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いつも楽しく拝見しております、有難うございます。本能寺の変の当日、6月2日が信孝軍の四国遠征の決行予定日であったというのはやはり大いに因果関係があった可能性が大きいということですね。
先生、ありがとうございます。歴史は1年間かけてもまだまだ勉強が、足りないなぁと思います。小和田チャンネルには本当に感謝して降ります。いつか小和田先生の講演に参加できるようになりますように。
現代風に言うと、社長の息子が管理職の部下に対して頭越しに指示する図式ですかね。大変分かり易く、かつ納得できる解説でした。ありがとうございます。
どちらかとゆうと絶対的に君臨する会長の息子が社長になんら相談せずに会社を運営しようとしてるみたいな.....
心理面から読み解きますと、信長さんの心理としては「天下最後の総仕上げとして、四国は信孝さん率いる軍団に仕置きさせ、中国は秀吉さん率いる軍団に仕置きさせ、関東は一益さん率いる軍団に仕置きさせる」と言う認識があり、四国の仕置きは「信孝さんの仕事」なので「光秀さんの仕事では無い」ので「手続きを簡略化した程度の認識」だったように見受けられるのですけど、これに対して光秀さんの心理としては「大殿から軽んじられたと言う事は、自分もいよいよ用済みであるのかと考えてしまう」ように見受けられますよね。本能寺の真相を読み解く上で「ややこしい」のは、あの時点で「信長さんが死ぬ」事が「自らの存亡に関わる」人間が「日本各地に存在していた」事なのだなぁ・・・と、小和田先生の御話を拝聴しながら、思ったり致しました。あと、長宗我部さんと織田さんの交渉でいつも思い出してしまうのが「中島可之助」さんなのですけど、「かのすけ」かと思ったら「べくのすけ」で、「べくって変な名前!」って思ってからずっと記憶に残ってしまっています。(笑)今回も、楽しいひと時を、有り難う御座いました。
この文書の研究で、本能寺の変の真相がわかるかも、と考えるととても面白いですね!解説、ありがとうございました!
先生!動画ありがとうございます。先生の話はすごく分かりやすいです。麒麟がくる最終回楽しみですね。
毎回、大学生に戻った気分で拝見しております!織田一家による外様を排除する動きがあって、信孝が丹波国衆に直接書状を出すだけの権力を持って居たのであれば、この書状はかなり重要だと思います。光秀が信長と信忠の二人が京に居る好機を逃さずに変を起こした動機が織田一家以外を畿外へ追いやる信長の政策や長宗我部と光秀との関係だと思っているので、この書状は光秀の動機を裏付ける物で重要だと思います。では信孝はこれだけの権力を持ちながら本能寺の変が起きた際に、四国出兵要員として集められた兵力で何故光秀討伐をしなかったのか疑問に思います。又、信忠は信長に内緒で家康と堺で会って居たのでしょうか?信忠が京に信長に挨拶をしに戻る理由がわかりません。
寄せ集めの兵だったので信長死すを聞いて逃げ出し1000にも満たなかった。仮に大勢いても信長死すを聞いて逃げだすレベルの士気なら勝ち目がない明智は1万を超えてるのでそのままぶつかれば敗北濃厚なので
ウチの母校の先生が、光秀を本能寺に向かわせた遠因となる文書を発表されてたんですね。
本能寺の変つて、案外、シンプルなこの話が本当なのかもしれませんね。佐久間の次は、俺かもつて?秀吉、光秀も考えていたら、案外簡単にことが進んでしまったつてことですね。
スッキリしました。
2:01 人見文書!5月14日に織田信孝から秀の領国、丹波の国衆宛!!徳川家康の饗応役として、光秀が、天正十年安土御献立、5月15日おちつき膳に尽力した前日!光秀が、このことを知ったのは、いつでしょうか???その時、光秀は、どうしたのか???本能寺の変の真の理由は、人見文書かもしれませんね!
いつも、楽しく拝見させて頂いてます!失礼を承知で、申し訳ございません。川角太閤記は、信憑性のある資料なんでしょうか。
これは納得のいく謀叛の理由。しかし四国説は桑原三郎氏によって1934年から唱えられていたというのは初耳で、「最近の学説」とされているのはどういう経緯なんですかね?
信忠が丹波衆に号令をかけること自体は不思議ではないという考えもあります。八切止夫氏も著書の中で当時光秀は「在荘」の立場にあるため信孝が兵員を畿内の近場で調達動員させるのに丹波衆を使おうとしたことは自然であると言っている。また丹波衆はまとまっていたとは言えない。
琵琶湖周辺の主要な城は、信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城の他に津田(織田)信澄〈光秀の婿〉があります。丹波衆を実質的に率いていたのは、信孝というより、信澄なのかも?
なんかこの文書聞いたことあります~~。四国攻めに丹波の国人衆の動員ってなると越権行為ですよね・・・。一説によると佐久間追放は手勢だけで手柄を挙げて汚名を晴らすか、どちらか選べという文章もあるそうでして・・・。(筒井氏に対して佐久間父子が通っても護衛をつけるなという命令がありまして)。信長の親衛隊(黒母衣衆)にはそうやって勘当されても帰参する人も若干はいたようでして・・・。
本能寺の変の真相は、光秀の、織田政権ナンバー2の座からの転落ー失脚のように思えます。坂本城や京での文化人としての生活が奪われるのが、我慢ならなかったんですかね。大河ドラマのほうでは、どう描かれるか楽しみです。
人見文書ではかなり具体的な参陣の際の注意が書かれているので、人見文書以前に信長か信忠から「四国攻めに加われ」という命令書と「その際には信孝の指示に従え」という指令書が出ていたはず。そもそも丹州の国侍は織田家の家臣であって、光秀の家臣でも信孝の家臣でも無いので、「信孝が光秀の頭越しに命令した」というのは筋違いです。実際四国攻めに加わらなかった国侍に対しては信長から「光秀の中国攻めに加われ」「その際は光秀の指示に従え」という命令書が出ていますしね。
うん?それだったら柴田も川尻も滝川もだが畿内から遠いのでまだ信長の意識が向いてないだけになるが、近江、摂津中心にし親族で固めるなら丹波から遠い地域にいかされるのも容易に想像できるしそれだけで本能寺に至るかな~
光秀傘下の丹波国衆は、あくまでも光秀の与力であって、光秀の直臣ではないということでしょうか?光秀は饗応役を解かれ、秀吉の応援を命じられます。応援予定の軍勢で本能寺に向かう訳ですから、丹波全体が信孝の指揮下に置かれた訳でもなさそうですね。少し遡って、信長の武田討伐にも光秀は参加しています。その時はどの程度の軍勢をどこから連れて行ったのでしょうか?武田討伐は信忠の活躍で、信長も光秀も戦いそのものには出る幕がありませんでした。光秀傘下の武将たちが戦えなかったということは、恩賞が貰えなかったということではないでしょか?光秀とその直臣には家康接待の仕事を与える。丹波衆の一部には四国攻めの仕事を与える。それ以外の丹波衆には秀吉応援の仕事を与える。それぞれ、恩賞を貰えるチャンスがあることになります。光秀が信長に対して意見を言ったというのは、武田征伐の為にはるばる東国まで出かけたが、戦に参加できず、光秀傘下の武将たちには恩賞を貰うチャンスがなかったので、仕事を下さいという訴えだと思います。
丹波没収は無かったとされているけどこの話を聞くと全く無根拠な話って訳でもなかったって事かな?
私は個人的に林や佐久間信盛を廃したのは特に林に関しては強くそう思ったんでないかと思うが、弟の信行が信長を亡き者にしようとした時に信長に敵対した者とかの排除をずーと考えていたのではと思っている。でも、林と一緒に柴田も加勢したのではと直ぐ思いつくと思うのだが、注言を繰り返していた林と信長軍団の先頭に立って働いた柴田では同じ扱いはできなかったのではないか、同じように佐久間も柴田や後から加わりながら頭角を出してきた秀吉・光秀・一益等のように働けばやはり排除されずに済んだんであろうと思われるが、そういう意味では光秀を廃そうとは信長は思ってもいなかっただろうが、信孝や光秀は別な事をそれぞれ考えていたんだろうね。信孝は、信長の後継者は長男に決まったし、信長がいるうちに自分の大きな領地を作りたかったんだろうな。それに対し光秀は今回の手紙の件情報通の光秀は知るとことなったとすれば、うわさの国替えを契機に自分が廃され、妻方の親せきである長曾我部も廃され信孝のものにされると踏んだのならば、この手紙は光秀自身の存在をなくした後の事を考え自分の頭越しに部下たちが使われたと考えたのならば、自分は消されると考えても不思議でないのかもしれない。安土城焼いたのも信孝説があるが、信孝、考えが浅すぎると謂わざるを得ないな、結果織田一族没落をまねくわけだから。
明智が本能寺の変を起こした理由は、専門家によっていろいろ難しく論じられていますが、シンプルに戦国時代の慣習に乗っとて権力に目が眩んで、下剋上のチャンスを虎視眈々と狙っていたという事じゃダメなんですか?足利将軍が京都で三好によって似たように暗殺されてますし、岐阜の斎藤だって下剋上で国を奪ってるし、当時の侍に取って普通の感覚だったって思いますが。
ずっと不思議に思ってます。四国遠征に何万も兵士を連れてゆくのはどうやってやったのか?舟?しかない。何万もの兵士を船で?ありえないはず。詳しく知りたい。
何がありえないのか全く不明。普通に何隻も何往復もして行ってますが😅
何で個人宛じゃなく丹州国侍宛てなんでしょう?個人宛なら確実に頭越しの指示といえますがこれだと「ちょっと注意書き書いといたからみんなに読ましといて」と光秀に渡したとも考えられますこれだとしたら必ずしも頭越しとはいえず断定できるほどの根拠としてはいささか弱いかなという印象です
信長は革新的な政策を薦めていたのに自分の子供達に中央地域を与えようとしはじめ保守的になったのなら魅力はなくなりますよね。どんな思いで家臣が戦ってきたのか信長はもう少しデリカシーを持つべきでした。光秀はけして悪くはない❗とはっきりしましたね。
信長にとってはNo.2の将は要らない。No.1だけでよかったのでは?
社会をよくするために拡散してください①鈴木京香は2008年桃井かおりと「スキャンダル」と言うテレビに出演し、桃井ともめた。桃井さんは、鈴木に「吉本のエドはるみと似ている」と言ったり。鈴木は、妾の主人の大林組会長大林剛郎(週刊文春2007年4月12日号にすごい妾関係が書いてある)に訴え、桃井を11年間テレビ界から干した。芸能界で「お妾お京」の怖さを示した有名な事件だ。ウイキペディアの桃井のテレビ出演欄をを見ると2008年より10年前の10年間は合計11本テレビドラマに出演しているのに「スキャンダル」出演の後は2019年の「詐欺の子」まで11年間ゼロである。ゼネコン大林はやくざ的で、そういう力を持っている。桃井ウイキペディアで確認ください。大林剛郎は威力業務妨害罪です。この人ほどあくどい人はない。最低最悪の人。②真田広之の時も関係は最初だけで、後は大林剛郎との妾関係を隠すためのダミー恋人だった。③2008年にはソニー幹部盛田に、深夜、抱きしめられているところをフライデーされ,写真がデカデカと載ったので沈黙。(フライデー平成20年6月20日号)⑤大林剛郎との妾関係については、上記「文春」に暴露され、「会長の奥様と親しいんで3人で会食する」とウソ。当時大林組は大阪本社で、3人の学童期の子供を抱える奥様は「尻振りお京」に会うはずもなく、3人の娘は、父が週刊誌に載り、学校でひどいいじめにあったが、鈴木は一転して知らん顔。「大変なことになる」と週刊文春を脅した。事実、大林は締め上げた。最近になって、就活セクハラが問題になると、文春は2度大林組の就活セクハラを取り上げ報復。さらに、お妾お京と細川元総理との妾関係を暴露して追撃。(週刊文春・平成31年2月28日号)今度の長谷川も最初だけで、後は30歳年上の細川元総理(週刊文春・平成31年2月28日)との愛人関係を隠すためのダミー。⑥幻冬舎文庫で「熔ける」という大王製紙社長の懺悔本がある。そこに芸能界とやくざと財界とテレビの少女売春が赤裸々に描かれている。149ページ他、、大林剛郎の名前ももちろん出てくる。⑦長谷川との関係は終っているのに、新番組の直前に「挙式まじか」と流させて、宣伝に使う。何回この手を使ったか。11年ヒモした長谷川。いつまでヒモするのか。また、鈴木は、作家の北方謙三に大阪で黒づくめで尻を抱かれて高級ホテルへ。
いつも楽しく拝見しております、有難うございます。
本能寺の変の当日、6月2日が信孝軍の四国遠征の決行予定日であったというのはやはり大いに因果関係があった可能性が大きいということですね。
先生、ありがとうございます。歴史は1年間かけてもまだまだ勉強が、足りないなぁと思います。小和田チャンネルには本当に感謝して降ります。いつか小和田先生の講演に参加できるようになりますように。
現代風に言うと、社長の息子が管理職の部下に対して頭越しに指示する図式ですかね。
大変分かり易く、かつ納得できる解説でした。ありがとうございます。
どちらかとゆうと
絶対的に君臨する会長の息子が
社長になんら相談せずに会社を運営しようとしてるみたいな.....
心理面から読み解きますと、信長さんの心理としては「天下最後の総仕上げとして、四国は信孝さん率いる軍団に仕置きさせ、中国は秀吉さん率いる軍団に仕置きさせ、関東は一益さん率いる軍団に仕置きさせる」と言う認識があり、四国の仕置きは「信孝さんの仕事」なので「光秀さんの仕事では無い」ので「手続きを簡略化した程度の認識」だったように見受けられるのですけど、これに対して光秀さんの心理としては「大殿から軽んじられたと言う事は、自分もいよいよ用済みであるのかと考えてしまう」ように見受けられますよね。本能寺の真相を読み解く上で「ややこしい」のは、あの時点で「信長さんが死ぬ」事が「自らの存亡に関わる」人間が「日本各地に存在していた」事なのだなぁ・・・と、小和田先生の御話を拝聴しながら、思ったり致しました。あと、長宗我部さんと織田さんの交渉でいつも思い出してしまうのが「中島可之助」さんなのですけど、「かのすけ」かと思ったら「べくのすけ」で、「べくって変な名前!」って思ってからずっと記憶に残ってしまっています。(笑)今回も、楽しいひと時を、有り難う御座いました。
この文書の研究で、本能寺の変の真相がわかるかも、と考えるととても面白いですね!
解説、ありがとうございました!
先生!動画ありがとうございます。先生の話はすごく分かりやすいです。麒麟がくる最終回楽しみですね。
毎回、大学生に戻った気分で拝見しております!
織田一家による外様を排除する動きがあって、信孝が丹波国衆に直接書状を出すだけの権力を持って居たのであれば、この書状はかなり重要だと思います。
光秀が信長と信忠の二人が京に居る好機を逃さずに変を起こした動機が織田一家以外を畿外へ追いやる信長の政策や長宗我部と光秀との関係だと思っているので、この書状は光秀の動機を裏付ける物で重要だと思います。
では信孝はこれだけの権力を持ちながら本能寺の変が起きた際に、四国出兵要員として集められた兵力で何故光秀討伐をしなかったのか疑問に思います。
又、信忠は信長に内緒で家康と堺で会って居たのでしょうか?信忠が京に信長に挨拶をしに戻る理由がわかりません。
寄せ集めの兵だったので信長死すを聞いて逃げ出し1000にも満たなかった。
仮に大勢いても信長死すを聞いて逃げだすレベルの士気なら勝ち目がない
明智は1万を超えてるのでそのままぶつかれば敗北濃厚なので
ウチの母校の先生が、光秀を本能寺に向かわせた遠因となる文書を発表されてたんですね。
本能寺の変つて、案外、シンプルなこの話が本当なのかもしれませんね。佐久間の次は、俺かもつて?秀吉、光秀も考えていたら、案外簡単にことが進んでしまったつてことですね。
スッキリしました。
2:01 人見文書!5月14日に織田信孝から秀の領国、丹波の国衆宛!!
徳川家康の饗応役として、光秀が、天正十年安土御献立、5月15日おちつき膳に尽力した前日!
光秀が、このことを知ったのは、いつでしょうか???その時、光秀は、どうしたのか???
本能寺の変の真の理由は、人見文書かもしれませんね!
いつも、楽しく拝見させて頂いてます!失礼を承知で、申し訳ございません。川角太閤記は、信憑性のある資料なんでしょうか。
これは納得のいく謀叛の理由。しかし四国説は桑原三郎氏によって1934年から唱えられていたというのは初耳で、「最近の学説」とされているのはどういう経緯なんですかね?
信忠が丹波衆に号令をかけること自体は不思議ではないという考えもあります。八切止夫氏も著書の中で当時
光秀は「在荘」の立場にあるため信孝が兵員を畿内の近場で調達動員させるのに丹波衆を使おうとしたことは自然であると
言っている。また丹波衆はまとまっていたとは言えない。
琵琶湖周辺の主要な城は、信長の安土城、光秀の坂本城、秀吉の長浜城の他に津田(織田)信澄〈光秀の婿〉があります。丹波衆を実質的に率いていたのは、信孝というより、信澄なのかも?
なんかこの文書聞いたことあります~~。四国攻めに丹波の国人衆の動員ってなると越権行為ですよね・・・。一説によると佐久間追放は手勢だけで手柄を挙げて汚名を晴らすか、どちらか選べという文章もあるそうでして・・・。(筒井氏に対して佐久間父子が通っても護衛をつけるなという命令がありまして)。信長の親衛隊(黒母衣衆)にはそうやって勘当されても帰参する人も若干はいたようでして・・・。
本能寺の変の真相は、光秀の、織田政権ナンバー2の座からの転落ー失脚のように思えます。坂本城や京での文化人としての生活が奪われるのが、我慢ならなかったんですかね。大河ドラマのほうでは、どう描かれるか楽しみです。
人見文書ではかなり具体的な参陣の際の注意が書かれているので、人見文書以前に信長か信忠から「四国攻めに加われ」という命令書と「その際には信孝の指示に従え」という指令書が出ていたはず。そもそも丹州の国侍は織田家の家臣であって、光秀の家臣でも信孝の家臣でも無いので、「信孝が光秀の頭越しに命令した」というのは筋違いです。実際四国攻めに加わらなかった国侍に対しては信長から「光秀の中国攻めに加われ」「その際は光秀の指示に従え」という命令書が出ていますしね。
うん?それだったら
柴田も川尻も滝川もだが畿内から
遠いのでまだ信長の意識が向いてないだけになるが、近江、摂津中心にし親族で固めるなら丹波から遠い地域にいかされるのも容易に想像できるしそれだけで本能寺に至るかな~
光秀傘下の丹波国衆は、あくまでも光秀の与力であって、光秀の直臣ではないということでしょうか?光秀は饗応役を解かれ、秀吉の応援を命じられます。応援予定の軍勢で本能寺に向かう訳ですから、丹波全体が信孝の指揮下に置かれた訳でもなさそうですね。少し遡って、信長の武田討伐にも光秀は参加しています。その時はどの程度の軍勢をどこから連れて行ったのでしょうか?武田討伐は信忠の活躍で、信長も光秀も戦いそのものには出る幕がありませんでした。光秀傘下の武将たちが戦えなかったということは、恩賞が貰えなかったということではないでしょか?光秀とその直臣には家康接待の仕事を与える。丹波衆の一部には四国攻めの仕事を与える。それ以外の丹波衆には秀吉応援の仕事を与える。それぞれ、恩賞を貰えるチャンスがあることになります。光秀が信長に対して意見を言ったというのは、武田征伐の為にはるばる東国まで出かけたが、戦に参加できず、光秀傘下の武将たちには恩賞を貰うチャンスがなかったので、仕事を下さいという訴えだと思います。
丹波没収は無かったとされているけどこの話を聞くと全く無根拠な話って訳でもなかったって事かな?
私は個人的に林や佐久間信盛を廃したのは特に林に関しては強くそう思ったんでないかと思うが、弟の信行が信長を亡き者にしようとした時に信長に敵対した者とかの排除をずーと考えていたのではと思っている。でも、林と一緒に柴田も加勢したのではと直ぐ思いつくと思うのだが、注言を繰り返していた林と信長軍団の先頭に立って働いた柴田では同じ扱いはできなかったのではないか、同じように佐久間も柴田や後から加わりながら頭角を出してきた秀吉・光秀・一益等のように働けばやはり排除されずに済んだんであろうと思われるが、そういう意味では光秀を廃そうとは信長は思ってもいなかっただろうが、信孝や光秀は別な事をそれぞれ考えていたんだろうね。信孝は、信長の後継者は長男に決まったし、信長がいるうちに自分の大きな領地を作りたかったんだろうな。それに対し光秀は今回の手紙の件情報通の光秀は知るとことなったとすれば、うわさの国替えを契機に自分が廃され、妻方の親せきである長曾我部も廃され信孝のものにされると踏んだのならば、この手紙は光秀自身の存在をなくした後の事を考え自分の頭越しに部下たちが使われたと考えたのならば、自分は消されると考えても不思議でないのかもしれない。安土城焼いたのも信孝説があるが、信孝、考えが浅すぎると謂わざるを得ないな、結果織田一族没落をまねくわけだから。
明智が本能寺の変を起こした理由は、専門家によっていろいろ難しく論じられていますが、シンプルに戦国時代の慣習に乗っとて権力に目が眩んで、下剋上のチャンスを虎視眈々と狙っていたという事じゃダメなんですか?足利将軍が京都で三好によって似たように暗殺されてますし、岐阜の斎藤だって下剋上で国を奪ってるし、当時の侍に取って普通の感覚だったって思いますが。
ずっと不思議に思ってます。
四国遠征に何万も兵士を連れてゆくのはどうやってやったのか?
舟?しかない。何万もの兵士を船で?
ありえないはず。詳しく知りたい。
何がありえないのか全く不明。普通に何隻も何往復もして行ってますが😅
何で個人宛じゃなく丹州国侍宛てなんでしょう?
個人宛なら確実に頭越しの指示といえますがこれだと
「ちょっと注意書き書いといたからみんなに読ましといて」
と光秀に渡したとも考えられます
これだとしたら必ずしも頭越しとはいえず断定できるほどの根拠としてはいささか弱いかなという印象です
信長は革新的な政策を薦めていたのに自分の子供達に中央地域を与えようとしはじめ保守的になったのなら魅力はなくなりますよね。どんな思いで家臣が戦ってきたのか信長はもう少しデリカシーを持つべきでした。光秀はけして悪くはない❗とはっきりしましたね。
信長にとってはNo.2の将は要らない。
No.1だけでよかったのでは?
社会をよくするために拡散してください
①鈴木京香は2008年桃井かおりと「スキャンダル」と言うテレビに出演し、桃井ともめた。桃井さんは、鈴木に「吉本のエドはるみと似ている」と言ったり。鈴木は、妾の主人の大林組会長大林剛郎(週刊文春2007年4月12日号にすごい妾関係が書いてある)に訴え、桃井を11年間テレビ界から干した。芸能界で「お妾お京」の怖さを示した有名な事件だ。ウイキペディアの桃井のテレビ出演欄をを見ると2008年より10年前の10年間は合計11本テレビドラマに出演しているのに「スキャンダル」出演の後は2019年の「詐欺の子」まで11年間ゼロである。ゼネコン大林はやくざ的で、そういう力を持っている。桃井ウイキペディアで確認ください。大林剛郎は威力業務妨害罪です。この人ほどあくどい人はない。最低最悪の人。
②真田広之の時も関係は最初だけで、後は大林剛郎との妾関係を隠すためのダミー恋人だった。
③2008年にはソニー幹部盛田に、深夜、抱きしめられているところをフライデーされ,写真がデカデカと載ったので沈黙。(フライデー平成20年6月20日号)
⑤大林剛郎との妾関係については、上記「文春」に暴露され、「会長の奥様と親しいんで3人で会食する」とウソ。当時大林組は大阪本社で、3人の学童期の子供を抱える奥様は「尻振りお京」に会うはずもなく、3人の娘は、父が週刊誌に載り、学校でひどいいじめにあったが、鈴木は一転して知らん顔。「大変なことになる」と週刊文春を脅した。事実、大林は締め上げた。最近になって、就活セクハラが問題になると、文春は2度大林組の就活セクハラを取り上げ報復。さらに、お妾お京と細川元総理との妾関係を暴露して追撃。(週刊文春・平成31年2月28日号)今度の長谷川も最初だけで、後は30歳年上の細川元総理(週刊文春・平成31年2月28日)との愛人関係を隠すためのダミー。
⑥幻冬舎文庫で「熔ける」という大王製紙社長の懺悔本がある。そこに芸能界とやくざと財界とテレビの少女売春が赤裸々に描かれている。149ページ他、、大林剛郎の名前ももちろん出てくる。
⑦長谷川との関係は終っているのに、新番組の直前に「挙式まじか」と流させて、宣伝に使う。何回この手を使ったか。11年ヒモした長谷川。いつまでヒモするのか。また、鈴木は、作家の北方謙三に大阪で黒づくめで尻を抱かれて高級ホテルへ。