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投稿お疲れさまでした。新田義貞の進軍ルートは、募兵するときの取り決め、街道の整備状況、天候、河川の水位、当時の敵味方の関係などの前提条件が変わると最適解が変わってしまうから本当にわからないですね。また、失敗は記録されていないという可能性まで考慮したら本当にお手上げです。この手の考察は大変でしょうが、他では聞けないことなのでとってもためになります。
神流川の戦いで八幡原千軒が壊滅し、薊山合戦で本庄氏の本拠が壊滅・・・これが新田義貞の侵攻ルートが謎になった原因かと考えています、全部燃えちゃったwスパチャでの応援感謝です、次の投稿もガンバリマス!
相変わらずの詳細な地図と考察に舌を巻きました!来年も楽しみにしております
次はやっと合戦の解説に入れるのでガンバリマス!まあ結局はマニアックなんですけどwいつもスパチャでの応援感謝です、来年もよろしくお願いします。
相変わらず素晴らしいですね太平記大好きなのでこのシリーズも興味深く追いかけています
ああ、参考文献に太平記入れるの忘れてた次で入れよう
ありがとうございます!
スーパーサンクスでの応援感謝です♪あんまり再生数回らないシリーズだけど頑張るよー
700年前からの伝承がこの動画で日の目を見ると思うとアツいですね
影響力皆無の弱小チャンネルなんで日の目を見たと言えるんでしょうか・・・伝承は先人からのありがたい教えだと思ってるんでもっと研究して欲しいという思いです
非常に地形図や経路なども掘り下げて解説をしているのがさすがよしふじさんだなと
進軍路について解説してるものがほとんどないので自分でやるしかなかったという感じです・・・おすすめ参考文献の一番上のヤツは大分書いてますがそれでも足りなくて
今回も見どころたっぷりな解説ありがとうございました鎌倉時代から里見氏(新田氏)が越後に所領を持っていたとは知りませんでした後に義貞が越後守護になることにも由来があったんですね
越後は新田義貞の息子の世代でも地盤になってますね、しかも滅亡しないで上杉・長尾に仕えるしぶとい越後里見一族
すごい👍
昨年、生品神社に行ったので動画大変興味深かったです!
大変面白く拝見しました知識の洪水で脳みそが洗われた気分です新田義貞が末期とはいえ幕府に近い北関東で短期で大軍を糾合出来たのは不思議に思っていたので真っ直ぐ南下より一旦迂回して援軍との合流を求めたというのは非常に納得出来ます
動画の時点ではまだ大軍じゃないって感じですね、いつ大軍になるのかはのちの動画で解き明かされる・・・のだろうかw
太田市在住の史学科卒オヤジです。丁寧な検証素晴らしいですね。引き続き動画楽しみにしております。
遂に新田義貞の行軍が始まりましたね!新田義貞が軍勢を集結させて、ここから鎌倉まで進軍していくと思うと楽しみです!
いまだに合戦がはじまらないのがうちのチャンネルらしいかなw
0:40 1:32 2:22 2:53 越後 4:26 5:09 5:45 山名6:44 8:26 信濃 10:21 南進 13:06 21:51 神流川 本庄 24:50 25:26
2024の〆に相応しい濃厚な考察 相変わらず見事な論理的な推測でこれ以外のルートは考えられません。だって伝承があるんってのは事実への証拠として十分。 また来年もよろしくお願いします。
一次史料ばかり重視する近年の研究では伝承が基本的に無視されちゃうんですよねぇ、全部が全部一次史料として残るわけじゃないのにと思いながら、こんな動画を作っています
けっこう遠回りしてるんだね。足利義詮と合流してワァーっと増えたかと思ったら、その前から味方がけっこう合流してたんだね。
千寿王(足利義詮)を持ち上げる風潮が強いけど合流する前に新田義貞は戦って勝利するよ!というのが次回の動画のメインかな
素晴らしい。奉公衆としてお仕えします。
動画作成に時間が掛かり投稿間隔が開いてしまうので、奉公衆として支えて貰えると非常に助かります。ありがとー♪
群馬県太田市の人だよ 新田義貞と斎藤佑樹を見ちゃんだよね 一時すごい時の人になるけど後が、、、、生品神社と生品中学校 ほぼ同地域
魚沼群を発して野沢温泉通過して我妻街道を群馬にってなんかワイが好きなスキー場を周遊するようなルートだ。まあこういう進軍って移動ってより多数派工作だから、途上に拾っていきたい小勢力がいろいろあるんだろうなあ。多少土地勘のある地域でも金窪の渡しとか現代では川幅が広くて橋がかけにくい交通の難所のところが、中世ではむしろ河の浅い渡河ルートって部分で事情反転してて感覚掴みにくいよね。
古街道をみていくと川筋が別れていわゆる河川敷が広いところに渡渉ポイントがあるのがよく分かります。宿があるところは川船で渡るので狭く深い感じになりますね
徳蔵寺の元弘の板碑、先月見てきました。東村山市のお寺ですよね?
徳蔵寺の元弘の板碑は久米川の戦いで詳しくやる予定かな
@@Yoshifuji-Sengoku 楽しみにしてます!
気になった事があるのですが長年埼玉北部地域や群馬県南部地域に足を運んでいますが上里町の陣開稲荷の名称を聞いた事が無いのです。現在では無くなってしまったのでしょうか?
残念ながら現存してないです。古い記録に名が残ってるくらいですね。場所ももう不明瞭ですが、小字の神開を比定地にしてます、賀美小学校の付近になります
この辺の解説を地図を使いながら見ることがなかったのでとても面白いです細かいですが「水内郡」は「みずうち」じゃなくて「みのち」ではないでしょうか
あー、おっしゃる通りですね、郡名はだいたい修正しなくても読んでくれるんで油断してました、ほんと全部正確にするのは無理だ・・・すいません
@@Yoshifuji-Sengoku 地名は本当に難しいですね有名な戦いの場であり相当詳しい方でも静岡県民と山梨県民以外だと富士川(ふじかわ)が読めていないとかあるあるです
八幡原に親戚がいます。
八幡原館跡をお散歩してみてください
@@Yoshifuji-Sengoku 徒歩10分のところですねー。
あれは、「新田義貞軍」ではない。「水戸学」「皇国史観」の強弁。足利登子・千寿王軍。新田義貞軍は、その一部隊。鎌倉陥落後の諸侯の動静を見れば明らか。
投稿お疲れさまでした。
新田義貞の進軍ルートは、募兵するときの取り決め、街道の整備状況、天候、河川の水位、当時の敵味方の関係などの前提条件が変わると最適解が変わってしまうから本当にわからないですね。
また、失敗は記録されていないという可能性まで考慮したら本当にお手上げです。
この手の考察は大変でしょうが、他では聞けないことなのでとってもためになります。
神流川の戦いで八幡原千軒が壊滅し、薊山合戦で本庄氏の本拠が壊滅・・・これが新田義貞の侵攻ルートが謎になった原因かと考えています、全部燃えちゃったw
スパチャでの応援感謝です、次の投稿もガンバリマス!
相変わらずの詳細な地図と考察に舌を巻きました!
来年も楽しみにしております
次はやっと合戦の解説に入れるのでガンバリマス!まあ結局はマニアックなんですけどwいつもスパチャでの応援感謝です、来年もよろしくお願いします。
相変わらず素晴らしいですね
太平記大好きなのでこのシリーズも興味深く追いかけています
ああ、参考文献に太平記入れるの忘れてた次で入れよう
ありがとうございます!
スーパーサンクスでの応援感謝です♪あんまり再生数回らないシリーズだけど頑張るよー
700年前からの伝承がこの動画で日の目を見ると思うとアツいですね
影響力皆無の弱小チャンネルなんで日の目を見たと言えるんでしょうか・・・伝承は先人からのありがたい教えだと思ってるんでもっと研究して欲しいという思いです
非常に地形図や経路なども掘り下げて解説をしているのがさすがよしふじさんだなと
進軍路について解説してるものがほとんどないので自分でやるしかなかったという感じです・・・おすすめ参考文献の一番上のヤツは大分書いてますがそれでも足りなくて
今回も見どころたっぷりな解説ありがとうございました
鎌倉時代から里見氏(新田氏)が越後に所領を持っていたとは知りませんでした
後に義貞が越後守護になることにも由来があったんですね
越後は新田義貞の息子の世代でも地盤になってますね、しかも滅亡しないで上杉・長尾に仕えるしぶとい越後里見一族
すごい👍
昨年、生品神社に行ったので動画大変興味深かったです!
大変面白く拝見しました知識の洪水で脳みそが洗われた気分です
新田義貞が末期とはいえ幕府に近い北関東で短期で大軍を糾合出来たのは不思議に思っていたので
真っ直ぐ南下より一旦迂回して援軍との合流を求めたというのは非常に納得出来ます
動画の時点ではまだ大軍じゃないって感じですね、いつ大軍になるのかはのちの動画で解き明かされる・・・のだろうかw
太田市在住の史学科卒オヤジです。
丁寧な検証素晴らしいですね。
引き続き動画楽しみにしております。
遂に新田義貞の行軍が始まりましたね!
新田義貞が軍勢を集結させて、ここから鎌倉まで進軍していくと思うと楽しみです!
いまだに合戦がはじまらないのがうちのチャンネルらしいかなw
0:40 1:32 2:22 2:53 越後
4:26 5:09 5:45 山名
6:44 8:26 信濃 10:21 南進 13:06 21:51 神流川 本庄 24:50 25:26
2024の〆に相応しい濃厚な考察 相変わらず見事な論理的な推測でこれ以外のルートは考えられません。だって伝承があるんってのは事実への証拠として十分。 また来年もよろしくお願いします。
一次史料ばかり重視する近年の研究では伝承が基本的に無視されちゃうんですよねぇ、全部が全部一次史料として残るわけじゃないのにと思いながら、こんな動画を作っています
けっこう遠回りしてるんだね。足利義詮と合流してワァーっと増えたかと思ったら、その前から味方がけっこう合流してたんだね。
千寿王(足利義詮)を持ち上げる風潮が強いけど
合流する前に新田義貞は戦って勝利するよ!というのが次回の動画のメインかな
素晴らしい。奉公衆としてお仕えします。
動画作成に時間が掛かり投稿間隔が開いてしまうので、奉公衆として支えて貰えると非常に助かります。ありがとー♪
群馬県太田市の人だよ 新田義貞と斎藤佑樹を見ちゃんだよね 一時すごい時の人になるけど後が、、、、生品神社と生品中学校 ほぼ同地域
魚沼群を発して野沢温泉通過して我妻街道を群馬にってなんかワイが好きなスキー場を周遊するようなルートだ。
まあこういう進軍って移動ってより多数派工作だから、途上に拾っていきたい小勢力がいろいろあるんだろうなあ。
多少土地勘のある地域でも金窪の渡しとか現代では川幅が広くて橋がかけにくい交通の難所のところが、中世ではむしろ河の浅い渡河ルートって部分で事情反転してて感覚掴みにくいよね。
古街道をみていくと川筋が別れていわゆる河川敷が広いところに渡渉ポイントがあるのがよく分かります。宿があるところは川船で渡るので狭く深い感じになりますね
徳蔵寺の元弘の板碑、先月見てきました。東村山市のお寺ですよね?
徳蔵寺の元弘の板碑は久米川の戦いで詳しくやる予定かな
@@Yoshifuji-Sengoku 楽しみにしてます!
気になった事があるのですが長年埼玉北部地域や群馬県南部地域に足を運んでいますが上里町の陣開稲荷の名称を聞いた事が無いのです。現在では無くなってしまったのでしょうか?
残念ながら現存してないです。古い記録に名が残ってるくらいですね。場所ももう不明瞭ですが、小字の神開を比定地にしてます、賀美小学校の付近になります
この辺の解説を地図を使いながら見ることがなかったのでとても面白いです
細かいですが「水内郡」は「みずうち」じゃなくて「みのち」ではないでしょうか
あー、おっしゃる通りですね、郡名はだいたい修正しなくても読んでくれるんで油断してました、ほんと全部正確にするのは無理だ・・・すいません
@@Yoshifuji-Sengoku 地名は本当に難しいですね
有名な戦いの場であり相当詳しい方でも静岡県民と山梨県民以外だと富士川(ふじかわ)が読めていないとかあるあるです
八幡原に親戚がいます。
八幡原館跡をお散歩してみてください
@@Yoshifuji-Sengoku 徒歩10分のところですねー。
あれは、「新田義貞軍」ではない。
「水戸学」「皇国史観」の強弁。
足利登子・千寿王軍。
新田義貞軍は、その一部隊。
鎌倉陥落後の諸侯の動静を見れば明らか。