関ヶ原古戦場史跡紹介11 毛利秀元陣跡
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- Опубликовано: 11 фев 2025
- 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦い当日、西軍に属しながら全く兵を動かさなかった毛利秀元の陣跡をご案内いたします。その場所が南宮山です。
毛利秀元は、毛利元就の4男 穂井田元清の子です。毛利輝元に子どもが最初いなかったため、秀元の養子として迎えられましたが、その後、実子 秀就が生まれたため、養子関係は解消され、別家をたてられました。文禄・慶長の役では輝元に代わって毛利軍を率いて戦っています。関ヶ原の戦いのときも、輝元の名代として毛利軍1万5000を率いて南宮山に陣を構えたのです。
南宮大社からハイキングコースを歩くこと約60分で展望台に到着します。
毛利秀元陣跡に立つと、関ヶ原の方向は望めず、大垣方向に開けていることがわかります。秀元は関ヶ原での戦闘は想定せず、大垣城での戦いを想定していたとみられるのです。
なお、令和3年12月14日(火)~28日(火)は、メンテナンスのため、2F展示室が閉鎖となります。
その間、入場無料・特別プログラム「学ぼう! 知ろう! 関ケ原の戦い」として、関ヶ原の戦いを楽しく学習する様々な体験イベントが開催されます。
・「オラたちの関ケ原~天下分け目の合戦vs.農民~」をシアター上映
・MR機器を使った史跡案内
・クイズラリーやスタンプラリー参加者にプレゼント進呈
・家紋マグネット、年賀状、絵馬づくりなどのワークショップ
・武将隊によるおもてなし など
この期間は事前予約の必要はありません。
別館ご利用者には、年間パスポートのご提示でプレゼント!
詳細は、公式HP( sekigahara.pre... )に順次公開されますので、ご覧ください。
#岐阜関ケ原古戦場記念館
#毛利秀元
#南宮山
先生、足腰がお強いですね、お疲れ様でした。今回も勉強させて頂きありがとうございました。
山口市の亀山に、長山城をが作りかけた毛利輝元
確かに山の頂上からの景色も、広々としていて、綺麗だね!小和田先生の清々しい気持ちが、分かる気がする。
南宮山、南宮山、と「関ヶ原」関係で脳裏にしみついている場所でしたが、本物の「南宮山」を初めて見ました。先生、紹介ありがとうございます。山頂辺が実際に曲輪にしつらえられていて「山城」になっていたのには、感動しました。
先生大変良く解りました。勉強になりました。これからも、宜しくお願い致します!。😊
先生 健脚❗
南宮山がこの様な所という事を、初めて知りました。とても貴重な映像をありがとうございます。歴史好きの者にとってワクワクは止まりません。楽しいです。
先生❣️大変な登山をされて山城南宮山へのご案内有り難うございます🙇♀️
現地で南宮山まで行けなかったので、位置関係が良く分かり勉強になりました。
毛利秀元は
戦闘に加わらず動かなかったのもわかる様な気がして、大垣城への備えになっていたのですね❗️それにしても山城、陣城で驚きました。
ありがとうございました。
是非是非に行きたいです~行く予定です♪😅😊
いい動画です、忘れてしまっていた眺望の記憶がよみがえりました。夕日に登ったから、土塁・虎口の表示は見えなかった、日が落ち暗闇を下山した。竪堀とあるのは横堀ぐらいじゃないですか。土塁とあるのは自然の土の盛り上がりぐらいじゃないですか。2022年3月16日。
自分がハイキングコースを登っているみたいで楽しい。ホイダなんて名前、初めて聞いた!面白い名前!!
小早川隆景や吉川元春がもう少し生きていれば歴史は変わっていたかもしれない。毛利軍一万人以上の兵が動かなかったのは関ヶ原の勝敗の分け目でしたね😢。歴史っておもしろいですね!先生!
東軍の裏切り「殊勲甲」は、小早川秀秋よりも吉川広家かも知れないね。此奴のせいで南宮山の西軍がほとんど役に立たなかったのは大きい。しかも南宮山一帯の西軍諸将は、戦後多くが酷い目に遭っている。そりゃ家康にしてみたら、広家に防長二か国くれてやる価値は十分あっただろうけど、貰ってたら只では済まなかったな
毛利の地元民だけど、なぜ動かなかったのか怒り狂うよ!
毛利さんの家には色々と、小早川の事とかがなぜそうしたのかが伝え残っていると徳山毛利家の現当主様が仰ってましたよ。
ただ、吉川のひろちゃんは元就の正妻の直径の孫。秀元は元就の継室(側室ではない)の孫。なので秀元はなかなか動いてくれない正妻の直径の孫のひろちゃんに遠慮があって進軍しろよ!おい!とはなかなか言えなかったんじゃないかと勝手に思っています。ひろちゃんが進軍しないと背後の秀元は進軍出来ませんからね。
@@るな-o9q 様
伝令は出していたんですよね?