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広島在住でしたが、父の実家が鳥取でよく年末年始の帰省で急行チドリを使いました。一畑のバスも時々使いましたがまだ当時は国道54号も田舎道で、特に赤名峠を越えるのが大変な苦行でバス酔いしてしまうので、どちらも結構な時間がかかりますが列車の方が幾分か楽でした。備後落合駅も今と違って結構賑やかで、蒸気機関車も頻繁に行き来するのが見られました。確かスイッチバックの途中あたりに湧き水のポイントがあり、チドリでは乗客サービスなのか駅も何もない場所で暫くの間臨時停車して、乗客も降りて水筒とかに湧き水を汲ませてくれたり車販もあって結構楽しかった思い出がありますね。今では本当に夢のようです。
当時の時刻表を見ると木次線内では通過と停車を繰り返して、ちどり足ならぬ「ちどり停車」と呼ばれた。😅
今は廃業で取り壊されてしまいましたが、2000年頃まで備後落合の駅前に旅館があり、夜行ちどりの発着時まで仮眠客を取っていたそうです。勿論普通に宿泊もできたが、部屋数より客が多いので相部屋で詰め込んでいたとのこと。
新見方面から芸備線最終列車で着いて夜行ちどりで広島方面に行く客と、広島方面から夜行ちどりで着いて始発列車で新見方面に行く客がちょうと入れ替わっていたようです。旅館としては、一晩で二度おいしい。深夜帯にもかかわらず、おでんうどんの売店も営業していたようですし、現在の備後落合駅からは想像できません。
1968年までの年末年始に運行されていた臨時夜行ちどりは、大社まで乗り入れていました。しかし1969年以降の臨時夜行ちどりは、行先が大社から米子に変更されました。(※追記→1971年頃には徳山→出雲市や広島〜出雲市を山陽本線・伯備線経由で結んだ夜行かつ客車で運行された臨時のちどり51号が存在したようです。しかし芸備線をまったく経由しないのにも拘らず、急行ちどり号を名乗るのは紛らわしかったようで、翌年の1972年には急行やえがき号に改称されました。)又1959年~1998年までの芸備線のスキー列車を記しておきます。※臨時列車のため列車運転日が異なります。そのためすべての列車が同一の日に運転されることはありませんでした。又快速の表記は文字数節約のため基本的に省略しています。「と」が一つの区切りとなります。例→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と広島~三井野原2往復→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原銀嶺号 広島~三井野原2往復 急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と広島~三井野原2往復と福山~三井野原と徳山~三井野原→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原銀嶺号 広島~三井野原2往復と快速三井野原銀嶺号 福山~三井野原と快速三井野原銀嶺号 徳山~三井野原1959年→広島~三井野原1961年→広島→三井野原2本・三井野原→広島1本1962年→広島〜三井野原1963年→準急ゆばら号 広島〜津山(市販の時刻表には記載がない臨時列車)と広島~三井野原と福山~三井野原(広島発着に銀嶺号の愛称がつく)1964年→広島~三井野原と福山→三井野原・出雲三成→福山と備後落合→三井野原2本・出雲三成→備後落合1本1965年→広島~三井野原と福山→三井野原・出雲三成→福山1966年→確認できず(1965年12月号・1966年2月号では確認できず)1967年→急行ちどり銀嶺号 広島~米子と広島→三井野原と福山→三井野原・出雲三成→福山(広島発着の愛称が銀嶺号から名無しに変わる)1968年→広島→三井野原・八川→広島と福山~三井野原(広島発着に三井野原銀嶺号の愛称がつく)1969年→広島~三井野原と福山~三井野原と三原~米子と呉~米子と徳山~米子(福山発着に三井野原銀嶺号の愛称がついたことで大山銀嶺号を除くすべての列車に三井野原銀嶺号の愛称がつく・米子発着には快速大山銀嶺号の愛称がつく)1970年→広島~三井野原2往復と福山~三井野原と徳山~米子1971年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と広島~三井野原2往復と福山~三井野原と徳山~三井野原1972年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と急行道後山銀嶺号 広島~道後山と広島~三井野原2往復と福山~三井野原と忠海~三井野原と小郡~三井野原1973年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原・三井野原→小郡と広島~三井野原1往復と小郡→三井野原・出雲横田→広島と府中→三井野原・三井野原→三次と忠海~三井野原1974年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原1.5往復・三井野原→小郡と広島→三井野原と小郡→三井野原・福山~三井野原1975年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原1往復・三井野原→小郡と急行ヤング大山号 下関→米子・松江→下関と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原1976年→急行三井野原銀嶺号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原1978年→急行三井野原銀嶺号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原1980年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原(快速も三井野原銀嶺号から三井野原スキー号に愛称が変わる。)1982年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原1984年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原1986年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原(急行三井野原スキー号の急行区間が広島~三次に短縮される。)1988年→急行三井野原銀嶺号 三井野原→小郡と急行三井野原・道後山銀嶺号 広島→三井野原と三井野原→広島・小郡→三井野原・福山~三井野原(快速・急行問わず小郡発着が三井野原銀嶺号・広島発着が三井野原・道後山銀嶺号 ・福山発着が三井野原スキー号に愛称整理される。)1989年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島→三井野原と三井野原→広島・福山~三井野原(小郡発着が廃止されたため、広島発着の愛称が三井野原銀嶺号に変更される。又広島発着となったため三次以東でも再び急行運転を行うようになる。)1990年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原スキー号 福山~三井野原1991年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原スキー号 福山~三井野原1992年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原スキー号 福山→三井野原・三井野原→府中1993年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原(急行三井野原銀嶺号の三次~三井野原が快速に格下げされる。)1994年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合1995年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合1996年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合1998年→廃止
2000年頃に急行ちどりに乗っておいて本当に良かったと思います。備後落合始発でしたが😅ボックス席を一人占めしながら広島まで乗りました。
所用でちどり6号に3度乗車している。三井野原出て爆走を始めると目が覚めた記憶がある。岩国始発の名残か、19時台に広島=岩国の気動車運用がかなりの期間 存在した。
深夜もスイッチバックの操作要員とか働いてたんでしょうね。
備後落合の駅前旅館で夜行待ちしましたね当時は中国地方有数のターミナルでした(夜限定)
記録上にはちどり号は確かに実在する。だけど現在の芸備線の特に山間部の状態を見ていると急行列車の往来があった事がにわかには信じられなくなります。
夜行ちどりがあった頃、旧広島市民球場でのナイターが延長になっても余裕で三次まで帰れていた😃懐かしいなぁ😂
小学校の時、岩国~普通列車だったの列車もあったんでグリーン車に乗って行った思いでが あったな〰️
木次線が重要な役割を果たしていた、貴重な期間だったんですね。広島松江を結ぶのは昔は大変だったんだと痛感しました
乗客自分一人で出雲坂根の三段スイッチバックを運転士と一緒に車内を行ったり来たりした想い出。「おでんうどん」食べたかったなあ。
夜行ちどり以外にも木次線はスキー夜行列車の三井野原銀嶺号も多数運転されていたからね少ない線路容量を涙ぐましい工夫で運転していた
「ちどり」という愛称は戦前に何度か行われた列車愛称の一般公募では常に上位に位置していた由緒ある名前でした。他の候補はすべからく特急や新幹線の愛称として活かされましたが「ちどり」だけは地方の急行止まり。今後設定される優等列車には是非「ちどり」の名前が輝くことを願ってます。
ローカル線というイメージが強すぎるんで想像しにくくなっていますが、基本計画には漏れたものの、田中角栄なんかが検討した最初の全国計画では新幹線化まで視野に入っていた路線なんですよね。モータリゼーションを含む様々な要因で今のようになりましたけど。
松江~広島で何度か乗ったけど、勾配区間は自転車並みのスピードで走っていたな。二度も進行方向が変わる上にスイッチバックもあるのですごく疲れたな。今の時代を考えるとあんなところを優等列車が?と思うかもだけど、当時って今より田舎にも人がいたんだよね。
急行ちどりが木次線を行き来していた頃が懐かしいです。昨年11月に奥出雲おろち号が廃止され普通列車しか通らない木次線は存廃の瀬戸際に。
備後落合駅も、現在の閑散ぶりからは考えられないような賑わいを見せていたのが、この頃。あそこは鉄道の要所でもあった。
1979年鳥取に住んでいた頃、広島へ帰省していた友人が鳥取に戻る際に「夜行ちどり」を利用したのだが、何と指定席が満席だったとか。当時の利用率の高さがわかります。
いつも楽しませて下さり有難うございます❤
芸備線と木次線の全盛期を象徴する夜行急行列車。しかもグリーン車自由席付き。国鉄時代は隆盛を誇っていた陰陽ローカル線。冬には「三井野原スキー⛷号」がありました。今や両線とも廃止のピンチ❗備後落合駅は廃駅になる可能性あり。霊夢も好きだったちどり号。
昔は岩国発もあったみたいやな
ただどういう訳か山陽地方と山陰地方って、地理的にも物理的にも近くて遠いイメージが何となく・・・・。
木次線と並行している旧道を見ると。雪の重さでガードレールが曲がったり、折れたりしているので!冬の苦労がわかります。
広島から北に伸びる陰陽連絡線ってないんだよね。だからこのあたりは高速バスが強い。
「東の小海線、西の木次線」で有名な山岳路線。三段スイッチバックは、今や貴重な鉄道産業遺産。急行「ちどり」の夜行列車は知る人ぞ知る名物列車。でも、当時の山陽と山陰とがいかに遠かったのかの証明でもあった。芸備線の区間も含め、この辺は、山で、見どころも多く、登山ができる山や渓谷、自然公園、スキー場なども多いので、知恵を絞れば、何とかなるようにも思うのだが。
芸備線はどうなるんだろうか…10年くらい前に備後庄原駅か東城駅だったか、ホームに「急行やまのゆ」の乗車案内のペンキが残っていました。リクエスト、またいつかの機会に「はんだ」・「あさぎり」など北九州・筑豊方面を走った急行列車に関する動画をお願いします。
夜行ちどりは、米子から普通列車に変わって鳥取まで走ってました。
木次線が廃線になったら、芸備線と山陰本線のアクセスの状態が悪化すると思うから、リバイバル急行ちどりが走ったらすごいかも
木次線のスキー列車懐かしいですねぇ。今では懐かしい語り草。でもこのまま木次線が朽ち果てるのはもったいないし、我慢できません。と言っても私一人で出来ることはただ一つ木次線の気動車に乗ることです。先日やくものラストランの前日に、芸備線新見駅から備後落合経由木次線経由松江駅まで乗りました。私が出来ることは鉄道に乗ることです。また近く旅をします。 9:17
超ローカル線を走る夜行列車とかクセが強いんじゃ…😂
木次線と芸備線のことはよく知っています。かつて山陰と山陽を結ぶ重要路線だった。昔を知っている者には複雑である。お客様が減った原因のひとつに地場産業の衰退が考えられる。また、高速道路網の充実もある。今後のことは簡単に答えは出ないが、地元自治体や地元住民に負担を被せることだけはしないでほしい。
急行みよしなつかしい。
JRでの所要時間が逆に遅くなっているようではおしまいですね。。。
コンパクトでとてもわかりやすい説明 音楽も映像もよく 鉄道の栄枯盛衰に涙🥲冗長RUclipsは辟易 こういうRUclipsを見習って欲しい。
現代に再現して欲しい列車ですね。
全部おろちループのせいだ!!w
4:10のところ出雲八代じゃなくて出雲三成でしょ?
1日(いちにち)が(ついたち)になっている。動画を上げるならしっかりチェックすべきだ。
ご指摘ありがとうございます。概要欄はご覧いただけましたか?そちらにご指摘の内容について記載がありますので、ご視聴の際はどうぞご確認ください。このミスは内容に全く影響せず、正しい読みが容易にわかるため概要欄での訂正としています。ほとんどの視聴者の方にその形でご理解をいただいておりますので、どうぞ事情をご賢察の上、ご理解いただければと思います。
概要欄を読みました。ご迷惑をお掛け致しました。
世の中で、ヴォーカロイドの利用が定着してからかなりの年月が経つというのに未だにこういうクレームをつける人って居るのですね。もし仮に概要欄にお断りがなかったとしてもいい加減、慣れたらいかがですか?
広島在住でしたが、父の実家が鳥取でよく年末年始の帰省で急行チドリを使いました。一畑のバスも時々使いましたがまだ当時は国道54号も田舎道で、特に赤名峠を越えるのが大変な苦行でバス酔いしてしまうので、どちらも結構な時間がかかりますが列車の方が幾分か楽でした。備後落合駅も今と違って結構賑やかで、蒸気機関車も頻繁に行き来するのが見られました。確かスイッチバックの途中あたりに湧き水のポイントがあり、チドリでは乗客サービスなのか駅も何もない場所で暫くの間臨時停車して、乗客も降りて水筒とかに湧き水を汲ませてくれたり車販もあって結構楽しかった思い出がありますね。今では本当に夢のようです。
当時の時刻表を見ると木次線内では通過と停車を繰り返して、ちどり足ならぬ「ちどり停車」と呼ばれた。😅
今は廃業で取り壊されてしまいましたが、2000年頃まで備後落合の駅前に旅館があり、
夜行ちどりの発着時まで仮眠客を取っていたそうです。
勿論普通に宿泊もできたが、部屋数より客が多いので相部屋で詰め込んでいたとのこと。
新見方面から芸備線最終列車で着いて夜行ちどりで広島方面に行く客と、広島方面から夜行ちどりで着いて始発列車で新見方面に行く客がちょうと入れ替わっていたようです。旅館としては、一晩で二度おいしい。
深夜帯にもかかわらず、おでんうどんの売店も営業していたようですし、現在の備後落合駅からは想像できません。
1968年までの年末年始に運行されていた臨時夜行ちどりは、大社まで乗り入れていました。しかし1969年以降の臨時夜行ちどりは、行先が大社から米子に変更されました。(※追記→1971年頃には徳山→出雲市や広島〜出雲市を山陽本線・伯備線経由で結んだ夜行かつ客車で運行された臨時のちどり51号が存在したようです。しかし芸備線をまったく経由しないのにも拘らず、急行ちどり号を名乗るのは紛らわしかったようで、翌年の1972年には急行やえがき号に改称されました。)又1959年~1998年までの芸備線のスキー列車を記しておきます。※臨時列車のため列車運転日が異なります。そのためすべての列車が同一の日に運転されることはありませんでした。又快速の表記は文字数節約のため基本的に省略しています。「と」が一つの区切りとなります。
例→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と広島~三井野原2往復→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原銀嶺号 広島~三井野原2往復
急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と広島~三井野原2往復と福山~三井野原と徳山~三井野原→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原銀嶺号 広島~三井野原2往復と快速三井野原銀嶺号 福山~三井野原と快速三井野原銀嶺号 徳山~三井野原
1959年→広島~三井野原
1961年→広島→三井野原2本・三井野原→広島1本
1962年→広島〜三井野原
1963年→準急ゆばら号 広島〜津山(市販の時刻表には記載がない臨時列車)と広島~三井野原と福山~三井野原(広島発着に銀嶺号の愛称がつく)
1964年→広島~三井野原と福山→三井野原・出雲三成→福山と備後落合→三井野原2本・出雲三成→備後落合1本
1965年→広島~三井野原と福山→三井野原・出雲三成→福山
1966年→確認できず(1965年12月号・1966年2月号では確認できず)
1967年→急行ちどり銀嶺号 広島~米子と広島→三井野原と福山→三井野原・出雲三成→福山(広島発着の愛称が銀嶺号から名無しに変わる)
1968年→広島→三井野原・八川→広島と福山~三井野原(広島発着に三井野原銀嶺号の愛称がつく)
1969年→広島~三井野原と福山~三井野原と三原~米子と呉~米子と徳山~米子(福山発着に三井野原銀嶺号の愛称がついたことで大山銀嶺号を除くすべての列車に三井野原銀嶺号の愛称がつく・米子発着には快速大山銀嶺号の愛称がつく)
1970年→広島~三井野原2往復と福山~三井野原と徳山~米子
1971年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と広島~三井野原2往復と福山~三井野原と徳山~三井野原
1972年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と急行道後山銀嶺号 広島~道後山と広島~三井野原2往復と福山~三井野原と忠海~三井野原と小郡~三井野原
1973年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原・三井野原→小郡と広島~三井野原1往復と小郡→三井野原・出雲横田→広島と府中→三井野原・三井野原→三次と忠海~三井野原
1974年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原1.5往復・三井野原→小郡と広島→三井野原と小郡→三井野原・福山~三井野原
1975年→急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原1往復・三井野原→小郡と急行ヤング大山号 下関→米子・松江→下関と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原
1976年→急行三井野原銀嶺号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原
1978年→急行三井野原銀嶺号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原
1980年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原(快速も三井野原銀嶺号から三井野原スキー号に愛称が変わる。)
1982年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原
1984年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原
1986年→急行三井野原スキー号 三井野原→小郡と広島~三井野原・小郡→三井野原・福山~三井野原(急行三井野原スキー号の急行区間が広島~三次に短縮される。)
1988年→急行三井野原銀嶺号 三井野原→小郡と急行三井野原・道後山銀嶺号 広島→三井野原と三井野原→広島・小郡→三井野原・福山~三井野原(快速・急行問わず小郡発着が三井野原銀嶺号・広島発着が三井野原・道後山銀嶺号 ・福山発着が三井野原スキー号に愛称整理される。)
1989年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島→三井野原と三井野原→広島・福山~三井野原(小郡発着が廃止されたため、広島発着の愛称が三井野原銀嶺号に変更される。又広島発着となったため三次以東でも再び急行運転を行うようになる。)
1990年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原スキー号 福山~三井野原
1991年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原スキー号 福山~三井野原
1992年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原と快速三井野原スキー号 福山→三井野原・三井野原→府中
1993年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合と急行三井野原銀嶺号 広島~三井野原(急行三井野原銀嶺号の三次~三井野原が快速に格下げされる。)
1994年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合
1995年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合
1996年→急行ネコヤマスノーエキスプレス号 広島~備後落合
1998年→廃止
2000年頃に急行ちどりに乗っておいて本当に良かったと思います。備後落合始発でしたが😅ボックス席を一人占めしながら広島まで乗りました。
所用でちどり6号に3度乗車している。
三井野原出て爆走を始めると目が覚めた記憶がある。
岩国始発の名残か、19時台に広島=岩国の気動車運用がかなりの期間 存在した。
深夜もスイッチバックの操作要員とか働いてたんでしょうね。
備後落合の駅前旅館で夜行待ちしましたね
当時は中国地方有数のターミナルでした(夜限定)
記録上にはちどり号は確かに実在する。
だけど現在の芸備線の特に山間部の状態を見ていると急行列車の往来があった事がにわかには信じられなくなります。
夜行ちどりがあった頃、旧広島市民球場でのナイターが延長になっても余裕で三次まで帰れていた😃懐かしいなぁ😂
小学校の時、岩国~普通列車だったの列車もあったんでグリーン車に乗って行った思いでが あったな〰️
木次線が重要な役割を果たしていた、貴重な期間だったんですね。
広島松江を結ぶのは昔は大変だったんだと痛感しました
乗客自分一人で出雲坂根の三段スイッチバックを運転士と一緒に車内を行ったり来たりした想い出。
「おでんうどん」食べたかったなあ。
夜行ちどり以外にも木次線はスキー夜行列車の
三井野原銀嶺号も多数運転されていたからね
少ない線路容量を涙ぐましい工夫で運転していた
「ちどり」という愛称は戦前に何度か行われた列車愛称の一般公募では常に上位に位置していた由緒ある名前でした。
他の候補はすべからく特急や新幹線の愛称として活かされましたが「ちどり」だけは地方の急行止まり。
今後設定される優等列車には是非「ちどり」の名前が輝くことを願ってます。
ローカル線というイメージが強すぎるんで想像しにくくなっていますが、基本計画には漏れたものの、田中角栄なんかが検討した最初の全国計画では新幹線化まで視野に入っていた路線なんですよね。モータリゼーションを含む様々な要因で今のようになりましたけど。
松江~広島で何度か乗ったけど、勾配区間は自転車並みのスピードで走っていたな。二度も進行方向が変わる上にスイッチバックもあるのですごく疲れたな。今の時代を考えるとあんなところを優等列車が?と思うかもだけど、当時って今より田舎にも人がいたんだよね。
急行ちどりが木次線を行き来していた頃が懐かしいです。昨年11月に奥出雲おろち号が廃止され普通列車しか通らない木次線は存廃の瀬戸際に。
備後落合駅も、現在の閑散ぶりからは考えられないような賑わいを見せていたのが、この頃。あそこは鉄道の要所でもあった。
1979年鳥取に住んでいた頃、広島へ帰省していた友人が鳥取に戻る際に「夜行ちどり」を利用したのだが、何と指定席が満席だったとか。当時の利用率の高さがわかります。
いつも楽しませて下さり有難うございます❤
芸備線と木次線の全盛期を象徴する夜行急行列車。しかもグリーン車自由席付き。国鉄時代は隆盛を誇っていた陰陽ローカル線。冬には「三井野原スキー⛷号」がありました。今や両線とも廃止のピンチ❗備後落合駅は廃駅になる可能性あり。霊夢も好きだったちどり号。
昔は岩国発もあったみたいやな
ただどういう訳か山陽地方と山陰地方って、地理的にも物理的にも近くて遠いイメージが何となく・・・・。
木次線と並行している旧道を見ると。雪の重さでガードレールが曲がったり、折れたりしているので!冬の苦労がわかります。
広島から北に伸びる陰陽連絡線ってないんだよね。
だからこのあたりは高速バスが強い。
「東の小海線、西の木次線」で有名な山岳路線。三段スイッチバックは、今や貴重な鉄道産業遺産。
急行「ちどり」の夜行列車は知る人ぞ知る名物列車。でも、当時の山陽と山陰とがいかに遠かったのかの証明でもあった。
芸備線の区間も含め、この辺は、山で、見どころも多く、登山ができる山や渓谷、自然公園、スキー場なども多いので、知恵を絞れば、何とかなるようにも思うのだが。
芸備線はどうなるんだろうか…
10年くらい前に備後庄原駅か東城駅だったか、ホームに「急行やまのゆ」の乗車案内のペンキが残っていました。
リクエスト、またいつかの機会に「はんだ」・「あさぎり」など北九州・筑豊方面を走った急行列車に関する動画をお願いします。
夜行ちどりは、米子から普通列車に変わって鳥取まで走ってました。
木次線が廃線になったら、芸備線と山陰本線のアクセスの状態が悪化すると思うから、リバイバル急行ちどりが走ったらすごいかも
木次線のスキー列車懐かしいですねぇ。今では懐かしい語り草。でもこのまま木次線が朽ち果てるのはもったいないし、我慢できません。と言っても私一人で出来ることはただ一つ木次線の気動車に乗ることです。先日やくものラストランの前日に、芸備線新見駅から備後落合経由木次線経由松江駅まで乗りました。私が出来ることは鉄道に乗ることです。また近く旅をします。 9:17
超ローカル線を走る夜行列車とかクセが強いんじゃ…😂
木次線と芸備線のことはよく知っています。かつて山陰と山陽を結ぶ重要路線だった。昔を知っている者には複雑である。お客様が減った原因のひとつに地場産業の衰退が考えられる。また、高速道路網の充実もある。今後のことは簡単に答えは出ないが、地元自治体や地元住民に負担を被せることだけはしないでほしい。
急行みよしなつかしい。
JRでの所要時間が逆に遅くなっているようではおしまいですね。。。
コンパクトでとてもわかりやすい説明 音楽も映像もよく 鉄道の栄枯盛衰に涙🥲
冗長RUclipsは辟易 こういうRUclipsを見習って欲しい。
現代に再現して欲しい列車ですね。
全部おろちループのせいだ!!w
4:10のところ出雲八代じゃなくて出雲三成でしょ?
1日(いちにち)が(ついたち)になっている。動画を上げるならしっかりチェックすべきだ。
ご指摘ありがとうございます。概要欄はご覧いただけましたか?そちらにご指摘の内容について記載がありますので、ご視聴の際はどうぞご確認ください。
このミスは内容に全く影響せず、正しい読みが容易にわかるため概要欄での訂正としています。ほとんどの視聴者の方にその形でご理解をいただいておりますので、どうぞ事情をご賢察の上、ご理解いただければと思います。
概要欄を読みました。ご迷惑をお掛け致しました。
世の中で、ヴォーカロイドの利用が定着してからかなりの年月が経つというのに
未だにこういうクレームをつける人って居るのですね。
もし仮に概要欄にお断りがなかったとしても
いい加減、慣れたらいかがですか?