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正雀工場内で保存されていますね。
西宮北口のダイアモンドクロスや「宝塚⇔今津」のサボなど貴重な写真をありがとうございます。子どもの頃乗りました。
『く』の字側構断面の1000・1100でしたっけ?が好きですね。
たしか9年前に900形と100型が連結された状態で、正雀構内を走行した記憶がありますね
こんばんわ❗️阪急900系はデイ100と並んで高速吊り掛けでしたね。170kwはそのころからの伝統みたい。その後3000系も170kwですから。遅いわけないですね。こちらではよろしければ西武101系の解説してますのでご覧ください。
0'45の写真は、神戸市電ではなく阪神北大阪線の31型電車…撮影場所は阪神野田駅ですね。
当時の宝塚線に移った900系を含む吊掛駆動の旧型車は、ラッシュ時などを中心に急行などの優等列車に用いられることが多かったです。なぜか?カルダン駆動の高性能車両は頻繁に高加減速ができる反面、旧型車両はどうしても太刀打ちできなかったためダイヤの足かせになり、そこで逆転の発想で一度スピードに乗ってしまえば頻繁に加減速しないでいい優等列車に充当したという話を聞いたことがありますね。
そういうのは 初期高性能車が出始めの頃の他私鉄(近鉄や小田急)でも例がありましたね。ふと 気になったのですがこの900形も『川造型』と呼んで良いものでしょうか?
@@toriri-service さま。個人的な意見ですが、600形は『川造型』オールスチールカーの代表とはいっても、設計の其処此処に木造車時代の設計を踏襲している部分が多くあるので、製品としてはまだまだ過渡期のもの。結果的にさしたる癖がないのでレディメードで多くの会社に売り込めて一大グループを作ったのでは、と思います。それを踏まえての900形のほうがデザイン的にも構造的にも、より完成された『川造型』と呼べるのではないかと思いますが、この車両で阪急イメージが確立してしまったので、『川造型』というより『阪急型』になってしまった、のかなとも思います。だからこれも一応『川造型』の仲間でしょうね。これが武蔵野鉄道デハ5566形や吉野鉄道モハ201形まで行ってしまうと、あれも『川造型』ではありますが、また別になってしまいますね。
ということは、900系の急行が3100系や5100系の普通を追い越すシーンが見られたということでしょうか。是非見てみたかったです。
@@gingaexpress6539 さま。ほかにも宝塚線では旧性能車どうしの810系と1200系の連結という新旧異型車体の凸凹編成というのも一時期走ってましたね。当然優等列車としても走ってましたよ。今津線では、600系を中間に挟んだ610系編成というのもありました。こちらは戦前戦後、3扉と2扉、車体長も異なる者同士の凸凹編成。
昭和40年代ともなると神戸線は神戸高速との直通で特急は高性能化された新型車にせざるを得ず、かついくら車両を作っても追い付かない状態だったからこそ駅間隔の長い神戸線の普通や宝塚線の急行に使われていたのでしょうね。900形が最後まで3つドアにされず、原型をとどめていたのも阪急の車両に対する美意識があったのかもしれませんね。嵐山線の6300でもその伝統が残っています。お隣の京阪では1800や1900の三ドア化の際に新設部だけ両開きという車両がありました。
阪急は三宮までの免許は取れたのだが、神戸市に高架での乗り入れを拒否され、阪神と同じように地下での乗り入れを要求されたため小林一三が激怒。そんなわけで三宮から大きく離れた仮駅で開業せざるを得なくなった。
造りが頑丈で 戦後になっても通用する性能だったからこそ ブレーキをアップデートしたり 昇圧改造しながら長年使われた訳ですね。
戦前のATSが無い時代、900系(920系?)が回復運転で当時65km制限だった御影のS字カーブをフルスピードで通過し、激しい揺れで山側座席に座っていた老人が海側座席に吹っ飛んだなんて言う伝説もありますね。
阪神急行900と新京阪デイ100、戦前の阪急の2大名車だ。両方とも戦前の美しい姿に復元されて大切に保存されているのは、非常に喜ばしい。でもこれらの勇姿は限られた時にしかご開帳されないなんて、非常に勿体無い。阪急はほかにも草創期の車両など何両も保存車両を有している。これらと、宝塚にあったでんしゃ館の資料なども集めて、通年一般公開する形の、阪急ミュージアムなる施設を是非とも作って欲しい。
往年の名車を保存しているだけでも素晴らしいと思いますよ。名車を保存しないと決めている会社もあるわけで。
近年は関東の大手私鉄のほうが保存に積極的ですね。京急や小田急がミュージアムを作っています。私鉄王国と言われた関西ですが、日本一の路線網をもつ近鉄では初代、二代目ビスタカーすら保存されなかったのが残念です。1形、900形、6300やさまざまな場面で使われた方向板を展示した阪急ミュージアムが出来れば人気はありそうですね。
できれは、1両だけでなく編成単位かユニット単位で、少なくとも自力走行できるようにして残してほしい。走れないものは単なる置物だから。でも維持もそうだけど税金面でも大変そうですが。
@@TSUYOS185 さま。近鉄は歴史的車両で残すはずのものだったのが、阿部野の焼肉屋さんの看板になってしまった苦い経験がありますからね。
新京阪デイ100はカーブだらけの低規格の本線で速達性に悩んだ京阪が、速達性の改善のために開発した車両。京都方面は昨今のビジネススタイル含め、なんでも京阪からパクらんといて。
阪急900 新京阪P6 参急2200阪和モヨは戦前の関西を代表するビッグ4やな900とP6が同じ会社になって同じ車庫で保存されるってお互い全く予想してなかったやろけど
3:45セリフがフリーザ様😂
よくぞ気づいてくださいました笑
大阪万博の前後、900・920・800の混成7両編成で、神戸線の普通に運用されていた頃によく乗りました。1500V昇圧で本来の170kWを発揮できるようになったうえ、HSC(電磁直通)ブレーキに改修されたことで、回生ブレーキを外された初代2000系と同等以上の加減速性能になっていましたから、各駅に停まりつつも軽く100km/h出し、3000系や5000系に伍して快走していました。復元保存された900号にも乗りましたよ。当時は中間車化されていたので、運転台跡に立つのが楽しみでした。小学校低学年の頃、懐かしい思い出です。
この車両は腰が高くて乗り降りするのに非常に苦労した覚えがありますよ。なかには戸袋窓あたりの座席1〜2人分が撤去されていた車両もありましたね。イベントで送別列車に乗りましたよ。西宮北口から十三の引き上げ線で折り返しでしたが、3両編成で神戸線を快走。
P-6キラーの5300系よりも性能は上なんですかね?5300系はP-6以上の性能を有し、あの当時の阪急最速車両とお聞きしておりますが。
17mかつ軽量設計だった900系・920系の構体重量は25t強で、初代2000系以降の(5300を含む)19m標準車体(24~25t)とほぼ同じでしたから、加減速は吊掛とは思えない軽やかなものでした。5300系とは三複線でのんびり並走する期間はあったはずですが、全力でもいい勝負ができたかもしれませんね。一方、P-6の構体重量は(全鋼と半鋼で差があるものの)35t強でしたから、加減速時に7連で70tのハンデは厳しかったでしょうね。トップスピードが出てしまえば惰行が効いて、再力行は少なくて済みますから、京都本線の急行運用には向いていたでしょうが・・・。
まさに今に続く阪急の歴史に名を残す名車のひとつですね。今の車両スタイルはこの車両で確立したと言っても過言ではありません。半世紀にわたる活躍で日々の生活をこの電車で行き来された方も多いことと思います。次は相鉄の6000系があるといいですね。他私鉄のような華やかな優等列車ではありませんが、高度成長期に年々爆発的に増大する乗客に対応するために中小私鉄では珍しい20m、4つドアの新造車両でした。まさに今の相鉄スタイルを作り上げた名車です。
実は、920形増備途中で、運転台側に広幅貫通路を備え、側面を二段窓に変更した車両が一時期計画されていたことがあります。もうしそうなっていたら、いまの阪急の車両はかなり違ったものになったでしょうね。
先生!1976年の登場車は スタイリッシュな6000系?ではないですよね?拙者は関東なのですが2000系譲りの車両は6300系付近ですが、先輩 詳細を 教えて下さい。
神戸線建設時に船場の旦那衆(当時の大物財界人)が岡本で、てんご(関西地方の方言:いじわるする)して路線を蛇のような速度制限のかかる連続急カーブにしてなかったら、もう少しスピードアップできていたかもしれませんね
いじわるなら 「いけず」 ですね てんご は いたずらです
@@ちゃマフェリシタル さま。自分の地域では、ちょっかいを掛けるという意味でも使ってましたよ。言葉の意味に関しては同じ地域でも場所によって多少違いがあると思います。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN 言葉は難しいですね 失礼しました
@@ちゃマフェリシタル さま。おしゃられていることが間違いというわけではないんですよ。ただ思わぬところで別の意味に使われている言葉も多くあるわけでして、世間一般に言われてることが必ずしも正解というものでもないのが現実なんですよ。ほんとうに難しい話ですよね。
まあ有り得ないですけど、上筒井線が山陽新幹線開業まで残ってたとしたら、阪急は当然、新神戸まで通してたのではないか知らんけどw
レトロでかっかいいな!カラーリングは今と変わらないのね。
年代で微妙に色目は変わっているんですよ。だから昔の車両と今の車両はちょっと印象が違う。細かい話だけども。
そういえば、あの「火垂るの墓」のアニメにも、この車両らしき電車がでてきてましたね。
感動
900形車両を阪急正雀工場に保存している事が、阪急の900形車両に対する評価と誇りの表れですね。
できれば救援車だった4203号か野上電鉄モハ23号を保存できていれば、走行できる1形車両が残せたと思うんですけどね。
戦前は阪和電鉄と並ぶ俊足で、遅延時には速度超過も厭わず、そのスピードは時に時速120キロ~130キロに達したという。
速度計付いて無いですから、当時の運転手さんはレールのジョイント音(レールの長さは決まっているので音の間隔で速度が想像できる)と周りの風景の見え方で速度を判断していたので、正確にはわかっていなかった様子。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN そうなんです。阪和電鉄の電車もそうですが戦前の電車は速度計が無かったんですね。ブレーキの圧力計は着いていたそうですが。
@@大阪太郎-d6l さま。いやぁ、実際問題走らないより止まれないほうが大変ですからね😱
中学3年間、通学でよく乗りました。高速域での巡行性能と振動は3000系よりも良かったと記憶しております。神戸線の昇圧は1967年ですね(宝塚線が1969年)。
5000系や5300系に慣れたせいで、速さを感じられないのですが、P-6キラーの5300系よりも性能は900形の方が上なのですか?
火垂るの墓のOPの幽霊電車ですね。
いいね☆
阪神と争っているように感じるけど,親会社同じなのに争うことあるのかな…
親会社が一緒になったのは21世紀に入ってからです。阪神淡路大震災の前まではガチでバトルを繰り広げていました。900形の時代の六甲山関係では阪神側がケーブルを作れば阪急はバスが通れる道路を作っていたほど。戦後でも六甲山の案内図ではライバル会社の交通網は記載されない時代もありました。
ことの発端は神戸線敷設のもとになった灘循環鉄道の建設許可まで遡ります。
@@TSUYOS185 そうなんですね!ありがとうございます!!
正雀工場内で保存されていますね。
西宮北口のダイアモンドクロスや「宝塚⇔今津」のサボなど貴重な写真をありがとうございます。
子どもの頃乗りました。
『く』の字側構断面の1000・1100でしたっけ?が好きですね。
たしか9年前に900形と100型が連結された状態で、正雀構内を走行した記憶がありますね
こんばんわ❗️阪急900系はデイ100と並んで高速吊り掛けでしたね。170kwはそのころからの伝統みたい。その後3000系も170kwですから。遅いわけないですね。こちらではよろしければ西武101系の解説してますのでご覧ください。
0'45の写真は、神戸市電ではなく阪神北大阪線の31型電車…撮影場所は阪神野田駅ですね。
当時の宝塚線に移った900系を含む吊掛駆動の旧型車は、ラッシュ時などを中心に急行などの優等列車に用いられることが多かったです。なぜか?
カルダン駆動の高性能車両は頻繁に高加減速ができる反面、旧型車両はどうしても太刀打ちできなかったためダイヤの足かせになり、そこで逆転の発想で一度スピードに乗ってしまえば頻繁に加減速しないでいい優等列車に充当したという話を聞いたことがありますね。
そういうのは 初期高性能車が出始めの頃の他私鉄(近鉄や小田急)でも例がありましたね。
ふと 気になったのですがこの900形も『川造型』と呼んで良いものでしょうか?
@@toriri-service さま。個人的な意見ですが、600形は『川造型』オールスチールカーの代表とはいっても、設計の其処此処に木造車時代の設計を踏襲している部分が多くあるので、製品としてはまだまだ過渡期のもの。結果的にさしたる癖がないのでレディメードで多くの会社に売り込めて一大グループを作ったのでは、と思います。
それを踏まえての900形のほうがデザイン的にも構造的にも、より完成された『川造型』と呼べるのではないかと思いますが、この車両で阪急イメージが確立してしまったので、『川造型』というより『阪急型』になってしまった、のかなとも思います。だからこれも一応『川造型』の仲間でしょうね。
これが武蔵野鉄道デハ5566形や吉野鉄道モハ201形まで行ってしまうと、あれも『川造型』ではありますが、また別になってしまいますね。
ということは、900系の急行が3100系や5100系の普通を追い越すシーンが見られたということでしょうか。是非見てみたかったです。
@@gingaexpress6539 さま。ほかにも宝塚線では旧性能車どうしの810系と1200系の連結という新旧異型車体の凸凹編成というのも一時期走ってましたね。当然優等列車としても走ってましたよ。
今津線では、600系を中間に挟んだ610系編成というのもありました。こちらは戦前戦後、3扉と2扉、車体長も異なる者同士の凸凹編成。
昭和40年代ともなると神戸線は神戸高速との直通で特急は高性能化された新型車にせざるを得ず、かついくら車両を作っても追い付かない状態だったからこそ駅間隔の長い神戸線の普通や宝塚線の急行に使われていたのでしょうね。
900形が最後まで3つドアにされず、原型をとどめていたのも阪急の車両に対する美意識があったのかもしれませんね。嵐山線の6300でもその伝統が残っています。
お隣の京阪では1800や1900の三ドア化の際に新設部だけ両開きという車両がありました。
阪急は三宮までの免許は取れたのだが、神戸市に高架での乗り入れを拒否され、阪神と同じように地下での乗り入れを要求されたため小林一三が激怒。そんなわけで三宮から大きく離れた仮駅で開業せざるを得なくなった。
造りが頑丈で 戦後になっても通用する性能だったからこそ ブレーキをアップデートしたり 昇圧改造しながら長年使われた訳ですね。
戦前のATSが無い時代、900系(920系?)が回復運転で当時65km制限だった御影のS字カーブをフルスピードで通過し、激しい揺れで山側座席に座っていた老人が海側座席に吹っ飛んだなんて言う伝説もありますね。
阪神急行900と新京阪デイ100、戦前の阪急の2大名車だ。両方とも戦前の美しい姿に復元されて大切に保存されているのは、非常に喜ばしい。でもこれらの勇姿は限られた時にしかご開帳されないなんて、非常に勿体無い。阪急はほかにも草創期の車両など何両も保存車両を有している。これらと、宝塚にあったでんしゃ館の資料なども集めて、通年一般公開する形の、阪急ミュージアムなる施設を是非とも作って欲しい。
往年の名車を保存しているだけでも素晴らしいと思いますよ。
名車を保存しないと決めている会社もあるわけで。
近年は関東の大手私鉄のほうが保存に積極的ですね。京急や小田急がミュージアムを作っています。
私鉄王国と言われた関西ですが、日本一の路線網をもつ近鉄では初代、二代目ビスタカーすら保存されなかったのが残念です。
1形、900形、6300やさまざまな場面で使われた方向板を展示した阪急ミュージアムが出来れば人気はありそうですね。
できれは、1両だけでなく編成単位かユニット単位で、少なくとも自力走行できるようにして残してほしい。走れないものは単なる置物だから。でも維持もそうだけど税金面でも大変そうですが。
@@TSUYOS185 さま。近鉄は歴史的車両で残すはずのものだったのが、阿部野の焼肉屋さんの看板になってしまった苦い経験がありますからね。
新京阪デイ100はカーブだらけの低規格の本線で速達性に悩んだ京阪が、速達性の改善のために開発した車両。京都方面は昨今のビジネススタイル含め、なんでも京阪からパクらんといて。
阪急900 新京阪P6 参急2200
阪和モヨは戦前の関西を代表する
ビッグ4やな
900とP6が同じ会社になって
同じ車庫で保存されるって
お互い全く予想してなかったやろけど
3:45セリフがフリーザ様😂
よくぞ気づいてくださいました笑
大阪万博の前後、900・920・800の混成7両編成で、神戸線の普通に運用されていた頃によく乗りました。
1500V昇圧で本来の170kWを発揮できるようになったうえ、HSC(電磁直通)ブレーキに改修されたことで、回生ブレーキを外された初代2000系と同等以上の加減速性能になっていましたから、各駅に停まりつつも軽く100km/h出し、3000系や5000系に伍して快走していました。
復元保存された900号にも乗りましたよ。当時は中間車化されていたので、運転台跡に立つのが楽しみでした。小学校低学年の頃、懐かしい思い出です。
この車両は腰が高くて乗り降りするのに非常に苦労した覚えがありますよ。なかには戸袋窓あたりの座席1〜2人分が撤去されていた車両もありましたね。
イベントで送別列車に乗りましたよ。西宮北口から十三の引き上げ線で折り返しでしたが、3両編成で神戸線を快走。
P-6キラーの5300系よりも性能は上なんですかね?5300系はP-6以上の性能を有し、あの当時の阪急最速車両とお聞きしておりますが。
17mかつ軽量設計だった900系・920系の構体重量は25t強で、初代2000系以降の(5300を含む)19m標準車体(24~25t)とほぼ同じでしたから、加減速は吊掛とは思えない軽やかなものでした。5300系とは三複線でのんびり並走する期間はあったはずですが、全力でもいい勝負ができたかもしれませんね。
一方、P-6の構体重量は(全鋼と半鋼で差があるものの)35t強でしたから、加減速時に7連で70tのハンデは厳しかったでしょうね。トップスピードが出てしまえば惰行が効いて、再力行は少なくて済みますから、京都本線の急行運用には向いていたでしょうが・・・。
まさに今に続く阪急の歴史に名を残す名車のひとつですね。今の車両スタイルはこの車両で確立したと言っても過言ではありません。
半世紀にわたる活躍で日々の生活をこの電車で行き来された方も多いことと思います。
次は相鉄の6000系があるといいですね。他私鉄のような華やかな優等列車ではありませんが、高度成長期に年々爆発的に増大する乗客に対応するために中小私鉄では珍しい20m、4つドアの新造車両でした。まさに今の相鉄スタイルを作り上げた名車です。
実は、920形増備途中で、運転台側に広幅貫通路を備え、側面を二段窓に変更した車両が一時期計画されていたことがあります。
もうしそうなっていたら、いまの阪急の車両はかなり違ったものになったでしょうね。
先生!1976年の登場車は スタイリッシュな6000系?ではないですよね?拙者は関東なのですが2000系譲りの車両は6300系付近ですが、先輩 詳細を 教えて下さい。
神戸線建設時に船場の旦那衆(当時の大物財界人)が岡本で、てんご(関西地方の方言:いじわるする)して路線を蛇のような速度制限のかかる連続急カーブにしてなかったら、もう少しスピードアップできていたかもしれませんね
いじわるなら 「いけず」 ですね てんご は いたずらです
@@ちゃマフェリシタル さま。自分の地域では、ちょっかいを掛けるという意味でも使ってましたよ。言葉の意味に関しては同じ地域でも場所によって多少違いがあると思います。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN 言葉は難しいですね 失礼しました
@@ちゃマフェリシタル さま。おしゃられていることが間違いというわけではないんですよ。ただ思わぬところで別の意味に使われている言葉も多くあるわけでして、世間一般に言われてることが必ずしも正解というものでもないのが現実なんですよ。ほんとうに難しい話ですよね。
まあ有り得ないですけど、上筒井線が山陽新幹線開業まで残ってたとしたら、阪急は当然、新神戸まで通してたのではないか知らんけどw
レトロでかっかいいな!カラーリングは今と変わらないのね。
年代で微妙に色目は変わっているんですよ。だから昔の車両と今の車両はちょっと印象が違う。細かい話だけども。
そういえば、あの「火垂るの墓」のアニメにも、この車両らしき電車がでてきてましたね。
感動
900形車両を阪急正雀工場に保存している事が、阪急の900形車両に対する評価と誇りの表れですね。
できれば救援車だった4203号か野上電鉄モハ23号を保存できていれば、走行できる1形車両が残せたと思うんですけどね。
戦前は阪和電鉄と並ぶ俊足で、遅延時には速度超過も厭わず、そのスピードは時に時速120キロ~130キロに達したという。
速度計付いて無いですから、当時の運転手さんはレールのジョイント音(レールの長さは決まっているので音の間隔で速度が想像できる)と周りの風景の見え方で速度を判断していたので、正確にはわかっていなかった様子。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN そうなんです。阪和電鉄の電車もそうですが戦前の電車は速度計が無かったんですね。ブレーキの圧力計は着いていたそうですが。
@@大阪太郎-d6l さま。いやぁ、実際問題走らないより止まれないほうが大変ですからね😱
中学3年間、通学でよく乗りました。
高速域での巡行性能と振動は3000系よりも良かったと記憶しております。
神戸線の昇圧は1967年ですね(宝塚線が1969年)。
5000系や5300系に慣れたせいで、速さを感じられないのですが、P-6キラーの5300系よりも性能は900形の方が上なのですか?
火垂るの墓のOPの幽霊電車ですね。
いいね☆
阪神と争っているように感じるけど,
親会社同じなのに争うことあるのかな…
親会社が一緒になったのは21世紀に入ってからです。阪神淡路大震災の前まではガチでバトルを繰り広げていました。
900形の時代の六甲山関係では阪神側がケーブルを作れば阪急はバスが通れる道路を作っていたほど。
戦後でも六甲山の案内図ではライバル会社の交通網は記載されない時代もありました。
ことの発端は神戸線敷設のもとになった灘循環鉄道の建設許可まで遡ります。
@@TSUYOS185 そうなんですね!
ありがとうございます!!