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指導方法の変移や優秀な指導者の登場で近年の団体の方が洗練されてて技術的にも上手だけど、この頃の淀工の“心地よい泥臭さ”や“小細工無しのド直球”な感じが大好き。特に大阪俗謡は、この泥臭さが曲の味わいを高めてると思う。
ありがとうございます。この年の三年生は1年のときから、下手くそな年やな!って言われてました。でも練習だけは皆くそ真面目だったので、この曲は先生のご褒美だったのかも知れませんね。
実に思い切った、斬新な選曲。そして、鮮やかな快演!(拍手)幸運にも、1989年の2度目となる演奏は、普門館で、実際に見て聴く事が出来ました。こちらの、1980年の初演となった、記念碑的な演奏を、貴重な映像で視聴させていただき、ありがとうございました。そして、丸谷先生&淀工メンバーの皆さん、本当にありがとう!
これは、ヤバい!淀工の俗謡はいつの時代も変わらへん♪
@@フルタアキラ ありがとうございます。もう45年も経ってしまいました。
後半のピッコロのメロディーは天神祭りや住吉大社の祭りで今でも演奏されています(キーは変更されていますが)、大阪に住むようになって長いですが、実際の祭りのお囃子を聞いて初めてこれが作曲者が表現したかったものかと身に染みました。他の方も仰っているように近年の洗練された演奏もありますが、こういう泥臭さは地元大阪でももう聴けないかもしれません。ボスコフスキー時代のニューイヤーコンサートみたいなものと言えるかもしれません。この数年後の尼崎市吹奏楽団も名演でしたが、同じ泥臭さでもこちらは阪神沿線の泥臭さで微妙に違うのも趣深いです。
コメントありがとうございます。この演奏はやはり高校生なので、自分の表現と言うより丸谷先生がやりたかった表現だと思います。コテコテの大阪弁の発音ですね♫
0:07のテロップの出方が雰囲気あって好きです。今はそんな感じにテロップが出ないですよね。
面白いところに…ありがとうございます。フォントも時代を感じられるものとなってます。まだまだビデオが珍しく、レコード・カセットテープが主流でしたから貴重ですね。
ベルリンフィル、大フィル、そして淀工。今でもこの曲が受け継がれているのはとても凄いですよね。親がこの時は病気になるくらいしんどかったと言っていましたが、それも相まって完成度としては本来の大阪の音、言葉に最も近いものではないかと思いました。1度丸谷先生の振る俗謡を生で聴いてみたかったです。
お父さんがOBなのですね。知ってる方ですよね♫確かに練習はキツかったです。この年の3年生は中学からの経験者は2人だけでしたので音楽を理解する事から大変でした。そのお陰げで今でも楽器が吹く事ができてます。感謝です。
この演奏をレコードで聴きました。当時の顧問が持っていたレコードで初めて聴いた瞬間衝撃を受けたのを思い出しました。それから何十年か経過して大人になって大栗文庫所蔵の楽譜をお借りして演奏しましたがやはり丸谷先生&淀工メンバーの初演が頭に合って中々思うように演奏出来なかった苦い思い出があります。丸谷先生は最後まで現役指導者として素晴らしい功績を残されました。これから何年何十年と過ぎ去っても丸谷先生の偉業は語り継がれると思います。本当にお疲れさまでした。
ありがとうございます。レコード、懐かしいですね。淀工関係者以外で聴いて下さる方がおられる事に吹奏楽の裾野の広さを感じます。まさに公言通り「死ぬまでやる!」の先生でしたが、この頃は"銀賞の淀工"でもがいていました。
現役で高校で吹奏楽やってる者です。最初のトランペットで度肝を抜かれました、、こんなにも何かよく分からない、言葉で表せない感情が湧いてきたのは初めてです。アップロードに感謝します。この演奏、生で聞いてみたかった。
ありがとうございます。もう42年も前になりますが、老人に近づくと最近の事はすぐ忘れるのに、このコンクールの練習は昨日の事の様に浮かびます。高校生だった私には分かりませんが、この曲に対する丸谷先生の想い入れは大きかったと思います。
ありがとうございます。大阪俗謡による幻想曲が話題になる度に検索しても1980年版は出て来なくて、ちょっと悔しいのでアップしました。とても悲しいですが、私の耳朶にはこの頃の元気な先生の声が残っています。
大阪俗謡は,大阪に生まれ育ち,生きる者がもっともよく知っているというようなことを聞いたことがあります。大阪俗謡をコンクールで演奏されるときは,大阪ここに有り!というものを感じるような演奏だったような記憶があります。貴重な動画のアップをしてくださり,ありがとうございます。
ありがとうございます。この頃、コンクールの自由曲としてはアルメニアンダンス全盛期でしたから、一度も取り上げたバンドがない大阪俗謡の選曲は先生の大阪の学校と言う構想があったんだと思います。自由曲の選曲は先生の最大の悩みで、ダフニスとクロエも実際に自由曲として選曲する何年も前から先生の机の本立てにスコアが有りました。
道民です。以前に尼崎市吹奏楽団が札幌で大阪俗謡を演奏したのを会場で聴きました。北海道で様々な団体がこの曲を演奏した機会に触れてきましたが、大阪の人が自然に口にする大阪弁と、北海道の住民が芸人の真似をして喋る似非大阪弁との違いの様な「大阪の住人にしか出せない味わい」を実感しました。自分が参加してた団体は邦人作品を取り上げる事が割りと多かったのですがその体験をして以来、選曲会議で俗謡が上がるたびに「道民には無理だよ…」と反対するようになりました。
昭和55年といえば、自分自身高校2年生で、この演奏は普門館ではないですが、関西大会で聴かせていただきました。思い出は尽きないです。大変貴重な映像をありがとうございました。
同年代の方にコメント戴けるととても嬉しいです。ありがとうございます。当時の淀工はまだまだ無名の男子校でしたから、演奏以外の行動にはとても厳しい先生でした。
最初のテロップの出方が完璧
そうですね。自由曲でも出るところが面白いですね♫
満点を取った年ですよね、貴重な音源、動画ありがとうございます
ありがとうございます。演奏の事はよく分かりませんが、本番前日に先生はご機嫌で「今年は金賞やから♫」って言ってましたが、私らは去年も一昨年も銀やったやん!って思ってました。
コンクールの採点結果は知らないです。この年以降何度も自由曲として選曲してますが、どの年もこの演奏よりすごく上手くて熟成してると感じました。先生の言ってた「落語は何遍もやる!」ですね。
満点を取った俗謡は89年(5金達成の年)じゃないかな?
アップされた方の一学年上の者です。同じ曲を数年後に演奏する事が多い中、この選曲と演奏に感動しました。各個人がソロプレイヤーのように、堂々としていて迫力があるように見えました。この年から金賞の常連になったとおもいます。後輩の皆さんに感謝致します。
ありがとうございます。懐かしいですね。先生が亡くなったのは残念ですが、SNSを通じて再会出来ることは有り難いです。私も還暦と言う事で今出来ることを精一杯やってます♫
これこれ!この演奏全てに彼らの青春と先生の汗が!全国の色を久しぶりに見た感じで!泣けてきた!
自分が生まれた次の年からもう大阪俗謡やってたとはw丸谷先生は本当吹奏楽やるために生まれた人だったんだな~。
ありがとうございます。大阪大会1ヶ月前に突然見たことの無い楽譜を配られて、⁉邦楽にしては馴染みがあり過ぎ。課題曲の花祭りに合わした選曲にしたんだろうな、とぐらいにしか当時は思いませんでしたが、コンクールでこんなにメジャーな曲になるとは。先生の功績ですね。
本当に巧い❗️大変貴重な映像をありがとうございます。演奏した皆さんもそろそろ還暦ですね。私もです😅
アップありがとうございます。同級生が写っているのを見て懐かしく思います。私はフォークソング部でしたが(笑)。ジャンルは違いましたが、同じ音楽をやるものとして丸谷先生率いる吹奏楽部は羨望の対象として強烈に記憶に残っています。
ありがとうございます。淀工は吹奏楽部に限らず部活が盛んな学校でしたから、放課後は賑やかでしたね。丸谷先生は誰カレ関係なく声をかけながら名前を覚える天才で、特に部員はほぼ全員あだ名が付いてました。
ソニーのCD、吹奏楽連盟50周年「全日本吹奏楽コンクール名演集(昭和50年代)」に収録されていまして、何十回と聞いています。この映像が「題名のない音楽会」でも映りましたね。丸谷先生のご冥福をお祈りするとともに、掲載者に感謝申し上げます。
ありがとうございます、とても驚きました。いろいろご存知なんですね。私などより演奏を熟知されていると思います。合奏練習をあるプロの先生にみてもらった時に、「この曲はステレオ感覚がとても面白い」って言われてたのを思い出しました。私は生演奏は聴いた事が無いので分かりませんが、1度は後輩達の演奏を聞きたいものです。
会場で聴いてました。
私が普門館を初めて見た時はイスが大きいなぁ~って感じでした♫
何度もコメント失礼します。たくさんの方がこの映像をご覧になって、コメントをお寄せになっているのを拝見して、改めて丸谷先生の偉大さを感じました。丸谷先生のご功績は、必ずや受け継がれて行くと期待しています。ありがとうございました。
嬉しいコメントありがとうございます。私もアップして良かったと思いました。今でも自転車に乗って学校来て、電気工事の作業服で嬉しそうに指揮してそうですね。
高校2年生、現役吹部生です。またこの演奏を映像付きで見られるなんて思ってもいませんでした。まだ学ランで出てた時代ですね。本当に丸谷先生ほど人徳のある先生はそういないと思います。笑ってコラえてでもその姿を存分に見せて下さりました。理事長になって忖度だ忖度だと言われながらも、よくやってくれたと思います。ようやく理事長を引退してのびのびと指導できるってときに…僕らはずっと丸谷先生のことを忘れません。ご冥福をお祈りします。
ありがとうございます。現役生にも見て戴けるとは嬉しく思います。マーチングの衣装も含めてこの次の年から一新しましたよ。先生が楽器を吹いたのを1度だけ聴きましたが、本当に吹奏楽が好きなんやなぁ♫って純粋に思いました。何とかして音楽を伝えようとする姿勢は昔から変わりませんでした。
アップしてくれてありがとう😊昨日の事の様に思い出しました。
この後の年のものもききましたがこの年の演奏が個人的に一番好きですアップロード感謝します
コメントありがとうございます。当時の練習にはデモ音源を聴く事も無く、ひたすらフレーズのまとまりとつなぎに取り組んでいた様に思います。
当時、高校一年生でこのクラブに入り、丸谷先生に以後、指導受けれたこと、今となっては人生の指針となってます!ご冥福をお祈りします。
先生も若くて血気盛んな頃でとても厳しい指導でしたね。時代もありますが、生徒も言う事を聞かなかった子も多くて大変だったと思います。「楽器取っても通用する人間に…」とよく言ってました。
30数年前に京都大会で演奏しました。確か淀工から譜面を借用して当時販売間もない辻井清幸版の不足する部分を補いました。改めて聴くとゆったりと演奏していますよね。あの時この余裕があればなぁ、としみじみ思いました。
コメントありがとうございます。私は淀工を卒業して以降一度もこの曲を演奏したことがありません。なかなかコンサートでは他の曲との兼ね合いが難しいかも知れませんね。現役の時はただただ必死でしたが、この曲を演奏できた事は幸福でした。
淀工の大阪俗謡を初めて生で聴いた時、その素晴らしさに度肝を抜かれました!私の吹奏楽人生では最高の衝撃体験です!
ありがとうございます。コンクールは課題曲と自由曲の2曲を1年間徹底して磨き上げて素晴らしい演奏を競い合いますが、オハコと呼ばれる自由曲を何度も取り上げて極め尽くす演奏も淀工の魅力にしてしまいましたね。
1980年ってついこの間だったように感じますが、昭和55年なんですね。この演奏も淀工の全国初演でしょうか。丸谷先生も若いですね。。学生も当時は男子ばかりでしたね。それにしても、この当時の高校生はもう大人でしたね^^; みんな老けてる、、、m(_ _)m
コメントありがとうございます。もう42年も前の演奏ですね。スマートフォンどころかガラケーすら無かった時代ですから、先生の影響力がかなり大きかったと思います。
丸谷先生、35歳!
この時で、大阪府連盟事務局長。聞こえはいいけど、実際便利屋。先生にとっては下積み時代です。
めっちゃうまい!!
丸谷先生はこの時はまだ30歳前後ですよね⁉︎それでいてこの全国大会普門館での指揮と名演奏。素晴らしすぎです…
コメントありがとうございます。先生が全国大会で初めて指揮を振ったのは27才の時で、その時の課題曲が「高度な技術への指標」でした。この大阪俗謡は34才だったと思います。
鳥肌…
関西大会聴いててバスドラ一発で大阪のスモッグに煙る広大な空を思い起こさせたのにはたまげた 兵庫高のローマの祭も鬼気迫る迫力 天理が霞んで見えた関西大会でした
コメントありがとうございます。当時をライブで聴いてらしたんですね。ある意味貴重です。フレーズとフレーズをつなげる「糊しろ」と言われるものが無いので、絶妙な間が必要とよく言われましたが、冒頭だけは先生のこだわりなのか、どんな方々がアドバイスされても最初から変わる事は無かったです。
いきなりぶっこいてて草このギャグセンスが大阪魂ってやつか
冒頭についてはどれだけ他の先生のアドバイスを受けても丸谷先生は変えませんでした。
白ブレじゃなくて学ラン!!
東北の全国常連校のOBですが、大阪で強いのはやはり淀工とずっっと思ってます。
ありがとうございます。丸谷先生の後を継いでOB先生が振ってくれてますが、プレッシャーは大変なものだと思います。
なんとも感想が言えないというか、「大阪淀工ここにあり!」みたいな。自分も中学から吹奏楽を始めて卒業生は何人か淀工に行ったりしてたのですがやはり淀工の演奏はパワフルで華があるなと思います。
コメントありがとうございます。この時代は45名の出場枠でしたが、よく音色が明るいって言われてました。クラリネットが鍵になるようです。
@@ko-shiro-m5610 お返事ありがとうございます。明日休みで酔っ払いながら聴いてたのです笑 なんかすみません笑
そういうの好きです。
最後のティンパニーとチャンチキがずれが気になるー、笑
コメントありがとうございます。大阪俗謡を演奏されたのでしょうね。私が気になったのはオーボエとラッパのディビジでしたが…。
やたら冒頭のトロンボーン目立つなしかし
いつ頃からブラボーおじさん(オバサン)は出没したのでしょうか?
この頃にはまだ無かったですね。90年頃からではないでしょうか。現役への応援だと思いますが定着してしまいました♫
実況録音がCDでも発売されるようになった辺りから終演後に無駄に叫ぶバカ(自分の声を入れるのが目的)が急増した、と往年のバンドピープル誌(バンドジャーナルだったかな?)で読んだ記憶があります。
追悼???丸谷先生、亡くなったの?
昨年12月7日に亡くなりました。コロナ禍また家族葬でもあり、秘めやかに行われましたが、学校正門前を通過時には92年アメリフローラ以来好んで振ってたカーペンターズフォーエバーを演奏し送られたそうです。
@@ko-shiro-m5610 そうだったのですね、、学生時代吹奏楽に励んでいた身からしたら、憧れの人で憧れの楽団でした。心よりご冥福を願います。情報、ありがとうございました。
55年だと、大栗先生が肝臓ガンで倒れられる約1年前ですよね。大栗先生が生徒さんを指導されたことがあったんでしょうか。管弦楽版だと終わり付近にトランペットによる装飾的なオブリガードがあるはずですが、管楽器の集まりだから除外されたのでしょう、74年の市音所蔵の楽譜にはこの部分は存在していません。大栗先生の判断でカットされたか、永野慶作氏(当時、市音の団長)の判断からか。でも、朝比奈先生が市音を振られた際にはなかったから、大栗先生の判断だったのでしょう。個人的には管弦楽版ですね。弦楽器がもたらす官能(パトス)や、上方芸能のもつ繊細さと泥臭さが表現されているからだ。ちなみに下駄の音と称されるシロフォンの合いの手は弦楽器によるピッチカートである。オーボエおよびフルートとオーボエで演奏される箇所だが、管弦楽スコアを参考に、クラリネット群による「ピッチカートを真似た発音」はできないだろうか。チャンチキも1尺もある大きいもの(丸谷先生は「すき焼き鍋」とおっしゃっていた)で、コンで皿を叩き、チキチンで皿を擦るように打奏する。鹿の角だと音が軽いので、小さい木槌があっているように思う。「だんじり」の様子を見たことがあるが、大きめの当たり鉦で、木づちを使って迫力をだしていた。天神祭りと生魂さんのお囃子。お囃子には歌詞がついていたらしいが、水の都大阪だなあと思う。チューバで吹いたことあるんですが、高い音が出てきて、結構難しいんですよ。
詳細なコメントありがとうございます。私自身は演奏に専念してましたので曲の深堀は出来ていませんので分からない事が多いです。確かにオーケストラの方が華やかでお祭りの雰囲気がありますね。大栗先生はもうすでに入院されてたので、演奏指導は無かったです。丸谷先生がコンクールの報告に行かれた時に、「曲をカットして申し訳ないです。」と言った時に、大栗先生が、「こっちの方がエエやん!」って返された事を丸谷先生が嬉しそうに言ってました。
テューバは最後一瞬Hi-Dまで出さなければならなかったかと。Low-AからHi-Bまで上下するのはコントラバスならいざ知らず、打楽器が急いてくるので遅れまいと頑張ると走ってしまったり。大変だったと思います。
@@tibetansunfoxtakeyam8755 私は辻井版(シャウニープレス)でしたので、高音Gあたりまでだったかなあ。ティーダで入手できたら、確認します。
指導方法の変移や優秀な指導者の登場で近年の団体の方が洗練されてて技術的にも上手だけど、この頃の淀工の“心地よい泥臭さ”や“小細工無しのド直球”な感じが大好き。
特に大阪俗謡は、この泥臭さが曲の味わいを高めてると思う。
ありがとうございます。この年の三年生は1年のときから、下手くそな年やな!って言われてました。でも練習だけは皆くそ真面目だったので、この曲は先生のご褒美だったのかも知れませんね。
実に思い切った、斬新な選曲。そして、鮮やかな快演!(拍手)
幸運にも、1989年の2度目となる演奏は、普門館で、実際に見て聴く事が出来ました。
こちらの、1980年の初演となった、記念碑的な演奏を、貴重な映像で視聴させていただき、ありがとうございました。
そして、丸谷先生&淀工メンバーの皆さん、本当にありがとう!
これは、ヤバい!
淀工の俗謡はいつの時代も変わらへん♪
@@フルタアキラ ありがとうございます。もう45年も経ってしまいました。
後半のピッコロのメロディーは天神祭りや住吉大社の祭りで今でも演奏されています(キーは変更されていますが)、大阪に住むようになって長いですが、実際の祭りのお囃子を聞いて初めてこれが作曲者が表現したかったものかと身に染みました。他の方も仰っているように近年の洗練された演奏もありますが、こういう泥臭さは地元大阪でももう聴けないかもしれません。ボスコフスキー時代のニューイヤーコンサートみたいなものと言えるかもしれません。この数年後の尼崎市吹奏楽団も名演でしたが、同じ泥臭さでもこちらは阪神沿線の泥臭さで微妙に違うのも趣深いです。
コメントありがとうございます。
この演奏はやはり高校生なので、自分の表現と言うより丸谷先生がやりたかった表現だと思います。コテコテの大阪弁の発音ですね♫
0:07のテロップの出方が雰囲気あって好きです。今はそんな感じにテロップが出ないですよね。
面白いところに…ありがとうございます。
フォントも時代を感じられるものとなってます。まだまだビデオが珍しく、レコード・カセットテープが主流でしたから貴重ですね。
ベルリンフィル、大フィル、そして淀工。今でもこの曲が受け継がれているのはとても凄いですよね。
親がこの時は病気になるくらいしんどかったと言っていましたが、それも相まって完成度としては本来の大阪の音、言葉に最も近いものではないかと思いました。1度丸谷先生の振る俗謡を生で聴いてみたかったです。
お父さんがOBなのですね。知ってる方ですよね♫確かに練習はキツかったです。この年の3年生は中学からの経験者は2人だけでしたので音楽を理解する事から大変でした。そのお陰げで今でも楽器が吹く事ができてます。感謝です。
この演奏をレコードで聴きました。当時の顧問が持っていたレコードで初めて聴いた瞬間衝撃を受けたのを思い出しました。それから何十年か経過して大人になって大栗文庫所蔵の楽譜をお借りして演奏しましたがやはり丸谷先生&淀工メンバーの初演が頭に合って中々思うように演奏出来なかった苦い思い出があります。丸谷先生は最後まで現役指導者として素晴らしい功績を残されました。これから何年何十年と過ぎ去っても丸谷先生の偉業は語り継がれると思います。本当にお疲れさまでした。
ありがとうございます。レコード、懐かしいですね。淀工関係者以外で聴いて下さる方がおられる事に吹奏楽の裾野の広さを感じます。
まさに公言通り「死ぬまでやる!」の先生でしたが、この頃は"銀賞の淀工"でもがいていました。
現役で高校で吹奏楽やってる者です。
最初のトランペットで度肝を抜かれました、、
こんなにも何かよく分からない、言葉で表せない感情が湧いてきたのは初めてです。
アップロードに感謝します。
この演奏、生で聞いてみたかった。
ありがとうございます。
もう42年も前になりますが、老人に近づくと最近の事はすぐ忘れるのに、このコンクールの練習は昨日の事の様に浮かびます。
高校生だった私には分かりませんが、この曲に対する丸谷先生の想い入れは大きかったと思います。
ありがとうございます。
大阪俗謡による幻想曲が話題になる度に検索しても1980年版は出て来なくて、ちょっと悔しいのでアップしました。
とても悲しいですが、私の耳朶にはこの頃の元気な先生の声が残っています。
大阪俗謡は,大阪に生まれ育ち,生きる者がもっともよく知っているというようなことを聞いたことがあります。大阪俗謡をコンクールで演奏されるときは,大阪ここに有り!というものを感じるような演奏だったような記憶があります。貴重な動画のアップをしてくださり,ありがとうございます。
ありがとうございます。この頃、コンクールの自由曲としてはアルメニアンダンス全盛期でしたから、一度も取り上げたバンドがない大阪俗謡の選曲は先生の大阪の学校と言う構想があったんだと思います。自由曲の選曲は先生の最大の悩みで、ダフニスとクロエも実際に自由曲として選曲する何年も前から先生の机の本立てにスコアが有りました。
道民です。
以前に尼崎市吹奏楽団が札幌で大阪俗謡を演奏したのを会場で聴きました。
北海道で様々な団体がこの曲を演奏した機会に触れてきましたが、大阪の人が自然に口にする大阪弁と、北海道の住民が芸人の真似をして喋る似非大阪弁との違いの様な「大阪の住人にしか出せない味わい」を実感しました。
自分が参加してた団体は邦人作品を取り上げる事が割りと多かったのですがその体験をして以来、選曲会議で俗謡が上がるたびに「道民には無理だよ…」と反対するようになりました。
昭和55年といえば、自分自身高校2年生で、この演奏は普門館ではないですが、関西大会で聴かせていただきました。
思い出は尽きないです。
大変貴重な映像をありがとうございました。
同年代の方にコメント戴けるととても嬉しいです。ありがとうございます。当時の淀工はまだまだ無名の男子校でしたから、演奏以外の行動にはとても厳しい先生でした。
最初のテロップの出方が完璧
そうですね。自由曲でも出るところが面白いですね♫
満点を取った年ですよね、貴重な音源、動画ありがとうございます
ありがとうございます。
演奏の事はよく分かりませんが、本番前日に先生はご機嫌で「今年は金賞やから♫」って言ってましたが、私らは去年も一昨年も銀やったやん!って思ってました。
コンクールの採点結果は知らないです。この年以降何度も自由曲として選曲してますが、どの年もこの演奏よりすごく上手くて熟成してると感じました。先生の言ってた「落語は何遍もやる!」ですね。
満点を取った俗謡は89年(5金達成の年)じゃないかな?
アップされた方の一学年上の者です。同じ曲を数年後に演奏する事が多い中、この選曲と演奏に感動しました。各個人がソロプレイヤーのように、堂々としていて迫力があるように見えました。この年から金賞の常連になったとおもいます。後輩の皆さんに感謝致します。
ありがとうございます。
懐かしいですね。先生が亡くなったのは残念ですが、SNSを通じて再会出来ることは有り難いです。私も還暦と言う事で今出来ることを精一杯やってます♫
これこれ!
この演奏全てに彼らの青春と先生の汗が!
全国の色を久しぶりに見た感じで!
泣けてきた!
自分が生まれた次の年からもう大阪俗謡やってたとはw
丸谷先生は本当吹奏楽やるために生まれた人だったんだな~。
ありがとうございます。
大阪大会1ヶ月前に突然見たことの無い楽譜を配られて、⁉邦楽にしては馴染みがあり過ぎ。課題曲の花祭りに合わした選曲にしたんだろうな、とぐらいにしか当時は思いませんでしたが、コンクールでこんなにメジャーな曲になるとは。先生の功績ですね。
本当に巧い❗️大変貴重な映像をありがとうございます。演奏した皆さんもそろそろ還暦ですね。私もです😅
アップありがとうございます。
同級生が写っているのを見て懐かしく思います。私はフォークソング部でしたが(笑)。ジャンルは違いましたが、同じ音楽をやるものとして丸谷先生率いる吹奏楽部は羨望の対象として強烈に記憶に残っています。
ありがとうございます。淀工は吹奏楽部に限らず部活が盛んな学校でしたから、放課後は賑やかでしたね。丸谷先生は誰カレ関係なく声をかけながら名前を覚える天才で、特に部員はほぼ全員あだ名が付いてました。
ソニーのCD、吹奏楽連盟50周年「全日本吹奏楽コンクール名演集(昭和50年代)」に収録されていまして、何十回と聞いています。この映像が「題名のない音楽会」でも映りましたね。丸谷先生のご冥福をお祈りするとともに、掲載者に感謝申し上げます。
ありがとうございます、とても驚きました。いろいろご存知なんですね。私などより演奏を熟知されていると思います。合奏練習をあるプロの先生にみてもらった時に、「この曲はステレオ感覚がとても面白い」って言われてたのを思い出しました。私は生演奏は聴いた事が無いので分かりませんが、1度は後輩達の演奏を聞きたいものです。
会場で聴いてました。
私が普門館を初めて見た時はイスが大きいなぁ~って感じでした♫
何度もコメント失礼します。
たくさんの方がこの映像をご覧になって、コメントをお寄せになっているのを拝見して、改めて丸谷先生の偉大さを感じました。
丸谷先生のご功績は、必ずや受け継がれて行くと期待しています。
ありがとうございました。
嬉しいコメントありがとうございます。私もアップして良かったと思いました。今でも自転車に乗って学校来て、電気工事の作業服で嬉しそうに指揮してそうですね。
高校2年生、現役吹部生です。またこの演奏を映像付きで見られるなんて思ってもいませんでした。まだ学ランで出てた時代ですね。
本当に丸谷先生ほど人徳のある先生はそういないと思います。笑ってコラえてでもその姿を存分に見せて下さりました。理事長になって忖度だ忖度だと言われながらも、よくやってくれたと思います。ようやく理事長を引退してのびのびと指導できるってときに…
僕らはずっと丸谷先生のことを忘れません。ご冥福をお祈りします。
ありがとうございます。
現役生にも見て戴けるとは嬉しく思います。マーチングの衣装も含めてこの次の年から一新しましたよ。
先生が楽器を吹いたのを1度だけ聴きましたが、本当に吹奏楽が好きなんやなぁ♫って純粋に思いました。何とかして音楽を伝えようとする姿勢は昔から変わりませんでした。
アップしてくれてありがとう😊昨日の事の様に思い出しました。
この後の年のものもききましたがこの年の演奏が個人的に一番好きですアップロード感謝します
コメントありがとうございます。
当時の練習にはデモ音源を聴く事も無く、ひたすらフレーズのまとまりとつなぎに取り組んでいた様に思います。
当時、高校一年生でこのクラブに入り、丸谷先生に以後、指導受けれたこと、今となっては人生の指針となってます!
ご冥福をお祈りします。
先生も若くて血気盛んな頃でとても厳しい指導でしたね。時代もありますが、生徒も言う事を聞かなかった子も多くて大変だったと思います。
「楽器取っても通用する人間に…」とよく言ってました。
30数年前に京都大会で演奏しました。確か淀工から譜面を借用して当時販売間もない辻井清幸版の不足する部分を補いました。
改めて聴くとゆったりと演奏していますよね。あの時この余裕があればなぁ、としみじみ思いました。
コメントありがとうございます。
私は淀工を卒業して以降一度もこの曲を演奏したことがありません。なかなかコンサートでは他の曲との兼ね合いが難しいかも知れませんね。
現役の時はただただ必死でしたが、この曲を演奏できた事は幸福でした。
淀工の大阪俗謡を初めて生で聴いた時、その素晴らしさに度肝を抜かれました!私の吹奏楽人生では最高の衝撃体験です!
ありがとうございます。
コンクールは課題曲と自由曲の2曲を1年間徹底して磨き上げて素晴らしい演奏を競い合いますが、オハコと呼ばれる自由曲を何度も取り上げて極め尽くす演奏も淀工の魅力にしてしまいましたね。
1980年ってついこの間だったように感じますが、昭和55年なんですね。
この演奏も淀工の全国初演でしょうか。
丸谷先生も若いですね。。
学生も当時は男子ばかりでしたね。
それにしても、この当時の高校生はもう大人でしたね^^; みんな老けてる、、、m(_ _)m
コメントありがとうございます。
もう42年も前の演奏ですね。スマートフォンどころかガラケーすら無かった時代ですから、先生の影響力がかなり大きかったと思います。
丸谷先生、35歳!
この時で、大阪府連盟事務局長。聞こえはいいけど、実際便利屋。先生にとっては下積み時代です。
めっちゃうまい!!
丸谷先生はこの時はまだ30歳前後ですよね⁉︎
それでいてこの全国大会普門館での指揮と名演奏。
素晴らしすぎです…
コメントありがとうございます。
先生が全国大会で初めて指揮を振ったのは27才の時で、その時の課題曲が「高度な技術への指標」でした。
この大阪俗謡は34才だったと思います。
鳥肌…
関西大会聴いててバスドラ一発で大阪のスモッグに煙る広大な空を思い起こさせたのにはたまげた 兵庫高のローマの祭も鬼気迫る迫力 天理が霞んで見えた関西大会でした
コメントありがとうございます。
当時をライブで聴いてらしたんですね。ある意味貴重です。
フレーズとフレーズをつなげる「糊しろ」と言われるものが無いので、絶妙な間が必要とよく言われましたが、冒頭だけは先生のこだわりなのか、どんな方々がアドバイスされても最初から変わる事は無かったです。
いきなりぶっこいてて草
このギャグセンスが大阪魂ってやつか
冒頭についてはどれだけ他の先生のアドバイスを受けても丸谷先生は変えませんでした。
白ブレじゃなくて学ラン!!
東北の全国常連校のOBですが、大阪で強いのはやはり淀工とずっっと思ってます。
ありがとうございます。
丸谷先生の後を継いでOB先生が振ってくれてますが、プレッシャーは大変なものだと思います。
なんとも感想が言えないというか、「大阪淀工ここにあり!」みたいな。
自分も中学から吹奏楽を始めて卒業生は何人か淀工に行ったりしてたのですがやはり淀工の演奏はパワフルで華があるなと思います。
コメントありがとうございます。
この時代は45名の出場枠でしたが、よく音色が明るいって言われてました。クラリネットが鍵になるようです。
@@ko-shiro-m5610 お返事ありがとうございます。明日休みで酔っ払いながら聴いてたのです笑 なんかすみません笑
そういうの好きです。
最後のティンパニーとチャンチキがずれが気になるー、笑
コメントありがとうございます。
大阪俗謡を演奏されたのでしょうね。私が気になったのはオーボエとラッパのディビジでしたが…。
やたら冒頭のトロンボーン目立つなしかし
いつ頃からブラボーおじさん(オバサン)は出没したのでしょうか?
この頃にはまだ無かったですね。
90年頃からではないでしょうか。現役への応援だと思いますが定着してしまいました♫
実況録音がCDでも発売されるようになった辺りから終演後に無駄に叫ぶバカ(自分の声を入れるのが目的)が急増した、と往年のバンドピープル誌(バンドジャーナルだったかな?)で読んだ記憶があります。
追悼???
丸谷先生、亡くなったの?
昨年12月7日に亡くなりました。
コロナ禍また家族葬でもあり、秘めやかに行われましたが、学校正門前を通過時には92年アメリフローラ以来好んで振ってたカーペンターズフォーエバーを演奏し送られたそうです。
@@ko-shiro-m5610 そうだったのですね、、学生時代吹奏楽に励んでいた身からしたら、憧れの人で憧れの楽団でした。
心よりご冥福を願います。
情報、ありがとうございました。
55年だと、大栗先生が肝臓ガンで倒れられる約1年前ですよね。大栗先生が生徒さんを指導されたことがあったんでしょうか。管弦楽版だと終わり付近にトランペットによる装飾的なオブリガードがあるはずですが、管楽器の集まりだから除外されたのでしょう、74年の市音所蔵の楽譜にはこの部分は存在していません。大栗先生の判断でカットされたか、永野慶作氏(当時、市音の団長)の判断からか。でも、朝比奈先生が市音を振られた際にはなかったから、大栗先生の判断だったのでしょう。
個人的には管弦楽版ですね。弦楽器がもたらす官能(パトス)や、上方芸能のもつ繊細さと泥臭さが表現されているからだ。ちなみに下駄の音と称されるシロフォンの合いの手は弦楽器によるピッチカートである。オーボエおよびフルートとオーボエで演奏される箇所だが、管弦楽スコアを参考に、クラリネット群による「ピッチカートを真似た発音」はできないだろうか。チャンチキも1尺もある大きいもの(丸谷先生は「すき焼き鍋」とおっしゃっていた)で、コンで皿を叩き、チキチンで皿を擦るように打奏する。鹿の角だと音が軽いので、小さい木槌があっているように思う。「だんじり」の様子を見たことがあるが、大きめの当たり鉦で、木づちを使って迫力をだしていた。天神祭りと生魂さんのお囃子。お囃子には歌詞がついていたらしいが、水の都大阪だなあと思う。チューバで吹いたことあるんですが、高い音が出てきて、結構難しいんですよ。
詳細なコメントありがとうございます。私自身は演奏に専念してましたので曲の深堀は出来ていませんので分からない事が多いです。確かにオーケストラの方が華やかでお祭りの雰囲気がありますね。
大栗先生はもうすでに入院されてたので、演奏指導は無かったです。丸谷先生がコンクールの報告に行かれた時に、「曲をカットして申し訳ないです。」と言った時に、大栗先生が、「こっちの方がエエやん!」って返された事を丸谷先生が嬉しそうに言ってました。
テューバは最後一瞬Hi-Dまで出さなければならなかったかと。
Low-AからHi-Bまで上下するのはコントラバスならいざ知らず、打楽器が急いてくるので遅れまいと頑張ると走ってしまったり。
大変だったと思います。
@@tibetansunfoxtakeyam8755 私は辻井版(シャウニープレス)でしたので、高音Gあたりまでだったかなあ。ティーダで入手できたら、確認します。