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茜さす紫…の歌は、最近は詠み人の二人とも四十過ぎた年齢の頃に詠まれ、宴中に「昔そんなこともあったねー、てへぺろ」的な笑い話っぽい雰囲気での歌だというのが最近の説ですね。額田王の歌は白村江の戦に挑む際の「𩜙田津に〜」が戦意高揚させるカッコいい歌で好きです
面白かったー天智と天武を大河ドラマにしてくれないかなー時代考証の限界かなー
この動画で語られてるような裏があるとしたら南北朝時代以上のタブーじゃんムリムリムリムリカタツムリ
24:05このチャンネルはこのSEの使い方が超独特なので、ch乗っ取りの心配がなくて安心だ笑
この時代の皇位継承ルールは複雑で面白い。両親とも天皇だったり、皇后も皇女とか。天皇家は複数あったのかなと思いたくなる。あと、額田王が男性皇族みたいな、むしろ大王と同じ呼び名なのも不思議。
宣化天皇系で野洲、鏡神社辺りに勢力の在る豪族なんでしょう。
宣化系統やそうです。
斉明天皇(=皇極天皇)が舒明天皇の后となる前に、高向王(たかむくのおおきみ)との間に子をもうけています。高向王との間の子が天武天皇、舒明天皇との間の子が天智天皇と考えると、天智天皇が4歳年下という関係性が腹に落ちます。その場合、天武天皇は皇太子になり得ないため、壬申の乱は天武天皇によるクーデターという性質が強くなります。
中大兄皇子は天皇の息子だから、血縁が薄い高向王の息子より皇位を継ぐ身分は高くなる。
大海人皇子は 異母兄の古人大兄皇子と同一人物とする説があるね🤔
異父兄漢皇子と同一人物という説もありますね
何十年かあとに天皇が天武天皇系から天智天皇系に戻るのもちょっといろんな想像させられちゃうんだよね単純に血が途切れたとかとは違う感じに思えるまあその時々の皇族どうしや藤原家内部の力関係なだけかもしれないけど
たしか吉備の風土記逸文に、中大兄皇子が斉明天皇の薨去を理由に白村江に行かず引き返したので、残りの兵で戦ったため兵が足りず負けたとの記述があるようですがこの辺りはどう解釈されますか?
古代に天皇が亡くなると同母弟が即位するといっていますが、これは誤りですね実際には天皇の子の中から母の身分が高い年上の皇子を大兄皇子といい、その中から選ばれます大友皇子は母の身分が低かったため大兄皇子でなく、大海人皇子も長子でなかったため、ほかに適任者がいればその適任者に人心が集まったでしょう天智天皇が心配したのも大友皇子を心配したからでしょう
壬申の乱は手塚治虫の火の鳥でも取り上げられてたな。その時の感想は大友皇子が哀れに思ったと記憶してる。
まさか 虎に翼が 天武天皇の故事が由来だったとは
虎に翼の出典は韓非子です😊
韓非子は法家だったから、ドラマのテーマにピッタリだったんですね。
@@good-coco エウレーカ👍 素晴らしいレスバありがとうございます😊
漢風諡号は日本書紀成立時にはなく後から淡海三船がつけたものだからこの話は成り立ちません
高句麗から来た将軍ってのは、ヨンゲソムン(淵蓋蘇文)のことですね。彼は大莫離支(テマクリジ)という日本の後の摂政や関白に匹敵する身分を得ており、日本に来たときマリキ(莫離支)大臣などと呼ばれた。などという俗説があり、また大海人皇子が海から来たような名で呼ばれたことから、同一視説が出たとか。まぁ当時の人に聞かなきゃ、事実はわからないよね。
マリキは中近東の言葉ですね。現代でも使われていますよ。
高句麗か。満州人は優秀だったんだな。後の高麗という統一王朝を作ったり。
@@kosjp6310高句麗って韓民族でなくて、満州民族なん?
違う史料同士を比べるから兄弟関係がおかしくなるだけで同一史料内ではちゃんと天智のほうが年上だってのはもうさんざんいわれてきた話なのでは?
東国の豪族が天武側についたのは、天智系より天武系が正統だと認識していたからでしょうか。畿内から遠い東国では政治駆け引き情報は薄いでしょうし。
男系の万世一系は日本書紀の時代から続くプロパガンダ、神功皇后(天皇だったとの説アリ)、継体天皇(クーデターによる新たな系統)あたりも怪しい
私もそうではないかな…と感じていました。それらの説の詳しいお話を知りたいです😌
俺は大化の改新より前は出雲王朝を隠すために捏造されたものではないかと思う嫁の女神は出雲系がばかりだから消すことが出来ず暗号化せざるをえなかったと思う出雲口伝が本当なら鎌足=徐福ではないかとそうするとインドラやマルドゥクやセトの話に繋がるんだよね出雲系が表舞台(朝廷)からいなくなったのは大化の改新だしなぜなら名前を変えただけで何回も同じことを天武の時代までやってるからニニギ=神武(偽物の方)=崇神=継体=応神=天武大海(アマ)人皇子はアマ=アムル人にして徐福=アムル人(王の役職名はニニギ)だとすると全て繋がる
そもそも乙巳の変が怪しすぎる
神功皇后は大正時代の皇統譜令で天皇から外されたけど、それまでは天皇とされてましたよ。中国の『宋史』にも神功皇后が天皇であることが記録されてます。
大友皇子が即位しなかったのは天智天皇の喪の最中だったからでは無いかな?じっさい草壁皇子も天武天皇の崩御後に直ぐに即位せずに3年間喪に服してた。大友皇子はその間に天武天皇の反乱=壬申の乱で討たれたし、草壁皇子は病気になってしまい即位せずに亡くなってる。
朝鮮出兵を巡って現政権が愛想を尽かされ反対勢力に滅ぼされる流れは、豊臣政権から関ヶ原とおんなじ。場所も同じ美濃から近江。白村江と壬申の乱の関係をそう読むのは納得した。秀次事件も豊臣政権に対する大名の不信感をつのっただろうし、大海人が大津京から実質的には追放された?のに似ている。
なぜ薩夜麻がでてこない
そうなると天智天皇が大海人皇子の皇位継承の話や「虎に翼」のエピソードも偽りの物語になってしまうのかぁでも確かに何年か後の天智の系統に皇位を戻すというのもなるほどとも思ってしまう天智と天武は兄弟なんだから血筋の系統を…というのもそこまで拘る必要ある?とも思ってしまうのもあるなぁちなみに天智と天武のどっちが先かってなかなか覚えられなくて私は「ちむどんどん」の「智」と「武」で覚えましたwww
天智はワカヒコだったりしてな天智から鎌足が奪った嫁が下照姫つまり下照姫が本来の天武で鎌足が乗っ取ったって感じかな
面白い
持統までの天皇さんの漢風諡号を撰んだのは天智天皇の4世の孫にあたる淡海三船なのよ。嫌味なニュアンスを込めたりするかなあ。持統だって天智の娘だし。その点は引っ掛かるな。
それだけ離れてたら悪い名前つけるのにもそこまで抵抗無いでしょまあそもそもそこら辺の時代の家系図って見れば見るほどおいおいマジかよってなるような訳分からん血の繋がり方してるし考えるだけ無駄な気がする
@ わかりにくい言い方しちゃったね。淡海三船のひいじいちゃんは天武に負けた大友皇子。まあ3代も前の因縁など知らんだろうと言われれば、ですよねーって言うしかない笑
淡海三船が学者だと考えれば、自分の父祖という理由で手心を加える事はないと思いますよ。学者にとっては事実こそが正義ですから。曲学阿世と誹られる事こそ屈辱。
@@凌雲高天原 確かに!それが一番当たり前で大事なことでした。ありがとうございました。
おお……極めて高度な議論が穏やかにされている……
小学生の頃社会の授業で大化の改新を習いました。その時に蘇我入鹿という悪い人を退治した、良い人として中大兄皇子が大好きになりました。この時代だけ異常に勉強して色々な本を読み漁りました。歴史は勝った側に都合の良い様に編纂されているので、私も勝手に天智天皇が山科で亡くなったのは、天武天皇側に殺されたと思って居ます。本当にその場所が御陵か分からないですが、天智天皇陵、天武持統天皇陵、二上山に有る大友皇子の陵にも行きました。この時代は女性天皇も多くて、とても楽しいです。ただ女性天皇が幸せだったか?は何とも言えないです😢
皇統は兄から弟がセオリーではない。12:23崩御時に子供はまだ年齢が若い場合が多く(平安時代のように幼帝摂関政治が一般的でなく)次回候補のままになることが多かった。また天皇位は年齢や経験だけでなく母親の身分も重要視されていた。当時は皇后は皇族であることが条件であった。そのまま皇后が天皇位に就くことも多かった。大友皇子は采女の子だったので豪族たちに支持されなかった。天智天皇の皇后である倭姫王の子であれば歴史は変わったかもしれない。
壬申の乱には徳島県舞台説がある。トンデモと思われるかもしれないが傾聴に値する。日本書紀では天武側は東国へまず出発することになっているが、奈良だと地理が合わない。
額田王を二人の王子が奪いあった話は有名だが、そもそも額田王については謎だらけ。一説には額田王こそが正統な王室の姫君で、王子達はそれぞれに王位を狙っていたが正統な王家の血筋では無いが故に彼女と結婚したがったとか…中大兄皇子と大海人皇子は非常に有名だが、大化の改新までは一切歴史に名前が登っていない。
壬申の乱は夏場の戦いらしいけど、琵琶湖の瀬田の唐橋付近では冬の雪が降る頃なら濃霧は発生する事は有るけど、夏場は朝から霧が発生する事は無いと思うのでので、かなり違和感を感じますね。
額田王や紫式部の役割は、サロンの支配ですから。宮廷の世論のコントロール。中大兄としては、大海人皇子から奪わざるを得なかったでしょうね。その事情は、宮廷官人たちがよくわかっていたから、大海が、今でも愛しているという歌を読んでも、問題にはならなかったと言うことですね。要するに、大海は、対唐新羅連合に対する講和政策を、代表していたと言うことですね。
面白かったです!天智天皇と天武天皇の関係性はどうしても日本書紀どおりではない気がしてしまいます。天武天皇は天智天皇のだいぶ齢の離れた弟(つまり異父弟?)って考察してるサイトを見たことがあって、それも一理あると思いました。なんせ天智天皇の娘が4人も嫁いでいるわけだから、自身の皇統が薄いと感じていた&兄よりも兄の娘の方が比較的年齢が近かったと考えられますし。
壬申の乱の1週間後に応仁の乱のテストww
どう見ても異分子による王朝簒奪ですからね。万世一系がここで途絶えなくてよかった。
なかなかいい線いってるねぇ。倭国を日本と名付けたのは、白村江の戦いで唐側の総司令だった則天武后だとされる。則天武后の字をよく見ると、則 天 武 后 なんと 天武の文字が!白村江の海戦の後、唐新羅軍に列島が蹂躙され彼らの支配下になったのでは。そうでなければ、これまで使われてきた神代文字を捨てて漢字という外国の文字を使うはずがない。
列島が蹂躙されたとこ、妄想もほどほどに。もし唐の軍が列島まで来ていたのなら、日中韓の正史に必ず記録が残るはずです。しかしそんな記録は1ミリもありません。
まんま歴史は勝者が作るやな、日本書紀は天武が作らせた自分の成功体験物語で筋書きから何から何まで都合のいいシナリオで構成されていたってことやな、まぁ今現代でも万世一系とか男系継承なんかはまさに都合のいいでっち上げってことや😁
壬申の乱と時に不破の関はまだありませんよ天武天皇が即位後に造られてました
古今東西「やむなく○した」という動機は嘘で共通している
「天智と天武」コミックを読んだ。
応仁のLAN!!ズンダモン、やばいぜベェベー!!
本来の天武は女性(祭祀王=瀬織津姫)で鎌足(ニニギ)にやられて乗っ取られたと思うそうするとマルドゥクやインドラやタケミカヅチは女神説や賀茂別雷の話と繋がるし賀茂別雷=アジスキタカヒコネだからワカヒコやニムロデの話にも繋がるよ
大陸が攻めてくるぞ、と危機を煽るのは今の時代も変わらないですね
茜さす紫…の歌は、最近は詠み人の二人とも四十過ぎた年齢の頃に詠まれ、宴中に「昔そんなこともあったねー、てへぺろ」的な笑い話っぽい雰囲気での歌だというのが最近の説ですね。
額田王の歌は白村江の戦に挑む際の「𩜙田津に〜」が戦意高揚させるカッコいい歌で好きです
面白かったー
天智と天武を大河ドラマにしてくれないかなー
時代考証の限界かなー
この動画で語られてるような裏があるとしたら南北朝時代以上のタブーじゃん
ムリムリムリムリカタツムリ
24:05
このチャンネルはこのSEの使い方が超独特なので、ch乗っ取りの心配がなくて安心だ笑
この時代の皇位継承ルールは複雑で面白い。両親とも天皇だったり、皇后も皇女とか。天皇家は複数あったのかなと思いたくなる。
あと、額田王が男性皇族みたいな、むしろ大王と同じ呼び名なのも不思議。
宣化天皇系で野洲、鏡神社辺りに勢力の在る豪族なんでしょう。
宣化系統やそうです。
斉明天皇(=皇極天皇)が舒明天皇の后となる前に、高向王(たかむくのおおきみ)との間に子をもうけています。高向王との間の子が天武天皇、舒明天皇との間の子が天智天皇と考えると、天智天皇が4歳年下という関係性が腹に落ちます。その場合、天武天皇は皇太子になり得ないため、壬申の乱は天武天皇によるクーデターという性質が強くなります。
中大兄皇子は天皇の息子だから、血縁が薄い高向王の息子より皇位を継ぐ身分は高くなる。
大海人皇子は 異母兄の古人大兄皇子と同一人物とする説があるね🤔
異父兄漢皇子と同一人物という説もありますね
何十年かあとに天皇が天武天皇系から天智天皇系に戻るのもちょっといろんな想像させられちゃうんだよね
単純に血が途切れたとかとは違う感じに思える
まあその時々の皇族どうしや藤原家内部の力関係なだけかもしれないけど
たしか吉備の風土記逸文に、中大兄皇子が斉明天皇の薨去を理由に白村江に行かず引き返したので、
残りの兵で戦ったため兵が足りず負けたとの記述があるようですがこの辺りはどう解釈されますか?
古代に天皇が亡くなると同母弟が即位するといっていますが、これは誤りですね
実際には天皇の子の中から母の身分が高い年上の皇子を大兄皇子といい、その中から選ばれます
大友皇子は母の身分が低かったため大兄皇子でなく、大海人皇子も長子でなかったため、ほかに適任者がいればその適任者に人心が集まったでしょう
天智天皇が心配したのも大友皇子を心配したからでしょう
壬申の乱は手塚治虫の火の鳥でも取り上げられてたな。その時の感想は大友皇子が哀れに思ったと記憶してる。
まさか 虎に翼が 天武天皇の故事が由来だったとは
虎に翼の出典は韓非子です😊
韓非子は法家だったから、ドラマのテーマにピッタリだったんですね。
@@good-coco エウレーカ👍 素晴らしいレスバありがとうございます😊
漢風諡号は日本書紀成立時にはなく後から淡海三船がつけたものだからこの話は成り立ちません
高句麗から来た将軍ってのは、ヨンゲソムン(淵蓋蘇文)のことですね。
彼は大莫離支(テマクリジ)という日本の後の摂政や関白に匹敵する身分を得ており、日本に来たときマリキ(莫離支)大臣などと呼ばれた。などという俗説があり、また大海人皇子が海から来たような名で呼ばれたことから、同一視説が出たとか。
まぁ当時の人に聞かなきゃ、事実はわからないよね。
マリキは中近東の言葉ですね。現代でも使われていますよ。
高句麗か。満州人は優秀だったんだな。後の高麗という統一王朝を作ったり。
@@kosjp6310
高句麗って韓民族でなくて、満州民族なん?
違う史料同士を比べるから兄弟関係がおかしくなるだけで
同一史料内ではちゃんと天智のほうが年上だってのは
もうさんざんいわれてきた話なのでは?
東国の豪族が天武側についたのは、天智系より天武系が正統だと認識していたからでしょうか。
畿内から遠い東国では政治駆け引き情報は薄いでしょうし。
男系の万世一系は日本書紀の時代から続くプロパガンダ、神功皇后(天皇だったとの説アリ)、継体天皇(クーデターによる新たな系統)あたりも怪しい
私もそうではないかな…と感じていました。それらの説の詳しいお話を知りたいです😌
俺は大化の改新より前は出雲王朝を隠すために捏造されたものではないかと思う
嫁の女神は出雲系がばかりだから消すことが出来ず暗号化せざるをえなかったと思う
出雲口伝が本当なら鎌足=徐福ではないかと
そうするとインドラやマルドゥクやセトの話に繋がるんだよね
出雲系が表舞台(朝廷)からいなくなったのは大化の改新だし
なぜなら名前を変えただけで何回も同じことを天武の時代までやってるから
ニニギ=神武(偽物の方)=崇神=継体=応神=天武
大海(アマ)人皇子はアマ=アムル人にして徐福=アムル人(王の役職名はニニギ)だとすると全て繋がる
そもそも乙巳の変が怪しすぎる
神功皇后は大正時代の皇統譜令で天皇から外されたけど、それまでは天皇とされてましたよ。
中国の『宋史』にも神功皇后が天皇であることが記録されてます。
大友皇子が即位しなかったのは天智天皇の喪の最中だったからでは無いかな?じっさい草壁皇子も天武天皇の崩御後に直ぐに即位せずに3年間喪に服してた。大友皇子はその間に天武天皇の反乱=壬申の乱で討たれたし、草壁皇子は病気になってしまい即位せずに亡くなってる。
朝鮮出兵を巡って現政権が愛想を尽かされ反対勢力に滅ぼされる流れは、豊臣政権から関ヶ原とおんなじ。場所も同じ美濃から近江。白村江と壬申の乱の関係をそう読むのは納得した。
秀次事件も豊臣政権に対する大名の不信感をつのっただろうし、大海人が大津京から実質的には追放された?のに似ている。
なぜ薩夜麻がでてこない
そうなると天智天皇が大海人皇子の皇位継承の話や「虎に翼」のエピソードも偽りの物語になってしまうのかぁ
でも確かに何年か後の天智の系統に皇位を戻すというのもなるほどとも思ってしまう
天智と天武は兄弟なんだから血筋の系統を…というのもそこまで拘る必要ある?とも思ってしまうのもあるなぁ
ちなみに天智と天武のどっちが先かってなかなか覚えられなくて私は「ちむどんどん」の「智」と「武」で覚えましたwww
天智はワカヒコだったりしてな
天智から鎌足が奪った嫁が下照姫
つまり下照姫が本来の天武で鎌足が乗っ取ったって感じかな
面白い
持統までの天皇さんの漢風諡号を撰んだのは天智天皇の4世の孫にあたる淡海三船なのよ。嫌味なニュアンスを込めたりするかなあ。持統だって天智の娘だし。その点は引っ掛かるな。
それだけ離れてたら悪い名前つけるのにもそこまで抵抗無いでしょ
まあそもそもそこら辺の時代の家系図って見れば見るほどおいおいマジかよってなるような訳分からん血の繋がり方してるし考えるだけ無駄な気がする
@ わかりにくい言い方しちゃったね。淡海三船のひいじいちゃんは天武に負けた大友皇子。まあ3代も前の因縁など知らんだろうと言われれば、ですよねーって言うしかない笑
淡海三船が学者だと考えれば、自分の父祖という理由で手心を加える事はないと思いますよ。学者にとっては事実こそが正義ですから。曲学阿世と誹られる事こそ屈辱。
@@凌雲高天原 確かに!それが一番当たり前で大事なことでした。ありがとうございました。
おお……極めて高度な議論が穏やかにされている……
小学生の頃社会の授業で大化の改新を習いました。
その時に蘇我入鹿という悪い人を退治した、良い人として中大兄皇子が大好きになりました。
この時代だけ異常に勉強して色々な本を読み漁りました。
歴史は勝った側に都合の良い様に編纂されているので、私も勝手に天智天皇が山科で亡くなったのは、天武天皇側に殺されたと思って居ます。
本当にその場所が御陵か分からないですが、天智天皇陵、天武持統天皇陵、二上山に有る大友皇子の陵にも行きました。
この時代は女性天皇も多くて、とても楽しいです。
ただ女性天皇が幸せだったか?は何とも言えないです😢
皇統は兄から弟がセオリーではない。12:23
崩御時に子供はまだ年齢が若い場合が多く
(平安時代のように幼帝摂関政治が一般的でなく)
次回候補のままになることが多かった。
また天皇位は年齢や経験だけでなく母親の身分も重要視されていた。
当時は皇后は皇族であることが条件であった。
そのまま皇后が天皇位に就くことも多かった。
大友皇子は采女の子だったので豪族たちに支持されなかった。
天智天皇の皇后である倭姫王の子であれば歴史は変わったかもしれない。
壬申の乱には徳島県舞台説がある。トンデモと思われるかもしれないが傾聴に値する。
日本書紀では天武側は東国へまず出発することになっているが、奈良だと地理が合わない。
額田王を二人の王子が奪いあった話は有名だが、そもそも額田王については謎だらけ。一説には額田王こそが正統な王室の姫君で、王子達はそれぞれに王位を狙っていたが正統な王家の血筋では無いが故に彼女と結婚したがったとか…
中大兄皇子と大海人皇子は非常に有名だが、大化の改新までは一切歴史に名前が登っていない。
壬申の乱は夏場の戦いらしいけど、琵琶湖の瀬田の唐橋付近では冬の雪が降る頃なら濃霧は発生する事は有るけど、夏場は朝から霧が発生する事は無いと思うのでので、かなり違和感を感じますね。
額田王や紫式部の役割は、サロンの支配ですから。宮廷の世論のコントロール。中大兄としては、大海人皇子から奪わざるを得なかったでしょうね。その事情は、宮廷官人たちがよくわかっていたから、大海が、今でも愛しているという歌を読んでも、問題にはならなかったと言うことですね。要するに、大海は、対唐新羅連合に対する講和政策を、代表していたと言うことですね。
面白かったです!天智天皇と天武天皇の関係性はどうしても日本書紀どおりではない気がしてしまいます。天武天皇は天智天皇のだいぶ齢の離れた弟(つまり異父弟?)って考察してるサイトを見たことがあって、それも一理あると思いました。なんせ天智天皇の娘が4人も嫁いでいるわけだから、自身の皇統が薄いと感じていた&兄よりも兄の娘の方が比較的年齢が近かったと考えられますし。
壬申の乱の1週間後に応仁の乱のテストww
どう見ても異分子による王朝簒奪ですからね。万世一系がここで途絶えなくてよかった。
なかなかいい線いってるねぇ。
倭国を日本と名付けたのは、白村江の戦いで唐側の総司令だった則天武后だとされる。
則天武后の字をよく見ると、則 天 武 后 なんと 天武の文字が!
白村江の海戦の後、唐新羅軍に列島が蹂躙され彼らの支配下になったのでは。
そうでなければ、これまで使われてきた神代文字を捨てて漢字という外国の文字を使うはずがない。
列島が蹂躙されたとこ、妄想もほどほどに。
もし唐の軍が列島まで来ていたのなら、日中韓の正史に必ず記録が残るはずです。
しかしそんな記録は1ミリもありません。
まんま歴史は勝者が作るやな、日本書紀は天武が作らせた自分の成功体験物語で筋書きから何から何まで都合のいいシナリオで構成されていたってことやな、まぁ今現代でも万世一系とか男系継承なんかはまさに都合のいいでっち上げってことや😁
壬申の乱と時に不破の関はまだありませんよ
天武天皇が即位後に造られてました
古今東西「やむなく○した」という動機は嘘で共通している
「天智と天武」コミックを読んだ。
応仁のLAN!!
ズンダモン、やばいぜベェベー!!
本来の天武は女性(祭祀王=瀬織津姫)で鎌足(ニニギ)にやられて乗っ取られたと思う
そうするとマルドゥクやインドラやタケミカヅチは女神説や賀茂別雷の話と繋がるし
賀茂別雷=アジスキタカヒコネだからワカヒコやニムロデの話にも繋がるよ
大陸が攻めてくるぞ、と危機を煽るのは今の時代も変わらないですね