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現在53歳になる男子です。よく、ゆうづる号乗車しました。懐かしいですねぇ。まだ新幹線がない時代、東京に行くには、寝台特急が1番良かったものです。はつかり号は8時間もかけて東京に行ってましたが、疲労困憊になってしまうのです。寝ていて朝に東京に着く寝台特急は、ほんとに便利でしたし、旅の風情がありました。ワクワク感がたまりませんね。
しかも、「はつかり」の半数は583系のボックスシートでしたものね。あれで8時間は過酷です。いっそ寝台にしてくれたら昼行でも楽でしたでしょうに…(^_^;
旅情という言葉がぴったりですね。夜汽車の旅は、出発直後の停車駅と時刻案内が始まった頃が最高潮の楽しさ。そして、終点が近づき「どちらさまも、車内にお忘れ物などないようご注意ください。」という案内でああ、旅も終わりかぁ・・・と寂しい気持ちになる。富士、彗星、明星にしか乗った事はありませんが、叶う事ならば、もう一度あの夜行列車の旅をしてみたい。
大井川鐵道もさりながら、津軽鉄道のオハ46のストーブ列車の旅を思案しています。
貴重な音声のUPありがとうございますなんやかんや言われていても鉄道が長距離輸送の主役だった頃の記録は興味深いです客車ゆうづるは、夏場に相当早起きしないと見る事の出来ない、憧れの存在でした16:20 の"イメージ"良いですね!(笑)
この写真は、ブレてるけどきれいに撮れてますね。フィルムですよね?貴重です。
動画内の注記に書かせて戴いたように、画像は全て借り物です。個人のサイトから拝借したものは、事前に一つ一つ所有(著作)者に許諾を願いました。ぴったりのものがない場合は、パプリックのものをイメージ画像として加工したものもあります。 旅の当時、自分ではカセットテープに録音しかしていなかったのです。今日に至り、動画を作るにあたり、どうしても画像がほしくなり、お願いしたのでした。 自分が音楽系の人間なので、音に関心はあっても、画像にはあまり関心がなかったのかもしれません…美術系にも通じているのですが。(^_^; ちなみに、昔のフィルム写真でも、元の画像がそこそこよければ、画像処理アプリで、きれいに補正できます。
私が少年時代、昭和57年のあの当時、水戸駅上りホームにて、駅員さんに、急行十和田が、廃止されたんですか。と聞くと、しかたないよ、と寂しそうな声で言われました。あれから6年後の1988年にゆうづるが廃止されました。寝台特急北斗星誕生の年です。あれ以来常磐線は、楽しみが半減しました。😢
20系の夜行「十和田」は、乗りたかったものです。寝台特急よりも、ゆっくり時間をかけて。
かろうじて昭和55年3月に十和田3号に乗りました。寝台じゃなくて座席指定でしたが20系でした。私は子供で両親と乗車しましたが、高校生の団体と同じ車両で普通座席を勝手に寝台ベッドにして車掌さんに叱られてました😅
1985年の夏休みに三戸に停車する(8時以降の列車、多分上野発23時ジャスト以降の2本のゆうづるの内のどれか)列車に立席特急券を買って青森駅に行きました。L 特急たざわ号、特急むつ号、寝台特急日本海を撮影して2時間半青森駅構内に滞在して青森12時34分発はつかり14号(583系)に乗り野辺地駅で降り、野辺地からはつかり16号(485系)に乗って三戸で降りました。途中野辺地~三沢の間で雷雨により徐行運転したり、停車したりで40分遅れで三戸に着いたことを覚えています。40分も長くはつかりに乗れたのは今となってはいい思い出です。
「たざわ」「むつ」が特急になっていたと聞くと、最近のお話やなぁ、と思ってしまいます。(^_^;
昭和51年生まれの者です。懐かしいですね。20番線から発車する14系「ゆうづる」に4歳の頃乗った記憶が微かに残っています。地平ホームは、新幹線工事で17番線が閉鎖となっていましたね。19、20番線の位置が工事の関係で見通しが悪く、「16番線のずっと奥に19、20番線があります」なんて放送が流れていた事を思い出しました。この音源の通り、ゆっくりゆっくりと入線してくる「ゆうづる」を見て興奮してましたね。列車に乗り込んで窓を見ると、隣19番線にも客車「ゆうづる」が停まっていました。当時はまだ3段式B寝台でしたね。しかし、乗客が少ないのかわかりませんが上段は使われている気配が無くリネンの物置のようになっていました。朝になって座席に替える人が来ましたが、私は寝坊助なのでまだ寝ると言って寝台のまま2度寝…八戸まで帰省での利用でした。いつもおじいちゃんとおばあちゃんが駅まで迎えに来てくれた良い思い出のある列車です。
ちょうどこの記録と同じ頃ですね。高架ホームの端の山手線・京浜東北線のホームから、地上ホームの最果ての20番線への移動は、遠足でした。 ヒルネ利用の乗客のために寝台を解体していたのですが、眠たいという子供を寝かせておいてくれたというのも、微笑ましいお話です。
S52年生まれです。国鉄だった幼い頃は常磐線沿線に住んでましたので青森の実家へ土浦から急行十和田か水戸からゆうづるに乗って帰省してました。ひょっとして同じ電車に乗っていたかもしれませんね。新幹線が上野まで来てからは新幹線になり、思春期になれば両親の実家に行くということもなくなり、そうこうしているうちに夜行は全廃され…幼い頃を思い出しました。
@@5151ama 電車でなく、客車列車です。(^_^;
24系も当時はピカピカでした。とはいえ北海道連絡の主力はすでに航空機に移り、私のような鉄道好きや飛行機嫌いが使う交通機関になってたな。
昭和51年生まれですか、私が小学校,,6年生でしたね。この頃の寝台客車特急ゆうづるは,20系寝台特客車でした。この20系寝台客車は、ベッド幅が、52㎝と狭かったそうです。その後24系になって寝台幅が70㎝になつたそうです。
ヘッドマーク無いんだ。昔は銀河も無かった。
この時期は、機関車のヘッドマークは、東京口のEF65のブルートレインだけでした。国鉄の合理化の嵐の中でしたし。しだいに、ファン・サーヴィスから復活していきました。
大好きな列車でした。
最も美しいネーミングとトレインマークの寝台特急でした。一往復くらい、季節列車で蘇らせてほしいですね。
昔、ブルトレのゆうづるに乗って、家族旅行で野辺地に行った事があります。あの頃は俺が小学校時代で40年以上でしたよ。因みに乗ったゆうづるはブルトレで往復です。(583系は野辺地通過)それと南部縦貫鉄道のレールバスやそして下北半島を駆ける大湊線もあったしね。ゆうづるは本来の寝台列車だけではなく、季節の連休等を対応の為の臨時専用列車として、12系やそして14系のオール座席車両も確かにあったはず。これは実際にあった国鉄時代で、同じ青森行きの兄弟分の寝台列車のはくつるもオール座席車両あったし。いまのJRはつまらない列車ばかりだけど、やはり、輝かしい国鉄時代の方が良かったですよ。
東北や北陸の冬の旧型客車の長距離鈍行の旅を、もっとしてみたかったです。
常磐線寝台特急ゆうづるが廃止された年が、1988年(昭和63)年その寝台特急北斗星が誕生したのも1988年私が寝台特急に初乗車が、寝台特急北斗星~いまや、どちらも、廃止、何か運命的な物を感じます。
青函連絡船最後の年に、道内広域をカバーしていた「おおとり」に接続しているという理由で「はくつる」に乗りましたが、当時「ゆうづる」の方が格上のイメージがありちょっと残念に思った記憶がありますw
片道だけで七羽で群れをなしていた夕鶴に対して、白鶴は孤軍奮闘でしたしね。(^_^;
@@kitazono0717 そうでしたね。上野発の583系ゆうづる3羽が最初に青森に向けて旅立ち、その後にブルートレインのゆうづる4羽が青森へ。上りは逆で青森発のブルートレイン4羽が上野に向けて旅立ち、その後に583系ゆうづる3羽が上野へ というダイヤでした。
今のニッポンに足りていない全てがココにある🇯🇵
急行鳥海は21時13発なので、早い時間から録音したのですね。あれ?鳥海が地平ホーム?高いホーム8番線の記憶があります。ゆうづる9号は青森車掌区担当ですね。
急行「懲戒」いや「鳥海」は、地平ホームから発車していたのに味がありました。「能登」が高いホームであったかもしれません。また、当時の時刻表で調べてみます。
CDあったら買いたい。
音声だけならご自由にDLして戴いてよいのですが、画像はお願いして拝借したものですので。
ハイケンス無しパターン放送
この乗車時、子供心に、チャイムを鳴らしてくれないのを憎らしく思ったものです。車掌長さんにより自分の型がおありで、どの放送でチャイムを鳴らすか、個性のありました。この車掌長さんは、おはよう放送で2回と、終着案内で、鳴らしていたと記憶します。でも、せめて入線時と始発時は鳴らしてほしかったですね。同行の友達と一緒に、車掌さんにお願いに行こうかと話していた記憶も。 …国鉄の合理化の進む頃で、不要な仕事はどんどんカットされていました。チャイムも鳴らさない傾向にありました。パターン放送もそうですが、当時は実用の列車ですので、そうなったのでしょう。 何にせよ、マセた中学1年生二人での旅とあって、車掌さんからも目をつけられていました(笑)。翌朝、最後尾の展望に行ってみると、「もっと早く来るかと思ったよ」と車掌長さんに笑われたものです。
現在53歳になる男子です。よく、ゆうづる号乗車しました。懐かしいですねぇ。まだ新幹線がない時代、東京に行くには、寝台特急が1番良かったものです。
はつかり号は8時間もかけて東京に行ってましたが、疲労困憊になってしまうのです。
寝ていて朝に東京に着く寝台特急は、ほんとに便利でしたし、旅の風情がありました。ワクワク感がたまりませんね。
しかも、「はつかり」の半数は583系のボックスシートでしたものね。あれで8時間は過酷です。いっそ寝台にしてくれたら昼行でも楽でしたでしょうに…(^_^;
旅情という言葉がぴったりですね。
夜汽車の旅は、出発直後の停車駅と時刻案内が始まった頃が最高潮の楽しさ。
そして、終点が近づき「どちらさまも、車内にお忘れ物などないようご注意ください。」という案内で
ああ、旅も終わりかぁ・・・と寂しい気持ちになる。富士、彗星、明星にしか乗った事はありませんが、
叶う事ならば、もう一度あの夜行列車の旅をしてみたい。
大井川鐵道もさりながら、津軽鉄道のオハ46のストーブ列車の旅を思案しています。
貴重な音声のUPありがとうございます
なんやかんや言われていても鉄道が長距離輸送の主役だった頃の記録は興味深いです
客車ゆうづるは、夏場に相当早起きしないと見る事の出来ない、憧れの存在でした
16:20 の"イメージ"良いですね!(笑)
この写真は、ブレてるけどきれいに撮れてますね。
フィルムですよね?
貴重です。
動画内の注記に書かせて戴いたように、画像は全て借り物です。個人のサイトから拝借したものは、事前に一つ一つ所有(著作)者に許諾を願いました。ぴったりのものがない場合は、パプリックのものをイメージ画像として加工したものもあります。
旅の当時、自分ではカセットテープに録音しかしていなかったのです。今日に至り、動画を作るにあたり、どうしても画像がほしくなり、お願いしたのでした。
自分が音楽系の人間なので、音に関心はあっても、画像にはあまり関心がなかったのかもしれません…美術系にも通じているのですが。(^_^;
ちなみに、昔のフィルム写真でも、元の画像がそこそこよければ、画像処理アプリで、きれいに補正できます。
私が少年時代、昭和57年のあの当時、水戸駅上りホームにて、駅員さんに、急行十和田が、廃止されたんですか。と聞くと、しかたないよ、と寂しそうな声で言われました。あれから6年後の1988年にゆうづるが廃止されました。寝台特急北斗星誕生の年です。あれ以来常磐線は、楽しみが半減しました。😢
20系の夜行「十和田」は、乗りたかったものです。寝台特急よりも、ゆっくり時間をかけて。
かろうじて昭和55年3月に十和田3号に乗りました。寝台じゃなくて座席指定でしたが20系でした。私は子供で両親と乗車しましたが、高校生の団体と同じ車両で普通座席を勝手に寝台ベッドにして車掌さんに叱られてました😅
1985年の夏休みに三戸に停車する(8時以降の列車、多分上野発23時ジャスト以降の2本のゆうづるの内のどれか)列車に立席特急券を買って青森駅に行きました。L 特急たざわ号、特急むつ号、寝台特急日本海を撮影して2時間半青森駅構内に滞在して青森12時34分発はつかり14号(583系)に乗り野辺地駅で降り、野辺地からはつかり16号(485系)に乗って三戸で降りました。途中野辺地~三沢の間で雷雨により徐行運転したり、停車したりで40分遅れで三戸に着いたことを覚えています。40分も長くはつかりに乗れたのは今となってはいい思い出です。
「たざわ」「むつ」が特急になっていたと聞くと、最近のお話やなぁ、と思ってしまいます。(^_^;
昭和51年生まれの者です。
懐かしいですね。
20番線から発車する14系「ゆうづる」に4歳の頃乗った記憶が微かに残っています。
地平ホームは、新幹線工事で17番線が閉鎖となっていましたね。
19、20番線の位置が工事の関係で見通しが悪く、
「16番線のずっと奥に19、20番線があります」なんて放送が流れていた事を思い出しました。
この音源の通り、ゆっくりゆっくりと入線してくる「ゆうづる」を見て興奮してましたね。
列車に乗り込んで窓を見ると、隣19番線にも客車「ゆうづる」が停まっていました。
当時はまだ3段式B寝台でしたね。しかし、乗客が少ないのかわかりませんが上段は使われている気配が無く
リネンの物置のようになっていました。
朝になって座席に替える人が来ましたが、私は寝坊助なのでまだ寝ると言って寝台のまま2度寝…
八戸まで帰省での利用でした。
いつもおじいちゃんとおばあちゃんが駅まで迎えに来てくれた良い思い出のある列車です。
ちょうどこの記録と同じ頃ですね。高架ホームの端の山手線・京浜東北線のホームから、地上ホームの最果ての20番線への移動は、遠足でした。
ヒルネ利用の乗客のために寝台を解体していたのですが、眠たいという子供を寝かせておいてくれたというのも、微笑ましいお話です。
S52年生まれです。
国鉄だった幼い頃は常磐線沿線に住んでましたので
青森の実家へ土浦から急行十和田か水戸からゆうづるに乗って帰省してました。
ひょっとして同じ電車に乗っていたかもしれませんね。
新幹線が上野まで来てからは新幹線になり、思春期になれば両親の実家に行くということもなくなり、
そうこうしているうちに夜行は全廃され…
幼い頃を思い出しました。
@@5151ama 電車でなく、客車列車です。(^_^;
24系も当時はピカピカでした。とはいえ北海道連絡の主力はすでに航空機に移り、私のような鉄道好きや飛行機嫌いが使う交通機関になってたな。
昭和51年生まれですか、私が小学校,,6年生でしたね。この頃の寝台客車特急ゆうづるは,20系寝台特客車でした。この20系寝台客車は、ベッド幅が、52㎝と狭かったそうです。その後24系になって寝台幅が70㎝になつたそうです。
ヘッドマーク無いんだ。昔は銀河も無かった。
この時期は、機関車のヘッドマークは、東京口のEF65のブルートレインだけでした。国鉄の合理化の嵐の中でしたし。しだいに、ファン・サーヴィスから復活していきました。
大好きな列車でした。
最も美しいネーミングとトレインマークの寝台特急でした。一往復くらい、季節列車で蘇らせてほしいですね。
昔、ブルトレのゆうづるに乗って、家族旅行で野辺地に行った事があります。あの頃は俺が小学校時代で40年以上でしたよ。因みに乗ったゆうづるはブルトレで往復です。(583系は野辺地通過)それと南部縦貫鉄道のレールバスやそして下北半島を駆ける大湊線もあったしね。ゆうづるは本来の寝台列車だけではなく、季節の連休等を対応の為の臨時専用列車として、12系やそして14系のオール座席車両も確かにあったはず。これは実際にあった国鉄時代で、同じ青森行きの兄弟分の寝台列車のはくつるもオール座席車両あったし。いまのJRはつまらない列車ばかりだけど、やはり、輝かしい国鉄時代の方が良かったですよ。
東北や北陸の冬の旧型客車の長距離鈍行の旅を、もっとしてみたかったです。
常磐線寝台特急ゆうづるが廃止された年が、1988年(昭和63)年その寝台特急北斗星が誕生したのも1988年私が寝台特急に初乗車が、寝台特急北斗星~いまや、どちらも、廃止、何か運命的な物を感じます。
青函連絡船最後の年に、道内広域をカバーしていた「おおとり」に接続しているという理由で「はくつる」に乗りましたが、当時「ゆうづる」の方が格上のイメージがありちょっと残念に思った記憶がありますw
片道だけで七羽で群れをなしていた夕鶴に対して、白鶴は孤軍奮闘でしたしね。(^_^;
@@kitazono0717 そうでしたね。上野発の583系ゆうづる3羽が最初に青森に向けて旅立ち、その後にブルートレインのゆうづる4羽が青森へ。上りは逆で青森発のブルートレイン4羽が上野に向けて旅立ち、その後に583系ゆうづる3羽が上野へ というダイヤでした。
今のニッポンに足りていない全てがココにある🇯🇵
急行鳥海は21時13発なので、早い時間から録音したのですね。あれ?鳥海が地平ホーム?
高いホーム8番線の記憶があります。
ゆうづる9号は青森車掌区担当ですね。
急行「懲戒」いや「鳥海」は、地平ホームから発車していたのに味がありました。「能登」が高いホームであったかもしれません。また、当時の時刻表で調べてみます。
CDあったら買いたい。
音声だけならご自由にDLして戴いてよいのですが、画像はお願いして拝借したものですので。
ハイケンス無しパターン放送
この乗車時、子供心に、チャイムを鳴らしてくれないのを憎らしく思ったものです。車掌長さんにより自分の型がおありで、どの放送でチャイムを鳴らすか、個性のありました。この車掌長さんは、おはよう放送で2回と、終着案内で、鳴らしていたと記憶します。でも、せめて入線時と始発時は鳴らしてほしかったですね。同行の友達と一緒に、車掌さんにお願いに行こうかと話していた記憶も。
…国鉄の合理化の進む頃で、不要な仕事はどんどんカットされていました。チャイムも鳴らさない傾向にありました。パターン放送もそうですが、当時は実用の列車ですので、そうなったのでしょう。
何にせよ、マセた中学1年生二人での旅とあって、車掌さんからも目をつけられていました(笑)。翌朝、最後尾の展望に行ってみると、「もっと早く来るかと思ったよ」と車掌長さんに笑われたものです。