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三島と全学連との動画は若い頃観て、全く理解できなかったのを覚えている♪今、59歳になって改めて観たけど、やっぱり俺には全く理解できない♪😅💦
どうやってもこの人と同じクオリティの理屈を持って否定を出来ないんだよね
楽な世代よ。ちょっと、呼び捨ては、失礼極まりない。
どんだけ三島好きやねん自分笑退屈とか言って途中退席した癖にw
あの退屈ってのは文字通りの意味じゃないぞ芥氏は国籍に縛られているある種の束縛を否定していた。つまり、国粋主義であることの限界を三島に説いた。しかし三島は日本人である以上その限界を受け入れていた。それは論理的なものではなく、三島の言うとこの意地だ。これ以上言葉をもってしても三島は変わらないし変われない。だから退屈(これ以上は意味がない)と言ったんだ。本当につまらないと思って出て行ったんじゃない。
喧嘩をしているときに診断はできない(このとき診断とはサーカズムとしての誹りにしかならない)診断をしているときに喧嘩はできない(このとき喧嘩とはアイロニーとしての論述にしかならない)多分芥が放棄したのはこのうちの喧嘩の方だと思う。意地で決まるような喧嘩は退屈だが(逆に言えば、それまでは喧嘩を試みていたようなところがある より正確に言えば、もしも喧嘩になったとしても、その腕っぷしいかんにかかわらず、その前提から考えればコチラの勝利だ、というような場(身もふたもない喧嘩をあくまでも自らの立地する地点で展開しようとするような場所)を作ろうとしていた しかし意地というのは喧嘩の大前提だから、それを向こうの前提として言われてしまうと、少なくとも喧嘩においての自らのコンテクストが意地と同等であるというように揺さぶりをかけられてしまう いわば自らの「喧嘩」という演劇において、芥は三島から、お前が何を演じようが知らんが、俺は俺の意地で「壇上」にいるのだというようなことを言われたと見ることができる これは壇上にいても壇上でない(事物そのものである)、ひいては喧嘩であっても喧嘩ではないことを主張しようとする芥にとって、あまりにも身も蓋もなく退屈だったと捉えられる 無論三島からすれば、それは単に転倒であったのだろうけれども)、その意地を診断するのはまた別口なんじゃないかな。
@@静寂を与える なるほど、あなたの返信でwikiに書いてたことの納得がいった!しかし、いくつか疑問があってまず、喧嘩をあくまで自らの〜ってのはどうだろう。この時三島は全共闘のやる活動は遍歴(個人)の寄る辺(三島にとっての天皇)がないから意味をなしてない、長く続かないって話したわけで、自らの立地ってよりもっと普遍の立地じゃないか?もう一つは意地を大前提として良いのか?あなたの回答は納得もあった回答だった、ありがとう
@@genkouyousi 前提として,上記の文章はあくまでも平板化した地点(「喧嘩両成敗」がしたいのでもなければ,客観的だとおごりたいのでもなく,とりあえずやり方として双方の存在論的階級あるいは世界への差し迫りの強調をとっぱらうということ)として書くのを試みていたということをここに記しておきます.そのうえで,一つ目についてですが,これはあの場で起きていたことが「喧嘩」だった(あるいはそれを予期した場だった),つまり「芥と三島という二人の人間のどちらが勝つかという場だった」という見方に基づいています.そのため「自らの立地ってよりもっと普遍の立地」で芥氏が話していたことは首肯します.そのうえで,少なくともあの場で起きていたのはふたりの人類の喧嘩だったのであり(その人類がどのような投影あるいは象徴であれ,少なくとも同様に傷をつければ同様に血を流すような存在として),三島はそこに差し迫ることを試みていたと私は考えています.そこに二つ目の問題がかかわってきますが,だからこそ三島はここで「意地」を持ち出したのだと私は捉えており,少なくともそのように捉えることは可能ではないかと考えます.というのも,喧嘩というのはいわば言論を越えた暴力ですから,そこには言説ではどうしようもない身も蓋もなさがある.しかしもちろん,その喧嘩がどのような尺度において勝敗が決められるのかというのは重要で(どれだけ傷ついたかということで喧嘩はその場の決着を迎えるが,勝敗では必ずしもない),そこに何らかの限度づけがなければそもそも言語の介在する余地がない.だが三島はそこを「意地」だといった.これは限度づけの放棄である,という放言のようにも捉えられて(そしてある意味ではそのようにしか論説の内部としては捉えようがないし),逆に言えば,己はそういう身も蓋もない地点から出立しているのだ,という宣言にもなっている.ですが,これを言ってしまうということは,つまりは喧嘩が何らかの死によって(それは言説の死でもあり得るわけですが)成り立ちかねないということでもあります(つまり勝敗がないのですから,それは生死という極限に「差し迫る」ことになる).これはかなり個人的な判断ですが,芥氏がこのインタビューの一連で「古臭いディオニュソス」と言っていたのはこの辺かもしれません.三島の評価は恐らくこのあたりで二分されてくるでしょう.その差し迫りを評価するか,その身も蓋もなさを批判するか.あるいはその逆になることもあるでしょう(差し迫りを批判,身も蓋もなさを評価).これはあくまでも私の感想として,三島にとっての天皇とは,自らのリアリティの裏付けとするアクチュアルなものとしての代補(あるいはアクチュアルな事態のリアリティによる包摂)だったのではないかと考えることがあります.しかし,リアリティがアクチュアルな危険に晒される(リアリティに敵が必要である)ということは,逆転して,リアリティそのものの存立を認めないということでもある.たしか,言語と肉体との不一致,という話が『太陽と鉄』なんかに出てきたかと思うんですが,多分このあたりなんじゃないかと臆見ですが思います.そうしてそれは恐らく事実的だが,必ずしも真実ではない.つまり,確かに人間のリアリティは人類のアクチュアリティに晒されているが,そのアクチュアリティが人間のリアリティに直結するかとなると留保が必要ですね(アクチュアリティは上記での「檀上」です).このあたりの距離感について,何らかの分析を加えることは有益でありうるのだろうとは思いつつ,あまり踏み込めてはいません.
@@静寂を与える やっと読み終わりました!丁寧な解説どうもありがとうございます。前半は私のあなたの返信の読み間違いでしたね。後半のあなたの「個人的な判断」のところ面白かったです。自分は現国はセンター試験で終わってる人間ですから、久々に面白い解釈を聞けました。センター試験では、いつの過去問だったか調べても出てこないのですが、名前と遍歴についての話があって、どうしてもそれにとらわれてしまうのです。だから、この喧嘩の薄っぺらな表面しか見えてこなかった…三島が意地を持ち出したのは私の思っていたところより重罪なものだったと感じております。
アインシュタイン力学?力学の基礎方程式をつくったのは、ニュートンとシュレーディンガーたけかと、、
書籍じゃないんだしいいじゃん
ご本人が仰るニュートン力学とアインシュタイン力学の違いが分からなかったので、説明できる方はお願いします
偏った思考だな
三島と全学連との動画は若い頃観て、全く理解できなかったのを覚えている♪
今、59歳になって改めて観たけど、やっぱり俺には全く理解できない♪😅💦
どうやってもこの人と同じクオリティの理屈を持って否定を出来ないんだよね
楽な世代よ。
ちょっと、呼び捨ては、
失礼極まりない。
どんだけ三島好きやねん自分笑
退屈とか言って途中退席した癖にw
あの退屈ってのは文字通りの意味じゃないぞ
芥氏は国籍に縛られているある種の束縛を否定していた。つまり、国粋主義であることの限界を三島に説いた。
しかし三島は日本人である以上その限界を受け入れていた。それは論理的なものではなく、三島の言うとこの意地だ。これ以上言葉をもってしても三島は変わらないし変われない。
だから退屈(これ以上は意味がない)と言ったんだ。
本当につまらないと思って出て行ったんじゃない。
喧嘩をしているときに診断はできない(このとき診断とはサーカズムとしての誹りにしかならない)
診断をしているときに喧嘩はできない(このとき喧嘩とはアイロニーとしての論述にしかならない)
多分芥が放棄したのはこのうちの喧嘩の方だと思う。意地で決まるような喧嘩は退屈だが(逆に言えば、それまでは喧嘩を試みていたようなところがある より正確に言えば、もしも喧嘩になったとしても、その腕っぷしいかんにかかわらず、その前提から考えればコチラの勝利だ、というような場(身もふたもない喧嘩をあくまでも自らの立地する地点で展開しようとするような場所)を作ろうとしていた しかし意地というのは喧嘩の大前提だから、それを向こうの前提として言われてしまうと、少なくとも喧嘩においての自らのコンテクストが意地と同等であるというように揺さぶりをかけられてしまう いわば自らの「喧嘩」という演劇において、芥は三島から、お前が何を演じようが知らんが、俺は俺の意地で「壇上」にいるのだというようなことを言われたと見ることができる これは壇上にいても壇上でない(事物そのものである)、ひいては喧嘩であっても喧嘩ではないことを主張しようとする芥にとって、あまりにも身も蓋もなく退屈だったと捉えられる 無論三島からすれば、それは単に転倒であったのだろうけれども)、その意地を診断するのはまた別口なんじゃないかな。
@@静寂を与える
なるほど、あなたの返信でwikiに書いてたことの納得がいった!
しかし、いくつか疑問があってまず、喧嘩をあくまで自らの〜ってのはどうだろう。この時三島は全共闘のやる活動は遍歴(個人)の寄る辺(三島にとっての天皇)がないから意味をなしてない、長く続かないって話したわけで、自らの立地ってよりもっと普遍の立地じゃないか?
もう一つは意地を大前提として良いのか?
あなたの回答は納得もあった回答だった、ありがとう
@@genkouyousi
前提として,上記の文章はあくまでも平板化した地点(「喧嘩両成敗」がしたいのでもなければ,客観的だとおごりたいのでもなく,とりあえずやり方として双方の存在論的階級あるいは世界への差し迫りの強調をとっぱらうということ)として書くのを試みていたということをここに記しておきます.
そのうえで,一つ目についてですが,これはあの場で起きていたことが「喧嘩」だった(あるいはそれを予期した場だった),つまり「芥と三島という二人の人間のどちらが勝つかという場だった」という見方に基づいています.そのため「自らの立地ってよりもっと普遍の立地」で芥氏が話していたことは首肯します.そのうえで,少なくともあの場で起きていたのはふたりの人類の喧嘩だったのであり(その人類がどのような投影あるいは象徴であれ,少なくとも同様に傷をつければ同様に血を流すような存在として),三島はそこに差し迫ることを試みていたと私は考えています.そこに二つ目の問題がかかわってきますが,だからこそ三島はここで「意地」を持ち出したのだと私は捉えており,少なくともそのように捉えることは可能ではないかと考えます.というのも,喧嘩というのはいわば言論を越えた暴力ですから,そこには言説ではどうしようもない身も蓋もなさがある.しかしもちろん,その喧嘩がどのような尺度において勝敗が決められるのかというのは重要で(どれだけ傷ついたかということで喧嘩はその場の決着を迎えるが,勝敗では必ずしもない),そこに何らかの限度づけがなければそもそも言語の介在する余地がない.だが三島はそこを「意地」だといった.これは限度づけの放棄である,という放言のようにも捉えられて(そしてある意味ではそのようにしか論説の内部としては捉えようがないし),逆に言えば,己はそういう身も蓋もない地点から出立しているのだ,という宣言にもなっている.ですが,これを言ってしまうということは,つまりは喧嘩が何らかの死によって(それは言説の死でもあり得るわけですが)成り立ちかねないということでもあります(つまり勝敗がないのですから,それは生死という極限に「差し迫る」ことになる).これはかなり個人的な判断ですが,芥氏がこのインタビューの一連で「古臭いディオニュソス」と言っていたのはこの辺かもしれません.三島の評価は恐らくこのあたりで二分されてくるでしょう.その差し迫りを評価するか,その身も蓋もなさを批判するか.あるいはその逆になることもあるでしょう(差し迫りを批判,身も蓋もなさを評価).これはあくまでも私の感想として,三島にとっての天皇とは,自らのリアリティの裏付けとするアクチュアルなものとしての代補(あるいはアクチュアルな事態のリアリティによる包摂)だったのではないかと考えることがあります.しかし,リアリティがアクチュアルな危険に晒される(リアリティに敵が必要である)ということは,逆転して,リアリティそのものの存立を認めないということでもある.たしか,言語と肉体との不一致,という話が『太陽と鉄』なんかに出てきたかと思うんですが,多分このあたりなんじゃないかと臆見ですが思います.そうしてそれは恐らく事実的だが,必ずしも真実ではない.つまり,確かに人間のリアリティは人類のアクチュアリティに晒されているが,そのアクチュアリティが人間のリアリティに直結するかとなると留保が必要ですね(アクチュアリティは上記での「檀上」です).このあたりの距離感について,何らかの分析を加えることは有益でありうるのだろうとは思いつつ,あまり踏み込めてはいません.
@@静寂を与える やっと読み終わりました!丁寧な解説どうもありがとうございます。
前半は私のあなたの返信の読み間違いでしたね。
後半のあなたの「個人的な判断」のところ面白かったです。
自分は現国はセンター試験で終わってる人間ですから、久々に面白い解釈を聞けました。
センター試験では、いつの過去問だったか調べても出てこないのですが、名前と遍歴についての話があって、どうしてもそれにとらわれてしまうのです。だから、この喧嘩の薄っぺらな表面しか見えてこなかった…
三島が意地を持ち出したのは私の思っていたところより重罪なものだったと感じております。
アインシュタイン力学?
力学の基礎方程式をつくったのは、ニュートンとシュレーディンガーたけかと、、
書籍じゃないんだしいいじゃん
ご本人が仰るニュートン力学とアインシュタイン力学の違いが分からなかったので、説明できる方はお願いします
偏った思考だな