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今戦に負けて落ち延びてる最中なのでとても役に立ちました
見ーつけた…
イキロ…
あらら…
絶対このコメントあると思った
@@tanishi_oishi 俺の首を安芸の国に返せ。化けて出るぞこの野郎
こんだけ民衆が武装してたら、そらぁ太閤殿下も刀狩りに躍起になりますわ😭
余談になりすみません。私の母方の祖母(2008年に99歳と364日で死去)が「私のばあさんから丹波にいる頃、京都のほうから"応仁の乱”の落ち武者がぞろぞろと逃げてきのを見たらしいわ」幕末の頃ですから”鳥羽伏見の戦い”の間違いちゃうの?と確認しましたが「いいや。応仁の乱て言うてた!」と一歩も譲りません。天然ボケの面白い祖母でした。
@@娯楽赤さん 様 返信いただきありがとうございます。失礼ですがおいくつまでご存命だったのですか?
戦争前には農家から食料品を強奪したり田畑を荒らしたりしたから農民のうらみは最大限に膨れ上がる
節子、それは戦争前やないで、戦争の一環や。苅田狼藉は今風に言えば戦略爆撃や通商破壊。敵国の経済に打撃を与えて民心の動揺を誘ってるんやでw
うちの先祖が源平で負けたときに今の実家がある集落のお寺に行き着いてかくまってくれて母屋も分家も代々住んでるんだけど、あのお寺には本当感謝しなきゃ
徳川家康もかなりの金を携帯してたんだよね。落ち武者狩りに遭っても戦いを避けて金を渡して、逆にそいつらに道案内をさせたり安全な寺や村に紹介状を作らせたりしてた。
落ち武者を取り扱うというテーマがよかったです。面白かったです。
農民は弱いというイメージが先行し勝ちでも、実際は武装して村同士の戦いがありリアル北斗の拳状態だったらしい。落武者狩りして武器補充してたみたい。
落武者だけに対してじゃなくて昔から村社会は結束力の高さから外部の人間に対しては徹底的に排他的だからなぁ…
平和な時代の侍より戦国時代の農民の方が強かったんだろうな
だからこそ、信長が石山本願寺や伊勢長島一揆などに手を焼いたんですね。
関ケ原から1000キロ以上も落ち武者狩りからも生き延びて薩摩に逃げ帰った島津義弘バケモンすぎだろ…
呼んだ?世話になるよ。宇喜多秀家
従三位中納言 泳いで参った
豊久や敦盛死なせてるけど大将首がその2人ってとこもまた
島津は大阪まで逃げてそこから船で帰ったよー
あれはダイナミック帰宅したのもそうだけど後の義久の外交術もバケモンなんだよな
まぁ落武者狩りで侍大将クラスを狩れば懸賞金も出たし戦死兵の追い剥ぎも臨時収入になるし、軍に略奪や乱妨取りされてりゃ腹いせの意味もあるから大して罪悪感もないというか風習みたいなもんだからね
僕の先祖は落ち武者になって生き延びたんだと、祖父が言っていました。もし逃げる途中で亡くなっていたら今の僕はいないので、改めてこうして生きているということは凄いんだと実感しました。
ベアさん並なサバイバル知識があれる落ち武者が一番だな
七人の侍で、落武者狩りをしていた農民に侍が激怒するシーンがありましたね。
「こんな百姓に誰がした?お前ら侍だろうが!」ですね。
第二次世界大戦のアフリカ戦線で戦闘が終わったら原住民が湧いてきて戦死体の身ぐるみはがされたらしい、原住民にとって戦争は迷惑ではなく恵だったという話。
一方ヨーロッパでは騎士を生け捕りにして身代金を貰ってました。
東部戦線では現地人が虐殺された
小野寺寛之 女騎士w
現代でも飛行機が墜落しようものなら翌朝までに骨だけにされるそうで(ロード・オブ・ウォー)
ハゲに厳しいのは今も昔も変わらないのですね・・・
自分の先祖は壇ノ浦で敗れた平家側の落武者という話を聞いたのですが、そんなサバイバルな状態から生き延びた屈強な人だったんだなと
明智光秀も落ち武者狩りの犠牲になったというな。農民も武装して銃とか槍を持っていた時代だしな徳川家康も伊賀越えでは、落ち武者狩りに逃げ回ったそうだし
人だけじゃなくて普通の獣とかも怖いよな加藤清正の虎狩りとかはカッコいいけど
足軽にとって敵の首は黄金も同じ、侍大将や名のある武将や武士はボーナスのようなもの、落ち武者狩りで武将を殺せたら宝くじに当たり一億円当てるようなもの
七人の侍で侍の一人が「武器ないのに戦えるの?」って農民に聞いたら、農民が「武器ならたくさんありますよ」って言って、落ち武者狩りで得た武器を見せて侍がブチギレるシーンがありましたね。まぁ昔は長男以外は農兵になってるのが多かったんで、武器を使える農民はたくさんいて、それのおかげで島原の乱は幕府側が大苦戦するわけなんですが、、、
ノーノー。作中では侍の一人が槍を持ってる農民を見て「どこで手に入れた?裏の山にでも生えてたのか?落ち武者狩りでもしなきゃこんなもん手に入らねえ!」と言い、他の農民たちに「他にもあるだろ!どこに隠してる!」と詰問して鎧や弓矢を探し出して他の侍たちのところへ持って来て侍たちが怒る展開となっていますよ!
20年前に見たから、曖昧になってましたwありがとうございます!😃とりあえず、落ち武者狩りに対するトラウマがすごいんだなぁって子どもながらに観てました。
島原の乱の折、あの宮本武蔵も参戦してたみたいですね(知人と宮本武蔵の件で会話中に知りました)😒
堀水英則 投石にあって怪我したらしいですね
@@あちちあちち 様 m(_ _)m それは知りませんでした😥御教授を賜り、誠にありがとうございます m(_ _)m
平家の落人の子孫が住むと伝えられている秘境のような集落があり、親戚がそこに住んでます。そこはある一族がずっと住んでいるため、苗字がほぼ全員同じだそうです。その集落の家はどこもお屋敷のように大きく、品がある人が多いです。
徳島県の田尾といわれる山の中とかもそうだと聞きました。
オボロm 私は徳島県民ですが祖谷なども地元では有名ですねどちらも三好市という場所で徳島の外れの田舎の徳島の中でも更に田舎の場所ですね因みに関係ないですが三好というのは過去に滅んだ阿波の三好氏にあやかり名付けられました
平家の落人の集落には安徳帝を葬ったと伝えられる墓や祀った神社があるそうで、安徳帝は陵墓参考地が最も多い天皇とされています。落人伝説での安徳帝の共通点は山奥での隠棲生活に耐えられず幼くして薨去されたとの事です、おいたわしや・・・。
高校の同級生の名字が「平家」でした。気になって聞いてみたらやはり平家の落人がご先祖でした。
平(たいら)ってのは、沖縄でも平良って名字はそっちから流れ着いたとかも聞いた気がする。なんやかんや、子孫はしぶとく生き延びているもんよね。
まさに「弱り目に祟り目」とはこの事ですね
石田三成が逃亡中に腹を下していたというのはそういうことか…
石田三成が落ち武者狩りに合わなかったのはそれだけ農民たちからも匿われるくらい良政をしていたということなのかな?
最終的に捕まっているから、落ち武者狩りのようなものに遭っているのでは?
K A 落武者狩りではないですね、殺されてないんで
洞穴に匿ってもらって何日も面倒を見てもらってたんだからそれほどいい善政を敷いたのでしょう
そこまで詳しくないけど落武者がましてや総大将をかくまったのがバレたら村は焼かれ村人全員殺されるから石田三成はいつまでも村人の世話になる訳にはいかなかったみたいな事をテレビでやってたなぁ
…これが、家康がえげつないやり方してまでも秩序や治安強く求める理由だと思われ、日本中にきれいで安心して飲める水を回す努力のきっかけだと思われます。ありがとうございました!
信長公が越前から朽木越えで逃れたのは、稀有な幸運だったんですね。単騎で逃げ出して生き残れましたから。
【動画の目次】落ち武者ヘアはどうして起きる? 00:30農民が全て敵になるバイオハザード 01:17耐えがたい喉の渇き 02:38無事落ち延びる方法1:一人で落ちない 03:46無事落ち延びる方法2:サバイバル技術 04:49無事落ち延びる方法3:寺に逃げ込み人生リセット 05:40 戦国時代ライターkawausoの独り言 06:24あなたは落ち武者になると生存率についてどう思いますか?💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
生き延びる方法その4助命も嘆願せずご飯が欲しいとめっちゃ堂々と落ち武者狩りに対面する.(By 宇喜多)
宇喜多秀家に関しては、徳川家から村々に対して「指名手配犯なので、見付けたら殺さず、まず徳川家に通報してくれ」と、お触れが下されていたそうです。だから宇喜多秀家は、却って堂々と落ち武者狩りに対面出来たみたいですね。殺されない事が分かっていた訳です。
有難うございます。
戦国時代の兜は見た目ほど重くは無かった様ですが、日本の夏の炎天下では結構暑くて蒸れたらしいので、兜を被る時は暑さを避ける為と、蒸れるのを防ぐ為にザンバラにしたようですね。しかし、落ち武者は人としての全ての権利が剥奪された罪人の様な存在で何をされても仕方の無い存在だったとは知りませんでした。キツイデスねぇ。
へぇ~、すごい勉強になりました。チャンネル登録させて頂きました
家康のお供が最強メンツ
改めて勉強になります
なるほど、すぐにでも使える知識をありがとうございました
どこかに戦争でも行くんですか?(笑)
自衛隊のレンジャーとか、戦闘機パイロットのSERE訓練は落ち延びて戦闘を継続できるようにするためにあるんだよな。
一揆する位だから、農民は強いでしょうね。うちの先祖、よく逃げれたなぁ。
お寺に逃げ込むこともできんだあればの話しなんだサバイバル技術で自分の血とか川の水を濾して飲むんだ井戸水を飲むのも覚悟いるんだ戦国時代の落武者には過酷な選択を強いられるんだ
小栗栖はそもそも明智光秀の領地かその付近ではあったはずだが、元から勢力の変わりやすい近畿の農民にとっては当時の大名の義理などおそらく無いんだね
どうしても「農民ごときに…」と考えがちですが、江戸時代(秀吉の刀狩り)以前はその農民を召集して戦をしていたのです。さすがに鉄砲を持つ農民は稀だったかもしれませんが、名主レベルであれば持っていたかもしれませんし、槍や刀や弓矢はそこら中に有った筈です。テレビでは“兵どもの夢の跡”の悲壮感を出す為に竹槍で…と演出していますが、とんでもない。どこの大名の軍でも(兵農分離を奨めた織田は別かもしれませんが)大半は支配領地から駆り出された農民が主力だったのです。そんな“戦慣れした地元農民”に地の利を生かされて狩り立てられれば、武将の一人や二人を討ち取る位造作も無かった筈です。
中近世の時代だけで無く、奇兵隊や新選組で、一部の名も無き豪農や百姓が幕末維新期の動乱で活躍した理由もわかりますね!人によっては数年間(あるいは数ヶ月間)訓練するだけで、近代的な組織をつくり、剣術を身に着け、西洋式銃を扱い進軍していたんですし。この経緯は後の明治政府の徴兵制のデータにもなっています。銃は従来の物と比べ、扱い易く取り替え易くはなっていたんでしょうが、いつの時代も農民ごときとは言えませんよね…
@@マスケットマスカット 半農半XX=兵士ばかりか…
姫若子様ファンクラブも半農半兵だんなぁ・・・
今、落ち武者狩りにあったのでみてます
先祖が柴田氏の流を組み賤ヶ岳の戦いに敗れ一族郎党150人程が落ち延び(途中で名字を変えたと)福井の松平氏に匿われ客人として扱われたと、代々伝えられてきました。最終的には松平氏の家臣になり天領を治める代官職になったそうです。
現在の和歌山県田辺市鮎川の小川集落で、鎌倉幕府への反乱を察知され落ち武者となった護良親王が集落に立ち寄り正月の餅つきをしていた村人に餅を所望したが、落ち武者と関わる事を恐れた村人はそれを拒絶してしまい護良親王は飢えと失意の中いずこへと去って行った。後に餅を所望した落ち武者が護良親王だったと知り村人はそれを後悔して正月には決して餅を搗かない「餅搗かぬ里」になったとか。落ち武者にまつわる悲劇です。(昭和10年の護良親王600年御遠忌の法要で村人が親王の像に餅を供えて詫びるまで続いたそうですが一部の家では 現在も頑なに餅を搗かないそうです)愛知県新城市東栄町には長篠合戦に敗れ落ち武者となり果てた武田軍の望月某(なにがし)を供養して「望月峠」と名付けたとか、今は消滅してしまいましたが亡くなった落ち武者を供養して「入仏(にゅうほとけ)」という地名もありました。そういえば「八つ墓村」も落ち武者狩りが因縁となった連鎖殺人事件でしたね。(モデルは津山30人殺しですが)
古澤修様 m(_ _)m 私、天正三年長篠設楽原合戦に於ける数少ない甲斐武田軍生き残りの末裔になります。武田勝頼公の直衛で隠棲先の信州まで勝頼公を送り届け、「甲州下山内七拾貫文・南部内五拾貫文・古開郷開四貫五百文事、右夏以来已駿州先方走廻候間所々宛行有不可相違状件如、天正三年拾貮月拾日、土屋右衛門尉是奉」…なる文書を下賜されて居ります。
@@堀水英則 様 その文書はおよそどのような意味のことが書かれているのですか?興味を持ったのでお教えいただけると幸いです。
@@まんじゅう様-c1d 様 m(_ _)m かしこまりました🙇文面をまだ解読中ですが…大雑把に申し上げますと、山梨県南巨摩郡下山地区に70貫文、南巨摩郡南部町に50貫文、古開郷開:こかいのごうかい(南巨摩郡身延町の事かと思われますけれど、断言は出来ませんが)4貫500文を武田勝頼公より合戦報奨金を賜ったと云う事になるかと思われます。静岡県立大学の歴史に詳しい教授(名前は失念してしまいました。1貫文=1000文で、現在の貨幣価値に換算致しますと大凡1貫文=約10万円ぐらいになるかと思われますので、合算致しますと、合戦報奨金は約1245万円ぐらいになると思います)右夏以来:みぎ、なついらい(合戦は5月に有りましたので、その夏以降と云う事になりますね。)「已に駿州先方」すでにすんしゅうせんぽう(静岡県と山梨県の県境)「走廻候間所々宛行」:はしりまわりそうろうま、ところどころあておこない(時代背景から織田及び徳川の密偵が甲斐領地へ入り込んでいないか走り回りながら偵察・警戒せよと云う意味に取れます)「有不可状件如」:そういあるべからずのじょう、くだんのごとし(その件に関して間違いは有りません)「天正三年拾貮月拾日」:西暦1275年12月10日、「土屋右衛門尉是奉」:つちやうえもんのじょう、これをたてまつる(武田信玄公直属家臣、信州川中島合戦で長槍の名手として武勲を挙げ、信玄公より賜った通り名になります。本名は自民党元副総裁:金丸信先生の直系の祖先:金丸平八郎になります。)…で、最後に「堀水又七郎」と明記されてます。古文読解って…非常に疲れますね😖💦堀水又七郎直系の末裔は、学校法人北海道立正学園旭川実業高等学校創設者になります☺️
@@堀水英則 様 懇切丁寧にお教えいただきまして、大変にありがとうございました。700年以上も前に書かれたものが身の回りにあるというのはとても羨ましく思われました。私は考古学に疎いのですが、その書の内容からはその合戦において武田氏にとって貢献性の高かった地域を金銭的に読み取ることができたり、既出の歴史的情報の根拠を更に明確化できたりと、言うまでもないことかもしれませんが非常に価値の高いものなのではないでしょうか。興味深い内容をありがとうございました。
@@まんじゅう様-c1d 様 m(_ _)m 大変読みづらい文面で、誠に申し訳ございません🙇鎌倉期には甲斐源氏河合氏として、拙宅の祖先は山梨県身延町を含む21箇所町村の総名主でした。更に明治時代に記された書籍を調べました所、往古陽成帝元慶年間まで遡れました。ルーツ的には太宰府藤原房雄の家臣・河井飛騨守彦雄か、若しくは奥州藤原俊成の家臣・河合三河守重藤かは、まだ確定していませんけど😥現代版家伝帳を編纂中でして、今も歴史やら古文の再勉強中です😖
武者ヘアの参考イラスト無くて草
ガレッジセールのゴリの落武者思い出した…明智光秀や家康と共に逃げ後に別行動をとった穴山梅雪は…多分腕利きの部下も居らす少人数だったんですかね…
ん? そのメンツは光秀が落ち武者狩りする立場でしょ。穴山梅雪は、家康が「一緒に逃げよう❤️」と誘ったら大人数は目立つからイヤって単独行動したと記憶してる。
NHK「タイムスクープハンター」に落武者の話ありましたね。
石田三成が関ヶ原の戦いの逃亡中に下痢に悩まされてましたね三成にとって人生初の大敗&逃亡生活だったからそういったサバイバル能力が無かったんでしょうね
足利義昭が京から追放された時にも落武者刈りがかかって足利家累代の宝物をばら撒いて逃げたのだそうな。おかげでかなり散逸しちゃって
豊臣秀吉は百姓の野蛮さを知っていたから刀狩りをやりました。江戸時代百姓は生かさず殺さず政策を行ったのは百姓の野蛮さを恐れたからです。何故なら戦国時代の主役は実は彼ら農民達だったのです。武士武士と言うけど戦場で戦ったのは彼ら農民達です。日本で身分制度ができたのは彼ら農民に力を持たせない為でもあったのです。秀吉が強大な力を持ったのは彼ら農民達を味方につけたからです。その事を恐れた徳川幕府は武士と農民をはっきりと区分分けして徳川に尽くす者達に対しては足軽であっても武士として扱いその権力を与えたのです。日本の武士と言うものは根本的には百姓達だったのです。
まぁ、家康さんは【落武者のプロ】だからねぇ😅伊賀越えの時には【狩に来た連中を家臣にしてしまう】という大技を繰り出した…という。
面白かった。歴史の表舞台には出てこない事。教科書にもない事。こう言う話は面白い。
参考になりました
武田勝頼が長篠から安全圏まで逃げ延びたその道中の様子が知りたい
帰る場所と寺が近くに無ければ、それだけでほぼ詰みなのか…
2:05 そりゃ化けて出たくもなりますわ…
侍は農民から命や財産を奪っていくのに農民が侍から奪うのはNGってのはフェアじゃないよな
戦国時代の兵士たちは行く先々の農村を荒らしていたそうなので、農民も武装して防衛して行く必要があったんでしょうね
私達の村にも広島県の福山市から落ち伸びて来た人がいますよ、そして私達の村にまた烏ヶ山城と言う城を作ったらしいですよ、また私達の村には兵庫の赤松氏の家臣だった人が私達の村に逃れて来て名前を変え大庄屋さんになっていますね今はもう庄屋様の屋敷跡があるだけですがねこの動画の話を聞けばよほど運が良かったんでしょうね。
絵かわいいのに内容えぐくて草
初めて観ました。 とっても解りやすいです。👍
花の慶次といえば、「馬の小便を飲むんだよ」とも言ってましたな。ベア兄貴なら、生き残りそう。そういえば、「たか号」で生き残った佐野三治さんは、一日一回出る自分の尿(しかも血尿)を飲んで助かったそうですね。佐野さんだけが助かったのは、やはり水分をとっていたからだろうと、のちに医者が言ってましたね。
明智光秀の気持ちが分かった。
落ち武者ヘアーの補足で、兜で蒸れるから頭頂部の毛を剃って月代を作ってました
日本昔ばなしに出てくるような農民は居なかったって事か
刀狩りまではマジで武士と農民に差なんて無かったですからね…………。予備兵力ですから。
+wataru kuriki様日本昔ばなしに出てくるような農民は大規模戦闘がなくなり戦乱の疲弊がようやく落ち着いた江戸元禄期以降だと思います。・・・とはいえ天明の大飢饉とかになると世紀末になりますが。(汗)
ありがとうございます。
80年代を生きたおっさんが五十代になってから「ロン毛」にすると言い出して落ち武者になった実例を知っています
江戸時代初期の書物=「雑兵物語」。今度読んで見ます。
お金があれば、逃がし屋が助けてくれる。
この話は、豊臣秀吉が天下を取る前の話で賤ケ岳のあたりで風向きが変わってくる。佐久間盛政を捕らえて恩賞を貰えると思っていた百姓たちが身の程もわきまえぬ奴らとして秀吉に処刑されている。関ヶ原では小西行長が百姓に見つかり「首を取って恩賞を貰え」と言ったら百所たちが「尊い身分の方を討ち取ったら、わしらが殺されます。どうかお逃げください」と言ったが行長が「私がお前たちの命の補償をするから敵に差し出せ」と言うので形だけ縄で縛って東軍方に差し出したって記録がある。この場合は行長の口添えがあったので恩賞が出た。雑兵なら関ヶ原でも落ち武者狩りにあったかもしれないが、ある程度の身分の武士は「お前ら如き土民が武士を寄ってたかって殺すとは何事か!」っていう感じで下手に討ち取ると恩賞どころか見せしめに殺されるってことになっていたそうだ。
この手の動画は話半分程度に聞いていたほうが良い。地域差や状況等の揺らぎ部分を無視して判を押したような情報を正しい事の様に誤認させてしまう。うぷ主の見識も浅いようで情報の精度としても非常に低い。興味を持つためのきっかけ以上には受け入れず、興味を持ったなら自分で調査した方が良い。
@@56513haruka ほんそれ❗全ての情報に対する基本姿勢ですね。
平家の落ち武者で家来たちと落ち延びて田舎で神社の神主になったと市の資料にありました。私の先祖はその家来の一人、時代を経て主君の家とも交わっているようだ、と聞かされて子どもの頃はフーンとしか思わなかったなぁ、こんなにも過酷な思いをしたんだろうか
やば、うちとそっくりwもしかして宮〇!
@@murasakimitsurun 近いですね!
『八墓村』を観れば…
髷は落ち武者になった時に不利になるけど、俺は落ち武者にはならない!みたいな意思の表しだったのだろうかこんな状況だったのに落ち武者になっても農民に匿ってもらえた武将は本当にいい政治をしてたんやな
代表的なのは三成かな?
井戸に毒を入れたというのはどうかな?そういう文献が一冊あることは事実だろう しかし500年前井戸を掘ることがどれ程難しかったか 村に井戸が一つなんてざらだろうし集落一つがダメになってしまうことも想定できる その文献の著者や幕府は何らかの意図があったのだろう 一つの説に盲目的に依拠するのは良くない
敵を根絶やしにする為なら村ひとつ滅びても構わんのでは?お殿様は農民なんぞ同じ人間と思っとらんのでは?半農半士なら知らんけど
当時は略奪は当たりまえで蓄えはもちろんのこと逃げ遅れれば奴隷商人に売られてしまう。そのため敵が来たら村が滅びると割り切ってこういう行動がとれた。
一つの説にいつ依拠したんだ???あくまでこの動画は一つの説を紹介してるだけじゃないのか???
あくまで占領地の村を放棄する場合という状況下の話なのでは?無人の村だからといって安易に井戸を使うのは危険ということ。
焦土作戦は海外でももっと昔からあるので、井戸に限らず補給を断つという考えは何ら違和感なかったが。
小さな集落も落ち武者の可能性が大きいらしい、なので小さな村の出身者の人とかは都市とかに出てくるといじめの対象とかにあったとか、落ち武者集落て結構あったらしい・・・
結局どっちも弱いもんには強いw落ち武者のイメージは略奪して回るイメージだったが初代八つ墓村みたく恩賞目当てで全殺しとか多かったのな
落武者ていつまでも流浪の人生じゃないの農民恐るべし集団戦が得意なんだね
七人の侍を思い出す…というか、こう言う敗残兵狩りって欧州や中原ではどんな感じだったんですかね。あまりなかったのか、逆に大規模だったのか、とか…
中世の欧州でも農民が戦に駆り出されてた訳ですが、甲冑などの高級品は庶民は買えないので屍から剥ぎ取られてたようです。もちろんそれに限らず金目のものは持っていかれたでしょうね。ちなみに傭兵達は給料の不払いがよくあったようで、その補填の意味でも略奪などが行われたと言われています。乱取りですね。
落武者狩りのイメージが変わった
家康の供が豪華すぎる
敵の農民を買収する(恩を売っておく)ってのもあるな、家康は天将伊賀の乱で信長と敵対した伊賀忍者をこっそり庇護して、本能寺の変後の伊賀越えで役立った。そんな簡単にはいかんだろうけどな。
バァイオゥハザァドゥ~懐かしすぎ
湾岸戦争で偵察中に攻撃されシリアまで290kmを単独徒歩脱出したイギリス軍特殊部隊員がいたよな
その人の本を読みましたわ。ブラヴォー.ツー.ゼロって本。
視点が面白いなー
戦え...戦え...
知り合いが落武者の末裔らしいです 農民と商人になりました
そこら辺の武士より落武者狩りの方が強いんじゃないか?と思えてきました
三好長逸が中嶋城で織田軍に敗れて落ち武者狩りに合った記録はないみたいだから無事に逃げたんだろうな。
七人の侍で落ち武者狩りのエピソードが出てきますね。
落ち武者狩りに合わないために 家康が例に挙げられていましたが 逆に 穴山梅雪は 家康と別行動をして 落ち武者狩りにあって 命を落としたとのこと
最近有能説がでてるあの明智光秀ですら路頭に迷いあんな最後を迎えたんですもの…コワイコワイ
源義経の家来たちは北海道へ落ち延びた。平家と源為朝の家来たちは奄美や沖縄へ落ち延びた。
農業で鍛えた肉体は強い
落ち武者の霊が出ても、笑ってはいけない
明智光秀も落ち武者狩りにあって亡くなったし。徳川家康も本能寺の変後逃げる時も襲われていました。
農民とかまで敵だよね誰だっけ?農民に逃げてる時に槍で突かれて死んだよね?バガボンドでも死者から鎧やら剥いで売ってたよね集団化しても裏切りがあるかもよ
明智やね
例えばウンコがあったとします…これを井戸に投げ込むと何が起こるのでしょうか?
私の田舎は先祖代々の寺ですが親族の言い伝えによると元は侍だったそうです。侍が坊主になったと言う事は落武者だったのだろうか?場所も今でも人里離れた山の中にありますし…
寺なら関係する文書もあるかもしれないので探してみては?
黒澤明の「七人の侍」の舞台になっている農村もあんなひ弱な農民ばかりで無くて、チャンスがあれば落ち武者狩りもする「雑兵集団」だったということでしょうか。しかし、自分たちのコミュニティ以外の人間はいざとなったら殺して良いという倫理観はすごいな。
家康の伊賀越えの場合は 信雄の伊賀攻めの時に農民を匿ってやってあげたのと半蔵の父親が伊賀出身のため知り合いを尋ねて道案内をしてくれた そして家臣があれだったため帰れたんだよな 穴山信君が囮になったのに感動する
井戸も川も使えないとか、戦地の近くに住んでた住人や村人可哀想すぎない?この人たちこそ飢え死にするやん
だからこそ明確な殺意と復讐心をもって落ち武者狩りをするんやで
沸かせばセーフ。落ち武者は火を使うと居場所がばれるから沸かせない。
ある意味落ち武者こそGet Wild退勤だな・・・
今戦に負けて落ち延びてる最中なのでとても役に立ちました
見ーつけた…
イキロ…
あらら…
絶対このコメントあると思った
@@tanishi_oishi 俺の首を安芸の国に返せ。
化けて出るぞこの野郎
こんだけ民衆が武装してたら、そらぁ太閤殿下も刀狩りに躍起になりますわ😭
余談になりすみません。私の母方の祖母(2008年に99歳と364日で死去)が「私のばあさんから丹波にいる頃、京都のほうから"応仁の乱”の落ち武者がぞろぞろと逃げてきのを見たらしいわ」幕末の頃ですから”鳥羽伏見の戦い”の間違いちゃうの?と確認しましたが「いいや。応仁の乱て言うてた!」と一歩も譲りません。天然ボケの面白い祖母でした。
@@娯楽赤さん 様 返信いただきありがとうございます。失礼ですがおいくつまでご存命だったのですか?
戦争前には農家から食料品を強奪したり田畑を荒らしたりしたから農民のうらみは最大限に膨れ上がる
節子、それは戦争前やないで、戦争の一環や。
苅田狼藉は今風に言えば戦略爆撃や通商破壊。敵国の経済に打撃を与えて民心の動揺を誘ってるんやでw
うちの先祖が源平で負けたときに今の実家がある集落のお寺に行き着いてかくまってくれて母屋も分家も代々住んでるんだけど、あのお寺には本当感謝しなきゃ
徳川家康もかなりの金を携帯してたんだよね。
落ち武者狩りに遭っても戦いを避けて金を渡して、逆にそいつらに道案内をさせたり安全な寺や村に紹介状を作らせたりしてた。
落ち武者を取り扱うというテーマがよかったです。面白かったです。
農民は弱いというイメージが先行し勝ちでも、実際は武装して村同士の戦いがありリアル北斗の拳状態だったらしい。
落武者狩りして武器補充してたみたい。
落武者だけに対してじゃなくて昔から村社会は結束力の高さから外部の人間に対しては徹底的に排他的だからなぁ…
平和な時代の侍より戦国時代の農民の方が強かったんだろうな
だからこそ、信長が石山本願寺や伊勢長島一揆などに手を焼いたんですね。
関ケ原から1000キロ以上も落ち武者狩りからも生き延びて薩摩に逃げ帰った島津義弘バケモンすぎだろ…
呼んだ?世話になるよ。宇喜多秀家
従三位中納言 泳いで参った
豊久や敦盛死なせてるけど大将首がその2人ってとこもまた
島津は大阪まで逃げてそこから船で帰ったよー
あれはダイナミック帰宅したのもそうだけど後の義久の外交術もバケモンなんだよな
まぁ落武者狩りで侍大将クラスを狩れば懸賞金も出たし戦死兵の追い剥ぎも臨時収入になるし、軍に略奪や乱妨取りされてりゃ腹いせの意味もあるから大して罪悪感もないというか風習みたいなもんだからね
僕の先祖は落ち武者になって生き延びたんだと、祖父が言っていました。もし逃げる途中で亡くなっていたら今の僕はいないので、改めてこうして生きているということは凄いんだと実感しました。
ベアさん並なサバイバル知識があれる落ち武者が一番だな
七人の侍で、落武者狩りをしていた農民に侍が激怒するシーンがありましたね。
「こんな百姓に誰がした?お前ら侍だろうが!」ですね。
第二次世界大戦のアフリカ戦線で戦闘が終わったら原住民が湧いてきて戦死体の身ぐるみはがされたらしい、原住民にとって戦争は迷惑ではなく恵だったという話。
一方ヨーロッパでは騎士を生け捕りにして身代金を貰ってました。
東部戦線では現地人が虐殺された
小野寺寛之 女騎士w
現代でも飛行機が墜落しようものなら翌朝までに骨だけにされるそうで(ロード・オブ・ウォー)
ハゲに厳しいのは今も昔も変わらないのですね・・・
自分の先祖は壇ノ浦で敗れた平家側の落武者という話を聞いたのですが、そんなサバイバルな状態から生き延びた屈強な人だったんだなと
明智光秀も落ち武者狩りの犠牲になったというな。農民も武装して銃とか槍を持っていた時代だしな
徳川家康も伊賀越えでは、落ち武者狩りに逃げ回ったそうだし
人だけじゃなくて普通の獣とかも怖いよな
加藤清正の虎狩りとかはカッコいいけど
足軽にとって敵の首は黄金も同じ、侍大将や名のある武将や武士はボーナスのようなもの、落ち武者狩りで武将を殺せたら宝くじに当たり一億円当てるようなもの
七人の侍で
侍の一人が「武器ないのに戦えるの?」って農民に聞いたら、
農民が「武器ならたくさんありますよ」
って言って、落ち武者狩りで得た武器を見せて侍がブチギレるシーンがありましたね。
まぁ昔は長男以外は農兵になってるのが多かったんで、武器を使える農民はたくさんいて、それのおかげで島原の乱は幕府側が大苦戦するわけなんですが、、、
ノーノー。作中では侍の一人が槍を持ってる農民を見て「どこで手に入れた?裏の山にでも生えてたのか?落ち武者狩りでもしなきゃこんなもん手に入らねえ!」と言い、他の農民たちに「他にもあるだろ!どこに隠してる!」と詰問して鎧や弓矢を探し出して他の侍たちのところへ持って来て侍たちが怒る展開となっていますよ!
20年前に見たから、曖昧になってましたw
ありがとうございます!😃
とりあえず、落ち武者狩りに対するトラウマがすごいんだなぁって子どもながらに観てました。
島原の乱の折、あの宮本武蔵も参戦してたみたいですね(知人と宮本武蔵の件で会話中に知りました)😒
堀水英則 投石にあって怪我したらしいですね
@@あちちあちち 様 m(_ _)m それは知りませんでした😥御教授を賜り、誠にありがとうございます m(_ _)m
平家の落人の子孫が住むと伝えられている秘境のような集落があり、親戚がそこに住んでます。
そこはある一族がずっと住んでいるため、苗字がほぼ全員同じだそうです。
その集落の家はどこもお屋敷のように大きく、品がある人が多いです。
徳島県の田尾といわれる山の中とかもそうだと聞きました。
オボロm
私は徳島県民ですが祖谷なども地元では有名ですね
どちらも三好市という場所で徳島の外れの田舎の徳島の中でも更に田舎の場所ですね
因みに関係ないですが三好というのは過去に滅んだ阿波の三好氏にあやかり名付けられました
平家の落人の集落には安徳帝を葬ったと伝えられる墓や祀った神社があるそうで、安徳帝は陵墓参考地が
最も多い天皇とされています。
落人伝説での安徳帝の共通点は山奥での隠棲生活に耐えられず幼くして薨去されたとの事です、おいたわしや・・・。
高校の同級生の名字が「平家」でした。気になって聞いてみたらやはり平家の落人がご先祖でした。
平(たいら)ってのは、沖縄でも平良って名字はそっちから流れ着いたとかも聞いた気がする。
なんやかんや、子孫はしぶとく生き延びているもんよね。
まさに「弱り目に祟り目」とはこの事ですね
石田三成が逃亡中に腹を下していたというのはそういうことか…
石田三成が落ち武者狩りに合わなかったのはそれだけ農民たちからも匿われるくらい良政をしていたということなのかな?
最終的に捕まっているから、落ち武者狩りのようなものに遭っているのでは?
K A 落武者狩りではないですね、殺されてないんで
洞穴に匿ってもらって何日も面倒を見てもらってたんだからそれほどいい善政を敷いたのでしょう
そこまで詳しくないけど落武者がましてや総大将をかくまったのがバレたら村は焼かれ村人全員殺されるから石田三成はいつまでも村人の世話になる訳にはいかなかったみたいな事をテレビでやってたなぁ
…これが、家康がえげつないやり方してまでも秩序や治安強く求める理由だと思われ、日本中にきれいで安心して飲める水を回す努力のきっかけだと思われます。ありがとうございました!
信長公が越前から朽木越えで逃れたのは、稀有な幸運だったんですね。単騎で逃げ出して生き残れましたから。
【動画の目次】
落ち武者ヘアはどうして起きる? 00:30
農民が全て敵になるバイオハザード 01:17
耐えがたい喉の渇き 02:38
無事落ち延びる方法1:一人で落ちない 03:46
無事落ち延びる方法2:サバイバル技術 04:49
無事落ち延びる方法3:寺に逃げ込み人生リセット 05:40
戦国時代ライターkawausoの独り言 06:24
あなたは落ち武者になると生存率についてどう思いますか?
💟参考になった皆様の考察・歴史感をコメント欄に固定化させていただきます。
※あなたの考察やご意見をコメント欄までお待ちしています。
生き延びる方法その4
助命も嘆願せずご飯が欲しいとめっちゃ堂々と落ち武者狩りに対面する.(By 宇喜多)
宇喜多秀家に関しては、徳川家から村々に対して「指名手配犯なので、見付けたら殺さず、まず徳川家に通報してくれ」と、お触れが下されていたそうです。だから宇喜多秀家は、却って堂々と落ち武者狩りに対面出来たみたいですね。殺されない事が分かっていた訳です。
有難うございます。
戦国時代の兜は見た目ほど重くは無かった様ですが、日本の夏の炎天下では結構暑くて蒸れたらしいので、兜を被る時は暑さを避ける為と、蒸れるのを防ぐ為にザンバラにしたようですね。しかし、落ち武者は人としての全ての権利が剥奪された罪人の様な存在で何をされても仕方の無い存在だったとは知りませんでした。キツイデスねぇ。
へぇ~、すごい勉強になりました。チャンネル登録させて頂きました
家康のお供が最強メンツ
改めて勉強になります
なるほど、すぐにでも使える知識をありがとうございました
どこかに戦争でも行くんですか?(笑)
自衛隊のレンジャーとか、戦闘機パイロットのSERE訓練は落ち延びて戦闘を継続できるようにするためにあるんだよな。
一揆する位だから、農民は強いでしょうね。うちの先祖、よく逃げれたなぁ。
お寺に逃げ込むこともできんだあればの話しなんだサバイバル技術で自分の血とか川の水を濾して飲むんだ井戸水を飲むのも覚悟いるんだ戦国時代の落武者には過酷な選択を強いられるんだ
小栗栖はそもそも明智光秀の領地かその付近ではあったはずだが、
元から勢力の変わりやすい近畿の農民にとっては当時の大名の義理などおそらく無いんだね
どうしても「農民ごときに…」と考えがちですが、江戸時代(秀吉の刀狩り)以前はその農民を召集して戦をしていたのです。
さすがに鉄砲を持つ農民は稀だったかもしれませんが、名主レベルであれば持っていたかもしれませんし、槍や刀や弓矢はそこら中に有った筈です。
テレビでは“兵どもの夢の跡”の悲壮感を出す為に竹槍で…と演出していますが、とんでもない。どこの大名の軍でも(兵農分離を奨めた織田は別かもしれませんが)大半は支配領地から駆り出された農民が主力だったのです。
そんな“戦慣れした地元農民”に地の利を生かされて狩り立てられれば、武将の一人や二人を討ち取る位造作も無かった筈です。
中近世の時代だけで無く、奇兵隊や新選組で、一部の名も無き豪農や百姓が幕末維新期の動乱で活躍した理由もわかりますね!
人によっては数年間(あるいは数ヶ月間)訓練するだけで、近代的な組織をつくり、剣術を身に着け、西洋式銃を扱い進軍していたんですし。この経緯は後の明治政府の徴兵制のデータにもなっています。
銃は従来の物と比べ、扱い易く取り替え易くはなっていたんでしょうが、いつの時代も農民ごときとは言えませんよね…
@@マスケットマスカット 半農半X
X=兵士ばかりか…
姫若子様ファンクラブも半農半兵だんなぁ・・・
今、落ち武者狩りにあったのでみてます
先祖が柴田氏の流を組み賤ヶ岳の戦いに敗れ一族郎党150人程が落ち延び(途中で名字を変えたと)福井の松平氏に匿われ客人として扱われたと、代々伝えられてきました。最終的には松平氏の家臣になり天領を治める代官職になったそうです。
現在の和歌山県田辺市鮎川の小川集落で、鎌倉幕府への反乱を察知され落ち武者となった護良親王が集落に立ち寄り
正月の餅つきをしていた村人に餅を所望したが、落ち武者と関わる事を恐れた村人はそれを拒絶してしまい護良親王は
飢えと失意の中いずこへと去って行った。後に餅を所望した落ち武者が護良親王だったと知り村人はそれを後悔して
正月には決して餅を搗かない「餅搗かぬ里」になったとか。落ち武者にまつわる悲劇です。
(昭和10年の護良親王600年御遠忌の法要で村人が親王の像に餅を供えて詫びるまで続いたそうですが一部の家では
現在も頑なに餅を搗かないそうです)
愛知県新城市東栄町には長篠合戦に敗れ落ち武者となり果てた武田軍の望月某(なにがし)を供養して「望月峠」と名付けた
とか、今は消滅してしまいましたが亡くなった落ち武者を供養して「入仏(にゅうほとけ)」という地名もありました。
そういえば「八つ墓村」も落ち武者狩りが因縁となった連鎖殺人事件でしたね。(モデルは津山30人殺しですが)
古澤修様 m(_ _)m 私、天正三年長篠設楽原合戦に於ける数少ない甲斐武田軍生き残りの末裔になります。武田勝頼公の直衛で隠棲先の信州まで勝頼公を送り届け、「甲州下山内七拾貫文・南部内五拾貫文・古開郷開四貫五百文事、右夏以来已駿州先方走廻候間所々宛行有不可相違状件如、天正三年拾貮月拾日、土屋右衛門尉是奉」…なる文書を下賜されて居ります。
@@堀水英則 様 その文書はおよそどのような意味のことが書かれているのですか?
興味を持ったのでお教えいただけると幸いです。
@@まんじゅう様-c1d 様 m(_ _)m かしこまりました🙇文面をまだ解読中ですが…大雑把に申し上げますと、山梨県南巨摩郡下山地区に70貫文、南巨摩郡南部町に50貫文、古開郷開:こかいのごうかい(南巨摩郡身延町の事かと思われますけれど、断言は出来ませんが)4貫500文を武田勝頼公より合戦報奨金を賜ったと云う事になるかと思われます。静岡県立大学の歴史に詳しい教授(名前は失念してしまいました。1貫文=1000文で、現在の貨幣価値に換算致しますと大凡1貫文=約10万円ぐらいになるかと思われますので、合算致しますと、合戦報奨金は約1245万円ぐらいになると思います)右夏以来:みぎ、なついらい(合戦は5月に有りましたので、その夏以降と云う事になりますね。)「已に駿州先方」すでにすんしゅうせんぽう(静岡県と山梨県の県境)「走廻候間所々宛行」:はしりまわりそうろうま、ところどころあておこない(時代背景から織田及び徳川の密偵が甲斐領地へ入り込んでいないか走り回りながら偵察・警戒せよと云う意味に取れます)「有不可状件如」:そういあるべからずのじょう、くだんのごとし(その件に関して間違いは有りません)「天正三年拾貮月拾日」:西暦1275年12月10日、「土屋右衛門尉是奉」:つちやうえもんのじょう、これをたてまつる(武田信玄公直属家臣、信州川中島合戦で長槍の名手として武勲を挙げ、信玄公より賜った通り名になります。本名は自民党元副総裁:金丸信先生の直系の祖先:金丸平八郎になります。)…で、最後に「堀水又七郎」と明記されてます。古文読解って…非常に疲れますね😖💦堀水又七郎直系の末裔は、学校法人北海道立正学園旭川実業高等学校創設者になります☺️
@@堀水英則 様 懇切丁寧にお教えいただきまして、大変にありがとうございました。700年以上も前に書かれたものが身の回りにあるというのはとても羨ましく思われました。私は考古学に疎いのですが、その書の内容からはその合戦において武田氏にとって貢献性の高かった地域を金銭的に読み取ることができたり、既出の歴史的情報の根拠を更に明確化できたりと、言うまでもないことかもしれませんが非常に価値の高いものなのではないでしょうか。興味深い内容をありがとうございました。
@@まんじゅう様-c1d 様 m(_ _)m 大変読みづらい文面で、誠に申し訳ございません🙇鎌倉期には甲斐源氏河合氏として、拙宅の祖先は山梨県身延町を含む21箇所町村の総名主でした。更に明治時代に記された書籍を調べました所、往古陽成帝元慶年間まで遡れました。ルーツ的には太宰府藤原房雄の家臣・河井飛騨守彦雄か、若しくは奥州藤原俊成の家臣・河合三河守重藤かは、まだ確定していませんけど😥現代版家伝帳を編纂中でして、今も歴史やら古文の再勉強中です😖
武者ヘアの参考イラスト無くて草
ガレッジセールのゴリの落武者思い出した…
明智光秀や家康と共に逃げ後に別行動をとった穴山梅雪は…多分腕利きの部下も居らす少人数だったんですかね…
ん? そのメンツは光秀が落ち武者狩りする立場でしょ。
穴山梅雪は、家康が「一緒に逃げよう❤️」と誘ったら大人数は目立つからイヤって単独行動したと記憶してる。
NHK「タイムスクープハンター」に落武者の話ありましたね。
石田三成が関ヶ原の戦いの逃亡中に下痢に悩まされてましたね
三成にとって人生初の大敗&逃亡生活だったからそういったサバイバル能力が無かったんでしょうね
足利義昭が京から追放された時にも落武者刈りがかかって足利家累代の宝物をばら撒いて逃げたのだそうな。おかげでかなり散逸しちゃって
豊臣秀吉は百姓の野蛮さを知っていたから刀狩りをやりました。江戸時代百姓は生かさず殺さず政策を行ったのは百姓の野蛮さを恐れたからです。何故なら戦国時代の主役は実は彼ら農民達だったのです。武士武士と言うけど戦場で戦ったのは彼ら農民達です。日本で身分制度ができたのは彼ら農民に力を持たせない為でもあったのです。秀吉が強大な力を持ったのは彼ら農民達を味方につけたからです。その事を恐れた徳川幕府は武士と農民をはっきりと区分分けして徳川に尽くす者達に対しては足軽であっても武士として扱いその権力を与えたのです。日本の武士と言うものは根本的には百姓達だったのです。
まぁ、家康さんは【落武者のプロ】だからねぇ😅
伊賀越えの時には【狩に来た連中を家臣にしてしまう】という大技を繰り出した…という。
面白かった。歴史の表舞台には出てこない事。教科書にもない事。こう言う話は面白い。
参考になりました
武田勝頼が長篠から安全圏まで逃げ延びたその道中の様子が知りたい
帰る場所と寺が近くに無ければ、それだけでほぼ詰みなのか…
2:05 そりゃ化けて出たくもなりますわ…
侍は農民から命や財産を奪っていくのに
農民が侍から奪うのはNGってのはフェアじゃないよな
戦国時代の兵士たちは行く先々の農村を荒らしていたそうなので、農民も武装して防衛して行く必要があったんでしょうね
私達の村にも広島県の福山市から落ち伸びて
来た人がいますよ、そして私達の村にまた烏ヶ山城と言う城を作ったらしいですよ、また
私達の村には兵庫の赤松氏の家臣だった人が私達の村に逃れて来て
名前を変え大庄屋さんになっていますね今はもう庄屋様の屋敷跡があるだけですがねこの動画の話を聞けばよほど運が良かったんでしょうね。
絵かわいいのに内容えぐくて草
初めて観ました。 とっても解りやすいです。👍
花の慶次といえば、「馬の小便を飲むんだよ」とも言ってましたな。
ベア兄貴なら、生き残りそう。
そういえば、「たか号」で生き残った佐野三治さんは、一日一回出る自分の尿(しかも血尿)を飲んで助かったそうですね。
佐野さんだけが助かったのは、やはり水分をとっていたからだろうと、のちに医者が言ってましたね。
明智光秀の気持ちが分かった。
落ち武者ヘアーの補足で、兜で蒸れるから頭頂部の毛を剃って月代を作ってました
日本昔ばなしに出てくるような農民は居なかったって事か
刀狩りまではマジで武士と農民に差なんて無かったですからね…………。
予備兵力ですから。
+wataru kuriki様
日本昔ばなしに出てくるような農民は大規模戦闘がなくなり戦乱の疲弊がようやく落ち着いた
江戸元禄期以降だと思います。・・・とはいえ天明の大飢饉とかになると世紀末になりますが。(汗)
ありがとうございます。
80年代を生きたおっさんが五十代になってから「ロン毛」にすると言い出して落ち武者になった実例を知っています
江戸時代初期の書物=「雑兵物語」。今度読んで見ます。
お金があれば、逃がし屋が助けてくれる。
この話は、豊臣秀吉が天下を取る前の話で賤ケ岳のあたりで風向きが変わってくる。
佐久間盛政を捕らえて恩賞を貰えると思っていた百姓たちが身の程もわきまえぬ奴ら
として秀吉に処刑されている。
関ヶ原では小西行長が百姓に見つかり「首を取って恩賞を貰え」と言ったら百所たちが
「尊い身分の方を討ち取ったら、わしらが殺されます。どうかお逃げください」と言ったが
行長が「私がお前たちの命の補償をするから敵に差し出せ」と言うので形だけ縄で縛って
東軍方に差し出したって記録がある。この場合は行長の口添えがあったので恩賞が出た。
雑兵なら関ヶ原でも落ち武者狩りにあったかもしれないが、ある程度の身分の武士は
「お前ら如き土民が武士を寄ってたかって殺すとは何事か!」っていう感じで下手に
討ち取ると恩賞どころか見せしめに殺されるってことになっていたそうだ。
この手の動画は話半分程度に聞いていたほうが良い。
地域差や状況等の揺らぎ部分を無視して判を押したような情報を正しい事の様に誤認させてしまう。
うぷ主の見識も浅いようで情報の精度としても非常に低い。
興味を持つためのきっかけ以上には受け入れず、興味を持ったなら自分で調査した方が良い。
@@56513haruka ほんそれ❗全ての情報に対する基本姿勢ですね。
平家の落ち武者で家来たちと落ち延びて田舎で神社の神主になったと市の資料にありました。
私の先祖はその家来の一人、時代を経て主君の家とも交わっているようだ、と聞かされて
子どもの頃はフーンとしか思わなかったなぁ、こんなにも過酷な思いをしたんだろうか
やば、うちとそっくりw
もしかして宮〇!
@@murasakimitsurun 近いですね!
『八墓村』を観れば…
髷は落ち武者になった時に不利になるけど、俺は落ち武者にはならない!みたいな意思の表しだったのだろうか
こんな状況だったのに落ち武者になっても農民に匿ってもらえた武将は本当にいい政治をしてたんやな
代表的なのは三成かな?
井戸に毒を入れたというのはどうかな?そういう文献が一冊あることは事実だろう しかし500年前井戸を掘ることがどれ程難しかったか 村に井戸が一つなんてざらだろうし集落一つがダメになってしまうことも想定できる その文献の著者や幕府は何らかの意図があったのだろう 一つの説に盲目的に依拠するのは良くない
敵を根絶やしにする為なら村ひとつ滅びても構わんのでは?
お殿様は農民なんぞ同じ人間と思っとらんのでは?
半農半士なら知らんけど
当時は略奪は当たりまえで蓄えはもちろんのこと逃げ遅れれば奴隷商人に売られてしまう。そのため敵が来たら村が滅びると割り切ってこういう行動がとれた。
一つの説にいつ依拠したんだ???あくまでこの動画は一つの説を紹介してるだけじゃないのか???
あくまで占領地の村を放棄する場合という状況下の話なのでは?無人の村だからといって安易に井戸を使うのは危険ということ。
焦土作戦は海外でももっと昔からあるので、井戸に限らず補給を断つという考えは何ら違和感なかったが。
小さな集落も落ち武者の可能性が大きいらしい、なので小さな村の出身者の人とかは都市とかに出てくると
いじめの対象とかにあったとか、落ち武者集落て結構あったらしい・・・
結局どっちも弱いもんには強いw
落ち武者のイメージは略奪して回るイメージだったが
初代八つ墓村みたく恩賞目当てで全殺しとか多かったのな
落武者ていつまでも流浪の人生じゃないの農民恐るべし集団戦が得意なんだね
七人の侍を思い出す…
というか、こう言う敗残兵狩りって欧州や中原ではどんな感じだったんですかね。
あまりなかったのか、逆に大規模だったのか、とか…
中世の欧州でも農民が戦に駆り出されてた訳ですが、甲冑などの高級品は庶民は買えないので屍から剥ぎ取られてたようです。
もちろんそれに限らず金目のものは持っていかれたでしょうね。
ちなみに傭兵達は給料の不払いがよくあったようで、その補填の意味でも略奪などが行われたと言われています。乱取りですね。
落武者狩りのイメージが変わった
家康の供が豪華すぎる
敵の農民を買収する(恩を売っておく)ってのもあるな、家康は天将伊賀の乱で信長と敵対した伊賀忍者をこっそり庇護して、本能寺の変後の伊賀越えで役立った。そんな簡単にはいかんだろうけどな。
バァイオゥハザァドゥ~懐かしすぎ
湾岸戦争で偵察中に攻撃されシリアまで290kmを単独徒歩脱出したイギリス軍特殊部隊員がいたよな
その人の本を読みましたわ。ブラヴォー.ツー.ゼロって本。
視点が面白いなー
戦え...戦え...
知り合いが落武者の末裔らしいです 農民と商人になりました
そこら辺の武士より落武者狩りの方が強いんじゃないか?と思えてきました
三好長逸が中嶋城で織田軍に敗れて落ち武者狩りに合った記録はないみたいだから無事に逃げたんだろうな。
七人の侍で落ち武者狩りのエピソードが出てきますね。
落ち武者狩りに合わないために 家康が例に挙げられていましたが 逆に 穴山梅雪は 家康と別行動をして 落ち武者狩りにあって 命を落としたとのこと
最近有能説がでてるあの明智光秀ですら路頭に迷いあんな最後を迎えたんですもの…
コワイコワイ
源義経の家来たちは北海道へ落ち延びた。平家と源為朝の家来たちは奄美や沖縄へ落ち延びた。
農業で鍛えた肉体は強い
落ち武者の霊が出ても、笑ってはいけない
明智光秀も落ち武者狩りにあって亡くなったし。徳川家康も本能寺の変後逃げる時も襲われていました。
農民とかまで敵だよね
誰だっけ?農民に逃げてる時に槍で突かれて死んだよね?
バガボンドでも死者から鎧やら剥いで売ってたよね
集団化しても裏切りがあるかもよ
明智やね
例えばウンコがあったとします…これを井戸に投げ込むと何が起こるのでしょうか?
私の田舎は先祖代々の寺ですが親族の言い伝えによると元は侍だったそうです。侍が坊主になったと言う事は落武者だったのだろうか?場所も今でも人里離れた山の中にありますし…
寺なら関係する文書もあるかもしれないので探してみては?
黒澤明の「七人の侍」の舞台になっている農村もあんなひ弱な農民ばかりで無くて、チャンスがあれば落ち武者狩りもする「雑兵集団」だったということでしょうか。しかし、自分たちのコミュニティ以外の人間はいざとなったら殺して良いという倫理観はすごいな。
家康の伊賀越えの場合は 信雄の伊賀攻めの時に農民を匿ってやってあげたのと半蔵の父親が伊賀出身のため知り合いを尋ねて道案内をしてくれた そして家臣があれだったため帰れたんだよな 穴山信君が囮になったのに感動する
井戸も川も使えないとか、戦地の近くに住んでた住人や村人可哀想すぎない?
この人たちこそ飢え死にするやん
だからこそ明確な殺意と復讐心をもって落ち武者狩りをするんやで
沸かせばセーフ。落ち武者は火を使うと居場所がばれるから沸かせない。
ある意味落ち武者こそGet Wild退勤だな・・・