関ケ原古戦場史跡紹介10:宇喜多秀家陣跡

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  • Опубликовано: 1 ноя 2024

Комментарии • 15

  • @tokotoko57
    @tokotoko57 2 года назад +6

    今日も色々と勉強させて頂きました。ありがとうございました😊!

  • @horikawa2012
    @horikawa2012 2 года назад +4

    裏切ったり、合戦の場に出てこなかったりという西軍諸将が目立つ中、宇喜多秀家はしっかり戦いましたね。若くして取り立ててくれた豊臣秀吉への恩義を、誠実に果たしたとも言えそう。よそ者には苛烈な島津氏が一度は受け入れたというのも、何か分かるような気がする。また八丈島で約半世紀生き抜いたというのも凄い。関ヶ原参戦の諸将の中で最後まで生きたのが秀家公。生き方には学ぶ面が多いのではなかろうか。
    巷説、「秀家公は幕府から御赦免の打診もあったが、断って八丈の地で暮らした」という声も聞く。あり得るように思えるし、また「そりゃないわ」とも思える。真相は如何に…

  • @masanobuokuda5837
    @masanobuokuda5837 2 года назад +3

    それにしても、記念館の周りにはいろいろなものが残っているんですね。宇喜多秀家が配流先で50年も生きていたというのは驚きです(隠岐での後鳥羽上皇より長い!)。

  • @本間美津子-o9o
    @本間美津子-o9o 2 года назад

    晩秋の関ヶ原古戦場❣️燃える様な山々に囲まれた開館へ行って来ました。
    今まで、先生から中継説明を拝聴してたので、館内の史料や参戦武将の陣跡、東西首塚、多くを見聞出来ました。
    厚く御礼申し上げます。
    館内シアター、動く合戦屏風、
    竹中半兵衛、重門の家系図や重門の文武両道の活躍は勉強になりました。特に合戦シアターは圧感でした。また行きたいです⚔️🍁

  • @兵庫頭義珎
    @兵庫頭義珎 2 года назад +5

    関ヶ原合戦から約9ヶ月後に宇喜多秀家から島津忠恒に宛てられた書状の追而書で、秀家は「これまでは成元と名乗っていましたが、差し障りがあり休復と名乗ることにしました」と言っている書状が島津家文書に残っていますが、当時秀家が名乗り一つにも気を遣い、色々苦労していたであろうことが容易に察せられますね。

  • @toshikun-maron
    @toshikun-maron 2 года назад +1

    古戦場、歩いてみたいです。

  • @やっほー-x1g
    @やっほー-x1g 2 года назад

    宇喜多秀家が総大将になっていたら南宮山の大軍は動いたのではないかと思います。位が高いですし五大老の1人ですし大将にふさわしいと思いました。豊臣のために忠義を尽くしたことに感謝しています😊

  • @中根和子-j1w
    @中根和子-j1w Год назад

    宇喜多秀家様はお江の方と結ばれ豊臣の重臣で華々しいはずの人生でしょうに寂しい末路でしたね。

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d
    @明智実光秀嫡流と作-t9d 2 года назад

    南天満山山頂に本丸作って宇喜多秀家は陣してたんじゃないですか。南天満山山頂に登ってみたいが、直登は危なそう。ハイキング道でもあればいいのですが。

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d
    @明智実光秀嫡流と作-t9d 2 года назад

    山頂まで行けないんですか?。2022年3月19日。

  • @kotoringo-sensei
    @kotoringo-sensei Месяц назад

    わーい小和田先生じゃ

  • @左近石田
    @左近石田 2 года назад

    いつも思うんですが城跡、史跡は無駄な木を切ってほしいと思います。

  • @リエ-l3f
    @リエ-l3f Год назад

    宇喜多秀家、何か運が悪い。重臣が少なかったり、小早川の裏切りがあったりと、十分には働けなかったのでしょう?でも処刑されず、島流しになっても84歳まで生きて。当時にしたらかなりの長生きだし。だから、まだ良かったのかもね?

  • @参河屋喜三郎
    @参河屋喜三郎 2 года назад +3

    先生、もういい加減に小早川の裏切りという俗説を広めるのは止めませんか?かわいそうですよ。
    小早川は心情的には最初から東軍ですよ。少なくとも関ケ原本戦前には旗幟を明らかにしていたハズです。
    関ケ原の西軍は秀秋にとっては淀殿の周辺にいた外様大名達ばかり。高台院側の秀秋にとっては敵ばかりです。
    自分の叔母である高台院が徳川家康に豊臣の行く末を託したのだから、東軍に味方するのは理の当然どぇす。