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分かりやすく穏やかな解説ありがとうございます😊最後の曲悲壮の選曲も良いです😊
関ヶ原古戦場は歴史好きの私に取って聖地です。まだ行ってないので絶対行きます。小和田先生の解説は、とてもわかりやすく為になります。先生の声も素敵です。😊
みっちゃん、、、どうしても勝たせてあげたかったよ、、、てるりんへの催促の書状が徳川方へと渡ったのかもしれないと言うのは、元就はんの時代から毛利さんちの事を知れば知るほどあり得る事ですね。
新説によりますと従来の定説とかなり異なり、小早川裏切りを既に知った石田側は笹尾山でなく松尾山近くの自害峰に布陣したようですね。その新説についても先生の御意見をお聞きしたいです。
お疲れ様でした。
関ヶ原の時点では家康は実権はにぎっていたものの、表向きはあくまで秀吉の遺言にしたがい秀頼を補佐し、自身が天下を握るとは言っていないのでは?敵対勢力が通りを外し自滅していったように思います。
石田三成は全体を見渡せる場所にいただけに自分の思い通りに戦局が進まず、歯がゆかったでしょうね。息を切らせての解説、どうもありがとうございました。
お疲れ様です
大谷吉継は、山中丘城に陣した。山中丘城と、松尾山山城の間に山があり、小早川を2回退けたらしいから、ここにも陣してたんだろう、2重に陣してた。
三成の考えは天下一品
木下秀次を潰したのは阿呆だった。
先生のご説明で笹尾山の石田三成陣跡から見る布陣した武将達の山々が理解出来ます。名だたる武将達が東西に別れ、様々な戦いのドラマがあったのですね!6歳の秀頼を支えた西軍!秀忠の到着を待ち続けた家康!陣地を動かなかった毛利、吉川。松尾山から急に寝返った小早川。最後に伊勢街道を退却した島津軍など、やはり関ヶ原古戦場は合戦の醍醐味です。
何故毛利は出て来なかったんだろう?手紙が着いたとして。
ポンコツ輝元口惜しや~💧
石田三成が笹尾山でなく不破関に通じる東山道沿いに陣取っていたら、敗戦が濃厚となった後も、ある程度の兵力を持ったまま本拠地の佐和山城に撤退して、籠城戦による第二ラウンドの戦いを挑めた可能性などはあるのでしょうか?
小和田先生はいつも薄着ですが大丈夫ですか⁉︎強風の中、息を切らしてのご説明感謝申し上げます。岐阜関ヶ原古戦場記念館、いつかきっと行きます‼︎それまでもっと勉強しておきます!
私も去年行きました!笹尾山は関ヶ原全体が見渡せることにびっくりしました!けっこう階段がキツかったです!小和田先生お若い!
小和田哲男先生すごい体力ですね
@@shinobi629 ここを登るには相当体力要りますよ!私は夏場登ったのですが、息切れが酷かったです!
@@山田山田男-r9o 夏場wお疲れ様です!
@@shinobi629 因みに2回登りまして、1回目はノーマル、二回目は甲冑を着て登りました!(笑)
@@山田山田男-r9o 甲冑!なんですか?
輝元の戦いに関する見方、領土欲が秀頼の出陣に待ったかけたのではと疑問、淀殿は許可しない可能性もある。石田の思惑も良く解る黒田、細川は徳川方ですけど福島は動揺するでしょまあ石田、小西、大谷、宇喜多を合わせても徳川へは自力で勝てませんし毛利に頼る他力戦故に負けたのかなと・・幽斎が籠る田辺城に人員、時間割いたのも下策かな。前田等に各個に圧力かけて様々な策で既に徳川に切り崩されていたのも事実ですしその前に秀吉の領土配分、唐入り秀次を追い込んだ行為、秀長死後の処遇、対処自体が原因ですね。
先に戦場に到着した西軍が、難所に依らないでほぼ平地に陣を敷いて、東軍に大軍の展開を許すなど、あり得ないと思います。賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いのように、敵の機動を封じ込めるのが通常ではないでしょうか?
小山に陣してた。
笹尾山の石田三成陣跡、私も行きました。御存じかと思いますが、笹尾山の山麓にある、笹尾山交流館 関ケ原観光協会で、プレミアム甲冑 東軍(徳川家康、本多忠勝、井伊直政)、西軍(石田三成、大谷吉継、島左近)をレンタル(有料)して、その甲冑を着用して、陣地を散策できます(着付けもやっていただけます)!!小和田哲男先生も、次回は、石田三成のプレミアム甲冑を着用されてみては、いかがでしょうか!!
この階段マジきつかった。降りる時すれ違った婆ちゃんがヒィヒィ言ってました!先生お疲れ様でした。
先生お疲れ様ございましたm(__)m
先生に質問。なぜ加藤清正、福島正則は徳川側に付いたのか?結局二人とも潰されている。家康の行動から見ても天下狙っているのは、私でも解る。光成が先が見えなくなるほど嫌いだったのか?理解出来ません。
0:35五大老同士(毛利vs徳川)の戦なら、主君秀頼の所領に変化はないはずですが、実際は大老家康により豊臣家の所領は220万石→65万石(1/3)に減らされたので、実質的に豊臣徳川の戦いと言っても、あながち間違いでもないのかもしれません。
小早川はkz
ボンクラ輝元はダメだな👎
息切れしてるじゃないですか。無理しないで下さいね。
いつの世も、名ばかりの味方はいるもので、毛利、吉川、小早川は共和党のミッチー・マコーネルのようなものか。
当たり前だけど小早川の裏切りは痛い…
松尾山には登れなかったんですが、ここに小早川、毛利勢がって思うほどの山です!
@@山田山田男-r9o 松尾山城いいですよね!
石田三成が木下秀次を潰したから、関が原合戦になり、大阪の陣で木下は滅んだ。
ここからは発掘による陣址を証明するものは何も出ていないと聞きます。もっと柔軟に説明してほしいものです。
分かりやすく穏やかな解説ありがとうございます😊最後の曲悲壮の選曲も良いです😊
関ヶ原古戦場は歴史好きの私に取って聖地です。まだ行ってないので絶対行きます。小和田先生の解説は、とてもわかりやすく為になります。先生の声も素敵です。😊
みっちゃん、、、
どうしても勝たせてあげたかったよ、、、
てるりんへの催促の書状が徳川方へと渡ったのかもしれないと言うのは、元就はんの時代から毛利さんちの事を知れば知るほどあり得る事ですね。
新説によりますと従来の定説とかなり異なり、小早川裏切りを既に知った石田側は笹尾山でなく松尾山近くの自害峰に布陣したようですね。
その新説についても先生の御意見をお聞きしたいです。
お疲れ様でした。
関ヶ原の時点では家康は実権はにぎっていたものの、表向きはあくまで秀吉の遺言にしたがい秀頼を補佐し、自身が天下を握るとは言っていないのでは?敵対勢力が通りを外し自滅していったように思います。
石田三成は全体を見渡せる場所にいただけに自分の思い通りに戦局が進まず、歯がゆかったでしょうね。
息を切らせての解説、どうもありがとうございました。
お疲れ様です
大谷吉継は、山中丘城に陣した。山中丘城と、松尾山山城の間に山があり、小早川を2回退けたらしいから、ここにも陣してたんだろう、2重に陣してた。
三成の考えは天下一品
木下秀次を潰したのは阿呆だった。
先生のご説明で笹尾山の石田三成陣跡から見る布陣した武将達の山々が理解出来ます。
名だたる武将達が東西に別れ、様々な戦いのドラマがあったのですね!
6歳の秀頼を支えた西軍!
秀忠の到着を待ち続けた家康!
陣地を動かなかった毛利、吉川。松尾山から急に寝返った小早川。最後に伊勢街道を退却した島津軍など、やはり関ヶ原古戦場は合戦の醍醐味です。
何故毛利は出て来なかったんだろう?手紙が着いたとして。
ポンコツ輝元口惜しや~💧
石田三成が笹尾山でなく不破関に通じる東山道沿いに陣取っていたら、
敗戦が濃厚となった後も、
ある程度の兵力を持ったまま本拠地の佐和山城に撤退して、
籠城戦による第二ラウンドの戦いを挑めた可能性などはあるのでしょうか?
小和田先生はいつも薄着ですが大丈夫ですか⁉︎強風の中、息を切らしてのご説明感謝申し上げます。
岐阜関ヶ原古戦場記念館、いつかきっと行きます‼︎それまでもっと勉強しておきます!
私も去年行きました!笹尾山は関ヶ原全体が見渡せることにびっくりしました!けっこう階段がキツかったです!小和田先生お若い!
小和田哲男先生すごい体力ですね
@@shinobi629 ここを登るには相当体力要りますよ!私は夏場登ったのですが、息切れが酷かったです!
@@山田山田男-r9o 夏場w
お疲れ様です!
@@shinobi629 因みに2回登りまして、1回目はノーマル、二回目は甲冑を着て登りました!(笑)
@@山田山田男-r9o 甲冑!
なんですか?
輝元の戦いに関する見方、領土欲が
秀頼の出陣に待ったかけたのではと疑問、淀殿は許可しない可能性もある。石田の思惑も良く解る
黒田、細川は徳川方ですけど
福島は動揺するでしょ
まあ石田、小西、大谷、宇喜多を
合わせても徳川へは自力で
勝てませんし毛利に頼る他力戦故に負けたのかなと・・幽斎が籠る田辺城に人員、時間割いたのも下策かな。
前田等に各個に圧力かけて様々な
策で既に徳川に切り崩されていたのも事実ですしその前に秀吉の領土配分、唐入り秀次を追い込んだ行為、秀長死後の処遇、対処自体が原因ですね。
先に戦場に到着した西軍が、難所に依らないでほぼ平地に陣を敷いて、東軍に大軍の展開を許すなど、あり得ないと思います。
賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いのように、敵の機動を封じ込めるのが通常ではないでしょうか?
小山に陣してた。
笹尾山の石田三成陣跡、私も行きました。御存じかと思いますが、笹尾山の山麓にある、笹尾山交流館 関ケ原観光協会で、プレミアム甲冑 東軍(徳川家康、本多忠勝、井伊直政)、西軍(石田三成、大谷吉継、島左近)をレンタル(有料)して、その甲冑を着用して、陣地を散策できます(着付けもやっていただけます)!!小和田哲男先生も、次回は、石田三成のプレミアム甲冑を着用されてみては、いかがでしょうか!!
この階段マジきつかった。
降りる時すれ違った婆ちゃんが
ヒィヒィ言ってました!
先生お疲れ様でした。
先生お疲れ様ございましたm(__)m
先生に質問。なぜ加藤清正、福島正則は徳川側に付いたのか?結局二人とも潰されている。家康の行動から見ても天下狙っているのは、私でも解る。光成が先が見えなくなるほど嫌いだったのか?理解出来ません。
0:35
五大老同士(毛利vs徳川)の戦なら、主君秀頼の所領に変化はないはずですが、実際は大老家康により豊臣家の所領は220万石→65万石(1/3)に減らされたので、実質的に豊臣徳川の戦いと言っても、あながち間違いでもないのかもしれません。
小早川はkz
ボンクラ輝元はダメだな👎
息切れしてるじゃないですか。
無理しないで下さいね。
いつの世も、名ばかりの味方はいるもので、毛利、吉川、小早川は共和党のミッチー・マコーネルのようなものか。
当たり前だけど小早川の裏切りは痛い…
松尾山には登れなかったんですが、ここに小早川、毛利勢がって思うほどの山です!
@@山田山田男-r9o 松尾山城いいですよね!
石田三成が木下秀次を潰したから、関が原合戦になり、大阪の陣で木下は滅んだ。
ここからは発掘による陣址を証明するものは何も出ていないと聞きます。もっと柔軟に説明してほしいものです。