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枝雀師匠の名前を目にするたびに思い出す方がいる。米朝一門で枝雀師匠と兄弟弟子だった桂三米こと大下英治さん。落語家を廃業して繊維機械メーカーに入社。インドネシア駐在員となり、インドネシア社会に溶け込んで、イスラーム教徒となって、メッカ巡礼も果たす。「ジャカルタ寄席」に尽力されて、米朝師匠や枝雀師匠もインドネシアにいらっしゃった。「米朝師匠のもとでの修行時代に小米ちゅう兄弟弟子がおりまして。暗い芸人なんですが、なぜか僕とウマが合いましてね。それが今の枝雀ですわ。日本に一時帰国して枝雀と一杯飲んだ時、『あんた、あの時やめなんだら何とかなったのに』と言われたんで、『いやぁ、もうその話はせんといてくれ』と。落語のテープは数百本持ってるけど、やはり米朝師匠が一番いい。やっぱり僕は落語の世界から抜けきれんのですなぁ」とジャカルタでにこやかに語っておられたのが90年代前半。あれから四半世紀も過ぎてしまったのが、まるで夢のようです。
2代目桂枝雀は落語の最高傑作やと思ってる
落語は人生何度目かのマイブームとなっております。子供の頃から面白がって聴いていましたが漫才ブームに書き消されたりいろいろな波がありましたが歳を重ね枝雀さん、米朝さんの落語をyoutubeで何の気なしに聴いてみたら若い頃とはまた違う感慨を受けました。一つの演目でも話し手によってこうも雰囲気が変わるものかとおどろいています。枝雀さんは間違いなく天才肌です。天才デアルガ故に目指す到達点が、、、。枝雀さんの噺の世界は楽しいです。何度でも遊びに行きたい遊園地です。
子供の頃でも枝雀師匠の落語はめっちゃおもしろかったのを覚えてます。世代・国も関係なく笑いを取れるほんとの爆笑王だったなぁと思います
子供のころ、話の筋はよくわからなくても枝雀師匠がテレビに映っているだけで面白かった。そんなにストイックじゃなくてもっといい加減でいいからずっと生きててほしかったと今でも思います。
枝雀師匠は落語は勿論ですが、あの笑顔が良かった。
天下一品の落語家でした枝雀師匠が話す前に、笑って待つ程の噺家でした、亡くなる前に、お会いしたい人でした、そして逆に説教したかったです😢😂ありがとう御座いました👏👏
あの有名な桂枝雀師匠が、毎年1月4日に大都市でも無い岐阜市のような田舎でしかも100人位の小ホールでかかさず、独演会を開催して頂いたのを忘れることが出来ません。お弟子さんお二人に枝雀師匠が二題と大いに爆笑させて貰いました。更に驚くことは、2000円という当時でも信じられない金額・・・感謝してもしきれません。
私も若い頃、大阪地下鉄御堂筋線の梅田から地下鉄に乗り込み、ふと隣を見ると小米さんがいました。「僕、ファンです」と声をかけようとしましたが扉にもたれかかってなにか物思いにふけっていらっしゃる様子で声をかけられなかったです。多分落語のことをいろいろ考えてらっしゃったのでしょう。枝雀さんになられてからも大好きだった落語家さんです。
枝雀師匠、ご自身だけでなく良いお弟子さんをたくさん育てられて素晴らしい上方落語家でした。
師匠の話をしていると、自然と枝雀師匠の口調になっている雀々師匠を見て泣きそうになりました。
枝雀さんのお姉さんの息子さんと同級生です。京都大学に行ったので、枝雀師匠は1か月オムライスとか食事が偏ってと昔心配していましたね。猛烈に頭の良い方だと思います
枝雀師匠の噺は、一度、生で拝聴致しましたが、面白かったですねー。他の方が仰るように、あそこまで突き詰めなくて長生きして頂きたかったです。本当に噺の中身で笑わせていらした、本物の爆笑王です。私は、英語落語のビデオテープも持っています。
私、落語を知らない人間ですが枝雀さんのお話は心から笑えます❤
落語家になる前の前田兄弟時代から面白い天才だったと思う
小さい頃から桂枝雀さんの落語ばかり聴いてました。上手いと思うのと面白いと思うのは別。枝雀さんの語る青菜、寝床、植木屋、不動坊、等々最高でしたね、他の落語家さんは聴けなくなるぐらい、
あんなに極端な演じ方しても成立してたのは、めちゃくちゃうまいベースがあったから。稽古の賜物。でもそんなストイックさが人生まで幕引きさせてしまった。ほんと都合よくいかないというか、不思議なもんですね。
枝雀落語を知らない人が面白い!天才だ!爆笑王だ!という絶賛を聞いた後でも素直に枝雀さんの落語を楽しめる人は多いと思うがその絶賛を聞いたせいで「本当か?」と疑って枝雀落語を鑑賞してしまう人が居る。そういう人の中で枝雀を如何に否定するかに徹してアラ探しをする人間が居るw否定派の多くが座布団からはみ出る段階で落語じゃない!というw自分は子供の頃に米朝&枝雀落語に触れる事が出来たので最初の偏見なしで入る事が出来た事が本当に幸せです。
大阪落語を聴くようになったきっかけが枝雀師でした。キツい大阪弁の啖呵も、枝雀師だとホンワカしていて受け入れやすいんですね。品格のある米朝師匠の落語の正統な後継者だったと思います。RUclipsでたくさん聴けるのでうれしいです。今は幽霊の辻や皿屋敷などがお気に入りです。
枝雀師匠は日本1のインテリで落語会の大天才…未だ超える人は居ない
枝雀師匠が亡くなられていなかったら、落語界・お笑い界は随分今と違うことになってたと思う。あまりにも真面目過ぎ、天才過ぎが不幸な結果になってしまった。亡くなったと聞いたときは悲しさより、桂枝雀という才能が消えてしまったのがホント、悔しかった・・・。
話のリズム、なるほどです‼️枝雀師匠というと、さほど関心の無い人(は、師匠の大袈裟なパフォーマンス、いわば「動」の部分ばかり映ったようですが、僕は、師匠の「静」の部分、いわば「間」の扱い方(間の持ち方、埋め方、そのリズム感)こそ、味わいどころだと思います。「動」が激しかったからこそ、「静」がいっそう引き立ったのかもしれません🤗
米朝師匠は自身も名人でしたが枝雀 吉朝と跡継ぎ候補を若くして亡くして寂しかったと思います雀々師匠~上方落語の灯を未来に繋いで行って欲しいです
本当にお二人とも若くしてお亡くなりになりになりましたね 残念です。
今から思うのは吉朝さんが米朝師匠の正統派後継者だったのでは 枝雀そして ざこばさん米朝師匠からはタイプの違う噺家を出していますね。
実は枝雀さんの落語を初めて聴いたのは27年前、当時ウチの高校の英語の授業で英語落語のビデオを観た時でした。すびばせんおじさんも好きです。昔上岡龍太郎さんの話でも、枝雀さんは上岡さんを呼んでご馳走してる最中でも思いついたら客人をほったらかして卓球やテレビゲームなどを数十分おきにコロコロ変えながらやっていたというので、変わった方だったんだなあと思います。笑
父の影響で車でよく聴いてました!!よく分からなかったけど、面白いのはテープ越しでも伝わりました。10代になってまた聴きなおしてこんなに面白かったのかとびっくりしました!!学校のネイティブの英語の先生が、教材に持ってくるほど、面白いのを思い出しました‼️
生きてれば人間国宝になれた人、子米さんの頃から面白かったゾ。70余の厳選した演目だけを選んでそれを極めた人。天才で有る。
小米さんですね 上手いけど陰気な感じやった 枝雀になってから激変した。
吾妻ひなこさん。女道楽の師匠と同じ番組の司会をしだしてから芸風が変わった!吾妻ひなこさんの影響です。
好きな落語家だったのですが、亡くなった理由を今知り悲しんでいます。
初めて枝雀師匠の【くっしゃみ講釈】を拝見したとき 腸捻転になるかと思うくらい笑いました米朝師匠が あんな破天荒な人は居なかったと 偲んでいらしたのを思い出しますまた 米朝・枝雀の師弟は 数多くの映像や録音を残されていて 現在でも楽しませていただけることを 何より嬉しく思います
くっしゃみ講釈ってわかりにくい内容なのに、それであんだけ笑わすって凄いよね。
米朝一門のある噺家さんの襲名披露の時に枝雀師匠の噺を聴きました。その日の主役だった噺家さんだけでなく、他の噺家さんの記憶がなくなってしまうくらい枝雀師匠は強烈な印象でした。その時の高座は「粗忽長屋」。以来、1番好きな噺は粗忽長屋だと思っていたのですがなかなか粗忽長屋に巡り会えず、近ごろようやく別の噺家さんの粗忽長屋を聴けたのに「あれ? もっと面白かったはずでは?」と。記憶の中で美化されていることもあるのでしょうけど、やっぱり枝雀師匠の一席が滅茶苦茶面白かったのだろうと思っています。
ひょっとして「粗忽長屋」ではなく、「宿替え」では?「粗忽長屋」は江戸落語のタイトルだし、「宿替え」の江戸バージョンは「粗忽の釘」。枝雀は、「宿替え」はよく演じていたが、「粗忽長屋」をかけているのは聴いたことがないなぁ。
同じ体験私は、「寝床」でした。
枝雀さんの落語は、映像が無くても、録音したテープで聞いても、落語の状況が頭の中に浮かんでくると言うものすごい方だと思います。自殺で亡くなったと言う知らせを聞いた時はとてつもないショックでした。
枝雀師は仁鶴師と寡黙、読書家は共通していました。もちろん爆笑王のところは仁鶴→枝雀へリレーしたようです。どちらも他界されて残念です。永遠のライバル?
全国的な人気は仁鶴さんだったけど 枝雀襲名してからは落語は枝雀さんやったね 古典を壊して自分のものにするという芸風で。
仁鶴さんと枝雀さんの関係は知らなかったなぁ。ここに出てくる長老って何方かな?橘ノ円都師匠はスナックに行きそうじゃないし・・・。小米時代は「道頓堀アワー」で観てました。朝丸(ざこば)さんはまだ子供といって良いくらいでしたね。懐かしい。
米朝じゃないの?
二代目の文の家かしく師匠、初代の桂南天師匠、可能性のありそうな師匠は何人かいらっしゃいますね。
阪急電車の車内でも本意気で練習するあまり、乗客が驚くあまり離れて行ったって伝説がありますね。豊中の上野や吹田の一等地に自宅を構えた方がお亡くなりになられたときは、当時の中学生ながら大変ショックを受けました。首を吊ったお師匠さんを降ろしたお弟子さんからしたら、トラウマになっても仕方がありません。枝雀さんには生きてほしかった。今もご存命なら、どんな高座名だったのかも思います。
英語落語に関しては、色々な師匠方がおやりになりましたが、英語が母国語の三輝さんによって完全に確立されそうですね。そのまま直訳でやってるようです。ただ、枕で落語のルールについて話している間が一番ウケてしまうそうです。
お亡くなりになる前に、お初天神の路地裏の居酒屋で隣同士になりました。馴染みだったそうです。お二人で来店され、お仕事らしき話を立板に水、広角泡を飛ばす勢いで話されていた様子に驚き言い知れぬ違和感を持ちました。ご自身に厳しく、完璧主義で妥協を許さぬ追求にご自身が追い詰められ、死を美学と全うされたのだとしたら切なすぎます...
完璧な最強の噺家は…志ん朝師匠と枝雀師匠と談志師匠と小三治師匠の芸を継ぐ方…!!
桂枝雀師匠は、あの同世代の…仁鶴師匠、談志師匠、志ん朝師匠も一目おく凄い落語家だった!!
志村さんも、枝雀師匠のファンで、東京での会にはよく来られていたそうですし、だっふんだは、枝雀師匠由来ですね
落語「ちしゃ医者」での、お医者さんの咳払い。
枝雀師匠のエピソードは楽しく拝聴いたしましたが、お亡くなりになったお話になった時点で辞めました。昔買ったカセットテープの枝雀全集のせいでカセットデッキを大事につかっています。今でも枝雀一門の方のお顔をみるたびお囃子は「ひるまま」に頭の中でへんかんしています。
今でも枝雀さんの落語で大笑いするし、雀々さんの落語に枝雀さんを感じますが、でも今は雀々さんの落語のほうが好きかも。
雀々さんの深夜番組、子供の時親に隠れてめっちゃ見てたわ
雀々さんが吊られてるの降ろしたんだよね
作家色川武大が言っていたが、枝雀のような笑いの取り方は感心しません、いつまで続くでしょうね、と言っている。同じことは林家三平にも言えると思う。二人とも悩んでいたであろう。
おかぴっき、お酒きき酒思い出すのは
あのヘソ曲がりの談志師匠をして「志ん朝といい、枝雀といい・・・先に逝っちまいやがって・・・これじゃ一生勝てねェじゃねェか・・・」と、云わしめた「西の枝雀」。常に自分の落語道に真っ直ぐ進み、挑み続けた咄家。志ん朝師匠と共に、枯れてからの枝雀師匠の芸も見たかった。
枝雀師匠の落語、ケレンが強すぎて好きになれなかった。ストイック過ぎて、芸に悩んでらっしゃるのはみてとれました。それを乗り越え、歳を重ね熟成された話が聴きたかった。早世されたのは、本当に残念です。
枝雀師匠が自死されたニュースを聞いたとき驚きと落語界の大きな損失と思いました。逸話で米朝師匠に深夜に突然 ~ 分かりました! ~ と電話をかけてきたそうで、師匠は四六時中、落語のこと、お客にウケル演じ方をいつも考え、暇さえあれば稽古していたのですね。
談志が枝雀に落語の話をしようとすると理屈臭くて敵わないと言う同類
上方ばなし若手の会ー五人の会のメンバーがざこば師匠がお亡くなりになって天上で揃いました。
枝雀師匠の「時うどん」の噺は独自のアレンジなのかな。一般的なのは、他人がお代をちょろまかすのを見て、与太が真似るんだけど、枝雀師匠のは少し違うのよね。確かに枝雀師匠の噺の方が一般的な噺よりも面白い。
赤の他人のやり口を真似るのは江戸落語の「時そば」ですね。上方落語の「時うどん」の場合、一度目は知り合いの二人組がうどん屋に行き頭の回る男がやった事を、抜けてる男が後日真似ようとするというものです。
@@kn-mr9pv 私が「時そば」の方を先に知ったから、そう思っただけなんですかね。関西の前座グラスの若手落語家の「時うどん」を聞いた事が有りますが、「時そば」と同じだったので、そう思ってました。ご教示、どうもありがとうございます。「時うどん」が関東に伝わって「時そば」になったようですが、「時うどん」の方がシチュエーションの面白味があると感じます。
ヨーデル食べ放題☺️🎶
それは雀三郎さん。
枝雀さん、おじいちゃん役で登場しますね😄
「代書屋」は枝雀師のがスタンダードになっている様な気がする。
三代目春団治も!
スタンダードというよりも枝雀版は改変具合が大きく、「代書屋」でなく、あえてだと思うが「代書」としている。また、年代によって細かく変化しており、オチも複数存在する。代筆業を兼業していた4代目米團治が創った噺を弟子の米朝が受け継ぎ、3代目春團治が米朝に乞うてネタをつけてもらった。春團治が演るようになってからは、米朝は高座にかけるのを控えていたように思う。ちなみに、枝雀版で名前が『松本』姓が用いられているが、雀々の本名らしい。
この二人に語ってほしくない。 孤高の名人
今でこそ大学で落研に入ってました入門は当たり前ですが「国立神戸大学を卒業して」桂米朝師匠に入門した「大卒噺家第1号」が枝雀さんやないですかね。米朝一門1番弟子が枝雀さん、2番弟子が月亭可朝さん、3番弟子が現在米朝一門で惣領の桂ざこばさん、春風亭小朝さんも一目尊敬の米朝・枝雀の「エリート噺家子弟」もなんや知らん「ちょっとおかしなひと」なのもなんか楽しいですね。
まず、正確には卒業していない。米朝への入門は確定しており、師の「大学へ行けるなら行っておきなさい」の勧めで入学したが、一年ほどで見切りをつけての自主退学だったと思う。枝雀は3番目の弟子。ただし、内弟子(住込み)としては初。可朝と漫才・腹話術あがりの米紫(3代目)が兄弟子。可朝は三代目林家染丸門下を破門になったところを、米朝が預かり弟子として引き取った。
米紫と可朝、どちらが一番弟子かは、米朝自身が明確にしていないようで諸説ある。余談だが、初期の米朝事務所の序列は米朝、枝雀、朝丸(ざこば)、べかこ(南光)。べかこは米朝の孫弟子だが、経緯等から米朝の直弟子扱いである。
枝雀師と可朝師、米紫師では2年程キャリアが違います。
なんでスゴいのか、全くわからない内容でした
雀々、師匠のこと聞かれるのわかってるんやから、もっとちゃんとまとめてこいよ。これやからダメなんや。
正直NGKのとりに仁鶴師匠がとりで客がバンバン帰って行く様子がと……
英語落語 あれはほんまにおもんなかったなあ
仁鶴が売れて、上方落語が認識拡大したわけじゃない。あほか?雀々は・・・
死んだ人。
維新乗っ取りや馬場乗っ取りや説明担当検事に確定申告橋下
枝雀師匠の名前を目にするたびに思い出す方がいる。米朝一門で枝雀師匠と兄弟弟子だった桂三米こと大下英治さん。落語家を廃業して繊維機械メーカーに入社。インドネシア駐在員となり、インドネシア社会に溶け込んで、イスラーム教徒となって、メッカ巡礼も果たす。「ジャカルタ寄席」に尽力されて、米朝師匠や枝雀師匠もインドネシアにいらっしゃった。「米朝師匠のもとでの修行時代に小米ちゅう兄弟弟子がおりまして。暗い芸人なんですが、なぜか僕とウマが合いましてね。それが今の枝雀ですわ。日本に一時帰国して枝雀と一杯飲んだ時、『あんた、あの時やめなんだら何とかなったのに』と言われたんで、『いやぁ、もうその話はせんといてくれ』と。落語のテープは数百本持ってるけど、やはり米朝師匠が一番いい。やっぱり僕は落語の世界から抜けきれんのですなぁ」とジャカルタでにこやかに語っておられたのが90年代前半。あれから四半世紀も過ぎてしまったのが、まるで夢のようです。
2代目桂枝雀は落語の最高傑作やと思ってる
落語は人生何度目かのマイブームとなっております。子供の頃から面白がって聴いていましたが漫才ブームに書き消されたりいろいろな波がありましたが歳を重ね枝雀さん、米朝さんの落語をyoutubeで何の気なしに聴いてみたら若い頃とはまた違う感慨を受けました。一つの演目でも話し手によってこうも雰囲気が変わるものかとおどろいています。枝雀さんは間違いなく天才肌です。天才デアルガ故に目指す到達点が、、、。枝雀さんの噺の世界は楽しいです。何度でも遊びに行きたい遊園地です。
子供の頃でも枝雀師匠の落語はめっちゃおもしろかったのを覚えてます。
世代・国も関係なく笑いを取れるほんとの爆笑王だったなぁと思います
子供のころ、話の筋はよくわからなくても枝雀師匠がテレビに映っているだけで面白かった。そんなにストイックじゃなくてもっといい加減でいいからずっと生きててほしかったと今でも思います。
枝雀師匠は落語は勿論ですが、あの笑顔が良かった。
天下一品の落語家でした
枝雀師匠が話す前に、笑って待つ程の噺家でした、亡くなる前に、お会いしたい人でした、そして逆に説教したかったです😢😂
ありがとう御座いました👏👏
あの有名な桂枝雀師匠が、毎年1月4日に
大都市でも無い岐阜市のような田舎で
しかも100人位の小ホールでかかさず、独演会を開催して頂いたのを忘れることが出来ません。
お弟子さんお二人に
枝雀師匠が二題と大いに爆笑させて貰いました。更に驚くことは、2000円という当時でも信じられない金額・・・
感謝してもしきれません。
私も若い頃、大阪地下鉄御堂筋線の梅田から地下鉄に乗り込み、
ふと隣を見ると小米さんがいました。
「僕、ファンです」と声をかけようとしましたが扉にもたれかかって
なにか物思いにふけっていらっしゃる様子で声をかけられなかったです。
多分落語のことをいろいろ考えてらっしゃったのでしょう。
枝雀さんになられてからも大好きだった落語家さんです。
枝雀師匠、ご自身だけでなく良いお弟子さんをたくさん育てられて素晴らしい上方落語家でした。
師匠の話をしていると、自然と枝雀師匠の口調になっている雀々師匠を見て泣きそうになりました。
枝雀さんのお姉さんの息子さんと同級生です。京都大学に行ったので、枝雀師匠は1か月オムライスとか食事が偏ってと昔心配していましたね。猛烈に頭の良い方だと思います
枝雀師匠の噺は、一度、生で拝聴致しましたが、面白かったですねー。
他の方が仰るように、あそこまで突き詰めなくて長生きして頂きたかったです。
本当に噺の中身で笑わせていらした、本物の爆笑王です。
私は、英語落語のビデオテープも持っています。
私、落語を知らない人間ですが枝雀さんのお話は心から笑えます❤
落語家になる前の前田兄弟時代から面白い天才だったと思う
小さい頃から桂枝雀さんの落語ばかり聴いてました。
上手いと思うのと面白いと思うのは別。
枝雀さんの語る
青菜、寝床、植木屋、不動坊、等々最高でしたね、他の落語家さんは聴けなくなるぐらい、
あんなに極端な演じ方しても成立してたのは、めちゃくちゃうまいベースがあったから。稽古の賜物。でもそんなストイックさが人生まで幕引きさせてしまった。ほんと都合よくいかないというか、不思議なもんですね。
枝雀落語を知らない人が
面白い!天才だ!爆笑王だ!
という絶賛を聞いた後でも素直に枝雀さんの落語を楽しめる人は多いと思うが
その絶賛を聞いたせいで「本当か?」と疑って枝雀落語を鑑賞してしまう人が居る。
そういう人の中で枝雀を如何に否定するかに徹してアラ探しをする人間が居るw
否定派の多くが座布団からはみ出る段階で落語じゃない!というw
自分は子供の頃に米朝&枝雀落語に触れる事が出来たので
最初の偏見なしで入る事が出来た事が本当に幸せです。
大阪落語を聴くようになったきっかけが枝雀師でした。キツい大阪弁の啖呵も、枝雀師だとホンワカしていて受け入れやすいんですね。品格のある米朝師匠の落語の正統な後継者だったと思います。
RUclipsでたくさん聴けるのでうれしいです。今は幽霊の辻や皿屋敷などがお気に入りです。
枝雀師匠は日本1の
インテリで落語会の
大天才…未だ超える人は
居ない
枝雀師匠が亡くなられていなかったら、落語界・お笑い界は随分今と違うことになってたと思う。
あまりにも真面目過ぎ、天才過ぎが不幸な結果になってしまった。
亡くなったと聞いたときは悲しさより、桂枝雀という才能が消えてしまったのがホント、悔しかった・・・。
話のリズム、なるほどです‼️
枝雀師匠というと、さほど関心の無い人(は、師匠の大袈裟なパフォーマンス、いわば「動」の部分ばかり映ったようですが、僕は、師匠の「静」の部分、いわば「間」の扱い方(間の持ち方、埋め方、そのリズム感)こそ、味わいどころだと思います。
「動」が激しかったからこそ、「静」がいっそう引き立ったのかもしれません🤗
米朝師匠は自身も名人でしたが枝雀 吉朝と跡継ぎ候補を若くして亡くして寂しかったと思います
雀々師匠~上方落語の灯を未来に繋いで行って欲しいです
本当にお二人とも若くしてお亡くなりになりになりましたね 残念です。
今から思うのは吉朝さんが米朝師匠の正統派後継者だったのでは 枝雀そして ざこばさん米朝師匠からはタイプの違う噺家を出していますね。
実は枝雀さんの落語を初めて聴いたのは27年前、当時ウチの高校の英語の授業で英語落語のビデオを観た時でした。すびばせんおじさんも好きです。昔上岡龍太郎さんの話でも、枝雀さんは上岡さんを呼んでご馳走してる最中でも思いついたら客人をほったらかして卓球やテレビゲームなどを数十分おきにコロコロ変えながらやっていたというので、変わった方だったんだなあと思います。笑
父の影響で車でよく聴いてました!!
よく分からなかったけど、面白いのはテープ越しでも伝わりました。
10代になってまた聴きなおしてこんなに面白かったのかとびっくりしました!!
学校のネイティブの英語の先生が、教材に持ってくるほど、面白いのを思い出しました‼️
生きてれば人間国宝になれた人、子米さんの頃から面白かったゾ。70余の厳選した演目だけを選んでそれを極めた人。天才で有る。
小米さんですね 上手いけど陰気な感じやった 枝雀になってから激変した。
吾妻ひなこさん。女道楽の
師匠と同じ番組の司会をしだしてから芸風が変わった!吾妻ひなこさんの影響です。
好きな落語家だったのですが、亡くなった理由を今知り悲しんでいます。
初めて枝雀師匠の【くっしゃみ講釈】を拝見したとき 腸捻転になるかと思うくらい笑いました
米朝師匠が あんな破天荒な人は居なかったと 偲んでいらしたのを思い出します
また 米朝・枝雀の師弟は 数多くの映像や録音を残されていて 現在でも楽しませていただけることを 何より嬉しく思います
くっしゃみ講釈ってわかりにくい内容なのに、それであんだけ笑わすって凄いよね。
米朝一門のある噺家さんの襲名披露の時に枝雀師匠の噺を聴きました。
その日の主役だった噺家さんだけでなく、他の噺家さんの記憶がなくなってしまうくらい枝雀師匠は強烈な印象でした。
その時の高座は「粗忽長屋」。
以来、1番好きな噺は粗忽長屋だと思っていたのですがなかなか粗忽長屋に巡り会えず、近ごろようやく別の噺家さんの粗忽長屋を聴けたのに「あれ? もっと面白かったはずでは?」と。
記憶の中で美化されていることもあるのでしょうけど、やっぱり枝雀師匠の一席が滅茶苦茶面白かったのだろうと思っています。
ひょっとして「粗忽長屋」ではなく、
「宿替え」では?
「粗忽長屋」は江戸落語のタイトルだし、
「宿替え」の江戸バージョンは「粗忽の釘」。
枝雀は、「宿替え」はよく演じていたが、
「粗忽長屋」をかけているのは聴いたことがないなぁ。
同じ体験私は、「寝床」でした。
枝雀さんの落語は、映像が無くても、録音したテープで聞いても、落語の状況が頭の中に浮かんでくると言うものすごい方だと思います。自殺で亡くなったと言う知らせを聞いた時はとてつもないショックでした。
枝雀師は仁鶴師と寡黙、読書家は共通していました。もちろん爆笑王のところは仁鶴→枝雀へリレーしたようです。どちらも他界されて残念です。永遠のライバル?
全国的な人気は仁鶴さんだったけど 枝雀襲名してからは落語は枝雀さんやったね 古典を壊して自分のものにするという芸風で。
仁鶴さんと枝雀さんの関係は知らなかったなぁ。ここに出てくる長老って何方かな?橘ノ円都師匠はスナックに行きそうじゃないし・・・。小米時代は「道頓堀アワー」で観てました。朝丸(ざこば)さんはまだ子供といって良いくらいでしたね。懐かしい。
米朝じゃないの?
二代目の文の家かしく師匠、初代の桂南天師匠、可能性のありそうな師匠は何人かいらっしゃいますね。
阪急電車の車内でも本意気で練習するあまり、乗客が驚くあまり離れて行ったって伝説がありますね。豊中の上野や吹田の一等地に自宅を構えた方がお亡くなりになられたときは、当時の中学生ながら大変ショックを受けました。首を吊ったお師匠さんを降ろしたお弟子さんからしたら、トラウマになっても仕方がありません。枝雀さんには生きてほしかった。今もご存命なら、どんな高座名だったのかも思います。
英語落語に関しては、色々な師匠方がおやりになりましたが、英語が母国語の三輝さんによって完全に確立されそうですね。そのまま直訳でやってるようです。ただ、枕で落語のルールについて話している間が一番ウケてしまうそうです。
お亡くなりになる前に、お初天神の路地裏の居酒屋で隣同士になりました。馴染みだったそうです。お二人で来店され、お仕事らしき話を立板に水、広角泡を飛ばす勢いで話されていた様子に驚き言い知れぬ違和感を持ちました。
ご自身に厳しく、完璧主義で妥協を許さぬ追求にご自身が追い詰められ、死を美学と全うされたのだとしたら切なすぎます...
完璧な最強の噺家は…志ん朝師匠と枝雀師匠と談志師匠と小三治師匠の芸を継ぐ方…!!
桂枝雀師匠は、あの同世代の…仁鶴師匠、談志師匠、志ん朝師匠も一目おく凄い落語家だった!!
志村さんも、枝雀師匠のファンで、東京での会にはよく来られていたそうですし、だっふんだは、枝雀師匠由来ですね
落語「ちしゃ医者」での、お医者さんの咳払い。
枝雀師匠のエピソードは楽しく拝聴いたしましたが、お亡くなりになったお話になった時点で辞めました。
昔買ったカセットテープの枝雀全集のせいでカセットデッキを大事につかっています。今でも枝雀一門の方のお顔をみるたびお囃子は「ひるまま」に頭の中でへんかんしています。
今でも枝雀さんの落語で大笑いするし、雀々さんの落語に枝雀さんを感じますが、でも今は雀々さんの落語のほうが好きかも。
雀々さんの深夜番組、子供の時親に隠れてめっちゃ見てたわ
雀々さんが吊られてるの降ろしたんだよね
作家色川武大が言っていたが、枝雀のような笑いの取り方は感心しません、いつまで続くでしょうね、と言っている。同じことは林家三平にも言えると思う。二人とも悩んでいたであろう。
おかぴっき、お酒きき酒思い出すのは
あのヘソ曲がりの談志師匠をして
「志ん朝といい、枝雀といい・・・
先に逝っちまいやがって・・・
これじゃ一生勝てねェじゃねェか・・・」
と、云わしめた「西の枝雀」。
常に自分の落語道に真っ直ぐ進み、挑み続けた咄家。
志ん朝師匠と共に、枯れてからの枝雀師匠の芸も見たかった。
枝雀師匠の落語、ケレンが強すぎて好きになれなかった。
ストイック過ぎて、芸に悩んでらっしゃるのはみてとれました。それを乗り越え、歳を重ね熟成された話が聴きたかった。
早世されたのは、本当に残念です。
枝雀師匠が自死されたニュースを聞いたとき驚きと落語界の大きな損失と思いました。
逸話で米朝師匠に深夜に突然 ~ 分かりました! ~ と電話をかけてきたそうで、
師匠は四六時中、落語のこと、お客にウケル演じ方をいつも考え、暇さえあれば稽古していたのですね。
談志が枝雀に落語の話をしようとすると
理屈臭くて敵わないと言う同類
上方ばなし若手の会ー五人の会のメンバーがざこば師匠がお亡くなりになって天上で揃いました。
枝雀師匠の「時うどん」の噺は独自のアレンジなのかな。一般的なのは、他人がお代をちょろまかすのを見て、与太が真似るんだけど、枝雀師匠のは少し違うのよね。確かに枝雀師匠の噺の方が一般的な噺よりも面白い。
赤の他人のやり口を真似るのは江戸落語の「時そば」ですね。
上方落語の「時うどん」の場合、一度目は知り合いの二人組がうどん屋に行き
頭の回る男がやった事を、抜けてる男が後日真似ようとするというものです。
@@kn-mr9pv
私が「時そば」の方を先に知ったから、そう思っただけなんですかね。関西の前座グラスの若手落語家の「時うどん」を聞いた事が有りますが、「時そば」と同じだったので、そう思ってました。
ご教示、どうもありがとうございます。
「時うどん」が関東に伝わって「時そば」になったようですが、「時うどん」の方がシチュエーションの面白味があると感じます。
ヨーデル食べ放題☺️🎶
それは雀三郎さん。
枝雀さん、おじいちゃん役で登場しますね😄
「代書屋」は枝雀師のがスタンダードになっている様な気がする。
三代目春団治も!
スタンダードというよりも枝雀版は改変具合が大きく、「代書屋」でなく、あえてだと思うが「代書」としている。また、年代によって細かく変化しており、オチも複数存在する。
代筆業を兼業していた4代目米團治が創った噺を弟子の米朝が受け継ぎ、
3代目春團治が米朝に乞うてネタをつけてもらった。
春團治が演るようになってからは、米朝は高座にかけるのを控えていたように思う。
ちなみに、枝雀版で名前が『松本』姓が用いられているが、雀々の本名らしい。
この二人に語ってほしくない。 孤高の名人
今でこそ大学で落研に入ってました入門は当たり前ですが「国立神戸大学を卒業して」桂米朝師匠に入門した「大卒噺家第1号」が枝雀さんやないですかね。米朝一門1番弟子が枝雀さん、2番弟子が月亭可朝さん、3番弟子が現在米朝一門で惣領の桂ざこばさん、春風亭小朝さんも一目尊敬の米朝・枝雀の「エリート噺家子弟」もなんや知らん「ちょっとおかしなひと」なのもなんか楽しいですね。
まず、正確には卒業していない。
米朝への入門は確定しており、師の「大学へ行けるなら行っておきなさい」の勧めで入学したが、一年ほどで見切りをつけての自主退学だったと思う。
枝雀は3番目の弟子。ただし、内弟子(住込み)としては初。可朝と漫才・腹話術あがりの米紫(3代目)が兄弟子。
可朝は三代目林家染丸門下を破門になったところを、米朝が預かり弟子として引き取った。
米紫と可朝、どちらが一番弟子かは、米朝自身が明確にしていないようで諸説ある。
余談だが、初期の米朝事務所の序列は米朝、枝雀、朝丸(ざこば)、べかこ(南光)。
べかこは米朝の孫弟子だが、経緯等から米朝の直弟子扱いである。
枝雀師と可朝師、米紫師では2年程キャリアが違います。
なんでスゴいのか、全くわからない内容でした
雀々、師匠のこと聞かれるのわかってるんやから、もっとちゃんとまとめてこいよ。
これやからダメなんや。
正直NGKのとりに仁鶴師匠がとりで客がバンバン帰って行く様子がと……
英語落語 あれはほんまにおもんなかったなあ
仁鶴が売れて、上方落語が認識拡大したわけじゃない。あほか?雀々は・・・
死んだ人。
維新乗っ取りや馬場乗っ取りや説明担当検事に確定申告橋下