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この対談に巡り会えてとても幸せです。奇跡のようです!
Big fan of Ikuyo San, can someone please upload a translation in English? お願いします
仲道さんも、梅津さんも、いつまでもお若くて驚異的です。-ヴァルター・デュルが2018年の顕現節に亡くなったのをご存じでしょうか?2017年秋に、樋口隆一氏がチュービンゲン大学で講演なさった際にはまだお元気だったのですが、その約3か月後の急死でした。バーデン・ヴュルテンベルク州が新シューベルト全集への出資を渋っているそうで、大作曲家校訂全集の中で、新シューベルト全集が真っ先に頓挫するのではといわれています。コロナ禍に続き、第三次世界大戦勃発かといわれている現在、暢気に大作曲家校訂全集でもないだろうと言われてしまえばそれまでなのですが。
はじめの方を視聴して、気になりましたので・・・コメントします。物語もそうですが、もう一つは哲学だと思います。だから全部ではないですね。事実の物語もありますし。楽聖は、音楽で思想・哲学を語り掛けたようにも思います。音楽の父のフーガは物語ですか、宗教音楽は(物語を通じてかもしれませんが)、キリスト教信仰・神への揺るぎない表明による世界の認識と捉えられます。物語によるアプローチではありません。
私は世界を認識するのは感性と知性を使ってだと思っています。そしてこの認識して判断するものが心であると。般若心経というのは知恵の心の経典であり、心を五蘊に向けたり向けなかったりするということを言っているのだと思っています。心を五蘊に向けなければ五蘊は空しくなりますから『五蘊皆空』です。w では『色即是空 空即是色』というのはどういうことかと言いますと、心を五蘊のうちの色(目が見たもの)に向けなければ色は空しくなることを言っているのだと。なぜなら般若心経の中に『無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法』というのがあって、『色』には『眼』が対応していますからね。w 例えば、男なら綺麗な女性を見れば心をその女性に向けますが、そのうち心をその女性に向けなくなります。心を色に向けなれば色は空しくなりますから空ですよね。故に『色不異空 空不異色』であり『是故空中無色』(この故に空の中に色はないんだよと)でもあると。 禅宗で言うところの無心というのは、心を無にするのではなく、心を無に向けるということだと思います。心を無に向けると心を邪魔するものが何も無くなり、心は何にでも向けられる自由な状態になるということだと思います。w では、心を無に向けるとどうなるのかについては、『人生を変える学校』というユーチューバーの『【1万円本】「盛大な人生①」「盛大な人生」②』中村天風著 究極のまとめ』を見て、語られていることを聞いてみて下さい。w 心が感性と知性を使って認識するものだとすれば、感性の悪い人は物事を正しく認識できませんから、どんなに良い演奏を聴いてもそれを感じて正しく認識することが出来ないことになりますから、素晴らしい演奏を素晴らしいと感じたければ感性を良くしなければならないと思って感覚、特に味覚を大切にして毎日を生きています。w ところで、人間が物事を認識するのは本来、感性(感覚)優先なんですね。あ、これは何なんだとか、これはどういうことなんだと物事を見たり聞いたり臭ったり味わったり触れたりして、その後で知性(知識)がそれを補うんですね。ですから、物事を正しく認識するためにはまず感性が良くなければいけないんですね。w 明治時代に生まれ、明治大正昭和と生きて日本を代表する各界の著名人に大きな影響を与えた哲学者、中村天風氏も『心を磨く』(PHP)という講演録の中で、「五官感覚は、その人の観念や思想の根本となる。感じればこそ、思い考える。」とおっしゃっています。w 本当に優れた人物というのはどんな分野の人でも皆んな感性が非常に優れていて物凄く感覚優先なんです。ですから、どんなに大きな権力に対してでも理不尽なことは感覚が受け入れず、絶対に我慢出来ないし従えないわけです。モーツァルトが大司教の命令に従えずに職を辞職したのも、千利休が秀吉に従えずに切腹を選んだのもそれが原因だと思います。w
この対談に巡り会えてとても幸せです。奇跡のようです!
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仲道さんも、梅津さんも、いつまでもお若くて驚異的です。
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ヴァルター・デュルが2018年の顕現節に亡くなったのをご存じでしょうか?
2017年秋に、樋口隆一氏がチュービンゲン大学で講演なさった際にはまだお元気だったのですが、その約3か月後の急死でした。
バーデン・ヴュルテンベルク州が新シューベルト全集への出資を渋っているそうで、大作曲家校訂全集の中で、新シューベルト全集が真っ先に頓挫するのではといわれています。
コロナ禍に続き、第三次世界大戦勃発かといわれている現在、暢気に大作曲家校訂全集でもないだろうと言われてしまえばそれまでなのですが。
はじめの方を視聴して、気になりましたので・・・コメントします。
物語もそうですが、もう一つは哲学だと思います。
だから全部ではないですね。事実の物語もありますし。
楽聖は、音楽で思想・哲学を語り掛けたようにも思います。
音楽の父のフーガは物語ですか、宗教音楽は(物語を通じてかもしれませんが)、キリスト教信仰・神への揺るぎない表明による世界の認識と捉えられます。物語によるアプローチではありません。
私は世界を認識するのは感性と知性を使ってだと思っています。そしてこの認識して判断するものが心であると。般若心経というのは知恵の心の経典であり、心を五蘊に向けたり向けなかったりするということを言っているのだと思っています。心を五蘊に向けなければ五蘊は空しくなりますから『五蘊皆空』です。w
では『色即是空 空即是色』というのはどういうことかと言いますと、心を五蘊のうちの色(目が見たもの)に向けなければ色は空しくなることを言っているのだと。なぜなら般若心経の中に『無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法』というのがあって、『色』には『眼』が対応していますからね。w
例えば、男なら綺麗な女性を見れば心をその女性に向けますが、そのうち心をその女性に向けなくなります。心を色に向けなれば色は空しくなりますから空ですよね。故に『色不異空 空不異色』であり『是故空中無色』(この故に空の中に色はないんだよと)でもあると。
禅宗で言うところの無心というのは、心を無にするのではなく、心を無に向けるということだと思います。心を無に向けると心を邪魔するものが何も無くなり、心は何にでも向けられる自由な状態になるということだと思います。w
では、心を無に向けるとどうなるのかについては、『人生を変える学校』というユーチューバーの『【1万円本】「盛大な人生①」「盛大な人生」②』中村天風著 究極のまとめ』を見て、語られていることを聞いてみて下さい。w
心が感性と知性を使って認識するものだとすれば、感性の悪い人は物事を正しく認識できませんから、どんなに良い演奏を聴いてもそれを感じて正しく認識することが出来ないことになりますから、素晴らしい演奏を素晴らしいと感じたければ感性を良くしなければならないと思って感覚、特に味覚を大切にして毎日を生きています。w
ところで、人間が物事を認識するのは本来、感性(感覚)優先なんですね。あ、これは何なんだとか、これはどういうことなんだと物事を見たり聞いたり臭ったり味わったり触れたりして、その後で知性(知識)がそれを補うんですね。ですから、物事を正しく認識するためにはまず感性が良くなければいけないんですね。w
明治時代に生まれ、明治大正昭和と生きて日本を代表する各界の著名人に大きな影響を与えた哲学者、中村天風氏も『心を磨く』(PHP)という講演録の中で、「五官感覚は、その人の観念や思想の根本となる。感じればこそ、思い考える。」とおっしゃっています。w
本当に優れた人物というのはどんな分野の人でも皆んな感性が非常に優れていて物凄く感覚優先なんです。ですから、どんなに大きな権力に対してでも理不尽なことは感覚が受け入れず、絶対に我慢出来ないし従えないわけです。モーツァルトが大司教の命令に従えずに職を辞職したのも、千利休が秀吉に従えずに切腹を選んだのもそれが原因だと思います。w