邪馬台国は九州にあった(台湾大学教授説)

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  • Опубликовано: 25 окт 2024

Комментарии • 128

  • @struts6773
    @struts6773 6 месяцев назад +18

    日本国内で「学者はほぼ畿内説(どや)」とか言ってる人と、畿内説を唱えている学者は本当に間抜けだと思う。

    • @mari-od1ym
      @mari-od1ym 5 месяцев назад +4

      それは国立大学の学者だからです。畿内でないと困るから、炭素年代測定法さえ曲げて箸墓にしたがるのです。国策です。

  • @吉井一穂-i5c
    @吉井一穂-i5c 2 года назад +52

    距離の記述があてにならないことは東夷伝全体を読めばすぐわかるのに、どうしていつまで経ってもそこに固執しているのか。
    台湾大学の教授の意見が妥当かと思う。

  • @河合繁治
    @河合繁治 Год назад +17

    九州説が正しい見解です。

  • @fallen10apple
    @fallen10apple Год назад +11

    吉野ヶ里遺跡で新しい発見が合った今タイムリーな話題ですね

  • @ハッピーセブン-k9i
    @ハッピーセブン-k9i 2 года назад +40

    イトコクの近く
    つまり九州北部のどこかという事です。
    そして九州北部で魏志倭人伝に書かれている70000戸の住居というと筑紫平野のような広大な土地です。

    • @abcdefgsk0401
      @abcdefgsk0401 2 года назад +6

      そうやな。筑紫平野、熊本平野、宮崎平野、ここのどこかやな

    • @kakasiyamadano1010
      @kakasiyamadano1010 Год назад +3

      7万戸の人員確保するには米だけでなく大規模土木工事を連続することが必要です。

    • @ハッピーセブン-k9i
      @ハッピーセブン-k9i Год назад +3

      @@abcdefgsk0401
      筑後平野もあるでしょう?

  • @十蘭コメント
    @十蘭コメント 2 года назад +26

    この見解を、もっと早く知りたかったです。ありがとうございます。 漢字の本場の学者さんに、依頼すれば良かったのです。 何故? 今まで、こんな卑近なアイデアを、誰も気が付かなかったんだろう ?

    • @user-gb3rd6wk7z
      @user-gb3rd6wk7z Год назад +2

      文献だけじゃなくて、考古学的な実物-土器や鏡-が必要だからじゃない?

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      中国は漢字文化圏であっても、歴史という意味ではつながっていない。特に文字は積極的に王朝期のものを排除してきたからね。漢王朝の書体が直接残っているのは日本だけって有様だった、漢字研究そのものが政権批判につながりかねず、むしろ、日本の方が進んでいたのさ。命の危険があるような研究を、わざわざ依頼するわけにもいかなかったんだよ。

  • @takumi1999
    @takumi1999 Год назад +9

    伊都国からそう離れてない場所と考えるのが自然。奴国二万戸と考えると福岡平野、その3倍以上の七万戸となると筑紫平野しかない。背振山地が外敵に対しての城壁代わりにもなる。基肄城(きいじょう)も、福岡平野・筑紫平野が望める場所に有ったので、狼煙等の連絡手段が使えたと思う。「王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)」と考えると、単に城柵で守られている場所と思える。そんな天然の要害と考えると日田盆地は適地。

  • @堀場聡
    @堀場聡 2 года назад +14

    運搬は陸路ではく海路なので距離離れても問題ないです。魏志倭人伝には倭国は30の国がある。って書かれていますが、当時の日本の国数は100以上あり少な過ぎます。
    九州だけで約30の国があり倭国=九州だと推測できます。さらに機内ではない理由は当時の大国だった出雲国と吉備国の名前が出ないのは不思議ですね。瀬戸内海の海路進んだとしても吉備国の南の水路ぐらいは出て来ると思う。

    • @inacpan6706
      @inacpan6706 Год назад +3

      「舊百餘國」は「以前は100以上国があった」なので今の国の数の記述はない。
      「今使譯所通三十國」にて「今は、通訳のいるところは30か国」。今度は今、通訳のいない国の数の記述がない。

  • @okwago
    @okwago Год назад +16

    おもしろい。馬と牛の部分に目をつけるのは非常にいい着眼点。ちなみに畿内へは卑弥呼という役職が徐々に東征して移っていったという説でいいと思う

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      魏の朝貢国(属国)だった邪馬台国は、唐代には負け組扱いを受け、わずかに天皇系を残し消えた、継承されなかったって方が好きだな

  • @MasumiHijirikawa
    @MasumiHijirikawa Месяц назад

    面白いですね。書籍の記録はあくまでも文字で表した文献で勝手に作った可能性もあります。文献から想像するのは自由で面白いです。真実はタイムマシンで2700年過去に戻らないとわかりません。合理的に考えると金印が出てきた場所付近でしょ。アメリカの友人でこの邪馬台国を研究している研究者がいました。話を聞いてあげると「The land of Hyuga facing the Pacific Ocean coordinate:32°07'13.1"N 131°23'04.3"E」と解説していました。

  • @defibrillator100
    @defibrillator100 26 дней назад

    8:55 
    伊都国が外交を担っており、牛馬がないので、邪馬台国がそこから遠く離れた場所にあるはずがない。

  • @チョーさんそれきた
    @チョーさんそれきた Год назад +21

    邪馬台国は九州に有り、その後、大和朝廷は畿内(奈良県)で成立する。一時並存していたと見るのはどうでしょうか。古墳時代に入ると邪馬台国は消滅することになります。邪馬台国=大和朝廷と見るからおかしな話になるのではないですか。

    • @暢宗元
      @暢宗元 Год назад +3

      併存してたと思います。最新のゲノム解析からそうとしか言えません。

    • @チョーさんそれきた
      @チョーさんそれきた Год назад +2

      ご丁寧にもご連絡ありがとうございます。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      朝貢というのはただご挨拶ではなく、臣下の証を示すことだ。誰が覇者かもわからない魏呉蜀時代、魏の朝貢国だった邪馬台国が、まつろわぬ大和朝廷と同じって考える方に無理があるよ

    • @defibrillator100
      @defibrillator100 26 дней назад

      正解!筑紫邪馬台国と出雲吉備連合(ヤマト王権)は並立しており、266年魏が晋に禅譲したのに倣って、台与もヤマト王権(ニギハヤヒ)に禅譲したのではないでしょうか?「復立男王 並受中国爵命」
      それに不満な神武が宮崎から東征してきて、ニギハヤヒのヤマト王権を乗っ取ったと。

  • @sophie2873
    @sophie2873 2 года назад +28

    京大の先生が東大との対抗意識から勝手な説をでっち上げただけの話だと思う。みんなそれに惑わされているだけだよ

    • @北島正隆-d5x
      @北島正隆-d5x Год назад

      兄弟喧嘩ならぬ京大喧嘩・・・・・
      邪馬台国近畿説はもっと根が深い気がします。少なくとも江戸時代。
      ひょっとしたら聖徳太子の遣隋使の頃から
      「ヤマト政権は魏志にある邪馬壱国の流れを汲むものにしよう」という
      思惑があった気もします。

    • @inacpan6706
      @inacpan6706 Год назад +7

      事実の調査に権威を持ち込もうとする発想は愚かです。それは学問ではありません。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад +1

      聞いた話だと、九州説が起きたのは東大だったらしいね。「畿内説だけじゃ面白くない、君、九州説をやりなさい」って感じだったそうだ

    • @taka3399-n6n
      @taka3399-n6n 6 месяцев назад +1

      なぜ東大閥が北部九州説を唱えたか。それは明治以降、国策として大陸進出を計画していた明治新政府が、古代の邪馬台国が中国に臣従していたことを嫌がった。故に邪馬台国は畿内のヤマト王権とは違う九州の地方の女豪族にしたいからだ。

  • @ササアリア
    @ササアリア Год назад +4

    やはり、治めるの意味は行政府だよね

    • @北島正隆-d5x
      @北島正隆-d5x 11 месяцев назад +1

      愛媛県に今治市(いまばりし)があります。
      名前の由来ですが、大化の改新の後にここに国府がおかれました。その付近を道中
      都に近いエリアを道前、遠い方を道後と呼んだそうです。
      今(大化の改新時)の行政府だから今治だと思います。
      別の情報源では、関ヶ原の戦いで藤堂高虎が領地を貰い、今から治めるぞということで
      今治になった説があります。

  • @真弓野崎
    @真弓野崎 2 года назад +15

    やはり、場所はわからないのでしょうか?副官の名前などから推測も?
    日田市で金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土されてます。シャーマンは盆地を好むらしいですね。また東西南北どちらへ行くにもベストな場所ですし。豊の国と呼ばれる大分県です。もっと調べて特集して欲しいです。

  • @寺内-m9d
    @寺内-m9d 4 месяца назад

    まさに伊都国あたりに住んでいますが、
    確かに4〜6世紀ごろの古墳は至る所にありますね。
    それが関係あるかはわかりませんが。

  • @kenohzu5518
    @kenohzu5518 2 года назад +6

    良く台湾の人が熊襲とか知ってるなと思ったけど、むしろ漢文の資料(日本書紀含む)は台湾人の方がネイティブに近い感じで読めるのか…

  • @ササアリア
    @ササアリア Год назад +4

    3世紀前半だと
    九州北部の土器が畿内では殆ど出ない
    舟の存在はあるが、考古学的に交流ありと見るのは岡山や四国西側ぐらいまでだね
    日本海側本州との交流は盛んで、島根や新潟あたりまでか

    • @defibrillator100
      @defibrillator100 26 дней назад

      魏志倭人伝は九州のことしか書いていないことを考え合わせると、ヤマト王権は邪馬台国ではないということになりそうですね。
      「女王国(九州)東渡海千里 複有国皆倭種(本州)」「又有侏儒国(四国)在其南 去女王四千里」

  • @wajin5695
    @wajin5695 2 года назад +9

    魏志倭人伝にある里数は、そこそこ正確だ。伊能研究の野上先生説(2015)に基づくと、周碑算経の一寸千里法で測量したもの。
     夏至南中時の80寸棒の日陰長で緯度を測るが、海峡を跨ぐ場合ほかに手段がない。一寸の日陰長を1000里(短里)とするもので、夏至日前後のズレが分かれば、夏至日同等の修正が可能なので、1班だけで移動しならの測量が可能だ。
     日時計アプリで確認すると、起点の沙里院の日陰長が21.54寸、巨済島南端が15.99寸、この差5.55寸は5550里を意味する。沙里院を起点に南東に345比ピタゴラス三角形の36.8度を当てて、南北距離を1.25倍すると概ね7000里となる。
     この36.8度線上には、他に対馬や壱岐、唐津(末盧国)、天山、宇土市が導線として見えるが、宮崎市は山が続き遠いので見えない。そこで魏志測量班は、西廻り航路で宮崎に向かい、青島で日陰長11.88寸を得て、沙里院との南北距離(9.66寸)に1.25倍した12000里を算出した。青島が36.8度線上にあり、海に接していることを確認し、女王国の果てとした。
     途中、種子島(西表市)に寄り、日陰長10.4寸を測量したようだが、これは紹興市とほぼ同じ緯度で、同じ緯度なら遠くにあっても真東だと判断できる。
    以上、ザックリした説明ですが、短里は76.5m程度なので、googleアースでも確認でき、現代にも残る証拠と言える。

    • @wajin5695
      @wajin5695 2 года назад +2

      @@北島正隆-d5x 返信ありがとうございます。
      一寸千里法は南北はOKですが、東西の距離は測れません。ただ、導線法と併用すれば測れます。精度は0.1寸(2.4mm)が限界とすると100里です。つまり、100里以下の距離は測れないし、76.6mのロープも作れません。(短里は天体観測の時だけの机上の距離)
       導線法の例をGooglアースを使って体験できます。春日部市と浜松市を一直線(導線)に結びます。この導線の途中に富士山頂があります。この2点は子午線に対し36.8度の導線で、お互い富士山は見えますが、相手は見えません。
       ここで、2点の日陰長より南北の距離を得て、1.25倍すれば、直線距離が得られます。余談ですが、藤沢市からは富士山は真西に見えます。藤沢市の日陰長から、富士山までの距離も測れます。(高い山に登らずに距離が測れる)
       話を種子島に戻します。佐多岬から先は、山が平坦で特徴的な岬も見えないのです。そこで、種子島に南下して志布志湾入口を見つけます。青島(又は宮崎神宮)あたりで、伊都国からの南北と東西の距離を積算し、沙里院からの36.8度の導線が陸と海が交差することを確かめたと思います。
       魏は 倭国と九州(女王国)のザックリとした大きさを調査したと思います。(戦略上必要なデータ)
      一寸千里法は、宇宙から見たように都市(城)を配置して縮図を作った。大陸地図では縮図に、長里でグニャグニャ道の実測値を当て、洛陽と沙里院は5000里などと表記し、完成後は短里は不要になった。(倭国は未完成のため、短里が残った)
       以上は 無線通信が無い時代、どう遣って2点間を同時に、しかも夏至日に測量したかを考察をした結果です。

    • @wajin5695
      @wajin5695 2 года назад +1

      @@北島正隆-d5x 76.8cmの車輪は難しいかも。
      一寸千里法は、メートル法と同じ発想なので、1000里(76.6km)の紐を2折4折して1000等分する必要があります。見たことが無い長さを、手頃な長さにするのは無理です。また、指南車は使うたびに、方向をプリセットするので実務は?です、また海峡を跨ぐことはできません。

    • @wajin5695
      @wajin5695 2 года назад +1

      @@北島正隆-d5x 一寸千里法は、すべて直線で、陸上で測量します。南北距離と(目標物の)角度が重要です。
       しかし、345比ピタゴラス三角形(句股術)の角度が相応しいときは、南北に対し36.8度か53.2度の何方かを当てがうと、計算が楽なのです。
      狗邪韓國(巨済島東端)から見ると、対馬・壱岐・呼子・唐津が36.8度上に並びます、
       たしかに、壱岐と末盧国(唐津)の距離は1000里に足りません、疑問の一つです。ここでは狗邪韓國・対馬・壱岐が1000里なので、等分した説を取ります。(この未達距離は、重要でないことは、別途説明します)
       壱岐から1000里は、宗像も該当しますが、伊都國なとの繋がりがイマイチ読めません。測量方法は、宗像(神社)付近の日陰長は、壱岐とほぼ同じなので真東にあると判断できます。対馬と宗像の南北距離を4/3倍すると1000里に近似します。方向が書いてないので、該当範囲です。
       上陸は、事情があって呼子と思います。呼子の真東は偶然にも伊都國(井原遺跡)、奴国(吉武遺跡)、不弥国(岡本遺跡)が、一直線に並び、距離も500里、100里、100里?となります。恐らく、壱岐の岳ノ辻から見て、可也山の裏に伊都國ありの地元情報があれば、距離が測れます。また、八幡岳と千山の間の方向に呼子ありますので、(余談ですが)有明海の宇土と導線が繋がっているのが分かります。

    • @wajin5695
      @wajin5695 2 года назад +1

      重要なことがあります。実は対馬と壱岐は、古代の準構造船では渡航できなかったのです。
       対馬海流は早いので、漂流航法しかできない古代船は、流されて出雲(投馬國)に着きます。このコースは、縄文からの交易ルートで、壱岐に戻る(渡る)には、北九州・宗像を廻る必要があります。この交易ルートを運営していたのが倭国連合なのです。
      出雲からの次々に乗せた交易品は伊都國で検察・税の徴収を受けます。
       
       帯方郡から狗邪韓國、対馬、出雲に着くまでは、地乗り航法が多いので水行20日要すると思われ、出雲から宗像・壱岐・伊都國それから邪馬壹國まで水行10日、途中の曳舟等で陸行1月は妥当でしょう。
       里数は、魏が描く地図を観光案内風に、島の大きさ、方向、距離を説明しているのです。(大島は伊豆の東南30km、という具合)
       以上が里数と日数の関係ですが、観光案内通りに進んだ訳ではないのです。7000里は韓半島、周旋5000里は対馬と九州本島のザックリとした大きさを示すもので、戦略的に重要な情報です。
      伊都國は重要な税関なので、内海の今津かと思われ、宗像は外海なので不適当でしょう。田川説もありますが、あまり奥だと不便なのでどうかなです。
       上陸地点ですが、壱岐で役人が乗込み、呼子で下船、伊都國に走り、外賓の知らせ、免税処置などの手続きをしたと思われます。
       伊都國を過ぎらた、自由行動に近いので、陸行1月を使い、川を遡上して朝倉へ、または田川の邪馬壹國に向かったと思います。以上のように、壱岐と末盧国の距離は大した問題でなかったと思います。

    • @wajin5695
      @wajin5695 2 года назад

      @@北島正隆-d5x 直行でなければ往復できます。壱岐→五島→対馬(又は釜山)、対馬→釜山→勒島→壱岐。卑弥呼の時代には、対馬と出雲を通らない勒島から壱岐に直行する新航路があったのですが、対馬の調査のため、あえて従来コースを選んだようです。
       この新航路が卑弥呼前の倭国争乱の元、更に200年後、勒島より西端から出発する新々航路ができ2回目の倭国争乱が起きたようです。五島も外れ、対馬と出雲は航路は残ったものの、倭国連合から離脱しヤマト政権に合流したようです。

  • @adgjmptw889
    @adgjmptw889 2 месяца назад

    羯出身の後趙や鮮卑出身の北魏のように倭の邪馬臺が漢化したのが大和。
    日本最古の紀年銘鏡である魏の青龍〜正始鏡が畿内に集中してるように畿内が正解。

  • @momota-1953
    @momota-1953 7 дней назад

    邪馬台国は九州北部以外にない。

  • @yo2trader539
    @yo2trader539 2 года назад +7

    邪馬台国の戸数は突出してるので、良田が無いと考えにくい。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      ここでいう「田」は用水路をもった開墾地のことじゃないかな。あくまで農法の違いであって穀物を植えたかは無関係だと思うよ。律令でも稲など五穀を植える「畑」は焼き畑農法で、根菜を育てた「畠(圃)」と区別したからね

    • @ハッピーセブン-k9i
      @ハッピーセブン-k9i 8 месяцев назад +2

      わかりましたよ
      筑後平野でしょう?
      筑後平野なら可能です。

  • @マッシュ-h8c
    @マッシュ-h8c 2 года назад +4

    卑弥呼は最後は日田に住まいがあったのではないかなぁ。

    • @kenn8438
      @kenn8438 2 года назад +3

      進撃の卑弥呼?

  • @cpu_memory_disk_nw_gpu
    @cpu_memory_disk_nw_gpu 2 года назад +7

    邪馬台国は台湾にあったで推してほしかったw

  • @YAMAUCHID
    @YAMAUCHID Год назад

    邪馬台国はここだ!という人に、私はいつも聞いています。
    黒キジが当時住んでいましたか?
    どうですか?

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      黒キジでなく、ヌエ(尾長カラス)では?

  • @ロプノールs
    @ロプノールs Год назад +3

    魏志倭人伝に..倭国は..帯方郡より..12000里の..処に有る。そこへ行くには..帯方郡より..水行7000里→
    狗邪韓国(任那)→1000里、対馬→1000里、壱岐→1000里、松浦(日本到着)。上陸して..伊都国等、
    九州北部を移動。この辺りで帯方郡より..12000里になるので..この九州北部辺りに..倭国は存在していたと
    考えます..。倭国の範囲は徒歩で..東西五ケ月、南北三ケ月 共に海に至るの記述が有るので..西北の海から
    水行二十日で投馬国、水行十日で何処かの港町..上陸→陸行一か月で..卑弥呼の邪馬台国に到着。依って
    倭国は九州北部、邪馬台国は投馬国、や上陸地の港町が特定できないと場所的には..ムズイですが..やはり..
    古墳、出土品の多い..近畿地方に有ったのではと思います。🤔

  • @21stcenturymanury
    @21stcenturymanury 2 года назад +4

    日本研究者は「魏志倭人伝」を読み違えている😎九州熊本県、鹿児島県の境近辺😇

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      出水、千代(薩摩川内)の北薩地域は、律令制の国府があったところだが、断層帯が走りもともと人の住まない地域で、それより南が熊襲、西が隼人の領土だと記録にはある。顔に刺青が事実なら記録にそぐわず、県境付近というのはちょっと妄想になってしまう

  • @浮世離れ-s8y
    @浮世離れ-s8y 2 года назад +19

    近畿にあったら、なんで、邪馬台は日向から東征しる必要があったん?

    • @poipoi3693
      @poipoi3693 Год назад +13

      もうそれで答えが出ますよね。
      東征してる時点で畿内じゃないだろって。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад +2

      東征の意味はさまざまだろうけど、火山活動の活発化で災害が多発した九州は生活に適さなくなっていたって話はあるね

  • @bchan3333
    @bchan3333 Год назад

    邪馬台国は隼人や熊襲が作ったのか?

    • @暢宗元
      @暢宗元 Год назад +3

      薩摩隼人や熊襲と争っていたのだと思います

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      卑弥呼が日本人だった証拠はない。隼人や熊襲といった民衆文化と同じだったかも知れないし、違っていたかも知れない。大陸から南へ伸びる日本列島の位置づけが、樺太で陸続きだったころから変わらないのなら、正統な後継者として据えられアイヌ語をつかっていた可能性だってあるよ
      色白で青い目の卑弥呼って、ちょっとステキじゃない?

  • @kenn8438
    @kenn8438 2 года назад +3

    周教授の考察はさすがですが、ナレーションが間違ってます。古い頭の人が番組を作ったのではないでしょうか。

  • @bmcv-k6x
    @bmcv-k6x Год назад

    どうでしょうか。中国はどこにあったのか。満人はどうしていたのかな?

  • @poipoi3693
    @poipoi3693 2 года назад +2

    九州説はしっくりくるけど、なんでその後わざわざ畿内に行くんだろう?

    • @fujiwaragayouato9303
      @fujiwaragayouato9303 2 года назад +1

      卑弥呼を殺しシュメール系王朝が倭国を統一して奈良方面に王朝を建国したのでは~私見ですが

    • @kenohzu5518
      @kenohzu5518 2 года назад

      逆だよ、昔は九州に近畿があったけど、離れていって今の位置になったんだよ
      プレートテクトニクスって奴だ

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      邪馬台国は魏の朝貢国(臣下)だから、負け組扱いってことじゃないかなあ

    • @inacpan6706
      @inacpan6706 Год назад +2

      さらにその後わざわざ関東に行きますね。人間が移住する動機って何なんでしょうね?
      大きな目で見ると西から東に移動していて、昔はもっと西にいたことが想像できます。

    • @arikitari2008
      @arikitari2008 9 месяцев назад

      天変地異違う?大地震や

  • @hirosat5269
    @hirosat5269 Год назад

    なぜ勅額(敵国降伏)と並んでいるんだろ?

  • @yoshitome6648
    @yoshitome6648 Год назад +2

    会稽東治(ち)の東。ですね。
    福建省東冶や長江の東では話が合わない。何故なら福建省と長江は場所が大きく違う。
    伊都国と平原王墓はその通りです。
    魏志倭人伝はそのまま素直に読めば良いんです。

  • @のぼちゃん-b1z
    @のぼちゃん-b1z 2 года назад +3

    西都原古墳群で確定です。
    原田さんの著作を読んで下さい。

  • @katumoku10
    @katumoku10 2 года назад +3

    邪馬台国解明のカギは、当時の倭人の中には漢字を読み書きできる人間が居たということです。弥生後期に福岡市雀居遺跡で木製の組み机一式が発掘されていますし、今まで砥石と思われていたものが硯の欠片であると分かってきました。
    そうなると、従来漢字を読み書きできない倭人から魏の役人が聞いたとする地名や人名などは、その発音を聞いて韻書の最初の文字を当てたとする通説が成り立たなくなります。漢字で教えた倭人が居たということです。
    そして、魏志倭人伝は陳寿が何のために書いたものかを考えると、西晋の宣帝、魏の実力者司馬懿の功績を寿ぐ目的だったということに気付きます。そうなると、邪馬台国は魏にとって戦略上重要な位置にあるとしなければならないことなど潤色がかなりあり、行程記事はそれのつじつま合わせで作られた可能性があります。また、邪馬台国7万戸というのも、方角もあてにならないと分かります。ですから、行程記事に頼らずに、考古学の成果から日本建国の過程を推理することによって邪馬台国を見つけなければならないということで、それは既に可能になっています。
    さらに、現存する日本最古の正史「日本書紀」は壬申の乱を勝利した天武天皇が編纂を命じたので多くの方は天皇家の歴史書だと思い込んでいますが、実は完成前に崩御しており、その三十年も後に完成していますから、その当時の権力者藤原不比等が藤原氏に都合のよい歴史に書き換えたと考えることができます。そうすると不比等の目的を考えて、考古学や民俗学の成果を用いて日本建国の真相を解明することができました。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。その過程で卑弥呼の宮室も墓も見つかっています。お邪魔しました。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 года назад +2

      @@北島正隆-d5x さん いい情報をありがとうございます。
      「伊」の意味はおっしゃるとおりです。Wiktrionaryによれば『「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。』とあります。伊都国はこの伊尹に因む王都を意味します。「孟子 尽心上篇」によれば伊尹は放蕩の主君太甲を追放したことでその評価が議論されています。この伊都国の男王が最初の魏への使者大夫難升米で、107年に後漢に朝貢した帥升(正しくは師升)王の一族の頭目(かしら)を意味する名前でした。彼が魏志倭人伝にある倭国の地名・人名などを漢字で伝えた人物である証拠が幾つか見つかりました。よろしければ拙ブログ「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください。
      また、邪馬台も難升米が帯方郡太守劉夏との談合で名付けたもので、意味はヤマコクに住む女王です。ヤマイチという母音を重ねるのは当時の倭人は避けていたようです(安本美典「倭人語の解読」)。ヤマユイと読むとしても、そのような意味を持つ国は見つかっていませんが、邪馬台国は宇佐市安心院町で発見しています。奈良時代に野麻郡と呼ばれていました。三柱山に径百余歩の円墳が見つかり、そのすぐ近傍に残る血野という地名は、地元では戦国時代に安心院氏が斬り殺されたという別の伝承が残されているのですが、卑弥呼の奴婢百余名を殺した場所を示唆しています。また、卑弥呼の宮室は三女神社だと思われますが、西の河原に同名の頓宮があり卑弥呼の墓の遥拝所です。その地名が字ヒカケという日食を意味しますので、247年3月24日の日没前の日食が理由で卑弥呼が殺されたことを示唆しています。よろしければこちらも拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」をご参照ください。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 года назад

      @@北島正隆-d5x さん それは面白いですが、なぜ纏向遺跡をヤマトと呼んだかについては、ヤマト王権の成立過程を推理して分かりました。詳細は拙ブログ「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」をご参照ください。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 года назад

      @@北島正隆-d5x さん
      拙ブログをご参照頂き感謝します。
      とても参考になるご意見を頂きました。順次お答えします。
      ①日食の責任を取って殺されたのなら立派な墓は残っていないはず
      卑弥呼の政治を輔佐するとした男弟というのは伊都国に王都を構える男の王と推理しています(その根拠はいくつかありますが拙ブログ「【検証22】難升米という人物は?(その1)」をご参照ください)。この倭国王が、247年3月24日の日食が太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎だったから起こったと考え、丁度狗奴国が攻め寄せる情報が入ったので、不吉な前兆と捉え、それを回避したいために卑弥呼を殺害したものと推理しています。魏志倭人伝にある持衰(じさい)に対する考え方と同様だと考えました。
      しかし、卑弥呼は倭国の統治者ではないと考えていますが、太陽神に近い高貴な人物だという認識なので、遺骸を討ち捨てると、不慮の死を恨み、倭国に祟りをなすかもしれないと畏れ、祀ったのだと考えられます。
      百余名の奴婢を殉葬することも、高貴な人物が死後の世界でも困らないことを願うものと考えられますから、卑弥呼を殺しておきながら、それなりの大きさの墓に埋葬することは、矛盾するものではないと当時の人は考えるからではないかと思います。
      そして、日食で殺されたことを示唆するものが、卑弥呼の墓から約500m南の深見川の河原に遥拝所が作られており、その地名が日食に因む地名「ヒカケ(日欠け)」が現在まで残っていることです。もうひとつは、卑弥呼の一族の末裔と考える和邇氏が近江八幡市で日食を連想する地名「日触山」で祀っていることです。もとは日蝕社という社名だったと考えています(「【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆」「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろ(@_@)」参照)。このような状況ですので、安心院町下毛字三柱山の径百余歩(直径約150m)の急造りの円墳を卑弥呼の墓と比定しました。
      ②(邪馬台国への)行程はつじつま合わせで作られた可能性があるとは仰っていますが、つじつま合わせで論を組みたてて それが正しいと論じているのは間違いだと思います。
      「つじつま合わせ」という言葉が二度出てきますが、前者と後者は意味が違いますので混同してはいけないと思います。最初のものは魏志倭人伝の基になったと考える魏使の報告書の中の邪馬台国への行程が書かれた理由です。後者は当方が採用した仮説構築の手法の話ですので、分けて考えていただきたいと思います。前者については「【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)」を、後者は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」をご参照ください。
      なお、当方が構築した仮説は現在分かっている事象群を無理なく説明できるものです。この仮説が歴史の真相を表している蓋然性が高いと考えていますが、あくまで仮説ですので、真相そのものであるとは断定しておりません。事象の因果関係の誤謬や事実誤認の可能性もあり、将来発見される事象によっては覆される可能性があります。そういう意味であくまでも仮説なのです。しかし、構築の過程で事象群を適切に説明するものですので、大きくは変わらないだろうとは考えています。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 года назад

      @@北島正隆-d5x さん 勘違いしていましたので、改めて順次ご回答します。
      ③邪馬台国からヤマトに繋がったとは限らないのでは
      邪馬台国の読みが「ヤマト」ですが、「邪」は「ヤ」と読み、「台」も正しくは「ト」(甲種)ではなく「トゥ」(乙種)と読むことは知られています(安本美典「倭人語の解読」勉誠社)。ヤマトは「日本書紀」景行天皇紀十七年に「夜摩苔」と書かれていますし、その他万葉集仮名で当てられたものは乙種の「ト」の文字となっていることから分かっています。
      ④「ヤ」が数字の八から来ている
      「ヤ」と「マ」を分解して意味を考えられていますが、「邪馬」は「山」の意味でこのような卑字をあてたものと推理しています。それは漢字を読み書きできた、伊都国を王都とする倭国王難升米(魏志倭人伝の伊都国男王)が帯方郡太守劉夏に書いて教えたのだと推理しています。伊都国はおっしゃる通り「聖職者が政治を行う都という意味」もあり、難升米が奴国宮廷楽師で司祭だったと推理した師升に因む王の名前だからです(「【検証22】難升米という人物は?(その1)」、「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。伊都国にこのような好い意味の文字が使われており、その他の多くの地名や人名などにいわゆる「卑字」がたくさん当てられていることから分かります。難升米が漢字を読み書きできない倭人や敵対する人物をバカにして「卑字」を当てたと推理しています。
      ⑤倭人の発音を聞いた説は論拠が無くなったという話もしております。 そこで「ヤマユイ」というのもおかしいのではないかと疑問を投げかけております。
      范曄後漢書倭伝の邪馬台国の唐注に「案今名邪摩惟音之訛也」とあり、倭人語の二重母音を避ける「邪摩惟(ヤマユイ)国」との発音を主張される方もいるようなので、例に出しただけです。隋書俀国伝などでは「邪靡堆」などと「堆」が使われているので、「邪摩惟」というのは誤写と考えるのが好いと思います。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 года назад

      @@北島正隆-d5x さん 早速、問題の本質に迫るいいご意見をありがとうございます。
      一つひとつ見て行きましょう。
      ①つまり「卑」は別称ではないという指摘です。
      蔑称だと思いますが、卑という字に元々酒器からそういう意味があったのはいいと思いますが、難升米という倭人の王が政治的な理由で懐柔した、それまで敵対勢力だった教養のない縄文系海人ムナカタ族の姫巫女を卑弥呼として卑字を使うことは十分考えられる話と考えています。勿論、魏使の報告書に書かせるわけですので、その時代の他の倭人は報告書などを見る機会は余りないし、ほとんどの人間は見ても漢字の意味は分からなかったと思いますけどね(^_-)-☆
      ②伊都の国には卑弥呼の弟がいたと断言できるものでもありません。
      断言に近いですが、推理しているのですよ(*^▽^*)
      政治的な理由は先に述べています。
      ③卑弥呼が日食の責任を取らされたとも断言できるものでもありません。
      これも同じく、断言しているのではなく、すでに述べた証拠からその可能性が高いと推理しているのです。
      ④ヤマトの音の元になったのは邪という漢字に限らないのでは、
      「邪」も「よこしま」という意味ですから卑字の例と考えてよいのではないかと考えています。
      貴兄は「邪」は「八」の意味だとまでは主張していないのですか?「邪馬壱はジャライ、ジャライーだったかもしれません。」とのことですが、ならば「邪馬壹」とはどういう意味があるのでしょうか?
      当方は、邪馬壹国は邪馬台国の誤写か、魏臺が魏の明帝を指すこともあるので、写した役人が東夷の女王に「臺」という高貴な字を用いるのを憚って似た文字の「壹」に置き換えたものと考えています。つまり邪馬台はヤマコクに住む女王卑弥呼を指す言葉と考えています。安心院町は奈良時代には野麻(ヤマ)郷とされていました。龍王山の南側に仙の岩という代表的な耶馬渓もありますよ。そうです、「邪」をこれから分化した「耶」と置き換えていますね。後の時代の人だと思います(^_-)-☆
      ⑤こう名前を付けたのは中国側でしょう。倭人風に名付けたとは限らないのでは?
      漢字を読み書きできる倭人で、孟子も読む教養人の倭国王難升米が書いて教えたという推理をしています。これによって、従来考えられていたような邪馬台国の場所とは異なる安心院町宮ノ原遺跡付近で卑弥呼の宮室や墓やその他の証拠と言えるものを発見したことを裏付ける話になっているのですよ( ^)o(^ )
      貴兄がいろいろな事象をどのように解釈しても構いませんが、それによって謎が解明されるのであればその解釈は意味があると言えます。しかし、そのようなものを示さなければ、その解釈はあまり意味がないと思います。
      まさに、邪馬台国問題が二、三百年たっても解決しなかったのはそういう単なる解釈のための解釈だったのが原因だったと考えています。分かり易い言葉でいうと、「木を見て森を見ない」ということです。ですから、それを打破するために科学的な推論法を適用して仮説を構築し、数多くの検証を加えて、謎を解き明かしていますので、拙ブログ「古代史の謎を推理する」で提案した解決手法を是非ご理解くださいね( ^)o(^ )

  • @renren5491
    @renren5491 Год назад +2

    邪馬台国の時代、博多湾を抑えていたのは近畿人。既に前方後円墳も複数あり、近畿系土器が大量に出土している。
    そんな時代だった。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад +1

      前方後円墳を根拠にすると朝鮮半島が多かった時期だから、古い順で並べるとあちらが先ってことで、ちょっとなんだかなあって感じ

    • @renren5491
      @renren5491 Год назад +2

      @@MedakaNoBoo 朝鮮半島の前方後円墳は、5世紀が最も古いもの。
      福岡の3世紀中葉の那珂八幡古墳は、三角縁神獣鏡を伴っている。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      @@renren5491 >3世紀中葉
      「ホタテ貝型」や「前方後円型墳墓」をざっくり前方後円墳と呼ぶのもねえ

  • @稔吉田-e2g
    @稔吉田-e2g 2 года назад +2

    方向音痴はいくらでもいるが(私もその一人)日数音痴は痴ほう症以外いない。方角より日数を重視するのは当然。

    • @kenohzu5518
      @kenohzu5518 2 года назад +2

      旅するときに方向見失ったら致命的すぎない?

    • @OlegBatov
      @OlegBatov Год назад

      漢文だと水行は川沿いを歩くこと二十日。
      当時は平野がほぼ森ばかりで、川沿いに歩くか尾根線沿いに歩くかしか迷わず進む方法はなく、常時登山しているようなスピードでしか進めなかったでしょう。
      切り開かれた砂利道を歩いていたら1日で10キロ以上進めるかもしれませんが、荷物を大量に抱えて登山して進むなら一日3キロでもおかしくはありません。

  • @弓原
    @弓原 Год назад +1

    九州派の弱点は70000戸の住居もある遺跡なんて九州にはねぇよって話だったけど、
    初期は九州で日本書紀に書いてあるように神武東征で畿内を征服して遷都したときに70000戸になったと考えれば全てつじつまがあうんだよな。
    😇まあつうかね。邪馬台国ってのはあくまで日本の国名であって、いわゆる村の同盟の一種であったと考えるべきで、邪馬台国同盟が九州から東方の畿内まで広がったというのが一番現実的な説じゃあないかと思うんよね。
    ろくな官僚機構もない当時の日本で、支配域が村より広がるってのがそもそも現実的ではない。
    だから各村の長老たちが出向して会合する場所が九州から畿内に移ったっていうこと。

  • @majesty164
    @majesty164 Год назад +1

    表示されてる古地図だと会稽東冶の東が全然、九州じゃないですね。
    潮流の影響と言うのも、結局は恣意的な解釈に過ぎない。

  • @keen1174
    @keen1174 2 года назад +1

    魏志倭人伝に明記された邪馬台国の位置は「会稽東治之東」つまり会稽郡東冶県の東で現在の福建省福州市の沖合、台湾の北の海ということになる。
    風俗もさらに南の海南島にあった憺耳県、朱崖県と同じだとしている。これを無理くり九州に当てはめても仕方がない。方角が間違っていた。
    中国正史の一つ唐代の「北史」は、隋の時代に訪れた都を耶摩堆として紹介し、『居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。』魏志倭人伝の言うところの邪馬台国だと説明してくれている。「隋書」には、『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。』とある。聖徳太子の時代の都は、大和しかない。
    隋の使節は、竹斯国(筑紫国)から邪摩堆まで、「東」へと向かっている。

  • @平善之-b4o
    @平善之-b4o 2 года назад +1

    距離の問題は昔の事だから確かにあてにはならないけれど、伊都国の近くに女王国が有ったのなら「一大率」は必要ないでしょう。「一大率」に相当する将軍を女王国に置けば良い。確かに貿易を管理する人が伊都国に必要だけど「諸国がその人を恐れる」必然性は無いでしょう。単に中国や朝鮮との貿易を管理するだけで軍隊の長官ではないのだから。後世に大和朝廷が九州に「大宰帥」を置いたのは九州が遠いからだし、一大率も伊都国が女王国から遠いから置かれたのだと思う。でも僕は女王国は九州だと思っているので、先生の考えの弱点を述べただけなんです。先生方には頑張って論理的に解析して欲しい。素人でも反論できる仮説はいいかげん卒業して欲しい。

    • @MedakaNoBoo
      @MedakaNoBoo Год назад

      それならわざわざ朝貢する意味もない。近くに軍隊が駐留し(一大卒ができた)から、なにやら正統な継承者を立てて争う意識がないことを示したと考えれば、邪馬台国の意味付けがより明確になるよね

  • @山邊浩徳
    @山邊浩徳 2 года назад

    違います。地殻変動を全く考えてませんね。

  • @恵口百山
    @恵口百山 2 года назад +3

    九州には絶対ない。

  • @rakuto-TV
    @rakuto-TV 2 года назад +6

    北九州やろ‼️

  • @freeway104
    @freeway104 2 года назад +3

    >当時の日本に、運搬や移動のための牛や馬はいなかったので、
     邪馬台国は伊都国の近くにあった。
    台湾教授のこの論理は成立しないw
    普通に「舟」を使っており、瀬戸内海を行き来していた。