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7200系が抜けてます
元沿線住民としてとても懐かしく拝見しました。一つだけダイヤモンドカットの7200系はどうしたのでしょう?8000系の軽量試作車(8090系の始祖)にも触れられていない。
7200系が抜けていますぞい。個人的には初代7000系の改造前のカルダン駆動方式のモーター音が一番好きです(歳バレ)
停車寸前に 回生ブレーキのモーター音が「フッ」と抜けるところとか。
早いが暑い急行(7000系)か、遅いが涼しい各停(8000系)かどちらかでしたね。朝ラッシュ以外は急行の1本後の各停が終点まで急行から逃げ切るダイヤだったので、当時はこれに好んで乗っていました。一時期、急行の冷房車率を上げるためか、全て先頭車で8両組成された7200系なんてのもありました。
7000系は日比谷線向けの東洋電機の電装品を使用した編成と地上線用の日立電装品を使用した編成に分かれておりモーターの音や加速にかなりの差が見られた。両社の混結は一応可能だったようだが混結時は改正ブレーキを使用していなかったようだ。現在弘南鉄道が東洋=本線、日立=大鰐線、が配置されているので確認することができます。7200系も同様に分かれているがモーター音以外は大きな差は無いようである。
弁当箱の渾名が付いた7000系、角ばったしゃたいに締まったような顔立ちが好きでした。東急で引退後も何度か地方で再会しました。中には「東横のれん街」と書かれた吊り革が残っているのもあり、懐かしく思いました。
弘南鉄道は意図的に残してるそうです、経営が大分規模しいそうですがどうなるんでしょうか?
東急と東急車輛はうまくビジネスモデルを構築したと思っております。そのおかげもあって全国各地のローカル私鉄でステンレス電車を見かけますからね。ローコスト化を徹底的に図ることで東急は運賃を抑制したんだからこれってすごい乗客に寄り添った戦略だと思います。
あとは路線と共に街を作った事、沿線に学校や工場を誘致したことで利用者を引っ張ってきたことでしょうか、国鉄や新興3せくみたいに客のあてもなく路線だけ作っても成功しないでしょう。乗客の寄り添ったというとちょっと微妙で大井町線・多摩川線・世田谷線・日比谷線の利用者は他路線の発展と引き換えに大きな不便を被っています。運賃の安さは驚きですが分社化された現在今後も維持できるかどうかは不透明です、現に分社化後に値上げしています。グループに車両メーカーを持っていたのでその宣伝を兼ねて自社線で当時は高価だったステンレス車を積極的に入れてアピールしていたのも先見の明と言えるでしょう。
7200系がありませんぞ。ダイヤモンドカットの正面。編成を柔軟に組めるよう1M方式を採用した事。鉄道線初の一段下降窓。7000系の『パイオニア台車』は簡素化したものがクハのみに採用。アルミ車体の試作車もあった。と 色々と特徴の多い電車でした。8500系には『小田急9000形』のような額縁顔にする案もありました。廃車になった車両も 地方私鉄でまだ現役の物もあり 寿命の長さがわかりますね。
7200系抜けの件、失礼いたしました。抜けていました。オール電動車を1M1Tに仕上げたものですね。
当時の国鉄ではコスト故にやりたくても出来なかった苦悩であり、東急車輛は多くの国鉄型車両を製造しております。自前の路線で最新鋭車両を投入したのは当然のコトだし、自分の地元の国鉄南武線が釣り掛け式旧型72系などが当たり前の1975年頃に溝ノ口から乗り換えての田園都市線のピカピカ✨のステンレス車体の冷房付、フワフワなエアサス、座席もフワフワの8500形のソレはコレが同じ電車なのか?と感銘したモンですし、小田急にも同じイメージありますし、とにかく川崎の南武線沿線住民にしか解らん私鉄への憧れでしたね🥹
ハマ線の利用者も同じ考えを持ったに違いない。鶴見線もかなスピードは京急の半分以下ですから。
@@N--jv3go けど現在はJR私鉄関係なく路線格差なくなって、逆に旧型車両のほうがイイなど人間なんてな勝手なモンで、子供の頃、親に連れられて散々乗った吊り掛けの薄汚れた茶色の旧型南武線時代が妙に懐かしく今年川崎市誕生100周年で思うコトであります🥹
5200系は4輌しか存在しなかったみたいで、中間車み5000系統の緑の車体を挟んだ5輌編成で運転されてた大井町線が懐かしい。これに乗れると今でいうSSR引いた!て感じで喜んでましたね(元沿線住民)
5200+5000X2の6連も短期間東横線で見られています、5連よりは見やすかったと思います、後のQシート編成に引き継がれた感じがします。
そういえばむかしグループ企業の伊豆急線へ夏季の出稼ぎで納車前の旧7000系や7200系が貸し出されて走っていた時期がありましたね。それもいまや8000系が自社の車両として走るとは思いもしませんでしたが。
伊豆急に貸し出された7000系は風の通り抜けが酷いので 扉のない広幅貫通路に 急あつらえのベニヤ板のドアが取り付けられていました。小田急が旧4000形で(吊り掛け式ながら)『パイオニア台車』を採用する際は データ取りの為に7000系2連が貸し出されて小田急線内を試験走行しました。同系は電機品が日立製と東洋製の物があり 日立製の方が高出力でそちらが東横線の急行。東洋製が日比谷線直通運用に主に使われました。
@@toriri-service さま。いかに急ごしらえだったかは、貫通ドアが住宅用の開き扉で開きっぱなしにならないように建材用ドアクローザーが付いていたことでわかりますね。
@@toriri-serviceさん 7000系の日立製は東洋製と比較して明らかに力強いモーター音を出していた覚えがあります。日比谷線直通用はまだ未更新車があって、室内が首振り扇風機ではなく吸気送気兼のファンデリアだった事も。
3600系も応援で言っていましたが古い通勤車両なので評判は良くなかったそうです、この中でも3612+3780の2連は後に弘南鉄道に移っていますので東急紺+黄色、伊豆急カラー、東急緑、弘南カラーを纏ったことになります。
@@toriri-service 小田急を走ったのは7019+7020編成です、東洋車でした。
営団の3000系や都営の6000形などセミステンレス車も案外長持ちしましたね。鋼体のフレームがステンレスとの電位差で錆びやすくなると言われてましたが、それなりには絶縁が上手くいってたのかな。
東急で一番憶えているのが初代7000系で、日比谷線にも入線しており同線沿線内でもモーター音を聞いたのをよく憶えてます。その後東横線本線は86年4月から20m車に統一され18mの7000系は日比谷線直通車にその座を譲る事になりますが、東横日比直通車両も2代目1000系に置き換える事になり、2013年3月に東横日比直運用は終了しファンからはメトロ13000系限定で東横日比直復活要望が在りますが、残念ながら相鉄直通運転の関係で復活の目処も無さそうです。
旧6000系をVVVF改造した車両が、大井町線緑が丘駅で故障して、なかなか復旧せず、隣の自由が丘駅まで歩いたのが懐かしい。
この後に池上線で7700系3連余剰中間車を集めて作った7915編成もあまり走っていなかったように思えます。
当初から目蒲3線(目蒲、池上、大井町)を目論んだ1M型の7200もありますね〜
車幅が少し狭く作られているのは昭和末期まで限界が狭かった池上線(大井町線は長津田延長前に変更)に入れるようにするためだったそうです。
ステンレスがえると湯たんぽカッコイイなぁ〜、あと一瞬だけ映った食パンとサンパチもたまらんよ
では持ち込み企画第6弾『西武所沢車両工場製の電車と 昭和の西武電車を振り返る』所沢駅の西口に かつて存在した『西武所沢車両工場』大手私鉄では珍しい 自社の車両を製造する為の工場で 昭和の西武電車の殆んどがここで製造されて活躍した。他にも 地方私鉄向けの車両の製造や改造・西武バス車両の整備・ 日野自動車のダンプトラックの架装・朝日ヘリコプターの機体整備と数多くの業務がこなされていた。2000年に操業を終えてから20年以上が経ち 今は広大な空き地となっている跡地を 昨年所沢市が再開発すると発表。ここに車両工場があった事は 次第に記憶の彼方となりつつあるが ここから生まれた西武電車や地方私鉄向けの車両を改めて振り返る。始まりは『ヤケ電』の復旧から「自らの手で 電車を動かせる工場を作れ!」という社長 堤康次郎の号令のもと 1946年9月 復興社(現 西武建設)保谷車両工場が発足。同年11月には 所沢車両工場も発足し 保谷では電気関係部品の 所沢では車両関係の補修が行われた。当初 所沢の工場は 後に所沢車両管理所となる 駅の東側に存在したが 同じ頃 旧陸軍立川航空工廠所沢支廠跡地の払い下げを連合国側に働きかけ 1947年1月より建物・設備を借り受けて(新)所沢車両工場は 本格的に稼働を開始した。当初は 在来形の車両の整備を行っていたが 後に戦災を受けた国電 いわゆる『ヤケ電』の復旧整備で車両の製造を開始した。西武では 合併前の旧武蔵野・旧西武の車両に戦災を受けた物は奇跡的に存在しなかったものの 戦時中の酷使や不十分な整備と部品不足で 稼働可能な車両は少なく 他社同様に 終戦後に爆発的に激増した乗客を捌く為の車両が深刻に少ない状況だった。東武や大東急では 運輸省から63形の割当を受けてこれを凌いだが 西武では 車両の増備が運輸省の統制下に置かれ 尚且つ導入した63形と同数の在来形を地方私鉄に供出するという条件を嫌ってこれを辞退。代わりに目を付けたのが『ヤケ電』であった。当時 蒲田・池袋・津田沼といった首都圏の電車区には 戦災を受けて屋根材や床材といった木部は焼け落ちて骨組みだけとなり 焼け残った外板も熱で爛れて歪みまくった いわば電車の『骸骨』『屍』が ある所では纏めて留置され ある所では無造作に積み上げられていた。これらを修復すれば 運輸省の縛りを受ける事なく車両の増備が可能となる。1946年には早くも戦災復旧車が 311系として登場。注目すべきはその登場時期で 他社でも戦災復旧車はあったものの それらが登場したのは1948年からで 西武は2年も早かった。これは いち早く社員をスクラップが転がる国鉄電車区に向かわせて なるべく状態の良い『ジャンク品』を選び 押さえておいた為と思われ それが社長の指示であったならば 流石は堤康次郎である。 工場業務を開始するにあたっては かつて国鉄の大井工場や大宮工場で 国電車両の製造に携わった社員を大量に雇い入れて 社員として所沢車両工場に迎え入れ 技術の習得にも努めた。車両の復旧の過程では その時に調達出来た種車の関係から ペアとなるクハ車が足りなくなる事もあり その場合は国鉄より 廃車となった木造国電の台枠を譲受して それをベースに復旧車と同じ物を『デッドコピー』した車体を新たに拵えて解決。それも 国鉄から職員を雇い入れたからこそ出来た事である。ヤケ電の復旧と共に 旧型国電の中古の台車・主電動機・制御装置といったパーツも国鉄から大量に仕入れたが これらが後の西武の車両製造に深く関わっていくことになる。以下 つづく
つづき見せかけだけの新車1954年 戦後初のオリジナル新車『初代501系』が登場。電動車が17M 付随車が20Mという変則的な組み合わせの半鋼製車体ながら 流行の湘南顔の前面にノーシルノーヘッダーの平滑でスマートな外観。室内は西武初の車内放送装置・蛍光灯照明の採用と 白に近い淡いピンクに塗られた内装にエンジ色のシートモケットという 当時の国鉄『特ロ』と同じ配色で スマートで明るい車内の電車は『新生西武』をアピールした。(社内的には『ユネスコ電車』と呼ばれていた。)が 下回りは 戦前形国電の中古品だった。その後 1957年には 電動車も20Mとなり 車体も軽量鋼体の全金属製となった『2代目501系』。1959年には 製造上の工夫で 更に車体重量が軽くなり 両開き扉も初採用した『国電顔』の『451系』。1961年には 451系を基本に前面を 初の細ピラー2枚窓の『西武流湘南顔』とし 側扉を軽量アルミハニカムドアとした『551系』と 新形式登場のたびに車体に関しては何らかの『アップデート』が加えられて来たが 足回りに関しては戦前形国電の中古品が使われ続けた。1961年の時点では 大手私鉄他社では意欲的なカルダン駆動の電車が続々と登場しており それどころか当時は 準大手私鉄の相鉄や 秩鉄・長電といった中小私鉄の電車でも カルダン駆動を採用した物があり 例え吊り掛け駆動であっても戦後製の新型台車を履いた物も多く 大手私鉄ながらカルダン駆動車を全く持たず 足回りは国電の中古品を用いた西武は 技術面で完全に遅れていた。車体に関してだけは 他社並みの軽量構造の近代的な物が載せられていたが これとて乗客へのサービス以外に 元々は17M車体が載っていた足回りに20Mの車体を載せる為の重量増を相殺する意味があった。但し 当時の西武にはこうせざるを得ない理由があり 毎年のように激増する乗客を受け止める為の路線インフラがあまりにも貧弱で 池袋線は前身の武蔵野鉄道が赤字経営だった事もあり 終戦の時点で複線化が成されていたのは池袋−保谷のみで ようやく所沢迄複線が伸びたのは だいぶ後になった1960年の事だった。それ故 先にそちらの整備を急がねばならず 車両には予算が掛けられなかったのである。だから 他社から見れば『旧型更新車』『車体載せ替え車』でしかない車両を『新車』として増備せねばならなかった。1962年からはようやくカルダン車の時代となり 同年『601系』が 翌年には601系の車体をモデルチェンジした『701系』が登場したが これらカルダン車のクハに履かされた台車も 旧国流用の釣り合い梁台車(TR11)で 特に程度の良い物が選抜され 入念に整備の上装備された。カルダン台車を履いたモハと中古台車のクハではチグハグな外見で 乗り心地にも大きな差があったが 完成した車両を見た堤康次郎は「お前ら 良い仕事をしたな。」と技術陣を褒めたという。1967年の『801系』でクハの台車も新品となったが 赤電時代のカルダン車は吊り掛け式の在来車と併結する都合で マスコンやブレーキ弁も旧国と同じ物が装備されており それだけ見たらとても新性能車の運転台とは思えない代物だった。また これらカルダン車に増結する為の2両編成として1968年迄造られた『411系』も旧国由来の足回りを持つ吊り掛け駆動だった。このような状況故に 利用客や一部ファンからは「西武は輸送力は立派だが 国電の中古部品を使っていて 足ものろい。」と評価されていた。実際その輸送力は大したもので 1963年には 池袋−所沢でラッシュ時に民鉄初の10両編成での運転を開始。また 1959年から1965年迄は『見せかけだけの新車』を増備する傍ら『ヤケ電』ではない 国鉄で本当に使い倒された中古の戦前形国電を譲り受けて『371系』として走らせた。昨今 中古車の導入の可能性を示唆した西武だが 約60年前のこの時 既に中古車を入れていたのである。どちらも『質より量』『乗客がどんどん増え続けている』『車両が足りない』『でも予算がない』という状況を如実に表している。尚 車両技術的には他社に遅れを取っていた当時の西武だが 国電の中古品のパーツで統一されていたが故に 性能はともかくとして『部品の標準化』は成し遂げられており 部品手配のしやすさやメンテナンスコスト低減には大いに役立った。運用面でも ほぼ性能が統一されて 併結相手は形式を気にする事なく自由に編成が組めるというメリットもあった。また 当時は分割・併合する運用も多く 作業を迅速にこなす為に まだ珍しかった『電気連結器』を既にこの時代から採用していた。編成長が伸びると ブレーキも旧式の『自動空気ブレーキ』ながら 電磁弁を付加して応答性を高めた『電磁自動ブレーキ』にアップデートが成されそして 流用した足回りはそのまま装備するのではなく 平軸受は転がり抵抗の少ない『コロ軸受け』(NSKの刻印が入っていた)に全交換の上 入念に整備された後で装備された。また『2代目501系』のクモハが履いていたTR25A台車は 枕ばねをオリジナルの重ね板ばねからベローズタイプの空気ばねに交換「TR25A空気ばね台車」の検索結果 - Yahoo!検索(画像) search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%EF%BC%B4%EF%BC%B2%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%A1%E7%A9%BA%E6%B0%97%E3%81%B0%E3%81%AD%E5%8F%B0%E8%BB%8A#59e0d4aa692b2fee4103fb6d7e3c53b4ボルスタアンカーも取り付けられ これは元々台車に重量があり 軸距も長かった事から その乗り心地は大船(おおぶね)に乗ったような『ゆら~り ゆら~り』といった柔らかくも重厚なもので 後の『101系』(勿論空気ばね台車)よりも良好なものだった。1969年 その『101系』と 初代レッドアロー『5000系』から 在来車との併結を考えない 電磁直通ブレーキを用いた完全な『高性能なカルダン駆動車』となったが 性能と無関係なコンプレッサーは 相変わらず旧国由来のAK−3で 洗練されたレッドアロー号の床下から『ゴンゴンゴンゴン』とクラシカルな作動音が聞こえてくる様子には違和感があった。つづく
つづき国鉄に倣う昭和の西武の電車は『国鉄に倣う』と言われていた。初代と2代目の『501系』は 当時流行の『湘南顔』を採用。他私鉄でも湘南顔は大流行していたが それらの殆んどは 独自のアレンジを加えた『亜流』であった。しかし 鼻筋が通り前面窓下には上下方向に折り目の付いた西武のそれは オリジナルの国鉄80・70系のそれに忠実な形状だった。551系で西武流の細ピラー2枚窓となり 新101・301・3000系で細目の高運転台2枚窓となったが どれも『湘南顔』の流れを組む物である。『451系』は 切妻前面に 3分割窓とおでこに1灯の前照灯。側面の2段窓を2つひと組としたレイアウトは 当時の国鉄101系と類似していて 実際に新車のお披露目に招待された国鉄関係者からは「ウチの101系と似てるなぁ。」と言った声もあったとか。前述したように 1962年に時代の要請からカルダン駆動を採用する事となったが かと言って その為に専用の電機品を新たに設計する程の予算は掛けられない。そこで西武は 国鉄に交渉。後述する 所沢工場の特許発明品『ST式戸閉機構』の使用権を無償で認める代わりに 国鉄初のカルダン台車で(国鉄)101系や近郊形電車に使われていた『DT21台車』を 国鉄の図面のまま住金で製造する許可を取り付けた。(住金で製造した台車の形式はFS342) ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6701%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AIzuhakone_1100_series_006.JPG同時に 当時国鉄の最新型主電動機だった『MT54』も使わせて貰える事となり同年「やっと出たか。」の声を聞きながらそれらのメカをモハに搭載した『601系』が登場。軽快なモーター音を響かせながら快走した。因みに国鉄でMT54を初搭載した165系が登場したのは 1963年に入ってからで 使わせて貰う立場だった西武の方が 本家よりも先にデビューさせた事になる。この『MT54』は 冷房化・電磁直通ブレーキ化された701系列の増結用として 1978年より411系を冷房・カルダン駆動・電磁直通ブレーキ化とアップグレード改造した『401系(2代目)』にも採用され これらは現代のJR東日本の通勤車をベースとした 関東私鉄各社局の『レディメイド』に通ずる物がある。時は流れて 1970年代に入ると「通勤電車にも冷房を!」という時代となり 101系に冷房車が登場したが それ以降西武の通勤電車の冷房装置の象徴だった 三菱電機製『CU72B』集中型クーラーは 国鉄の通勤・近郊形電車用の『AU75』とほぼ同じ物だった。 1977年 新宿線用の新型通勤電車『2000系』が登場したが こちらも意識したのかどうかは不明だが 中央に貫通扉を配置した高運転台パノラミックウィンドウの前面は『東海顔』そのもので『湘南』『国電』『東海』と 戦後の国鉄電車を代表する全ての顔の『そっくりさん』が西武には存在した。
つづきそれライバル会社の物なんですけど1977年 新宿線用の新型通勤電車として6両編成の『2000系』が登場。駅間距離が短い新宿線各駅で ラッシュ時に多数の乗客を捌く為に 初代401系以来の4扉車体を採用。前面は 前述したように貫通扉を有した『東海顔』に類似の形態で 『湘南顔』や『国電顔』の非貫通フェイスと3扉が常識だった当時の西武の電車としては「らしくない」車両だった。機構面でも 高まる省エネの声に応えて『回生ブレーキ付き界磁チョッパ制御』と『電気指令式ブレーキ』を採用。コンプレッサーも 従来のAK−3から 新しいHB−2000に変わり あらゆる意味で新境地を開いた。(後に登場した 2両編成はAK−3)が 採用された界磁チョッパ制御のモーターや制御装置は 東急電鉄の『8000系列』と同じ物で 乗車中に目を閉じると 東横線か田園都市線にでも乗っているように錯覚した。当時世間では ライバルで仲が悪いとされていた東急電鉄の電車のシステムを何故使ったのか?本当は使いたくなかったけど 界磁チョッパ制御のシステムとしては 一番年数が長くて 性能も安定していたから使わせて貰ったのか 或いはその頃は 両社の仲も世間が思う程に悪くはなかったのか そこのところは良くわからない。因みに 2000系が登場した翌々年の79年に 西武は 新101系2両編成を『東急車輌製造』に発注して経済界を驚かせ 同時に それ迄通勤電車に関しては『所沢工場』で内製していた歴史に変化が起きた。これ以降 『東急車輌』へ外注するケースも増えて 所沢工場は 徐々に車両製造の業務を縮小していく。つづく
つづき魔改造もあった個性豊かな 地方私鉄向けの車両『所沢車両工場』は 西武鉄道による西武鉄道の為の車両工場であったが 長らく地方私鉄向けの車両の製造・改造も行っており 主要な業務のひとつでもあった。施工の内容には4種類のメニューがあり これを弁当に例えると梅 西武や他社から手配した車両に 塗色変更程度の軽微な改造のみを施して納品(上毛電鉄 デハ230 クハ30・モハ1101以外の流鉄譲渡車 等)竹 西武や他社から手配した車両のオリジナル車体を生かして 大幅な改造を施して納品。(一畑電鉄 70系 等)松 車体を新造し 中古品の足回りと組み合わせて納品。(三岐鉄道 モハ150・151 等)松の上 車体も下回り機器も全て新製した上で納品。(上信電鉄 200形)個人的に面白いと感じる 魔改造度の高い『竹』から いくつか紹介したいと思う。大井川鉄道 312形電車西武351系を1977年に 譲渡した物。オリジナルの3扉の中扉を埋めて2扉化。 元の扉部分には 他と同じ寸法の側窓が取り付けられた。車内は ロングシートの通勤仕様から 扉間に 5000系レッドアローが座席を簡易リクライニングシートにグレードアップした際に発生した 回転クロスシートを取り付けて『セミクロスシート』となり主に 線内急行用として活躍した。これがja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6351%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8Aこうなったja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6351%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AOigawa312.jpgこれもsearch.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E8%A5%BF%E6%AD%A6351%E7%B3%BB%E8%BB%8A%E5%86%85#4257d34dd992d7a1c44ce7431b5da526こうなったsearch.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E5%A4%A7%E9%90%B5312%E5%BD%A2%E8%BB%8A%E5%86%85#0370d5c17714dacc8447bf3a37dcd169総武流山電鉄 モハ1101形1968年 京急400形が車体を更新した際 要らなくなった旧車体を西武所沢車両工場が買い取り 手持ちの中古品の狭軌台車を履かせた物。車体に関しては 外板を張り替えて ノーシルノーヘッダー化。前面窓は 黒Hゴム支持に 側窓はアルミサッシ化 側扉もステンレスドア化で 無骨な戦前製の車体は大きな窓に面影を残す以外は極めて近代的な外観に『美容整形』された。実際 流山線では元501系の『1200形』が来るまで 一番近代的な外観の車両だった。伊予鉄110系も 同様な改造メニューの車である。これがsearch.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E4%BA%AC%E6%80%A5480%E5%BD%A2#245a4f3b8274fe43239eab4ea1142a56こうなったja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E9%89%84%E6%B5%81%E5%B1%B1%E7%B7%9A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3A%E7%B7%8F%E6%AD%A6%E6%B5%81%E5%B1%B1%E9%9B%BB%E9%89%84%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%8F1101(1986%E5%B9%B4)(m4-2).jpgつづく
つづき関東鉄道 キハ610形国鉄の戦前形をルーツとする キハ42500を 1972年〜1975年に改造したもの。流線型の前頭部は 片運転台化の上 貫通扉を持ち 前照灯もおでこにシールドビーム2灯の『関鉄顔』となった。側面は 中央扉を1300mmの両開き扉化同時に全扉のステップを撤去。 側窓もアルミサッシとなり 車内も 放送装置が取り付けられ 照明は天井中央に 40Wの蛍光灯が7本配置され 明るくなった。勿論 車内はロングシート化されている。Wikipediaには『扇風機は 最後まで取り付けられなかった。』と記載されているが 何度も乗った事がある者から言わせて貰えばこれは誤りで クリアブルーの羽を持つ 西武の非冷房の電車の装備品と同じ 三菱電機製の扇風機が個数は失念したが 少なくとも4つは付いていた。両端に(オリジナルを生かした)狭幅扉 中央に広幅の両開き扉というレイアウトは 他の扉増設車にも用いられ 現在の最新形気動車にも用いられている。これがja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E3%82%AD%E3%83%8F07%E5%BD%A2%E6%B0%97%E5%8B%95%E8%BB%8Aこうなったsearch.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%89%84%E9%81%93%E3%82%AD%E3%83%8F610#b1758d7c1c57920198c7a296e5ccec7e関東鉄道 キハ7551972年3月踏切事故に遭った南海電鉄『きのくに』用のキハ5501を 西武建設が買い取り 転売と言う形で関鉄へ譲渡。その際 塗色変更・トイレやデッキ仕切り 扉ステップの撤去・ロングシート化・ そして排気管が車体中央に立ち上げてある為に 3扉化が出来ず それを避けて 既存の扉の間に1300mmの両開きステンレスドアを2つ増設。日本の気動車初で 現在でも唯一の『4扉通勤形気動車』となった。重いDMH−17エンジンを床下に2つも吊り下げているのに 開口部を増やして(しかも戸袋も増えた)車体強度は大丈夫だつたのか?と心配になるが 1989年に廃車となるまで 車体に関するトラブルはなかった。所沢工場とは無関係だが 同じ2エンジンで元小田急御殿場直通用気動車に外吊り扉を増設した キハ751〜754と共に 『少々ブサイクな 2エンジン車』として 元小田急の電車改造のキクハ・キサハを従えて活躍した。これがsearch.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E5%8D%97%E6%B5%B7%E9%9B%BB%E9%89%84%E3%82%AD%E3%83%8F55#211a65a9c6e58c2f32acec753bcb526cこうなったsearch.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&fr=yjapp3_and_wv&p=%E9%96%A2%E9%89%84%E3%82%AD%E3%83%8F755&aq=-1&ai=552a70f8-c4b5-407a-b0fe-accbea4b1448&ts=13672&aa=0#53d08d10f2cb065dbb9cf1873eb5e441つづく
キリツマコレクションに営団5000系が入っていますが、営団5000系は緩い折妻ですよ。
東急車両はステンレス車、川崎重工はアルミ車を日本で初めて導入し、車両の長寿化に貢献しましたね。アルミは軽量化出来ますが、ステンレスに比べ加工が難しく、汚れが付きやすい欠点があることから、日本ではステンレス車の方が普及しました。
ありがとうございます。川重はアルミ合金などが主流でした。JR西日本の207とか223はアルミですね
東急も アルミ車体の可能性を探るべく7200系には『アルミ車体試作車』(デハ7200+クハ7500)もあり クハは東急で一番軽い電車でした。結局は『軽量ステンレス』になりましたけどね。
@@toriri-service 東急はアルミ車にも挑戦していましたね。余談ですが、総合車両製作所の鉄道むすめの名前が、金沢あるみはおかしいと思います。
鉄道むすめって地方鉄道のマスコットと思ったら総合車両製作所にもあるのですね、金沢あるみ は ちょっと変 ですね。金沢サスティーナの方がカッコいいですがキャラクターが外人ですね
@@heitetsu4649 日本人とイギリス人のハーフみたいな設定になりそうですね。
このステンレス車両の製造技術がJR東日本に移転され東急車両自体がJR東日本に売却されて総合車両製作所になったのは皮肉な話です。
令和になるギリギリくらいまで、7200の更新版が東急で現役だったんだよなぁ・・・
普通鋼製の車両に比べると、ステンレス鋼製車両は重くなる。しかし、ステンレス鋼には強度があり、普通鋼より板厚を薄くできるので、その結果、普通鋼製車よりも軽量化ができる。ステンレス車両は、価格が5倍くらい高く、硬度も高くて、切削、曲げなどの加工がしにくい欠点もあるが、ステンレス車両は30年以上使ってもまったくサビが出ない。普通鋼製の車両の場合、30年もたつと、腐食した部分にグラインダーをかけるとか、腐食部分を切り取り、新たに鉄板をはめ込むなどの手当ての必要性が生じる。しかし、このように魅力はあるものの、国鉄ではステンレス車の本格的採用を忌避した。ステンレス加工技術のある米国バッド社が、東急とライセンス契約をすでに交わしており、煩雑になりやすい並行輸入や知的財産権の処理、管理上、1国1ライセンスとなっていたことなどや、また、ステンレス車だと塗装が不要になるため、国鉄労働組合が塗装部門の廃止につながるとして反対した経緯もあったためである。5000(普通鋼製車「アオガエル」「雨ガエル」「グリーン車」)や、その後継の5200(ステンレス車(「湯たんぽ」)「ステンレスガエル」「銀ガエル」)、6000(ステンレス車「湯たんぽ」)などは、私も実際に乗ったが、当時としては、非常に軽く、「未来の乗り物」的なイメージもあった。国鉄の電車とは、全く別の乗り物のようにも感じた。しかしまたその一方で、ときにより、ステンレス車(「銀ガエル」「湯たんぽ」など)については、なぜ側面のプレス加工された波板であるコルゲート板を平らにできないのかと、煩わしく感じたこともあったのを覚えている。実際に、床などの上下の荷重を支える場合には必要だが、外板の場合にあってはコルゲート板は強度面では不要であることが後にわかった。私の着眼は当たった。
地元の小田急は東急と同じく早い時期からステンレスの電車が多かったですよね小田急は1988年登場の1000形が最初のステンレス車でした今は8000形が少し残ってる以外は全部ステンレス車ですね
日本の鉄道車両でセミステンレス車体で登場した5200系、後に東急電鉄で初めて両開き扉、前面貫通扉を採用して登場した初代6000系さらに後に鉄道車体に革命的なオールステンレス車両、初代7000系そして東急電鉄初の20m車体の8000グループに受け継がれた車両
ステンレスは関門トンネルのイメージがありますね。地下鉄だったら、日比谷線と長野。
6000系のモーター音が変だった。ムェェェーな感じ。
7200の説明がまったくないという。あと、8090説明で24%軽量化で2tっておかしいぞ。
7200系は?
8500系も秩父鉄道で走っておるぞ。
最後の企画持ち込みに名前を入れていただきありがとうございました。企画したのはほとんど6000系でしたが。6000系はわずか20両のため取り上げられることが少ないけど、意外と興味深いので企画提案しました。動画にはなかったけど、8500系も真っ青な超爆音モーターでした。ちょっとでも、こんな車両もあったと知っていただけたら幸いです。
こちらこそ、企画提案ありがとうございます。ほかのコメントの通り7200系が抜けてしまいましたが、6000系に少しでもスポットライトをあてるようにいたしました。動画の6000系は弘南鉄道に留置されていたものです。8500系の爆音モーターの動画があまりなかったので長電の8500の紹介になりました。また今後とも何卒よろしくお願いいたします。
結局東急車輌が205系でオールステンレスの車両製法を公開するまで(東急車輌が國鉄に恐喝ゲフンゲフンもとい忖度させられた愚痴話はピクトリアルに詳しい)他社はセミステンレスどまり(まぁ川重(川車・汽車)以外は積極的では無かったけど。)。BUDDとのパテント云々もあったのだとは思いますが。
8:21 営団5000は、切妻ではありませんね。微妙に立体です💦
汽車会社ですけども、関西でも走ってました、グリーン車のサロ110系900番代(サロ153系900番代)は、スキン・ステンレスでしたね。あと、キリツマ・コレクションに、旧大阪市営地下鉄の30系・60系・旧20系一党も含めてください。個人的に馴染みが深いもので。
川車(汽車)は山陽2000とか阪神5201とかちょこちょこ作ってましたね。(なぜか関西はアルミ車が主流になりましたが)
@@ひるのいこい さま。結局川車は当時の西ドイツ企業からパテントを買ってアルミ車体に特化していきましたね。そういえば阪神5201・2の台車も素材がステンレス製だと、昔どこかで読んだことがあったんですが、どうなんでしょうね。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN さま KS-50(汽車会社)系列はほとんど試作台車のオンパレードのようなもので,京阪技術陣と悪だく…ゲフンゲフン 1系列のみの空気バネ台車とかいろいろあったと思います。確か私もステンレスと読んだことが有りますが。引っ越しの際私鉄電車のアルバム(交友社)処分したのが悔やまれます。
面白すぎ鉄道ビジネスカジュアル最高
7200系が抜けてます
元沿線住民としてとても懐かしく拝見しました。
一つだけ
ダイヤモンドカットの7200系はどうしたのでしょう?
8000系の軽量試作車(8090系の始祖)にも触れられていない。
7200系が抜けていますぞい。
個人的には初代7000系の改造前のカルダン駆動方式のモーター音が一番好きです(歳バレ)
停車寸前に 回生ブレーキのモーター音が「フッ」と抜けるところとか。
早いが暑い急行(7000系)か、遅いが涼しい各停(8000系)かどちらかでしたね。朝ラッシュ以外は急行の1本後の各停が終点まで急行から逃げ切るダイヤだったので、当時はこれに好んで乗っていました。一時期、急行の冷房車率を上げるためか、全て先頭車で8両組成された7200系なんてのもありました。
7000系は日比谷線向けの東洋電機の電装品を使用した編成と地上線用の日立電装品を使用した編成に分かれておりモーターの音や加速にかなりの差が見られた。両社の混結は一応可能だったようだが混結時は改正ブレーキを使用していなかったようだ。現在弘南鉄道が東洋=本線、日立=大鰐線、が配置されているので確認することができます。7200系も同様に分かれているがモーター音以外は大きな差は無いようである。
弁当箱の渾名が付いた7000系、角ばったしゃたいに締まったような顔立ちが好きでした。東急で引退後も何度か地方で再会しました。中には「東横のれん街」と書かれた吊り革が残っているのもあり、懐かしく思いました。
弘南鉄道は意図的に残してるそうです、経営が大分規模しいそうですがどうなるんでしょうか?
東急と東急車輛はうまくビジネスモデルを構築したと思っております。そのおかげもあって全国各地のローカル私鉄でステンレス電車を見かけますからね。ローコスト化を徹底的に図ることで東急は運賃を抑制したんだからこれってすごい乗客に寄り添った戦略だと思います。
あとは路線と共に街を作った事、沿線に学校や工場を誘致したことで利用者を引っ張ってきたことでしょうか、国鉄や新興3せくみたいに客のあてもなく路線だけ作っても成功しないでしょう。乗客の寄り添ったというとちょっと微妙で大井町線・多摩川線・世田谷線・日比谷線の利用者は他路線の発展と引き換えに大きな不便を被っています。運賃の安さは驚きですが分社化された現在今後も維持できるかどうかは不透明です、現に分社化後に値上げしています。グループに車両メーカーを持っていたのでその宣伝を兼ねて自社線で当時は高価だったステンレス車を積極的に入れてアピールしていたのも先見の明と言えるでしょう。
7200系がありませんぞ。
ダイヤモンドカットの正面。
編成を柔軟に組めるよう1M方式を採用した事。
鉄道線初の一段下降窓。
7000系の『パイオニア台車』は簡素化したものがクハのみに採用。
アルミ車体の試作車もあった。
と 色々と特徴の多い電車でした。
8500系には『小田急9000形』のような額縁顔にする案もありました。
廃車になった車両も 地方私鉄でまだ現役の物もあり 寿命の長さがわかりますね。
7200系抜けの件、失礼いたしました。抜けていました。オール電動車を1M1Tに仕上げたものですね。
7200系抜けの件、失礼いたしました。抜けていました。オール電動車を1M1Tに仕上げたものですね。
当時の国鉄ではコスト故にやりたくても出来なかった苦悩であり、東急車輛は多くの国鉄型車両を製造しております。自前の路線で最新鋭車両を投入したのは当然のコトだし、自分の地元の国鉄南武線が釣り掛け式旧型72系などが当たり前の1975年頃に溝ノ口から乗り換えての田園都市線のピカピカ✨のステンレス車体の冷房付、フワフワなエアサス、座席もフワフワの8500形のソレはコレが同じ電車なのか?と感銘したモンですし、小田急にも同じイメージありますし、とにかく川崎の南武線沿線住民にしか解らん私鉄への憧れでしたね🥹
ハマ線の利用者も同じ考えを持ったに違いない。鶴見線もかなスピードは京急の半分以下ですから。
@@N--jv3go けど現在はJR私鉄関係なく路線格差なくなって、逆に旧型車両のほうがイイなど人間なんてな勝手なモンで、子供の頃、親に連れられて散々乗った吊り掛けの薄汚れた茶色の旧型南武線時代が妙に懐かしく今年川崎市誕生100周年で思うコトであります🥹
5200系は4輌しか存在しなかったみたいで、中間車み5000系統の緑の車体を挟んだ5輌編成で運転されてた大井町線が懐かしい。これに乗れると今でいうSSR引いた!て感じで喜んでましたね(元沿線住民)
5200+5000X2の6連も短期間東横線で見られています、5連よりは見やすかったと思います、後のQシート編成に引き継がれた感じがします。
そういえばむかしグループ企業の伊豆急線へ夏季の出稼ぎで納車前の旧7000系や7200系が貸し出されて走っていた時期がありましたね。
それもいまや8000系が自社の車両として走るとは思いもしませんでしたが。
伊豆急に貸し出された7000系は
風の通り抜けが酷いので 扉のない広幅貫通路に 急あつらえのベニヤ板のドアが取り付けられていました。
小田急が旧4000形で(吊り掛け式ながら)『パイオニア台車』を採用する際は データ取りの為に7000系2連が貸し出されて小田急線内を試験走行しました。
同系は電機品が日立製と東洋製の物があり 日立製の方が高出力でそちらが東横線の急行。東洋製が日比谷線直通運用に主に使われました。
@@toriri-service さま。いかに急ごしらえだったかは、貫通ドアが住宅用の開き扉で開きっぱなしにならないように建材用ドアクローザーが付いていたことでわかりますね。
@@toriri-serviceさん 7000系の日立製は東洋製と比較して明らかに力強いモーター音を出していた覚えがあります。日比谷線直通用はまだ未更新車があって、室内が首振り扇風機ではなく吸気送気兼のファンデリアだった事も。
3600系も応援で言っていましたが古い通勤車両なので評判は良くなかったそうです、この中でも3612+3780の2連は後に弘南鉄道に移っていますので東急紺+黄色、伊豆急カラー、東急緑、弘南カラーを纏ったことになります。
@@toriri-service 小田急を走ったのは7019+7020編成です、東洋車でした。
営団の3000系や都営の6000形などセミステンレス車も案外長持ちしましたね。
鋼体のフレームがステンレスとの電位差で錆びやすくなると言われてましたが、それなりには絶縁が上手くいってたのかな。
東急で一番憶えているのが初代7000系で、日比谷線にも入線しており同線沿線内でもモーター音を聞いたのをよく憶えてます。その後東横線本線は86年4月から20m車に統一され18mの7000系は日比谷線直通車にその座を譲る事になりますが、東横日比直通車両も2代目1000系に置き換える事になり、2013年3月に東横日比直運用は終了しファンからはメトロ13000系限定で東横日比直復活要望が在りますが、残念ながら相鉄直通運転の関係で復活の目処も無さそうです。
旧6000系をVVVF改造した車両が、大井町線緑が丘駅で故障して、なかなか復旧せず、隣の自由が丘駅まで歩いたのが懐かしい。
この後に池上線で7700系3連余剰中間車を集めて作った7915編成もあまり走っていなかったように思えます。
当初から目蒲3線(目蒲、池上、大井町)を目論んだ1M型の7200もありますね〜
車幅が少し狭く作られているのは昭和末期まで限界が狭かった池上線(大井町線は長津田延長前に変更)に入れるようにするためだったそうです。
ステンレスがえると湯たんぽカッコイイなぁ〜、あと一瞬だけ映った食パンとサンパチもたまらんよ
では持ち込み企画第6弾
『西武所沢車両工場製の電車と 昭和の西武電車を振り返る』
所沢駅の西口に かつて存在した『西武所沢車両工場』
大手私鉄では珍しい 自社の車両を製造する為の工場で 昭和の西武電車の殆んどがここで製造されて活躍した。
他にも 地方私鉄向けの車両の製造や改造・西武バス車両の整備・ 日野自動車のダンプトラックの架装・朝日ヘリコプターの機体整備と数多くの業務がこなされていた。
2000年に操業を終えてから20年以上が経ち 今は広大な空き地となっている跡地を 昨年所沢市が再開発すると発表。
ここに車両工場があった事は 次第に記憶の彼方となりつつあるが ここから生まれた西武電車や地方私鉄向けの車両を改めて振り返る。
始まりは『ヤケ電』の復旧から
「自らの手で 電車を動かせる工場を作れ!」という社長 堤康次郎の号令のもと 1946年9月 復興社(現 西武建設)保谷車両工場が発足。
同年11月には 所沢車両工場も発足し 保谷では電気関係部品の 所沢では車両関係の補修が行われた。
当初 所沢の工場は 後に所沢車両管理所となる 駅の東側に存在したが 同じ頃 旧陸軍立川航空工廠所沢支廠跡地の払い下げを連合国側に働きかけ 1947年1月より建物・設備を借り受けて(新)所沢車両工場は 本格的に稼働を開始した。
当初は 在来形の車両の整備を行っていたが 後に戦災を受けた国電 いわゆる『ヤケ電』の復旧整備で車両の製造を開始した。
西武では 合併前の旧武蔵野・旧西武の車両に戦災を受けた物は奇跡的に存在しなかったものの 戦時中の酷使や不十分な整備と部品不足で 稼働可能な車両は少なく 他社同様に 終戦後に爆発的に激増した乗客を捌く為の車両が深刻に少ない状況だった。
東武や大東急では 運輸省から63形の割当を受けてこれを凌いだが 西武では 車両の増備が運輸省の統制下に置かれ 尚且つ導入した63形と同数の在来形を地方私鉄に供出するという条件を嫌ってこれを辞退。
代わりに目を付けたのが『ヤケ電』であった。
当時 蒲田・池袋・津田沼といった首都圏の電車区には 戦災を受けて屋根材や床材といった木部は焼け落ちて骨組みだけとなり 焼け残った外板も熱で爛れて歪みまくった いわば電車の『骸骨』『屍』が ある所では纏めて留置され ある所では無造作に積み上げられていた。
これらを修復すれば 運輸省の縛りを受ける事なく車両の増備が可能となる。
1946年には早くも戦災復旧車が 311系として登場。
注目すべきはその登場時期で 他社でも戦災復旧車はあったものの それらが登場したのは1948年からで 西武は2年も早かった。
これは いち早く社員をスクラップが転がる国鉄電車区に向かわせて なるべく状態の良い『ジャンク品』を選び 押さえておいた為と思われ それが社長の指示であったならば 流石は堤康次郎である。
工場業務を開始するにあたっては かつて国鉄の大井工場や大宮工場で 国電車両の製造に携わった社員を大量に雇い入れて 社員として所沢車両工場に迎え入れ 技術の習得にも努めた。
車両の復旧の過程では その時に調達出来た種車の関係から ペアとなるクハ車が足りなくなる事もあり その場合は国鉄より 廃車となった木造国電の台枠を譲受して それをベースに復旧車と同じ物を『デッドコピー』した車体を新たに拵えて解決。
それも 国鉄から職員を雇い入れたからこそ出来た事である。
ヤケ電の復旧と共に 旧型国電の中古の台車・主電動機・制御装置といったパーツも国鉄から大量に仕入れたが これらが後の西武の車両製造に深く関わっていくことになる。
以下 つづく
つづき
見せかけだけの新車
1954年 戦後初のオリジナル新車『初代501系』が登場。
電動車が17M 付随車が20Mという変則的な組み合わせの半鋼製車体ながら 流行の湘南顔の前面にノーシルノーヘッダーの平滑でスマートな外観。
室内は西武初の車内放送装置・蛍光灯照明の採用と 白に近い淡いピンクに塗られた内装にエンジ色のシートモケットという 当時の国鉄『特ロ』と同じ配色で スマートで明るい車内の電車は『新生西武』をアピールした。(社内的には『ユネスコ電車』と呼ばれていた。)
が 下回りは 戦前形国電の中古品だった。
その後 1957年には 電動車も20Mとなり 車体も軽量鋼体の全金属製となった『2代目501系』。
1959年には 製造上の工夫で 更に車体重量が軽くなり 両開き扉も初採用した『国電顔』の『451系』。
1961年には 451系を基本に前面を 初の細ピラー2枚窓の『西武流湘南顔』とし 側扉を軽量アルミハニカムドアとした『551系』と 新形式登場のたびに車体に関しては何らかの『アップデート』が加えられて来たが 足回りに関しては戦前形国電の中古品が使われ続けた。
1961年の時点では 大手私鉄他社では意欲的なカルダン駆動の電車が続々と登場しており それどころか当時は 準大手私鉄の相鉄や 秩鉄・長電といった中小私鉄の電車でも カルダン駆動を採用した物があり 例え吊り掛け駆動であっても戦後製の新型台車を履いた物も多く 大手私鉄ながらカルダン駆動車を全く持たず 足回りは国電の中古品を用いた西武は 技術面で完全に遅れていた。
車体に関してだけは 他社並みの軽量構造の近代的な物が載せられていたが これとて乗客へのサービス以外に 元々は17M車体が載っていた足回りに20Mの車体を載せる為の重量増を相殺する意味があった。
但し 当時の西武にはこうせざるを得ない理由があり 毎年のように激増する乗客を受け止める為の路線インフラがあまりにも貧弱で 池袋線は前身の武蔵野鉄道が赤字経営だった事もあり 終戦の時点で複線化が成されていたのは池袋−保谷のみで ようやく所沢迄複線が伸びたのは だいぶ後になった1960年の事だった。
それ故 先にそちらの整備を急がねばならず 車両には予算が掛けられなかったのである。
だから 他社から見れば『旧型更新車』『車体載せ替え車』でしかない車両を『新車』として増備せねばならなかった。
1962年からはようやくカルダン車の時代となり 同年『601系』が 翌年には601系の車体をモデルチェンジした『701系』が登場したが これらカルダン車のクハに履かされた台車も 旧国流用の釣り合い梁台車(TR11)で 特に程度の良い物が選抜され 入念に整備の上装備された。
カルダン台車を履いたモハと中古台車のクハではチグハグな外見で 乗り心地にも大きな差があったが 完成した車両を見た堤康次郎は「お前ら 良い仕事をしたな。」と技術陣を褒めたという。
1967年の『801系』でクハの台車も新品となったが 赤電時代のカルダン車は吊り掛け式の在来車と併結する都合で マスコンやブレーキ弁も旧国と同じ物が装備されており それだけ見たらとても新性能車の運転台とは思えない代物だった。
また これらカルダン車に増結する為の2両編成として1968年迄造られた『411系』も旧国由来の足回りを持つ吊り掛け駆動だった。
このような状況故に 利用客や一部ファンからは「西武は輸送力は立派だが 国電の中古部品を使っていて 足ものろい。」と評価されていた。
実際その輸送力は大したもので 1963年には 池袋−所沢でラッシュ時に民鉄初の10両編成での運転を開始。
また 1959年から1965年迄は『見せかけだけの新車』を増備する傍ら『ヤケ電』ではない 国鉄で本当に使い倒された中古の戦前形国電を譲り受けて『371系』として走らせた。
昨今 中古車の導入の可能性を示唆した西武だが 約60年前のこの時 既に中古車を入れていたのである。
どちらも『質より量』『乗客がどんどん増え続けている』『車両が足りない』『でも予算がない』という状況を如実に表している。
尚 車両技術的には他社に遅れを取っていた当時の西武だが 国電の中古品のパーツで統一されていたが故に 性能はともかくとして『部品の標準化』は成し遂げられており 部品手配のしやすさやメンテナンスコスト低減には大いに役立った。
運用面でも ほぼ性能が統一されて 併結相手は形式を気にする事なく自由に編成が組めるというメリットもあった。
また 当時は分割・併合する運用も多く 作業を迅速にこなす為に まだ珍しかった『電気連結器』を既にこの時代から採用していた。
編成長が伸びると ブレーキも旧式の『自動空気ブレーキ』ながら 電磁弁を付加して応答性を高めた『電磁自動ブレーキ』にアップデートが成され
そして 流用した足回りはそのまま装備するのではなく 平軸受は転がり抵抗の少ない『コロ軸受け』(NSKの刻印が入っていた)に全交換の上 入念に整備された後で装備された。
また『2代目501系』のクモハが履いていたTR25A台車は 枕ばねをオリジナルの重ね板ばねからベローズタイプの空気ばねに交換
「TR25A空気ばね台車」の検索結果 - Yahoo!検索(画像) search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%EF%BC%B4%EF%BC%B2%EF%BC%92%EF%BC%95%EF%BC%A1%E7%A9%BA%E6%B0%97%E3%81%B0%E3%81%AD%E5%8F%B0%E8%BB%8A#59e0d4aa692b2fee4103fb6d7e3c53b4
ボルスタアンカーも取り付けられ これは元々台車に重量があり 軸距も長かった事から その乗り心地は大船(おおぶね)に乗ったような『ゆら~り ゆら~り』といった柔らかくも重厚なもので 後の『101系』(勿論空気ばね台車)よりも良好なものだった。
1969年 その『101系』と 初代レッドアロー『5000系』から 在来車との併結を考えない 電磁直通ブレーキを用いた完全な『高性能なカルダン駆動車』となったが 性能と無関係なコンプレッサーは 相変わらず旧国由来のAK−3で 洗練されたレッドアロー号の床下から『ゴンゴンゴンゴン』とクラシカルな作動音が聞こえてくる様子には違和感があった。
つづく
つづき
国鉄に倣う
昭和の西武の電車は『国鉄に倣う』と言われていた。
初代と2代目の『501系』は 当時流行の『湘南顔』を採用。
他私鉄でも湘南顔は大流行していたが それらの殆んどは 独自のアレンジを加えた『亜流』であった。
しかし 鼻筋が通り前面窓下には上下方向に折り目の付いた西武のそれは オリジナルの国鉄80・70系のそれに忠実な形状だった。
551系で西武流の細ピラー2枚窓となり 新101・301・3000系で細目の高運転台2枚窓となったが どれも『湘南顔』の流れを組む物である。
『451系』は 切妻前面に 3分割窓とおでこに1灯の前照灯。側面の2段窓を2つひと組としたレイアウトは 当時の国鉄101系と類似していて 実際に新車のお披露目に招待された国鉄関係者からは「ウチの101系と似てるなぁ。」と言った声もあったとか。
前述したように 1962年に時代の要請からカルダン駆動を採用する事となったが かと言って その為に専用の電機品を新たに設計する程の予算は掛けられない。
そこで西武は 国鉄に交渉。
後述する 所沢工場の特許発明品『ST式戸閉機構』の使用権を無償で認める代わりに 国鉄初のカルダン台車で(国鉄)101系や近郊形電車に使われていた『DT21台車』を 国鉄の図面のまま住金で製造する許可を取り付けた。
(住金で製造した台車の形式はFS342) ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6701%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AIzuhakone_1100_series_006.JPG
同時に 当時国鉄の最新型主電動機だった『MT54』も使わせて貰える事となり同年「やっと出たか。」の声を聞きながらそれらのメカをモハに搭載した『601系』が登場。
軽快なモーター音を響かせながら快走した。
因みに国鉄でMT54を初搭載した165系が登場したのは 1963年に入ってからで 使わせて貰う立場だった西武の方が 本家よりも先にデビューさせた事になる。
この『MT54』は 冷房化・電磁直通ブレーキ化された701系列の増結用として 1978年より411系を冷房・カルダン駆動・電磁直通ブレーキ化とアップグレード改造した『401系(2代目)』にも採用され これらは現代のJR東日本の通勤車をベースとした 関東私鉄各社局の『レディメイド』に通ずる物がある。
時は流れて 1970年代に入ると「通勤電車にも冷房を!」という時代となり 101系に冷房車が登場したが それ以降西武の通勤電車の冷房装置の象徴だった 三菱電機製『CU72B』集中型クーラーは 国鉄の通勤・近郊形電車用の『AU75』とほぼ同じ物だった。
1977年 新宿線用の新型通勤電車『2000系』が登場したが こちらも意識したのかどうかは不明だが 中央に貫通扉を配置した高運転台パノラミックウィンドウの前面は『東海顔』そのもので『湘南』『国電』『東海』と 戦後の国鉄電車を代表する全ての顔の『そっくりさん』が西武には存在した。
つづき
それライバル会社の物なんですけど
1977年 新宿線用の新型通勤電車として6両編成の『2000系』が登場。
駅間距離が短い新宿線各駅で ラッシュ時に多数の乗客を捌く為に 初代401系以来の4扉車体を採用。
前面は 前述したように貫通扉を有した『東海顔』に類似の形態で 『湘南顔』や『国電顔』の非貫通フェイスと3扉が常識だった当時の西武の電車としては「らしくない」車両だった。
機構面でも 高まる省エネの声に応えて『回生ブレーキ付き界磁チョッパ制御』と『電気指令式ブレーキ』を採用。
コンプレッサーも 従来のAK−3から 新しいHB−2000に変わり あらゆる意味で新境地を開いた。(後に登場した 2両編成はAK−3)
が 採用された界磁チョッパ制御のモーターや制御装置は 東急電鉄の『8000系列』と同じ物で 乗車中に目を閉じると 東横線か田園都市線にでも乗っているように錯覚した。
当時世間では ライバルで仲が悪いとされていた東急電鉄の電車のシステムを何故使ったのか?
本当は使いたくなかったけど 界磁チョッパ制御のシステムとしては 一番年数が長くて 性能も安定していたから使わせて貰ったのか
或いはその頃は 両社の仲も世間が思う程に悪くはなかったのか そこのところは良くわからない。
因みに 2000系が登場した翌々年の79年に 西武は 新101系2両編成を『東急車輌製造』に発注して経済界を驚かせ 同時に それ迄通勤電車に関しては『所沢工場』で内製していた歴史に変化が起きた。
これ以降 『東急車輌』へ外注するケースも増えて 所沢工場は 徐々に車両製造の業務を縮小していく。
つづく
つづき
魔改造もあった
個性豊かな 地方私鉄向けの車両
『所沢車両工場』は 西武鉄道による西武鉄道の為の車両工場であったが 長らく地方私鉄向けの車両の製造・改造も行っており 主要な業務のひとつでもあった。
施工の内容には4種類のメニューがあり これを弁当に例えると
梅 西武や他社から手配した車両に 塗色変更程度の軽微な改造のみを施して納品(上毛電鉄 デハ230 クハ30・モハ1101以外の流鉄譲渡車 等)
竹 西武や他社から手配した車両のオリジナル車体を生かして 大幅な改造を施して納品。(一畑電鉄 70系 等)
松 車体を新造し 中古品の足回りと組み合わせて納品。(三岐鉄道 モハ150・151 等)
松の上 車体も下回り機器も全て新製した上で納品。(上信電鉄 200形)
個人的に面白いと感じる 魔改造度の高い『竹』から いくつか紹介したいと思う。
大井川鉄道 312形電車
西武351系を1977年に 譲渡した物。
オリジナルの3扉の中扉を埋めて2扉化。
元の扉部分には 他と同じ寸法の側窓が取り付けられた。
車内は ロングシートの通勤仕様から 扉間に 5000系レッドアローが座席を簡易リクライニングシートにグレードアップした際に発生した 回転クロスシートを取り付けて『セミクロスシート』となり
主に 線内急行用として活躍した。
これが
ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6351%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A
こうなった
ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6351%E7%B3%BB%E9%9B%BB%E8%BB%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AOigawa312.jpg
これも
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こうなった
search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=%E5%A4%A7%E9%90%B5312%E5%BD%A2%E8%BB%8A%E5%86%85#0370d5c17714dacc8447bf3a37dcd169
総武流山電鉄 モハ1101形
1968年 京急400形が車体を更新した際 要らなくなった旧車体を西武所沢車両工場が買い取り 手持ちの中古品の狭軌台車を履かせた物。
車体に関しては 外板を張り替えて ノーシルノーヘッダー化。
前面窓は 黒Hゴム支持に 側窓はアルミサッシ化 側扉もステンレスドア化で 無骨な戦前製の車体は大きな窓に面影を残す以外は極めて近代的な外観に『美容整形』された。
実際 流山線では元501系の『1200形』が来るまで 一番近代的な外観の車両だった。
伊予鉄110系も 同様な改造メニューの車である。
これが
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こうなった
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つづく
つづき
関東鉄道 キハ610形
国鉄の戦前形をルーツとする キハ42500を 1972年〜1975年に改造したもの。
流線型の前頭部は 片運転台化の上 貫通扉を持ち 前照灯もおでこにシールドビーム2灯の『関鉄顔』となった。
側面は 中央扉を1300mmの両開き扉化
同時に全扉のステップを撤去。
側窓もアルミサッシとなり 車内も 放送装置が取り付けられ 照明は天井中央に 40Wの蛍光灯が7本配置され 明るくなった。
勿論 車内はロングシート化されている。
Wikipediaには『扇風機は 最後まで取り付けられなかった。』と記載されているが 何度も乗った事がある者から言わせて貰えばこれは誤りで クリアブルーの羽を持つ 西武の非冷房の電車の装備品と同じ 三菱電機製の扇風機が個数は失念したが 少なくとも4つは付いていた。
両端に(オリジナルを生かした)狭幅扉 中央に広幅の両開き扉というレイアウトは 他の扉増設車にも用いられ 現在の最新形気動車にも用いられている。
これが
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こうなった
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関東鉄道 キハ755
1972年3月踏切事故に遭った南海電鉄『きのくに』用のキハ5501を 西武建設が買い取り 転売と言う形で関鉄へ譲渡。
その際 塗色変更・トイレやデッキ仕切り 扉ステップの撤去・ロングシート化・ そして排気管が車体中央に立ち上げてある為に 3扉化が出来ず それを避けて 既存の扉の間に1300mmの両開きステンレスドアを2つ増設。
日本の気動車初で 現在でも唯一の『4扉通勤形気動車』となった。
重いDMH−17エンジンを床下に2つも吊り下げているのに 開口部を増やして(しかも戸袋も増えた)車体強度は大丈夫だつたのか?と心配になるが 1989年に廃車となるまで 車体に関するトラブルはなかった。
所沢工場とは無関係だが 同じ2エンジンで元小田急御殿場直通用気動車に外吊り扉を増設した キハ751〜754と共に 『少々ブサイクな 2エンジン車』として 元小田急の電車改造のキクハ・キサハを従えて活躍した。
これが
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こうなった
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つづく
キリツマコレクションに営団5000系が入っていますが、営団5000系は緩い折妻ですよ。
東急車両はステンレス車、川崎重工はアルミ車を日本で初めて導入し、
車両の長寿化に貢献しましたね。
アルミは軽量化出来ますが、ステンレスに比べ加工が難しく、
汚れが付きやすい欠点があることから、日本ではステンレス車の方が普及しました。
ありがとうございます。川重はアルミ合金などが主流でした。JR西日本の207とか223はアルミですね
東急も アルミ車体の可能性を探るべく
7200系には『アルミ車体試作車』(デハ7200+クハ7500)もあり クハは東急で一番軽い電車でした。
結局は『軽量ステンレス』になりましたけどね。
@@toriri-service
東急はアルミ車にも挑戦していましたね。
余談ですが、総合車両製作所の鉄道むすめの名前が、
金沢あるみはおかしいと思います。
鉄道むすめって地方鉄道のマスコットと思ったら総合車両製作所にもあるのですね、金沢あるみ は ちょっと変 ですね。
金沢サスティーナの方がカッコいいですがキャラクターが外人ですね
@@heitetsu4649
日本人とイギリス人のハーフみたいな
設定になりそうですね。
このステンレス車両の製造技術がJR東日本に移転され東急車両自体がJR東日本に売却されて総合車両製作所になったのは皮肉な話です。
令和になるギリギリくらいまで、7200の更新版が東急で現役だったんだよなぁ・・・
普通鋼製の車両に比べると、ステンレス鋼製車両は重くなる。しかし、ステンレス鋼には強度があり、普通鋼より板厚を薄くできるので、その結果、普通鋼製車よりも軽量化ができる。
ステンレス車両は、価格が5倍くらい高く、硬度も高くて、切削、曲げなどの加工がしにくい欠点もあるが、ステンレス車両は30年以上使ってもまったくサビが出ない。
普通鋼製の車両の場合、30年もたつと、腐食した部分にグラインダーをかけるとか、腐食部分を切り取り、新たに鉄板をはめ込むなどの手当ての必要性が生じる。
しかし、このように魅力はあるものの、国鉄ではステンレス車の本格的採用を忌避した。
ステンレス加工技術のある米国バッド社が、東急とライセンス契約をすでに交わしており、煩雑になりやすい並行輸入や知的財産権の処理、管理上、1国1ライセンスとなっていたことなどや、また、ステンレス車だと塗装が不要になるため、国鉄労働組合が塗装部門の廃止につながるとして反対した経緯もあったためである。
5000(普通鋼製車「アオガエル」「雨ガエル」「グリーン車」)や、その後継の5200(ステンレス車(「湯たんぽ」)「ステンレスガエル」「銀ガエル」)、6000(ステンレス車「湯たんぽ」)などは、私も実際に乗ったが、当時としては、非常に軽く、「未来の乗り物」的なイメージもあった。国鉄の電車とは、全く別の乗り物のようにも感じた。
しかしまたその一方で、ときにより、ステンレス車(「銀ガエル」「湯たんぽ」など)については、なぜ側面のプレス加工された波板であるコルゲート板を平らにできないのかと、煩わしく感じたこともあったのを覚えている。
実際に、床などの上下の荷重を支える場合には必要だが、外板の場合にあってはコルゲート板は強度面では不要であることが後にわかった。私の着眼は当たった。
地元の小田急は東急と同じく早い時期からステンレスの電車が多かったですよね
小田急は1988年登場の1000形が最初のステンレス車でした
今は8000形が少し残ってる以外は全部ステンレス車ですね
日本の鉄道車両でセミステンレス車体で登場した5200系、後に東急電鉄で初めて両開き扉、前面貫通扉を採用して登場した初代6000系さらに後に鉄道車体に革命的なオールステンレス車両、初代7000系そして東急電鉄初の20m車体の8000グループに受け継がれた車両
ステンレスは関門トンネルのイメージがありますね。
地下鉄だったら、日比谷線と長野。
6000系のモーター音が変だった。ムェェェーな感じ。
7200の説明がまったくないという。あと、8090説明で24%軽量化で2tっておかしいぞ。
7200系は?
8500系も秩父鉄道で走っておるぞ。
最後の企画持ち込みに名前を入れていただきありがとうございました。
企画したのはほとんど6000系でしたが。
6000系はわずか20両のため取り上げられることが少ないけど、意外と興味深いので企画提案しました。
動画にはなかったけど、8500系も真っ青な超爆音モーターでした。
ちょっとでも、こんな車両もあったと知っていただけたら幸いです。
こちらこそ、企画提案ありがとうございます。ほかのコメントの通り7200系が抜けてしまいましたが、6000系に少しでもスポットライトをあてるようにいたしました。動画の6000系は弘南鉄道に留置されていたものです。8500系の爆音モーターの動画があまりなかったので長電の8500の紹介になりました。また今後とも何卒よろしくお願いいたします。
結局東急車輌が205系でオールステンレスの車両製法を公開するまで(東急車輌が國鉄に恐喝ゲフンゲフンもとい忖度させられた愚痴話はピクトリアルに詳しい)他社はセミステンレスどまり(まぁ川重(川車・汽車)以外は積極的では無かったけど。)。BUDD
とのパテント云々もあったのだとは思いますが。
8:21 営団5000は、切妻ではありませんね。微妙に立体です💦
汽車会社ですけども、関西でも走ってました、グリーン車のサロ110系900番代(サロ153系900番代)は、スキン・ステンレスでしたね。
あと、キリツマ・コレクションに、旧大阪市営地下鉄の30系・60系・旧20系一党も含めてください。個人的に馴染みが深いもので。
川車(汽車)は山陽2000とか阪神5201とかちょこちょこ作ってましたね。(なぜか関西はアルミ車が主流になりましたが)
@@ひるのいこい さま。結局川車は当時の西ドイツ企業からパテントを買ってアルミ車体に特化していきましたね。
そういえば阪神5201・2の台車も素材がステンレス製だと、昔どこかで読んだことがあったんですが、どうなんでしょうね。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN さま KS-50(汽車会社)系列はほとんど試作台車のオンパレードのようなもので,京阪技術陣と悪だく…ゲフンゲフン 1系列のみの空気バネ台車とかいろいろあったと思います。確か私もステンレスと読んだことが有りますが。引っ越しの際私鉄電車のアルバム(交友社)処分したのが悔やまれます。
面白すぎ
鉄道ビジネスカジュアル最高