品が制作されるとその公開に捨松は抗議しており[34]、晩年までそうした風評に悩んでいたという。
    実際は小説とは異なり[36]、看護師としての経験から対策を知っていた捨松が、家族への感染を防ぐため生活空間を分けたものであり、隔離した信子に対しては献身的に看護している。巌が日清戦争の戦地から戻ると、信子の小康を見計らって親子3人水入らずで関西旅行までしている。捨松は巌の連れ子たちからも「ママちゃん」と呼ばれて慕われていた。家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったという[要出典]。
    しかし蘆花からこの件に言及が行われたのは『不如帰』上梓から19年を経た大正8年(1919年)、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と述べている[要出典]。
    洋風夫妻
    晩年の大山夫妻
    大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名だった。捨松は人前でも夫を「イワオ」と呼び捨てにし、巌もそれを当然のように受け入れた[3]。熟年になってから喧嘩をしたこともあったが、牛臥山の標高が何メートルであるかという争いであり、どちらが数学的に正しいかと次男の柏に判定を求めたという[3]。
    ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、2番目が私で、3番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せている[要出典]。「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものだった。
    巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛した。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったという。捨松はベーコンへの手紙の中で「彼はますます肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしている。
    巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれだった。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとは言えず、訪れたアリス・ベーコンにも酷評される有様だったが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦だった。しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させている。
    西洋文化自体が世の中に浸透しきっていない当時の多数の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」の捨松であったが、しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていた。夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されている。[要出典]
    栄典
    1915年(大正4年)11月10日:大礼記念章[45]
    家族
    大山捨松公爵夫人
    実家
    父: 山川重固(しげかた、会津藩国家老)
    母: 艶(えん)
    兄: 浩(ひろし、陸軍少将、男爵)
    兄: 健次郎(けんじろう、東京帝国大学総長、男爵)
    姉: 操(みさお、明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官)
    姉: 二葉(ふたば、女子教育者)
    婚家
    夫: 大山巌(いわお、元老、元帥 陸軍大将、公爵)
    長女/義娘: 信子(のぶこ、『不如帰』浪子のモデル)
    次女/義娘: 美津子(みつこ、夭折)
    三女/義娘: 芙蓉子(ふよこ)
    四女/義娘: 留子(とめこ、『鹿鳴館の貴婦人』の著者・久野明子の祖母)
    五女: 久子(ひさこ)
    長男: 高(たかし、海軍少尉候補生、練習航海中の事故で殉職)
    六女: 永子(ながこ、流産)
    次男: 柏(かしわ、考古学者、戊辰戦争研究家、公爵、妻は近衛文麿の妹・武子)
    孫:梓(海軍主計士官、広島大学教授・歴史学者、柏の長男)
    孫:桂(海洋生物学者、柏の次男)

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    大山捨松ー5
    女子教育
    旧友の再会
    左から、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松
    日本に帰ったら教職に就いて日本の女子教育の先駆けとなる、という留学時代の捨松の夢は、政府の要職にある大山巌と結婚したことで頓挫し、捨松が自ら教壇に立つことはあり得なくなった。それでも女子教育にかける熱意は冷めることなく、生涯にわたって陰に日向にこれを支援している。
    早くも結婚の翌年の明治17年(1884年)には、伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンらを教師として招聘するなど、その整備に貢献している。しかしそうして出来上がった華族女学校では古式ゆかしい儒教的道徳観にのっとった教育が行われ[注釈 13]、捨松はまたしても失望を味わう。
    その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立することになると、捨松は瓜生繁子ともにこれを全面的に支援した。アリスも日本に再招聘して、今度は自分たちの手で、自分たちが理想とする学校を設立したのである。教育方針に第三者の容喙を許さないという立場から、津田が誰からの金銭的援助もかたくなに拒んでいたこともあり、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕した。捨松は学校資金募集にあたる委員会会長を務め、英学塾では顧問から後に理事や同窓会長を務め、梅子の渡米中には校長代理として卒業証書を渡すなど、積極的に塾の運営にも関与している[35]。生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援が大きな理由のひとつだった[要出典]。
    家庭生活
    晩年の捨松
    結婚後、捨松は大山との間に2男1女に恵まれた[35]。先妻の残した3人の娘をふくめた6人の子供を育てる主婦としても捨松は多忙であった[35]。さらに不動産による大山家の資産運用も行っており、巌は自分が知らない間に広大な邸宅を手に入れたと驚いたという[36]。
    巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、位人臣を極めた。それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われた。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒(だんらん)を楽しんだ。
    長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年だったが、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にした。次男の柏は近衛文麿の妹・武子をめとり、高の死後は大山家の後継者となった。
    晩年と死
    大正5年(1916年)には嫡孫梓が誕生したが、その直後より巌は体調を崩し療養生活に入る。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけていた。内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去した[40]。
    巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、大山家の資産運用などに専念することとなった[36]。大正8年(1919年)、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。病気療養を理由に津田は退任を決め、捨松は紆余曲折を経てその後任を指名したが、風邪気味の体を押して後任のもとに依頼にでたことがたたり[41]、新塾長の就任を見届けた翌日、倒れてしまう。当時、世界各国で流行していたスペインかぜをわずらい、そのまま回復することなく、2月17日に58歳で没した[41][42]。

  • @hironobusahara2349
    @hironobusahara2349 2 года назад +1

    立ち別れ 因幡の山の峰に生ふる 松とし聞かば 今帰り来む

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    板垣 退助
    (いたがき たいすけ、天保8年4月16日[4]、4月17日[5](1837年5月20日もしくは5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、軍人、政治家。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られる[6]。伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。
    特記
    板垣家の家紋・土佐桐
    (戊辰東征の功により山内豊範より拝領)
    日本史上初めて議会政治を樹立するため民撰議院設立を政府に建白。帝国議会ならびに現在の自由民主党の源流となる愛国公党、自由党の創始者[7]。そのため旧50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられ、紙幣裏面には国会議事堂が描かれた。板垣が議会設立のため欧州視察中にパリで購入したトランクは、現存する日本最古のルイ・ヴィトン製品[8]。好角家として知られ、海山太郎友綱を初め多くの力士を育成。これが現在の二所ノ関部屋の源流となる[9]。国技館の命名にも携わり[注釈 1]、また軍馬の育成に資するとして競馬を奨励した。晩年の著作には『日本は侵略國にあらず[10]』、『社会主義の脅威[注釈 2]』、『武士道論』、『神と人道』などがある[11]。清貧で古武士の品格を矜持し「維新の精神に背かぬため」と己の死するにあたって遺言して爵位を返上した[9]。その為、たとえ自身に不利益が生じようとも、信念を貫き、国家と国民のために勇気ある決断をした政治家と評された。
    概略
    板垣死すとも自由は死せず(安倍晋三書)
    日本銀行券B100円券
    同上裏面(国会議事堂)
    50銭政府紙幣
    同上裏面(国会議事堂)
    幕末「戦争の結果によって形成された社会秩序は、戦争によってで無ければこれを到底覆すことは出来ない」と主張し[注釈 3]、土佐藩における武力討幕派の重鎮として薩摩藩に対し薩土討幕の密約を結ぶ[注釈 4]。これに基づき土佐藩の兵制を改革して近代式練兵を行った。独断で土佐藩邸に天狗党浪士を隠匿しその身柄を薩摩藩へ委託。この浪士らが幕府を挑発して江戸薩摩藩邸の焼討事件を惹起し、戊辰戦争の前哨戦を為す。鳥羽・伏見の戦い開戦後は、天皇陛下御親征東山道先鋒総督軍参謀・迅衝隊総督(土佐藩陸軍総督)となり戊辰戦争で活躍。特に甲州勝沼の戦い、会津攻略戦では軍功著しく、会庄両藩の蝦夷地売却計画を阻止。また日光東照宮を戦禍から守る。絶対尊皇主義者として知られ、君民一体による自由民権運動の主導者であり「君主」は「民」を本とするので「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた[13]。自由民権運動は、億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇を基礎とし、その柱を五箇条の御誓文に求めるもので、特にその第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」は重視され、国内へは「国会の開設」、国外へは「不平等条約の撤廃」等を求めた[9]。さらに国民皆兵を断行するため太政官の許可を得て全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に国防の任に帰する事を宣した[9]。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられたが、海外思想の単なる翻訳・流用ではなく、日本の国体に則して歴史的に培われたものであることが強調されている[14]。世界の自由主義思想は、キリスト教神学の聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、板垣退助の説く自由主義は武士道精神により醸熟された愛国主義(Patriotism)と密接に結びついており、単純にリベラリズム(Liberalism)と翻訳出来ない日本独自の特徴を有する[注釈 6][注釈 7] 。これは板垣が生涯にわたって貫いた姿勢であり[9]、そのため国防を重視し、天皇護衛のための軍隊・御親兵の創設に盡力。この御親兵がのちの近衛師団さらに大日本帝国陸軍の前身となる[9]。参議のほか内務大臣を務めること2回。清貧で「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受ける。少年期に聴覚障碍を患った経験から、政界を退いてからは視覚障碍者の按摩専業や、傷痍軍人に対する福利厚生、女性受刑者が獄中出産した幼児の保護と育成などの社会改良にも取り組んだ[9]。一君万民を説き、被差別部落解放の為の日本最初の全国組織となる帝国公道会を創設[注釈 8]。岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名[15]。座右の銘は「死生亦大矣[注釈 9]」。林獻堂らの招きによって渡台し台湾人の地位向上のための組織・台湾同化会を設立。生涯に亘って尊皇を貫き[注釈 10]、勤皇に尽くした姿から「幕末明治の大楠公」とも称され[注釈 11]大日本国粋会の結成に影響を与えた[注釈 12]。明治維新に勲功のあった土佐藩出身の伯爵としては、板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行が著名で「土佐三伯」と称された。

  • @ピヨライサ
    @ピヨライサ 2 года назад

    一つ、大山捨松さん関連の最近の名著を紹介しておきます。
    この人の子孫である久野明子さんが書かれた「昭和天皇 最後の御学友」という書物で。
    中で詳しく捨松さんについても書かれています。
    結局、捨松さんはアメリカ留学で主席を取っていたほど学んでいたのに、戻ってきた捨松さんを日本の社会はまだまだ全然、独り身の女性を評価する社会ではなかった。
    結婚後も、非常に苦労をされ「私が幸せだったのはアメリカ留学の時だけだった」とも語っておられます。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    黒田 清隆ー1
    (くろだ きよたか、旧字体:黑田 淸隆[注釈 1]、1840年11月9日〈天保11年10月16日〉- 1900年〈明治33年〉8月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家[1]。1888年(明治21年)から1889年(明治23年)にかけて第2代内閣総理大臣を務めた[1]。陸軍軍人としての階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は仲太郎、了介。
    概要
    薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。開拓次官、後に開拓長官として明治3年(1870年)から明治5年(1872年)まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、明治9年(1876年)に日朝修好条規を締結し、同10年(1877年)の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の重鎮となった。しかし、開拓使の廃止直前に開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾された。明治21年(1888年)4月から内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法の発布があったが、条約交渉に失敗して翌年辞任した。その後元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。1900年に死亡したため、19世紀に亡くなった唯一の内閣総理大臣である。
    生涯
    生い立ちと幕末の活動
    天保11年(1840年)に、薩摩国鹿児島城下新屋敷通町(現在の鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士[2]・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。なお、明治期に子爵になった黒田清綱の家(記録奉行や教授を輩出していた。代々小番。)と同族であるが、遠縁であるという。
    幕臣・江川英龍に学び、長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人として居合わせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝を受けている。
    文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷吉之助と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。
    戊辰戦争
    榎本武揚助命嘆願のため剃髪した黒田(左)
    慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督・高倉永祜の参謀に、山縣有朋とともに任命され、鯨波戦争に勝利した。北越戦争に際しては、黒田は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山縣に新政府軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。このとき長岡城が夜襲され、新政府軍主力は一時潰走したが、黒田は新発田藩を降し、新潟を占領して所期の目標を達した。
    越後の戦闘が決してから、黒田は秋田に上陸して庄内藩を背後から攻略する作戦を立てた。ここに西郷が合流して秋田藩兵の疲弊を告げ、米沢を先に攻めるよう変更した。西郷と黒田は寛大策をもって臨み、米沢藩と庄内藩を帰順させた。9月27日に庄内の鶴岡城を接収してこの方面の戦闘を終わらせた。
    いったん鹿児島に帰り、翌明治2年(1869年)1月に軍務官出仕に任命された。箱館戦争が始まると、黒田は2月に清水谷公考中将の参謀を命じられ、3月に東京を出港した。途中、宮古湾停泊中に宮古湾海戦に際会した。4月9日に上陸した山田顕義に続き、黒田も19日に江差に上陸して旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を執った。5月に旧幕府軍が箱館に追い詰められたのを見て、助命のための内部工作を手配した。11日の箱館総攻撃では、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領し、敵を五稜郭に追い込んだ。榎本武揚に降伏を勧め、17日に降した。
    戦後は榎本助命を強く要求して、厳罰を求める者と長い間対立し、榎本のために丸坊主に剃髪したこともある。榎本問題は明治5年(1872年)1月6日にようやく、榎本らを謹慎、その他は釈放として決着した。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    ・大山 巌
    (おおやま いわお、旧字体:大山 巖、天保13年10月10日(1842年11月12日) - 大正5年(1916年)12月10日)は、日本の武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。
    ・黒田清隆
    生涯
    青年期
    薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
    同藩の有馬新七らに影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋騒動では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属された。ここで西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾にて、黒田清隆らとともに砲術を学ぶ。
    戊辰戦争
    戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。また、12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行った。これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称され、後に日露戦争まで長く使用された(弥助は大山の幼名から)[2]。
    会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に手間どる土佐藩部隊の援護に出動するも、弾丸が右股を内側から貫き負傷し、翌日後送されている。そのため、実際大山が鶴ヶ城で戦ったのは初日のみで砲撃を指揮した訳でもなく、よく言われる「会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した」というのも事実ではない。なお、このとき篭城側は主だった兵がほとんど出撃中で、城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重とわずかな兵たちだった。そのため狙撃者は八重であるとも言われている。この時の会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していた。
    留学
    維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。メーチニコフは後に東京外国語学校に教師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。
    西南戦争
    西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。明治13年(1880年)には陸軍卿となり[3]、第1次伊藤内閣において最初の陸軍大臣となった。
    1884年2月16日、陸軍卿として、川上操六・桂太郎2大佐らをしたがえ、欧州兵制視察のために横浜を出発し、1885年1月25日、帰国した。
    日清日露戦争
    日露戦争中、満州で
    日清戦争(1894年 - 1895年)直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官となった。明治32年(1899年)5月16日には参謀総長に就任し、また元帥に列せられた[3]。
    1903年6月22日、参謀総長として朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出した。日露戦争(1904年-1905年)では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め(1904年6月20日)、日清日露ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
    元老
    大山は陸軍を代表する存在であり、最重要の重臣である元老のメンバーとしても活動した。ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている[4]。大正4年(1915年)4月23日には内大臣となり[5]、宮中入りした。
    薨去
    大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に、胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。享年75。病床についてから死ぬ間際まで、永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。
    臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨などが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に引っ越してきたようだったという。大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけだった。
    那須に葬られた。墓所は栃木県那須塩原市。遺品は陸上自衛隊宇都宮駐屯地に多数収蔵され、資料館に展示されている。

  • @下部鬼巧
    @下部鬼巧 2 года назад +2

    当時は洋装を着こなせる女性は少なかったのです
    靴も中ヒールのハイブーツでまともに立って居られなかった事でしょう

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    大山 捨松ー1
    (おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。
    生涯
    出生と会津戦争
    官軍の砲弾を浴びて激しく損傷した会津若松城
    安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が親代わりとなった[1]。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また種痘や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった[1]。母・えん(父の没後に出家し勝聖院)は西郷氏の出身で唐衣(からごろも)の雅号を持つ会津藩屈指の歌人であった[1]。厳格な人柄であり、子供たちには軍記物を読み聞かせ、懐剣もすぐ抜けるよう袋を短めにしていたという[1]。
    一家の運命を大きく変えたのは会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、弾薬の運搬を手伝っていた[2]。女性たちは焼玉式焼夷弾が場内に着弾すると一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしており、さき自身がこの作業にあたったという説も存在するが、子孫で歴史ライターの大山格は、小児のさきにそのような重いものを持ち上げられるはずはないことを根拠に、事実ではないとしている[3]。戦いのある日、さきたちが食事をしている部屋で砲弾が炸裂し、長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)の妻トセが大やけどを負い、さきも首を負傷した[2]。トセは「母上、母上、どうぞ私を殺してくださいませ。あなたの勇気はどこにいってしまったのですか」と懇願するほど苦しんだが、義母えんには手の尽くしようもなく息を引き取った[4]。
    若松城攻撃の際に、当初官軍の砲兵隊長をつとめていたのは、のちに夫となる薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)だったが、初日に負傷し翌日後送されており、実際に若松にいたのは2日のみである[5]。
    斗南藩
    降伏後、会津23万石は改易となり、1年後に改めて陸奥斗南3万石に封じられた[6]。この間に祖父重英は病死し、長兄浩が藩の重臣となった[6]。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7,000石足らずしかなかった[6]。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。後に大山柏が語るところによると、時期は不明であるがアメリカ人宣教師に預けられたという[7]。
    官費留学
    新政府の米国留学女学生。左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治5年(1872年)、シカゴ滞在中に撮影[8]。姓名はいずれも当時のもの、数字は数え歳[注釈 1]。
    明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使の次官黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。
    開拓使のこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まった。この留学生に選抜された若者の一人が、さきの兄・山川健次郎である。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族の中には、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させたのである。その一方で、女子の応募者は皆無だった。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったのである。
    しかし、さきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れていた。また、いざという時はやはり留学生として渡米する兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では女子留学生の再募集があった際に、満11歳になっていたさきを思いきって応募させることにした。この時も応募者は低調で、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘[注釈 1]で、全員が合格となった。
    母のえんが懐剣を渡し、「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待って(松)いる」と述べ「捨松」と改名させたのはこの時である[7]。くしくも捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学している。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    大山捨松ー4
    明治16年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松との婚儀がおごそかに行われた。その1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館[注釈 10]で大山夫妻の盛大な結婚披露宴が催される[注釈 11]。 会場は千人を超える招待者でごった返し、通常なら新婦は気が動転して会話もままならないであろう状況でも、気さくにふるまう捨松には誰もが目を止め、話しかけ、またその話に耳を傾けた[要出典]。しかし、会津戦争と西南戦争で因縁を重ねた会津人と薩摩人の婚姻は、郷里の人々にとって受け入れられるものではなかった。二人の曾孫大山格はそれ以降、大山家は薩摩と会津の両方とも親戚づきあいが絶えたとしている[3]。
    「鹿鳴館の貴婦人」と慈善活動
    近世以後ヨーロッパで確立された外交プロトコルでは、夜会や舞踏会が大きな役割を果たしていたが、その風潮は19世紀後半になってもあまり変わってはいなかった。列強の外交官は夫人同伴で食事や舞踏を楽しみ、時にはそうした席で重要な外交上の駆け引きも行う。幕末から明治初年にかけて欧米を視察した日本人にとって、それはひとつの大きな衝撃だった。日本人の女性がまだ人前での立ち振る舞いにまったく慣れていなかった時代、新政府の高官の多く[誰?]が即戦力となる芸者や娼妓を正妻として迎えた[34]理由のひとつもここにある。
    早期の条約改正を国是としていた明治政府は、こうした宴席外交を行うことの出来る施設の必要性を痛感していた。当時は、別に正規の用途がある施設をその時々の必要に応じて借り上げる形で間に合わせていたが、代替施設はやはり不便だった。そこで外務卿の井上馨が中心となって、こうした代替施設に代わる恒常の官立社交場を新築することを決定した。それが鹿鳴館である。
    鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれ、諸外国の外交官はもとより、明治政府の高官たちもそうした外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わった。そこには日本が文明国であることを示すという涙ぐましい努力があったのだが、そうした「鹿鳴館外交」の評判は必ずしも良いものではなかった。外交官たちはうわべでは宴を楽しみながらも、文書や日記などには日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して彼らを嘲笑していたのである[要出典]。体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちで覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちの姿が、特筆せざるを得ないほど可笑しいものだったのも無理はなかった[34]。
    その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松だった。英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する。12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入ったものだった。当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのよいドレスの着こなしも光っていた。そんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼んで感嘆するようになった。
    『於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖』(当時の錦絵新聞より)中央の右の長身の女性が大山捨松。
    夜会や舞踏会だけではない。ある時有志共立東京病院を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受ける。そこで元海軍軍医総監で院長の高木兼寛男爵に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言した。高木も看護婦の必要性は早くから認めていた[注釈 12]が、いかんせん財政難で実施が難しい状況だった。
    それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開いた。捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとった[35]。 3日間で予想を大幅に上回る収益をあげ、その全額(当時の金額で1万6000円)[35]を共立病院へ寄付して高木院長を感激させている。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。
    明治20年(1887年)に日本赤十字社の後援団体の立ち上げにおいて「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となった[36]。日清・日露の両戦争では、大山巌が参謀総長や満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていた[37]。捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動[38]に時間を割くかたわら、看護婦の資格[12]を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りなどの活動も行った[36]。またアメリカの赤十字にも寄付金を送る[12]かたわら、積極的にアメリカの新聞に投稿し、日本が置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えた[36]。日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立った。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用された[要出典]。
    近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けは、この大山捨松である[39]。

  • @池月映
    @池月映 2 года назад

    大山巌は妻を亡くし、捨松を後妻にしたい。二人は英語で話して意気投合した。山川家は戊辰戦争で薩摩に負け、賊軍にされた恨みある。そこで、大山の義兄弟である西郷従道が、会津と薩摩(西南戦争敗戦)は賊軍同士で結婚しても問題ではないと兄山川浩を説得したという。大河ドラマは大山と捨松がじゃんけんで決めたとあるが研究不足です。
    明治20年、西郷従道は自宅で天皇を招き天覧相撲を開催、賊軍の汚名を返上した。会津藩は封建制度(幕藩制度)の感覚から脱して、西郷のような先進的な人物が生まれず、長い間賊軍のままにされた側面がある。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g

    黒田清隆ー2
    開拓使
    戦後まもなく、明治2年(1869年)11月22日に黒田は中山清(せい)と結婚した。樺太でのロシアの圧力が増したため、明治3年(1870年)5月に樺太専任の開拓次官となった。7月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。10月20日に建議して、樺太は3年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。
    明治4年(1871年)1月から5月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。帰国後、10月15日に開拓長官東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。明治7年(1874年)6月23日、陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。同年8月2日、参議兼開拓長官となった。黒田は榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用した。
    黒田はケプロンの献策にもとづき基盤整備事業を起こしたが、たちまち支出超過を招いた。これに苦慮した黒田は、明治6年(1873年)に事業を縮小し、即効性を求めて産業振興に重点を移した。
    外交と西南戦争
    釜山の大日本帝国海軍(1876年1月16日)
    明治6年(1873年)の征韓論に際して、黒田は内治重視の立場から西郷らに反対した。明治7年(1874年)の台湾出兵に際してもロシアの脅威を挙げて不可の立場をとり、出兵後には清国との全面戦争を避けるため速やかに外交交渉に入ることを唱えた。この年、ロシアとの交渉にあたって黒田は榎本武揚を使節に推薦して容れられ、榎本が特命全権公使として樺太・千島交換条約の交渉と締結にあたった。黒田の方は、明治8年(1875年)の江華島事件をきっかけに、同9年(1876年)2月に朝鮮と交渉する全権弁理大臣となり、日朝修好条規を締結した。
    樺太と千島は開拓使の管轄であるから、受理と明け渡しは黒田の職務であった。このとき黒田は樺太アイヌを北海道に強制移住させた。札幌本庁を預かっていた松本十郎は、強制移住に反対して辞任した。
    明治10年(1877年)に西南戦争が起きると、黒田は2月に海路鹿児島に至ってここを確保し、いったん長崎に引き上げた。3月14日に征討参軍に任命された。このとき熊本城は包囲され、北から来る山縣有朋の主力軍が解囲戦に苦戦していた。黒田は敵の背後を衝くため八代付近に上陸し、3月30日から交戦をはじめ、前進を続けて4月15日に熊本城に入った。翌16日、山縣と合流した当日に自らの辞任を請い、23日に辞令を受け取った。開拓使で黒田が育てた屯田兵は、入れ替わりに戦線に到着し、以後の戦闘で活躍した。
    薩閥の重鎮
    明治11年(1878年)3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載った。黒田は辞表を提出したが大久保利通の説得でこれを撤回した。岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。川路は医師を伴って清の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認したのみでこれを病死であると結論付けた[注釈 2]。黒田はこの頃より酒が過ぎることが多く、酔って怒気を発することがあった。開拓長官時代にも商船に乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがあり、これは示談金を払って解決した。同年5月に大久保が暗殺(紀尾井坂の変)されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになった。
    明治14年(1881年)に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このとき事業が赤字であったことを理由に、非常な安値を付けた。黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者を充てるべきだとして優遇を弁護したが、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして、激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。また、この4年後の明治18年(1885年)、晩年の五代は、黒田と酒を交わした直後に容態が急変し、10日も経たぬうちに死去している。
    総理大臣
    黒田の醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年(1888年)4月に第2代内閣総理大臣となった。在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布であったが、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。この憲法公布の翌日、鹿鳴館において、「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。大隈重信が主導した不平等条約改正交渉の失敗(外国人司法官任用問題)によって大隈が襲撃され、条約改正の頓挫により黒田内閣は翌 明治22年(1889年)10月に辞職した[4]。改正の条件に外国人の裁判官を置くという別の不平等を持ってきたことが、国内の反対を受けたのである(辞職後2か月間三条實美内大臣が首相を兼任)。なお、この時に、条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治22年(1889年)12月15日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。
    晩年
    首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治25年(1892年)8月8日、第2次伊藤内閣の逓信大臣になった。伊藤内閣のもとで日清戦争が起こったが、特に活躍することなく、明治28年(1895年)に枢密院議長となった。明治26年(1893年)から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。明治33年(1900年)8月23日、脳出血のため薨去[5]。享年59。葬儀委員長は榎本武揚であった。
    薩摩閥の重鎮とはいえ、醜聞と疑獄事件で晩年は浮いた存在となり、同郷の人々は離れていった。代わって旧幕臣との付き合いが濃密となり、特に外交分野などでは榎本武揚を重用するようになった。黒田の死に際し榎本が葬儀委員長を務めたのも、薩摩の人々が黒田を敬遠したためとも言われている。

  • @sakurai_yoko
    @sakurai_yoko 18 дней назад

    性差を超えて、人間としてのすばらしさは、性を売る事ではありませんね。現代も過去もそれしかその生命の価値のない身には落ちたくありませんね。価値観の問題です。

  • @鹿村美誠-g6t
    @鹿村美誠-g6t 8 месяцев назад

    全女性にふらしたい 強い信念志を持てなんてさ 会社の業績が揮わない理由に女性の感性才能を差別故に認めないから
     だとしたら有能な女性もしくわ人材を組織は円滑な運営が不可能さ 解るかよ な

  • @ChilliChilliBlack
    @ChilliChilliBlack 2 года назад

    正に雅子さま皇后妃殿下ではありませんか?!