Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
これは他の三國志解説チャンネルとかでも、馬謖は横山三国志みたいに魏軍が迫ってきてから悠長に構えて山上に布陣した訳ではなく、正史の戦役経過記載日時から張郃軍の進軍が余りにも神速過ぎた為に、今時代の考察で街亭であると思われる地で前漢の頃には既に放棄されてた城や砦を修復して更には街道と河筋を抑えて堅固な陣を敷き魏軍を待ち受ける(別に勝つ必要は無く、魏の援軍を止めておいて諸葛亮本軍が祁山を落として転進してくるなり、本軍から割いた魏延や呉懿の一軍が馬謖を救援に行くまで粘ればいい的な感じ)と云う戦略が瓦解したので、まだ不完全な防衛線を捨てて敢えて高所に布陣したんだろうと私も思いますね馬謖の計算では張郃の軍は兵数こそ自軍より3倍くらい多いが、あまりにも強行軍過ぎた故に兵站が伸び切り兵糧が少ないので、天水・祁山方面に進むには山上に布陣した馬謖軍を無視出来ず(仮に兵数の多さを頼みに馬謖軍を無視して先を進もうとしたら、山上から勢い任せで攻め下ってくる馬謖軍に横っ腹食い破られる)、早期に決着を付けたいから力攻めでこちらに速戦してくると考えたから馬謖は王平の提言を却下し、王平も歴戦の名将である張郃はこちらの思惑を看破した上で対策してくるから陣地の構築や城・砦の修復はまだ不完全でも街道を固めつつ魏軍の西進を阻止しましょうと諫言したんだろうなって思うというか、曹叡の迅速な動きと張郃の読みが凄すぎた… 実際、張郃軍の兵糧は相当にカツカツだったみたいだし山上ではなく街亭の街道と河の対岸を抑えて待ち構えた方がまだ勝ち目(つか、援軍到着まで粘る)あったのかも? まぁどっちにしろ上庸の孟達を司馬懿に速攻でバッサリ斬られたのと呉の共同軍がその後の北伐の際にも同様に形ばかりでサッパリ役に立たない・アテにならなかった時点で北伐が成功する未来は無かったんだろうなあ
北伐は無理の上に無理を重ねてる感じが凄くしますよね。相当なリスクを取って大勝を掴んだ姜維ですら、最後の最後で勝ち切ることができなかったのを見ると、あとどれほどのリスクを冒さないといけなかったのだろうか…
救援に急ぐ立場の張郃が包囲を選んだ所が本当に凄い。もし先に祁山が陥落したり、街亭に雨が降って水を補給されたりすれば援軍に向かいながら足を止めた愚将になり下がる可能性もあった中、的確に戦術を判断できた所が凄すぎる。
本当に歴戦の将の判断力の凄まじさたるや
馬謖の山頂布陣がただの失策ではなく、張郃のファインプレーによるものと云う解釈は面白いですね。
あの戦歴の分厚さ見ると、並大抵の将じゃないって感じしますもの(笑)
だからこそ蜀も実戦経験が豊富でイレギュラーに対応出来る人って話になるのかなと馬謖の頭脳は素晴らしいんだろうけど、相手が想定をこえてきた結果がこれなので王平は善戦していた事を考えたらやはり実戦経験豊富な将軍ならってなるよねなお、諸葛亮もそこまで実戦経験無いけどアレは曹操や周瑜、陸遜らと並び当時を代表する英雄だから参考外軍事も演義みたいに奇策使わないだけで充分凄いわ
こうしてみると、やっぱり諸葛亮は子房と言うより蕭何だったのだなとわかる
これはもう孟達が討たれた時点で詰んでる。その前に関羽が敗死し荊州を失った時点でもうほぼ無理ゲーなのだ。
やはり龐統 徐庶 法正居ない負担が大きいのと国の規模の違いもデカすぎました馬謖は劉備が「言はあっても実は無い大事を任せるな」と言ってましたしね
「馬謖を経験不足のまま用いる諸葛亮」って感じで危惧していましたね
正史に記述がほぼないのも歴史にたらればが禁句なのも知ってますが個人的に街亭では馬岱を指揮官に、馬謖を参謀にして欲しかった涼州からしたら馬騰・馬超の後継者は姜維みたいに支持されるだろうし馬謖からしても上司が前後左右将軍の親族だとそれなりに尊重するだろうし内部分裂とか敵前逃亡という最悪の結末は避けられたんじゃないかと思ってしまう…
街亭での張郃の活躍を聞くと″三軍は得やすく一将は得難し“と言う ことわざがこれほど痛感させられることはないですね
孟達を寝返らせ無かった司馬懿も本当策士
この瞬間に勝負は決まったも同じ
魏には諸葛亮と対峙できる人材が沢山いましたからね。
諸葛亮の時にやればよかったw
いつもご視聴ありがとうございます!(*'ω'*)
やっぱ四川方面から関中攻略する戦略事態が無謀すぎる
歴史上の成功例ってほぼ皆無だったはず🤔
@@KOUMEI_NO_WANADA韓信がヤバいヤツすぎるんよなあ。
⑤⑥はまた後日拝見します。諸葛亮の神がかった手腕と清廉な人柄のためか、結果は知っているのにワクワクするし、街亭の一件で心が痛む。北伐以後の諸葛亮は情緒をすごく揺さぶる。ただ、やはり知りたいのは、もし長安奪取に成功した場合の次の展開。戦力のリソースについては“現地調達”するしかなさそうですね。。。
攻めながらにして、敵を迎え撃つという奇策を得意とする諸葛亮さんですから、いざ防衛戦になったら無類の強さを発揮しそうだなぁ、なんて希望的なことを思っちゃったり(笑)
馬謖を擁護する声が大きかったってことは才能は間違いなくあったんでしょうね。もっと段階的に経験を積ませておけば孔明の後継者として長く蜀を支えていたのかな
特に荊州派閥の官僚の中でも目立った中心人物だったでしょうし、でもだからこそ贔屓した処罰ができなかった。それをしてしまえば益州人士から反感を買うのは必然、という環境だったんだと思います。
経験を積ませればといってももう38歳と周瑜・郭嘉の没年くらいですからね…→陸遜の夷陵も若手みたいな扱いだけど40くらいだし裏方から最前線へってキャリアも馬謖似ある意味『夷陵の戦いで敗北した世界線の陸遜』が馬謖
いま丁度街亭の敗北から始まる三国志ドラマ風起隴西を見てるところなので非常にタイムリーな動画でした。リバクが故事をだして馬謖の減刑を求めて諸葛亮から怒られるシーンがあったけど実際あった話を元にしてたんですね。
光栄の三国志14で経験ある人多いと思うけど、蜀は長安を落とした後が地獄なんだよねぇ…。地の利が行かせず魏の中原の大軍とぶつかる/兵站線が伸びに伸びる/絶対的な人材不足の三重苦、オマケで史実だと「目的果たしたのに苦しい」という現実が殴りかかってくるわけで、もう蜀は成立時点で戦略的に詰んでるのが良く判ります・・・。
人材の欠乏により、孔明の北伐は結果を見れば負け戦ではあった。しかし、孔明亡き後に約30年国を保てたのは彼の孤独な闘いが報われた形なのかな。唐の時代、功臣の魏徴が太宗・李世民に「諸葛孔明は、地方の宰相でしたが決して政治を疎かにはしませんでした。我々は唐という広大な領土を預かっています。政治を蔑ろにしていい筈がありません。」時代を越えて孔明の功績は語り継がれている。
いつも楽しく拝見しています^ ^戦役解説は、聞いていてワクワクするので、とても面白かったです!!続編を期待してます(*´꒳`*)
個人的には孫権の立場から北伐を考えると面白いんですよね。夷陵の戦いが終わった直後蜀と同盟し直して魏からの攻撃を対処したところとか、蜀と魏が争っている中で蜀寄りのコウモリ外交を行う事で他勢力との戦争そのものを避ける、みたいな感じが凄い。
人材の宝庫の荊州を失ったのはデカかったな
荊州を失った蜀漢は、根っこを失った大木みたいなものですよね
夏侯楙は夏侯惇の息子である。諸葛亮が一人で背負わなければならなかったこと、魏延、楊儀、そして馬謖を用いなければならなかったことが蜀の人材不足を雄弁に物語っていると評するは酷だろうか。やはり「夷陵の戦い」の後遺症は大き過ぎた。
うーわ、クッソ勘違いしてた。これは致命的(´;ω;`)ちょっと戒めで固定させていただきます(´;ω;`)
ここは涼州一帯を南征した時みたいに実質領地にしてから北伐に挑んだ方が人も資金も手に入り戦術面でも安定していたかもしれません諸葛亮は孟達が司馬懿に敗死した時点で北伐の計画を再度見直す必要をしなかったのでしょうか
街亭の戦いは水源を張郃が確保してから馬謖撃破まで、さほど時間が経過してないはず戦闘の経緯をみる限り遭遇戦に近く、城や砦に籠もったのならともかく、山頂に陣をはっている時点で水を何日間も持つほど蓄えているとも思えず、ましてや水原を確保しているわけじゃないのなら、罠の可能性を考えることはあっても持久戦になるなんて思っていないはず持久戦とか言ってる人はRUclipsでサバイバル系の動画でも見た方が良い。無人島とかについたら一番最初にやるのが水源の確保。寝床の作成や火をつけるより先に水を探す似たような状況下の王平が奮戦してることから、張郃は完全に水不足で干上がった状態になってから攻撃したわけではなく、水源を穫られて恐慌をきたした軍を馬謖は制御できず、パニクったところに攻撃を加えたはず今後、新資料が発見され、山に陣を敷いたのではなく山を砦化したところに籠もっていて、貯水タンク的な物があって1ヶ月ぐらいは保つ所だったとか言った事がない限り、張郃は持久戦になるなんて思ってもないし、実際、持久戦になることもなかったはずで、たぶん、軍事に関わってる人で持久戦云々言う人は少ないと思う
劉関張の演義補正として主人公補正以外にも人間味補正ってのが多分にあると思う(横山三國志とかでも)ので孔明にも人間味補正あってもまあいいんじゃないかってことで馬謖起用という身内人事(愛弟子)を大事なとこでやっちゃったってことで
黄権がいれば…いや魏延か呉懿を用いていれば臨機応変に判断していた気がしますね
馬謖が山に布陣せずに街道封鎖していても、予定地とずれたことで陣が間延びすることと戦闘経験値の差が大きすぎることで結局そのまま魏に突破された可能性もあったのかも、と思いました。双方の人選が決まった時点で実は詰んでいた、と…
少数で張郃を退けた、後の蜀漢の守護神王平と板盾族‼️板盾族ってとっても強かったみたいだけど、黄権が次々打ち破ったのよね…夷陵の敗戦ってホント痛いですね…
やっぱり諸葛亮がいくら奮闘しても厳しいですねせめて法正がまだ存命とか、もう少し何かないと厳しい…と改めて思いました
北方三国志の、魏延は趙雲と合流して長安を落とす予定だったから街亭には行かさなかったって戦略はよかったね読んでて興奮したよ
主力は一番大事なところで使いたいすもんね
何度擦ってもいい話題こと北伐
夏侯淵の息子達は例外なく優秀です😅馬謖を趙括と同列に扱われるのは気の毒すぎる(´・ω・`)
夏侯淵のやつはマジでずっと勘違いしてた。恥ずかしい😭
四川から挙兵して天下を取ったのは劉邦だけとよく言われるけど、漢中に移ってから短期間でほぼ謀略で関中掌握して、策源地にできてから中原に討ってでてるからなあ…。その中原もかなりバラバラだったし。せめて曹叡が北斉の高澄くらいの人望だったら…😅
関羽の頃から考えると、蜀を滅ぼした立役者は孟達だったりする??
孟達謀反+趙雲隊からの隴西三郡離反+諸葛亮本隊。決まれば木村のドラゴンフィッシュブローみたいに必殺の一撃になるはずだった。ただ間柴、いや張コウが強すぎた。
曹叡が指揮を執り始めてからの動きの的確さよ
北伐は孔明の僕が考えた最高の作戦全員が孔明の要求を最後まで完遂するのが前提だから馬謖がやらかさなくても絶対何処かで破綻してた趙雲も敗退してたしね
もしも馬超が生きていて雍州涼州方面司令官として街亭を担当していたらとか考えると馬超VS張コウとか見られたのかな
恐らく張郃は真偽も怪しい様々な情報を吟味して、街亭攻略にかかる時間と隴西地方が持ちこたえる時間を天秤に掛けた上で間に合うと判断したのでしょうが、どんな情報が張郃に持久戦を決意させたのか非常に興味があります。多分ですが第一次北伐の諸葛亮の戦略的目的は最初から上庸や隴西から涼州まで「取れるだけ取る」だと考えてます。上手くいけば次は長安と襄陽の2方面への侵攻ができたのですが・・。
経験を積んだ将軍の強さたるや
水源について詳しくコメントされている方がいましたが、一読してなるほどと思いました。確かに人間は飢えはある程度耐えられますが、渇きには耐えられません。恐らく馬謖は水源を確保を怠った時点で持久戦は不可能で、渇きで軍が壊滅か、水源確保のための破れかぶれの攻撃の2択しか残されてなかったのでしょう。そして張郃も水源を確保した時点で、馬謖撃破の時間を大幅に短縮できると確信し、隴西の情勢も加味した上で救援に間に合うと判断したのだと思います。う〜ん、やっぱり山上に布陣したのは失敗かな?
孟達「もうさァッ無理だよ司馬懿来ちゃったんだからさァッ🥺油断をもっと無くさないとさァッ🥺」魏延「もうさァッ無理だよ正攻法なんてさァッ🥺奇襲をもっと成功させないとさァッ🥺」馬謖「もうさァ無理だよ張郃来ちゃったんだからさァッ🥺山にもっと登らないとさァッ🥺」李厳「もうさァッ無理だよ輸送なんてさァッ🥺」楊儀「もうさァッ無理だよ魏延なんてさァッ🥺」諸葛亮「無理と言うのはですね、嘘つきの言葉なんです😡」「途中で辞めるから無理になるんです😡……ウッ!」→ 過 労 死 💀どうすりゃいいんだ……😨
せっかく諸葛亮の軍勢を2度にわたって鎮圧出来た曹真。しかし小説では一通の手紙がもとでショック死。
政治的にも司馬懿を抑えうる大黒柱でしたなぁ
反応が早いですね。ありがとうございます。親父ばかりか、息子も悲惨。司馬仲達の踏み台扱いだからな。プライドだけで生きて来た御仁ですもの。
曹真がこんな扱いだから、カクショウが身体をはって首をつなぐ活躍が際立つ。
また反応が早いですね。人材不足の諸葛亮軍に比べ、司馬仲達の軍勢の方が劇的。
馬謖は劉備から口だけで中身がないと評価され街亭の戦いで大失態をやらかし蜀の北伐の可能性を潰した。馬謖は趙の趙括と同じで勉強は出来るが仕事は出来ないタイプで趙括のように周囲から馬謖も重要な場面で起用するなと懸念されていた。
口だけで中身が無い、というよりは「経験不足である」ことを注意していたような気がします。そしてそのまま用いようとする諸葛亮に釘を刺した、みたいな。
劉備の遺言の馬謖の話は陳寿が言わせたのかも知れない
第一次北伐と第二次北伐で諸葛亮を防いだのは曹真ね。 演義やスリーキングダムでは無能の極みみたいに描かれてて気の毒だな。
わかる。軍師連盟ではちょこっと上方修正あった
北伐開始時、「荊州の」張郃が援軍として来る事を予想出来たでしょうか?。趙雲を蜀軍本隊と誤認して曹真が、後詰めには曹叡。涼州方面には郭淮が居ます。司馬懿も孟達討伐に出ている状況で、対呉戦線を手薄にしてまで張郃を荊州から外すでしょうか?。たぶん考えられないと思います。別の動画でも言ってましたが、援軍の将が張郃だと知っていれば、馬謖だと厳しいと考えて対応したかもしれません。一国を切り盛り出来る諸葛亮が、龐統が戦死するまで荊州に居て表に出る必要が無かった訳ですから、後の蜀の人材不足はあの時が分岐点だったのかなと思っています。
季漢は最早復活せずとし曹魏の耳目は東方の孫権に向いていた…そんな情勢を上手く利用し、鮮やかに三郡を奪取し目的の隴の掌握まであと一歩まで迫っていたそんな危機を収めた張郃、徐邈、游楚らの勇姿は讃えたい
北伐は、地の利を知る者達の重要さがよく分かる
魏の領土を切り取る可能性があったとしたら、このときしかなかったでしょうね。ただ勝ったとしても益州に氐・羌が流れ込んできて、王朝としての蜀は滅びただろうというのが僕の見立て。(益州の人間からすれば、自分たちを守ってくれるなら強い方がいいに決まってる)
一足早い成漢の誕生か
隴西よりも隴右と言った方がいいかな?単に隴西だと隴西地方か隴西郡かわからないので。その隴西郡を守ったのが游楚(おそらく羌族の一派)。この戦いの殊勲賞。第二次北伐の郝昭といい、鄧艾がなんといおうと、魏の防衛は異民族なしには成立しえなくなってます。
あと蜀と呉の間はどのみち魏興郡の申儀に塞がれてるので、上庸郡の戦略的価値はそこではないです。(蜀と呉の間なら永安経由で長江使った方がはるかに速いので)どちらかというと、空っぽになった漢中を魏興郡に攻められない方が大きいかな?
そこから姜維に流れが繋がっていく感じがワクワクする(*'ω'*)
さらにそこから五胡十六国へ……
@@shou-sho 趙雲・鄧芝の部隊は、こっちに向けるつもりだったとか推察してます
@@KOUMEI_NO_WANADA 上庸郡の先は水軍なしではとてもとても完全に湿地ですよ
泣いて馬謖を斬るの由来なった第一次北伐で孔明のストレスピークだった時
胃に何個穴が開いたことやら
重大な過失とあるのでほとんど戦えずに軍は霧散し本人も逃げてしまった可能性高いんですよね馬謖実戦向きではなかったのか?相手も当時最強クラスですしね
曹魏にとっては領土が1番狭く成る所。シルクロードルート。⛰️と🏞️と🛣️が圧縮された地域。☔️の少ない乾燥地域。若い人材に経験積ませよ。でのこの第一次北伐戦。ifもしも、馬謖が指示通りに🛣️に陣地築いていたら。西涼地域は曹魏から蜀漢へとなってたかも!宿命のライバルの司馬懿の風林火山進撃や美しい人(無双)の張郃(玄人軍人)の活躍で孔明期待の愛弟子は街亭で大敗した。猛者玄人軍人揃いの曹魏(司馬懿軍団)に戦いを挑むには馬謖の器では無理があったか…😢
負ける武将なんか数えきれないほどいるのに、逃げたんだもん。ところで張休とか李盛とか、場面変われば馮習とか、今の時代にほぼ伝わってない人間が軍を率いてるの面白いなぁ
国力差を考えれば蜀が勝つ為には魏の国内で反乱を起こさせるしかない。それが失敗した時点で勝負は決まってた。
この時点で指揮官として関羽、張飛、軍師として龐統、法正がいたら、せめて張飛と法正だけでも健在だったら街亭は容易に確保できたのではないでしょうか。馬謖はやはり参謀として孔明の側近として意見を述べるのが適任で、部隊指揮官にするなら小さい任務を与えたり趙雲や魏延の指揮下で部隊長を務めるなどして経験を積ませるべきで、これは結局のところ馬謖をこの任務に任命した孔明の責任が大だったように思います。
諸葛亮は劉巴抜擢の頃から、自身の弱点は戦略面にあると言ってますし、それを補いうる存在が馬謖だったんでしょうなぁ
劉備の北伐ならどうなったかなあ😮
王平の主張通り街道封鎖を試みていた場合、どの程度持ちこたえられたかなぁ。
結果論ではあるんだけど、魏と呉の情勢的に比較的対応しやすいタイミングで決行してしまったのも痛いですね父や息子より軍事的才能が怪しく呉を攻める事に固執してる曹丕の代ならここまで素早く対応してきたかってなるでしょうし逆に半年以上遅くして石亭の戦い後の曹真と並ぶ重鎮曹休が大敗したショックのタイミングなら魏も動揺していたでしょうからまだ付け入りやすかったかなと曹叡のヤバいとおもったタイミングでの手の打ち方が早過ぎてまずそれをさせない状況にしないとどうにもならないんですよね
ちゃんと師匠が時間稼ぎに徹しなさいと厳命してれば…まあ成果を挙げれば命令違反も目をつぶるという当時の慣例もあったからどちらにしても欲をかいてしまったかもだけどねそれに街道を守ったからといって守りきれたとも言いきれないし馬謖くんの戦術は責められへんなあ
残酷な考え方かもしれないけど、街亭での判断を見て馬謖に関して「俺達の側ではない…」と判断した可能性も感じてしまう。三国志の名参謀になる人って、初戦でほとんど負けてない気がするし(曹叡司馬懿張郃と彼らの頃よりも相手が悪くなっていくという点はあれど) あの劉備が馬謖に関して窘めていたと言う話もあるし、高過ぎる声望を危険視したのかも
仮に第一次北伐が大成功して涼州を獲得出来たとしても厳しかったと思う。魏の支配に不満を抱いて反乱を起こしていた在地勢力が今度は蜀漢の支配に不満を抱いて反乱を起こすという事は考えられたし、異民族が侵攻して来るというリスクもあったから。
姜維が厚遇されていること、諸葛亮の厳格かつ公平な人事を考えると、意外となんとか出来そうな感じもあります。ただそもそもの戦力差を考えると維持が難しいという現実も分かる🤔
太古から水絶ちで勝つ戦いって他にもあるのだろうか?
魏延と楊儀が両翼という陣営では天に登るどころじゃなかったろうなホント、劉備はみーんな持って逝っちまったよなぁ
癖が強すぎる
夏侯ボウって夏侯惇の子では?
はい、そのとおり。完全に僕のミスです😭
@KOUMEI_NO_WANADA どんまいです汗
何故、孔明は経験不足の馬謖を重要な所に抜擢したのか。
孟達が斬られた時点で勝負あったかなとは思う。上庸から南陽に牽制をしつつ長安直撃すれば成功してたかもしれない。とはいえ長安直撃も成功すれば魏延の力が強くなりすぎるって面もあるから諸葛亮が嫌ったかもしれない。夏候楙が逃げても曹真が徹底抗戦すれば簡単には抜けないでしょうけどね。まぁ第一次は涼州を押さえるのが第一目的で、第二次戦で涼州と漢中から長安を攻めるって考えだったのでしょう。戦略自体は間違ってないとは思うが、いかんせん物資と兵力と人材が劣りすぎる・・・東部戦線の曹休・張遼・李典・満寵に比べればメンツは緩いはずだったんだけど、司馬懿と張コウが強すぎたか?
曹叡が采配を振るい始めたのもまた大きかったのかも
「馬謖に重要な仕事を任せるな」という劉備の台詞は、正史にあるの?
馬良伝の馬謖の項目に記載がありますね
せめて各人材が、後十年以上生きていたらと…
それは「夷陵の戦い」勝利ifの結果になるでしょうし、そうなっていれば確かに状況はずっと良かったでしょうねぇ…
登った山に水が無かったの運悪すぎやな
なんだかんだ言っても諸葛亮は凄い。私は三国時代では曹操が一番凄いと思っているけど、二番目に凄いのは諸葛亮だと思っている。ただ曹操にあって諸葛亮には無かったものは、運。
曹操は得意なことに専念し、任せられる仕事は人に任せた。しかし諸葛亮は全てに専念しようとした。ここらへんの差が大きい気がします。
@@KOUMEI_NO_WANADA ああ、言われてみると、そっちの要因の方が大きいような気がします。しかし、蜀漢に人材が(少なかったけど)いないわけでもないのに、性分なんですかねぇ。
歴史にたらればは禁句ですがここで馬謖でなければという想像をしてしまう私は浅慮です😅
例え魏延でも敗北は避けられなかったと思います。しかし負けるにせよもっとうまいこと負けることはできたでしょう、王平がそう出来たように。と自分は考えてしまいますね🤔
根本的には諸葛亮の戦略ミスだと思うが局地的には実は馬謖より趙雲が戦犯だと思ってる。史書には「趙雲を陽動に派遣し諸葛亮本軍は祁山に進み馬謖を前衛としたら馬謖が敗北し張郃に涼州を奪還されたので撤退した。ついでに趙雲も負けてた」という順に記述されているが時系列的にも地理的にも最初に戦闘を開始したのは趙雲であり曹真もそこに急行している。万に満たないであろう趙雲が曹真に撃破されるのは必然でそのタイミングは馬謖敗戦より早い可能性が高い。敵主力を引きつける陽動が早々に撃破され前衛も敗れたので諸葛亮は仕方ない撤退し、その敗戦の責を馬謖に負わせて収拾を計ったというのは疑い過ぎだろうか?趙雲がもう少し粘って曹真の足止めをしていれば違った展開になっていたかも知れない。馬謖一人が責められがちだが上級指揮官である諸葛亮、趙雲らの責任のほうが大きいも見るべきではなかろうか。
自分的にはそもそも趙雲・鄧芝は元々、孟達援護に向かわせて、孫呉と協調することを目的とした部隊だったのでは?と考えています。そう考えると曹真への陽動は元々の目的とは違う役割であり、最初から無理のある仕事を請け負いながらも何とか耐えれるだけ耐えた、みたいな。別働隊の捻出がとにかくギリギリすぎる感じがずっとあるんですよねぇ。
諸葛亮は政治家であって軍略家ではないんだよな
でも軍事もできちゃうの普通に化物
当時はどちらもするタイプがいないでも無い感
正直馬謖より孟達の方が作戦全体見た時の戦犯度高いような荊州陥落の後に裏切るし味方としていて欲しくない奴
孟達の異質な存在感はキャラとして割と好き
これが後にバショクショックと呼ばれるとは誰も思わなかったろうなぁ
荊州を抑えられた時点でほとんど勝ち目はなかった。そんな中で最も勝てる可能性があったのが第一次北伐だったと思う。ただこれで長安を落として涼州を手懐けても、本当にそれを維持しつつ魏を倒せたのかは正直疑問だと思ってしまう。
異民族の問題とかもありますしねぇ
何故山に登るのかそこに山があるからそれはともかく、こういうところは三國志はガンダムに似てる北伐は孔明がぶちあげた大規模戦役孔明は大政治家でありながら、果たして戦争犯罪者でもあるのかそれは歴史
そういえば、ガンダムではコロニー落として人類の半数を死に至らしめたなんて語られてるけど、三國志は半数どころではなかったんでしょ?たしか人口が激減したとか
点赞了给大家推荐一套中国唯一通译裴松之注的书《三国志裴松之注全文通译》 陈寿原文+裴注原文+陈寿译文+裴注译文 地毯式(即全面、完整、无任何删减)翻译 日本亚马逊、美国亚马逊、新加坡亚马逊有卖
三国志系のチャンネルで街亭の話が出る度に「馬謖は副将参謀でこそ輝く」説を挙げる。無能やバカの類ではなくポジションミス。せめて副将から経験を積ませればと思ってやまない。
街亭とはどこか続漢書郡国志五によると(略陽県)街泉亭がある元和郡県志巻三十九によると「(隴城県)また、街泉亭がある。蜀将馬謖が魏将張郃によって敗れた場所である。」(又有街泉亭,蜀將馬謖為魏將張郃所敗)太平寰宇記巻一百五十によると「街泉亭、俗名を漢街城。(成紀)県の東北六十里にある。すなわち三国時代に蜀将馬謖が魏将張郃によって敗れた場所である。」(街泉亭、俗名漢街城。在県東北六十里。漢立街泉県以属天水郡。即三国時蜀将馬謖為張郃所敗之処)読史方輿紀要巻五十九によると「街泉城、俗名を漢街城。(秦安)県の東北にある。後漢は(県を)省いた」(街泉城、在県東北。漢置県、属天水郡。後漢省)これらの記述を総合すると、下記のようだと伺える後漢略陽県の県域に街亭(街泉亭)がある唐の隴城県の県域に街亭がある北宋成紀県より東北六十里(約34km)の場所に街亭がある明代秦安県の東北に街亭がある成紀県の位置は水経注より秦安県の8km、成紀水の瓦亭水に交わる地点とわかる略陽県は隴城県と同じであり、現在の隴城村の位置である諸葛亮は秦嶺山脈を迂回し祁山道という平坦な道を出たそこから街亭までも平坦な道、距離は諸葛亮の陣が祁山道のどこにあって馬謖を派遣したかによるが帰りに西県を攻め落としたという記録から100キロもない。山道を通らないといけなかったのはむしろ張郃の方張郃伝にある城というのは漢街城のことか。馬謖が先にここに着いておきながら城を有効活用できなかったのが敗因で陣地構築の時間がなかったわけではないでしょうね
めちゃくちゃ助かる補足に感謝
@@KOUMEI_NO_WANADA略陽は王平が杜濩&朴胡と一緒に移住していた場所なんですよ。即ち王平はその地を良く知っていたと言う事になるんですよ
第一次北伐の作戦は諸葛亮ではなく馬謖が立てた作戦です。諸葛亮は軍事の専門家ではありません。
確かに劉備没後から参軍として一際寵愛を受けてきた馬謖ですから、南中平定から引き続き戦略構築において大きく寄与していたのは間違いないと自分も考えています。また劉巴抜擢の際、諸葛亮は「私は遠大な戦略を構築するのには向いておらず、その点では劉巴殿に劣る」と言っていますし、そこを補完する存在が馬謖であったのかもしれません。しかし、諸葛亮だけで戦略を組み上げたとも、馬謖だけで組み上げたとも明言が無い以上、個人の能力であると断定することは出来ません。そして今回の蜀漢軍の総大将が諸葛亮である以上、全てにおける責任者もまた諸葛亮です。故に諸葛亮の名前を第一に挙げているに過ぎず、その点はご理解いただけますと幸いです。
これは他の三國志解説チャンネルとかでも、馬謖は横山三国志みたいに魏軍が迫ってきてから悠長に構えて山上に布陣した訳ではなく、正史の戦役経過記載日時から張郃軍の進軍が余りにも神速過ぎた為に、今時代の考察で街亭であると思われる地で前漢の頃には既に放棄されてた城や砦を修復して更には街道と河筋を抑えて堅固な陣を敷き魏軍を待ち受ける(別に勝つ必要は無く、魏の援軍を止めておいて諸葛亮本軍が祁山を落として転進してくるなり、本軍から割いた魏延や呉懿の一軍が馬謖を救援に行くまで粘ればいい的な感じ)と云う戦略が瓦解したので、まだ不完全な防衛線を捨てて敢えて高所に布陣したんだろうと私も思いますね
馬謖の計算では張郃の軍は兵数こそ自軍より3倍くらい多いが、あまりにも強行軍過ぎた故に兵站が伸び切り兵糧が少ないので、天水・祁山方面に進むには山上に布陣した馬謖軍を無視出来ず(仮に兵数の多さを頼みに馬謖軍を無視して先を進もうとしたら、山上から勢い任せで攻め下ってくる馬謖軍に横っ腹食い破られる)、早期に決着を付けたいから力攻めでこちらに速戦してくると考えたから馬謖は王平の提言を却下し、王平も歴戦の名将である張郃はこちらの思惑を看破した上で対策してくるから陣地の構築や城・砦の修復はまだ不完全でも街道を固めつつ魏軍の西進を阻止しましょうと諫言したんだろうなって思う
というか、曹叡の迅速な動きと張郃の読みが凄すぎた… 実際、張郃軍の兵糧は相当にカツカツだったみたいだし山上ではなく街亭の街道と河の対岸を抑えて待ち構えた方がまだ勝ち目(つか、援軍到着まで粘る)あったのかも? まぁどっちにしろ上庸の孟達を司馬懿に速攻でバッサリ斬られたのと呉の共同軍がその後の北伐の際にも同様に形ばかりでサッパリ役に立たない・アテにならなかった時点で北伐が成功する未来は無かったんだろうなあ
北伐は無理の上に無理を重ねてる感じが凄くしますよね。
相当なリスクを取って大勝を掴んだ姜維ですら、最後の最後で勝ち切ることができなかったのを見ると、あとどれほどのリスクを冒さないといけなかったのだろうか…
救援に急ぐ立場の張郃が包囲を選んだ所が本当に凄い。
もし先に祁山が陥落したり、街亭に雨が降って水を補給されたりすれば援軍に向かいながら足を止めた愚将になり下がる可能性もあった中、的確に戦術を判断できた所が凄すぎる。
本当に歴戦の将の判断力の凄まじさたるや
馬謖の山頂布陣がただの失策ではなく、張郃のファインプレーによるものと云う解釈は面白いですね。
あの戦歴の分厚さ見ると、並大抵の将じゃないって感じしますもの(笑)
だからこそ蜀も実戦経験が豊富でイレギュラーに対応出来る人って話になるのかなと
馬謖の頭脳は素晴らしいんだろうけど、相手が想定をこえてきた結果がこれなので
王平は善戦していた事を考えたらやはり実戦経験豊富な将軍ならってなるよね
なお、諸葛亮もそこまで実戦経験無いけどアレは曹操や周瑜、陸遜らと並び当時を代表する英雄だから参考外
軍事も演義みたいに奇策使わないだけで充分凄いわ
こうしてみると、やっぱり諸葛亮は子房と言うより蕭何だったのだなとわかる
これはもう孟達が討たれた時点で詰んでる。
その前に関羽が敗死し荊州を失った時点でもうほぼ無理ゲーなのだ。
やはり龐統 徐庶 法正居ない負担が大きいのと国の規模の違いもデカすぎました
馬謖は劉備が「言はあっても実は無い大事を任せるな」と言ってましたしね
「馬謖を経験不足のまま用いる諸葛亮」って感じで危惧していましたね
正史に記述がほぼないのも歴史にたらればが禁句なのも知ってますが個人的に街亭では馬岱を指揮官に、馬謖を参謀にして欲しかった
涼州からしたら馬騰・馬超の後継者は姜維みたいに支持されるだろうし馬謖からしても上司が前後左右将軍の親族だとそれなりに尊重するだろうし内部分裂とか敵前逃亡という最悪の結末は避けられたんじゃないかと思ってしまう…
街亭での張郃の活躍を聞くと″三軍は得やすく一将は得難し“と言う ことわざがこれほど痛感させられることはないですね
孟達を寝返らせ無かった司馬懿も本当策士
この瞬間に勝負は決まったも同じ
魏には諸葛亮と対峙できる人材が沢山いましたからね。
諸葛亮の時にやればよかったw
いつもご視聴ありがとうございます!(*'ω'*)
やっぱ四川方面から関中攻略する戦略事態が無謀すぎる
歴史上の成功例ってほぼ皆無だったはず🤔
@@KOUMEI_NO_WANADA韓信がヤバいヤツすぎるんよなあ。
⑤⑥はまた後日拝見します。
諸葛亮の神がかった手腕と清廉な人柄のためか、結果は知っているのにワクワクするし、
街亭の一件で心が痛む。北伐以後の諸葛亮は情緒をすごく揺さぶる。
ただ、やはり知りたいのは、もし長安奪取に成功した場合の次の展開。
戦力のリソースについては“現地調達”するしかなさそうですね。。。
攻めながらにして、敵を迎え撃つという奇策を得意とする諸葛亮さんですから、いざ防衛戦になったら無類の強さを発揮しそうだなぁ、なんて希望的なことを思っちゃったり(笑)
馬謖を擁護する声が大きかったってことは才能は間違いなくあったんでしょうね。
もっと段階的に経験を積ませておけば孔明の後継者として長く蜀を支えていたのかな
特に荊州派閥の官僚の中でも目立った中心人物だったでしょうし、でもだからこそ贔屓した処罰ができなかった。それをしてしまえば益州人士から反感を買うのは必然、という環境だったんだと思います。
経験を積ませればといってももう38歳と周瑜・郭嘉の没年くらいですからね…→陸遜の夷陵も若手みたいな扱いだけど40くらいだし裏方から最前線へってキャリアも馬謖似
ある意味『夷陵の戦いで敗北した世界線の陸遜』が馬謖
いま丁度街亭の敗北から始まる三国志ドラマ風起隴西を見てるところなので非常にタイムリーな動画でした。リバクが故事をだして馬謖の減刑を求めて諸葛亮から怒られるシーンがあったけど実際あった話を元にしてたんですね。
光栄の三国志14で経験ある人多いと思うけど、蜀は長安を落とした後が地獄なんだよねぇ…。地の利が行かせず魏の中原の大軍とぶつかる/兵站線が伸びに伸びる/絶対的な人材不足の三重苦、オマケで史実だと「目的果たしたのに苦しい」という現実が殴りかかってくるわけで、もう蜀は成立時点で戦略的に詰んでるのが良く判ります・・・。
人材の欠乏により、孔明の北伐は結果を見れば負け戦ではあった。しかし、孔明亡き後に約30年国を保てたのは彼の孤独な闘いが報われた形なのかな。唐の時代、功臣の魏徴が太宗・李世民に「諸葛孔明は、地方の宰相でしたが決して政治を疎かにはしませんでした。我々は唐という広大な領土を預かっています。政治を蔑ろにしていい筈がありません。」時代を越えて孔明の功績は語り継がれている。
いつも楽しく拝見しています^ ^
戦役解説は、聞いていてワクワクするので、とても面白かったです!!
続編を期待してます(*´꒳`*)
個人的には孫権の立場から北伐を考えると面白いんですよね。夷陵の戦いが終わった直後蜀と同盟し直して魏からの攻撃を対処したところとか、蜀と魏が争っている中で蜀寄りのコウモリ外交を行う事で他勢力との戦争そのものを避ける、みたいな感じが凄い。
人材の宝庫の荊州を失ったのはデカかったな
荊州を失った蜀漢は、根っこを失った大木みたいなものですよね
夏侯楙は夏侯惇の息子である。諸葛亮が一人で背負わなければならなかったこと、魏延、楊儀、そして馬謖を用いなければならなかったことが蜀の人材不足を雄弁に物語っていると評するは酷だろうか。やはり「夷陵の戦い」の後遺症は大き過ぎた。
うーわ、クッソ勘違いしてた。これは致命的(´;ω;`)
ちょっと戒めで固定させていただきます(´;ω;`)
ここは涼州一帯を南征した時みたいに実質領地にしてから北伐に挑んだ方が
人も資金も手に入り戦術面でも安定していたかもしれません
諸葛亮は孟達が司馬懿に敗死した時点で北伐の計画を再度見直す必要をしなかったのでしょうか
街亭の戦いは水源を張郃が確保してから馬謖撃破まで、さほど時間が経過してないはず
戦闘の経緯をみる限り遭遇戦に近く、城や砦に籠もったのならともかく、山頂に陣をはっている時点で水を何日間も持つほど蓄えているとも思えず、ましてや水原を確保しているわけじゃないのなら、罠の可能性を考えることはあっても持久戦になるなんて思っていないはず
持久戦とか言ってる人はRUclipsでサバイバル系の動画でも見た方が良い。無人島とかについたら一番最初にやるのが水源の確保。寝床の作成や火をつけるより先に水を探す
似たような状況下の王平が奮戦してることから、張郃は完全に水不足で干上がった状態になってから攻撃したわけではなく、水源を穫られて恐慌をきたした軍を馬謖は制御できず、パニクったところに攻撃を加えたはず
今後、新資料が発見され、山に陣を敷いたのではなく山を砦化したところに籠もっていて、貯水タンク的な物があって1ヶ月ぐらいは保つ所だったとか言った事がない限り、張郃は持久戦になるなんて思ってもないし、実際、持久戦になることもなかったはずで、たぶん、軍事に関わってる人で持久戦云々言う人は少ないと思う
劉関張の演義補正として主人公補正以外にも人間味補正ってのが多分にあると思う(横山三國志とかでも)ので孔明にも人間味補正あってもまあいいんじゃないかってことで
馬謖起用という身内人事(愛弟子)を大事なとこでやっちゃったってことで
黄権がいれば…いや魏延か呉懿を用いていれば臨機応変に判断していた気がしますね
馬謖が山に布陣せずに街道封鎖していても、予定地とずれたことで陣が間延びすることと戦闘経験値の差が大きすぎることで結局そのまま魏に突破された可能性もあったのかも、と思いました。双方の人選が決まった時点で実は詰んでいた、と…
少数で張郃を退けた、後の蜀漢の守護神王平と板盾族‼️
板盾族ってとっても強かったみたいだけど、黄権が次々打ち破ったのよね…
夷陵の敗戦ってホント痛いですね…
やっぱり諸葛亮がいくら奮闘しても厳しいですね
せめて法正がまだ存命とか、もう少し何かないと厳しい…
と改めて思いました
北方三国志の、魏延は趙雲と合流して長安を落とす予定だったから街亭には行かさなかった
って戦略はよかったね
読んでて興奮したよ
主力は一番大事なところで使いたいすもんね
何度擦ってもいい話題こと北伐
夏侯淵の息子達は例外なく優秀です😅
馬謖を趙括と同列に扱われるのは気の毒すぎる(´・ω・`)
夏侯淵のやつはマジでずっと勘違いしてた。恥ずかしい😭
四川から挙兵して天下を取ったのは劉邦だけとよく言われるけど、漢中に移ってから短期間でほぼ謀略で関中掌握して、策源地にできてから中原に討ってでてるからなあ…。
その中原もかなりバラバラだったし。せめて曹叡が北斉の高澄くらいの人望だったら…😅
関羽の頃から考えると、蜀を滅ぼした立役者は孟達だったりする??
孟達謀反+趙雲隊からの隴西三郡離反+諸葛亮本隊。決まれば木村のドラゴンフィッシュブローみたいに必殺の一撃になるはずだった。ただ間柴、いや張コウが強すぎた。
曹叡が指揮を執り始めてからの動きの的確さよ
北伐は孔明の僕が考えた最高の作戦
全員が孔明の要求を最後まで完遂するのが前提だから馬謖がやらかさなくても絶対何処かで破綻してた
趙雲も敗退してたしね
もしも馬超が生きていて雍州涼州方面司令官として街亭を担当していたらとか考えると馬超VS張コウとか見られたのかな
恐らく張郃は真偽も怪しい様々な情報を吟味して、街亭攻略にかかる時間と隴西地方が持ちこたえる時間を天秤に掛けた上で間に合うと判断したのでしょうが、どんな情報が張郃に持久戦を決意させたのか非常に興味があります。
多分ですが第一次北伐の諸葛亮の戦略的目的は最初から上庸や隴西から涼州まで「取れるだけ取る」だと考えてます。上手くいけば次は長安と襄陽の2方面への侵攻ができたのですが・・。
経験を積んだ将軍の強さたるや
水源について詳しくコメントされている方がいましたが、一読してなるほどと思いました。確かに人間は飢えはある程度耐えられますが、渇きには耐えられません。恐らく馬謖は水源を確保を怠った時点で持久戦は不可能で、渇きで軍が壊滅か、水源確保のための破れかぶれの攻撃の2択しか残されてなかったのでしょう。そして張郃も水源を確保した時点で、馬謖撃破の時間を大幅に短縮できると確信し、隴西の情勢も加味した上で救援に間に合うと判断したのだと思います。う〜ん、やっぱり山上に布陣したのは失敗かな?
孟達「もうさァッ無理だよ司馬懿来ちゃったんだからさァッ🥺
油断をもっと無くさないとさァッ🥺」
魏延「もうさァッ無理だよ正攻法なんてさァッ🥺
奇襲をもっと成功させないとさァッ🥺」
馬謖「もうさァ無理だよ張郃来ちゃったんだからさァッ🥺
山にもっと登らないとさァッ🥺」
李厳「もうさァッ無理だよ輸送なんてさァッ🥺」
楊儀「もうさァッ無理だよ魏延なんてさァッ🥺」
諸葛亮「無理と言うのはですね、嘘つきの言葉なんです😡」
「途中で辞めるから無理になるんです😡……ウッ!」→ 過 労 死 💀
どうすりゃいいんだ……😨
せっかく諸葛亮の軍勢を2度にわたって鎮圧出来た曹真。しかし小説では一通の手紙がもとでショック死。
政治的にも司馬懿を抑えうる大黒柱でしたなぁ
反応が早いですね。
ありがとうございます。
親父ばかりか、息子も悲惨。
司馬仲達の踏み台扱いだからな。
プライドだけで生きて来た御仁ですもの。
曹真がこんな扱いだから、カクショウが身体をはって首をつなぐ活躍が際立つ。
また反応が早いですね。
人材不足の諸葛亮軍に比べ、司馬仲達の軍勢の方が劇的。
馬謖は劉備から口だけで中身がないと評価され街亭の戦いで大失態をやらかし蜀の北伐の可能性を潰した。馬謖は趙の趙括と同じで勉強は出来るが仕事は出来ないタイプで趙括のように周囲から馬謖も重要な場面で起用するなと懸念されていた。
口だけで中身が無い、というよりは「経験不足である」ことを注意していたような気がします。そしてそのまま用いようとする諸葛亮に釘を刺した、みたいな。
劉備の遺言の馬謖の話は陳寿が言わせたのかも知れない
第一次北伐と第二次北伐で諸葛亮を防いだのは曹真ね。
演義やスリーキングダムでは無能の極みみたいに描かれてて気の毒だな。
わかる。軍師連盟ではちょこっと上方修正あった
北伐開始時、「荊州の」張郃が援軍として来る事を予想出来たでしょうか?。趙雲を蜀軍本隊と誤認して曹真が、後詰めには曹叡。涼州方面には郭淮が居ます。司馬懿も孟達討伐に出ている状況で、対呉戦線を手薄にしてまで張郃を荊州から外すでしょうか?。たぶん考えられないと思います。別の動画でも言ってましたが、援軍の将が張郃だと知っていれば、馬謖だと厳しいと考えて対応したかもしれません。
一国を切り盛り出来る諸葛亮が、龐統が戦死するまで荊州に居て表に出る必要が無かった訳ですから、後の蜀の人材不足はあの時が分岐点だったのかなと思っています。
季漢は最早復活せずとし曹魏の耳目は東方の孫権に向いていた…
そんな情勢を上手く利用し、鮮やかに三郡を奪取し目的の隴の掌握まであと一歩まで迫っていた
そんな危機を収めた張郃、徐邈、游楚らの勇姿は讃えたい
北伐は、地の利を知る者達の重要さがよく分かる
魏の領土を切り取る可能性があったとしたら、このときしかなかったでしょうね。
ただ勝ったとしても益州に氐・羌が流れ込んできて、王朝としての蜀は滅びただろうというのが僕の見立て。
(益州の人間からすれば、自分たちを守ってくれるなら強い方がいいに決まってる)
一足早い成漢の誕生か
隴西よりも隴右と言った方がいいかな?
単に隴西だと隴西地方か隴西郡かわからないので。
その隴西郡を守ったのが游楚(おそらく羌族の一派)。この戦いの殊勲賞。
第二次北伐の郝昭といい、鄧艾がなんといおうと、魏の防衛は異民族なしには成立しえなくなってます。
あと蜀と呉の間はどのみち魏興郡の申儀に塞がれてるので、上庸郡の戦略的価値はそこではないです。
(蜀と呉の間なら永安経由で長江使った方がはるかに速いので)
どちらかというと、空っぽになった漢中を魏興郡に攻められない方が大きいかな?
そこから姜維に流れが繋がっていく感じがワクワクする(*'ω'*)
さらにそこから五胡十六国へ……
@@shou-sho 趙雲・鄧芝の部隊は、こっちに向けるつもりだったとか推察してます
@@KOUMEI_NO_WANADA 上庸郡の先は水軍なしではとてもとても
完全に湿地ですよ
泣いて馬謖を斬るの由来なった第一次北伐で孔明のストレスピークだった時
胃に何個穴が開いたことやら
重大な過失とあるのでほとんど戦えずに軍は霧散し本人も逃げてしまった可能性高いんですよね馬謖
実戦向きではなかったのか?相手も当時最強クラスですしね
曹魏にとっては領土が1番狭く成る所。
シルクロードルート。
⛰️と🏞️と🛣️が圧縮された地域。
☔️の少ない乾燥地域。
若い人材に経験積ませよ。
でのこの第一次北伐戦。
ifもしも、馬謖が指示通りに🛣️に陣地築いていたら。西涼地域は曹魏から蜀漢へとなってたかも!
宿命のライバルの司馬懿の風林火山進撃や美しい人(無双)の張郃(玄人軍人)の活躍で孔明期待の愛弟子は街亭で大敗した。猛者玄人軍人揃いの曹魏(司馬懿軍団)に戦いを挑むには馬謖の器では無理があったか…😢
負ける武将なんか数えきれないほどいるのに、逃げたんだもん。ところで張休とか李盛とか、場面変われば馮習とか、今の時代にほぼ伝わってない人間が軍を率いてるの面白いなぁ
国力差を考えれば蜀が勝つ為には魏の国内で反乱を起こさせるしかない。それが失敗した時点で勝負は決まってた。
この時点で指揮官として関羽、張飛、軍師として龐統、法正がいたら、せめて張飛と法正だけでも健在だったら街亭は容易に確保できたのではないでしょうか。
馬謖はやはり参謀として孔明の側近として意見を述べるのが適任で、部隊指揮官にするなら小さい任務を与えたり趙雲や魏延の指揮下で部隊長を務めるなどして経験を積ませるべきで、これは結局のところ馬謖をこの任務に任命した孔明の責任が大だったように思います。
諸葛亮は劉巴抜擢の頃から、自身の弱点は戦略面にあると言ってますし、それを補いうる存在が馬謖だったんでしょうなぁ
劉備の北伐ならどうなったかなあ😮
王平の主張通り街道封鎖を試みていた場合、どの程度持ちこたえられたかなぁ。
結果論ではあるんだけど、魏と呉の情勢的に比較的対応しやすいタイミングで決行してしまったのも痛いですね
父や息子より軍事的才能が怪しく呉を攻める事に固執してる曹丕の代ならここまで素早く対応してきたかってなるでしょうし
逆に半年以上遅くして石亭の戦い後の曹真と並ぶ重鎮曹休が大敗したショックのタイミングなら魏も動揺していたでしょうからまだ付け入りやすかったかなと
曹叡のヤバいとおもったタイミングでの手の打ち方が早過ぎてまずそれをさせない状況にしないとどうにもならないんですよね
ちゃんと師匠が時間稼ぎに徹しなさいと厳命してれば…
まあ成果を挙げれば命令違反も目をつぶるという
当時の慣例もあったからどちらにしても欲を
かいてしまったかもだけどね
それに街道を守ったからといって守りきれたとも
言いきれないし馬謖くんの戦術は責められへんなあ
残酷な考え方かもしれないけど、街亭での判断を見て馬謖に関して「俺達の側ではない…」と判断した可能性も感じてしまう。
三国志の名参謀になる人って、初戦でほとんど負けてない気がするし(曹叡司馬懿張郃と彼らの頃よりも相手が悪くなっていくという点はあれど)
あの劉備が馬謖に関して窘めていたと言う話もあるし、高過ぎる声望を危険視したのかも
仮に第一次北伐が大成功して涼州を獲得出来たとしても厳しかったと思う。魏の支配に不満を抱いて反乱を起こしていた在地勢力が今度は蜀漢の支配に不満を抱いて反乱を起こすという事は考えられたし、異民族が侵攻して来るというリスクもあったから。
姜維が厚遇されていること、諸葛亮の厳格かつ公平な人事を考えると、意外となんとか出来そうな感じもあります。ただそもそもの戦力差を考えると維持が難しいという現実も分かる🤔
太古から水絶ちで勝つ戦いって他にもあるのだろうか?
魏延と楊儀が両翼という陣営では天に登るどころじゃなかったろうな
ホント、劉備はみーんな持って逝っちまったよなぁ
癖が強すぎる
夏侯ボウって夏侯惇の子では?
はい、そのとおり。完全に僕のミスです😭
@KOUMEI_NO_WANADA
どんまいです汗
何故、孔明は経験不足の馬謖を重要な所に抜擢したのか。
孟達が斬られた時点で勝負あったかなとは思う。上庸から南陽に牽制をしつつ長安直撃すれば成功してたかもしれない。とはいえ長安直撃も成功すれば魏延の力が強くなりすぎるって面もあるから諸葛亮が嫌ったかもしれない。夏候楙が逃げても曹真が徹底抗戦すれば簡単には抜けないでしょうけどね。
まぁ第一次は涼州を押さえるのが第一目的で、第二次戦で涼州と漢中から長安を攻めるって考えだったのでしょう。戦略自体は間違ってないとは思うが、いかんせん物資と兵力と人材が劣りすぎる・・・東部戦線の曹休・張遼・李典・満寵に比べればメンツは緩いはずだったんだけど、司馬懿と張コウが強すぎたか?
曹叡が采配を振るい始めたのもまた大きかったのかも
「馬謖に重要な仕事を任せるな」という劉備の台詞は、正史にあるの?
馬良伝の馬謖の項目に記載がありますね
せめて各人材が、後十年以上生きていたらと…
それは「夷陵の戦い」勝利ifの結果になるでしょうし、そうなっていれば確かに状況はずっと良かったでしょうねぇ…
登った山に水が無かったの運悪すぎやな
なんだかんだ言っても諸葛亮は凄い。私は三国時代では曹操が一番凄いと思っているけど、二番目に凄いのは諸葛亮だと思っている。ただ曹操にあって諸葛亮には無かったものは、運。
曹操は得意なことに専念し、任せられる仕事は人に任せた。しかし諸葛亮は全てに専念しようとした。ここらへんの差が大きい気がします。
@@KOUMEI_NO_WANADA ああ、言われてみると、そっちの要因の方が大きいような気がします。しかし、蜀漢に人材が(少なかったけど)いないわけでもないのに、性分なんですかねぇ。
歴史にたらればは禁句ですが
ここで馬謖でなければという想像をしてしまう私は浅慮です😅
例え魏延でも敗北は避けられなかったと思います。しかし負けるにせよもっとうまいこと負けることはできたでしょう、王平がそう出来たように。
と自分は考えてしまいますね🤔
根本的には諸葛亮の戦略ミスだと思うが局地的には実は馬謖より趙雲が戦犯だと思ってる。
史書には「趙雲を陽動に派遣し諸葛亮本軍は祁山に進み馬謖を前衛としたら馬謖が敗北し張郃に涼州を奪還されたので撤退した。ついでに趙雲も負けてた」という順に記述されているが時系列的にも地理的にも最初に戦闘を開始したのは趙雲であり曹真もそこに急行している。万に満たないであろう趙雲が曹真に撃破されるのは必然でそのタイミングは馬謖敗戦より早い可能性が高い。敵主力を引きつける陽動が早々に撃破され前衛も敗れたので諸葛亮は仕方ない撤退し、その敗戦の責を馬謖に負わせて収拾を計ったというのは疑い過ぎだろうか?趙雲がもう少し粘って曹真の足止めをしていれば違った展開になっていたかも知れない。馬謖一人が責められがちだが上級指揮官である諸葛亮、趙雲らの責任のほうが大きいも見るべきではなかろうか。
自分的にはそもそも趙雲・鄧芝は元々、孟達援護に向かわせて、孫呉と協調することを目的とした部隊だったのでは?と考えています。
そう考えると曹真への陽動は元々の目的とは違う役割であり、最初から無理のある仕事を請け負いながらも何とか耐えれるだけ耐えた、みたいな。
別働隊の捻出がとにかくギリギリすぎる感じがずっとあるんですよねぇ。
諸葛亮は政治家であって軍略家ではないんだよな
でも軍事もできちゃうの普通に化物
当時はどちらもするタイプがいないでも無い感
正直馬謖より孟達の方が作戦全体見た時の戦犯度高いような
荊州陥落の後に裏切るし味方としていて欲しくない奴
孟達の異質な存在感はキャラとして割と好き
これが後にバショクショックと呼ばれるとは誰も思わなかったろうなぁ
荊州を抑えられた時点でほとんど勝ち目はなかった。そんな中で最も勝てる可能性があったのが第一次北伐だったと思う。
ただこれで長安を落として涼州を手懐けても、本当にそれを維持しつつ魏を倒せたのかは正直疑問だと思ってしまう。
異民族の問題とかもありますしねぇ
何故山に登るのか
そこに山があるから
それはともかく、こういうところは三國志はガンダムに似てる
北伐は孔明がぶちあげた大規模戦役
孔明は大政治家でありながら、果たして戦争犯罪者でもあるのか
それは歴史
そういえば、ガンダムではコロニー落として人類の半数を死に至らしめたなんて語られてるけど、三國志は半数どころではなかったんでしょ?たしか人口が激減したとか
点赞了
给大家推荐一套中国唯一通译裴松之注的书《三国志裴松之注全文通译》 陈寿原文+裴注原文+陈寿译文+裴注译文 地毯式(即全面、完整、无任何删减)翻译 日本亚马逊、美国亚马逊、新加坡亚马逊有卖
三国志系のチャンネルで街亭の話が出る度に「馬謖は副将参謀でこそ輝く」説を挙げる。無能やバカの類ではなくポジションミス。せめて副将から経験を積ませればと思ってやまない。
街亭とはどこか
続漢書郡国志五によると
(略陽県)街泉亭がある
元和郡県志巻三十九によると
「(隴城県)また、街泉亭がある。蜀将馬謖が魏将張郃によって敗れた場所である。」(又有街泉亭,蜀將馬謖為魏將張郃所敗)
太平寰宇記巻一百五十によると
「街泉亭、俗名を漢街城。(成紀)県の東北六十里にある。すなわち三国時代に蜀将馬謖が魏将張郃によって敗れた場所である。」(街泉亭、俗名漢街城。在県東北六十里。漢立街泉県以属天水郡。即三国時蜀将馬謖為張郃所敗之処)
読史方輿紀要巻五十九によると
「街泉城、俗名を漢街城。(秦安)県の東北にある。後漢は(県を)省いた」(街泉城、在県東北。漢置県、属天水郡。後漢省)
これらの記述を総合すると、下記のようだと伺える
後漢略陽県の県域に街亭(街泉亭)がある
唐の隴城県の県域に街亭がある
北宋成紀県より東北六十里(約34km)の場所に街亭がある
明代秦安県の東北に街亭がある
成紀県の位置は水経注より秦安県の8km、成紀水の瓦亭水に交わる地点とわかる
略陽県は隴城県と同じであり、現在の隴城村の位置である
諸葛亮は秦嶺山脈を迂回し祁山道という平坦な道を出た
そこから街亭までも平坦な道、距離は諸葛亮の陣が祁山道のどこにあって馬謖を派遣したかによるが帰りに西県を攻め落としたという記録から100キロもない。山道を通らないといけなかったのはむしろ張郃の方
張郃伝にある城というのは漢街城のことか。馬謖が先にここに着いておきながら城を有効活用できなかったのが敗因で陣地構築の時間がなかったわけではないでしょうね
めちゃくちゃ助かる補足に感謝
@@KOUMEI_NO_WANADA
略陽は王平が杜濩&朴胡と一緒に移住していた場所なんですよ。即ち王平はその地を良く知っていたと言う事になるんですよ
第一次北伐の作戦は諸葛亮ではなく馬謖が立てた作戦です。諸葛亮は軍事の専門家ではありません。
確かに劉備没後から参軍として一際寵愛を受けてきた馬謖ですから、南中平定から引き続き戦略構築において大きく寄与していたのは間違いないと自分も考えています。
また劉巴抜擢の際、諸葛亮は「私は遠大な戦略を構築するのには向いておらず、その点では劉巴殿に劣る」と言っていますし、そこを補完する存在が馬謖であったのかもしれません。
しかし、諸葛亮だけで戦略を組み上げたとも、馬謖だけで組み上げたとも明言が無い以上、個人の能力であると断定することは出来ません。
そして今回の蜀漢軍の総大将が諸葛亮である以上、全てにおける責任者もまた諸葛亮です。故に諸葛亮の名前を第一に挙げているに過ぎず、その点はご理解いただけますと幸いです。