Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
中尾さんが巨人に来てくれたときは嬉しかった。肩も強かったし、バッティングも良かったですね。
中尾はいい肩してたし、バッティングが素晴らしかった。中尾のおかげで中日は優勝出来た。
この試合、目の前で見ました😂今でも記憶あります🎉
中尾さん、1982年のMVPですね。江川さんが1981年のMVPなので、MVP対談ですね。
中尾さん今でこそ笑顔を絶やさない好々爺みたいですが、当時は強気で厳しく笑顔をみせない仏頂面、野武士軍団にふさわしい印象でしたよ😆現在の印象と変わらなくなったのは巨人の一員になって以降からでしょう。野手が捕球からタッチにいくまで距離を考え低い送球を心がけると思いますが、よりその思いが強いような低い弾道という感じのすごい送球は特に記憶に残ってます。
同級生トークってやっぱり面白い
巨人ファンとしては、中尾さんが巨人に来て、斎藤雅樹投手を覚醒させてくれたのは感謝しかない
同級生対談は江川さん一番リラックスしてるから楽しい。
意外とファンの方が覚えてたりしますよね、あの名古屋のサヨナラゲームは当時子供でしたけど今でもはっきり覚えてる、中尾さんのライト戦の同点タイムリーもホント良く覚えてます。あの当時の中日の雰囲気、名古屋球場の雰囲気がなんか独特で凄かったな
中尾さんは82年のMVPだよな。あの年優勝インタビューで近藤貞雄監督がファンに帽子取られたの覚えてるな。
近藤貞雄監督,ジムマーシャル総合コーチ😮
1982は前半戦はメチャ調子がよかった25勝する勢いでも後半戦は失速して19勝止まり2年連続20勝と3年連続最多勝、そしてリーグ優勝も逃してしまったシーズンまさか肩を痛めていたとは…
82年の夏に不二家のCM取りで肩を痛めた
中尾さんと江川さんと一緒に勉強して女子のソフトボールチームと試合したなんて逸話は知らなかった。青春の1ページですね
中日と巨人の両方の優勝に貢献した中尾さんリーグ優勝したのが中日の時も巨人の時も横浜スタジアムでしたね
中尾さんって、当時では珍しい「格好良いキャッチャー」だった。それまで「打てるキャッチャー」といえば、田淵さんとかドカベン山田とかのホームランバッターのイメージが強かったんだけど(さすがにノムさんの全盛期は知らない)、巧打者で3番を打つ中尾さんの登場は衝撃だった。
古田選手の前のニューキャッチャーって感じだった、細くて走れて打てて!
1982年の最終戦(10月9日 横浜スタジアム)は、江川投手-西本投手のリレーでしたが、1対3で巨人が破れています。江川投手は4回2/3を投げ、田代・ラム・山下大にソロホームラン3発を打たれて敗戦投手になっています。西本投手は3回1/3を投げ、自責点0でした。
たらればですが、西本さんが先発していれば結果は違っていたかもしれません。藤田監督の温情が裏目に出た試合でした。翌年の日本シリーズは逆のパターンで西武に負けました。
@@shonanjohnlennon ◇エースが「投げられません」に投げさせて、やる気満々の場面で投げさせないって・・・・・・。だから江川さんが監督やれば『そこの配慮』が出来るはずなんだけどね。
有田修三さんとの裏話もしてほしいね😮江川さん、久々に同学年がゲストやからテンション上がってるやん🙌
江川さんは後輩でもさん付けで話すようにしてるもんね、同級生いいね。
江川さんがジャイアンツで後2年現役続けていたら中尾さんと同学年バッテリー見たかったですね。
82年…?…中日が優勝を決めた時、中尾の捕手マスクがファンに持ち去られたと記憶しています。
近藤貞夫さんもメガネを取られて怒ってた。
警備 ユルかったですね、当時
@@reomikami 優勝した瞬間どっとなだれ込んで来たので警備員も止められません。
1982年、セリーグのMVPは中尾です。覚えています。巨人が優勝していたら、MVPは江川だった。
江川卓,中尾孝義,岩崎宏美 江川は昭和56年第23回日本レコード大賞ゲスト 中尾は昭和57年第24回,平成元年第31回日本レコード大賞ゲスト
「6回3失点なんてクオリティじゃない」…冗談でも「オレは良く投げた」って言わない江川さん、流石です。もう完投で勝つことが前提ですもんね。「イニングイーター」っていう言葉、江川さんはどう思われているのか、ちょっと気になります。
中日と巨人が優勝争いをしてた当時、ホームでのクロスプレイ、中尾さんのブロックからの空タッチ(ファンブルしてボールが脇の下に)、でも主審は気が付がづけアウトのジャッジ。牧野コーチが、コーチャーズボックスからホームに走り込んで必死の抗議、でも覆らす、アウト。その日中日は負け、諦めムードでしたが、そこから勝ち進み、最終戦で大洋に勝利。この年は、私も燃えてました。
1982年最終戦、横浜球場で江川さんがソロホームラン3発覚えてます!!巨人はどうしても勝ちたい試合だったので、その後確か西本さんがリリーフ・・・結局負けて、中日が最終戦勝利して優勝でした!!江川さん、特にナゴヤ球場で中日に相性良かった印象が有ります!!でも勝負どこで中尾さんに痛い目にあってますね!!
あの中日戦、9回に4点取られた試合、当時中学生だった私は物凄いショックでした。「江川だけは大丈夫」というまさに江川神話が崩壊した時でした。最終戦の3発のホームランで敗れた試合も…今考えると、当時の藤田監督があまりにも江川に拘り過ぎたのが敗因だったと思う。確かに、まぁ、この時には肩を痛めてたので球速は出てなかったですが…
藤田監督は名将だと思うが83年日本シリーズの投手継投失敗とか、現役時代のあだ名“悲運のエース”は監督になってもついて回ったような。藤田の期待に江川投手が応えられなかっただけなのか?この頃81〜83年は幻の第4期黄金時代だった。
昼の田代、夜の江川って言われていたのは、その試合が所以の一つかもって思いました
江川さん。この試合、覚えています。テレビから、ラジオに切り替えたことを覚えています。江川さんが打たれたことがショックでした。モッカ選手。中尾選手。嫌だったなあ。中尾さんは勝負強い☺️打てる捕手でした✨
大逆転負けした中日戦を良く覚えています。中尾さんは江川さんに負けが付かなかったと言われましたが、ランナーを置いての降板でしたので江川さんが敗戦投手でした。あの年は31試合登板されて全ての試合に勝ち負けが付いたと記憶しています。
そうです。10回に続投して先頭バッターのサードゴロを原がエラーして角にスイッチ。大島選手にサヨナラ食らったため江川さんが敗戦投手。31試合19勝12敗。あのときは江川さんが何処かで勝っていれば。
@@じゃねっと朱美 ◇「大杉の1球」。
昭和57年中日の優勝は、130試合中17試合前後の引き分けがあって、勝率で有利な状況だった。
大学2年でずっと中日ファンだった私は、ここで話をされていることは全部覚えている。中尾が江川からライト前タイムリーを打ったことはもちろん、中日と横浜大洋との3連戦はすべて球場で見た。シーズン130試合目に、その年の開幕直後にケガをした小松辰雄が先発して完封。最後に三振を取って中尾と抱き合ったのは、中日ファンとしては最高の思い出。翌日のトーチューの1面はこの写真で、見出しは「嗚呼、奇跡の戦士ら」だった。あと自分は中尾と同じ大学だったので、中尾の応援歌が「スター専修」だったのがメチャ嬉しかった。
ありました ナゴヤ球場でしたね 連打されたんですよね
◇巨人が中日に負ける年はいつも「勝率」でやられる印象。’74年:巨人71勝50敗9分勝率.587/中日70勝49敗11分勝率.588’82年:巨人66勝50敗14分勝率.569/中日64勝47敗19分勝率.577◇中尾さんが日本で最初に【捕手でヘルメット被った選手】だったかな?
高橋慶彦さんのベスト9のキャッチャーは中尾さんと言っていた。とにかくボール処理が早くて凄かったと言っていた。
同点タイムリー2ベース打ったのが中尾さんでした。
竜には、ズルいコトするイメージ 昔から なくフリースインガーの大味な野球近藤監督・山内監督の時代は、とくに
校友会…
1982の中日は何もしてなかったと思いますよ😃正直、今と違ってポストシーズンありませんが、終盤の江川さんというか日本シリーズの江川さんは勝負強かったイメージはないです 強かったのは81年の日ハムぐらいかな原さんも日本シリーズ強かったイメージないですが、中畑さんや西本さんが日本シリーズ強かったイメージですね✨
田尾と長崎の首位打者争いの年だっけ?ナゴヤの試合巨人が勝ってれば問題なく巨人が優勝したと言われてる年だね。山倉や有田は外主体のオーソドックスなリードをするけど中尾はインコースにバンバン行く強気なリードだったね。
中日の優勝が懸かった最終戦(大洋戦)で、長崎に首位打者を獲らせるために、田尾が全打席敬遠された。おかげで試合は中日のワンサイドゲームになった。その時の大洋の監督は、かの関根潤三氏。
江川さんに質問「ヒットエンドラン」と「ランエンドヒット」の違いについて「解説」お願いします。
中尾さんって中日のイメージ殆ど無いんよなぁ巨人の名捕手ってイメージが強い。
中尾さんが巨人に来てくれたときは嬉しかった。
肩も強かったし、バッティングも良かったですね。
中尾はいい肩してたし、バッティングが素晴らしかった。
中尾のおかげで中日は優勝出来た。
この試合、目の前で見ました😂今でも記憶あります🎉
中尾さん、1982年のMVPですね。江川さんが1981年のMVPなので、MVP対談ですね。
中尾さん今でこそ笑顔を絶やさない好々爺みたいですが、当時は強気で厳しく笑顔をみせない仏頂面、野武士軍団にふさわしい印象でしたよ😆現在の印象と変わらなくなったのは巨人の一員になって以降からでしょう。
野手が捕球からタッチにいくまで距離を考え低い送球を心がけると思いますが、よりその思いが強いような低い弾道という感じのすごい送球は特に記憶に残ってます。
同級生トークってやっぱり面白い
巨人ファンとしては、中尾さんが巨人に来て、斎藤雅樹投手を覚醒させてくれたのは感謝しかない
同級生対談は江川さん一番リラックスしてるから楽しい。
意外とファンの方が覚えてたりしますよね、あの名古屋のサヨナラゲームは当時子供でしたけど今でもはっきり覚えてる、中尾さんのライト戦の同点タイムリーもホント良く覚えてます。
あの当時の中日の雰囲気、名古屋球場の雰囲気がなんか独特で凄かったな
中尾さんは82年のMVPだよな。あの年優勝インタビューで近藤貞雄監督がファンに帽子取られたの覚えてるな。
近藤貞雄監督,ジムマーシャル総合コーチ😮
1982は前半戦はメチャ調子がよかった
25勝する勢い
でも後半戦は失速して19勝止まり
2年連続20勝と3年連続最多勝、そしてリーグ優勝も逃してしまったシーズン
まさか肩を痛めていたとは…
82年の夏に不二家のCM取りで肩を痛めた
中尾さんと江川さんと一緒に勉強して女子のソフトボールチームと試合したなんて逸話は知らなかった。
青春の1ページですね
中日と巨人の両方の優勝に貢献した中尾さん
リーグ優勝したのが中日の時も巨人の時も横浜スタジアムでしたね
中尾さんって、当時では珍しい「格好良いキャッチャー」だった。それまで「打てるキャッチャー」といえば、田淵さんとかドカベン山田とかのホームランバッターのイメージが強かったんだけど(さすがにノムさんの全盛期は知らない)、巧打者で3番を打つ中尾さんの登場は衝撃だった。
古田選手の前のニューキャッチャーって感じだった、細くて走れて打てて!
1982年の最終戦(10月9日 横浜スタジアム)は、江川投手-西本投手のリレーでしたが、1対3で巨人が破れています。
江川投手は4回2/3を投げ、田代・ラム・山下大にソロホームラン3発を打たれて敗戦投手になっています。西本投手は3回1/3を投げ、自責点0でした。
たらればですが、西本さんが先発していれば結果は違っていたかもしれません。
藤田監督の温情が裏目に出た試合でした。
翌年の日本シリーズは逆のパターンで西武に負けました。
@@shonanjohnlennon ◇エースが「投げられません」に投げさせて、
やる気満々の場面で投げさせないって・・・・・・。
だから江川さんが監督やれば『そこの配慮』が出来るはずなんだけどね。
有田修三さんとの裏話もしてほしいね😮江川さん、久々に同学年がゲストやからテンション上がってるやん🙌
江川さんは後輩でもさん付けで話すようにしてるもんね、同級生いいね。
江川さんがジャイアンツで後2年現役続けていたら中尾さんと同学年バッテリー見たかったですね。
82年…?…中日が優勝を決めた時、中尾の捕手マスクがファンに持ち去られたと記憶しています。
近藤貞夫さんもメガネを取られて怒ってた。
警備 ユルかったですね、当時
@@reomikami 優勝した瞬間どっとなだれ込んで来たので警備員も止められません。
1982年、セリーグのMVPは中尾です。覚えています。巨人が優勝していたら、MVPは江川だった。
江川卓,中尾孝義,岩崎宏美 江川は昭和56年第23回日本レコード大賞ゲスト 中尾は昭和57年第24回,平成元年第31回日本レコード大賞ゲスト
「6回3失点なんてクオリティじゃない」…
冗談でも「オレは良く投げた」って言わない江川さん、流石です。
もう完投で勝つことが前提ですもんね。
「イニングイーター」っていう言葉、江川さんはどう思われているのか、
ちょっと気になります。
中日と巨人が優勝争いをしてた当時、ホームでのクロスプレイ、中尾さんのブロックからの空タッチ(ファンブルしてボールが脇の下に)、でも主審は気が付がづけアウトのジャッジ。
牧野コーチが、コーチャーズボックスからホームに走り込んで必死の抗議、でも覆らす、アウト。
その日中日は負け、諦めムードでしたが、そこから勝ち進み、最終戦で大洋に勝利。
この年は、私も燃えてました。
1982年最終戦、横浜球場で江川さんがソロホームラン3発覚えてます!!巨人はどうしても勝ちたい試合だったので、その後確か西本さんがリリーフ・・・結局負けて、中日が最終戦勝利して優勝でした!!江川さん、特にナゴヤ球場で中日に相性良かった印象が有ります!!でも勝負どこで中尾さんに痛い目にあってますね!!
あの中日戦、9回に4点取られた試合、当時中学生だった私は物凄いショックでした。
「江川だけは大丈夫」というまさに江川神話が崩壊した時でした。
最終戦の3発のホームランで敗れた試合も…
今考えると、当時の藤田監督があまりにも江川に拘り過ぎたのが敗因だったと思う。
確かに、まぁ、この時には肩を痛めてたので球速は出てなかったですが…
藤田監督は名将だと思うが
83年日本シリーズの投手継投失敗とか、現役時代のあだ名“悲運のエース”は監督になってもついて回ったような。藤田の期待に江川投手が応えられなかっただけなのか?
この頃81〜83年は幻の第4期黄金時代だった。
昼の田代、夜の江川って言われていたのは、その試合が所以の一つかもって思いました
江川さん。この試合、覚えています。テレビから、ラジオに切り替えたことを覚えています。江川さんが打たれたことがショックでした。モッカ選手。中尾選手。嫌だったなあ。中尾さんは勝負強い☺️打てる捕手でした✨
大逆転負けした中日戦を良く覚えています。中尾さんは江川さんに負けが付かなかったと言われましたが、ランナーを置いての降板でしたので江川さんが敗戦投手でした。あの年は31試合登板されて全ての試合に勝ち負けが付いたと記憶しています。
そうです。
10回に続投して先頭バッターのサードゴロを原がエラーして角にスイッチ。大島選手にサヨナラ食らったため江川さんが敗戦投手。31試合19勝12敗。あのときは江川さんが何処かで勝っていれば。
@@じゃねっと朱美 ◇「大杉の1球」。
昭和57年中日の優勝は、130試合中17試合前後の引き分けがあって、勝率で有利な状況だった。
大学2年でずっと中日ファンだった私は、ここで話をされていることは全部覚えている。中尾が江川からライト前タイムリーを打ったことはもちろん、中日と横浜大洋との3連戦はすべて球場で見た。シーズン130試合目に、その年の開幕直後にケガをした小松辰雄が先発して完封。最後に三振を取って中尾と抱き合ったのは、中日ファンとしては最高の思い出。翌日のトーチューの1面はこの写真で、見出しは「嗚呼、奇跡の戦士ら」だった。
あと自分は中尾と同じ大学だったので、中尾の応援歌が「スター専修」だったのがメチャ嬉しかった。
ありました ナゴヤ球場でしたね 連打されたんですよね
◇巨人が中日に負ける年はいつも「勝率」でやられる印象。
’74年:巨人71勝50敗9分勝率.587/中日70勝49敗11分勝率.588
’82年:巨人66勝50敗14分勝率.569/中日64勝47敗19分勝率.577
◇中尾さんが日本で最初に【捕手でヘルメット被った選手】だったかな?
高橋慶彦さんのベスト9のキャッチャーは中尾さんと言っていた。とにかくボール処理が早くて
凄かったと言っていた。
同点タイムリー2ベース打ったのが中尾さんでした。
竜には、ズルいコトするイメージ 昔から なく
フリースインガーの大味な野球
近藤監督・山内監督の時代は、とくに
校友会…
1982の中日は何もしてなかったと思いますよ😃
正直、今と違ってポストシーズンありませんが、終盤の江川さんというか日本シリーズの江川さんは勝負強かったイメージはないです 強かったのは81年の日ハムぐらいかな
原さんも日本シリーズ強かったイメージないですが、中畑さんや西本さんが日本シリーズ強かったイメージですね✨
田尾と長崎の首位打者争いの年だっけ?
ナゴヤの試合巨人が勝ってれば問題なく巨人が優勝したと言われてる年だね。
山倉や有田は外主体のオーソドックスなリードをするけど中尾はインコースにバンバン行く強気なリードだったね。
中日の優勝が懸かった最終戦(大洋戦)で、長崎に首位打者を獲らせるために、田尾が全打席敬遠された。おかげで試合は中日のワンサイドゲームになった。
その時の大洋の監督は、かの関根潤三氏。
江川さんに質問「ヒットエンドラン」と「ランエンドヒット」の違いについて「解説」お願いします。
中尾さんって中日のイメージ殆ど無いんよなぁ巨人の名捕手ってイメージが強い。