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私もコンクールの弊害についてはよく考えさせられます。私は高校のときに弱小合唱部に所属し、コンクールとは無縁でしたが、大人になってからまた合唱に惹かれてアマチュア合唱団に入り、今も楽しく続けています。合唱仲間に誘われてプロのコンサートにもよく通うようになり、たくさんの感動や喜びをいただいています。音楽の深いことは全然わからない素人ですが、素人なりに音楽が私の人生を豊かにしてくれているという実感があります。一方、高校に勤めているので高校生と話す機会が多いのですが、中学で合唱部に所属していたのに高校では帰宅部、という生徒が多く、理由を聞いてみると「この高校は合唱部強くないでしょ」と言うのです。全員、近隣の合唱コンクール中学生の部で全国大会に出場しているいわゆる「強豪校」の出身です。「私は全国行った(くらい上手だ)から、今さら下手なところでは歌いたくない」というのが彼女らの意見でした。これを聞いてガッカリしました…。彼女たちはたかだか中学生のときに音楽に触れた(しかもとても狭い範囲の音楽に)くらいで、その後の人生で「あれ以上はない」と音楽の楽しさ、喜びを知ることもないのです。中学生はまだまだ未熟で、コンクール至上主義の先生に忠実に従うことで、音楽に対する価値観・考え方まで歪になってしまうのですね…。本当に残念なことだと思います。
銅賞常連学校です。練習は、ごく普通。しかし、音楽の楽しみを吹奏楽で覚えました。今は音楽大好きで、オーケストラやカルテットでバイオリンを弾いています。意外に、弱小校が楽しいのかも。
私は学校で吹奏楽部の指導に関わっています。コンクールは無意味ではないと思いつつも、そのあり方に何か違和感をずっと感じてきました。このお話で自分の抱えてきた違和感の正体に納得できました。コンクールを全面否定はしませんが、音楽は、楽しく美しく、各自の個性に応じて技術の向上に励み、人を癒し育てるためのものだ、いう考えに自信を持てました。
長男が車田さんのご出身の音大に在学中です。今年、ご縁があって地元の高校の吹部のコンクール曲指導のお手伝いに行っていました。「バッハの曲をやるっていうのにやっぱりいかにも吹奏楽っぽい演奏になるんだよなぁ」と長男がボヤいておりました。顧問でもないのでお手伝いには限界もあり、音楽についていろんなことを考える良い機会になったようです。車田さんのお話を聞かせていただいてとても腑に落ちました。吹奏楽コンクールの在り方が変わっていくことは難しそうな気がします。根付き方が半端じゃないというか。なので広い視野をもった聴衆が増えると良いなって思います。だからプロや本格的に音楽を学んだ人たちは凄いんだって感じ取れる感性を持った仲間が増えると良いですね。車田さんのチャンネル、たくさんの人に観て欲しいです!
本日の興味深いお話をして聞いたあと、日本人はコンクールに求めるものが違うのでは、という考えがふと浮かびました。ピアノコンクールがベストセラー小説になったり、バレエ漫画でコンクールがクライマックスとなったりするのは、コンクールの中に音楽、芸術そのものではなく、ハラハラする人間ドラマを求めているんじゃないかということです。若い参加者は、芸術的向上より、競い合うという行為の中に生きる手応えみたいなものを探しているのかもしれません。
昔、アマチュア演奏家のコミュニティで演奏会を企画していた頃のことを思い出した。アマチュアのコミュニティで濃い活動をやってると、演奏者と観客と批評家が全て同じ構成員になっていきました。give-and-takeともいえますし、居心地は良いのだと思います。私はそれがひどくつまらなぁと思い、ロビーコンサートを企画するようになりました。観客のほとんどは偶然通った人たちでした。私のことを知らない人たちのリアクションが楽しくて、演奏しながら楽器以上に人間観察をしておりました。寝てるように見えて聞き入ってる人がいると嬉しくなったり、お行儀良く聞いているけど本当は眠そうな人、少しつまらなさそうにしてる子どもがいると「如何にして引き込んでやろうか」と演奏しながら考えました。上手くいかないこともあったけど、楽しかったです。ミスがないことや技術の高いことも大事ですが、音楽の前提は人とのコミュニケーションだと思います。今は演奏活動はできませんし家でも大きな音が出せませんけれど、共演者や観客との生のコミュニケーションのある演奏は本当に楽しかったです。
今回もまた「ようぞ言ってくれました!」と感謝です。かつて公立高校で教員をしてた時代のことです。「カット」という言葉を初めて聞いた時の印象です。吹奏楽では、クラシックの作曲家のものを、コンクールの自由曲にする際、制限時間内に収めるために、楽曲を「一部省略」して演奏することがあります。それを「カット」と言います。一見音楽が流れるように聞こえると、「良いカット」と言われます。作曲家は、自分の楽曲を世に出すときには、余分なものを削ぎ落とし、全霊をこめて出すはずです。その楽曲を、一介の地方法務員が、音楽を学んできたとはいえ、「カット」するなど、僭越の極みです。「コンクールの存在意義」の所は、まさにそうですね。私は、声楽を専攻しましたが、全国的に繋がるような合唱コンクール(地方大会も含めて)における、「生徒たちの顔の表情」には、本当に「気の毒」としか言えないような、違和感を感じます。生徒が可哀想でなりません。
奇妙な顔で歌っているところが金賞だったりすると、「あれが良い歌いかたなんだ」と、思い、周りも拍手喝采で、、、益々、「あれは変だ」とは、言えなくなるのでしょうね☺️裸の王様のお話しを思いだしました。
それぞれの世界には歴史があります。吹奏楽、合唱コンクールも最初は学生に音楽を親しむ機会を与える、音楽技術の向上を目指したあくまで教育的な配慮のあったものだ思います。ただそれがだんだんに過熱することは悪くはないけど、車田さんがおっしゃるように形が変わってきてしまった。本来の目的を忘れてただコンクールに勝つことだけを目指するようになって、動画にもありましたが聴衆不在になってしまった。演奏以外のいくつかの部活動の目的として言われていることは、「そういう目的もなくはないよ」的な何となく付随的に言われているように思えます。あくまでも音楽です、そう考えると車田先生のおっしゃることはごもっとも。困るのはそうした体制の中に次々に若い音楽の先生、そして音楽を知らない生徒が入り、「音楽とはこういうものだ」と誤認識してしまうこと。違うジャンルだ、、という方も現状だけではなく、音楽の歴史を顧みれば何かがおかしいと気が付くのではないでしょうか。それと私が吹奏楽コンクールを経験していますが、過去の楽曲を安直に吹奏楽用など別のスタイルに編曲してしまうことが多いことが危惧されます。それがよりよくなるならいいのですが、殆どの場合、「こうやってみました」「こんなスタイルでもできます」というような最終的な美を目指したものではなく、何となく変えました的なものになって、聴衆もそんな安直なものを喜ぶ。これもおかしなことだと思います。こういうことを発言することは勇気のいることだと思いますが、きっと当事者も少なからず疑問を持っていると思います。是非続けてお願いします。いつもの理路整然としたお話しはとても有意義と思います。
「銀賞くらいが丁度いい」と思っていました。そういう聴き方もあったのだと肯定されたようで嬉しいです。
聴衆のフィードバックあってこそ音楽。確かにそうですね。指揮者の佐渡裕さんは若い頃に吹奏楽部の顧問をやっていたころ、審査員室に楽譜を投げつけてきたそうですね。車田さんと同じような思いがあったのでしょうか。吹奏楽コンクールの全国大会を聞くたび、なにもそんなに上手くやらなくてもいいのに、と常々思っていました。感心はするものの感動はしないんです。明らかに身内からの「ブラボー!」もなんか空虚ですね。
娘が吹奏楽にはまり、私もこの世界の素晴らしさを知りました。佐渡裕さんが常時100万人も吹奏楽をやっている国はどこにも無いと言ったのを聞き、過去の指導者たちの苦労に感謝しました。ただ一方で、雨でも休めず土日も練習過多の状況、それからその後は家族以外は殆ど見に行けない状況は異常と感じており、勝ち負けに拘り弊害も大きいことも感じていました。高校野球が典型ですが、高校生が野球をやるのは自由です。しかし何日間も公共放送が全試合を放送し、一々マスコミが美談を取り上げるのは世界的に見ておかしいと思います。日本人はおかしな方向に進んでいるものが多いのに、大きくなると変えられないのです。評判が悪い同調圧力のせいでしょうか?
マスコミ、スポンサーが諸悪の根源ですね。NHKなんて、放送しなくていいのでは?? 野球以外にも高校生はいっぱい汗をかいています。公共放送なら、もっと公平に扱うべき。新聞社も同じ。高校生のアーチェリーとかフェンシングの記事なんて注目されないです。甲子園だけではありませんよ、会場は。
その通りですね。車田さんは教育者としての経験もあるからでしょうが、現在の状況よりも未来の日本の音楽界のあり方について様々な発信をされていると感じています。今回の、聴衆からのフィールドバックと言う視点は最も重要な事だと思います。明治維新のとき西洋文化を取り入れようと言う一環としてクラシック音楽が日本に入って来たことや、戦後の高度成長期において経済だけでなく音楽や芸術においても欧米に負けるものかと頑張った結果、ゆったりとのんびりとクラシック音楽に接する機会が日本にはなかったのでないかと思います。今ではいちリスナーとして誰でもクラシック音楽を享受できるようになりました。しかし、教育の場それに付随するコンクールのあり方においては、我々はもっと視野を広げ深く考えなくてはならないでしょう。何のために音楽があるのかなぜ音楽が必要なのか、それは人間とは何なのか世界とは何なのか、愛とは平和とは何なのかというような、宗教的なことや哲学的なことを抜きにしては考えられませんが、先ずは、聴衆からのフィールドバックこれを大事にすることから始めるしかないですよね。人間の明るい未来を切り開く力の一つが音楽にはある。車田さん、今後も頑張ってください。
学問を使って受験戦争をしたり、数学を使って数学オリンピックをしたり、物理学を使ってレコードが開発されたり産業革命させたり核爆弾を作ったり、、、音楽も同じですね。学問も芸術も技術も競争も、相互に刺激しあって悪い方向にもいい方向にも時間とともに変わってきました。僕はこれが許せなくてこれらを否定し続けてきましたが、最近は意味がないことに気が付いてきました。大変なことですが、どうにか良い変化も悪い変化も受け入れながら柔軟に軌道修正できるような人になりたいです。やはりそのためにも、常に歴史や本質を意識し続けられるようにしたいものです。
アニメ「四月は君の嘘」で描かれているように、コンクールで聴衆が大喝采する演奏は必ずしも審査員には評価されません。吹奏楽コンクールでも、ノリノリの演奏で観客を楽しませる演奏が金賞をとれないという場面を何度も見てきました。観客が選出する特別賞のような方法もありますが、なかなか審査基準そのものをどうするか、となると難しいですね。
先生のお話を拝見する度に、今まで感じていた違和感が「ああ、そう言う事だったのか、」とスッキリさせて頂いております。今度は是非、芸能と芸術についての車田先生のご意見お聞かせ願いたいです。
本当にその通りだなぁ、よく言ってくれました。心から尊敬します。
お話しの内容からズレたコメントになりますが、吹奏楽コンクールでは時間制限のためカットして演奏することが普通ですが、吹奏楽を通じて好きになった音楽のレコード(!!)を買ってみたら、吹奏楽の演奏では聞いたことがない部分が出てきて「こんな良い部分があったんだ」と驚いたことが何度もあります。自分が昔いた市民バンドの指導者はとにかくカット魔で、時間の制約がないコンサートですらカットしたりしていました。コンクールでのカットは仕方ないにしてもそれが当たり前になってしまうのは本当に悪しき習慣だと思います。あと金管主体のバランスも改善してほしいです。トランペット・トロンボーンはオーケストラと同様1パート一人で十分だと思います。
チェロをやっていましたが、アマオケの、ブラバン脳の人や指揮者が苦手でやめました。音程無視で縦の線だけ合わせる所作、コンクール金賞自慢とか。学生オケ時代にウイーンで演奏したとかが真剣に自慢な人もおり、さらに苦手でした。
@@clatro00 さま弦にも、その、点を要求する人がおり、たいてい学生から楽器演奏始めた人ですが、閉口します。
とても参考になりました。とくに作曲家、演奏家、聴衆の関係が大切ということが。わたしが吹奏楽部に機会があれば訴えているのは、たくさんの名曲にふれること。編曲でクラシック、ジャズ、ポップスの名曲と出会う。管楽器の奏法だけでなく音楽の基礎基本を謙虚に学ぶこと。調性、和音など。個人練習の時間を持ち自分一人で楽器と向き合うこと。音楽を聴くこと。生涯音楽を愛することができる人になることが目的。また、教育の観点で、生徒自身が部活を主体的に運営すること。そこからコミュニケーションなどを学ぶ。コンクールの過熱などは避け、勉強やプライベートに支障のない適切な時間配分をすること。ハラスメントのない指導。心を育む、開放する教育的な活動。なかなか言い方は難しいし、理解は得られませんが。
吹奏楽や合唱などの部活に入り演奏したいと思う子供たちは真面目な生徒さんが多いです。個人的にレッスンに行くほうが実力も基礎も身に付くのも早く確実ですが、専門家を目指す生徒は集団活動はそもそも選ばないでしょうね。だから部活は青春の思い出づくり、音楽でコンクールを目標にして戦いたい、優劣まさに優越感と劣等感を味わうのがコンクールかもしれません。音楽は一生楽しめますが、ゆとりがないと楽器も買えませんし部活で演奏することは素晴らしいと考えるご家庭は多い。本物のプロの演奏を知っていたら特に音大に行くつもりなら、部活で演奏するのが時間的に生徒個人のロスになることを自ずとわかるでしょう。皆で成し遂げる、学校の名誉と考える人にはコンクールで賞を取る価値はあるのでしょうね。
合唱でも吹奏楽でも目標に向かって協同して音楽を作っていくということは教育効果があることは認めます。運動部のように勝つことを目指して努力することは悪いことではないと思います。しかし、何を持って勝ちとするのかといえば、他校よりうまいという評価、参加校の中で一番うまい、という評価です。そして何をもってうまいとするのか。それはこの動画の中で語られている通りだと思います。公平のために設けられた審査基準の中で勝とうとしたら、通り一遍の演奏になる。上手いけれど感動しないという演奏になる。コンクールと言えば、高校3年の時、助っ人を頼まれて出たNHKの合唱コンクールを思い出す。我校は4位だったが、後で録音を聴いて、自分たちが1位だったと思った。しかも、1位から4位までの順位はむしろ逆ではないか、4位が1位で、3位が2位で、1位が4位ではないか、と今その録音を聴いてもそう思う。3位だった高校の先生も、審査員の勉強不足だ、と言っていた。
結果的に聴衆に還元されるコンクールと、そうではないコンクールとがあり、音楽的観点からすれば、その大きな違いはフィードバックがあるか否か、という点は確かに大きいと思われます。この問題に限らず、日本では何かを集団で学び始めると「道」となる傾向があり、いわゆる「集団への高度な組み込まれ」現象が起こる。高度な技術を磨ける一方、仮に作曲者や多層な聴衆とのコミュニケーションが失われ、「音楽」を楽しむ余裕がなくなってしまえば、せっかく頑張ってやっているのに、勿体ないと思います。…明日、スコーン買いにいきます。
中学や高校のブラスバンド部・合唱部、文化祭では皆が盛り上がる目玉プログラムですよね。大学のオケも嬉しくなります。~音楽そのものの楽しみとは少々ズレてるかもしれませんが・・。学校行事や地域のイベントで、もっともっと盛り上がる機会があってもいいかも。コンクールの過熱が本来の値打ちから離れていくお話。大食い競争の例えは、秀逸ですわ!【それにしてもスコーンを食べる先生、幸せそう。大丈夫ですかぁ(笑)】受験勉強や様々な競技や大会についても、同様の逸脱がありそうだと思って見ていました。
合唱は「揃えなくても良い」、に驚きと共感・感動を覚えました。
前にもコメントをしましたが、自分は田舎育ちなのでテレビでしか見たことが無いような楽器を実際に手に取って、それを演奏出来る事が嬉しくて嬉しくてホント楽しかったです。コンクールも必ず出ていましたが、それって学生が自主的に参加するものでは無くて、顧問の音楽教師が参加を決めて生徒に練習させるって感じですよね。これも楽しく出来ない原因の一つかも…。文化祭やスポーツの大会の応援演奏等、学生ならではの活動がコンクールなんかよりも大切な気がします。過去そのように部活動でやってたくせに、吹奏楽を聴くことに興味ももてないし、学生の合唱にも全く気持ちが動きません。聴いてて良いなあと思う曲も無いし。。。私は学生の吹奏楽、合唱の良い聴衆になれそうも有りませんよ~😂前回も思いましたがカップが美しくて素敵だなぁと思いました😃
私自身は中高の吹奏楽とは殆ど関りがないのですが、プロの管楽器奏者からの新曲委嘱で「吹奏楽向けでないもの」というオーダーを受けたことがあるので、やはり独特の世界なのだなぁという印象です。もしこの先ご縁があって吹奏楽向けの新曲の依頼が来たら自分だったらどうするかな・・・と考えてしまいました。
ヨーク分かりました。全く同感ですありがとうございます。
音楽を自分の都合で変えてはいけない吹奏楽曲の編曲の中で明らかに元の曲を自分の都合、そして吹奏楽コンクールの都合で改編しているような曲があるような気がします。ここでは述べませんが、吹奏楽曲の中に作曲者を冒涜するような改変や、リスペクトに欠けたような編曲があってこれでいいのみたいな曲もありました。そういうことが認められる世界がなんか変だなとも思います。
ラストのコーヒータイムが、いつも最高の描写で癒されます~ ♪たっぷりの生クリームをスコーンに乗せて、もう至福の時ですね。
いよいよ日本音楽コンクールビアノ部門開幕。楽しみです。
コンクールの審査の結果に一般観客席からブーイングが出た事もありましたね。
素晴らしい話に共感しながら試聴してたら、最後のスコーンで全部吹っ飛んだ・・・・
コンクールがより音楽的高みを目指す手段であれば良いけどコンクールが目的になってはならないということかなと思いました。
いつも愉しく観させて頂いています。かつて指導に携わっていました。楽器を吹くのは1日2時間以内土日は月二回ずつ休み(練習は3時間以内)夏休みに10年毎の教員免許更新に当たってM音大に通う日程がコンクール前で 田舎の学校だったので それなり理解があり、午前6時半から8時まで 午前7時から9時までの練習も出来た→窓を開けても苦情が来ない環境。3年生も出場でないとコンクール出られない人数でしたので、塾の夏期講習前に 30分吹いてから早退で塾に行く生徒も。コンクール前日だけは1時間の合奏 出場者は必須。練習もパート練習→合奏では無く合奏(通し録音1回)聴く→パート練習又は個別 セクション練習と通常の逆パターンで 3年生が少しでも合奏に出られる様に。月曜日会議でない日が月1日あり部活に出れる時は 合唱の日として、自由参加…大概の女子は参加していて、男子に別室で個人練習で吹いている数人がいました。コンクールは予選通過でBグループ県大会参加チームでは当時では最小人数でした 22.3人〜27人 銅賞たまに銀賞(県大会は優秀、優良といった時も)生徒も これだけ練習して無くても県大会に出られる学校として誇りに思っていたみたいです。県大会ブービー賞狙い⁈折角出るんだから最下位だけは避けたいね! が合言葉。曲のレベルは 難しい方で フィンランディア か パリの喜び動物の謝肉祭から一度 狂詩曲スペイン ローエングリンより エルザの大聖堂と第三幕序曲 ドビュッシーの小組曲より。クラシックは指揮者編曲…ソロに無い楽器も有るので。コンクール曲は1年間の練習に耐えられる曲を…名曲から学ぶ。昔よりはクラシックの名曲を耳にする機会はCM等でも有るかも知れませんが、本気で聴く機会は少ないので…、演奏すれば自ずから聴く様になるので…。私の出身高校はオペラの序曲しかコンクールでは吹かない学校でした。自分が卒業してから関東大会金賞常連、たまに全国大会へ…全国に行った次の年はコンクール休み…でしたが、今年はそれをしなかったらか⁈県大会で銅賞でした…(汗 中学でソロを受け持った生徒で数人が音大 教職へと就いています。当時では…卒業後、音大を目指すなら高校の吹奏楽は入らずに音大付属音楽教室か大学の先生に師事する事を勧めました。当時、今も⁉︎ 音大の先生からは吹奏楽の理解は低くて、吹奏楽出は使い物にならん! バッハ モーツァルト ベートーベン ブラームスが吹けない‼︎ …吹かせられない…と、自身が研修で音大に行くと 懐かしい先生方のお話。←音大に月謝納めて卒業証書を買う⁉音大の経営を支える︎生徒になってしまうので…。彼らも もう40代に入っていますので、今は事情が違うかも知れませんが…。当時 欧米では、吹奏楽でJHSなら、HSで吹いて良い曲という 選択曲一覧と言うものがあった様です…野球のシニアの100球以内と同じく…。それらを参考に←それでも背伸びしていたかも知れません。みんな同じ顔して同じ口開けて歌う ◯コンは観ていて違和感ですね! 口の中、骨格一人一人違うのに…変。社会人になってからの、旧 朝日コンクール、全日本合唱コンクールは 練習、発表の場 励み 愛好 と言う意味では 勝ちもあるのかと思います。審査も順位制で約半数を各審員が順位を付けて…20団体なら1〜10位、残りは11位…で、全審査員の結果公表。総合点数が少ない方から1位…。育てると言う意識が在る様で好評も…吹奏楽の様に辛辣では有りません。福島、宮城は合唱王国…か続いてますが…。
追記です。合唱は面で揃える、吹奏楽(合奏)は点で揃えると聴きました。全国大会金賞団体…県内のを聴いた時 本当に面で揃っていて聴いていて、末恐ろしかった…です。感動した…では無く。個を殺してでも 集団の面を守る…それって音楽なのか?かつての ソビエト、北朝の軍隊パレードと何が違うのか⁈ちなみに、入場、礼、退場も一糸乱れず足音迄も揃っていました…。同じデザインの皮靴を履いて…。足音は可能な限り させない様に歩くのがホールでのステージマナーだと思っていたのですが…、そう指導もして…。全国高校文化祭の お琴の合奏も全員同じ動きして 弦の押し手も姿勢、タイミング、押す角度、そして戻る、柱を動かす、戻すタイミングまでも揃っていて …文科大臣賞‼︎ でした。同様に聴いていて心が凍り付きそうで怖かったです。
@@clatro00 コメントありがとうございます。昔の話ですが、県大会8月、関東大会9月、全国10月、アンサンブルコンテスト県大会11月…年を跨いで全国←今は12月⁉︎…学力で推薦で大学決まっていれば良いのですが、就職も間に合わず…、結局 3月の事実上の欠員で音大の管打楽器 又は吹奏楽専攻…ピアノは弾けなくても入れる。普通の管楽器科のソナタ等の課題曲では無く、コンクールで吹いた曲、全くメロディーの無いパート譜でも、暗譜でなくても良い… 其処しか受からず、ピアノは音大に入ってから選ばなくても卒業出来るから良い(副科) …、4年間で1000万円…、奨学金制度利用しても、安定の公務員、教職に着くのは無理…ピアノと声楽の実技試験ある。 YAMAHAの吹奏楽の指導派遣講師になっても手取り1日5000円、1万円…、奨学金の返済は有り、、。在京音大でも毎年100人からがその吹奏楽専攻へ…。 本当にその道で良かったのか…、音楽は好きで続けて欲しいが…。抜群に上手い人は吹奏楽上がりでも在京オーケストラ、プロ吹奏楽団に入団できますが、極少数。 2月の後半に音大に遊びに行くと…、練習室から 吹奏楽上がりと解る 練習する音が聴こえてきます。…未だ、どこにも受かっていないんだなぁ…。(入ってもチョット無理かも⁈な演奏が…) 親としては そこだけでも受かれば、何とか工面して入学させたいと…。祭りの後の 後始末をしないで放りだす(卒業すれば関係ない)中学で全国大会行ったから、吹奏楽はもう卒業‼︎ (一生分吹いた‼︎) …残念ですが、その子の方が 先見の証が有ることに…。
カラオケ採点番組を思いだしました。TVを視る層も比較採点病にかかってるんですね。ドイツでの事情が知りたいです。
学校の合唱や吹奏楽のコンクールについてでしたが、なるほど!と納得しました。あまり興味もなくテレビで目にする程度でしたが、違和感の理由が分かりました。ところで、車田さんが住んでおられるドイツでは、たとえばピアノとかバイオリンとか、子供の音楽教育の事情はどのようになっているのでしょうか? 生徒をコンクールに積極的に出す方針の先生がいて、そこに全国から生徒(の親⁈)が集まり、教祖と信者のような雰囲気になっている例を見ました。違和感があるのですが、これも日本独特の事情なのでしょうか? 自分の子を昔、そのような場に入れてしまい、今ではピアノに触りもしないのを、とても残念で、子供に申し訳なかったことと悔やんでいる私です…
さらに問題なのは、中高時代に吹奏楽コンクール・合唱コンクールに励んだ人が、長じてこの「コンクールミュージック」が「音楽だ」と思い込んでしまうケースがしばしばあることです。それを基準に音楽について話すので、ますます音楽の本質から乖離していってしまいます。
アマチュアのソプラノ カウンターテナーです。よくぞ、おっしゃってくださいました!私個人の実体験ですが、「男のソプラノ」 という特殊な voice type ですので、ソロで歌うことしかありえず、コーラスは避けてきました。ところが。長年コンクール向けコーラスの指導をしてこられた指揮者の方が私に対し「要は、ソプラノでしょ? うちのコーラスに入ってよ」 (なんと、乱暴な!)とおっしゃたケースが以前にあって、仕方なく試しに一緒に歌ってみると、その指揮者の方が 「ヴィヴラートを消してよ。コーラスだから」 ・・・!!!私の場合、ヴィヴラートは意図的にかけてるんじゃなく、勝手にかかるので、ヴィヴラートを消そうとすると発声のあり方そのものをいじくる結果に ・・・もちろん、お断りです!それ以来、「コーラス参加はお断り!」 という方針にしております。日本でのコーラス指導の特異性 (おそらく、コンクールの影響も無視できない) が、私にまで 「とばっちり」 をかけてしまった実例ですね。
ちょっと過激に整理すると、中高生のコンクールは音楽なのか音楽じゃないのか、ということなのではないでしょうか。先生は音楽だと思って訴えかけても、コンクールは音楽じゃないと思っている人たちには届かないと思います。音楽じゃないものに生活が懸かっている人たちにとっては死活問題ですからね。私は吹奏楽部にいましたが、個人的には、音楽が好きな人には吹奏楽部に入ることはお勧めしませんね。
う〜む、西洋音楽を日本の味付けで、フォークの背中に乗っけて食べるコンクールですかwwウチは銅↔︎銀の往復校でしたから、ワタシが若い頃指揮振ってた時も、音楽なんだから音を楽しんでこようぜ!ぐらいでしたけれども、あの楽屋の雰囲気は結構嫌なものがありましたよ。特にちょっと上手な学校などは挨拶もしないし、周りを敵みたいな目で見ていましたからね。噂のルールも【足は左を前に出して右は引っ込めろ】みたいな、昔からクラシックのコンサートを自由な形で聴いていたワタシとしてはだいぶ引きましたけどね。その他色々…まぁでも今となっては夏のいい思い出ですかねぇ。ウチの親は毎年聴きに来て、それこそ音楽を楽しんで帰ってたみたいですけれどもwwウチを含め他校の演奏の批評なんかもしてましたね🤣でも寂しいかな、25年以上経った今でも楽器やってる人間はワタシ以外ほとんど居ませんですよ⤵︎
生クリームは自分の家で……飼ってる牛の乳で作りました。って言われるかと思って一瞬ビビりました。実は農民歌手なのかと。
遠い昔の中高生だった頃、吹奏楽部に感じた違和感の正体が何かが分かった様に思いました。コンクールがあると聞いて、吹奏楽ってそもそも競うものなのか??という漠然とした違和感があったのを覚えています。もしやるならコンクールじゃなくてコンサートなんじゃないのかなぁ…でも部活だから陸上や野球みたいに勝負しないといけないのかなぁ等と子供ながらに思っていました。現在、子供が吹奏楽部に入っているので当時の事を思い出していたところで拝聴させて頂き、色々と考えさせられました。幸い子供の学校は強豪校ではなく、技術的に未熟でも参加させてもらってアンサンブルの楽しさを体験できている様です。それはとても有難いことなので、楽しんでいる子供本人にコンクールについて否定的な事も言えず…やはり指導者の方々が部活やコンクールの在り方をより良い方向に向けて頂きたいですね。
この動画だけでなく、車田さんの動画全般は、吹奏楽部合唱部関係者はもちろんのこと、ダンス部関係者にも観ていただきたいです。別の動画でもコメントしましたが、この3つの部活動は共通の問題を抱えているように感じます。この動画では、聴衆との距離が原因で(部活動における)音楽が歪んでしまっている、ということになっていますが、もちろんそれもあるとは思うのですが、それ以外にも、「誰でも指導者になれてしまう」というのも、原因の一つに挙げられると思います。例えば、以前NHKのある番組で、前年度ダンスの全国大会で3位入賞(だったかな?)をした中学校に、アメリカのダンスの先生が1週間指導に入る、という企画をやっていました。一応、その中学校はヒップホップらしきダンスを踊ってきてたみたいだったので、アメリカ人の先生もヒップホップの先生でした。初日に、生徒のダンスを見た時の米国人先生の感想は、「輝いている子がいない。まるで振り付けをただ正確に踊ればいいって感じね」というもの。その後は、指導している顧問の先生に対して、こんなお話をしていました。「生徒に、ヒップホップの歴史や成り立ちの話をしましたか?そういったことを話すのは、教育としてとても大事ですよね?ヒップホップはたくさんのレジェンドたちが築き上げてきた歴史があります。そういったものに敬意を払ってほしい」頭の記憶を引っ張り出して書いたので、微妙に違ってたら申し訳ないです…この部活動の顧問は全員ダンスは経験がなく、ダンス部の顧問になった時に初めて個人的にダンス教室に行くなどしたそうですが、他のダンス部でも同様の話は聞いたことがありますし、吹奏楽でもこう言った話は聞いたことがあります。また、その部活の科目を大学等で専門に学んだわけではないのに、中高でその部活動の経験がある、というだけで顧問になれるというのも問題だと思います。もちろんそう言った先生は一生懸命なのはよくわかるのですが、そういった先生たちは、意識的又は無意識的に、「学生の大会で勝てる音楽やダンス」を学んでいるのではないのでしょうか?その方法では、音楽やダンスの表面的な部分は学べても、精神的な部分というか、深いところまで学び、そして教えるのは無理だと思います。そして大抵の場合、先生に悪気はなくても、ダンスや音楽が歪んだ形で生徒に伝わることになっていると感じます。ダンスや音楽以外の人間教育も大事という人もいますが、その人間教育は音楽やダンス以外でもできますし、音楽やダンスそのものを蔑ろにして人間教育を優先するなら、音楽やダンスを教える意味がないと思います。車田さんのおっしゃる通り、大会に勝とうとしなくても、真剣に音楽やダンスを教えながら、人間教育することも可能だと思いますし。文化活動を本当に愛する人から学ぶことができた人は幸運です。
私は、コンクールなどで、ドラマチックにしようとしすぎて、わざとらしい(あざとい)音楽的にはとても不自然なクレッシェンドやディミヌエンド指示する指揮者さんが非常に苦手です。若い頃は吹奏楽特有の強弱表現の限界ゆえか、、、と誤解していたのですが、ブリティッシュ金管バンドなどを聴くと、やはり日本のスクールバンドの極端なダイナミックス設定によって生徒さん達の音楽性が歪められているのではと危惧しています。
学校部活動で音楽をやるので、他の運動部のように「優劣を競う競技」になっている。コンクールの弊害とは、部活動の問題ではないだろうか。学校部活動は学校を卒業したら終わりだ。職業的音楽家へ続くわけでもない。運動部もそうなのだけど。部活動の他にも学校には「音楽の授業」というのがある。小中・選択科目として高校、音楽の基礎基本がきちんと教えられていないし、音楽を学校外で習っていないと、五線譜にふりがなが書けませんという他教科では考えられない低レベルのまま進級していく。毎年、歌は恥ずかしい楽器はやりたくないを量産。学校でやらされることはたいてい嫌いになるの法則。
プロの音楽家のコンクールは好きにすればよい。勝敗や記録を競うスポーツならともかく、芸術を競技にして児童生徒に競わせているのがコンクールの大問題。合唱させる目的に生活指導が入ってくる。なんだかおかしい。音楽を授業でやって評価してこれが受験の内申点になる。おかしい。学校になんでも詰め込んでおかしくなっている。音美体は学校から切り離した方がよいのではないだろうか。
@@clatro00 部活動は全て分離すべきですが、大会やコンクールを目指す部活動は学校から切り離してプロやアマチュアのユースにすべきです。一番の癌は高校野球大会。
最後の美味しそうなお顔が楽しみです。お話も、すごいためになります❗️RUclipsで出会えてありがたいデス。
モナリザ出た瞬間、爆笑!
私の認識が間違っているかもしれませんが、数年前から勝手な編曲やカットはできなくなっていると聞きました。現場の学校は吹奏楽ジャーナリストの「オザワ部長」の本などを読んでいると、自分たちの技術向上や聴衆を楽しませることに一生懸命な先生や生徒の姿が見て取れます。だからみんな少しずつ変化はしてきているんだと思いますが、まだまだ一部の大人や学校がおかしなことをしているんですね。そしてそれは大人の事情がですよね、きっと。ぜひ、専門家のみなさんが、今のおかしな実態を連盟や協会に対して直接訴え、改善点を提案してほしいと思います。専門家やプロ、プロ団体からの幅広い視点からの訴えがなければ、狭い視点になりがちな「学校の先生」で構成された協会や団体は絶対に変化しないと思います。コンクールは審査基準や結果発表の内容、それに伴う審査員の人選やルールを変えれば、もっと音楽性も担保されるのではないでしょうか。ぜひ改革をよろしくおねがいします。(私は音楽や学校関係者ではありません)
先生のお話、十分納得できます。私のその通りだと思いました。それ自体が目的で完結するコンクールは、閉鎖的でやはり歪な音楽表現でしょう。ただ、いつか車田先生に取り上げていただきたいのですが、クラシック音楽をジャズに編曲したり、映画音楽として、さまざまに形を変えて利用するのはどう考えればよいのでしょうか。小生は、バロック音楽のジャズ編曲やクラシック音楽を使った映画音楽も大好きです。例えば、昔のフランス映画「愛と哀しみのボレロ」の中でのラベルのボレロも良かったし、フランソワーズ・サガンの小説を映画化した「さよならをもう一度」(ブラームスはお好き)では、ブラームスの交響曲3番3楽章がが、色々形を変えて効果的に歌われます。クナの演奏も大好きですが、この映画の中のモンタンやバーグマンもすばらしく、その中でのブラームスが、うまく心理描写を表現して使われていたのがすばらしいと思います。先生は、こんなのはやはりクラシックに対する冒涜だとお考えでしょうか。
私は、いくつかの楽器を演奏してきたなかで、部活で吹奏楽をしたことがあります。ただし、数少ない先輩が少し教えてくれるだけの小さな集まりであり、自分たちが好きな曲を楽しく演奏するのが目的だったので、コンクールは一切出たことも見たこともありません。・・・最近話題のコンクールのニュースを見て、違和感ばかり感じていました。こんなので楽しいのか? 誰のために何のためにやってんだ? ああ気持ち悪っ ・・・ 音楽っていうのは、教わった通りやっただけでは、面白くありませんし、人生の役には立ちません。自分で右往左往しながら作り上げていくことが、醍醐味なんです。・・・ 年に一度の文化祭での演奏と、一回だけ野球部の試合の応援での演奏とが、数少ない聴衆との接点でした。いやいや、それだけじゃない、自分たち合奏している仲間が、最も重要な聴衆でしたよ! 仲間同士で、ああだこうだ言いながらね。 ・・・ ちなみに私は、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲をもう1000回は聴いていて、そのうち4曲をピアノで弾けるようになりました。
ゴールドベルクを4曲も弾けるようになった、って、素晴らしい🌟
いこ様 アリア,第一変奏曲,第27変奏曲,クォドリベットの4曲です。若いころからの夢の一部を、還暦を超えて実現しました。この4曲は、名曲中の名曲であり、かつ、練習すれば必ず弾けるようになります。
michikoさんQuodlibet が大好きです。車の中で∞再生にして聴き続けたりしてました。これ、難しいですよね。スゴイ👏👏
間違えてすいません🙇♀️😅michioさん
はて、何のお間違えかな? ああ、名前はよく間違えられますね。ゴールドベルクを知っている人がほとんどいないので、返信をいただき、ありがとうございました。
いつの時代でも利用する人いますね。
コンクールで賞を取ることが目的になり、コンクールが無くなれば楽器をやめてしまう子ども達が多いと思います。音楽はスポーツと違って寿命が長いです。たった3年で終わらせるのはもったいないなといつも思います。聴衆のフィードバックがあったらって思うことはありますね。
おやつにリクエストしたいと思います。焼いたモチに海苔巻いて醤油つけたやつ食ってください
中高生のコンクールの聴衆は普段あまり音楽を聴いていない身内が多く一般の聴衆に開かれていませんよね。RUclipsでストリーミングして採点の際にコメントを一部参考にするとか何か聴衆のフィードバックを反映する方法を考えなければいけませんよね。
車田さんのコメントには、毎回、感心してます!!全くその通りだと思います!!子供達に、本当の意味で音楽を楽しむ方法に変えて行かないとですね!何か良い教育システム、あるかしら??他の国、ヨーロッパのドイツ、フランスって、どのような音楽教育してるか?コンクールの在り方は、日本と違うんでしょうね。。。特にプロを目指し、音楽家になろうとする人って、どのように学習してるかしら?を知りたくなりました。いつも有意義な動画を見せて頂き、ありがとうございます😊
日本学術協会の価値観の問題点と同じですね。
あくまでもたたき台として聞いてください。コンクールは県大会まで。入賞校は、市町村の公式行事等に参加して演奏。あとは、学校行事、文化祭とか、卒業式、入学式。
よく高校吹奏楽のドキュメントを観ましたが そこにはその世界の有名な教師のまるで軍隊の指揮官を見るようです😱日本って嫌だ
シベリウスお願いします!
何ともハイカロリーなコーヒーブレイクw
いくつかの談話を拝見させて頂きましたが、どうしても一つ分からないことがあります。吹奏楽コンクール全国大会で演奏しているものは、全て音楽ではない、ということでしょうか?
頂点を高くする事によって底辺が広がるという考えもあって、その役目を担ってきたという面でコンクールの功績は大きく、実際に日本の吹奏楽人口は世界トップだと聞きました。コンクールなんてやめてしまえ、というのでは勿体ないです。車田先生のような方が中に入って、より良い形に改革していかれる事を望みます。
大食い、早食いのテレビ番組が打ち切りになったのは、テレビを真似した、地方の、おにぎりの早食い競争で、のどを詰まらせ死者が出た。批判が出て、大食い、早食い番組のほとんどが打ち切られた。真似したイベントもなくなっていった。
コンクール至上主義は本当に害悪だとは思いますが、コンクールそのもののできる事には限界があると思います。技術面だけを評価するのは或る意味フェアであり、音楽性に対する主観を伴うランク付けはその正当性に疑問を持たざるを得ません。むしろ必要なのは一般の聴衆の前での演奏機会創出・支援だと思います。学校内部で完結するのではなく、地域社会に出て多くの人の前で演奏する事こそが多くの実りをもたらすのではないでしょうか。
今回も色々と考えさせられました。自分が学校の合唱コンクールに出ているときは、音楽ができる喜びのあまり、深く考えたことはありませんでした。けれども、確かに、コンクール、しかも全国大会が行われるようなもの、は、聴衆は皆関係者であり、彼らの評価が全てになってしまいます。全国放送されていても、聴いている人は「今年はレベルが高いか低いか」というようなことに関心を持ち、自分の人生の根幹を揺るがすような音楽の本質にはあまり迫ることはできません。そして、聴衆が最も熱狂するのは順位発表の時であり、自分が属するグループが審査員にどのように評価されたか、だけです。なるほど、このようなあり方は、音楽のあり方を変えてしまう可能性、大いにアリですね。自分の贔屓の演奏家の順位づけに偏った関心へと変質してしまうこともなきにしもあらず。考えるきっかけをくださって、ありがとうございました。
本来、作曲家が伝えたい音楽を吹奏楽用や合唱用にアレンジしてしまうことも問題かなと思います。アレンジする人が作曲家の意図を汲み取った上でやっているならいいんですが、ほとんど無いんじゃないかなと思います。
学生のコンクールに関しては否定的なお考え、ということでしょうか?音楽のあり方も取り組み方や考えも様々ですね。日本のようにこんなに多くの学生が吹奏楽に取り組んでいる国は、他にはないでしょう。コンクールも含め、学生の吹奏楽は日本の文化の1つと言っても良いのでは無いかと思います。それは素晴しいことでもあると思います。私は吹奏楽、そしてコンクールを経験できて良かったと思っています。経験したからと言って、音楽を勝ち負けで定義するようにはなっていません。人間的にも成長でき、その後の人生において得るものは大きかったと感じます。今でも、演奏前に舞台から見た観客席の光景がはっきりと思い出されます。でも、古典的な芸術音楽を学んできた音楽家の先生たちから見ると、日本の学生の吹奏楽は異様なものなのかも知れませんね(それは否定しません)。ですが、クラシックが他国ほど根付いていない日本の国でクラシックの芸術性を語っても聴衆は増えないでしょう。それを聴くのは、いつまでも専門的に学んだ人や限られた人たちだけではないでしょうか。今、クラシックを広めようと、新しい取り組み方をしている若手音楽家がたくさん出てきています。古典的な伝統音楽も新しいアレンジで演奏され、それによって古典的なクラシックを知る入り口になっているケースもありますね。音楽はこうでなればらないということはなく、もっと自由なものだと自分は思っています。
残念ですが音楽には、「こうでなければならない」という決まりごとが沢山あります。それに価値を見出し、それを知りたいと思う人たちが、高いお金を払ってレッスンに通ったり、音楽大学で専門的に勉強しています。多くの音楽家たちがそのような勉強を通して、音楽というものを生み出し続けています。人々は価値を感じない物に対しては、どうしても扱いが雑になります。そしてそれはその物事の形を変えたり、破壊するという行為に繋がりやすいです。観光地の世界遺産も価値を感じない人達の落書きであふれています。コンクールを通してそのような考えの人が増えてしまったとしたら残念でなりません。
私もコンクールの弊害についてはよく考えさせられます。私は高校のときに弱小合唱部に所属し、コンクールとは無縁でしたが、大人になってからまた合唱に惹かれてアマチュア合唱団に入り、今も楽しく続けています。合唱仲間に誘われてプロのコンサートにもよく通うようになり、たくさんの感動や喜びをいただいています。音楽の深いことは全然わからない素人ですが、素人なりに音楽が私の人生を豊かにしてくれているという実感があります。
一方、高校に勤めているので高校生と話す機会が多いのですが、中学で合唱部に所属していたのに高校では帰宅部、という生徒が多く、理由を聞いてみると「この高校は合唱部強くないでしょ」と言うのです。全員、近隣の合唱コンクール中学生の部で全国大会に出場しているいわゆる「強豪校」の出身です。「私は全国行った(くらい上手だ)から、今さら下手なところでは歌いたくない」というのが彼女らの意見でした。これを聞いてガッカリしました…。彼女たちはたかだか中学生のときに音楽に触れた(しかもとても狭い範囲の音楽に)くらいで、その後の人生で「あれ以上はない」と音楽の楽しさ、喜びを知ることもないのです。中学生はまだまだ未熟で、コンクール至上主義の先生に忠実に従うことで、音楽に対する価値観・考え方まで歪になってしまうのですね…。本当に残念なことだと思います。
銅賞常連学校です。
練習は、ごく普通。
しかし、音楽の楽しみを吹奏楽で覚えました。
今は音楽大好きで、オーケストラやカルテットでバイオリンを弾いています。
意外に、弱小校が楽しいのかも。
私は学校で吹奏楽部の指導に関わっています。
コンクールは無意味ではないと思いつつも、そのあり方に何か違和感をずっと感じてきました。このお話で自分の抱えてきた違和感の正体に納得できました。
コンクールを全面否定はしませんが、音楽は、楽しく美しく、各自の個性に応じて技術の向上に励み、人を癒し育てるためのものだ、いう考えに自信を持てました。
長男が車田さんのご出身の音大に在学中です。今年、ご縁があって地元の高校の吹部のコンクール曲指導のお手伝いに行っていました。「バッハの曲をやるっていうのにやっぱりいかにも吹奏楽っぽい演奏になるんだよなぁ」と長男がボヤいておりました。顧問でもないのでお手伝いには限界もあり、音楽についていろんなことを考える良い機会になったようです。車田さんのお話を聞かせていただいてとても腑に落ちました。吹奏楽コンクールの在り方が変わっていくことは難しそうな気がします。根付き方が半端じゃないというか。なので広い視野をもった聴衆が増えると良いなって思います。だからプロや本格的に音楽を学んだ人たちは凄いんだって感じ取れる感性を持った仲間が増えると良いですね。車田さんのチャンネル、たくさんの人に観て欲しいです!
本日の興味深いお話をして聞いたあと、日本人はコンクールに求めるものが違うのでは、という考えがふと浮かびました。ピアノコンクールがベストセラー小説になったり、バレエ漫画でコンクールがクライマックスとなったりするのは、コンクールの中に音楽、芸術そのものではなく、ハラハラする人間ドラマを求めているんじゃないかということです。若い参加者は、芸術的向上より、競い合うという行為の中に生きる手応えみたいなものを探しているのかもしれません。
昔、アマチュア演奏家のコミュニティで演奏会を企画していた頃のことを思い出した。
アマチュアのコミュニティで濃い活動をやってると、演奏者と観客と批評家が全て同じ構成員になっていきました。give-and-takeともいえますし、居心地は良いのだと思います。
私はそれがひどくつまらなぁと思い、ロビーコンサートを企画するようになりました。観客のほとんどは偶然通った人たちでした。私のことを知らない人たちのリアクションが楽しくて、演奏しながら楽器以上に人間観察をしておりました。寝てるように見えて聞き入ってる人がいると嬉しくなったり、お行儀良く聞いているけど本当は眠そうな人、少しつまらなさそうにしてる子どもがいると「如何にして引き込んでやろうか」と演奏しながら考えました。
上手くいかないこともあったけど、楽しかったです。ミスがないことや技術の高いことも大事ですが、音楽の前提は人とのコミュニケーションだと思います。
今は演奏活動はできませんし家でも大きな音が出せませんけれど、共演者や観客との生のコミュニケーションのある演奏は本当に楽しかったです。
今回もまた「ようぞ言ってくれました!」と感謝です。
かつて公立高校で教員をしてた時代のことです。「カット」という言葉を初めて聞いた時の印象です。
吹奏楽では、クラシックの作曲家のものを、コンクールの自由曲にする際、制限時間内に収めるために、
楽曲を「一部省略」して演奏することがあります。それを「カット」と言います。一見音楽が流れるように聞こえると、「良いカット」と言われます。
作曲家は、自分の楽曲を世に出すときには、余分なものを削ぎ落とし、全霊をこめて出すはずです。その楽曲を、一介の地方法務員が、音楽を学んできたとはいえ、「カット」するなど、僭越の極みです。
「コンクールの存在意義」の所は、まさにそうですね。
私は、声楽を専攻しましたが、全国的に繋がるような合唱コンクール(地方大会も含めて)における、「生徒たちの顔の表情」には、本当に「気の毒」としか言えないような、違和感を感じます。生徒が可哀想でなりません。
奇妙な顔で歌っているところが金賞だったりすると、「あれが良い歌いかたなんだ」と、思い、周りも拍手喝采で、、、益々、「あれは変だ」とは、言えなくなるのでしょうね☺️裸の王様のお話しを思いだしました。
それぞれの世界には歴史があります。吹奏楽、合唱コンクールも最初は学生に音楽を親しむ機会を与える、音楽技術の向上を目指したあくまで教育的な配慮のあったものだ思います。ただそれがだんだんに過熱することは悪くはないけど、車田さんがおっしゃるように形が変わってきてしまった。本来の目的を忘れてただコンクールに勝つことだけを目指するようになって、動画にもありましたが聴衆不在になってしまった。演奏以外のいくつかの部活動の目的として言われていることは、「そういう目的もなくはないよ」的な何となく付随的に言われているように思えます。
あくまでも音楽です、そう考えると車田先生のおっしゃることはごもっとも。
困るのはそうした体制の中に次々に若い音楽の先生、そして音楽を知らない生徒が入り、「音楽とはこういうものだ」と誤認識してしまうこと。違うジャンルだ、、という方も現状だけではなく、音楽の歴史を顧みれば何かがおかしいと気が付くのではないでしょうか。
それと私が吹奏楽コンクールを経験していますが、過去の楽曲を安直に吹奏楽用など別のスタイルに編曲してしまうことが多いことが危惧されます。それがよりよくなるならいいのですが、殆どの場合、「こうやってみました」「こんなスタイルでもできます」というような最終的な美を目指したものではなく、何となく変えました的なものになって、聴衆もそんな安直なものを喜ぶ。これもおかしなことだと思います。
こういうことを発言することは勇気のいることだと思いますが、きっと当事者も少なからず疑問を持っていると思います。是非続けてお願いします。いつもの理路整然としたお話しはとても有意義と思います。
「銀賞くらいが丁度いい」と思っていました。そういう聴き方もあったのだと肯定されたようで嬉しいです。
聴衆のフィードバックあってこそ音楽。確かにそうですね。
指揮者の佐渡裕さんは若い頃に吹奏楽部の顧問をやっていたころ、審査員室に楽譜を投げつけてきたそうですね。車田さんと同じような思いがあったのでしょうか。
吹奏楽コンクールの全国大会を聞くたび、なにもそんなに上手くやらなくてもいいのに、と常々思っていました。感心はするものの感動はしないんです。明らかに身内からの「ブラボー!」もなんか空虚ですね。
娘が吹奏楽にはまり、私もこの世界の素晴らしさを知りました。佐渡裕さんが常時100万人も吹奏楽をやっている国はどこにも無いと言ったのを聞き、過去の指導者たちの苦労に感謝しました。ただ一方で、雨でも休めず土日も練習過多の状況、それからその後は家族以外は殆ど見に行けない状況は異常と感じており、勝ち負けに拘り弊害も大きいことも感じていました。高校野球が典型ですが、高校生が野球をやるのは自由です。しかし何日間も公共放送が全試合を放送し、一々マスコミが美談を取り上げるのは世界的に見ておかしいと思います。日本人はおかしな方向に進んでいるものが多いのに、大きくなると変えられないのです。評判が悪い同調圧力のせいでしょうか?
マスコミ、スポンサーが諸悪の根源ですね。NHKなんて、放送しなくていいのでは?? 野球以外にも高校生はいっぱい汗をかいています。公共放送なら、もっと公平に扱うべき。新聞社も同じ。高校生のアーチェリーとかフェンシングの記事なんて注目されないです。甲子園だけではありませんよ、会場は。
その通りですね。
車田さんは教育者としての経験もあるからでしょうが、現在の状況よりも未来の日本の音楽界のあり方について様々な発信をされていると感じています。
今回の、聴衆からのフィールドバックと言う視点は最も重要な事だと思います。
明治維新のとき西洋文化を取り入れようと言う一環としてクラシック音楽が日本に入って来たことや、戦後の高度成長期において経済だけでなく音楽や芸術においても欧米に負けるものかと頑張った結果、ゆったりとのんびりとクラシック音楽に接する機会が日本にはなかったのでないかと思います。
今ではいちリスナーとして誰でもクラシック音楽を享受できるようになりました。
しかし、教育の場それに付随するコンクールのあり方においては、我々はもっと視野を広げ深く考えなくてはならないでしょう。
何のために音楽があるのかなぜ音楽が必要なのか、それは人間とは何なのか世界とは何なのか、愛とは平和とは何なのかというような、宗教的なことや哲学的なことを抜きにしては考えられませんが、先ずは、聴衆からのフィールドバックこれを大事にすることから始めるしかないですよね。
人間の明るい未来を切り開く力の一つが音楽にはある。
車田さん、今後も頑張ってください。
学問を使って受験戦争をしたり、数学を使って数学オリンピックをしたり、物理学を使ってレコードが開発されたり産業革命させたり核爆弾を作ったり、、、音楽も同じですね。学問も芸術も技術も競争も、相互に刺激しあって悪い方向にもいい方向にも時間とともに変わってきました。僕はこれが許せなくてこれらを否定し続けてきましたが、最近は意味がないことに気が付いてきました。大変なことですが、どうにか良い変化も悪い変化も受け入れながら柔軟に軌道修正できるような人になりたいです。やはりそのためにも、常に歴史や本質を意識し続けられるようにしたいものです。
アニメ「四月は君の嘘」で描かれているように、コンクールで聴衆が大喝采する演奏は必ずしも審査員には評価されません。
吹奏楽コンクールでも、ノリノリの演奏で観客を楽しませる演奏が金賞をとれないという場面を何度も見てきました。観客が選出する特別賞のような方法もありますが、なかなか審査基準そのものをどうするか、となると難しいですね。
先生のお話を拝見する度に、今まで感じていた違和感が
「ああ、そう言う事だったのか、」とスッキリさせて頂いております。
今度は是非、芸能と芸術についての車田先生のご意見お聞かせ願いたいです。
本当にその通りだなぁ、よく言ってくれました。心から尊敬します。
お話しの内容からズレたコメントになりますが、吹奏楽コンクールでは時間制限のためカットして演奏することが普通ですが、吹奏楽を通じて好きになった音楽のレコード(!!)を買ってみたら、吹奏楽の演奏では聞いたことがない部分が出てきて「こんな良い部分があったんだ」と驚いたことが何度もあります。自分が昔いた市民バンドの指導者はとにかくカット魔で、時間の制約がないコンサートですらカットしたりしていました。コンクールでのカットは仕方ないにしてもそれが当たり前になってしまうのは本当に悪しき習慣だと思います。
あと金管主体のバランスも改善してほしいです。トランペット・トロンボーンはオーケストラと同様1パート一人で十分だと思います。
チェロをやっていましたが、アマオケの、ブラバン脳の人や指揮者が苦手でやめました。音程無視で縦の線だけ合わせる所作、コンクール金賞自慢とか。学生オケ時代にウイーンで演奏したとかが真剣に自慢な人もおり、さらに苦手でした。
@@clatro00 さま
弦にも、その、点を要求する人がおり、たいてい学生から楽器演奏始めた人ですが、閉口します。
とても参考になりました。とくに作曲家、演奏家、聴衆の関係が大切ということが。
わたしが吹奏楽部に機会があれば訴えているのは、たくさんの名曲にふれること。編曲でクラシック、ジャズ、ポップスの名曲と出会う。
管楽器の奏法だけでなく音楽の基礎基本を謙虚に学ぶこと。調性、和音など。
個人練習の時間を持ち自分一人で楽器と向き合うこと。
音楽を聴くこと。
生涯音楽を愛することができる人になることが目的。
また、教育の観点で、
生徒自身が部活を主体的に運営すること。そこからコミュニケーションなどを学ぶ。
コンクールの過熱などは避け、勉強やプライベートに支障のない適切な時間配分をすること。
ハラスメントのない指導。
心を育む、開放する教育的な活動。
なかなか言い方は難しいし、理解は得られませんが。
吹奏楽や合唱などの部活に入り演奏したいと思う子供たちは真面目な生徒さんが多いです。
個人的にレッスンに行くほうが
実力も基礎も身に付くのも早く確実ですが、専門家を目指す生徒は集団活動はそもそも選ばないでしょうね。
だから部活は青春の思い出づくり、
音楽でコンクールを目標にして
戦いたい、優劣まさに優越感と劣等感を味わうのがコンクールかもしれません。音楽は一生楽しめますが、
ゆとりがないと楽器も買えませんし
部活で演奏することは素晴らしいと考えるご家庭は多い。
本物のプロの演奏を知っていたら
特に音大に行くつもりなら、
部活で演奏するのが時間的に生徒個人のロスになることを自ずとわかるでしょう。皆で成し遂げる、学校の名誉と考える人にはコンクールで賞を取る価値はあるのでしょうね。
合唱でも吹奏楽でも目標に向かって協同して音楽を作っていくということは教育効果があることは認めます。運動部のように勝つことを目指して努力することは悪いことではないと思います。しかし、何を持って勝ちとするのかといえば、他校よりうまいという評価、参加校の中で一番うまい、という評価です。そして何をもってうまいとするのか。それはこの動画の中で語られている通りだと思います。公平のために設けられた審査基準の中で勝とうとしたら、通り一遍の演奏になる。上手いけれど感動しないという演奏になる。コンクールと言えば、高校3年の時、助っ人を頼まれて出たNHKの合唱コンクールを思い出す。我校は4位だったが、後で録音を聴いて、自分たちが1位だったと思った。しかも、1位から4位までの順位はむしろ逆ではないか、4位が1位で、3位が2位で、1位が4位ではないか、と今その録音を聴いてもそう思う。3位だった高校の先生も、審査員の勉強不足だ、と言っていた。
結果的に聴衆に還元されるコンクールと、そうではないコンクールとがあり、音楽的観点からすれば、その大きな違いはフィードバックがあるか否か、という点は確かに大きいと思われます。
この問題に限らず、日本では何かを集団で学び始めると「道」となる傾向があり、いわゆる「集団への高度な組み込まれ」現象が起こる。高度な技術を磨ける一方、仮に作曲者や多層な聴衆とのコミュニケーションが失われ、「音楽」を楽しむ余裕がなくなってしまえば、せっかく頑張ってやっているのに、勿体ないと思います。
…明日、スコーン買いにいきます。
中学や高校のブラスバンド部・合唱部、文化祭では皆が盛り上がる目玉プログラムですよね。大学のオケも嬉しくなります。~音楽そのものの楽しみとは少々ズレてるかもしれませんが・・。
学校行事や地域のイベントで、もっともっと盛り上がる機会があってもいいかも。
コンクールの過熱が本来の値打ちから離れていくお話。大食い競争の例えは、秀逸ですわ!
【それにしてもスコーンを食べる先生、幸せそう。大丈夫ですかぁ(笑)】
受験勉強や様々な競技や大会についても、同様の逸脱がありそうだと思って見ていました。
合唱は「揃えなくても良い」、に驚きと共感・感動を覚えました。
前にもコメントをしましたが、自分は田舎育ちなのでテレビでしか見たことが無いような楽器を実際に手に取って、それを演奏出来る事が嬉しくて嬉しくてホント楽しかったです。
コンクールも必ず出ていましたが、それって学生が自主的に参加するものでは無くて、顧問の音楽教師が参加を決めて生徒に練習させるって感じですよね。これも楽しく出来ない原因の一つかも…。
文化祭やスポーツの大会の応援演奏等、学生ならではの活動がコンクールなんかよりも大切な気がします。
過去そのように部活動でやってたくせに、吹奏楽を聴くことに興味ももてないし、学生の合唱にも全く気持ちが動きません。聴いてて良いなあと思う曲も無いし。。。
私は学生の吹奏楽、合唱の良い聴衆になれそうも有りませんよ~😂
前回も思いましたがカップが美しくて素敵だなぁと思いました😃
私自身は中高の吹奏楽とは殆ど関りがないのですが、プロの管楽器奏者からの新曲委嘱で「吹奏楽向けでないもの」というオーダーを受けたことがあるので、やはり独特の世界なのだなぁという印象です。もしこの先ご縁があって吹奏楽向けの新曲の依頼が来たら自分だったらどうするかな・・・と考えてしまいました。
ヨーク分かりました。全く同感ですありがとうございます。
音楽を自分の都合で変えてはいけない
吹奏楽曲の編曲の中で明らかに元の曲を自分の都合、そして吹奏楽コンクールの都合で改編しているような曲があるような気がします。
ここでは述べませんが、吹奏楽曲の中に作曲者を冒涜するような改変や、リスペクトに欠けたような編曲があってこれでいいのみたいな曲もありました。
そういうことが認められる世界がなんか変だなとも思います。
ラストのコーヒータイムが、いつも最高の描写で癒されます~ ♪
たっぷりの生クリームをスコーンに乗せて、もう至福の時ですね。
いよいよ日本音楽コンクールビアノ部門開幕。楽しみです。
コンクールの審査の結果に一般観客席からブーイングが出た事もありましたね。
素晴らしい話に共感しながら試聴してたら、最後のスコーンで全部吹っ飛んだ・・・・
コンクールがより音楽的高みを目指す手段であれば良いけどコンクールが目的になってはならないということかなと思いました。
いつも愉しく観させて頂いています。かつて指導に携わっていました。
楽器を吹くのは1日2時間以内
土日は月二回ずつ休み
(練習は3時間以内)
夏休みに10年毎の教員免許更新に当たってM音大に通う日程がコンクール前で 田舎の学校だったので それなり理解があり、午前6時半から8時まで 午前7時から9時までの練習も出来た→窓を開けても苦情が来ない環境。
3年生も出場でないとコンクール出られない人数でしたので、
塾の夏期講習前に 30分吹いてから早退で塾に行く生徒も。
コンクール前日だけは1時間の合奏 出場者は必須。
練習もパート練習→合奏では無く
合奏(通し録音1回)聴く→パート練習又は個別 セクション練習と通常の逆パターンで 3年生が少しでも合奏に出られる様に。
月曜日会議でない日が月1日あり部活に出れる時は 合唱の日として、自由参加…大概の女子は参加していて、男子に別室で個人練習で吹いている数人がいました。
コンクールは予選通過でBグループ県大会参加チームでは当時では最小人数でした 22.3人〜27人
銅賞たまに銀賞(県大会は優秀、優良といった時も)
生徒も これだけ練習して無くて
も県大会に出られる学校として誇りに思っていたみたいです。
県大会ブービー賞狙い⁈
折角出るんだから最下位だけは避けたいね! が合言葉。
曲のレベルは 難しい方で フィンランディア か パリの喜び
動物の謝肉祭から
一度 狂詩曲スペイン
ローエングリンより エルザの大聖堂と第三幕序曲 ドビュッシーの小組曲より。
クラシックは指揮者編曲…ソロに無い楽器も有るので。
コンクール曲は1年間の練習に耐えられる曲を…名曲から学ぶ。
昔よりはクラシックの名曲を耳にする機会はCM等でも有るかも知れませんが、本気で聴く機会は少ないので…、演奏すれば自ずから
聴く様になるので…。
私の出身高校はオペラの序曲しかコンクールでは吹かない学校でした。自分が卒業してから関東大会金賞常連、たまに全国大会へ…全国に行った次の年はコンクール休み
…でしたが、今年はそれをしなかったらか⁈県大会で銅賞でした…(汗
中学でソロを受け持った生徒で数人が音大 教職へと就いています。
当時では
…卒業後、音大を目指すなら
高校の吹奏楽は入らずに
音大付属音楽教室か大学の先生に師事する事を勧めました。
当時、今も⁉︎ 音大の先生からは
吹奏楽の理解は低くて、吹奏楽出は使い物にならん! バッハ モーツァルト ベートーベン ブラームスが吹けない‼︎ …吹かせられない…と、自身が研修で音大に行くと 懐かしい先生方のお話。
←音大に月謝納めて卒業証書を買う⁉音大の経営を支える︎生徒になってしまうので…。
彼らも もう40代に入っていますので、今は事情が違うかも知れませんが…。
当時 欧米では、吹奏楽でJHSなら、HSで吹いて良い曲という 選択曲一覧と言うものがあった様です…野球のシニアの100球以内と同じく…。それらを参考に←それでも背伸びしていたかも知れません。
みんな同じ顔して同じ口開けて歌う ◯コンは観ていて違和感ですね! 口の中、骨格一人一人違うのに…変。
社会人になってからの、旧 朝日コンクール、全日本合唱コンクールは 練習、発表の場 励み 愛好 と言う意味では 勝ちもあるのかと思います。
審査も順位制で約半数を各審員が順位を付けて…20団体なら1〜10位、残りは11位…で、全審査員の結果公表。総合点数が少ない方から1位…。育てると言う意識が在る様で好評も…吹奏楽の様に辛辣では有りません。
福島、宮城は合唱王国…か続いてますが…。
追記です。
合唱は面で揃える、
吹奏楽(合奏)は点で揃えると
聴きました。
全国大会金賞団体…県内のを
聴いた時 本当に面で揃っていて
聴いていて、末恐ろしかった…です。感動した…では無く。
個を殺してでも 集団の面を守る
…それって音楽なのか?
かつての ソビエト、北朝の
軍隊パレードと何が違うのか⁈
ちなみに、入場、礼、退場も一糸乱れず足音迄も揃っていました…。同じデザインの皮靴を履いて…。
足音は可能な限り させない様に歩くのがホールでのステージマナーだと思っていたのですが…、そう指導もして…。
全国高校文化祭の お琴の合奏も
全員同じ動きして 弦の押し手も
姿勢、タイミング、押す角度、そして戻る、柱を動かす、戻すタイミングまでも揃っていて …文科大臣賞‼︎ でした。同様に聴いていて心が凍り付きそうで怖かったです。
@@clatro00 コメントありがとうございます。
昔の話ですが、県大会8月、関東大会9月、全国10月、アンサンブルコンテスト県大会11月…年を跨いで全国←今は12月⁉︎
…学力で推薦で大学決まっていれば良いのですが、就職も間に合わず…、結局 3月の事実上の欠員で音大の管打楽器 又は吹奏楽専攻…ピアノは弾けなくても入れる。普通の管楽器科のソナタ等の課題曲では無く、コンクールで吹いた曲、全くメロディーの無いパート譜でも、暗譜でなくても良い… 其処しか受からず、ピアノは音大に入ってから選ばなくても卒業出来るから良い(副科) …、4年間で1000万円…、奨学金制度利用しても、
安定の公務員、教職に着くのは無理…ピアノと声楽の実技試験ある。 YAMAHAの吹奏楽の指導派遣講師になっても手取り1日5000円、1万円…、奨学金の返済は有り、、。在京音大でも毎年100人からが
その吹奏楽専攻へ…。 本当にその道で良かったのか…、音楽は好きで続けて欲しいが…。抜群に上手い人は吹奏楽上がりでも在京オーケストラ、プロ吹奏楽団に入団できますが、極少数。 2月の後半に音大に遊びに行くと…、練習室から 吹奏楽上がりと解る 練習する音が聴こえてきます。
…未だ、どこにも受かっていないんだなぁ…。(入ってもチョット無理かも⁈な演奏が…) 親としては そこだけでも受かれば、何とか工面して入学させたいと…。
祭りの後の 後始末をしないで
放りだす(卒業すれば関係ない)
中学で全国大会行ったから、吹奏楽は
もう卒業‼︎ (一生分吹いた‼︎) …残念ですが、その子の方が 先見の証が有ることに…。
カラオケ採点番組を思いだしました。TVを視る層も比較採点病にかかってるんですね。ドイツでの事情が知りたいです。
学校の合唱や吹奏楽のコンクールについてでしたが、なるほど!と納得しました。あまり興味もなくテレビで目にする程度でしたが、違和感の理由が分かりました。
ところで、車田さんが住んでおられるドイツでは、たとえばピアノとかバイオリンとか、子供の音楽教育の事情はどのようになっているのでしょうか?
生徒をコンクールに積極的に出す方針の先生がいて、そこに全国から生徒(の親⁈)が集まり、教祖と信者のような雰囲気になっている例を見ました。
違和感があるのですが、これも日本独特の事情なのでしょうか? 自分の子を昔、そのような場に入れてしまい、今ではピアノに触りもしないのを、とても残念で、子供に申し訳なかったことと悔やんでいる私です…
さらに問題なのは、中高時代に吹奏楽コンクール・合唱コンクールに励んだ人が、長じてこの「コンクールミュージック」が「音楽だ」と思い込んでしまうケースがしばしばあることです。それを基準に音楽について話すので、ますます音楽の本質から乖離していってしまいます。
アマチュアのソプラノ カウンターテナーです。
よくぞ、おっしゃってくださいました!
私個人の実体験ですが、「男のソプラノ」 という特殊な voice type ですので、ソロで歌うことしか
ありえず、コーラスは避けてきました。
ところが。長年コンクール向けコーラスの指導をしてこられた指揮者の方が私に対し
「要は、ソプラノでしょ? うちのコーラスに入ってよ」 (なんと、乱暴な!)
とおっしゃたケースが以前にあって、仕方なく試しに一緒に歌ってみると、
その指揮者の方が 「ヴィヴラートを消してよ。コーラスだから」 ・・・!!!
私の場合、ヴィヴラートは意図的にかけてるんじゃなく、勝手にかかるので、
ヴィヴラートを消そうとすると発声のあり方そのものをいじくる結果に ・・・
もちろん、お断りです!
それ以来、「コーラス参加はお断り!」 という方針にしております。
日本でのコーラス指導の特異性 (おそらく、コンクールの影響も無視できない) が、
私にまで 「とばっちり」 をかけてしまった実例ですね。
ちょっと過激に整理すると、中高生のコンクールは音楽なのか音楽じゃないのか、ということなのではないでしょうか。先生は音楽だと思って訴えかけても、コンクールは音楽じゃないと思っている人たちには届かないと思います。音楽じゃないものに生活が懸かっている人たちにとっては死活問題ですからね。私は吹奏楽部にいましたが、個人的には、音楽が好きな人には吹奏楽部に入ることはお勧めしませんね。
う〜む、西洋音楽を日本の味付けで、フォークの背中に乗っけて食べるコンクールですかww
ウチは銅↔︎銀の往復校でしたから、ワタシが若い頃指揮振ってた時も、音楽なんだから音を楽しんでこようぜ!ぐらいでしたけれども、あの楽屋の雰囲気は結構嫌なものがありましたよ。特にちょっと上手な学校などは挨拶もしないし、周りを敵みたいな目で見ていましたからね。噂のルールも【足は左を前に出して右は引っ込めろ】みたいな、昔からクラシックのコンサートを自由な形で聴いていたワタシとしてはだいぶ引きましたけどね。その他色々…まぁでも今となっては夏のいい思い出ですかねぇ。
ウチの親は毎年聴きに来て、それこそ音楽を楽しんで帰ってたみたいですけれどもwwウチを含め他校の演奏の批評なんかもしてましたね🤣
でも寂しいかな、25年以上経った今でも楽器やってる人間はワタシ以外ほとんど居ませんですよ⤵︎
生クリームは自分の家で……飼ってる牛の乳で作りました。って言われるかと思って一瞬ビビりました。実は農民歌手なのかと。
遠い昔の中高生だった頃、吹奏楽部に感じた違和感の正体が何かが分かった様に思いました。コンクールがあると聞いて、吹奏楽ってそもそも競うものなのか??という漠然とした違和感があったのを覚えています。もしやるならコンクールじゃなくてコンサートなんじゃないのかなぁ…でも部活だから陸上や野球みたいに勝負しないといけないのかなぁ等と子供ながらに思っていました。
現在、子供が吹奏楽部に入っているので当時の事を思い出していたところで拝聴させて頂き、色々と考えさせられました。幸い子供の学校は強豪校ではなく、技術的に未熟でも参加させてもらってアンサンブルの楽しさを体験できている様です。それはとても有難いことなので、楽しんでいる子供本人にコンクールについて否定的な事も言えず…やはり指導者の方々が部活やコンクールの在り方をより良い方向に向けて頂きたいですね。
この動画だけでなく、車田さんの動画全般は、吹奏楽部合唱部関係者はもちろんのこと、ダンス部関係者にも観ていただきたいです。
別の動画でもコメントしましたが、この3つの部活動は共通の問題を抱えているように感じます。
この動画では、聴衆との距離が原因で(部活動における)音楽が歪んでしまっている、ということになっていますが、もちろんそれもあるとは思うのですが、それ以外にも、「誰でも指導者になれてしまう」というのも、原因の一つに挙げられると思います。
例えば、以前NHKのある番組で、前年度ダンスの全国大会で3位入賞(だったかな?)をした中学校に、アメリカのダンスの先生が1週間指導に入る、という企画をやっていました。
一応、その中学校はヒップホップらしきダンスを踊ってきてたみたいだったので、アメリカ人の先生もヒップホップの先生でした。
初日に、生徒のダンスを見た時の米国人先生の感想は、「輝いている子がいない。まるで振り付けをただ正確に踊ればいいって感じね」というもの。
その後は、指導している顧問の先生に対して、こんなお話をしていました。「生徒に、ヒップホップの歴史や成り立ちの話をしましたか?そういったことを話すのは、教育としてとても大事ですよね?ヒップホップはたくさんのレジェンドたちが築き上げてきた歴史があります。そういったものに敬意を払ってほしい」
頭の記憶を引っ張り出して書いたので、微妙に違ってたら申し訳ないです…
この部活動の顧問は全員ダンスは経験がなく、ダンス部の顧問になった時に初めて個人的にダンス教室に行くなどしたそうですが、他のダンス部でも同様の話は聞いたことがありますし、吹奏楽でもこう言った話は聞いたことがあります。
また、その部活の科目を大学等で専門に学んだわけではないのに、中高でその部活動の経験がある、というだけで顧問になれるというのも問題だと思います。
もちろんそう言った先生は一生懸命なのはよくわかるのですが、そういった先生たちは、意識的又は無意識的に、「学生の大会で勝てる音楽やダンス」を学んでいるのではないのでしょうか?
その方法では、音楽やダンスの表面的な部分は学べても、精神的な部分というか、深いところまで学び、そして教えるのは無理だと思います。
そして大抵の場合、先生に悪気はなくても、ダンスや音楽が歪んだ形で生徒に伝わることになっていると感じます。
ダンスや音楽以外の人間教育も大事という人もいますが、その人間教育は音楽やダンス以外でもできますし、音楽やダンスそのものを蔑ろにして人間教育を優先するなら、音楽やダンスを教える意味がないと思います。
車田さんのおっしゃる通り、大会に勝とうとしなくても、真剣に音楽やダンスを教えながら、人間教育することも可能だと思いますし。
文化活動を本当に愛する人から学ぶことができた人は幸運です。
私は、コンクールなどで、ドラマチックにしようとしすぎて、わざとらしい(あざとい)音楽的にはとても不自然なクレッシェンドやディミヌエンド指示する指揮者さんが非常に苦手です。若い頃は吹奏楽特有の強弱表現の限界ゆえか、、、と誤解していたのですが、ブリティッシュ金管バンドなどを聴くと、やはり日本のスクールバンドの極端なダイナミックス設定によって生徒さん達の音楽性が歪められているのではと危惧しています。
学校部活動で音楽をやるので、他の運動部のように「優劣を競う競技」になっている。コンクールの弊害とは、部活動の問題ではないだろうか。
学校部活動は学校を卒業したら終わりだ。職業的音楽家へ続くわけでもない。運動部もそうなのだけど。
部活動の他にも学校には「音楽の授業」というのがある。小中・選択科目として高校、音楽の基礎基本がきちんと教えられていないし、音楽を学校外で習っていないと、五線譜にふりがなが書けませんという他教科では考えられない低レベルのまま進級していく。毎年、歌は恥ずかしい楽器はやりたくないを量産。学校でやらされることはたいてい嫌いになるの法則。
プロの音楽家のコンクールは好きにすればよい。勝敗や記録を競うスポーツならともかく、芸術を競技にして児童生徒に競わせているのがコンクールの大問題。合唱させる目的に生活指導が入ってくる。なんだかおかしい。音楽を授業でやって評価してこれが受験の内申点になる。おかしい。学校になんでも詰め込んでおかしくなっている。音美体は学校から切り離した方がよいのではないだろうか。
@@clatro00 部活動は全て分離すべきですが、大会やコンクールを目指す部活動は学校から切り離してプロやアマチュアのユースにすべきです。一番の癌は高校野球大会。
最後の美味しそうなお顔が楽しみです。お話も、すごいためになります❗️
RUclipsで出会えてありがたいデス。
モナリザ出た瞬間、爆笑!
私の認識が間違っているかもしれませんが、数年前から勝手な編曲やカットはできなくなっていると聞きました。現場の学校は吹奏楽ジャーナリストの「オザワ部長」の本などを読んでいると、自分たちの技術向上や聴衆を楽しませることに一生懸命な先生や生徒の姿が見て取れます。だからみんな少しずつ変化はしてきているんだと思いますが、まだまだ一部の大人や学校がおかしなことをしているんですね。そしてそれは大人の事情がですよね、きっと。
ぜひ、専門家のみなさんが、今のおかしな実態を連盟や協会に対して直接訴え、改善点を提案してほしいと思います。専門家やプロ、プロ団体からの幅広い視点からの訴えがなければ、狭い視点になりがちな「学校の先生」で構成された協会や団体は絶対に変化しないと思います。
コンクールは審査基準や結果発表の内容、それに伴う審査員の人選やルールを変えれば、もっと音楽性も担保されるのではないでしょうか。
ぜひ改革をよろしくおねがいします。(私は音楽や学校関係者ではありません)
先生のお話、十分納得できます。私のその通りだと思いました。
それ自体が目的で完結するコンクールは、閉鎖的でやはり歪な音楽表現でしょう。
ただ、いつか車田先生に取り上げていただきたいのですが、クラシック音楽を
ジャズに編曲したり、映画音楽として、さまざまに形を変えて利用するのは
どう考えればよいのでしょうか。
小生は、バロック音楽のジャズ編曲やクラシック音楽を使った映画音楽も
大好きです。例えば、昔のフランス映画「愛と哀しみのボレロ」の中での
ラベルのボレロも良かったし、フランソワーズ・サガンの小説を映画化した
「さよならをもう一度」(ブラームスはお好き)では、ブラームスの
交響曲3番3楽章がが、色々形を変えて効果的に歌われます。
クナの演奏も大好きですが、この映画の中のモンタンやバーグマンも
すばらしく、その中でのブラームスが、うまく心理描写を表現して
使われていたのがすばらしいと思います。
先生は、こんなのはやはりクラシックに対する冒涜だとお考えでしょうか。
私は、いくつかの楽器を演奏してきたなかで、部活で吹奏楽をしたことがあります。ただし、数少ない先輩が少し教えてくれるだけの小さな集まりであり、自分たちが好きな曲を楽しく演奏するのが目的だったので、コンクールは一切出たことも見たこともありません。・・・最近話題のコンクールのニュースを見て、違和感ばかり感じていました。こんなので楽しいのか? 誰のために何のためにやってんだ? ああ気持ち悪っ ・・・ 音楽っていうのは、教わった通りやっただけでは、面白くありませんし、人生の役には立ちません。自分で右往左往しながら作り上げていくことが、醍醐味なんです。・・・ 年に一度の文化祭での演奏と、一回だけ野球部の試合の応援での演奏とが、数少ない聴衆との接点でした。いやいや、それだけじゃない、自分たち合奏している仲間が、最も重要な聴衆でしたよ! 仲間同士で、ああだこうだ言いながらね。 ・・・ ちなみに私は、グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲をもう1000回は聴いていて、そのうち4曲をピアノで弾けるようになりました。
ゴールドベルクを4曲も弾けるようになった、って、素晴らしい🌟
いこ様 アリア,第一変奏曲,第27変奏曲,クォドリベットの4曲です。若いころからの夢の一部を、還暦を超えて実現しました。この4曲は、名曲中の名曲であり、かつ、練習すれば必ず弾けるようになります。
michikoさん
Quodlibet が大好きです。車の中で∞再生にして聴き続けたりしてました。これ、難しいですよね。スゴイ👏👏
間違えてすいません🙇♀️😅
michioさん
はて、何のお間違えかな? ああ、名前はよく間違えられますね。
ゴールドベルクを知っている人がほとんどいないので、返信をいただき、ありがとうございました。
いつの時代でも利用する人いますね。
コンクールで賞を取ることが目的になり、コンクールが無くなれば楽器をやめてしまう子ども達が多いと思います。音楽はスポーツと違って寿命が長いです。たった3年で終わらせるのはもったいないなといつも思います。
聴衆のフィードバックがあったらって思うことはありますね。
おやつにリクエストしたいと思います。焼いたモチに海苔巻いて醤油つけたやつ食ってください
中高生のコンクールの聴衆は普段あまり音楽を聴いていない身内が多く一般の聴衆に開かれていませんよね。RUclipsでストリーミングして採点の際にコメントを一部参考にするとか何か聴衆のフィードバックを反映する方法を考えなければいけませんよね。
車田さんのコメントには、毎回、感心してます!!全くその通りだと思います!!
子供達に、本当の意味で音楽を楽しむ方法に変えて行かないとですね!何か良い教育システム、あるかしら??他の国、ヨーロッパのドイツ、フランスって、どのような音楽教育してるか?コンクールの在り方は、日本と違うんでしょうね。。。特にプロを目指し、音楽家になろうとする人って、どのように学習してるかしら?を知りたくなりました。
いつも有意義な動画を見せて頂き、ありがとうございます😊
日本学術協会の価値観の問題点と同じですね。
あくまでもたたき台として聞いてください。コンクールは県大会まで。入賞校は、市町村の公式行事等に参加して演奏。あとは、学校行事、文化祭とか、卒業式、入学式。
よく高校吹奏楽のドキュメントを観ましたが そこにはその世界の有名な教師のまるで軍隊の指揮官を見るようです😱
日本って嫌だ
シベリウスお願いします!
何ともハイカロリーなコーヒーブレイクw
いくつかの談話を拝見させて頂きましたが、どうしても一つ分からないことがあります。
吹奏楽コンクール全国大会で演奏しているものは、全て音楽ではない、ということでしょうか?
頂点を高くする事によって底辺が広がるという考えもあって、その役目を担ってきたという面でコンクールの功績は大きく、実際に日本の吹奏楽人口は世界トップだと聞きました。コンクールなんてやめてしまえ、というのでは勿体ないです。車田先生のような方が中に入って、より良い形に改革していかれる事を望みます。
大食い、早食いのテレビ番組が打ち切りになったのは、テレビを真似した、地方の、おにぎりの早食い競争で、のどを詰まらせ死者が出た。
批判が出て、大食い、早食い番組のほとんどが打ち切られた。真似したイベントもなくなっていった。
コンクール至上主義は本当に害悪だとは思いますが、コンクールそのもののできる事には限界があると思います。技術面だけを評価するのは或る意味フェアであり、音楽性に対する主観を伴うランク付けはその正当性に疑問を持たざるを得ません。むしろ必要なのは一般の聴衆の前での演奏機会創出・支援だと思います。学校内部で完結するのではなく、地域社会に出て多くの人の前で演奏する事こそが多くの実りをもたらすのではないでしょうか。
今回も色々と考えさせられました。
自分が学校の合唱コンクールに出ているときは、音楽ができる喜びのあまり、深く考えたことはありませんでした。
けれども、確かに、コンクール、しかも全国大会が行われるようなもの、は、聴衆は皆関係者であり、彼らの評価が全てになってしまいます。全国放送されていても、聴いている人は「今年はレベルが高いか低いか」というようなことに関心を持ち、自分の人生の根幹を揺るがすような音楽の本質にはあまり迫ることはできません。そして、聴衆が最も熱狂するのは順位発表の時であり、自分が属するグループが審査員にどのように評価されたか、だけです。なるほど、このようなあり方は、音楽のあり方を変えてしまう可能性、大いにアリですね。自分の贔屓の演奏家の順位づけに偏った関心へと変質してしまうこともなきにしもあらず。
考えるきっかけをくださって、ありがとうございました。
本来、作曲家が伝えたい音楽を吹奏楽用や合唱用にアレンジしてしまうことも問題かなと思います。
アレンジする人が作曲家の意図を汲み取った上でやっているならいいんですが、ほとんど無いんじゃないかなと思います。
学生のコンクールに関しては否定的なお考え、ということでしょうか?音楽のあり方も取り組み方や考えも様々ですね。日本のようにこんなに多くの学生が吹奏楽に取り組んでいる国は、他にはないでしょう。コンクールも含め、学生の吹奏楽は日本の文化の1つと言っても良いのでは無いかと思います。それは素晴しいことでもあると思います。私は吹奏楽、そしてコンクールを経験できて良かったと思っています。経験したからと言って、音楽を勝ち負けで定義するようにはなっていません。人間的にも成長でき、その後の人生において得るものは大きかったと感じます。今でも、演奏前に舞台から見た観客席の光景がはっきりと思い出されます。でも、古典的な芸術音楽を学んできた音楽家の先生たちから見ると、日本の学生の吹奏楽は異様なものなのかも知れませんね(それは否定しません)。ですが、クラシックが他国ほど根付いていない日本の国でクラシックの芸術性を語っても聴衆は増えないでしょう。それを聴くのは、いつまでも専門的に学んだ人や限られた人たちだけではないでしょうか。今、クラシックを広めようと、新しい取り組み方をしている若手音楽家がたくさん出てきています。古典的な伝統音楽も新しいアレンジで演奏され、それによって古典的なクラシックを知る入り口になっているケースもありますね。音楽はこうでなればらないということはなく、もっと自由なものだと自分は思っています。
残念ですが音楽には、「こうでなければならない」という決まりごとが沢山あります。それに価値を見出し、それを知りたいと思う人たちが、高いお金を払ってレッスンに通ったり、音楽大学で専門的に勉強しています。
多くの音楽家たちがそのような勉強を通して、音楽というものを生み出し続けています。
人々は価値を感じない物に対しては、どうしても扱いが雑になります。そしてそれはその物事の形を変えたり、破壊するという行為に繋がりやすいです。観光地の世界遺産も価値を感じない人達の落書きであふれています。
コンクールを通してそのような考えの人が増えてしまったとしたら残念でなりません。