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崩御してから即位の礼を受ける後柏原天皇が気の毒すぎる…。
なんか葬式挙げられないで、布団に寝かせたままでミイラ化した天皇いなかったっけ…まるで現代の8050問題のパイオニアだな…
23:12 この時は幕府が支援しなかったから質素になった。そして桜町天皇の時には幕府から支援があった。
前列がないからという理由で、新たな試みが反対されて争いになるのは、日本の悪い所ですね……(;=´人`=)
それはしょーがない。中学校の歴史で神祇官と太政官という2官8省って習うんだけど、この時代の朝廷は99%神祇官、つまり宗教儀式の体現者なので。
0:18: 👑 後土御門天皇が貧乏だった理由とその後の貧乏な天皇の話を解説していく3:48: 📚 大人文明の欄の起きた原因は畑山県制無双とも称えられた寒冷化の畑山家の後継者争いと守護細川と山の衝突など複数の争いが重なったことである。7:13: 😔 後土御門天皇が上位を表明したが貧窮のため宴会を開けず、辞退したことが悔しい。10:36: 🔄 乗り物と腰の違いについての議論があり、乗り物を使ってもいいかどうかの問題が浮上する。14:05: 👑 長義は儀式の復活を試みたが、費用の問題で中止された。17:27: 💰 第104代5柏原天皇は貧乏が原因で即位が遅れ、資金不足で元服の義を行えず借金をすることになった。21:23: 😅 柏原天皇の即位の式が行われるまでには多額の費用と時間がかかった。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
基本的には天皇家の長として治天となって君臨する方が良いのよな中世の帝は割と譲位したがってるわけよ(例外はいるけど
面白かったです。
八瀬童子の子孫ですが、後醍醐天皇を尊氏の追手から逃げるのを手助けした以降の、室町幕府や朝廷への食い込んでいく過程がいまいちピンと来なかったのですが動画の説明で見えてきました。八瀬童子は後土御門天皇、後柏原天皇からも綸旨を賜っているのですが、儀式が出来ないとにっちもさっちも行かなかったので、諸役の免除をするから協力してくれと頼まれる事で、皇室との関係が深まったようです。(権力は室町幕府が持っています)輿の話がありましたが、天皇みずから比叡山に登られる時に八瀬童子が同行したり輿を担いで登り下りを手助けしていましたが、それにより信頼され関係が深まったようです。
旧皇族の復帰は前例があるが、政府が反対してできない現代。
もう面倒だから応仁の乱は応仁の乱のままでええやろ
島原の乱も最近は島原・天草一揆と呼ばれている。
戦国時代の朝廷の商売は官位を売る事だったわけだが戦国大名の官位の大部分は自称だった。つまり朝廷の許しを得ることはなく、勝手に名乗っただけだったのだがな織田信長あたりは、平朝臣織田上総介三郎信長となっているが。平朝臣は、平が本姓を意味し、三郎は日常使う名前で、信長は忌み名。身分が上位の者か親のみが話すことが出来る名前で死後、墓標に刻まれる名前でもあったから忌み名とも呼ばれたそして上総介の部分は、上総国(現在の千葉県の一部)の国司を意味するが。これも勝手に名乗っているだけで、朝廷の許しを得ているかどうかわからんしかし朝廷に金を送れば、それなりの血筋であることを証明すれば官位は売ってもらえたようだ。信長は合理的な人物だから、官位にそれほど価値を感じてないが。将軍や天皇に謁見するのに必要だと、のちに朝廷から許しを得て「従五位下弾正小忠」と弾正台という官位を得ていたな
戦国大名も家臣に勝手に官位を与えていた。武田の重臣の馬場美濃守の美濃守とか。
信長青年は幕府復興に燃えているから合理的とかそういうのじゃない気はする
柏原なんて天皇は過去にいないはずなのになんで『後』がついたんだろ?
桓武天皇の別名が柏原帝だったそうです
@@藤原帆花 さま勉強になりました。ありがとうございます。
この後の「後奈良天皇」は平城天皇の二代目、という位置付けですね。ここで「平城」は「へいぜい」と読みますが、当初は「ならてんのう」と称した可能性があります。将来、「平成天皇」が諡号となれば、混乱を避けるため、「ならてんのう」が復活するかもしれません。
商人からの援護はなかったのかしらね
藤原道長の御堂関白記によると、一条天皇の遺言で、「火葬は嫌だから土葬にして妻の定子の隣に埋葬して欲しい」と頼まれていたのに、うっかり忘れていて火葬にしてしまったというエピソードが書かれいいる。その後の三条天皇も、前例にのっとりということで火葬にされてしまっている。後土御門天皇も火葬でも問題はなかったと思う。
実はその日の食事にも困っていたらしい。そんな状況を川端道喜が見て朝ご飯を献上するようになった。これが現在も続く粽屋の川端道喜だとか。
一般民衆はかなり豊かに暮らしていたのではありませんか。外国では、フランス料理のように高貴な身分の人の食事がその国の御馳走ですが、日本では「寿司」のように一般民衆の食べ物がご馳走になっています。これが日本社会が安定しており、革命などが起きなかった理由だとする説があります。身分が高くなるほど金がない、逆に身分が低い一般民衆はけっこう豊か、だから不満がたまりにくい社会だったと思います。
法は尊きに加えず❓
後奈良天皇は?
あなたのコメントに気付くのが遅れて、「後柏原天皇」に関するコメントへの返信として書込みました。御参照ください。
貧乏?
最近、めちゃくちゃ金掛けて退位した夫婦かいたね。
日本語で書け
退位・・・?
譲位の間違いね
米国に渡米された方でしょうか?その方なら「退位」ではなく、「臣籍降下」ですが…
日本の話?イギリスの話?
崩御してから即位の礼を受ける後柏原天皇が気の毒すぎる…。
なんか葬式挙げられないで、布団に寝かせたままでミイラ化した天皇いなかったっけ…
まるで現代の8050問題のパイオニアだな…
23:12 この時は幕府が支援しなかったから質素になった。そして桜町天皇の時には幕府から支援があった。
前列がないからという理由で、新たな試みが反対されて争いになるのは、日本の悪い所ですね……
(;=´人`=)
それはしょーがない。
中学校の歴史で神祇官と太政官という2官8省って習うんだけど、この時代の朝廷は99%神祇官、つまり宗教儀式の体現者なので。
0:18: 👑 後土御門天皇が貧乏だった理由とその後の貧乏な天皇の話を解説していく
3:48: 📚 大人文明の欄の起きた原因は畑山県制無双とも称えられた寒冷化の畑山家の後継者争いと守護細川と山の衝突など複数の争いが重なったことである。
7:13: 😔 後土御門天皇が上位を表明したが貧窮のため宴会を開けず、辞退したことが悔しい。
10:36: 🔄 乗り物と腰の違いについての議論があり、乗り物を使ってもいいかどうかの問題が浮上する。
14:05: 👑 長義は儀式の復活を試みたが、費用の問題で中止された。
17:27: 💰 第104代5柏原天皇は貧乏が原因で即位が遅れ、資金不足で元服の義を行えず借金をすることになった。
21:23: 😅 柏原天皇の即位の式が行われるまでには多額の費用と時間がかかった。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
基本的には天皇家の長として治天となって君臨する方が良いのよな
中世の帝は割と譲位したがってるわけよ(例外はいるけど
面白かったです。
八瀬童子の子孫ですが、後醍醐天皇を尊氏の追手から逃げるのを手助けした以降の、室町幕府や朝廷への食い込んでいく過程がいまいちピンと来なかったのですが動画の説明で見えてきました。
八瀬童子は後土御門天皇、後柏原天皇からも綸旨を賜っているのですが、儀式が出来ないとにっちもさっちも行かなかったので、諸役の免除をするから協力してくれと頼まれる事で、皇室との関係が深まったようです。(権力は室町幕府が持っています)
輿の話がありましたが、天皇みずから比叡山に登られる時に八瀬童子が同行したり輿を担いで登り下りを手助けしていましたが、それにより信頼され関係が深まったようです。
旧皇族の復帰は前例があるが、政府が反対してできない現代。
もう面倒だから応仁の乱は応仁の乱のままでええやろ
島原の乱も最近は島原・天草一揆と呼ばれている。
戦国時代の朝廷の商売は官位を売る事だったわけだが
戦国大名の官位の大部分は自称だった。つまり朝廷の許しを得ることはなく、勝手に名乗っただけだったのだがな
織田信長あたりは、平朝臣織田上総介三郎信長となっているが。平朝臣は、平が本姓を意味し、三郎は日常使う名前で、信長は忌み名。
身分が上位の者か親のみが話すことが出来る名前で死後、墓標に刻まれる名前でもあったから忌み名とも呼ばれた
そして上総介の部分は、上総国(現在の千葉県の一部)の国司を意味するが。これも勝手に名乗っているだけで、朝廷の許しを得ているかどうかわからん
しかし朝廷に金を送れば、それなりの血筋であることを証明すれば官位は売ってもらえたようだ。
信長は合理的な人物だから、官位にそれほど価値を感じてないが。将軍や天皇に謁見するのに必要だと、のちに朝廷から許しを得て「従五位下弾正小忠」と
弾正台という官位を得ていたな
戦国大名も家臣に勝手に官位を与えていた。武田の重臣の馬場美濃守の美濃守とか。
信長青年は幕府復興に燃えているから合理的とかそういうのじゃない気はする
柏原なんて天皇は過去にいないはずなのになんで『後』がついたんだろ?
桓武天皇の別名が柏原帝だったそうです
@@藤原帆花 さま
勉強になりました。ありがとうございます。
この後の「後奈良天皇」は平城天皇の二代目、という位置付けですね。ここで「平城」は「へいぜい」と読みますが、当初は「ならてんのう」と称した可能性があります。将来、「平成天皇」が諡号となれば、混乱を避けるため、「ならてんのう」が復活するかもしれません。
商人からの援護はなかったのかしらね
藤原道長の御堂関白記によると、一条天皇の遺言で、
「火葬は嫌だから土葬にして妻の定子の隣に埋葬して
欲しい」と頼まれていたのに、うっかり忘れていて火葬にしてしまったというエピソードが書かれいいる。
その後の三条天皇も、前例にのっとりということで火葬にされてしまっている。
後土御門天皇も火葬でも問題はなかったと思う。
実はその日の食事にも困っていたらしい。そんな状況を川端道喜が見て朝ご飯を献上するようになった。これが現在も続く粽屋の川端道喜だとか。
一般民衆はかなり豊かに暮らしていたのではありませんか。外国では、フランス料理のように高貴な身分の人の食事がその国の御馳走ですが、日本では「寿司」のように一般民衆の食べ物がご馳走になっています。これが日本社会が安定しており、革命などが起きなかった理由だとする説があります。身分が高くなるほど金がない、逆に身分が低い一般民衆はけっこう豊か、だから不満がたまりにくい社会だったと思います。
法は尊きに加えず❓
後奈良天皇は?
あなたのコメントに気付くのが遅れて、「後柏原天皇」に関するコメントへの返信として書込みました。御参照ください。
貧乏?
最近、めちゃくちゃ金掛けて退位した夫婦かいたね。
日本語で書け
退位・・・?
譲位の間違いね
米国に渡米された方でしょうか?
その方なら「退位」ではなく、「臣籍降下」ですが…
日本の話?イギリスの話?