【三国志】1時間で分かる!超世の英傑「劉備(正史)」を徹底解説!【ゆっくり歴史解説】

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  • Опубликовано: 10 сен 2024

Комментарии • 158

  • @user-fr8vy2zj1t
    @user-fr8vy2zj1t 6 месяцев назад +69

    曹操「天下の英雄は君(劉備)と操のみ、袁紹など不足だ(先主伝)」
    曹操「劉備は人傑であり、袁紹に先んじて当らなければならない(武帝紀)」
    程昱「劉備は英雄の才を持ち、民衆の心を掴かんでいる(武帝紀)」
    賈詡「劉備は英雄の才を持ち、諸葛亮はよく国を治めている(賈詡伝)」
    程昱「劉備は英雄の名声を持ち、関羽、張飛は万の兵に値する(程昱伝)」
    劉曄「劉備は人傑、諸葛亮は治世に優れ、関羽張飛は大軍の筆頭となる武勇の将(劉曄伝)」
    陳登「劉備は傑出した雄姿を持ち、王覇の略を備えおり、私は深く尊敬している(陳矯伝)」
    陸遜「劉備は天下にその名を知られ、曹操は恐れている(陸遜伝)」
    先主伝  麋竺が言う「劉備でなければ徐州を安定させるのは不可能だ」
    獻帝春秋 袁紹が言う「劉備は度量が深く信義を有してる、彼が徐州を領するのを私も望む」
    先主伝  袁紹は将を派遣し道路整えて劉備を迎えた、自ら鄴を二百里出て、劉備と会見した
    魏書   劉備が袁紹に帰属すると、袁紹父子は心傾けて敬重した
    先主伝  劉表は自ら郊外まで劉備を迎え、上客の礼を尽くし、兵を授けて新野に駐屯させた
    英雄記  劉表が病にかかると劉備に荊州を領有させ刺史にするよう上表した。
    傅子   郭嘉が言う「劉備は英雄の才を持ち人心を掴み、張飛関羽は兵一万に値する敵です」
    魏書   劉表は病が重くなると、劉備に国を託した
    魏氏春秋 曹操が諸将に言った「劉備は人傑だ、率いる兵が少なくとも心配である」
    山陽公記 曹操は言った「劉備は私の同類だが、少し計略を仕掛けるのが遅かったな」
    江表伝  劉備が秣陵の地形を見て、孫権に都に勧めると「智者[張紘と劉備]の考えは同じだ」
    劉備の英名、信義、才略については各人物、史書でも数多く評価されていますね
    まさにこの時代の英雄かと

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +17

      ちょっとこれ固定しますね☆(笑)

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 6 месяцев назад +4

      「備勇而志大、關羽・張飛為之羽翼、恐備之心未可得論也」(董昭伝)

    • @syokatsuryo7537
      @syokatsuryo7537 6 месяцев назад +3

      我が君の評価は、語る口は異なれど、みなかように敬意と畏怖を表現されておる。
      電話もパソコンも無い時代に、色んな人から評価の声が上がるってすごいですね。
      尾ひれもあるでしょうが、きっと魅力のある人だったんでしょう。

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад +3

      正史にしても、玄徳のカリスマ性や各所を転々として益州・漢中に行き着く辺りは、高祖・劉邦を彷彿させる。
      血縁がどうかより、人々に期待を抱かせる何かを持っていた英才には違いない。そして、真偽はともかく《魅力》+《皇叔という箔》の組み合わせは、国力・兵力以上の働きを、かの集団にさせている。

    • @user-ui5nv8sg3y
      @user-ui5nv8sg3y 5 месяцев назад +1

      そういう人傑が、後期までほぼ居候状態だったのがね
      曹操は夏侯兄弟や曹洪他軍団の長に出来たけれど、劉備は地盤がなくて劉邦よりも出遅れ感が
      天下取りの信長家康秀吉と、武田信玄上杉謙信含めたそれ以外
      何かちょっと足りなかったのかな

  • @ここをキャンプ地にした
    @ここをキャンプ地にした 6 месяцев назад +12

    性格に難ある関羽と張飛を筆頭に、魏延や李厳や法正らから、諸葛亮や馬良、龐統らエリートまでを難なく使いこなすジャジャ馬馴らし‥‥といったところだな。
    あの曹操が「天下の英雄は君と俺だ」と評した器量は本物だったのだろうね。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 6 месяцев назад +12

    色々言われる劉備だけど顔も知らない孔融が助けを求めてきて、劉備もそれに応えているあたり乱世において重要な頼みになる人なんだよなぁって改めて思う

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +10

      こういった経歴を見てると、太史慈や甘寧は劉備陣営に加わった方が良かったんじゃないかなぁ、なんて思ってしまう(笑)

  • @user-rk3st2ep7n
    @user-rk3st2ep7n 6 месяцев назад +12

    いろんな三国志を一通り読み終わっていろんな武将を好きになって結局また劉備が1番好き
    僕みたいなパターン多いと思います

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад +6

      演義にある様な聖人ではない、戦名人の任侠劉備、
      天才ではあるが軍略ではなく政治・運営の者で、演義の様な楽々策を弄するではなく、何役もの労を重ねる苦労人である諸葛亮、
      どちらも正史の方が魅力的ですね。

  • @yasug-nome383
    @yasug-nome383 6 месяцев назад +10

    曹操が異質であったように、劉備もまた普通の人とは一線を画する武将であった
    だから曹操は自ら劉備に対峙するようにしてたし、孫権は逆に劉備との正面切っての戦いは避けて勢力を削ぐよう立ち回ってたと感じます

  • @Bear_Samurai_kuma
    @Bear_Samurai_kuma 6 месяцев назад +11

    劉備ホントにすごいよなぁ常人なら3回か4回くらい4んでる人生歩んでる。それに演義目線でも正史目線でもカッコいいしまさに英雄と呼ぶべき人物。

  • @user-gn4iu1np5m
    @user-gn4iu1np5m 6 месяцев назад +14

    蒼天航路の「じゃっかあしい!!」と龐統がやられた時に号泣するシーンが好きでした~

  • @user-im1ef3wj2p
    @user-im1ef3wj2p 6 месяцев назад +6

    演義より正史のが劉備は有能と聞いてたがこれで少し分かった気がしたな
    衰退しかけてる勢力の見極め本当凄いな

  • @user-pc2eh6oi3q
    @user-pc2eh6oi3q 6 месяцев назад +5

    劉備の才能を見抜いて援助した人々も凄いし、その機会に巡り会えたことも幸運だったよ。もちろんただ待ってただけじゃないけども。

  • @佐藤十兵衛
    @佐藤十兵衛 5 месяцев назад +2

    めちゃくちゃ遅くなりましたが、劉備を解説してくれてありがとうございます。いつも楽しく観ていますが、やっぱり、1番聴きたかったのはこの人の話でした☆

  • @user-lg1uj4uv1j
    @user-lg1uj4uv1j 6 месяцев назад +8

    劉備、曹操、孫権が同じ兵力と同じ指揮官を連れて同条件で戦ったとして、1番強いのは劉備だと思います

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +9

      どう戦うか、だよなぁ…
      最終的に勝てればいいみたいな感じなら劉備、一戦で全てを決める感じなら曹操、配下の指揮官が極めて有能&防衛戦なら孫権、みたいな…
      妄想が膨らみますね。

    • @kappanouen
      @kappanouen 6 месяцев назад +2

      シェーンコップ「あなたほど戦争の愚劣さを嫌っている人間はいませんが、同時にあなたほどの戦争の名人はいない。そうでしょう?」
      ヤン「ローエングラム侯ラインハルトはどうなんだ」
      シェーンコップ「五分と五分の条件で兵を動かしたら、多分あなたが勝つと私は思っているんですがね」
      ヤン「そんな仮定は無意味だね。その五分と五分という条件を整えるのが戦略だ。戦略を無視して戦術だけの優劣を論ずるなど、実際の戦争ではあり得ないことだ。ローエングラム侯のスゴイところは、その戦略において常に五分以上に持ち込んでしまうところにある。彼はいつも、実際に戦う前に勝利しているんだ」

    • @user-lg1uj4uv1j
      @user-lg1uj4uv1j 6 месяцев назад +2

      @@kappanouen
      劉備「荊州益州取って、曹操と互角に戦えるようにしたぜ!」

    • @so8661
      @so8661 5 месяцев назад

      @@user-lg1uj4uv1j
      関羽「兄者が漢中を取るなら、俺も荊州から北上するぜ! 何? 呂蒙の使いがへーコラしに来た? ははっそうだろう! 最早、後方は気にするまでも無い!!」

  • @イシイマチコ
    @イシイマチコ 6 месяцев назад +2

    ミステリアスな魅力のある劉備ですが、どっしりした大将然なところもあるし遊興好きな任侠的繋がり好むなどさすが群雄割拠を才覚で泳ぎ切った英傑ではありました。
    陳舜臣さんの『秘本三国志』のように曹操と劉備はお互い対立しているように見せかけ、劉備が付くほうが負けてライバルを一つずつ減らしていく展開もあったら面白いが。

  • @harigane4773
    @harigane4773 6 месяцев назад +3

    最後に唯一の大敗をしてそこから没するとはまるで
    項羽みたいじゃないか!
    漢朝の復興を掲げながらなんたる皮肉…。
    でもだからこそ後世にまで轟く人気があるんだろうなあ。

  • @user-ep6gr3ns2z
    @user-ep6gr3ns2z 6 месяцев назад +3

    ある時期まで劉備は「皇帝」ではなく(春秋戦国時代の)「名君」を目指し、関羽、張飛、簡雍は「家来」というよりも「食客」だと考えれば劉備軍を上手く説明出来る。

  • @user-vw5sj4dv1o
    @user-vw5sj4dv1o 6 месяцев назад +5

    劉備がもっと早く確固たる地盤を持ってたらどうなってたんだろなあって思う。

    • @user-cy5no9vg7x
      @user-cy5no9vg7x 2 месяца назад

      草履を編んでいた人間が、あそこまでなったんですから、それ以上望んでも仕方ないでしょう。本来は、戦闘中に死んでいてもおかしくない人生です。

  • @stone3944
    @stone3944 19 дней назад +1

    カリスマなんだが、田豫や陳羣、袁渙といった優秀な人材に逃げられてるのも面白い。思うに上記の人物は所謂「地元志向」で、流浪してた劉備とは合わなかったのかも

  • @user-fr7bd1sh1w
    @user-fr7bd1sh1w 6 месяцев назад +2

    劉備「伏龍鳳雛とは誰の事ですか」
    司馬徽「よいぞ、よいぞ」
    劉備(ちゃんと質問に答えろよオッサン)

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад

      曹操「伏竜鳳雛とは誰だ?」
      司馬徽「よいぞ、よいぞ」
      曹操 🗡ザシュッ!

  • @nomoney8296
    @nomoney8296 6 месяцев назад +7

    正直、演義の胡散臭い偽善者の劉備よりは蒼天航路の劉備の方が好き
    劉邦の子孫だから蒼天航路劉備の方がらしいんだよね

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +5

      わかる。劉備には劉邦らしさを感じたい(*'ω'*)

  • @user-kx2bp9dm6k
    @user-kx2bp9dm6k 6 месяцев назад +25

    劉備って皇族なのに付き従う身内がほとんどおらず関羽や張飛ら義兄弟しかいない。孫堅や曹操には多くの身内がいるのえらい違い。身内が少ないから劉禅は自身の地位を脅かされずに40年も在位できた。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +18

      身内が少ないと旗揚げ時期にめちゃくちゃ苦労するけど、そこを関羽や張飛といった仲間たちが支え、政権樹立機にはしっかり諸葛亮を重んじた。こりゃあカリスマですよ🌞

    • @nomoney8296
      @nomoney8296 6 месяцев назад +3

      曹操はともかく、孫堅よりは劉備の方が裕福だった感があるから比較は微妙
      孫堅よりは劉備の方が人脈を形成出来るだけ社会的地位は高かったから有利だったとも取れるしね、ただたまたまとは孫一族は超名門周家と繋がれただけでそれだけで一気に逆転したとも考えれるから難しい

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 6 месяцев назад +4

      @@nomoney8296 周さんちより孫家的には袁術と繋がってたのが大きそう?

    • @nomoney8296
      @nomoney8296 6 месяцев назад +1

      @@matukawatositane
      家格や当時の威勢的には当然そうなんだけど、それでもプラスになったのかとちょっと考えてしまうのが蜂蜜皇帝
      孫堅の名声はほぼ単独で董卓を追い詰め当代随一の漢室の忠臣とされた事で袁術が関係あるかと言うとなあ
      あーでも、後方支援しただろうし一応息子や親族の面倒見たしなあ

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 6 месяцев назад +4

      @@nomoney8296 孫堅の後ろ盾だったのはその通りというか袁術がバックにいるから荊州刺史他の邪魔な連中をコロコロできた気はします…
      汝南袁家の本流は侮れないとは思うかなと

  • @tk2011
    @tk2011 6 месяцев назад +3

    何となく“基本”が気になっていたところ。
    長編なんで(お疲れ様です)、分けて拝見しますね。

  • @user-kg1qb9nx7p
    @user-kg1qb9nx7p 6 месяцев назад +2

    何も無いところから自分の目で才能を見定めて成り上がるのがすごい

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +3

      ちゃんと漢室の血が流れてそうな気風を感じる(*'ω'*)

    • @user-kg1qb9nx7p
      @user-kg1qb9nx7p 6 месяцев назад +2

      @@KOUMEI_NO_WANADA
      史実だと(現代基準で)割とクズいのに人望があること
      息子の扱いが雑なこと
      が実に劉邦の血を感じさせますねw

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 6 месяцев назад

      この手のテンプレで牛が盗まれたと言って後から誤解でしたみたいのも良くある。

  • @user-ey2iv9lf6l
    @user-ey2iv9lf6l 6 месяцев назад +4

    sweet三国志の劉備が大好き

    • @HOPE-ch8rk
      @HOPE-ch8rk 6 месяцев назад

      あれこそが数多ある三国志漫画の最高峰だと思ってる。
      呂布「俺は筋肉でやる」

  • @user-ux3mp1ft6c
    @user-ux3mp1ft6c 3 месяца назад +1

    糜竺さんすごいよなぁ

  • @櫛森鉄平
    @櫛森鉄平 6 месяцев назад +1

    関羽の仇討ちは単に激情に駆られたわけじゃなくて、荊州の地が戦略的に必要だったからこそなのではと思ってみたり。官僚だけじゃなくて兵士も荊州出身者が大勢いただろうし、そういった意味でも取り返す必要性が大きかったのかなと。

  • @Katuragi-Housiyou
    @Katuragi-Housiyou 6 месяцев назад +2

    三国志ファンを見ていると、最初は劉備や孔明達蜀のファンに演義の影響でなり、正史の知識を得てくるとやはり魏が正統、曹操こそ英雄と魏のファンになり、更にマニア度が増すと呉の孫権ファンになるパターンを結構見てきました。
    自分は悪党ですが悪い意味で魅力がある董卓陣営が好きだったりします(笑)

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +3

      董卓政権はまだ擁護できる。リカクシ政権は凄く厳しい(笑)

  • @mnkmdst720
    @mnkmdst720 Месяц назад

    ただやはり劉備の興国までの陰には糜竺という当代最強の資産家ありでしょう
    その規模は始皇帝の父親である荘襄王にかけた呂不韋すら足下にも及ばないとか
    また糜竺は単なるボンボンなどではなく政略にも長けており
    曹操や呂布も糜竺さえ自陣営に引き込めれば劉備なんてどうとでもいい感じだったとかね

  • @user-tz4nz8wk9r
    @user-tz4nz8wk9r Месяц назад

    こんなに強いのに
    主人公になった演技でデチューンされた謎w

  • @user-pk4ez1mi2c
    @user-pk4ez1mi2c 6 месяцев назад +1

    解説で劉備による劉封処刑が抜けてますが私的に見逃せないポイントだと思うのですが。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +1

      あくまで「劉備の解説動画」なので、省略している部分は多々あります。コメント欄で皆様が補足していただけると、めちゃんこ助かります(笑)

  • @user-fd4eb2ux6y
    @user-fd4eb2ux6y 6 месяцев назад +2

    劉備って張郃を打ち取れなくて悔しがったと語ってたから、劉備と張郃って袁紹配下時代に面識会ったのかな?

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +4

      軽い面識くらいならあってもおかしくは無いですね。
      でもそれ以上に張コウの戦闘経歴って魏将の中でも特に分厚いですし、その武名は轟いていたでしょう。そういう意味でも、何が何でも討ち取りたい将軍ではあったでしょうね。

    • @user-fd4eb2ux6y
      @user-fd4eb2ux6y 6 месяцев назад +3

      @@KOUMEI_NO_WANADA 劉備が恐れたその張郃が後に蜀の野望を潰すことになったのでやはり劉備の人を見る目は本物すね

  • @PS-ys5yi
    @PS-ys5yi 6 месяцев назад +1

    無双の劉備 結構好き

  • @user-ix6wk7lx6g
    @user-ix6wk7lx6g 6 месяцев назад +1

    【頑張って涿郡やら劉勝の子孫を調べてみたの巻】
    『先主姓劉、諱備、字玄德、涿郡涿縣人、漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞、元狩六年封涿縣陸城亭侯。』(先主伝)
    まず亭侯とは後漢の時に出てきた侯であり封地が亭の規模しかない。しかも前漢の武帝の時代より直接的な統治はできないので封地(国)は国相が政治を担う事になる。
    武帝の推恩の令とは諸侯王の諸子にも領地を分配する令で子孫が多いほど領地が細分化すると言う仕組みです。
    これは前の呉楚七国の乱の再発を防ぐための諸侯王抑制策となります。
    注:封地の統治について。これは前漢武帝の諸侯王抑策を引き継がれている。孔融が北海相とあるのは北海王の封地の統治を任されている事を意味している。郡には太守。国には国相。属国には属国都尉が統治の任に就いている。
    この属国とは異民族が先住もしくは住む事を強要された地を指します。
    余談ですが、後漢の属国には張掖属国、張掖居延属国、広漢属国、蜀郡属国、犍為属国、遼東属国があり、益州だけで属国の半分が抱えてる状態である。
    先主伝にある劉貞は前漢時代の人なので陸城亭侯ではない。陸城亭侯は誤植で正しく陸城侯となる。この辺りは三国志集解でも指摘してますね。(繰り返すと亭侯は後漢の時に出来たもの)
    中山国にあるのは陸成県。陸成と陸城は一緒です。(漢字で土偏が有るかと無いかの差で同一)
    陸成県の歴史は陸成(陸城)→蠡吾(吸収される)→蠡吾侯国→博陵→博陸となってます。
    簡単に言えば中山の陸成は地名を変えながらも幽州涿郡に属していた時期があるので陸成は涿郡じゃないとか言うのは間違いです。
    なお蠡吾侯は後漢の桓帝の父。父の陵(墓)を立てたので同地を博陵としてます。
    『分中山置博陵郡,以奉孝崇皇園陵。』(後漢書桓帝紀)
    ↑蠡吾は涿郡に属していて侯国となった時に冀州に戻されている。そして博陵となった時に博陵郡に昇格している。
    【後漢の冀州九郡】
    魏郡、鉅鹿郡、常山国、中山国、安平国、河間国、清河国、趙国、勃海郡
    ↑この冀州の九郡(三郡六国)うち中山、安平、河間の一部分が旧涿郡です。実は幽州涿郡はかなり広大な地だった事がここで判ると思います。詳しくは下の領地表を御覧ください。
    三国志よりも先に成立した漢書王子侯表で中山王家の大半の子孫…特に来孫の代に涿に土着してる事が記してある。
    【領地表】
    『中山國,戶十六萬八百七十三,口六十六萬八千八十。縣十四:盧奴,北平,北新成,唐,深澤,苦陘,安國,曲逆,望都,新市,新處,毋極,陸成,安險。』(漢書地理志)
    『涿郡,戶十九萬五千六百七,口七十八萬二千七百六十四。縣二十九:涿,迺,穀丘,故安,南深澤,范陽,蠡吾,容城,易,廣望,鄚,高陽,州鄉,安平,樊輿,成,良鄉,利鄉,臨鄉,益昌,陽鄉,西鄉,饒陽,中水,武垣,阿陵,阿武,高郭,新昌。』(漢書地理志)
    陸成→蠡吾
    【後漢での涿郡】
    涿郡(幽州涿郡)
    涿、逎、故安、范陽、良郷、北新、方城
    旧涿郡(冀州中山国)
    蠡吾(旧陸成)
    旧涿郡(冀州河間国)
    易、武垣、中水、鄚、成平
    旧涿郡(冀州安平国)
    饒陽、安平、南深澤
    見てのとおり幽州の涿郡は分離を繰り返しており、涿郡の南半分は冀州に配置替え(移管)となっています。蠡吾(旧陸成)も涿郡からの移管が見てわかります。
    陸城侯については下にある王子侯表を参考にしてください。
    【中山王劉勝の子供らの玄孫を漢書王子侯表より眺める】
    注:厳密には劉勝から数えると玄孫の下の来孫になる。以下の侯は劉勝の子である。
    廣望節侯 忠→玄孫の閣が侯を嗣

    將梁侯 朝平→玄孫が涿で土着
    薪館侯 未央→玄孫が涿で土着
    陸城侯 貞 →玄孫が涿で土着←(劉備の系譜)
    薪處侯 嘉 →玄孫が涿で土着
    陸地侯 義 →玄孫が辛處で土着
    臨樂敦侯 光→玄孫で廃絶
    東野戴侯 章→二代で亡ぶ
    高平侯 喜 →玄孫が平原で土着
    廣川侯 頗 →当代で亡ぶ
    乘丘節侯 將夜→四代で罷免
    高丘哀侯 破胡→当代で亡ぶ
    柳宿夷侯 蓋→二代で罷免
    戎丘侯 讓 →当代で罷免
    樊輿節侯 脩→玄孫で廃絶
    曲成侯 萬歳→玄孫が涿で土着
    安郭于侯 傳富→孫が死罪。玄孫が涿で土着
    安險侯 應 →当代で罷免
    安道侯 恢 →当代で罷免
    澎侯 屈釐 →当代が呪詛をしたとして斬
    中山康王 劉昆侈(劉勝の孫)の子
    成獻侯 喜 →四代で亡ぶ。玄孫が涿で土着
    これが中山王家の罪状
    『六月甲午封,十五年,元鼎五年,坐酎金免。』
    『三月乙卯封,十四年,元鼎五年,坐酎金免。』
    『四月甲午封,十三年,元鼎五年,坐酎金免』
    『三月癸酉封,十二年,元鼎五年,坐酎金免』
    『二年三月丁巳封,三年,坐爲丞相祝,要斬。』劉屈釐だけ特別。
    ↑もうあれだね、推恩の令が施行されて国の細分化〜御取潰しまでのプロセスを見せられた感じですね。
    とりあえず漢書にて劉勝の子孫(劉貞の系譜)は涿郡に土着をしていると記してあるので劉備が中山靖王劉勝の子孫であるのも強ち嘘では無さそうではある。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +2

      卒業論文じゃん。PDFにして保存したいまである(*'ω'*)

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 6 месяцев назад

      誤字脱字は申し訳ない。修正が面倒なので察してください(笑)

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 6 месяцев назад +4

    38:24 張松はここで堪えていたとしても、劉備が益州を手に入れた後で処刑されていたと思う。この手の人物は敵側に居て内通してくれるから重宝するのであって、味方に迎え入れるのには不安しか無い。又、張松の性格から言って配下に加えられたとしても彭羕と同じような末路を辿っていたと思う。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад

      クセつよ人物を不思議と使いこなす劉備なら…
      なお劉備没後のことは考えないこととする(ぇ

    • @user-gg3cx3cz7o
      @user-gg3cx3cz7o 6 месяцев назад

      関羽に援軍拒否して嫌われて孟達が離反する段階でやっぱり曹操が良かったと劉備打倒策を巡らしそうなので、単独で魏に帰順する孟達より厄介。
      中国制作のドラマでは龐統が罠にはめて劉障に殺させたことにしてたな。

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад

      ​@@KOUMEI_NO_WANADA
      劉備が使いこなすか飼い殺すとして、その後は孔明が法を活用して処するかな? と。

  • @moipa808
    @moipa808 6 месяцев назад +1

    隣の家の少年とかが旗揚げ前から一緒に付いて来ていた人がいたんじゃないかと想像しちゃう😅

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад +4

      簡雍さんが、そんなポジションですね。

  • @jsetagaya1482
    @jsetagaya1482 6 месяцев назад +2

    劉備は家族に対しては見捨てたりと結構冷たい。曹操は色恋沙汰の多い人だけど基本嫁全員に優しい。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +6

      でも当時の乱世においては、劉備のほうがイメージが良く、曹操のほうがむしろ変人に見られがちというね。
      女性側の家格がよほど高くないと妻側から離縁を申し出ることができないこの時代に、曹操は丁夫人から離縁を叩きつけられ、よりを戻してくれと復縁を頼み込むも断られるという。それでいて乱世の覇者となる。不思議な人だなぁ🌵

    • @jsetagaya1482
      @jsetagaya1482 6 месяцев назад +2

      ⁠@@KOUMEI_NO_WANADA当時は「妻子は衣服の如し」というのがやはり普通だったのでしょうかね。曹操は可愛げあるので好きです。相当な切れ者なんでしょうけど手酷いやらかしを何度かしてるのが面白い。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +2

      基本的に妻子の法的な扱いは「所有物」に近いものがあります。その家のとても大切な資産、みたいな感じですね。
      だから亭主の方が罪を犯せば妻は国に没収されたりしたとか。

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад

      曹操は某雑誌の編集者に「やる事のスケールがデカいが、失敗のスケールもデカい」と評されていましたね。
      嫁に対しても、当時の周囲からは「嫁の不機嫌に何を大袈裟な…」と思われていたかも。

  • @genzouz2
    @genzouz2 Месяц назад

    劉邦になんとなく似た歴史
    最初の仲間に蕭何のようなタイプはいなかったのかな

  • @sugizoh
    @sugizoh 6 месяцев назад +1

    劉備の臨終の際、皇太子の劉禅は成都に留まり、白帝城で見舞ったのはその弟の劉永と劉理である、というのを聞いたことがあります。演義の創作なんでしょうかね?

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +1

      たしかに今確認すると、劉備は諸葛亮を呼んだとはありますが、劉禅を呼んだという文言はありませんでした。
      また、劉備が永安で崩御し、その翌月に劉禅は成都で即位していますね。
      ただ、ぱっと見で白帝城に劉禅は行ってないという話も見つけられなかったので、ちょっと詳しい人解説を…(笑)
      一応、劉備は劉禅に遺詔、または詔を出して「丞相を父と思い仕え、共に仕事につくように」「勉学によく励み、善行はいかに小さくとも実行せよ」と言っています。
      その場で劉禅に言い聞かせたのか、成都に居る劉禅に届けたのか、これもまたあやふやなところ。
      もうちょっとよく読んでみます…🫠

    • @user-ix6wk7lx6g
      @user-ix6wk7lx6g 6 месяцев назад

      普通に考えて劉備は永安に留まっているので、まだ親征を行ってる最中なんですよ。(孫権は劉備が留まってるもんだからまだ続けるのかと思って和を請う行為に出ましたよね)
      太子劉禅はこの親征(夷陵の戦い)には参加してない。
      と言うことで流れとしては劉禅は成都にいる。その成都から諸葛亮を招き寄せた。
      先主又為詔敕後主曰:「汝與丞相從事,事之如父。」とあるので劉備は詔勅を発した事が判る。
      詔勅は公文書だからこれを成都に向けて発したと見るべきかな。
      とりあえず詔勅だから父としてではなく皇帝として命令を発したと感じだと思う。
      もし劉禅が劉備の目の前に居たら詔勅なんか発しないで普通に遺言を託すかと思いますよ。

  • @ひょうべえ
    @ひょうべえ 6 месяцев назад

    一時間の動画制作お疲れ様でした。 35:00 の霊夢を聞いて上手いこと言うなと感心しました。魔理沙は孫権が益州を取ってもみたいなことを言ってましたが、「益州を劉備に貸したのは失敗」と何度も言っているので孫権には益州までとれたたはずいう思いがずっと燻り続けていたのだと思います。
    夷陵の戦い後の諸葛亮の「法正がいれば」という嘆き、個人的に少し引っかかっています。馬良には参謀は勤められなかったのかなと。「周縁の三国志」の隆中対の考察の中で荊州南部と交州の交易ルートの重要性とそのための夷越の懐柔の必要性の解説を読んだ後では、もしかすると馬良に沙摩柯らの調略をさせたのは劉備ではなく諸葛亮かもしれないと疑っています。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +4

      劉備は歴戦の将軍であり、正直軍事におけるアドバイスとしての参謀役は不必要だったと思います。
      それ以上に必要だったのは「劉備の心に届く言葉を投げかけられる人物」「一時でも良いから冷静さを取り戻せた人物」が必要だったのかなぁと。
      そういう点では、法正はいたく劉備に気に入られていた人物でもあったので、やっぱり居て欲しかったのでしょうね。

    • @ひょうべえ
      @ひょうべえ 6 месяцев назад +3

      あの曹操ですら荀攸や郭嘉を参謀として伴っているのですから、劉備に参謀が不要とは到底思えません。参謀を連れて行くというのは単に戦闘の助言だけではなく、政治や外交や人間関係などの詳細なデータを戦場に持っていくようなものであり、参謀がいないということはデータベース無しで劉備個人の知識と経験のみで状況に対応しなければならないという事です。特に夷陵の戦いは孫権と曹丕の外交関係まで把握せずに陸遜軍の意図を読むのはほぼ不可能です。個人的に劉備が長期間夷道から動けなかった理由の一つがこれだと思っています。

    • @user-bb1wg2ie2f
      @user-bb1wg2ie2f 6 месяцев назад

      ​@@KOUMEI_NO_WANADAさん
      この頃劉備に耳を傾けさせる諫言をできそうなのは簡擁と糜竺くらいかな?
      ただ糜竺は弟の離叛に怒髪衝天だし、簡擁は活動の記録がないから物故したか病で伏せっていたか。
      諸葛亮はあわよくば荊州知識人グループを取り返せるかもと思って積極的に反対しなかった。

  • @user-wk1zt5lp3q
    @user-wk1zt5lp3q 6 месяцев назад +1

    正史と演技で描写も違えば人柄も違っていたけど、どちらに於いても劉備は乱世のカリスマであった訳ですな。
    流石は劉備。

  • @tomohiro19880307
    @tomohiro19880307 6 месяцев назад +1

    いつも楽しく拝見しています^ ^
    劉備の解説、めちゃくちゃ面白かったです(*゚∀゚*)b
    特に、演技では劉備の人徳で上手くいったとされている場面が、外交努力の結果と知り、目から鱗でした^ ^

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +5

      恐らく一番の功績者は塾に通わせてくれた叔父さんなのかもしれない。

  • @onsokukikousi
    @onsokukikousi 5 месяцев назад

    前半生がよくわからない人、劉氏で属尽だから生活には困っていないことは確かだが 親族が殆ど描かれていなんだよね

  • @user-ee8wb3nd9p
    @user-ee8wb3nd9p 6 месяцев назад +3

    そういやこの三傑一回は大敗しとるよな?
    劉備は夷陵の戦い
    曹操は赤壁の戦い
    孫権は合肥の戦いで

    • @user-gg3cx3cz7o
      @user-gg3cx3cz7o 6 месяцев назад +3

      孫権だけ敗戦の規模が小さい気が。
      史実としては太史慈はあそこでは死んでおらず、赤壁前の死去(おそらく病死)、兵数的にもそこまでの損害じゃない。
      攻めてる方が負けているという意味では共通だが。

    • @user-ee8wb3nd9p
      @user-ee8wb3nd9p 6 месяцев назад

      なるほど( ˙꒳​˙ )

  • @user-lg1uj4uv1j
    @user-lg1uj4uv1j 6 месяцев назад

    「孔明の嫁」に出てくる口悪ヤンキーフッカル劉備好き

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +1

      わかる。すごくわかる。

    • @user-lg1uj4uv1j
      @user-lg1uj4uv1j 6 месяцев назад

      @@KOUMEI_NO_WANADA
      主さんが「孔明の嫁」をご存知だったとは
      あの漫画は史実と創作の良いとこどりって感じで凄く読みやすくて良いと思ってます

  • @user-ui5nv8sg3y
    @user-ui5nv8sg3y 5 месяцев назад

    袁譚を孝廉に推薦というのはけっこう大きいと思う

  • @kitaharak396
    @kitaharak396 5 месяцев назад

    袁紹の長男を推挙するような家柄だから劉備は明らかに名家だよ

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  5 месяцев назад +1

      名家とは言えないまでも「力」はあったと思います。名門である周瑜の家が、成り上がりの孫家と親しく付き合ったみたいな、そういうイメージ。

  • @user-fb3oq9jq3d
    @user-fb3oq9jq3d 6 месяцев назад

    日本史なら足利尊氏ですかね。スケールはずいぶん違いますけど。
    関東で挙兵し、畿内で大敗戦、地盤のない西海に落ちて行って没落必至と思いきや、雲霞の大軍勢をたちまち集めて再上洛という、何とも不思議な徳を持っていた男...

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +1

      逃げ若の化け物ぶりがほぼ資料通りというのが恐ろしい…(笑)

    • @sugizoh
      @sugizoh 6 месяцев назад

      ​@@KOUMEI_NO_WANADAあの構成、ほぼ史料通りなんですね😮もちろん、本郷先生の監修が入っているでしょうけど。

  • @正木茂雄
    @正木茂雄 6 месяцев назад

    暴れ天童って番長漫画がありましたけど、主人公とライバルが、顔キャラが劉備と曹操まんまでした。😂

    • @so8661
      @so8661 6 месяцев назад +1

      それは「光栄顔」ですか?
      はたまた「横山顔」?

    • @正木茂雄
      @正木茂雄 6 месяцев назад +1

      @@so8661 横山顔ですね。

  • @user-lc1in8em3o
    @user-lc1in8em3o 3 месяца назад

    周瑜や魯粛と同様
    演義でナーフ食らった人物

  • @user-bq3tj7dl3w
    @user-bq3tj7dl3w 6 месяцев назад

    曹操がいなければ、あるいは、だったかもしれないが。曹操がいた時点で、その下に常に甘んじるしかなかった…………

  • @えびせん-f7d
    @えびせん-f7d 6 месяцев назад +1

    正史の劉備の方が好き

  • @shou-sho
    @shou-sho 6 месяцев назад +3

    動画を見て蒼天航路の影響はつくづく大きいなあと思うなど。
    30年前には劉備の人気とか地を這ってたものでございますよ。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +3

      考えられぬ…🌞

    • @shou-sho
      @shou-sho 6 месяцев назад +1

      劉備に「傭兵隊長」としての評価が生まれたのがその頃なんですよね。
      それまでは「軍事的に無能」で「偽善者」で「裏切り者」とさんざんでした。
      ちなみに久保さん世代だと無意識に蒼天航路の影響受けてると思いますよ。
      例えば先主伝の記述量をみる限り、定軍山ではなく益州平定が劉備人生最大の戦いなんですよね。

    • @user-hf3jx4ee9g
      @user-hf3jx4ee9g 6 месяцев назад +1

      それは吉川英治の悪影響で、曹操と孔明がかなり過大評価されてたからだろう。
      赤壁の敗戦などは秀吉が北条征伐に失敗して、逆に駿河辺りまで取られて西日本限定支配者の関白殿下になってしまうようなもの。
      とてもじゃないが智略、カリスマ性を兼ね備えた偉大な君主とは言えない。
      周瑜と劉備が討ち取り損なったから三国で最大の版図を維持出来たが。

  • @えびせん-f7d
    @えびせん-f7d 3 месяца назад

    三国志演義の劉備より正史の劉備の方が好き。

  • @user-lh8zp4ub2j
    @user-lh8zp4ub2j 6 месяцев назад

    なんだろう、劉備は嫌いではないんだけど、好きでもないというか。例えるなら曹操やカエサルは凄いし好きだけど、ウェスパシアヌスは凄いけど好きではないというか。あと893の多い土地に生まれ育ったから、ああいうのが嫌い、というのはあるかも。

  • @user-sf6qi3gi5l
    @user-sf6qi3gi5l 6 месяцев назад

    first 劉備 say he is the 中山靖王 posterity but is not
    evidence to prove thes statement i got to say 劉備
    is Very clever he Know 中山靖王 have many son so
    劉備 think Maybe i can pretend is 中山靖王 posterity but in 晋 dynasty
    there is a man call 劉琨 字 越石 he also is 中山靖王posterity but 劉琨 is true 中山靖王 posterity unlike 劉備 劉琨 have a prove so
    劉備 say he is 中山靖王 posterity but only himself to say These words perhaps when the 督邮
    Say 劉備 is pretend 中山靖王 posterity 劉備 is Very angry to beat 督邮 because 督邮 is uncover he identity Tell the people he is liar in 三国 era intellectual no one believes he is 中山靖王 posterity except Those poor man

  • @junkaisavoy1020
    @junkaisavoy1020 6 месяцев назад +5

    劉備の陵墓は「漢恵陵」であり、祭祀の住所は及漢昭烈廟であり、同じく今日の中国四川省の成都市南門武侯祠大道に位置し、同じ住所にあるのは諸葛亮の「武侯祠」であり、葬儀と規格は完全に後漢制度に則っており、中国の歴史、さらには世界で唯一の「君臣合祀廟」でもある。諸葛亮の「武侯祠」の存在感と四川省の民衆の心の中での地位が劉備の祠廟よりはるかに優れているからだ。また、これは中国の歴史上珍しい、「すべての人が具体的な位置を知っているが、誰も墓盗掘行為をする勇気がない」皇帝の墓でもある。1800年以上の間、軍閥、皇帝、異民族、あるいは庶民が劉備の墓を盗む勇気はなかった。

    • @yasug-nome383
      @yasug-nome383 6 месяцев назад +1

      地元民どころか地元民以外も名前も中身も知ってる墓なんて暴いたらすぐにバレて
      国中の皆に柳の木に吊るされて柳の枝で死ぬまで袋叩きにあうのは明らかだからね

  • @user-ly7vu8lu5l
    @user-ly7vu8lu5l 6 месяцев назад +1

    正史の劉備は普通に屑だけど演義劉備より好きですね

  • @seiichiyuumi9955
    @seiichiyuumi9955 6 месяцев назад

    昨今、個人的に「劉備玄徳=桐生一馬」なんですよねぇ。
    蜀を桐生ちゃんが獲るなんて、しんでもしないだろうから
    今の桐生ちゃんには孔明が居ないんだなぁなんて。
    なので劉備は孔明を得た桐生一馬という事なのですよ。
    ひょうげんが、こんらんしているようですが…
    そのままとうこうしますか?(Y/N)

  • @user-gl6zw8gq1n
    @user-gl6zw8gq1n 6 месяцев назад +1

    横山三国志とか吉川さんの小説から入ると劉備嫌いになるよね、偽善者すぎて

  • @丸マダオ
    @丸マダオ 6 месяцев назад +1

    劉備は
    なんちゃって横山光輝三国志の井上和彦
    劉備は好きだけど
    演技・正史・恋姫の劉備は大嫌いデス!

  • @user-os4uw6jb6x
    @user-os4uw6jb6x 6 месяцев назад +1

    小、中学時代は
    演義や天地を喰らう等の影響を強く受けてめちゃくちゃ好きだったけど
    高からは三國志を勉強したからめちゃくちゃ腐れ外道と分かり今は三國志1嫌いな武将。

    • @KOUMEI_NO_WANADA
      @KOUMEI_NO_WANADA  6 месяцев назад +4

      そこからまた好きになるまでがテンプレ(笑)