【古代史探索の旅Ⅱ】第1話 失われた歴史/九州王朝(前編) 大宰府と古代山城
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- Опубликовано: 6 окт 2024
- 最近時、密かに脚光を浴びている「九州王朝説」に興味を持ち、北部九州を旅しました。
第1話では、太宰府周辺の史跡を訪れ、「大和王権の前に九州王朝があった、と言っても不思議ではない」、と思えるようになりました。
なお、地図画像は、OpenStreetMap を利用させてもらいました。
openstreetmap....
【訂正】16:45で言っている宝満山は宮地岳の間違いでした。訂正してお詫びします。
面白かったです。
ありがとうございます。
懐かしい。昔、太宰府に住んでて九州王朝を研究してた元大学教授に取材に行ったことを思い出しました。ちなみに大宰府都府楼跡の近くにあるお寺から五重塔を解体して京都に移築したと話もついでに聞きました。
まったくのど素人ですが、楽しく拝見しました。古代史は本当にワクワクします。
楽しんで頂けたようで、嬉しいです。
かわいい奥様が上手な相槌を打ち、素敵な古代史旅行に同伴させてもらった気持ちです。
今、旅行記で太宰府、大野城を書いています。この方の探求力はすごいとしか言えません。
最後の、九州王朝説、私もそうだろうと思います。
共感して頂けたようで、とても嬉しいです。
何とか最後の結論までたどりつきたい、九州王朝説です。
九州王朝説も色々ありますが
大化の改新前後までは九州王朝説の方が理に適ってると感じてます
私自身、奈良に生まれ幼い頃は明日香は虫取りに遊びに行く場所
藤原京跡もキャッチボールや正月の凧揚げに鬼ごっこなど遊び場だったのですが
九州の筑紫平野を初めて見た時(これも小学生でしたが)に感じたのは、奈良盆地に比べその広さ、豊かさでした。
広大な平野に水量豊か大河川、大きく広がる玄界灘
それに引き換え、奈良盆地の狭さ、海に出る不便さ、更に一番大きな河川が水量の乏しい大和川と言う小さな河川である事
小学生時代から歴史好きだった子供として凄く疑問が湧きました
まして奈良の小学校の社会の授業では奈良盆地の水不足、水争い、多数のため池が有る理由に吉野川分水でそれが解消された歴史。さらにその吉野川(=紀ノ川)の水を奈良盆地に引く為の巨大ダムも遠足などで教わります
此処で矛盾が発生するのです
つまり近代に成るまで大和の地は水の奪い合い(それを残す地名も多い)ほどの慢性的な水不足の地だった訳です。でも歴史ではヤマト王権(=大和朝廷)と習うんですね
世界に目を向ければ、文明が発達したのは
肥沃な大地と豊かな水にあふれた地に文明が発展するのにです
個人的には、白村江の戦いで敗れた後、四方を山に囲まれそれも北側以外は険しい山々で天然の要害の大和の地(奈良盆地)に王朝が移ったように感じてます
大変面白い切り口のお考えと思います。
確かに大和の地は、古代より列島内の他地域と比べて、特段実り多き地ではなかった訳ですから、この地がずっと王権を維持できてきたことには疑問が残りますね。
王権として日本全体を統治するには卓越した軍事力を維持していることが重要ですが、その為の食料基盤を大和盆地で確保することは無理ですね。
弥生時代終期の唐古・鍵遺跡は全国レベルの規模だったとは思いますが、列島を支配できるレベルではないですね。
その後の古墳時代のヤマト王権についての通説として、大和にある超・大規模古墳(箸墓、行燈山・・)と、全国に出来ていった前方後円墳の関係性のみから、ヤマト王権が西日本~中部・関東を支配していたとしていますが、その権力基盤の為の食料事情の考慮が欠落していると言えます。
とても貴重な切り口のお考えだと思いました。
@@これはどうでしょう
最終的に平城京以前に大和に律令国家の中心が存在したのは事実と思いますが
全てが大和の地を中心に国家が形成されて行ったと言うのは無理があると思います
大和の地に有るなら出雲にも負けていたと思います。
出雲も斐伊川上流のたたら製鉄など高い技術力に、その大河斐伊川に寄ってもたらされた肥沃な出雲平野の大地に水資源。当時はこれら全てが、食料供給量の増加、しいては人口増に繋がりそれは強力な国力の源にも成りますから。更に大陸や半島の高い文明も手に入れやすですから
少し前の奈良県人は
越県して海が見えると「あ!うみや」と言うと言われて居ました私もそうでした。
交通手段の発達した現代でもですから
当時の優れた大陸の諸々の技術を手に入れるのも大和は不利と思います
根本の問題は私の幼い時の住居の近くにも複数有りますが
古墳が「陵墓参考地」と成ると一般人は元より専門家の方々も殆ど立ち入れなく成る事です。そして地元では御陵と呼ばれ学校でも立ち入り禁止を強く言われ
・・天皇陵だとか、埴輪が見つかったらしい等、噂だけが広まります
でも公式には「被葬者特定されていない」
これ私の親の頃から半世紀以上前からの話ですから
私達夫婦も栃木在住なので、旅で海が見えると、
「あっ、うみだ」
と言ってしまいます(笑)。
最終的には大和盆地は、瀬戸内と、琵琶湖を介して敦賀・日本海と、そして東海と繋がり、全国レベルの要の地になっていったと思いますが、一朝一夕にはいかなかったろうと想像しています。
そして最初に大和に権力が生まれた時。
これには出雲の人達が関わっていただろうと思っています。
三輪山信仰の勢力、大きな前方後方墳、出雲ゆかりの多くの神社など・・・。
おっしゃるように陵墓候補地が発掘されれば、この地に来た人たちがどんな経緯を持つ人達なのか、より明らかになるだろうと思いますが、天皇家の先祖の墓と言い伝えられている以上、勝手には掘れないでしょうね。
エジプトのファラオや始皇帝と違って、現存するお家の先祖墓ですから、他人が決めることでもない、とも思います。
素晴らしい‼
その直感は正しい。
古田武彦氏は30年以上前に九州に王朝が有ったことを立証されました。
古田武彦古代史コレクション ミネルヴァ書房
太宰府天満宮は邪馬台国があった場所に建てられたんだろうね
太宰府天満宮の場所自体かどうかは分かりませんが、この地域も邪馬台国の時代に重要な場所であったことは間違いありません。
懐かしい風景でした。
大学出て、昭和51年仮免許取り母の知人に横乗りしてもらい
車で太宰府から宝満山登り、道路脇に出てきたキジにビックリしながら
博多の風景を眺めた46年前を思い出します。
ちなみに、母の墓は国分寺にあり名古屋に住んでいますがよく出かけます。
夫婦ともども、梅がや餅大好きで太宰府にて3月でしたか曲水の宴を
母と観ながら食べた記憶がよみがえります。
かずさん、まゆさん、素敵な動画ありがとうございます。
名古屋にお住まいなんですね。
梅が枝餅は私達も大好きで、時々通販で出てたら頂くことがあります。
でも太宰府での焼きたては格別でした。
やっと出会えました。
臨場感のある古代史探訪。
『大宰府』の名称は国の首都に相応しい。
水城も神籠石も首都の護りですから、白村江の戦い以前に造られたはずです。
白村江で敗れた九州王朝は衰退し、700年頃には大和王権によって併合、吸収されたようです。
古田武彦氏は30年以上前に証明されています。
古田武彦古代史コレクション ミネルヴァ書房
お願いがあります。
筑紫舞と西山村光寿斉さんの話を取り上げて下さい。
古代から戦前戦後の混乱期にワープします。
コレクション22 古代の霧の中から
第四章 筑紫舞と九州王朝
ご示唆ありがとうございます。
自分の興味あるままに勉強対象を決めているのですが、今だに3世紀の北部九州から旅立てないでいます(笑)。
平行して九州王朝を考える糸口も探しつつ、4世紀以降の倭国全域の姿を描きたいところです。
筑紫舞は以前RUclipsで、宮地嶽神社の宮司さんの舞を拝見したことがあります。独特のものでした。
その後なかなかワープできないでいます(笑)。
@@これはどうでしょう 様
室見川河口付近から見た、アマ族がアマ下った高祖山の風景。
高祖山からの眺望。能古島、志賀島、玄界灘。
勝手に夢を膨らませています。
私も最近、志賀島の高天原や、小戸大神宮、名島神社、香椎宮・・・と、博多湾周辺の古代の情景に、妄想が止まりません(笑)。
@@これはどうでしょう 様
そして、海の正倉院。
そういえば、壱岐・対馬から見た邪馬壹国。
邪馬壹国発祥の地が、どの邪馬台国論争にも欠けていますよね。
地元の人にもっと古田史観を広めねば。
今、初めて思い至りました。
何だかもどかしく思います。
邪馬壹国発祥の地は壱岐・対馬だったんですか!
知りませんでした。
対馬へも一度行ってみたいですが(笑)。
復元して欲しいね❗
そうですね。
うちの近所だwいつでも行けると思って、なかなか行けていません。天満宮の近くの九州国立博物館は何回か訪れました。
大変勉強になりました。
いい所にお住まいですね。
我々は遠いので旅で行くと、折角なのであっちもこっちもと詰め込んでしまい、結果疲れてしまいます(笑)。
基山・・・昔は草スキーで賑わってた時期もあったんですよね
遊んでた頃は遺跡・史跡とか微塵も意識してませんでした。当たり前ですけど。
いやなかなかここまでの映像・動画も無いですよ。素晴らしい。
ありがとうございます。
私も50年前、基山での草スキーの記憶があるので、今回登った時にコッソリ段ボールを持って行ってました。
が、正規のソリで指定シーズンのみ可能、との看板があって滑ることはできませんでした(笑)。
古墳時代の後の、500~600年代の話ですね。興味あります。
卑弥呼の後の、4c以降の話を想定しています。
白村江の戦いの後は、筑紫都督府とされたんで、一時的に唐に占領されたんでしょうねー。
そういうことのようですね。
素直にイメージはできませんが、歴史としては、そういうことなんですね。
@@これはどうでしょう さん イメージとしては太宰府の役人とかは、奈良に逃れて、唐の連中は太宰府にかまけている間に、新羅に負けてしまって唐に帰っていったというイメージですかねー。
数年前に、大宰府の後方を守る外枠柵遺構も見つかったようですよ。
へー、そうなんですか。
いつ頃のものなんでしょうね。
資料集めも大変だったのでは?
ご苦労様です(^-^)/
歴史好きですよ♪ヽ(´▽`)/
次回も楽しみにしてます。
ありがとうございます。おっしゃる通り、古代史探索は映像撮りより資料集めの方に時間がかかります。でも、もともと好きだったのでそれも楽しいですね。考えてみたら、釣りも船も石も歴史も、子供の頃に好きだったことが今、実現できているようです。有り難いことです。
白村江の戦いの前線基地で有る朝倉の宮は太宰府だったのでは?
そうなのかも知れません。ちょっとよく分かっていないです。
素晴らしい動画です。我が国の歴史に関わる学会、学者は残念ながら、実物から考えて真実に迫る議論をしないのです。○○大学の先生が言ったとかいう権威にすがる論旨が殆どです。先生と違うことを言えば、教職も、博物館の学芸員の仕事にもつけません。古代史だけではありません。現代史も同様です。戦勝国史観から抜け出られません。現下の経済政策についても、財務省史観から抜け出られません。理科系の学会のように議論しません。都合の悪いことは無視するのが基本方針です。虚構のお花畑史観に支配されています。日頃政府や宰相おろしに熱心で、フェイクニュースの垂れ流しが得意技の新聞もその傘下のテレビ局も真実には迫りません。ミネルバ書房の古田武彦論集の説対して正面から堂々議論する学者が出てきて欲しいですね。
ありがとうございます。
後半の政治・社会の話は置いておいても、古代史の探求においては学者先生方も入って、もっと深い所で議論して頂きたいですね。
日本と日本人の始まりのところですから、我々が知っておかなければならない大事な真実の探求なのだと思います。
かずさん古代史にお詳しいんですね!
ボクは戦国時代くらいしかあまり知りませんが(笑)
何かこう・・・ロマンを感じます(´∀`*)
いや~、恐縮です。私は邪馬台国世代なんで、ずっと好きなんです。昔、邪馬台国が流行りました。
都督府と云う府が設けられているという事は、都護府もあったと考えるのが常なのですが…
如何でしょうか?
都護府というのは知りませんでした。
周辺地警護のための軍事機関とありましたが、どうなんでしょう。
唐軍の進駐は何故か短期間だったようですし・・・
唐軍の進駐軍が去ったあとに、新羅軍が監督したと考えれば、合点がいくのですが、例えば西鉄二日市駅、北250mに太宰府客館跡が現在整備されているのですが、そこは客館では無く駐屯地(都護府)では無かったか?
また、博多中央区大濠公園東側にあった「鴻臚館」は当時の都護府(税関)では無かったか?と考えたりもしています。
色々考えられる訳ですね。
是非地元の強み?で謎の解明よろしくお願いします。
浅いコメント、深いコメント、いろいろあって、それらを読んでも楽しいですね。ちなみに旧唐書には倭国と日本国とは別々に書かれていたそうです。よく、「『日本』という名前は大陸から見て日本が日が昇る位置にあるからそう呼ばれた。」と言われますが、倭国から見て日本国が日が昇る位置にあったからそう呼ばれたとしたらどうでしょうか。その倭国が九州王朝で、日本国が大和王朝と考えるとスムースに理解できるのではないでしょうか。
まさに思慮深いコメントありがとうございます。
おっしゃる通りで、そのように考えると納得できますね。
私は古代史に全く興味が無かったのですが、いつか「これはどうでしょ」さんに
引きずり込まれ何かしら沸々と古代史に興味を感じる様になりました。
長くなりますが、田舎の町村合併で1クラス55名×7クラスと言う飛んでもない
町が出来て新学校建設にグランドの整備を学生がする事になりました。
もともと桑畑でまだ桑の木がそのまま残っている処もありました。
チェンブロックで引き抜きながら直線400mのグランド(運動場)が完成。。。
実は開拓している中で矢じりや甕棺大小が沢山出土しました。
こんな縄文時代と先生の古代史が同じ土地上で行われた形跡はないのですか。
コメントありがとうございます。
その体験はさぞワクワクされたことでしょうね。
人によっては若い頃はあまり興味が無いかも知れませんが。
縄文時代ということですが、甕棺墓は縄文後期から弥生期まであったようですから、継続していたかも知れませんね。弥生期の遺跡の下層に縄文期の遺跡があったという事例もまれにあるようです。
九州は、プレ天皇家についてもっと研究を深めるべきだと思います。アマテラスに相当するようなリーダがほんとうにいて、それが九州王朝なのだと思います。大和王朝とは別に、先祖の一族だと考えるのが正しいかなと思います。
そうですね。
今回は九州王朝説の紹介、というレベルですが、さらに研究が深まって、本当の歴史が見えてくるといいですね。
太宰府には..昔..当時の政治の中心が..有ったなって..感じます..。中国..歴代の都..洛陽を模した..
条坊の碁盤の目が発掘されるのは..1000年の都...京都の市中が...連想させます。
奈良や京都に遷都するまでは..大陸に近い..ここが..都だったんだよ..って言われても..城跡、出土品(都督府)や.
.防塁の数 古道 等からも...納得出来ます。金印の奴国、卑弥呼の邪馬台国、倭国..と呼び名も様々ですが..
当時の日本国のかなりの部分を統治した..国の中心が有ったのだと..思います..。
私もそう思っています。
あとは歴史の筋書きを知ることと、確証を得ること。
これが難しい(笑)。
豊の国 古代史の方も興味もっていただけたら、おもしろいですよ‼
コメントありがとうございます。そうなんでしょうね。宇佐方面の話も北部九州と繋がっていることは知ってはいるのですが、勉強不足で手が(頭が)回りません。
まずは福永晋三さんを中心とする
豊の国 古代史のユーチューブからどうぞ‼
mobile.twitter.com/okanoagata
情報ありがとうございます。勉強してみます。
巨石信仰の痕跡とか、そもそも現実離れした岩山の風景はすごいですよね
日本にあんな風景があるなんて、もっと広く知って欲しいような
一方で荒らされたくないような・・・
「最近、九州に勢力が~」というテーマで始まっていますが、(関係/無関係?)旧くから「白鳥庫吉」といふ学者らが「邪馬台国は九州に在った」という学説を出しています。 1975年頃には邪馬台国(九州/畿内)説論争が過激化しました。結局今日でも左右決まっていません。 でも、こういう論争が出るということは、九州に的となる「遺物」があればこそで、古文献のみで紛々することはありません。 確かに出土品や遺物に「何か」があったのだらうと思います。 自身、原民族<元民族<古代民族<前神話時代民族<神話時代民族<朝廷時代民族<・・・と九州に幾重にも異民族が移入し、歴史時代になり一断面化して、記紀に表れたように思えます(民俗学・生化学・考古学)等。&段階的に移入してきた民族の末裔が「豪族」となったのでせう。 他にも第7話で記しましたが「イチキ-シマ」という、三女神の中でも異色の名を持つ女神が「?」を残しますし、出雲に「タゴリ」という女神が単体?で祭られる・という「三女神」構成にも「?」があります。 今回の動画の舞台「筑紫」には、旧くは「氏」と「君」と呼ばれる「豪族」がいたらしいのですが、「氏」と「君」の使い分けに「?」を持っています。 ともあれ、自身で赴くことのできない土地の情報を得ることができ、たいへん重宝しております。
ありがとうございます。 次第2話いきます。
自分達の興味本位で勝手に謎解きにして、旅を重ねていますが、お役に立っている部分があれば嬉しいです。
一断面でもいいいから解明できれば、生涯のうれしさに繋がります。
地元の人でも知らない その昔朝日山 日ノ隈山に狼煙台があったそうです?
日ノ隈山は吉野ヶ里の上ですね。
朝日山の場所が分かりませんでした。
朝日山は鳥栖の新鳥栖駅の近くです朝日山から久留米市高良山が見えます
ありがとうございます。
久留米方面から吉野ヶ里を攻めたら、一目瞭然、ですね。
基山(きざん)からも、この辺りの全景が展望できましたから、当時を想像するとワクワクでした。
これはどうでしょう さんへ 私は吉野ヶ里に住んでますが 秦の時代徐福が佐賀平野に来た時老若男女を連れて稲作、鉄器文化を伝えたと思います、その頃は村社会と思われます、それから、200〜300年後、中国では 3国時代になり魏 呉 蜀 その頃卑弥呼が魏に使いを出したと思われます、話はそれますが福岡とか佐賀とじゃ無く北部九州で考えれば博多湾は韓国 有明海は中国から来るのを見張ったと思われますそのために狼煙台があったと思います?
徐福伝説。それはそれで多くの方が研究されていますね。
佐賀平野に最初に到着したとして、その後日本のあちこちに分散して行ったことが想像できます。
これも勉強したいテーマです。
大昔の博多湾は、海水部がもっと広く奥まであったらしいので、山城から博多?那の津?に来る船を見張っていたかもしれませんね...と、勝手に想像しちゃいました。今、住んでる若杉山から壱岐が見えたそうです。水城の桜は綺麗ですよ。
なるほど、そういうことですね。
歴史あるところへ行った時に、いにしえの地形や当時の風景を妄想することは大好きです。
水城の桜、見てみたいです。
16:45
宝満山でも宮地岳でもなく阿志岐山ではないでしょうか
ここには神籠石があります
宮地岳は福津市の山です
ご指摘ありがとうございます。
動画中で間違って「宝満山」と言ってしまい、あとでそれが分かって説明文の方で訂正しておきました。
ただ、ご指摘の福津市の宮地岳ではなく、この阿志岐山城も「宮地岳(西側山麓)」にあるようです。
国土地理院の地図でも阿志岐山というのは見当たらないので、「宮地岳」と改めて本編に注釈を入れようと思います。
早速のご指摘有り難う御座います
嘗て宮地嶽神社に近い所に住んでいたもので
福津の宮地岳だと思ってしまいました
確かに地理院地図では宮地岳の表記があります
調べてみると糸島にも宮地岳があるのですね
何れも古代からの歴史ある場所なので何かの
関連があるのでしょうか
ずっと気になっていたので、ご指摘頂き本編中でも訂正を入れるきっかけになりました。
改めてありがとうございました。
ところで、宮地岳、宮地嶽、この辺りの一つのキーワードかも知れませんね。
この旅の最後に宮地嶽神社も寄りましたが、奥の宮は石室もあり、厳かというか、おどろおどろしい、そんな感じでした。
ただならぬ場所、と思いました。
宮地嶽神社の御祭神のお一人は息長足比売命
言わずと知れた神功皇后です
福岡には神功皇后を祀るお宮さんが多いですね
卑弥呼を巡る時代のキーパーソンはこの神功皇后
ではないかと思っています
本当に神功皇后の足跡が、福岡のあちこちにありますね。
神功皇后の足跡を研究されている方も多いし、ホントにキーパーソンです。
楽しみにしてた古代史探訪の旅ありがとうございます。九州王朝はいかにも地名も大和と同じような名前があったり興味はつきません。 私ごとですが今年のゴールデンウイーク出雲をゆっくり夫婦でみてきました。 もちろん 古代史探訪出雲王朝を参考に廻ってきました。スサノウノミコトの奥宮はやっぱり御廟でしょうね。これからもつづきを楽しみにしています。
待っていて頂いて光栄です。九州の史跡はホント凄いと思います。これからもっと紹介しますので、ご期待ください。ところで出雲行かれたんですね! 出雲も凄い所だと思います。隠ヶ丘の霊廟説、1票ありがとうございます(笑)。
7世紀に九州に王朝があったという説。大げさに考えなくとも、今でもミャンマーとかく―データーが起きて政府が分裂したりなどよくあること。豪族が力を持ってる時代ならむしろ一枚岩の統一政権があったと考える方が無理があると思う。
私もその通りと思います。
ただ、白村江の戦いの前後にもずっと遣唐使は続いていたのだから大和王朝が代表であり続けたわけ°、『九州王朝』と呼ぶには大げさに思う。現代の言葉で言えば大宰府が外務省(さらには防衛庁)のような役割で地方分権されてた考えたら自然でしょう。
九州王朝と呼んでいる方々の説には複数の考え方があるようで、邪馬台国の時代から壬申の乱までの間のどこかまで、九州王朝と言えるだけの政権があった、という主張だと理解しています。
「紀元前から七世紀まで、倭国と呼ばれ中国と通好していたのは、卑弥呼以降も連綿と続いた九州王朝だった―。」というのが古田氏の「九州王朝説」の定義です。ですから、必須条件として、「中国と通好していた」ことを証明しなくてはなりません。ところが、7世紀大業、貞観、永徽、咸亨年間の遣使について『日本書紀』に記録があります。また、筑紫大宰は畿内ヤマトから任命され続けています。つまり、「中国と通好していた」のは畿内ヤマトであるとしか考えられませんし、磐井の乱以降の筑紫はヤマトの制圧下に入ったことは事実です。そもそも、「九州王朝」独自の史書が残っていないのですから、具体的な歴史を復元することは不可です。
@@ハイエナのパパ さん
そうですね。私も古田氏の御説を丸々支持出来ている訳では無いので、ナルホドと思います。
そして確かに、正しい歴史書がこれから書ける訳でもないですから、○○と想定するレベルの話かも知れませんね。
古田氏の「九州王朝説」と、九州に王権があった!という説とは、切り分けて考えたほうがいいでしょうね。九州各地の古墳群を見ると、地域ごとに王権が存在しただろうことは窺えます。しかし、その中のいずれかが中国と通好したのだという証明は容易ではありません。邪馬台国九州説の可能性はまだあると思っていますが、古田氏の言う「九州王朝説」は成立不可ですね。
@@ハイエナのパパ さん
私も、古田説を紹介しておきながら、切り分けて考えたい派です。
大宰府が古代の王都だったかどうかは、本編で言っている通り、「羅城」の全容が発見されるか否かにかかっていると思っています。
中国との通好の立証を指摘されていますが、その通りと思います。
金印の時代は「九州倭国」が立証されているとして、課題は近畿にいつ移ったのかということと認識しています。
日本書紀編纂時からみて近い世代の話は正確に伝承されていたと仮定できても、その3,400年前の歴史は記紀の内容を選択して再構築する位の世界だと思っています。
楽しく拝見させて頂きました。只 大野城からする方向は太宰府は南 筑紫野平野は西になると思います。
ありがとうございます。
確かに大野城から太宰府は南に位置しますが、筑紫平野は広大で、むしろ南ですね。
ちなみに登山して遠望を眺めているのは、基山です。
第11代景行天皇の頃に日本武尊命が熊襲を退治している。その熊襲が九州王朝。そうすると記紀の記述とも矛盾しない。
ここで言っている九州王朝とは、北部九州にあったのではないか、というものです。
熊襲は南九州にいたのでは、と言われていますね。
邪馬台国は北九州です。
同時代に大和王朝と並立してます。
大和王朝が倭国邪馬台国を呑み込むのは
336年頃かな?
そうかも知れませんね。
おばはんじゃまなだけやんけ…
宋書によると、倭王武は「東方では毛人の五十五カ国を征服し、西方では衆夷の六十六カ国を服属させ、海を渡っては北の九十五カ国を平定した」と書かれています。倭王武に比定されている雄略天皇=ワカタケル大王の名前が刻まれた刀剣が埼玉と熊本から発掘されていることからも、少なくとも5世紀には関東から南九州までと、さらに韓半島南部までをも支配する巨大な王権が存在したことになります。その巨大な王権と、九州の狭い地域だけの地方王権は、どう考えても併存できないと思います。
わかりやすいコメントありがとうございます。
通説ではそういうことですね。
ただその時、ここで示したようなことや、他で九州王朝説として述べられていること等と、矛盾するということでもあります。
まだまだ未実証の仮説とは思いますが、もう少し勉強してみたいと思っています。
仰るとおりかと思います。「紀元前から七世紀まで、倭国と呼ばれ中国と通好していたのは、卑弥呼以降も連綿と続いた九州王朝だった―。」というのが古田氏の「九州王朝説」の定義です。ですから、必須条件として、「中国と通好していた」ことを証明しなくてはなりません。ところが、7世紀大業、貞観、永徽、咸亨年間の遣使について『日本書紀』に記録があります。また、筑紫大宰は畿内ヤマトから任命され続けています。つまり、「中国と通好していた」のは畿内ヤマトであるとしか考えられませんし、磐井の乱以降の筑紫はヤマトの制圧下に入ったことは事実です。そもそも、「九州王朝」独自の史書が残っていないのですから、具体的な歴史を復元することは不可です。
「倭王武に比定されている雄略天皇=ワカタケル大王の名前が刻まれた刀剣」
確かに歴史学会は雄略天皇を倭王武に比定しているようですが、これがそもそもおかしいのです。
倭の五王の系図がしっかり有るのですから、一人だけではなく、五王が同時に比定されないのはおかしなことです。
学会が大和王権しか認めていないので、日本書紀にも古事記にも出てこない倭の五王を苦し紛れに大和の天皇家苦に結び付けたに過ぎません。
また、埼玉から発見された刀剣も「ワカタケル」と読めないこともない、といったレベルの話で、心ある考古学者は不満に思っているようです。
どこの生まれですか?
???
私は中国地方の生まれで、今、栃木県在住です。
邪馬台国はもっと南九州だろうかな~
でしょうか?! (笑)。
@@これはどうでしょう 始めは南方回りからでは~許黄玉
山城は蒙古襲来対策です
元寇防塁の石築地とは違うと思います。
卑弥呼の時代に北九州に巨大な環濠集落とそれを防御する比較的大規模な施設がが数多くあり、近畿にはそれが少なかったからと言って女王国が北九州にあったと言うことはできません。ただ大きな支配体制の中枢があったと言えるだけです。その中枢が大陸勢力向けに盾として設えられたものに過ぎず、本当の中枢は戦略的に近畿に移されていた。それを魏志倭人伝は女王国と呼んでいたとより精密な仮説をたてることができるからです。これがおそらくは正解でしょう。
魏志倭人伝は狗邪韓国以降の旅程においては文字通り一度も方位を正確に記述していません。対馬や壱岐の方角のズレの理由を説明しようとする詭弁を紹介していましたが、この詭弁では伊都国から奴国、不弥国へと至る陸上の旅程における更に大きな方角上のズレを説明できません。北東に75度ずれているからです。逆にこの75度のズレは近畿の女王国まで一貫しているのです。方角を修正して距離に忠実になれば近畿になります。これは事実です。が、距離を修正して方角に忠実になれば北九州になるは明確な虚言です。実際は、南九州や奄美大島になります。北九州説は距離も方角もどちらにも忠実ではありません。魏志倭人伝から当時の列島支配体制の中枢としての女王国だけを取り出した瞬間に魏志倭人伝を閉じ、魏志倭人伝とは全く無関係に遺跡調査にのみ頼るのが北九州説なのです。それでは近畿に移動して支配体制を縱深化する以前の女王国の所在地が分かるだけで、魏志倭人伝に書かれた女王国の所在地が分かるわけではないのですよ。
大陸の呂氏や陳氏は、列島勢力が大陸情勢コントロールのために送り込んで育てた氏族で、各王朝成立時に常に重要な役割を果たす様が大陸の史書を読めば多数確認できます。陳寿は列島勢力の意向を受けて女王国の所在地を記述する際に意図的に方角をずらしたのです。縱深化作戦を大陸政権中枢において支援したことになります。
詳しくは私のブログ「飛鷹満随想録」内の邪馬台国関連の記事群をお読みになってください。北九州説だけは絶対にありえないことが理解できるはずです。
コメントありがとうございます。
距離と方角と日程について色んな説があるのは存じておりますが、そもそも300年間続けられてきたことなので、ここであなたと私の議論で結論が導けるとは到底思えません。
紹介頂いたブログは、時間をみて拝見させていただこうと思います。
@@これはどうでしょう 三百年も解決しないのだから不可能などと思うなら、そもそも問題そのものにも取り組むべきではないし、ましてや局面局面で断定的な物言いをするのはやめたほうがいい。そのようなことは、この問題は解決可能であり、解決すべきであると信じているまともな学者に任せるべきです。
古田氏はまともな学者ではありません。九州説の人の共通の欠点は、学問的にやってはいけないことをまるで大学者であるかのような装いをもって無自覚に平気でやってしまうことです。数学が苦手な人が特に目立ちますね。
あなたの論説はその典型に感じられます。もっと大きな視野をもって精密に思考されることを望みます。
「色んな説があることは存じておりますが」と言っておられますが、恐らく小林恵子や落合莞爾は読んでおられないと思います。邪馬台国論争は彼らのような従来より遥かに広い視点から取り組まれるべきですよ。統計学になど頼ってはいけません。考古学も、仮説の否定に使うことに限定して用いるべきで、仮説の絶対的根拠にしたり、想像力を用いることそのものの否定に流れるきっかけにしないように心がけるべきです。歴史研究は考古学をごく一部含んだ、考古学を遥かに超えた営みのことです。言っていることが分かっていただけたらいいのですが。
あなたのおっしゃるように、より広い視野を持つことはとても大事だと思います。
ただ、お薦めのブログ「飛鷹満随想録」をさらっと拝見しましたが、
私は宗教者ではないので、「フォッサマグナを挟んだ二島が古墳時代以降に衝突して列島の角度が90度変わってしまった」等々にまで視野を広げる度量はありません。
また、落合莞爾氏などが主張されている内容も理解できる気がしません。
「是非、最近の考古学の成果も視野にお入れください。」
としか申し述べることはありません。
あっ、あと糸魚川にフォッサマグナミュージアムというのがあります。フォッサマグナについて勉強できます。
@@これはどうでしょう 本当の学者でない人の特徴は、少し高度な手法で論を展開すると論の本筋が見えずレトリックを本筋と勘違いしてしまう点にあります。列島移動論をレトリックとして使用することで九州説の欺瞞を暴き出すのが私の論の本筋なのに列島移動説を論の本筋と勘違いしたのでしょう。そもそも、ざっと読んでわかったと判断するクセも素人学者にはあります。この問題についての新機軸の論だと伝えられているのに、さっと読んだらわかるだろうというスタンスになるのは、そもそも、この問題において新しい解決策を可能だとも思っていないし、望んでもいない証拠です。要するに、論じている雰囲気が出て楽しめればそれでいいと本心では思っている証拠です。私の論に宗教学など全く関係ないのに宗教学者ではないからとは、私の論を全く読んでいない証拠です。あなたのような人はインターネット上ではよく目撃してきました。
列島移動論を真と断定できるはずがないでしょう。列島移動論をレトリックとして用い、北九州説を排除できれば、あとは畿内か奄美大島絞られるのです。邪馬台国の女王国は最初琉球にあり、奄美大島、南九州、北九州、近畿と移動したのです。この事実を熟知し、邪馬台国が江南の東にあった時の江南と邪馬台国との深い交流の歴史も熟知していた陳寿が、それを利用する形で奄美大島とも近畿とも取れるような曖昧な記述をあえて行うことで、倭国を中原王朝向きの面の顔とした大邪馬台国(大ヤマト国)の縱深化を中原王朝内部から援護したのです。分かりやすく言うと陳寿は中国人に化けて何世紀も過ごしてきたヤマト国人だったのですよ。こんなことは考古学では全くわからないことです。本当の文献学でないと分からない。考古学で分かるのはある仮説の不可能性だけです。考古学を絶対化すると歴史が滅びてしまいます。魏志倭人伝を閉じて考古学に頼り切る前に、中元や朝鮮半島、西域諸国の史書を系統的に読んでいく姿勢が必要です。小林恵子は、確かに多くの改善点があるけど、このようなスタンスを打ち出した点で紛れもない金字塔です。
@Tetsuhiro Hirakawa さん
詳しくお考えを述べて頂いておりますが、この動画は1年前のもので、コメントはほとんど誰の眼にも触れません。
(私にだけ通知は入ります)
折角なので、最新作の以下
ruclips.net/video/AVPxmiMXD4U/видео.html
とかに投稿頂ければ、ブログのお薦めも含めて周知できるのではと思います。
因みに、上記コメント、私には意味が分かりません。