圭一郎・・・今日からは母さんと一緒に眠れるね

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  • Опубликовано: 15 янв 2025

Комментарии • 38

  • @いわやとし
    @いわやとし  16 дней назад +5

    tsuburaさんこちらこそこの一年ありがとうございます。
    tsuburaさんをはじめたくさんの方が書いて下さるコメントが私のモチベーションです。
    そして、直接は表に現れずとも私のチャンネルにきてくださるすべての方に感謝します。
    今年9月末から現在までにチャンネル登録して頂いた方が120名ほどありました。
    一日に一人以上の方にチャンネル登録をして頂いています。
    ありがとうございます。
    来年もよろしくお願いいたします。

  • @上坂千昭
    @上坂千昭 Месяц назад +9

    赤木圭一郎 言葉で表現できない魅力  永遠に

    • @岩田啓子-j3i
      @岩田啓子-j3i Месяц назад +3

      本当に😢全てにおいて魅力的な方でしたね。

  • @槇竜一
    @槇竜一 Месяц назад +15

    またまた出ましたね。いわやとし様、貴方には御礼の言葉もありません。こんなエピソードがあったのですね。あまりにも生々し過ぎて胸をえぐられるようです。しかもこの音楽が物悲しげで、胸を掻きむしられるような思いです。北原三枝や南田洋子とそういう関係だったとは。てっきり笹森礼子だと思ってましたから。でも実は本命は笹森さんで、北原、南田さんはカムフラージュだったかも?その他貴重な当時の証言ありがとうございます。当時の事がまるで今起きているような錯覚を覚えています。できる事なら私と代わってあげたかった。こんなに前途有望で、誰からも愛される不世出の超スーパースターがこんなに早く逝ってしまうなんて。神様は酷過ぎる。いわやとし様、ありがとうございます!貴方にしかできないこの貴重な真実の数々。掛け替えのない当時の証言を永久保存して事あるごとに偲びたいと思います。いつももう出ないだろう、流石にこれで見納めだろうという我々トニーファンの予想を良い意味で裏切って、いつも打ち出の小槌のように次から次へと新たな真実の情報を提供して下さいました。ちょっと早いけど、今年1年本当にありがとうございました。いわやとし様、来年もトニーの事、よろしくお願い致します😄貴方をトニーファンの教祖として来年も貴方の善意にすがって生きていきたいと思います。
    いわやとし様、貴方にはノーベル平和賞を差し上げたい位いつも感謝しています。
    私の一日はいわやとし様、貴方の記事が載っていないかどうかを確かめる事から始まります。一日に何度もYou-Tube を見ますが、全て貴方の記事が目当てです。見つけた時は宝くじ100億円当たったような最高の気分です。たまに1番目に記事を読んだ時は最高に気分がスカッとします。いつも我々トニーファンの為に身を粉にして働いて下さり、ありがとうございます!
    今年1年本当にありがとうございました!良いお年を。来年もよろしくお願い致します。

  • @横須賀玲子
    @横須賀玲子 Месяц назад +6

    とても悲しいです😢でもダビにふされる前大好きな鵠沼海岸で、愛情いっぱいの家族と最後の海の匂い、波🌊の音を聞く事ができ嬉しかったでしょう…長門さんの水葬にして上げたかったの文字がむをえぐります😢一番胸が痛んだのは真冬の一番寒い時期に皆さまへの接待で大変お疲れだったのではとお母様です😢😢
    いわや様有難うございました…😢

  • @角田由美子-k9p
    @角田由美子-k9p Месяц назад +6

    懐かしい〜とても寂しい
    ありがとうございました♪

  • @高岡由利
    @高岡由利 Месяц назад +6

    貴方がどんなに多くの多くの、皆様に愛されているか、よく解ります。悲しくて、涙が出ます。赤木圭一郎さん、一言でいいから、、、、、

    • @藤井克枝-d5h
      @藤井克枝-d5h Месяц назад

      高貴清純と讃えられながら親不孝しちゃって‥いつの世にもあることですが‥重い☆

  • @いわやとし
    @いわやとし  Месяц назад +12

    コメント欄続き
    海が好きだったお前だもの
    海のむこうに恋がある・・・・
    恋に夕陽が身をこがして
    あわてて沈んでゆく
    ・・・・日暮れを急ぐこたァ、ないじゃないか
     鎌倉学園時代の学友、吉竹進君(法政大学学中)に寄せた自作の詩で、はるかな恋へのあこれを彼はこんなふうに歌っている。
     はるか恋、はるかな海、 あかあかと燃えつきる太陽の血のかがやき····この三つが彼の詩心のなかでしっかりと組み合わさって、離れない。
     若者が恋したのは、たぶん、”海”そのものだったのかも知れない・・・・。
    夕焼けの美しさに、残照のさびしさに
    恋の胸の思いの、まっ赤にもえたぼくの青春があるのに・・・・
    若者は呼びかける。
    夕陽よ、恋を、ぼくにくれないか
     二十一歳・・・・若者の青春は短かかった。恋を求め、恋にあこがれ恋を知ることなく死んだ。 あわただしく水平線のかなたに姿を没する夕日のように。だが、若者よ、
    「日暮れを急ぐこたァ、なかったじゃないか・・・・」
     ゴシップの多い撮影所で、彼ほど男女関係の噂の少ないスターも珍しかった。
    「二人の最良の女友達・・・・北原さんと南田さんなんです」
     はにかんだように、そういって笑ってみせる彼だった。
     タフ・ガイと見えて、実は甘えん坊な気質が”年上の女”へのあこれを呼びこしていたのかも知れない。あるいは、 神経質なほど噂を気にする性格が、年若い女優よりも、裕次郎、長門というそれぞれに定まった配偶者を持つ女性を選ばせる原因だったのかもわからない。
    「オレが死んだら女房をたのむよなァ」裕次郎や長門にひやかされるたびに、
    「任しとき、二人とも貰ってやるからさ」
     くったくなく胸を叩き、それでもさすがに薄く頬を染めながら笑っていたという。
     無垢な若者だった。
    「恐縮するほど礼儀正しい人で、どんな、不愉快なことも顔に出さないし、口のきき方もていねいだし・・・・」
     彼が以前下宿していた渋谷区笹塚の”おばさん”の話である。
    ”清水の暴れん坊”を撮りおわったあとだった。
    「おばさん、これから銀座でディトしようよ」
     いきなり、そういわれた。
    「もっと食べろ、お金はたくさんあるんだからって、嬉しそうに私の食べるのを眺めていましたよ」
     母親の乳房を離れて、ひとりぼっち、佗びしい下宿住居を送る青年の郷愁にも似たやさしい心の動きだったのだろうか。
     こんなエピソードの、一つ一つが、母親喜久さんの胸を、きりきりと切なく締めつけるのだ。
    「ことしになってからのあの子は何かしら人が変わったみたいでした。クルマを手に入れた嬉しさもあったでしょうが、しげしげとわたしを食事や映画に誘ってはよろこんでいましたのに・・・・」
     出棺の朝。 なつかしい自宅をあとに鵠沼街道を走る先頭の霊柩車がピタリと止まった。
    「どうでしょう?この海岸を通るのも親弘にとってはこれが最後です。あれほど海が好きだったあの子に、もういっぺん、海を見せてやりたいんです」
     後続する四台の乗用車からそれぞれ下りた宍戸錠や葉山良二に喜久さんがささやいた。
    「いいでしょう」
     檟柩が、外に運ばれた。広い海、朝日を受けて、眩しくきらめく海に向かって立ちながら、
    「トニー、見えるかい」
     錠がいった。
    「いっそのこと、水葬にしてやりたかったな」 長門もつぶやいた。
    「このまま一日中、海を見せてやりたいね。 生きてるときは、 ゆっくり眺めてるヒマなかっただろうから・・・・」
     江守常務の顔にも深い沈痛な翳が走った。妹の百合子さんが、つと柩のそばに寄った。
    「兄さん、聞こえる? 彼の音よ・・・・」
     兄の明氏がいきなり岸の方へ駈けだすと、波打際わの貝を二つ三つ、そして一握りの砂をそっとハンカチに包んだ。
    (親弘 さびしかっただろうね。お前が母さんのふところにやっと帰ってきたと思ったら・・・・もう口もきいてもらえないなんて・・・・)
     喜久さんは目をつぶった。いつ見ても絵のような海岸の風景ではあったが、見たくはなかった。
     瞼のうらに、ただ一つの面影だけを追いつづけて、 喜久さんは一心に遠い海鳴りの音に耳を澄ませた。
    (でも、母さんはもう悲しまない。 今日からはお前もやっと母さんと一緒に眠れるんだものね)
     単調な波音の繰り返しが、喜久さんにはまるで子守唄のようだった・・・・。
    週刊生きる女性 1961年3月16日号

  • @tsubura7746
    @tsubura7746 16 дней назад +2

    いわやとし様、皆様、よいお年をお迎えください!!
    私は芦川いづみさんに惹かれて、日活映画を観るようになったので、こちらの趣向とは違っていて恐縮なのですが、
    時々コメントさせてもらい、いつも有難く思っております。
    来年も、自分が知らない赤木さんの話や、日活黄金時代の追体験が出来ますよう、よろしくお願いいたします。

  • @いわやとし
    @いわやとし  3 дня назад +3

    幸福 赤木圭一郎(俳優)
    反省と希望と努力…幸福な未来を求める僕たちの生活
     過去をふりかえって反省し、将来には大きな希望を抱き。そして現在は自分の持っているすべての力を投入して有意義な生活を送るために努力する……これが人生ではないだろうか。
     そのうちどれが欠けていても、幸福な未来を求めて日夜努力せねばならない僕たち若人の生活から、遠く隔たったものしか生まれて来ないだろう。
     早いもので、僕が映画の世界に入ってからもう一年以上の歳月が流れてしまった。その間、僕は無我夢中と言ってよいくらい、僕のすべてでこの仕事にぶつかって来たつもりだ。
     今「幸せですか?」ときかれても、仕事に全精力を集中しているという喜びを感じていると言う以外の答は出て来そうもない。
     僕は海のそばに生まれ、海に親しみながら育ったせいか、海をはなれては、たのしかった、幸せだったという思い出はない。
     だから、仕事に疲れると僕は海を眺める。海はいつも僕をはげまし、僕の夢を育ててくれるから……。幸せを僕の胸に運んでくれるから……。
     ジュニアそれいゆ No.30 昭和34年11月発行より
    instagram.com/iwayatosi/

  • @いわやとし
    @いわやとし  Месяц назад +13

    概要欄から続き
    「あれが虫の知らせ・・・・」と泣く
     赤木の事故が十四日、生まれ年昭和十四年、問題のゴーカートは日本で四台目「激流に生きる男」は出演十四本目、野村孝監督にとっては四本目の作品だった。
    ”四”の数字にまつわる因縁話はまだある。彼の皮ジャンパーは四着目、この日のセットでのテストが四回、文化放送で週一回放送中の「圭一郎アワー」の録音とりだめが四回分。そして、前日に飲んだビールが四本。
    「きょうはセント・バレンタイン・デー。どんな日か知ってるかい」
    トニーの質問に、
    「そりや、一年のうちでたった一日だけ、女性の方から男性に求愛できる、いわば男性にとっては最良の日だろ」
     宍戸錠がニヤリと笑いながら答える。
    「殺し屋のジョーさんともあろう人が、そんな月並みなこといってるんじゃ、しょうがねえぜ。きょうはね、例のカポネ・・・・シカゴの大ギャングが、自分の縄張りを荒らしたやつをガレージに閉じこめといて機関銃で大虐殺した日なんだ」
    「ふーん、とすると、きょうもまた、一荒れあるかも知れねえな」
     事故はそれからたった五分後におこった。
    「オレは四次元の世界へ行きたいよ」
     それが彼のログセだった。
     空想小説、怪奇小説が大好き。同好の南田洋子とはよくウマが合った。
    「死を超越した四次元の世界が、きっとこの大宇宙にはあるに違いないよ」
     目をかがやかせながら、よくそんなことをいっていた。
    「だから、トニーが良くなって退院したら、”オレは四次元の世界をさまよってきたんだぜ”なんて自慢ばなしをするに決まってる・・・・みんなとそんなことを話していたんですよ」
     南田にとってもう一つ忘れられ思い出は、事故の一週間ばかり前、彼とふたり、青山のレストラン「キャンティー」で食事したことだ。
     休みといえば必ず水泳に出かけていた彼が、その後にきまって立ち寄るのがこの店だった。
    「南田さんにはいつもお世話になってるし、新しい車を買ったのでドライブがてらぜひご馳走したいんです」
     ブルーバードを運転して迎えにきた彼は得意満面だったが、席上にわかに改まった表情になると、
    「いろいろありがとうございました」
     いつになく折り目正しくあいさつした。
    「虫の知らせだったのかな。いまごろ、どこか目に見えないほど近くで ”お先に・・・・”なんて笑ってるかも知れないなぁ」
     宍戸錠が目をしばたかせる。見えない手がそっとにおかれるような錯覚・・・・。
    「オレには天変地変に対する特別のカンがあるのさ・・・・」
    これもログセの一つだった。
     正月作品「オレの血が騒ぐ」で北海道までチャーターした小船の上で船上ロケを行ない、大シケを喰らったときも、
    「こいつもオレの動物的なカンにすぎないけど、絶対に大丈夫だよ」
     断言して平然たるものだった。
     用心深さの点でも、人一倍だっ撮影以外には決して危険な場所を訪れたり、危ない真似をしようとはしなかった。
     マージャン、ボーカーといった一切の賭けごとに、まるで興味がない。賭けごとが大好きな裕次郎や長門たちも、
    「トニーはとくべつだよ」
     決して無理強いに教えようとはせず、彼ひとりだけをほったらかし。彼もまた、そうした群衆の中の孤独をひそかに楽しんでいるようにみえた。
     どう考えても、こんなに早く死神の招待を受ける若者ではなかった。
    赤木神社を作って
     二十四日午前十一時。
     都内杉並区の火葬場でダビに付された遺骨は、同区和泉町七六九、大円寺の山門をくぐった。
     午後一時半、告別式は読経から始まる。 日活俳優クラブを代表し長門裕之が弔詞を述べたあと、友人総代石原裕次郎の弔詞を北原三枝が代読する順番だ。
    「あたし、とってもダメ。 すまないけど長門さん、読んで・・・・」
     黒い喪服にほとんど素顔のまま目を泣きはらした北原が、そっと長門にささやく。
     晴れた空、春を思わせる柔らか日の光り・・・・そして、絶えまなく吹きつける風が舞い上げる砂ボコリが、 青ざめた参列者の頬に痛い。
     葬儀委員長の山崎日活撮影所長や江守常務などの日活幹部連から小林旭、宍戸、長門、二谷、南田、芦川、笹森たち日活俳優のほとんど全員が姿を見せ、外部からは山崎映画本部長、本郷功次郎、飯田蝶子、内海突破らも加わって、千名を超える焼香の列はいつ果てるとも知れない。
     式場の外には約二千人のファンが一時に押しかけ、高井戸署では二十名の警官を動員して交通整理にあたったが、境内はファンに踏みあらされて損害三万円という、ちょっとしたお祭り騒ぎだった。
     遺影の前に肩を抱きあってすすり泣く女性ファンの中からは、ここんな声もきかれた。
    「赤木神社を立ててほしい毎日でもお参りに行きたい・・・・」
     その代り、日活撮影所中に彼の銅像を建てることだけは、どうやら本決まりになったらしい。スポーティなアクション姿か、黙りこくって淋しげな姿かは、まだ決まっていない。もし、後者になるとすれば、
    「たぶん、ロダン "考える人"のような作品になるだろう」
     というのが大方のファンの予想だ。
     多摩川のほとり、夕日を浴びて立つ孤独な若者の――美しすぎ・・・・悲しすぎる。
    続く

  • @RIKU-h4h
    @RIKU-h4h Месяц назад +9

    upありがとうございます。泣きながら読ませていただきました。ブルーバード買われていたんですね。お母様を乗せるための車を買いたいという記事は読んだことがあったような気はしますが、お母様を乗せることができたのかどうか、天の邪鬼の私は気になってしまいます。いわやとし様ご存知でしたら教えて下さい。1960年の年末だったかな、宍戸錠さんに車を貸して盗まれて、ブルーバードを買ったのじゃないかと思うのですが、その頃のトニーのスケジュールは、、、むちゃくちゃでした。念願だったお母様を乗せてあげることができたのであれば、ちょっぴり嬉しいです。

  • @いわやとし
    @いわやとし  Месяц назад +7

    今回の動画は少し心配していました。
    この半年、トニーの事故前後の週刊誌の記事ばかりで、さすがの赤木ファンも、
    「もうその話はいいんじゃない?」
    と、あきれてしまうのではないかと思ったからです。
    同じ話題ですから、重なる部分も多く、画像も同じようなものになってしまいます。
    ところが、動画UP開始24時間で1100回ものアクセスをいただきました。
    ありがとうございます。
    そして気がつきました。
    トニーファンは同じ話題を何度聞いても(トニーの話題なら)苦にならないし飽きたりもしない、ということを・・・。
    それに、新しいエピソードもありました。
    鵠沼海岸で、トニーに最後の海を見せてあげようとしたとき、トニーのお兄さんが砂浜に駈け下りて、二つ三つの貝と少しの砂をトニーのためにハンカチに包んだ。
    これらの新しいエピソードを知れたことも、この話題に価値ありだと思いました。
    もう少し想像力を逞しくすることが許されるなら、霊柩車の後続の四台の車とあります。
    トニーの柩と一緒に、二十人前後の方々が、鵠沼海岸の水平線を見つめながら立ち尽くしている姿が見えてきます。(涙)

  • @いわやとし
    @いわやとし  Месяц назад +5

    あいつと私 渡辺紳一郎
     寒い朝だった。家の庭の椿の花もしぼむような寒い朝だった。夜の遅い私はたいてい朝寝坊だが、あの日はいつもより早起きだった。それでも陽が高くなるにつれて気温も昇り、ひる頃にはだいぶ暖かくなってきたので、久しぶりに湘南の海岸を散歩しようと思っていると、赤塚氏(トニーの父)が訪ねてきた。赤塚氏とは十数年来のつき合いである。
     赤塚氏は話好きで、しかもその話し方に非常な風格のあるインテリで、その日も興が乗って長談義となり、夕方まで談笑して帰られた。ものの五、六分もたった頃、赤塚氏の家から、「トニーが撮影所で怪我をしたという知らせがあったから、至急帰宅するように・・・・・・」という電話があった。私はちょっと心配だったが、「親坊はちょっとやそっとで死ぬ奴ではありませんよ、大丈夫ですよ」といってやった。あいつが簡単に死ぬもんかという自信があったからだ。その日が二年前の二月十四日だった。
     私の家によく遊びにきては、庭いじりの手伝いをするといってじゃまをしたり、二人して海で泳いだりした彼が、中学、高校、大学へ進むにつれてたくましく成長し、十数年前、しらが一本十円で私の白髪を抜いたわんぱく坊主とは思えぬ青年になった。だが、顔のどこかに遠い日の面影を残していた。
     それは小さいときから、いたずらをしても堂々とわるびれずにやっていた、あの面魂であったのかもしれない。私は親坊のそれをとても愛してきたのだ。
     俳優になってからは、ついに一度も会う機会がなかった。私の気持は、親坊を俳優にはしたくなかった。しかし俳優稼業になった以上は、一度ゆっくり会って、私のできる指導をしてやりたいと思っていたが、ついに果すことができなかった。
     トニーの死後の人気はたいへんなものだ。アメリカのディーンとはまた違った要素を持っていた彼だが、それにしてもびっくりするほどである。
     しかし私にはわかっている。親坊は小さいときから、大人にも子供にも親われる人間性としての魅力を天恵的に持っていた。屈服しない根性、素直さ、飾気のない哀れみ、それらが平凡な形で行動に現われていた。それが赤塚親弘のニュアンスだったのだ。だから私もあいつが好きだった。
    昭和38年 赤木圭一郎 写真集より

  • @いわやとし
    @いわやとし  Месяц назад +3

    海という字のなかには“母”がいる
    海をあれほど愛した男の死にふさわしい通夜の翌朝は静かなそして青く晴れわたっ海があった 詩を書き 孤独を愛したこの青年 鵠沼の海で育まれた若い一人の男の生涯に 海はやさしく呼びかけていた
    「せめて あれほど好きだった海をもういっぺん見せてやりたい」母親喜久さんの希いに周囲の人々はうなづいた  赤木圭一郎の睡る棺は家族の人の腕に 友人たちの手にささえられて白砂が続く海辺へ運ばれた そこには大いなる“母”がいる
    「みえるかい海が・・・・・・お前があんなに好きだった海だよ」 喜久さんの頬を流れる涙は風に飛んで白砂に消えていった
    多勢の人に囲まれ 多勢の人に好かれていた赤木圭一郎 いま彼は静かに静かに深い安らぎと睡りのなかに沈んで行く
    海の底には静かな湖がある
    そこでは幸福が息をひそめている
    人間ぎらいの魚はいるが
    心を噛む獣はいない――
    彼が自作の詩でうたったその蒼い幸福をひそめている海の底で 彼は一人孤独を愛し そして母のあたたかい胸の中で 海の詩をうたい続けながら
    instagram.com/iwayatosi/

  • @高岡由利
    @高岡由利 Месяц назад +4

    貴方に伝えたいことがあり、昨日に、続きお便りしました。自然に上手く溶け込んで家にも遊びに来てね。そのときは、くれぐれも神様と人間には、見付からない様にね。昨日いっぱい泣いたので、今夜は、もう泣きません。ずっと、待っているよ。

  • @いわやとし
    @いわやとし  15 дней назад +2

    正月限定
    日活百年インタビュー(再公開)まだ観ていない方どうぞ
    ruclips.net/video/pTIwE5jE9VQ/видео.html
    朝な夕なに(真夜中のブルース)トニーが好きだった曲が流れます 終了しました
    ruclips.net/video/WMPgP-tfhlM/видео.html
    仮面の女 ほんの数秒通行人として登場します(数日限定) 終了しました
    ruclips.net/video/Zerq-Avzh7g/видео.html
    告別式
    ruclips.net/video/shx_NWz8oUw/видео.html
    エデンの東 VS 錆びた鎖
    ruclips.net/video/qMtaSD5FsGU/видео.html

    • @RIKU-h4h
      @RIKU-h4h 14 дней назад +1

      いわやとし様明けましておめでとうございます㊗️
      インタビュー観せていただきました。高橋英樹さんのお言葉で「紅の拳銃」を観ました。勿論最高👍
      でもビジュアル的には「電光石火の男」のまだ初々しいトニーが好き☺️そして「霧笛が俺をよんでいる」のマドロス姿最高👍 私が大画面で観た唯一の映画です。
      今年も配信楽しみにしております。

  • @いわやとし
    @いわやとし  17 дней назад +4

    親ちゃん、静かにおやすみなさい 赤塚喜久
     親弘が死んでから、あと一ヶ月ほどで三周忌を迎えます。 一年ほど前までは、遺品の整理や、生前、あの子がお世話になったかたがたへのご挨拶であわたゞしい毎日をおくってまいりましたが、最近では、落ち着きを取りもどすにつれ、最愛の子を失った悲しみが、日一日と深まってまいります。
     あの子が事故で死んだ時には、大勢のかたがたからの心のこもったおくやみをいたゞきました。さぞかしあの子も喜こんでいることでございましょう。私どもも、本当に有がたく、お礼申し上げようもございません。これほどまで皆さまから慕われ、期待されていたのかと、又つまらない欲も出てまいります。
     しかし、もう、何事も運命、すべて神様のおぼしめしとあきらめております。そして、元気だった頃の親弘を、胸のうちにそっと抱きしめ、はぐくみ続けてゆきたいと考えております。 口にこそ出さなくても、家族のだれもがこう考え、そうするにちがいありません。これから先、私どもがどんなに年をとっても、親弘は、二十一才のままで、私どもの胸の中に生き続けることでございましょう。
     親弘は、昭和十四年五月八日、私どもの五番目の子供として生まれました。活発なほんとに何の世話もかからない子でした。六つになるまで東京の麻布に住んでおりましたが、あの子が三つのころ、こんなことがありました。
     当時、夫は歯科医を開業しておりましたが、近くの交番のおまわりさんが、うちの親弘をだきあげて「先生、おたくの坊ちゃんがまたやりましたよ」といって私の家につれてくるのです。話を聞くと、三つの親弘が、電車通りに立って、手をひろげて電車を止めてしまうというのです。どうして、そんなことをおぼえたり、やったりしたのかわかりませんでしたが、夫も私も困り顔をしながらも笑っているおまわりさんを前に、どうしようもなくて、苦笑したこをおぼえております。
     親弘は大きくなってから、オートバイや自動車をとばすのが好きだったのですが、乗り物に対する興味は、あんなに幼ない頃から芽ばえていたものでしょうか。
     幼稚園から小学校へはいるころは、終戦直後のなにも手に入らないときでしたが、あの子は、何一つ無理や、ぜいたくはいわずに育ちました。
     そうかといって、たゞおとなしい、元気のない子だったかといいますと、決してそうではありませんでした。明るくてとってもおちゃめさんでした。
     あの子が小学校にはいる前、私ども一家は鎌倉に疎開しました。 家のすぐ裏に山がありましたが、小学上級になった親弘は、山へ行ってシュロの葉っぱでインディアンみたいな腰みのを作り、これも手作りのピストルを持って、バーン、バーンって叫びながら走り回っているのです。おまけに頭には、麦わら帽子のツバを折りまげた自称“カウボーイ・ハをのっけているのです。そして妹の百合と久子をけらいに従えて、大いばりでねり歩くのです。そんなひょうきんなところもございました。
     あまり無理を云ったり、だだをこねない親弘でしたが、たった一つこんなことを云って私を困らせたことがございました。
     あれは、親弘が小学校の四年の頃でした。宝塚の歌劇を見に連れて行ったところ、月丘夢路さんのお姫さまを見てどうしてもあれがほしいといってきかないのでした。
    子供ごころにも、美しいものへのあこがれは人一倍強かったのではないでしょうか。とてつもない望みや夢が、幼稚な頭の中にも、だんだんとふくらんでいたようにも思えます。
     のちになって、アラビアへ行って石油関係の事業にたずさわりたいという希望を持っていましたが、小さな時からの夢が、現実に近ずいたのでしょうか。
     親弘は、母親の目から見ても、いっぷうかわった人間でした。まったく欲というものがありませんでした。
     三年ほど前の秋、 夫が東京の足立区にあるスラム街を救済する奉仕団体に、歯科部門の医師として加わることになりました。そのことを親弘に話すと「おとうさん、がんばれよ」と励ましていました。
     生存競争の激しいといわれる映画界にはいっても、他人さまを押しのけていい役を得ようなどとは一度も考えていませんでした。皆さまのおひきたてのおかげで、一応、スターとかいわれるようになってからも、たゞのひとりも敵を作らなかったことを見ても、それはうなづけます。
     親弘は、映画では「赤木圭一郎」でしたが、家ではやさしい親ちゃんでした。 赤木圭一郎になってから、横浜の姉の家にいたり、山崎撮影所長さんのお宅にご厄介になったり、二年あまり別々に暮らしましたが、たまに家に帰っても、仕事の話はいっさいしませんでした。
     事故を起こした日も、私の作ったハンバーグとオムレツをおいしそうに平げて出かけて行ったのです。この世で食べた最後の食事が、母の作った大好物。私にとっても、生涯忘れられない思い出となるでしょう。
     親弘は死にました。アフリカへもアラビアへも行けなくなってしまいました。しかし、神様の手によって、あの子の夢はかなえられているかもしれません。あるいはまた、海の底深く、やすらかに眠っているかもしれません。
     親ちゃん、静かにお眠りなさい。おまえが愛した海が潮騒が、いつまでも子守唄を奏でてくれるでしょう。
    昭和38年 赤木圭一郎 写真集より

    • @藤井克枝-d5h
      @藤井克枝-d5h 17 дней назад +1

      又も、貴重なお話☆

    • @RIKU-h4h
      @RIKU-h4h 17 дней назад +2

      ありがとうございます_(._.)_
      お母様のお話は少し涙ぐみます。私の頭にある情報では事故の前日「激流に生きる男」のレコーディングし終わったのは夜中、宍戸錠さんに「遊ぼう」と言って断わらたと、、それから鵠沼の実家に帰られたんですね。
      最後にお母様のハンバーグとオムレツ食べれてホント良かった😊

    • @いわやとし
      @いわやとし  17 дней назад +4

      動画「トニー死なないでくれ」の記事の中に、
      ”喜久さんはこの日の朝、山崎所長邸に下宿している圭一郎を訪ねて鎌倉から上京してきた矢先きだったのだ。”
      とあります。
      せっかく訪ねてきたのに、元気な息子に会えなかったのが事実なら哀しすぎます。
      お母さんの話で、この記事が事実ではないことがわかって、トニーファンにとっては救いです。

    • @RIKU-h4h
      @RIKU-h4h 17 дней назад +2

      @@いわやとし 様ありがとうございます。
      「トニー死なないでくれ」は読ませていただいていたのに抜けていたようです。
      事故の日は監督の配慮で撮影が午後からになっていたので、お母様に会うことが出来て手料理も食べれた、、良かった😊
      一つ笑ったところがありました。お母様がトニーのことを「いっぷう変わった子だった」と。伊勢湾台風で家中の布団を寄付するお母様に似ているんだと。

    • @横須賀玲子
      @横須賀玲子 17 дней назад +3

      私もトニーの最後の日だったので気に止めていました、でもお母様の心温まる愛情いっぱいの手記に涙が滲みました😢有難うございました😂

  • @いわやとし
    @いわやとし  24 дня назад +4

    日本映画界の大きな損失 日活宣伝課長 富田財二
     赤木圭一郎の写真を初めて見たのは、三十三年、日活が第四期のニューフェイスを募集した時であった。 募集を締切ってから高木プロデューサーが、「これ頼むよ。」と持ってきたのが赤木の写真であった。それを見た時私は、これはいけると直感した。一見、マーロン・ブランドを思わせる日本人離れしたマスクであった。
     審査の時は見なかったが、ニューフェイスに合格して本社に来た時、やはり一際目立っていた。 デビューしたのは三十四年四月に封切された「拳銃〇号」で、ほんのちょい役であったがそのシーンは、今でも思い出す程、印象的であった。そしてその年の九月、「清水の暴れん坊」で裕次郎と共演するチャンスをつかみ、十一月には初の主演もの、「大学の暴れん坊」を撮るというスピーディな躍進ぶりであった。
     いつ会ってもGパンにジャンパーをひっかけたようなラフなスタイルで、それが又、彼には実にピッタリしているのである。私もいろいろなタイプのスタアに会っているが、彼程、いわゆるおしゃれらしいおしゃれをしないで、実は何でもうまく着こなすスタアは見たことがなかった。
     うす汚ないGパン、ボロ靴でも、それを彼が身につけると不思議にピッタリと似合うのである。バリっとした洋服を着ることはなかったが、とにかく私が知ったスタアの中で、彼が最もセンスのあるスタアであった。
     洋服と云えば三十四年の二月、姫路の日活劇場が新築開館した時、舞台挨拶に出ることになったが、その三日前本社に来て、舞台に出る背広がないというのである。大至急作ってやれということになったが、たしか十二月の二十二日で年の暮の忙しい時、何処でもそんな急に作ってくれるところはなかった。そこで私は撮影所の衣裳を作っているパリー商会に彼を連れて乗り込み、知っている主人に直談判したが、何せ暮れの忙しい最中に、二、三日で背広を作り上げろというのであるから全く無理な話である。然し強引に頼みこんで、何とか間に合わせることに成功したが皮肉にも洋服が出来上った日に風邪をひき、急性肺炎になりかかって、ついにそれは役にたゝなくなってしまった。
     彼が背広らしい背広を着たのは、その洋服が初めてであった。Yシャツを着てネクタイをキチンとした服装はめったに見なかった。いつもラフなスタイルが彼に合っていたのである。その洋服を作る時、四谷のパリー商会に向かう車の中で、当時話題の映画「灰とダイヤモンド」を五回観に行ったと話していたが、よく評判の洋画を観に行き、熱心に勉強していたのである。そしていつもそれを自分のものに取り入れようとして勉強していた熱意に、私は本当に感心した。
     若いに似合わず落着いていて気立もよく、つき合っていて本当に気持の良い人であった。やはり何十年に一人しか出てこない、貴重なスタアであった。彼を失ったことは日活のみならず、日本映画界にとっても、大きな損失であったことを、今更ながら痛感させられる。
    昭和38年 赤木圭一郎 写真集より

    • @tsubura7746
      @tsubura7746 24 дня назад +2

      「灰とダイヤモンド」は若い頃に、NHKだったかな?TV放送で観ました。主役のズビグニエフ・チブルスキーは、ジェームズ・ディーンを意識して演じてるなぁと当時でも思いました。皮肉にも、彼も早世したようですが、赤木さんもこの映画を五回も観てたとは、とても興味深いですね。

    • @いわやとし
      @いわやとし  23 дня назад +2

      少し調べてみました。
      「灰とダイヤモンド」の日本上映=1959年7月7日
      トニーの出演作品上映日
      1959.06.30 若い傾斜  
      1959.07.28 ゆがんだ月  
      1959.08.26 浮気の季節  
      1959.09.08 素ッ裸の年令  
      1959.09.27 清水の暴れん坊  
      トニーが「赤木圭一郎(新人)」とクレジットされた時期と重なります。
      「灰とダイヤモンド」はちょっと難解で、それでいてもう一度観てみたい気分にさせられる映画ですね。
      トニーがカストロに憧れたり、60年安保デモに参加したりするのも、こういう映画の影響もあったのかなと思ったりします。
      それよりも、映画人として、こういう映画を作ってみたい演じてみたいという、純粋な思いが映画館に足を運ばせたのかも知れません。

    • @tsubura7746
      @tsubura7746 23 дня назад +1

      @@いわやとし
      赤木さんのブレイク直前に重なるのですね。ラストシーンだけは今でもよく憶えています。主人公が撃たれた後、千鳥足で洗濯場のシーツを真赤に染めて(モノクロ作品でしたが)、ゴミ置き場の上でピクピクと虫のように死んでゆく・・当時の若手俳優は皆刺激を受けたでしょうね。

    • @関口美恵子-m1h
      @関口美恵子-m1h 21 день назад +1

      似てますよ!相手役の女優さんがものすごくうつくしかった。灰とダイアモンド あの映画はポーランドの若者のレジスタンスの男の物語でした。夢中になりました。トニーが好きというのは、反戦の気持ちがあったのでしょう。似てましたよ!赤木さんに。

  • @いわやとし
    @いわやとし  13 дней назад +2

    悪夢の日から一年…… 
    トニーの碑が立った
    赤木圭一郎
    鎌倉の海を見渡せる丘の上に、その碑は立てられた。
    海を愛した彼のために……。
       鎌倉・長勝寺の裏山で……
    2月21日。孤独の男・赤木圭一郎が逝ってから、早くも一年が過ぎ去った。
    ……かって、ともに遊んだ鎌倉の砂浜に、いまは、残されたふたりの妹だけがたたずむ。押し寄せる灰色の波しぶきに、桜色に光る小さな貝がらに、亡き兄の面影をしのびながら……。
     ふと、ふり返るまるい丘の上に、冷たい石の碑となって、兄が立つ。その丘の松の葉をふるわせて、潮の香をはこぶ一陣の風が、吹きぬけていった。
    石になってしまった
    あの人は
    ひとりぼっちの山の上
    月が
    夜つゆを運ぶとき
    海をみつめて
    草笛吹いているだろう
      赤塚百合さん(17・赤木圭一郎の妹)の詩
    週刊女性自身 1962年2月26日号より
    instagram.com/iwayatosi/

  • @user-qv4nb6hh2b
    @user-qv4nb6hh2b 26 дней назад +4

    赤木圭一郎さん笹森玲子さんファンでした私当時中学生赤木圭一郎さん脇役の時から映画全て見ました当時2月14日忘れてない毎日毎日祈っておりましたでも残念2月21日私自身初めてファンでした赤木圭一郎さん笹森玲子さん悲しかったです裕次郎さんスキーで骨折代わりにトニーが激流に生きる男で遺作になってあの時のショック今も忘れてないあれから外国ドラマ映画ファンでした今年寄りなのですか山下智久さんやまぴーファンです

  • @いわやとし
    @いわやとし  10 дней назад +1

    赤木圭一郎の碑
    赤木圭一郎の碑が建立されたのが赤木圭一郎の一周忌でした。
    私の想像では海を見下ろす高台にその碑が静かに佇んでいる、そういうイメージでした。
    後の情報で場所は長勝寺というお寺と聞いて、なんでお寺なの?という気持ちでした。
    例えば、宮沢賢治のアメニモマケズの碑は花巻郊外の公園の一角に建立されています。
    建立されたのは昭和10代ですが、当時とほとんど同じ風景の中で碑を仰ぐことが出来ます。
    残念ながらトニーの碑の環境は建立当時とのあまりの変わりように唖然とするほかはありません。場所も敷地内を移動したと聞いています。
    instagram.com/iwayatosi/