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天分ではなく天文の乱
伊達家の加増はその後飛び地の伊予に10万石が加増されます。ただ、伊予だったので政宗の庶長子である秀宗を当主とする宇和島藩を立藩することになります。
奥羽は奥州藤原家が成立する過程も非常に面白い。
正しくは最上義光→もがみよしあき
伊達も葦名も何気に御館の乱や新発田重家の乱に介入したりとハッスルしてるのよね。上杉景勝もよく生き残った政宗ですら出来なかった羽州山形天童を切り従えてるし、歴史上はじめて陸奥守護(そもそもこれは稙宗のためだけに新設された)になったりと晴宗ともうちょっと折り合いついてたら伊達は政宗より早くまとまってたかもしれないという。ただ、養子に出すにしても当時は家臣も一緒に出すことになるから晴宗からすりゃ有能な人材の過剰流出も危惧したのだろうか…
輝宗が以下の多様な人材を家臣に登用したのも、養子縁組による家臣の流出を補うものがあったのだと思います。遠藤基信:寺の住職の子として誕生。若いころ修験者として諸国を流浪したおかげで諸国の事情に通じ、輝宗に家臣として取り立てられて「伊達の外交官」として活躍する。輝宗の死から2週間後に輝宗の墓前で殉死。片倉小十郎:八幡宮の神職の子として誕生。異父姉・喜多(実父は鬼庭左月)が政宗の乳母だった関係で遠藤基信が彼の才能を見出し、輝宗に対し政宗の小姓に推挙。以降の活躍は皆が知るところであります。
ぶっちゃけ輝宗のがよっぽどヒャッハーしてて政宗ってどちらかというと戦国末期に産まれたボンボンって感じだわな
最上家が改易されなかった世界線の山形を見てみたかった。きっと今よりも発展していたのだろうなー
伊達62万石に次ぐ最上57万石の城下町だから山形の街ももっと大きかったかもしれないあと県内全域が1つの藩に統治されるので現在のような県内の地域ごとに文化圏がバラバラになるということもなかったかも
山形はどうしても山が多くて、各盆地にて集落や都市が形成されてるから、各地域で文化的な差異が生じるのは必然だったかもしれませんね。山形市と米沢市も別の盆地ですし、庄内地方に関しては山脈で隔てられてますから。
最上義光は関ヶ原の戦いで真っ先に家康軍につき、伊達政宗の背後を固めてますがこれは豊臣秀吉が秀次と共に義光の娘を惨殺したから。もし秀吉が秀頼の生後すぐ秀次の養子にでもして置けば滅亡はしなかったでしょう。実際秀次は現実主義者でしたので、生きていれば豊臣家を摂家にして聚楽第を残して居宅にし、実権を追い求めない代わりに徳川家の出す将軍候補を天皇家に推挙する事で名目上徳川家の上位に立つ、と言う策を講じていたでしょうね。後周囲の大名が誰も大坂の陣で味方しなかったのは秀頼は淀殿が秀吉に托卵して育てさせた、事を知っているから。
大河ドラマの独眼竜政宗では、北大路欣也さん扮する輝宗が、時勢は信長に傾いていると信長に鷹を贈るが、金子信雄さん扮する父の晴宗は、伊達は代々、足利に礼を尽くしてきたと、信長に誼を通じる事を反対して反目し合う場面があった。あの父子の不仲を窺わせる場面だった。
実はこの伊達輝宗との同盟のおかげで織田信長は畿内を上杉謙信軍に攻められかねなかった最大の危機を脱してます。伊達輝宗が越後出兵をちらつかせましたし。またこの同盟が武田勝頼の最期にも関係しており真田昌幸の提案を退けたのは包囲の比較的緩い北条氏政軍を突破してもその後ろに父が本家論争で揉めて戰寸前まで行った(上杉謙信が関東管領として佐竹義重討伐を言い出したおかげで助かった)佐竹義重軍、更にその後ろに織田信長と同盟する伊達輝宗軍、これを突破して沼田まで辿り着くのはいくら真田昌幸が戦上手でも不可能と判断したから。
歴史は繋がっていると
伊達家だけでも親父と戦ったり、弟をコロ助したりですからね。ただ、蒲生が断絶したせいで会津が松平になるのが、また後々の引き金だからたまらない。
12:28 動画の説明は正しくないですね。蒲生は忠知(秀行の次男)の代の1627年に会津から伊予松山へ国替えしたあと1634年に嗣子なく死去して断絶しています。蒲生の代わりに会津に入ったのは加藤嘉明(賤ケ岳の七本槍の一人)。子の明成の代にお家騒動を起こした末に1643年に所領返還を幕府に申し出たため改易。その後に会津に入ったのが保科正之です。
小次郎は関東で出家させ家の分裂を防いだみたい。
東北に限らず戦国時代は名前が示す通りあちこちで戦が行われ多くの死者を出した。しかしその死者たちの処理についてはあまり知られていない。長篠の戦いや関ケ原では1万~5万近い人が亡くなったとされる。東北では人口は少なかったとはいえ、奥州藤原の時代から考えると相当数の方が亡くなっている。とくに山での戦いが多いだろうから、小競り合いや残党狩りの農民を含めると表に出ない戦死者は多いでしょうね・・・・
3:37 岩城家・石川家・田村家も親戚ですね。岩城親隆・石川昭光は伊達晴宗の子、田村清顕夫妻はいとこ婚(どちらも母親が伊達稙宗の娘)、伊達政宗と正室・愛姫(田村清顕の娘)ははとこ婚(どちらも伊達稙宗のひ孫)。よって伊達忠宗の高祖父8人中3人は伊達稙宗となります。
五千石で、伊達家親戚、岩出山領主。百年後にこの家から岩城家に養子に入ってた。伊達家からの御付き家臣と門閥家臣の内紛も起きてる。
斯波さんスゲエな…
その後、南部家は江戸時代初期に改易寸前まで陥り、幕府によって盛岡藩と八戸藩に分割されました。しかし、この分割で幕末に両家は判断で別れてしまいました。盛岡藩は旧幕府軍側、八戸藩は新政府軍側です。😢
八戸藩が新政府側だったのは島津家から当主を迎え入れたことが大きかったでしょうね。
本家?の二階堂氏(奥州探題家)を滅ぼして伊達は頭角を表す。
上杉(本庄繁長)と最上は慶長出羽合戦の前から出羽の庄内地方を巡り抗争を続けており、1588年には庄内を制圧した本庄繁長により山形城の近くの東根まで侵攻を許しました。慶長出羽合戦では最上を救援するために伊達勢が上杉と敵対したことになっていますが先に手を出したの伊達で、上杉領の白石城を攻め落としました。
当時は東北も蝦夷って言われてたんだよね
越奥羽の文化は魅力満載で風光は絶景で御座います✌️ 人間社会はベトベトな感じですね🤪
最上義光はよしみつではなくよしあきです。
もし天文の乱が起きなかったら、東北の勢力地図はもっと違っていたかも。
伊達晴宗の時代にいっぱい養子に入れたり娘をいっぱい嫁がしているから親戚だらけ笑
伊達晴宗の子・輝宗が41歳という若さでで隠居したのも、祖父および父のなりふり構わぬ養子縁組・政略結婚で奥羽の大名家が親戚だらけで身動きがとれなくなって自身で勢力拡大できなくなったためのようです。政宗に代替わりすれば血も薄まるから勢力拡大できるだろうという希望的観測もあったと思います。
@@toyo-rex4899 でも実質伊達の領土になってるんだよな
秋田「小野寺氏」がまったく出てこない・・・。
夜叉九郎の戸澤氏もいない・・・。
奥州探題家の二階堂氏もな…。
小野寺家家臣の子孫のわし、出てこなくて涙...
最北部なのに南部なのなんか笑える
天分ではなく
天文の乱
伊達家の加増はその後飛び地の伊予に10万石が加増されます。
ただ、伊予だったので政宗の庶長子である秀宗を当主とする宇和島藩を立藩することになります。
奥羽は奥州藤原家が成立する過程も非常に面白い。
正しくは
最上義光→もがみよしあき
伊達も葦名も何気に御館の乱や新発田重家の乱に介入したりとハッスルしてるのよね。上杉景勝もよく生き残った
政宗ですら出来なかった羽州山形天童を切り従えてるし、歴史上はじめて陸奥守護(そもそもこれは稙宗のためだけに新設された)になったりと晴宗ともうちょっと折り合いついてたら伊達は政宗より早くまとまってたかもしれないという。ただ、養子に出すにしても当時は家臣も一緒に出すことになるから晴宗からすりゃ有能な人材の過剰流出も危惧したのだろうか…
輝宗が以下の多様な人材を家臣に登用したのも、養子縁組による家臣の流出を補うものがあったのだと思います。
遠藤基信:寺の住職の子として誕生。若いころ修験者として諸国を流浪したおかげで諸国の事情に通じ、輝宗に家臣として取り立てられて「伊達の外交官」として活躍する。輝宗の死から2週間後に輝宗の墓前で殉死。
片倉小十郎:八幡宮の神職の子として誕生。異父姉・喜多(実父は鬼庭左月)が政宗の乳母だった関係で遠藤基信が彼の才能を見出し、輝宗に対し政宗の小姓に推挙。以降の活躍は皆が知るところであります。
ぶっちゃけ輝宗のがよっぽどヒャッハーしてて政宗ってどちらかというと戦国末期に産まれたボンボンって感じだわな
最上家が改易されなかった世界線の山形を見てみたかった。きっと今よりも発展していたのだろうなー
伊達62万石に次ぐ最上57万石の城下町だから山形の街ももっと大きかったかもしれない
あと県内全域が1つの藩に統治されるので現在のような県内の地域ごとに文化圏がバラバラになるということもなかったかも
山形はどうしても山が多くて、各盆地にて集落や都市が形成されてるから、各地域で文化的な差異が生じるのは必然だったかもしれませんね。山形市と米沢市も別の盆地ですし、庄内地方に関しては山脈で隔てられてますから。
最上義光は関ヶ原の戦いで真っ先に家康軍につき、伊達政宗の背後を固めてますが
これは豊臣秀吉が秀次と共に義光の娘を惨殺したから。
もし秀吉が秀頼の生後すぐ秀次の養子にでもして置けば滅亡はしなかったでしょう。
実際秀次は現実主義者でしたので、生きていれば豊臣家を摂家にして聚楽第を残して居宅にし、実権を追い求めない代わりに徳川家の出す将軍候補を天皇家に推挙する事で名目上徳川家の上位に立つ、と言う策を講じていたでしょうね。
後周囲の大名が誰も大坂の陣で味方しなかったのは
秀頼は淀殿が秀吉に托卵して育てさせた、事を知っているから。
大河ドラマの独眼竜政宗では、北大路欣也さん扮する輝宗が、時勢は信長に傾いていると信長に鷹を贈るが、金子信雄さん扮する父の晴宗は、伊達は代々、足利に礼を尽くしてきたと、信長に誼を通じる事を反対して反目し合う場面があった。あの父子の不仲を窺わせる場面だった。
実はこの伊達輝宗との同盟のおかげで織田信長は畿内を上杉謙信軍に攻められかねなかった最大の危機を脱してます。
伊達輝宗が越後出兵をちらつかせましたし。
またこの同盟が武田勝頼の最期にも関係しており
真田昌幸の提案を退けたのは
包囲の比較的緩い北条氏政軍を突破してもその後ろに父が本家論争で揉めて戰寸前まで行った(上杉謙信が関東管領として佐竹義重討伐を言い出したおかげで助かった)佐竹義重軍、更にその後ろに織田信長と同盟する伊達輝宗軍、
これを突破して沼田まで辿り着くのはいくら真田昌幸が戦上手でも不可能
と判断したから。
歴史は繋がっていると
伊達家だけでも親父と戦ったり、弟をコロ助したりですからね。
ただ、蒲生が断絶したせいで会津が松平になるのが、また後々の引き金だからたまらない。
12:28 動画の説明は正しくないですね。
蒲生は忠知(秀行の次男)の代の1627年に会津から伊予松山へ国替えしたあと1634年に嗣子なく死去して断絶しています。
蒲生の代わりに会津に入ったのは加藤嘉明(賤ケ岳の七本槍の一人)。子の明成の代にお家騒動を起こした末に1643年に所領返還を幕府に申し出たため改易。
その後に会津に入ったのが保科正之です。
小次郎は関東で出家させ家の分裂を防いだみたい。
東北に限らず戦国時代は名前が示す通りあちこちで戦が行われ多くの死者を出した。しかしその死者たちの処理についてはあまり知られていない。長篠の戦いや関ケ原では1万~5万近い人が亡くなったとされる。東北では人口は少なかったとはいえ、奥州藤原の時代から考えると相当数の方が亡くなっている。とくに山での戦いが多いだろうから、小競り合いや残党狩りの農民を含めると表に出ない戦死者は多いでしょうね・・・・
3:37 岩城家・石川家・田村家も親戚ですね。
岩城親隆・石川昭光は伊達晴宗の子、田村清顕夫妻はいとこ婚(どちらも母親が伊達稙宗の娘)、伊達政宗と正室・愛姫(田村清顕の娘)ははとこ婚(どちらも伊達稙宗のひ孫)。よって伊達忠宗の高祖父8人中3人は伊達稙宗となります。
五千石で、伊達家親戚、岩出山領主。百年後にこの家から岩城家に養子に入ってた。
伊達家からの御付き家臣と
門閥家臣の内紛も起きてる。
斯波さんスゲエな…
その後、南部家は江戸時代初期に改易寸前まで陥り、幕府によって盛岡藩と八戸藩に分割されました。
しかし、この分割で幕末に両家は判断で別れてしまいました。
盛岡藩は旧幕府軍側、八戸藩は新政府軍側です。😢
八戸藩が新政府側だったのは島津家から当主を迎え入れたことが大きかったでしょうね。
本家?の二階堂氏(奥州探題家)を滅ぼして伊達は頭角を表す。
上杉(本庄繁長)と最上は慶長出羽合戦の前から出羽の庄内地方を巡り抗争を続けており、1588年には庄内を制圧した本庄繁長により山形城の近くの東根まで侵攻を許しました。慶長出羽合戦では最上を救援するために伊達勢が上杉と敵対したことになっていますが先に手を出したの伊達で、上杉領の白石城を攻め落としました。
当時は東北も蝦夷って言われてたんだよね
越奥羽の文化は魅力満載で風光は絶景で御座います✌️ 人間社会はベトベトな感じですね🤪
最上義光はよしみつではなくよしあきです。
もし天文の乱が起きなかったら、東北の勢力地図はもっと違っていたかも。
伊達晴宗の時代にいっぱい養子に入れたり娘をいっぱい嫁がしているから親戚だらけ笑
伊達晴宗の子・輝宗が41歳という若さでで隠居したのも、祖父および父のなりふり構わぬ養子縁組・政略結婚で奥羽の大名家が親戚だらけで身動きがとれなくなって自身で勢力拡大できなくなったためのようです。政宗に代替わりすれば血も薄まるから勢力拡大できるだろうという希望的観測もあったと思います。
@@toyo-rex4899 でも実質伊達の領土になってるんだよな
秋田「小野寺氏」がまったく出てこない・・・。
夜叉九郎の戸澤氏もいない・・・。
奥州探題家の二階堂氏もな…。
小野寺家家臣の子孫のわし、出てこなくて涙...
最北部なのに南部なのなんか笑える