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動画終盤で倫子が出家していなかったとしていますが、正しくは1021年に出家しています。こちらで訂正させていただきます。
もうちょっと大河で彰子のことに触れるかと思いましたが、今回の大河の内容とほぼ関係なくなってしまいました。すみません。
なかなか源氏物語書かないし、源氏物語にはあまり触れないし、こんなに後で政治のことで面白いことや他の登場人物が光る場面がたくさんあるのだから前半をもっとはしょってやってほしかったですでもすごくキレイで昔の人も今の人と同じように生きてたのだと感じ取れて面白かったです。平安大河、今後もいっぱいやってほしいです!
紫式部が主役の大河をやると聞いた時から思ってた。中宮彰子を主役にしたほうが良いのにって…天皇家の人物を主演にした大河はできないのは知ってるけど、そんな大河も見てみたかった。
@@wowowklc_emok 私もです、彼女こそまさに大和撫子の鑑として1人の女としても尊敬できますもん
彰子さまの大ファンです😂
次の女性の大河ドラマ主人公には彰子が良いと思います。
自分の妹の妍子に皇子が生まれれば自身の子供らの将来が末永く安泰ではないというのは、辛い心境でしょうね。そのためにいろいろ手を打っているやり方は、やはり賢い気質の人だったのだろうと感じます。紫式部を介しての実資とのやり取りや公卿らを慮り協調するのは、立派な政治家的性向です。道長の政のセンスや方法を最も受け継いで政治的に行動できたのは、頼通よりむしろ彰子のように感じられます。為時ではありませんが、おまえが男であったらなあ!と道長も密かに感じていたかもしれません。(でも女性だからこそ、国母になれたわけですが)天皇家と摂関家双方に君臨する最強の存在とは、この時代ならではの見事さであり、後の世の男尊女卑の時代の女性からは、羨望の的ですね。実母倫子が現世での位を保ち共に生存してくれたことも相まって、両支配階級(天皇家と摂関家)の確かな結びつきを実現した彰子は、この後も頼通を大いにバックアップして政をしっかり司って行くのでしょう。
倫子が出家していなかったと動画では説明していますが、正しくは1021年に出家しています。ただし、その後も摂関家の女家長として君臨した形です。参考文献の誤った記述をそのまま鵜呑みにしてしまいました。こちらで訂正させていただきます。申し訳ございません。
@@rekishock さん わざわざの訂正、ありがとうございます。自分のコメントながら、どこに出家のことを書いたか探してしまいました。😅視聴者のコメントまで丁寧に補足するのは、動画制作が年末立て込んでいるお忙しい中大変だと感じられ、レキショックさんの真摯な姿勢と温かい対応に感動しています。多くのユーチューバーさんがすべてのコメントに目を通されているわけではないと思われますが、それに反してレキショックさんの各自の質問でさえ丁寧にすぐ返信下さる対処もなかなかできないことです。これからも、多くの学びや発見を動画と共に期待しています。頑張られて下さい。
彰子は、源氏物語では最初は紫の上に近かったけど、成長して明石の上に近くなって行ったと思う。
敦康親王や中関白家の子孫たちにも気配りをし、手を差し伸べていたところが父と違ってまさに賢后ですねもしも妍子の遺児、禎子内親王とも上手く関係を築けていたら、院政開始はもっと遅れていたかもしれません
道長と倫子と彰子が談合して、道長が鞭、彰子が飴、要はガス抜き担当と役割分担していたかも。
賢后 素晴らしい
まさにクイーンオブ大和撫子ですね
藤原彰子VS道長。後継者 頼通 より国母彰子が 有能だった?
実妹を義娘にするってどういう気持ちなんだろう?
しかも二人も
後一条天皇と威子の間にできた章子内親王は、道長&倫子夫妻からみれば孫で曾孫、彰子からみれば孫で姪というややこしさ。
@@vianeplus 妹二人の義母となる彰子ですが、とはいえ彰子が999年に12歳(満年齢11歳)で土御門殿を出て入内した時、1,000年生まれの威子はまだ生まれていないんですよね。994年生まれの妍子でさえ6(5)歳。現代の狭い家で育つ姉妹と異なり、広い邸宅で、それぞれの乳母や女房たちに囲まれて育つので、いくら同母姉妹といっても、現代のわたしたちのような感覚ではなかったかもしれませんね。威子や嬉子に至ってはほとんど会ったこともなかったでしょうし、妍子でさえ同じ邸にいた記憶はおぼろげで、記憶にあるのは稀に対面しても両親が下座で畏まって対面する中宮様ですから。
19:18 この間に父の道長死去から半年後の長元元年(1028年)に関東で平忠常の乱、永承6年(1051年)に東北で前九年の役が起きておりさらには道長が「一家三后」を実現したのに対して頼通には子女に恵まれなかったため、後三条天皇、白河天皇と言う藤原氏に縁がない天皇の誕生により摂関政治は終わりを迎え変わって院政政治が始まる事になった。
そりゃ、三条天皇に道長が迎合することはあり得ない。妍子が中宮になったとはいえ、娍子も皇后にしろと言ったりしていたんだから、道長の血筋になるとは限らない。
ナレーションの速度だけで時間軸が進んでいくから、画面の文字を読もうとしてもすぐ消えてしまう。
賢后と、賢人右府・実資から言われてますし。 伯母で姑に当たる女院(東三条院)詮子と、父・道長の政治的センスを受け継ぎ、実資公は、少なくとも評価したのでしょう。たまたま、続けて男の子を産んだせいもあるけど、紫式部の教育の賜物もあって、道長家の繁栄の推進力になった、ってところでしょうか。 ただし、この摂関政治において、娘を天皇に嫁がせ、男の子を産み、次世代の母、母后(国母とも言う)にケース。それが王道で、皇子を産み、さらに、しっかりした娘で、その娘が一族を引き立てる素養がなければならない。そう言う訳で、政治的に女性の性を利用することにはなるが、平安時代は女の力は意外と大きなもので………。 師輔の娘である村上天皇の中宮安子(ゆっくり解説を参照)、兼家の娘で円融天皇の女御→皇太后(初めての女院さま)詮子、道長の娘で一条天皇の女御→中宮彰子(ゆっくり解説を参照)。 祖父、父と政治的ツールを学んできているのだから、兼家・道長は、外祖父摂政になれたのは、娘に恵まれたからでもあります。
まじで治天の君だわな、
悪知恵は親父道長譲りずら。
偏った意見😮💨道長はあくどい事も色々やったが、彰子は政治家として優秀だったし、華美を戒め、ライバルの息子も大切にし、貴族達の事も気を配り、実資に「賢后」と絶賛されるだけの事をやっている。定子は特に何も実績を残して無いし、むしろ愛欲に溺れて后の務め(祭祀等)を疎かにしていて、宮中でも世間からも非難されて亡くなった。その上、彰子の出産時に、定子は怨霊になって祟っている。彰子は道長より立場が上だし、一条天皇の遺志を貫き、かなり出来た人物。元々素養はあったが、最初は内気過ぎてその才能を発揮出来なかったが、夫を亡くしてからは、強くなったね。
本当にそうですよね!ここまで仁者と賢后を両立できた人がいるでしょうか…
もう少し時代の価値観や空気を大切にしてほしかったなあ この眉毛はないわ
動画終盤で倫子が出家していなかったとしていますが、正しくは1021年に出家しています。
こちらで訂正させていただきます。
もうちょっと大河で彰子のことに触れるかと思いましたが、今回の大河の内容とほぼ関係なくなってしまいました。
すみません。
なかなか源氏物語書かないし、源氏物語にはあまり触れないし、こんなに後で政治のことで面白いことや他の登場人物が光る場面がたくさんあるのだから前半をもっとはしょってやってほしかったです
でもすごくキレイで昔の人も今の人と同じように生きてたのだと感じ取れて面白かったです。
平安大河、今後もいっぱいやってほしいです!
紫式部が主役の大河をやると聞いた時から思ってた。中宮彰子を主役にしたほうが良いのにって…天皇家の人物を主演にした大河はできないのは知ってるけど、そんな大河も見てみたかった。
@@wowowklc_emok 私もです、彼女こそまさに大和撫子の鑑として1人の女としても尊敬できますもん
彰子さまの大ファンです😂
次の女性の大河ドラマ主人公には彰子が良いと思います。
自分の妹の妍子に皇子が生まれれば自身の子供らの将来が末永く安泰ではないというのは、辛い心境でしょうね。そのためにいろいろ手を打っているやり方は、やはり賢い気質の人だったのだろうと感じます。紫式部を介しての実資とのやり取りや公卿らを慮り協調するのは、立派な政治家的性向です。道長の政のセンスや方法を最も受け継いで政治的に行動できたのは、頼通よりむしろ彰子のように感じられます。為時ではありませんが、おまえが男であったらなあ!と道長も密かに感じていたかもしれません。(でも女性だからこそ、国母になれたわけですが)天皇家と摂関家双方に君臨する最強の存在とは、この時代ならではの見事さであり、後の世の男尊女卑の時代の女性からは、羨望の的ですね。実母倫子が現世での位を保ち共に生存してくれたことも相まって、両支配階級(天皇家と摂関家)の確かな結びつきを実現した彰子は、この後も頼通を大いにバックアップして政をしっかり司って行くのでしょう。
倫子が出家していなかったと動画では説明していますが、正しくは1021年に出家しています。
ただし、その後も摂関家の女家長として君臨した形です。
参考文献の誤った記述をそのまま鵜呑みにしてしまいました。こちらで訂正させていただきます。
申し訳ございません。
@@rekishock さん わざわざの訂正、ありがとうございます。自分のコメントながら、どこに出家のことを書いたか探してしまいました。😅視聴者のコメントまで丁寧に補足するのは、動画制作が年末立て込んでいるお忙しい中大変だと感じられ、レキショックさんの真摯な姿勢と温かい対応に感動しています。多くのユーチューバーさんがすべてのコメントに目を通されているわけではないと思われますが、それに反してレキショックさんの各自の質問でさえ丁寧にすぐ返信下さる対処もなかなかできないことです。これからも、多くの学びや発見を動画と共に期待しています。頑張られて下さい。
彰子は、源氏物語では最初は紫の上に近かったけど、成長して明石の上に近くなって行ったと思う。
敦康親王や中関白家の子孫たちにも気配りをし、手を差し伸べていたところが父と違ってまさに賢后ですね
もしも妍子の遺児、禎子内親王とも上手く関係を築けていたら、院政開始はもっと遅れていたかもしれません
道長と倫子と彰子が談合して、道長が鞭、彰子が飴、要はガス抜き担当と役割分担していたかも。
賢后 素晴らしい
まさにクイーンオブ大和撫子ですね
藤原彰子VS道長。
後継者 頼通 より国母彰子が 有能だった?
実妹を義娘にするってどういう気持ちなんだろう?
しかも二人も
後一条天皇と威子の間にできた章子内親王は、道長&倫子夫妻からみれば孫で曾孫、彰子からみれば孫で姪というややこしさ。
@@vianeplus 妹二人の義母となる彰子ですが、とはいえ彰子が999年に12歳(満年齢11歳)で土御門殿を出て入内した時、1,000年生まれの威子はまだ生まれていないんですよね。
994年生まれの妍子でさえ6(5)歳。
現代の狭い家で育つ姉妹と異なり、広い邸宅で、それぞれの乳母や女房たちに囲まれて育つので、いくら同母姉妹といっても、現代のわたしたちのような感覚ではなかったかもしれませんね。
威子や嬉子に至ってはほとんど会ったこともなかったでしょうし、妍子でさえ同じ邸にいた記憶はおぼろげで、記憶にあるのは稀に対面しても両親が下座で畏まって対面する中宮様ですから。
19:18 この間に父の道長死去から半年後の長元元年(1028年)に関東で平忠常の乱、永承6年(1051年)に東北で前九年の役が起きておりさらには道長が「一家三后」を実現したのに対して頼通には子女に恵まれなかったため、後三条天皇、白河天皇と言う藤原氏に縁がない天皇の誕生により摂関政治は終わりを迎え変わって院政政治が始まる事になった。
そりゃ、三条天皇に道長が迎合することはあり得ない。妍子が中宮になったとはいえ、娍子も皇后にしろと言ったりしていたんだから、道長の血筋になるとは限らない。
ナレーションの速度だけで時間軸が進んでいくから、画面の文字を読もうとしてもすぐ消えてしまう。
賢后と、賢人右府・実資から言われてますし。
伯母で姑に当たる女院(東三条院)詮子と、父・道長の政治的センスを受け継ぎ、実資公は、少なくとも評価したのでしょう。たまたま、続けて男の子を産んだせいもあるけど、紫式部の教育の賜物もあって、道長家の繁栄の推進力になった、ってところでしょうか。
ただし、この摂関政治において、娘を天皇に嫁がせ、男の子を産み、次世代の母、母后(国母とも言う)にケース。それが王道で、皇子を産み、さらに、しっかりした娘で、その娘が一族を引き立てる素養がなければならない。そう言う訳で、政治的に女性の性を利用することにはなるが、平安時代は女の力は意外と大きなもので………。
師輔の娘である村上天皇の中宮安子(ゆっくり解説を参照)、兼家の娘で円融天皇の女御→皇太后(初めての女院さま)詮子、道長の娘で一条天皇の女御→中宮彰子(ゆっくり解説を参照)。
祖父、父と政治的ツールを学んできているのだから、兼家・道長は、外祖父摂政になれたのは、娘に恵まれたからでもあります。
まじで治天の君だわな、
悪知恵は親父道長譲りずら。
偏った意見😮💨道長はあくどい事も色々やったが、彰子は政治家として優秀だったし、華美を戒め、ライバルの息子も大切にし、貴族達の事も気を配り、実資に「賢后」と絶賛されるだけの事をやっている。定子は特に何も実績を残して無いし、むしろ愛欲に溺れて后の務め(祭祀等)を疎かにしていて、宮中でも世間からも非難されて亡くなった。その上、彰子の出産時に、定子は怨霊になって祟っている。彰子は道長より立場が上だし、一条天皇の遺志を貫き、かなり出来た人物。元々素養はあったが、最初は内気過ぎてその才能を発揮出来なかったが、夫を亡くしてからは、強くなったね。
本当にそうですよね!ここまで仁者と賢后を両立できた人がいるでしょうか…
もう少し時代の価値観や空気を大切にしてほしかったなあ この眉毛はないわ