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他にも沖縄戦のエピソードを知っていたらコメント欄で教えてください。
ひめゆり学徒隊の「水筒」読んでほしいです。私的には本当にトラウマになった漫画です。少し手に入りにくいかもですが、、
沖縄戦とトラウマの水筒思い出したらリアルに気分が悪くなってきました。沖縄戦まで来ると、広島、長崎、ポツダム宣言と玉音放送となりますが、できたらもう少し太平洋戦争を引き伸ばしてほしい!!広島と長崎は別動画にしてほしい太平洋戦争動画が終わると大きなシリーズものがなくなってしまうので、単発ものな感じになっていくのかな、、
日本軍は沖縄戦が始まる前に沖縄県民を戦場になる沖縄本島から脱出させようと物資を運んだ輸送船に乗せて本土へ送ろうとしたが、対馬丸の事件もあって県民は本土へ向かおうとはしなかったしかも、続々と送られてくる日本兵の姿を見て大丈夫だろうと思ったいざ、米軍がやってきた時、日本軍は北側に住民を避難させようとしたが、北側はマラリアの巣窟などの理由から県民の殆どが移動せず、南部に留まった為、例の自決事件などが起きた
大田実中将の訣別電文を読んでみて下さい。私感ですが、あなたの解説より 沖縄戦を語っています。
@@user-mz3bz6cb7u これですね「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。海軍次官宛の電報(現代訳)食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。」
沖縄県民です。この動画を作成して頂きありがとうございます。沢山の方がこの動画を観て沖縄戦を理解してもらえたら嬉しいです。いまだに沖縄戦への無理解で沖縄を叩く風潮があるのが悲しいです。沖縄の悲しい歴史が今の沖縄を作っています。それを頭ごなしに否定しないで下さい。沢山の方々が沖縄を考えるきっかけになってくれれば幸いです。
なんか日本vs米国を本土vs沖縄にすり替える風潮あるよな。1500機の特攻機が出撃、主力部隊は関東と九州だし、準備段階ですら部隊を本土から沖縄に送る途中に4600人しんでるし。
修学旅行で沖縄に行きガマ体験をしたことがあります。その日は雨だったこともあり湿度も高く中は真っ暗で懐中電灯を消すと昼でも何も見えない状況でした。そして割れた食器や服(?)の切れ端なども入口付近には沢山落ちていてここに人が本当に生活していたんだと実感しました。数分いるだけでも気分が悪くなってしまうような場所で何日間も生活しなければならないのは本当に過酷だと思いました。約6年前に行きましたが鮮明に覚えています。改めてこんな惨劇は二度と繰り返してはいけないと心の底から思います。
忘れないようにしたいものです
。?ゆ
わかりやすく詳しい解説で、とても勉強になりました。私は本土出身のゆとり世代です。小中学校の義務教育で受けた日本史の授業では、たしか沖縄戦のことは1ページにも満たない解説しかなかったと思います。内容も、沖縄では激しい地上戦が起こり、民間人や子供まで動員して必死に抵抗したが、敗北したといった、とても簡潔な内容でした。大人になってから沖縄へ観光に行く機会があり、興味があったのでこちらの動画で学び直しをさせていただきました。義務教育時に習った内容だけでは到底想像もつかない、悲しい歴史があったんだと知りました。この歳まで知らなかったことが恥ずかしいと思いました。こちらの動画で勉強させて頂けて、本当に良かったです。歴史は過去の過ちを繰り返さないために学ぶものだと思います。沖縄戦のことは、基地問題や防衛問題など、現代の課題にも繋がっているものですし、悲惨な過去はこれから日本が戦争を起こさないための抑止力にもなると思います。もっと歴史の授業でも取り上げて欲しい、私よりも若い世代にも早いうちから知って欲しいと思いました。
ですよね?縄文?弥生??そんな時代を覚える必要皆無です。近代歴史をメインにするべきでしょう!近代歴史をメインにして、戦争をしてはいけない!ということを植え付けるべきです。縄文は、単に土器だけ覚えておけば良い。弥生は、高床式倉庫だけで良い。飛鳥?厩戸の皇子に似た人が、新しい憲法を作っただけで良い。
沖縄戦を語ってくださいありがとうございます。 還暦間近の沖縄県民です。 小学6年の頃、同級生が不発弾が爆発し命は助かったのですが、片腕が吹き飛ばされました。いまでも多くの不発弾がみつかり沖縄にとって戦後処理はまだまだ終わっていません。
恐ろしいです…教えてくださりありがとうございます
@b a 別にいいじゃん伝わればさ予測変換を使って変な感じになっているんじゃないですか😅
修学旅行が船で沖縄に行くという特殊な修学旅行で、途中戦艦大和の沈没地点にも船を停め黙祷、献花をするという貴重な経験をしました。海のど真ん中でとてつもない恐怖だっただろうなと思いました。行ったことのある人は少ないと思うので、本当に貴重な経験をさせてもらいました。ひめゆり学徒隊の生き残りの方の公演も聞き、ガマにも行き、初めての沖縄は少し重たい思い出ででした。でも温かい人や綺麗な海に魅了され、それから何度も訪れています。きちんと歴史を理解した上で、これからも沖縄のことを大好きでいようと思います。
ありがとうございます。私の母は当日学童疎開船に乗って本土に疎開する途中米軍の爆撃にあい隣を走行していた「対馬丸」が撃沈、母達も引率の教師たちが晴れ着に着替えなさいと、皆上等な服を着て「お母さん😢アンマー」と泣いていたそうです。ずっとトラウマになっているようでした
沖縄出身者です。私の曽祖母は本島ではなく宮古島出身で、上陸は無かったようですが艦砲射撃と空襲から無事生き残っています。徴兵され中国で戦っていた曽祖父は終戦直後にシベリアに強制連行されたようですが生きて帰ってきており、今も家に行くたび海部総理から頂いた感謝状が飾られているのが目に入ります。2人とも私が中学校に上がる前には亡くなってしまいましたがとても優しくしてくれたことを覚えています。2人が戦争を生き残っていなければ自分も産まれていないと思うと感慨深いですね。コロナで中々外に出づらい時期ではありますが、落ち着いたら曽祖父母の家に手を合わせに行こうと思います。
素晴らしいことだと思います。ご家族大切にされてください
それは気づかなかった。俺の場合日本軍の母方とカナダ軍の父方の両方が生きてなかったら今いないのか、、マジで感慨深いですね、
You Tube「中共によるウイグル人強制収容所」。中共によるウイグル人とチベット人の臓器取り出し。マスゴミクズは一切報道しません。左巻きのほうが怖いです。マスゴミクズは中共シンパシーですからね。
You Tube「工作船」とYou Tube「板門店逮捕」。これが南北殺し合い今だに休戦ラインある分断国家です。板門店休戦ラインです。現在進行形です。
ネトウヨ含め「スゴいぞ日本!」なんて言ってる人はたいてい「武力行使」など都合よく肯定してるが、戦争の地獄を知ってる人の前でそんなことを軽々しく言ってはいけないね。俺の祖夫母は戦前の人(言っても祖母の場合は戦争末期生まれ)だが、祖母の一番年上の兄の顔は知らないみたいだ。徴兵で〔日本万歳〕で亡くなった人だ。
学生の時じゃない大人になった自分だから今歴史を勉強して全てを理解したいと思った。この内容は悲し過ぎる、これが現実にあった事を忘れない様に後世へ伝えるのが大人の仕事。
おっしゃる通りだと思います。他の動画も見てみてほしいです
20年前中学生で沖縄へ修学旅行へ行きました。元ひめゆり学徒隊の方に直接戦争の悲惨さをお話してもらった事を思い出しました。
貴重な体験でしたね…忘れないようにして欲しいです
とてもわかりやすい動画でした。ありがとうございます。戦争の美化がたくさんの犠牲を生んでとても悲しく辛いきもちになりました。とても昔の話のように思えますが、今も世界中で自爆テロや戦争が起きていて、世界平和切に願います。
おっしゃる通りです
摩文仁の丘の 祈りの歌に夏の真昼は 青い空誓いの言葉 今も新たなふるさとの夏沖縄県民なら誰でも知っているであろう月桃の歌詞です。私の両親は数少なくなった沖縄戦の経験者です。この動画を作ってくれて本当にありがとうございます。
こちらこそご視聴ありがとうございました
6月23日待たず月桃の花散りました長い長い煙たなびく故郷の夏内地のひとにはもっと沖縄戦について知ってほしい
このチャンネルすごい。いままで知らなかった細かい歴史が知れてすごく良い。相手の航空基地に航空機で突っ込んで行く作戦なんか知らなかった。。。
そんな過酷で残酷な戦争だったのですね。数年前、沖縄には平和記念公園とひめゆりの塔に慰霊に行きました。晴れ渡っているのに、空気が重く沈んでいたのを今でも覚えています。🙏
僕も近々行きます
平和がずっと続きますように
大切ですね
@@せんぷーき-o8l 大戦になった場合、ww2の様な血生臭い戦争になるのだろうか?
こうして見ると、自分たちの見栄やメンツで国民を振り回す権力者の風習は何十年も変わってないんだなぁ。
3ヶ月も侵略されたままの生活の中暮らしてたとか本当に地獄。今の暮らしがあるのも、そこで戦ってくださったり、犠牲になられた方のお陰なんですよね。ただただご冥福をお祈りします。
「ひめゆり学徒隊」学生の頃には感じることすらできなかった沖縄戦の状況を、大人になって感じることができました。ありがとうございます。
よかったです!他の動画も見てみてくださいね
鉄血勤皇隊だった俺のおじーは、三兄弟の1番上で、弟二人を亡くしてた。今ではもう二度と話を聞くことが出来ないけど、昔の辛い思いを俺のために話してくれてありがとう。安らかに眠ってね
同じように語り継いでいけるといいですね、ご冥福をお祈りいたします
途中から仕事の手が止まってしまったよ。沖縄戦の惨劇は子供の頃たくさん聞いたことあるけどいつのまにか忘れていたのをまた思い出しました。
思い出してくださって良かったです
母方のおじいちゃんとおばあちゃんが沖縄戦を経験した人でした。おじいちゃんとおばあちゃんはどのような経緯でボリビアへ移住したかわかりませんが船を使って渡ったと話を聞きました。そこで産まれたうちのお母さんが日系ボリビア三世と聞いてます。おばあちゃんとおじいちゃんは既に亡くなってしまいましたが2人から当時の沖縄戦での経験を沢山聞き壮絶さを聞きました。隠れていたサトウキビ畑等に身を潜めてる中、目の前で友達や友達の親や親戚などが手榴弾や銃で亡くなるのを目の当たりしたと何度も聞きました。
貴重なお話をありがとうございます!
ペリリューを読んでから色んな歴史を履修しているのですが、終戦して戦場から帰ってきた沖縄出身の兵士が「家族と連絡がとれない」と言っていたのを動画視聴中思い出しました。国のためとは言え、こうやって人が亡くなっていくのは本当に辛いです。
おっしゃる通りです。知りたくないけど知らなくてはという感じです
拝聴しながら、涙がポロポロ溢れ出て来ました。どんな気持ちだったのかと…。なかなか普段の生活の中で、詳しく聴く機会もなかったので、分かりやすく、そして心が震えました。今や沖縄と言えば、リゾートのイメージ。この様な大切な歴史は、沖縄出身じゃなくとも、次の世代に伝えて行く責任があるな…と感じました。ありがとうございました🙏
こちらこそコメントありがとうございました。他の動画も見てみてほしいです
@@donttellmearai さま、モチロン‼︎ 大ファンですよ❤︎
これは教養動画としてどの世代も閲覧するべき。なにしろ終戦の年である1945年生まれの人ですら2022年現在77歳という後期高齢者になってしまいましたから。
みんなにみてほしい
とても分かりやすかったです!
良かったです!他の動画も見てみてくださいね!
あなたの見解と解説は正しい。寸分の狂いもなく全視聴者と遺族に寄り添う解説で素晴らしい。
いやいや、間違っているところは多々あったりします!鵜呑みにはしないでください
最初に出てきた富盛のシーサーは現存しています。寂しい高台にたたずんでいて私もつい先日伺いました。側部には銃弾痕が残っていて周囲が焼けて身を隠すところがなくなる中、米軍、日本軍双方の銃弾から兵士達が身を隠していたそうです。戦時中も今も沖縄を守ってくれているのですね。
そんなことに使われてほしくはないです
沖縄出身者です。私の祖父は沖縄戦で伊江島で戦死したと祖母から聞ききました。同じ部隊だった方が戦後家に訪ねてきて、教えてくれたようです。最後は切り込み隊として刀だけで突撃して亡くなったとのことでした。当時26歳だったと聞いていますす。祖母からは戦時中の話を教えてもらいましたが、とてつもなく死と隣り合わせの毎日でつらい話ばかりでした。
恐ろしいです。ご冥福をお祈りします。お話ししてくださりありがとうございました。
요약하면, 살인마인 것이네요. 아시아인을 학살한 군대.
@@KrMorgan12 바보?? 많은 한국인도 오키나와에서 싸워서 죽었어요. 일본군을 모욕하는 것은 그한국인의 희생자도 모욕하는 것과 같아요.
@@KrMorgan12 誰に対しての発言?日本?アメリカ?
沖縄は小学生頃から6月になると、沖縄戦について、実際に戦争を体験した方を学校に呼んで、話してもらったり 平和学習があります。実際に体験した方から直接話しを聞ける最後の世代の私たちは、それをしっかり聞いて語り継いでいかないといけないですね。ちなみに私の祖母は、アメリカ兵に助けてもらって、キャンディなどを貰って今命があるって言います。10人いた兄弟は5人になってうちの2人は日本兵に殺されたそうです。誰かにとって悪者でもおばあちゃんにとってアメリカ兵は助けてくれた良い人です。
そうなんですね…教えてくださってありがとうございます
おばあちゃんは、こんな中で生き延びたのに戦争が終わったあと、貧しい生活を強いられて同じ沖縄県民から石を投げられたりしたと辛そうに話してた今は、色々辛いことを沢山乗り越えて幸せに過ごしてます。
戦争の恐ろしさです。
見ていて涙が止まりませんでした。荒井さんの動画でもう一度、色々な歴史をしっかりと知りたいと思いました。ありがとうございました。
こちらこそ暖かいコメントありがとうございました。他の動画も見てみてくださいね!
48歳沖縄県民です。叔母さんは、中学生の時に沖縄戦で、親とはぐれ4つ下の妹の手を引いて2人で摩文仁付近で逃げまどい、艦砲射撃で妹を目の前で、頭が吹き飛び亡くしました。後で、迎えにくるからね。と、泣く泣く妹を埋めて、逃げました。後日、埋蔵した所に妹を迎えに行くとその付近は、大型の爆弾で、ぽっかりと大穴が空いて、、跡形も無くなっていたそうです。
恐ろしいです。教えてくださってありがとうございます。伝えていかないとと思います
平和を今後もずっと続けるためにも、過去をしっかりと知る必要がありますね。それが今生きている自分達に出来ること。
その通りだと思います、そのお手伝いができればと思います
沖縄県民です。祖父母が戦争経験者です。内容の訂正&付け足しをお願いしたいです。ガマの中の沖縄県民は自分達の意思でアメリカ兵の捕虜にならなかった人はおおくありません。本当は捕虜になりたかった。けど、日本兵が県民に紛れてガマに入っていて、もし捕虜になるならガマの中にいる親戚を手榴弾で殺す!とかアメリカ兵がガマを後にしたら、お前たちはアメリカ兵のスパイだ❗ちがうと証明したいなら、ここで自殺しろ!とか言われていたのです。県民が一番恐れていたのは日本兵です。彼らはガマにいる民間人から服をはぎとり、自分達の服を民間人に着せてガマから出して、さと自分達は民間人だというように簡単に捕虜になった人もいたようです。自殺したくてしたわけではありません。日本兵に強制的にされたのです。県民はほぼ日本は負ける。そういうことがわかってる人が多かったようです。とにかく、県民はアメリカ兵よりも日本兵を恐れている方が多かったようです。沖縄のおじー、おばーなどからもう少し色々聞いてほしいです。
そうなんですね…貴重なお話ありがとうございます、勉強になりました
沖縄育ちです。集団自決は自発的ではなく、推奨されてたと教わりました。手榴弾を渡された人もいたと。
恐ろしいことです教えてくださってありがとうございます
どれを見ても分かりやすい!実際に現地に行って解説もしてくれるから想像しやすいし何より胸にグッとくる!
実家に沖縄戦の写真がある資料集がありますが、小学生の頃から度々読んでましたが民間人がガマ(洞窟)に避難しようとしたら日本軍に出て行けと言われて亀甲墓(琉球の伝統的なお墓)に隠れて砲火から身を守ったと書いてあり恐ろしい、悍ましいと思い新井さんの解説で改めて悲惨だと感じました
沖縄(特に民間人)を捨て駒にというのは、現在の日本も同じ状況だよな……特に基地問題沖縄戦で犠牲になった方々のご冥福を祈ります🙏
仕方がないと言えば仕方がないというのが戦争の恐ろしいところでさ
ぶっちゃけ沖縄の基地が無いと、沖縄戦リターンズで持久戦するしかないんよなあ
時間的にも仕事終わりの電車に見るのにちょうどよかったです😄 電車の時間も教養が身についてとても有意義な時間になりました ありがとうございます!
こちらこそご視聴ありがとうございました他の動画も見てみてくださいね!
うちのおばあちゃん一家は北部の山の中に逃げてサバイバル生活してて助かったんだよね。沖縄の南部にいた親戚身内はほぼ全滅。南部に逃げるか北部に逃げるかで運命が分かれたかも。
恐ろしい話です。教えてくださってありがとうございます
久しぶりに沖縄戦の動画を見に来ました。学生の頃、修学旅行でガマに入りました。鍾乳洞のため涼しいのですが、爆風で飛んだ一斗缶のようなものが天井にめり込んでいたのを覚えています。また、1番奥の重症者がいた場所では、鍾乳洞なのにとても暑かったです。もう10年以上経ちますが今でも覚えています。
その動画また出ます!
親から戦争のことはあまり聞いていませんでしたが教育番組を見て勉強になりましたありがとうございます
やっぱり、どの国でも、ものごころがつくまえに教えられたことは生涯記憶に残る。それが一番こわい
不思議なもんですよね
沖縄県民です!私のおじいちゃんは、沖縄の北部出身でした。対馬丸に乗せられとこでしたが、死ぬ時は家族一緒ということで、乗せられませんでした。今、私がいるのも祖父のおかげもあるので、この話を聞いた時は、なんとも言えませんでした😞
忘れないようにしたいです
対馬丸の悲劇は、小学生の時に終戦祈念日の前、学校の体育館でアニメ映画で見て衝撃を受けました。今でも脳裏に突き刺さっています。
那覇市を歩くたびに「今は平和なこの土地で悲惨な過去があったんだな」ってしんみりしてます
良い心だと思います
20年前に古本屋で新里堅進さん作の漫画「水筒」を読み、沖縄戦のリアルな描写に度肝を抜かれました
読んでみたいです
私が、住んでた島にもアメリカ軍の飛行機来たらしいです。親戚のオジィの片腕がなくて、小さい頃は不思議でしょうがなかったのですが、爆弾が落ちて来て破裂した破片か何かが当たって片腕を負傷したそうです。地元が先島諸島なので沖縄本島みたいに上陸はなかったみたいですが、祖父も小さい頃石垣に曾祖母と疎開したけど、曾祖母は終戦前に亡くなり祖父はマラリアにかかり生死の境をさまよっていたみたいです。親一人、子一人だったみたいで祖父の親戚のおじさん達が必死の覚悟でサバニを漕いで石垣に行って地元に連れ戻したとか。そんな祖父も74で亡くなりました
貴重なお話ありがとうございました。戦争は2度と起こしたくないです
高校の修学旅行先が沖縄でした。確かひめゆり学徒隊だった方と、もう1人別の学徒隊の方のお話を聞き、実際に使われていたガマの中にも入りました。ガマの天井にはガラス瓶が突き刺さったままでした。当時の自分と同じくらいの歳の女の子達が、とても怖くて辛い思いをしたのかと思うと胸が締め付けられました。もう二度と戦争が起きないよう祈るばかりです。
いつも観てます。勉強になります。
ありがとうございます。
叔父が奈良から沖縄戦に参加していました陸軍伍長でした
勉強になりました。詳しく知らない人も多いと思うので、この様な動画の価値は大きいです。
ありがとうございます。たくさん動画作っていきたいです
どの動画も説明もわかりやすくて、声や話し方も聞きやすくてとても勉強になります。
おススメに出てきたため拝見した沖縄出身の者です。幼い時から沖縄戦には沢山触れ、終戦記念日には沖縄戦の動画を毎年見てきました。それほど沖縄ではこの戦争と常に隣り合わせで、ガマや不発弾の存在があり今なお沖縄戦は続いているのだと沢山のおじぃおばぁが言います。よく「沖縄の人は本州(沖縄以外の県)の人を毛嫌いする」と言いますが、その裏には沖縄戦で急に上陸して島すべてをめちゃくちゃにしていった日本兵への負の感情が続いているのだと思います。それでも、このようにして誰でも触れられる場で沖縄戦のことを解説してくださる方がおり非常にうれしく思いました。本当にありがとうございます。第二次世界大戦をこれから先の未来で風化させることがないよう、改めて心に刻むことができました。
沖縄で悲惨な地上戦があったことは漠然と認識していましたが、こんなにも沢山の辛いエピソードを聞いたのは初めてでした。教えていただき、ありがとうございました。
こちらこそコメントありがとうございました。他の動画も見てみて欲しいです
沖縄ツアーでの事バスガイドさんが涙ぐんで言ってました。沖縄の終戦記念日は8月15日ではない!と...
心に残るバスガイドさんですね
女子学徒は、ひめゆり部隊は有名ですね。他に白梅部隊、ずいせん部隊、でいご部隊、積徳部隊、なごらん部隊等が有ります。彼女等は看護助手として頑張りましたが5割以上が戦死したそうです。男子学徒隊は県内各地から招集されて最前線に送られ八割以上が戦死されました。
ひめゆり学徒隊もまた詳しくやるよー
私の祖父、マニラ戦線で部隊全滅…米軍の捕虜生活の後に樺太に送られてロシア人と行動共にして終戦を迎えてます…沖縄に送られた日系兵と同じように住民に対して懸命に降伏を拡声器で呼びかけて日本人の命を救う側だったらしいです(-""-;)
なるほど捕虜になった日本人が呼びかけ役になってたんですね、初めて知りましたありがとうございます
ウチのばあさんも40年前に死んだが、日本以外は全て悪って感じだったな。毎日外国人の文句言ってた・・・今は平和が正義のように昔は強さが正義だったからな。もう戦争を語れる方も少なくなりましたね。
ぼくの姉は防空壕の中で生まれ、母に抱かれ北部の山を逃げ回ったそうです。米軍に泣き声が聞かれたらまずいので、集団から少し離れて付いていったそうです。小学校低学年の頃まで、家の近くの溝には薬莢がゴロゴロあったが、危ないので拾うなと言われました。親戚の人にも遺体の無い「戦死者」がいます。
生き残れて本当に良かったです。貴重なお話を教えてくださってありがとうございます
沖縄に、旅行したときに、戦斗巡りをして、バスガイドさんが沖縄の激戦のお話しをして下さいました。沖縄決戦をお話しして下さいましてありがとうございました。
沖縄県民ですが、戦争の事は学校の授業だったり、資料館などで目にするくらいでした。祖父母の口からは語られる事はなく、僕からも聞くこともなく、、、ですが、辛い経験を口にしたくない気持ちを今では分かります。伝えていくことは大切です。でも皆が皆口には出せない事もあるのかもですね、、
それはありますよね
涙が出ます。胸が飛び出そうな気持ちになりました。なぜ沖縄戦の敗戦で昭和天皇は降伏をしなかたったのかが疑問です。命より大切なものなんてないと強く思いました。
それは終戦の動画で詳しく解説してますよ!
一撃講和論にこだわり降伏しなかった。原爆落とされても迷ってたがソ連参戦にて諦めた。天皇に責任がないなんて嘘です。米国が天皇の責任を不問にしたのは戦後日本を味方にしたかったからです。天皇崇拝論者は米国に感謝しないとね。
昔から沖縄は捨て駒扱い、それは今でも続いている。沖縄で基地反対の人は昔から内地の捨て駒で、基地があることで戦争になった時に真っ先に狙われるのではと考えているから。小さい島に日本の約70%の米軍基地がある。だから何?横浜や他にも基地はあるから沖縄だけが特別じゃ無いと言う人も居るが、規模が違う。今の世の中一国だけで自衛できる国は無く、沖縄に基地がある事は反対では無いのだが、問題はバランス。日本の平和のために沖縄は犠牲になっている感が否めない。って言うとお前は半日かとか中華かとか言う奴が居るが実際に沖縄の基地の現状を目にして体感すると少しは考えも変わるかもね。
なかなか本州の人には伝わらないです
涙が出て止まりません。当時の日本ではですが、最高の働きと生き方をされて居たわけですね。このような地獄で良く頑張られた沖縄の方々と日本軍に敬意と感謝の言葉を贈りたいと思いました。理性的に解説して下さったあなたにも感謝です。
@@user-yq4ec7hv4k もっとリアルに考えてみて下さい、あの当時あの状況で、、、国民を守る事をプライドにしていた軍人たちに正常な判断は出来なかったと思います。例えば太田実中将の決別電文を読んでみてからにして下さい。
高校の修学旅行で沖縄に言ったとき、元ひめゆりの方からお話を聞きました。兵隊さんに、お腹をやられて(撃たれて?)しまうとすぐには死ねずに苦しんでしまうと聞いたから、友人とお腹やられて死にたくないねとよく話していた、というお話が一番印象に残っています。自分たちと同じ年頃の子が、死がすぐそばにある状況で生きていたなんてとショックをうけました。文章下手ですみません。いつも動画楽しみにしてます。
@@あいうえお-o5m5l それを言うなら、"日本人"は覚悟するだろ。お前、それを声高らかに人に言うのであれば、あまりにも無責任。沖縄だけの問題じゃないだろ。 腐っても覇権主義だぞ、中国は。
戦争以前の外交でもそうだけど大日本帝国はもうちょっとうまいやり方を模索して欲しかった国全体の雰囲気もそうだけど合理性を欠いて根性論と精神論が支配してたから無理かな
あとは参謀本部と軍令部の暴走ね
日露までは相当外交もうまかったですけどね
上層部すらも冷静ではいられない状況だったのかも
沖縄の人はないちゃー(沖縄県外の内地の人)とか、うちなんちゅという感覚を強くお持ちの方もいらっしゃいます。私の家系は軍人家系。沖縄は日本領土だからこそ、親族は特攻で数十名が沖縄近海に散りました。遺書には、沖縄は命を懸けて守るべき国土という内容がありました。地域の感覚差はあっても、日本人として沖縄を見捨てたなんて絶対ないことだけはいつの時代になっても理解してもらいたいです!!
沖縄県民です。ご先祖様は当時で言う名誉の戦死をされたのですね。国を守る為沖縄を守る為散ってしまいました、とてもとても残念で悔しいです。戦争がなければきっと優秀な子孫が更に増えたと思うと日本国が許せません。私の母の兄も頭脳明晰で将来を有望視されていた学徒でしたが戦死してしまいました。今年の慰霊の日は母が行けず私達子どもたちが慰霊に行きました。
『島唄』って、アメリカ軍上陸の時のことを歌った歌だったのですよね。昨年まで知りませんでした。沖縄旅行に行って、この歌の意味を知ったとき、号泣しました。
その通り!ざわわさとうきび畑もモロですよ。
コロナなのに!?
是非72年の本土復帰までの道のりを調べてみて下さい。今の日本の未来が見えてきます。何故ナイチャー(本土の人)がおばぁ、おじぃに嫌われるのか、何故戦果アギァーをしなくてはならなかったのか。何故飲み屋が繁盛したのか。何故アメ女になってアメリカ妻なったのか。何故今辺野古に基地なのか。何故地位協定が出来たのか。沖縄問題を解決出来れば、日本は立ち直れると思います。是非取材してみて下さい。
リクエストありがとうございます!調べてみますね!
近所の人はシベリア徴兵により戦ったものの帰還してきました。当時は帰還を情けないと言われていたそうですが帰って来れてよかったと本人が誇らしそうに言っていますし生きているってことが1番えらいと改めて感じました。お国のためとは、、、、?考えさせられました
民主主義ではお国のためとは国民のためです
自分の祖母も当時、家に日本軍が来て家を使うから出ろと言われて追い出されたというのを聞いたことがある
詳しく聞いてほしいです
今でも沖縄では不発弾が見つかり処理されている。遠い昔の物語ではなく、日本のために死ぬ気で散っていった英霊達のためにも、自分たちも死ぬ気で日本のために何かをしていかなければならない。永続的な平和、自然環境保護、国民の豊かな生活。やり方は違えど、気持ちは一つにしなければならない。
何かってなんなんですかね
太平洋戦争末期に 沖縄県知事だった 島田叡 氏と 沖縄県警察部長の荒井退造氏が 命懸けで一般市民を守って助けた事が、もっと沢山の人に知って貰いたいです。2022年に「島守りの塔」映画上演されるので、絶対観たいです👮
えーみたい
島守の塔、楽しみにしています。有難うございます
非常に勉強になりました。
『沖縄スパイ戦史』という映画があります。内容はタイトルとは違い、沖縄戦の背後を描いたようなものです。保守系はサヨク視点だと嫌うだろうけれど、ワタシが観ての感想はそんなとも思わなかったですね。客観的でした。決定的に分かったことのひとつは「軍隊は住民を守らない」ということです。それは当然で、軍隊の至上目的は軍の保存と敵を少しでも撃滅することです。「住民を守る軍隊」なんてありえません。沖縄戦の後半では、珊瑚礁で出来た無数の洞窟にこもってのゲリラ戦。軍と住民が混在していましたが、ほとんど住民は邪魔者扱い。末期には住民の子どもの食糧さえ奪い、住民を虐殺する始末。沖縄のローティーンの少年たちも駆り出され、爆弾抱えて戦車に突撃です。陸軍としては、そんなゲリラ戦を本土でも完遂するつもりだったようです。保守のアホ作家が「集団自決の強要はなかった」なんて、おバカなことを言ってますが、実際には証言多々、証拠も多々あります。コレはクソ東条の「死して虜囚の辱めを受けず」からですけれどね。お陰で沖縄住民は五人にひとりの死亡という悲惨な結果となり、10万人の死亡者と言われています。元々、琉球として独立国だった沖縄は、日本に属したために悲惨な目に遭って、さらに長い米軍による占領。今も在日米軍のほとんどが沖縄に集中。対中国に必要だからしょうがないんだいうアホ保守は、沖縄人を同じ日本人と思ってないんですねえ。それに戦術的にも、アメリカ軍はグアムから出撃してもらっても、モンダイありません(日本防衛に強力してくれれば、のハナシですが)。在日米軍が必要だというなら、そういう国民が多い県に在日米軍基地を移転すべきです。ワタシは沖縄だけに迷惑をかけるのはイヤなので、地元に移転してもらってもかまわないですよ。もっともワタシは「日本は日本人で守る」で、米軍にはすぐにも出てって欲しいですけれど。
米軍基地は元々本土に多かったんやしかし、新安保闘争で反対運動が起きたから、当時沖縄は独立してなくて米軍が管理してたからそこに移動したんや
@@赤い国のプーさん そもそも吉田首相から始まっていることを、いちいち追っていると長くなるだけ。最優先のモンダイは原因ではなく現状。沖縄からの基地移転、本来は在日米軍の撤退。
祖母や親戚から直接聞いた生々しい話はどうしても嘘だらけなんて思えないもんです。「集団自決が本当にあったら誰が生き残って証言したんだお前は嘘つき土人だー」「日本軍に号を奪われたという話と日本軍と一緒に豪に隠れてた話は矛盾する!嘘つき土人が!」などと言われてしまえば口をつぐむしかないです。何万人いて何万人死んだと思ってるんだ、そりゃいろんなケースや人がいていろんな出来事があっただろうに。まあでも、いつまでも悲惨な出来事を語り伝える必要もないと思うので忘れられてもいい出来事だと自分は思ってますが。中国があんだけ出ばってきたら沖縄は平和平和なんて言ってられないだろうし、あと、少し世代交代が進めば直接生き残りから戦争の話を聞いた世代の影響力はなくなっていくだろう
@@karyu0in0japan 話をズラしてすり替えてるでしょ「集団自決を軍が命令したなら何で陣地内の婦人会は「生きろ」と命令されたの?」「手榴弾は3月26日に部隊の実弾配給で兵隊に配ったのに何で20日って嘘ついたの?」「村の青年に手榴弾を配ったって青年は根こそぎ招集されているんだから兵隊でしょ、何で住民って嘘つくの?」「嘉数高地の壕に住民が居ていいわけないでしょ、誰でも追い出すよ」「兵隊さんに守って貰う安全な壕?兵隊がいる激戦地が安全なわけないでしょ」「何で日本兵が住民を殺したって証言はどこもここも日本兵が居ない場所と時間なの?」住民が近所の人達に集団自決を強要したり、当時16歳の少年グループが殺したり、スパイ容疑で私刑したことを孫に正直に話せると思う?
今月、沖縄に行って集団自決の件とかを知ったので、この動画の内容とてもよく理解できました。勝てないと分かってる戦争をいつまでも続けたことが問題だとは思いますが、どこかでやめられるタイミングはあったのでしょうか?
正直、ミッドウェー海戦に敗北後、それ以降の日本の戦いは多少の戦果をあげても無意味で無駄だった。負けたことがない、負けることはないという分けの分からぬ傲り、本当の戦場の悲惨さを知らぬ、戦争を将棋かのように、兵隊達を駒のように扱う軍上層部達は、多くの犠牲者を出す結果となり、勝ち目のない戦いを続け、終戦を遅らせたことは大罪。
どこで幸福してればよかったですかね
沖縄人でオジーオバーから、戦争の話は聞いてたけど、改めて聞くと何故か涙が出そうになるな。オジーオバーが『アメリカーは……アメリカーは……』って、アメリカ人の悪口を言ってたのを思い出しました。オジーに関しては、私が小さい時にアメリカーを見たら、『ユーファイトミー』って言うんだよって言われて、意味も分からずアメリカ人に言って、アメリカ人が困った顔をしてたのも思い出しました。日本兵とアメリカ兵のどちらが悪いと議論もあると思いますが、戦争に参加したオジーオバー達は、公に口に出さない人も多いですが、本土の人とアメリカ人を嫌ってる人が多いんだと思いました。当時の沖縄人は、『何で、俺達が戦わないといけんばー?』って思う人も多かったと思いますが、沖縄人は仲間意識が強いので、一人がやろうと言えば、こいつが行くなら俺も行くって人も少なからず居たんだろうなぁって考えてました。俺らの時代、また下の世代でも、絶対に戦争なんてやるもんじゃないよ。戦争だけじゃない。争いをする事自体がダメだ!って思ったね。止めよう、そんな事。
教えてくださってありがとうございます。伝えていきます
すごく わかりやすいですねありがとうございます登録しました
こちらこそご視聴ありがとうございました。他の動画も見てみてくださいね!
とにかく言えるのは、思想とか関係なく国を守る為に命を懸けて戦った先祖の方々には頭が上がらない。感謝しかありません。
今でも沖縄の看護師が日本一と聞いている。それは生き残った先輩達から伝えられている心だそうだ。沖縄生まれの兵は台湾に移動して米軍を待ったが米軍は沖縄に直接来たから本土から兵が派遣された。故郷を護れなかった兵隊はさぞ悔しかったでしょう。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。沖縄戦に参加した太田司令官
話を何度と聞いても悲惨な戦争だったんですね。沖縄の皆さんは地獄を見たんですね。当時は生死の境をさ迷っていたんですね。
アメリカのせいで地獄を見ましたね。それなのに米軍基地があるなんて、
日本軍も始まるずーっと前から県民を疎開させてたりするんやで
@@あいうえお-o5m5l はい?日本軍は本土決戦を唱えていましたがどうして嘘つくんですか?
@@tuyosaranking 日本が本土決戦で固まるほど一枚岩の優秀な組織なわけないだろ。海軍は沖縄で決着つけようとしてるし、陸軍も一撃講和という沖縄で米軍に一撃を与えて講和するという考えもあったし。だから米軍に一撃を加えるため飛行場を整備しようとしてたわけで(捨て石作戦に飛行場は不要、そのリソースで要塞を作る方がいい)
「戦果」「大戦果」ってなんだか悲しい言葉だ。誰かが亡くなっている以上「成果」とはなり得ない。喜べない言葉だなぁ。
ねー
軍事を勉強した方が良いですよ。誰も死なない戦争なんてありません
@@先輩一色 誰も死なない戦争があるとはもちろん思っていません。むしろそう思ってる人いないのではないでしょうか。軍事は勉強し始めです。貴重なご意見ありがとうございます。
沖縄県出身ですが小学中学で習いましたでも変らんないことあったので勉強なりました
良かったです!
最初に出てきたシーサーは自分が住んでる地域にあります元々は琉球王国時代にその地域に火事が多発していた為火除けの役割として設置したと聞いてます。聞くところによると一番古いシーサーらしいです。
そうなんですね実物を見に行きたいです
沖縄旅行のホテルでこの動画を見ています沖縄の人は方言や土地独特の名前も奪われ、美しい故郷を地獄の戦場にされ、たくさんの命を奪われ、悔しくてたまらなかっただろうと思います沖縄で失われた全ての命のご冥福をお祈りします平和への祈りを込めて
動画ありがとうございます。六人に1人が戦死してしまう、残虐さと、洞窟内の悲惨さを痛感しました
4人ひとりです正確には
とても分かりやすかったです。事実起こった歴史がネジ塞がれようとされる今日で、本当に起こった歴史をきちんと伝えていくことが、本当に大事な事だと思います。私の母も戦争体験者で、近所の人達と祖父が作った防空壕に隠れていた所をアメリカ兵に発見され銃を向けられたそうです。当時母は5歳でした。英語を話せた祖父がアメリカ兵を説得したそうです。自分はどうなってもいいから皆の命を助けて!と。祖父のお陰で今の私がいます。
戦争になるまでの過程を知れば、ふざけんなって思う。沖縄人ですが、日本軍のやった事、アメリカのやった事、許せないです。
2度と繰り返したくないですよね
私の母が祖母(私にとって曾祖母)から聞いた話です。私の母方の実家は国際通りの裏手なのですが、家の敷地が大きかったので内地から来た兵隊さんの寝泊まりする場所として離れの建物を貸していたそうです。その敷地内で上官が乗る馬も世話しており、馬のエサとして芋の皮をあげていたそうなのですが世話していた沖縄の兵隊はお腹が空いていたのでその芋の皮を食べて飢えを凌いでいたそうです。それを見つかったら内地の兵隊に殴る蹴るの暴行を受ける。その反面、上官は白米、味噌汁のご飯を食べていたそうです。
私も父から聞きましたが、戦争当時日本軍が宮古島に来て祖父が所有する馬数頭を日本軍が使うからと、接収され結局全頭死んだとのこと。とにかく何があっても戦争はダメ
@@ころ-o3l 戦争は動物や自然も犠牲になりますね…調べてみるととても心が痛いです。そう遠くない過去に日本は戦争を拡大し、たくさんの命が失われたことを我々は忘れてはいけませんね。戦争に怯えることなく、気ままに出歩けて、ネット使えてる。それが日常である事に感謝。
日本人もアメリカ人も尊い命を失った訳でとても悲しいなぁ。硫黄島もだけど、アメリカが憎いとか思わない。お互いに苦しんだんだな。戦争はあかん。だけど人間だからそれもまた仕方ない事だ。
なんとか避けたいです
私の祖父はフィリピン、マレーシアと兵士として戦い、命からがら生き延びて帰ってきました。子供ながら戦争の生の話を聞けて今となれば貴重な体験をし、できる限り語り継いでいきたい。
フィリピンの戦いの動画も見てみてほしいです!
今ウクライナが沖縄戦の様な惨劇がおきています。なぜ、民間人が戦争の犠牲者にならないのか。勝っても兵士の死者が報われるわけもなく…戦後の風化を繰り返す。御願いだから、暴力で奪い合う無意味さに一分一秒でも早く気づいてくれ!
そこの力学の理解ですね
日本軍内部の意見の分裂が分かりやすく表現されていて勉強になりました。また、ひめゆり学徒隊の生存者の方々が「思い出したくもない」過去を語って下さって、という言葉に、リスペクトを感じました。わずか31分の動画で語って下さる事に敬意を払いつつも、1つ情報を加えると、米軍の沖縄上陸は、ダイビングスポットにもなっている、慶良間諸島に3月26日に上陸したのが最初です。また、私自身疑問に感じたのは、民間人の自決者はどのくらいいたのか、ということです。データとして全体像はわからないかもしれませんが、くだんの慶良間諸島と、沖縄島中部のアブチラガマの犠牲者の実数は、わかっています。丁寧な解説、ありがとうございます。
こちらこそご視聴ありがとうございました。他の動画も見てみてほしいです
涙しか有りません 二度と悲劇が起きない様に 行動すると思いました
その思いを大切にされてください
伊江島の戦いも凄まじいものだったそうです。とても小さな島ですが、大きな飛行場と日本軍が駐屯してたせいで狙われてしまい、激戦区に。女性まで斬り込み隊に動員されたそうです。戦後は多い時で島の半分を米軍基地に取られたこともあります。現在は三分の一くらいです。
調べてみますね
私は3年程沖縄に赴任しましたが感じた事は今でも戦死した兵隊が国際通りを歩いているらしく霊感の強い人が向こうから来る兵隊を避けたらその人に向かって”お前見えるのか”と言ったと云う話なども聞きました。私の同僚も霊感が強かったらしいのですが見えるものについては一切語りませんでした。他にもこのような話は聞きました。沖縄戦で忘れてはならない人と言えば南部摩文仁の丘に県民が感謝の石碑を建てた最後の県知事”島田アキラ”でしょう。
日本本土にもたくさん霊がいるんですかね…
死んだら無、それだけです。霊は存在しません。
@@user-po9lx2yk5s 他の人で申し訳ないんですがもしよろしければお聞きしたいです。
今 寝がらユーチューブみている自宅(国際通りの真裏)のこの場所でちょうど2年前の今日くらいに見た夢の話。国際通りの筋道を入った平和通りにうつむいて防災頭巾を被ったお母さんと手をつないだ4歳くらいの子供が夢にでてきて自分とぶつかった瞬間に金縛りにあったうつむいてこそいたがとてもとても悲しくて暗い表情をしていたのをハッキリ覚えているあれは実際にいた人達なんだろうご冥福をお祈りします。今自分達の出来る事はこの沖縄戦のまだ知らぬ人達にこの悲惨さを伝え考えてもらい死んでいった方達を弔うことです
沖縄戦は日本で最も過酷だったと言っても過言ではない。でも戦争賛美はしない。しかし自分が当時の一兵士ならやっぱり戦ってたと思う。沖縄も日本軍も褒めるべき。米軍の侵攻に対し沖縄は最前線で勇敢かつよく戦った。感謝しかない。
このコメントが大好きです。
沖縄戦での日本兵の住民虐殺が語られていないので、「沖縄県公式ホームページ」から引用して付け足しておきます。県のホームページなのでかなり緩めに記されているし、長いですが、知りたい人は読んでください。住民犠牲の諸相沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般住民の犠牲者数がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍の無差別砲爆撃による犠牲のほか、日本軍による住民の殺害が各地で発生した。日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕追い出しや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などをおこなった。その他、食糧不足から住民の食糧を強奪したり、戦闘の足手まといを理由に、死を強要した。住民は逃げ場を失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった。日本軍による住民犠牲日本軍は、兵員、兵器、弾薬、食料などすべてが不足する中で沖縄戦に突入した。このため、食料・避難壕などの強奪や戦場での水汲み、弾薬運搬への動員などによる多くの犠牲を住民に強いた。さらにスパイ視による住民殺害など残忍な行為もあり、なかには投降の呼びかけや説得にきた住民を殺害した例もあった。壕追い出し自分たちの住む町や村が戦場となった住民にとって、壕や墓などが避難場所であった。しかし、出血持久作戦をとり首里から南部へ撤退してきた日本軍は、陣地として使用するという理由で、壕や墓などを強奪した。避難場所を追われた多くの住民は、砲弾が飛び交う戦場で犠牲となった。スパイ視虐殺軍民雑居の戦場となった沖縄の日本軍は、住民から軍の機密が漏れるのを極度に恐れた。「沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」という命令も出されていた。米軍の投降勧告ビラを持っていたり、投降を呼びかけてきた住民は非国民とみなされて、虐殺された例もあった。日本軍の強制による集団死日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生共死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、親類、知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背景には、「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義教育があった。食料強奪食料を入手できなくなった地域では、日本兵による住民の食料強奪が相次いだ。なけなしの食料を強制的に提供させられたり、拒否する場合には殺害されることもあった。さらに、食料の乏しい離島では、日本軍にすべての食料を管理され、住民は飢餓に苦しんだ。
聞いてるだけでつらい。。
忘れたくないです
アメリカの司令官も戦死してるんだよね。アメリカ軍のショックも相当大きかったバズだよ。
その通りだと思います
他にも沖縄戦のエピソードを知っていたらコメント欄で教えてください。
ひめゆり学徒隊の「水筒」読んでほしいです。私的には本当にトラウマになった漫画です。少し手に入りにくいかもですが、、
沖縄戦とトラウマの水筒思い出したらリアルに気分が悪くなってきました。
沖縄戦まで来ると、広島、長崎、ポツダム宣言と玉音放送となりますが、
できたらもう少し太平洋戦争を引き伸ばしてほしい!!
広島と長崎は別動画にしてほしい
太平洋戦争動画が終わると大きなシリーズものがなくなってしまうので、単発ものな感じになっていくのかな、、
日本軍は沖縄戦が始まる前に沖縄県民を戦場になる沖縄本島から脱出させようと物資を運んだ輸送船に乗せて本土へ送ろうとしたが、対馬丸の事件もあって県民は本土へ向かおうとはしなかった
しかも、続々と送られてくる日本兵の姿を見て大丈夫だろうと思った
いざ、米軍がやってきた時、日本軍は北側に住民を避難させようとしたが、北側はマラリアの巣窟などの理由から県民の殆どが移動せず、南部に留まった為、例の自決事件などが起きた
大田実中将の訣別電文を読んでみて下さい。
私感ですが、あなたの解説より 沖縄戦を語っています。
@@user-mz3bz6cb7u
これですね
「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

海軍次官宛の電報(現代訳)
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。」
沖縄県民です。
この動画を作成して頂きありがとうございます。
沢山の方がこの動画を観て沖縄戦を理解してもらえたら嬉しいです。
いまだに沖縄戦への無理解で沖縄を叩く風潮があるのが悲しいです。
沖縄の悲しい歴史が今の沖縄を作っています。
それを頭ごなしに否定しないで下さい。
沢山の方々が沖縄を考えるきっかけになってくれれば幸いです。
なんか日本vs米国を本土vs沖縄にすり替える風潮あるよな。
1500機の特攻機が出撃、主力部隊は関東と九州だし、準備段階ですら部隊を本土から沖縄に送る途中に4600人しんでるし。
修学旅行で沖縄に行きガマ体験をしたことがあります。その日は雨だったこともあり湿度も高く中は真っ暗で懐中電灯を消すと昼でも何も見えない状況でした。そして割れた食器や服(?)の切れ端なども入口付近には沢山落ちていてここに人が本当に生活していたんだと実感しました。数分いるだけでも気分が悪くなってしまうような場所で何日間も生活しなければならないのは本当に過酷だと思いました。約6年前に行きましたが鮮明に覚えています。改めてこんな惨劇は二度と繰り返してはいけないと心の底から思います。
忘れないようにしたいものです
。?ゆ
わかりやすく詳しい解説で、とても勉強になりました。
私は本土出身のゆとり世代です。
小中学校の義務教育で受けた日本史の授業では、たしか沖縄戦のことは1ページにも満たない解説しかなかったと思います。
内容も、沖縄では激しい地上戦が起こり、民間人や子供まで動員して必死に抵抗したが、敗北した
といった、とても簡潔な内容でした。
大人になってから沖縄へ観光に行く機会があり、興味があったのでこちらの動画で学び直しをさせていただきました。
義務教育時に習った内容だけでは到底想像もつかない、悲しい歴史があったんだと知りました。
この歳まで知らなかったことが恥ずかしいと思いました。こちらの動画で勉強させて頂けて、本当に良かったです。
歴史は過去の過ちを繰り返さないために学ぶものだと思います。
沖縄戦のことは、基地問題や防衛問題など、現代の課題にも繋がっているものですし、悲惨な過去はこれから日本が戦争を起こさないための抑止力にもなると思います。
もっと歴史の授業でも取り上げて欲しい、私よりも若い世代にも早いうちから知って欲しいと思いました。
ですよね?
縄文?弥生??
そんな時代を覚える必要皆無です。
近代歴史をメインにするべきでしょう!近代歴史をメインにして、戦争をしてはいけない!ということを植え付けるべきです。縄文は、単に土器だけ覚えておけば良い。
弥生は、高床式倉庫だけで良い。
飛鳥?厩戸の皇子に似た人が、新しい憲法を作っただけで良い。
沖縄戦を語ってくださいありがとうございます。 還暦間近の沖縄県民です。 小学6年の頃、同級生が不発弾が爆発し命は助かったのですが、片腕が吹き飛ばされました。いまでも多くの不発弾がみつかり沖縄にとって戦後処理はまだまだ終わっていません。
恐ろしいです…教えてくださりありがとうございます
@b a
別にいいじゃん伝わればさ
予測変換を使って変な感じになっているんじゃないですか😅
修学旅行が船で沖縄に行くという特殊な修学旅行で、途中戦艦大和の沈没地点にも船を停め黙祷、献花をするという貴重な経験をしました。
海のど真ん中でとてつもない恐怖だっただろうなと思いました。
行ったことのある人は少ないと思うので、本当に貴重な経験をさせてもらいました。
ひめゆり学徒隊の生き残りの方の公演も聞き、ガマにも行き、初めての沖縄は少し重たい思い出ででした。
でも温かい人や綺麗な海に魅了され、それから何度も訪れています。
きちんと歴史を理解した上で、これからも沖縄のことを大好きでいようと思います。
ありがとうございます。
私の母は当日学童疎開船に乗って本土に疎開する途中米軍の爆撃にあい隣を走行していた「対馬丸」が撃沈、母達も引率の教師たちが晴れ着に着替えなさいと、皆上等な服を着て「お母さん😢アンマー」と泣いていたそうです。
ずっとトラウマになっているようでした
沖縄出身者です。
私の曽祖母は本島ではなく宮古島出身で、上陸は無かったようですが艦砲射撃と空襲から無事生き残っています。
徴兵され中国で戦っていた曽祖父は終戦直後にシベリアに強制連行されたようですが生きて帰ってきており、今も家に行くたび海部総理から頂いた感謝状が飾られているのが目に入ります。
2人とも私が中学校に上がる前には亡くなってしまいましたがとても優しくしてくれたことを覚えています。
2人が戦争を生き残っていなければ自分も産まれていないと思うと感慨深いですね。コロナで中々外に出づらい時期ではありますが、落ち着いたら曽祖父母の家に手を合わせに行こうと思います。
素晴らしいことだと思います。ご家族大切にされてください
それは気づかなかった。俺の場合日本軍の母方とカナダ軍の父方の両方が生きてなかったら今いないのか、、マジで感慨深いですね、
You Tube「中共によるウイグル人強制収容所」。中共によるウイグル人とチベット人の臓器取り出し。マスゴミクズは一切報道しません。左巻きのほうが怖いです。マスゴミクズは中共シンパシーですからね。
You Tube「工作船」とYou Tube「板門店逮捕」。これが南北殺し合い今だに休戦ラインある分断国家です。板門店休戦ラインです。現在進行形です。
ネトウヨ含め「スゴいぞ日本!」なんて言ってる人はたいてい「武力行使」など都合よく肯定してるが、戦争の地獄を知ってる人の前でそんなことを軽々しく言ってはいけないね。俺の祖夫母は戦前の人(言っても祖母の場合は戦争末期生まれ)だが、祖母の一番年上の兄の顔は知らないみたいだ。徴兵で〔日本万歳〕で亡くなった人だ。
学生の時じゃない大人になった自分だから今歴史を勉強して全てを理解したいと思った。
この内容は悲し過ぎる、これが現実にあった事を忘れない様に後世へ伝えるのが大人の仕事。
おっしゃる通りだと思います。他の動画も見てみてほしいです
20年前中学生で沖縄へ修学旅行へ行きました。元ひめゆり学徒隊の方に直接戦争の悲惨さをお話してもらった事を思い出しました。
貴重な体験でしたね…忘れないようにして欲しいです
とてもわかりやすい動画でした。ありがとうございます。
戦争の美化がたくさんの犠牲を生んでとても悲しく辛いきもちになりました。とても昔の話のように思えますが、今も世界中で自爆テロや戦争が起きていて、世界平和切に願います。
おっしゃる通りです
摩文仁の丘の 祈りの歌に
夏の真昼は 青い空
誓いの言葉 今も新たな
ふるさとの夏
沖縄県民なら誰でも知っているであろう月桃の歌詞です。
私の両親は数少なくなった沖縄戦の経験者です。この動画を作ってくれて本当にありがとうございます。
こちらこそご視聴ありがとうございました
6月23日待たず
月桃の花散りました
長い長い煙たなびく
故郷の夏
内地のひとにはもっと
沖縄戦について知ってほしい
このチャンネルすごい。いままで知らなかった細かい歴史が知れてすごく良い。相手の航空基地に航空機で突っ込んで行く作戦なんか知らなかった。。。
そんな過酷で残酷な戦争だったのですね。数年前、沖縄には平和記念公園とひめゆりの塔に慰霊に行きました。晴れ渡っているのに、空気が重く沈んでいたのを今でも覚えています。🙏
僕も近々行きます
平和がずっと続きますように
大切ですね
@@せんぷーき-o8l
大戦になった場合、ww2の様な血生臭い戦争になるのだろうか?
こうして見ると、自分たちの見栄やメンツで国民を振り回す権力者の風習は何十年も変わってないんだなぁ。
3ヶ月も侵略されたままの生活の中暮らしてたとか本当に地獄。
今の暮らしがあるのも、そこで戦ってくださったり、犠牲になられた方のお陰なんですよね。
ただただご冥福をお祈りします。
おっしゃる通りです
「ひめゆり学徒隊」学生の頃には感じることすらできなかった沖縄戦の状況を、大人になって感じることができました。ありがとうございます。
よかったです!他の動画も見てみてくださいね
鉄血勤皇隊だった俺のおじーは、三兄弟の1番上で、弟二人を亡くしてた。今ではもう二度と話を聞くことが出来ないけど、昔の辛い思いを俺のために話してくれてありがとう。
安らかに眠ってね
同じように語り継いでいけるといいですね、ご冥福をお祈りいたします
途中から仕事の手が止まってしまったよ。沖縄戦の惨劇は子供の頃たくさん聞いたことあるけどいつのまにか忘れていたのをまた思い出しました。
思い出してくださって良かったです
母方のおじいちゃんとおばあちゃんが沖縄戦を経験した人でした。
おじいちゃんとおばあちゃんはどのような経緯でボリビアへ移住したかわかりませんが船を使って渡ったと話を聞きました。
そこで産まれたうちのお母さんが日系ボリビア三世と聞いてます。
おばあちゃんとおじいちゃんは既に亡くなってしまいましたが2人から当時の沖縄戦での経験を沢山聞き壮絶さを聞きました。
隠れていたサトウキビ畑等に身を潜めてる中、目の前で友達や友達の親や親戚などが手榴弾や銃で亡くなるのを目の当たりしたと何度も聞きました。
貴重なお話をありがとうございます!
ペリリューを読んでから色んな歴史を履修しているのですが、終戦して戦場から帰ってきた沖縄出身の兵士が「家族と連絡がとれない」と言っていたのを動画視聴中思い出しました。
国のためとは言え、こうやって人が亡くなっていくのは本当に辛いです。
おっしゃる通りです。知りたくないけど知らなくてはという感じです
拝聴しながら、涙がポロポロ溢れ出て来ました。
どんな気持ちだったのかと…。
なかなか普段の生活の中で、詳しく聴く機会もなかったので、分かりやすく、そして心が震えました。
今や沖縄と言えば、リゾートのイメージ。この様な大切な歴史は、沖縄出身じゃなくとも、次の世代に伝えて行く責任があるな…と感じました。
ありがとうございました🙏
こちらこそコメントありがとうございました。他の動画も見てみてほしいです
@@donttellmearai さま、
モチロン‼︎ 大ファンですよ❤︎
これは教養動画としてどの世代も閲覧するべき。
なにしろ終戦の年である1945年生まれの人ですら2022年現在77歳という後期高齢者になってしまいましたから。
みんなにみてほしい
とても分かりやすかったです!
良かったです!他の動画も見てみてくださいね!
あなたの見解と解説は正しい。
寸分の狂いもなく全視聴者と遺族に寄り添う解説で素晴らしい。
いやいや、間違っているところは多々あったりします!鵜呑みにはしないでください
最初に出てきた富盛のシーサーは現存しています。寂しい高台にたたずんでいて私もつい先日伺いました。側部には銃弾痕が残っていて周囲が焼けて身を隠すところがなくなる中、米軍、日本軍双方の銃弾から兵士達が身を隠していたそうです。戦時中も今も沖縄を守ってくれているのですね。
そんなことに使われてほしくはないです
沖縄出身者です。
私の祖父は沖縄戦で伊江島で戦死したと祖母から聞ききました。
同じ部隊だった方が戦後家に訪ねてきて、教えてくれたようです。
最後は切り込み隊として刀だけで突撃して亡くなったとのことでした。
当時26歳だったと聞いています
す。
祖母からは戦時中の話を教えてもらいましたが、とてつもなく死と隣り合わせの毎日でつらい話ばかりでした。
恐ろしいです。ご冥福をお祈りします。お話ししてくださりありがとうございました。
요약하면, 살인마인 것이네요. 아시아인을 학살한 군대.
@@KrMorgan12 바보?? 많은 한국인도 오키나와에서 싸워서 죽었어요.
일본군을 모욕하는 것은 그한국인의 희생자도 모욕하는 것과 같아요.
@@KrMorgan12 誰に対しての発言?日本?アメリカ?
沖縄は小学生頃から6月になると、沖縄戦について、実際に戦争を体験した方を学校に呼んで、話してもらったり 平和学習があります。実際に体験した方から直接話しを聞ける最後の世代の私たちは、それをしっかり聞いて語り継いでいかないといけないですね。
ちなみに私の祖母は、アメリカ兵に助けてもらって、キャンディなどを貰って今命があるって言います。
10人いた兄弟は5人になって
うちの2人は日本兵に殺されたそうです。誰かにとって悪者でもおばあちゃんにとってアメリカ兵は助けてくれた良い人です。
そうなんですね…教えてくださってありがとうございます
おばあちゃんは、こんな中で生き延びたのに
戦争が終わったあと、貧しい生活を強いられて
同じ沖縄県民から石を投げられたりした
と辛そうに話してた
今は、色々辛いことを沢山乗り越えて
幸せに過ごしてます。
戦争の恐ろしさです。
見ていて涙が止まりませんでした。
荒井さんの動画でもう一度、色々な歴史をしっかりと知りたいと思いました。
ありがとうございました。
こちらこそ暖かいコメントありがとうございました。他の動画も見てみてくださいね!
48歳沖縄県民です。
叔母さんは、中学生の時に沖縄戦で、
親とはぐれ4つ下の妹の手を引いて2人で摩文仁付近で逃げまどい、艦砲射撃で妹を目の前で、頭が吹き飛び亡くしました。
後で、迎えにくるからね。と、泣く泣く妹を埋めて、逃げました。
後日、埋蔵した所に妹を迎えに行くと
その付近は、大型の爆弾で、ぽっかりと大穴が空いて、、跡形も無くなっていたそうです。
恐ろしいです。教えてくださってありがとうございます。伝えていかないとと思います
平和を今後もずっと続けるためにも、過去をしっかりと知る必要がありますね。それが今生きている自分達に出来ること。
その通りだと思います、そのお手伝いができればと思います
沖縄県民です。
祖父母が戦争経験者です。
内容の訂正&付け足しをお願いしたいです。
ガマの中の沖縄県民は自分達の意思でアメリカ兵の捕虜にならなかった人はおおくありません。
本当は捕虜になりたかった。けど、日本兵が県民に紛れてガマに入っていて、もし捕虜になるならガマの中にいる親戚を手榴弾で殺す!とかアメリカ兵がガマを後にしたら、お前たちはアメリカ兵のスパイだ❗ちがうと証明したいなら、ここで自殺しろ!とか言われていたのです。
県民が一番恐れていたのは日本兵です。
彼らはガマにいる民間人から服をはぎとり、自分達の服を民間人に着せてガマから出して、さと自分達は民間人だというように簡単に捕虜になった人もいたようです。
自殺したくてしたわけではありません。
日本兵に強制的にされたのです。
県民はほぼ日本は負ける。そういうことがわかってる人が多かったようです。とにかく、県民はアメリカ兵よりも日本兵を恐れている方が多かったようです。
沖縄のおじー、おばーなどからもう少し色々聞いてほしいです。
そうなんですね…貴重なお話ありがとうございます、勉強になりました
沖縄育ちです。集団自決は自発的ではなく、推奨されてたと教わりました。手榴弾を渡された人もいたと。
恐ろしいことです
教えてくださってありがとうございます
どれを見ても分かりやすい!
実際に現地に行って解説もしてくれるから想像しやすいし
何より胸にグッとくる!
実家に沖縄戦の写真がある資料集がありますが、小学生の頃から度々読んでましたが民間人がガマ(洞窟)に避難しようとしたら日本軍に出て行けと言われて亀甲墓(琉球の伝統的なお墓)に隠れて砲火から身を守ったと書いてあり恐ろしい、悍ましいと思い新井さんの解説で改めて悲惨だと感じました
沖縄(特に民間人)を捨て駒にというのは、現在の日本も同じ状況だよな……特に基地問題
沖縄戦で犠牲になった方々のご冥福を祈ります🙏
仕方がないと言えば仕方がない
というのが戦争の恐ろしいところでさ
ぶっちゃけ沖縄の基地が無いと、沖縄戦リターンズで持久戦するしかないんよなあ
時間的にも仕事終わりの電車に見るのにちょうどよかったです😄 電車の時間も教養が身についてとても有意義な時間になりました ありがとうございます!
こちらこそご視聴ありがとうございました
他の動画も見てみてくださいね!
うちのおばあちゃん一家は北部の山の中に逃げてサバイバル生活してて助かったんだよね。
沖縄の南部にいた親戚身内はほぼ全滅。南部に逃げるか北部に逃げるかで運命が分かれたかも。
恐ろしい話です。教えてくださってありがとうございます
久しぶりに沖縄戦の動画を見に来ました。学生の頃、修学旅行でガマに入りました。鍾乳洞のため涼しいのですが、爆風で飛んだ一斗缶のようなものが天井にめり込んでいたのを覚えています。また、1番奥の重症者がいた場所では、鍾乳洞なのにとても暑かったです。
もう10年以上経ちますが今でも覚えています。
その動画また出ます!
親から戦争のことはあまり聞いていませんでしたが
教育番組を見て勉強になりました
ありがとうございます
やっぱり、どの国でも、ものごころがつくまえに教えられたことは生涯記憶に残る。
それが一番こわい
不思議なもんですよね
沖縄県民です!
私のおじいちゃんは、沖縄の北部出身でした。
対馬丸に乗せられとこでしたが、死ぬ時は家族一緒ということで、乗せられませんでした。今、私がいるのも祖父のおかげもあるので、この話を聞いた時は、なんとも言えませんでした😞
忘れないようにしたいです
対馬丸の悲劇は、小学生の時に終戦祈念日の前、学校の体育館でアニメ映画で見て衝撃を受けました。
今でも脳裏に突き刺さっています。
那覇市を歩くたびに「今は平和なこの土地で悲惨な過去があったんだな」ってしんみりしてます
良い心だと思います
20年前に古本屋で新里堅進さん作の漫画「水筒」を読み、沖縄戦のリアルな描写に度肝を抜かれました
読んでみたいです
私が、住んでた島にもアメリカ軍の飛行機来たらしいです。親戚のオジィの片腕がなくて、小さい頃は不思議でしょうがなかったのですが、爆弾が落ちて来て破裂した破片か何かが当たって片腕を負傷したそうです。地元が先島諸島なので沖縄本島みたいに上陸はなかったみたいですが、祖父も小さい頃石垣に曾祖母と疎開したけど、曾祖母は終戦前に亡くなり祖父はマラリアにかかり生死の境をさまよっていたみたいです。親一人、子一人だったみたいで祖父の親戚のおじさん達が必死の覚悟でサバニを漕いで石垣に行って地元に連れ戻したとか。そんな祖父も74で亡くなりました
貴重なお話ありがとうございました。戦争は2度と起こしたくないです
高校の修学旅行先が沖縄でした。確かひめゆり学徒隊だった方と、もう1人別の学徒隊の方のお話を聞き、実際に使われていたガマの中にも入りました。ガマの天井にはガラス瓶が突き刺さったままでした。当時の自分と同じくらいの歳の女の子達が、とても怖くて辛い思いをしたのかと思うと胸が締め付けられました。もう二度と戦争が起きないよう祈るばかりです。
いつも観てます。
勉強になります。
ありがとうございます。
叔父が奈良から沖縄戦に参加していました陸軍伍長でした
勉強になりました。詳しく知らない人も多いと思うので、この様な動画の価値は大きいです。
ありがとうございます。たくさん動画作っていきたいです
どの動画も説明もわかりやすくて、声や話し方も聞きやすくてとても勉強になります。
おススメに出てきたため拝見した沖縄出身の者です。
幼い時から沖縄戦には沢山触れ、終戦記念日には沖縄戦の動画を毎年見てきました。
それほど沖縄ではこの戦争と常に隣り合わせで、ガマや不発弾の存在があり今なお沖縄戦は続いているのだと沢山のおじぃおばぁが言います。
よく「沖縄の人は本州(沖縄以外の県)の人を毛嫌いする」と言いますが、その裏には沖縄戦で急に上陸して島すべてをめちゃくちゃにしていった日本兵への負の感情が続いているのだと思います。
それでも、このようにして誰でも触れられる場で沖縄戦のことを解説してくださる方がおり非常にうれしく思いました。
本当にありがとうございます。
第二次世界大戦をこれから先の未来で風化させることがないよう、改めて心に刻むことができました。
沖縄で悲惨な地上戦があったことは漠然と認識していましたが、こんなにも沢山の辛いエピソードを聞いたのは初めてでした。
教えていただき、ありがとうございました。
こちらこそコメントありがとうございました。他の動画も見てみて欲しいです
沖縄ツアーでの事
バスガイドさんが涙ぐんで言ってました。
沖縄の終戦記念日は8月15日ではない!と...
心に残るバスガイドさんですね
女子学徒は、ひめゆり部隊は有名ですね。他に白梅部隊、ずいせん部隊、でいご部隊、積徳部隊、なごらん部隊等が有ります。彼女等は看護助手として頑張りましたが5割以上が戦死したそうです。男子学徒隊は県内各地から招集されて最前線に送られ八割以上が戦死されました。
ひめゆり学徒隊もまた詳しくやるよー
私の祖父、マニラ戦線で部隊全滅…米軍の捕虜生活の後に樺太に送られてロシア人と行動共にして終戦を迎えてます…沖縄に送られた日系兵と同じように住民に対して懸命に降伏を拡声器で呼びかけて日本人の命を救う側だったらしいです(-""-;)
なるほど捕虜になった日本人が呼びかけ役になってたんですね、初めて知りましたありがとうございます
ウチのばあさんも40年前に死んだが、
日本以外は全て悪って感じだったな。
毎日外国人の文句言ってた・・・
今は平和が正義のように昔は強さが正義だったからな。
もう戦争を語れる方も少なくなりましたね。
ぼくの姉は防空壕の中で生まれ、母に抱かれ北部の山を逃げ回ったそうです。米軍に泣き声が聞かれたらまずいので、集団から少し離れて付いていったそうです。小学校低学年の頃まで、家の近くの溝には薬莢がゴロゴロあったが、危ないので拾うなと言われました。親戚の人にも遺体の無い「戦死者」がいます。
生き残れて本当に良かったです。貴重なお話を教えてくださってありがとうございます
沖縄に、旅行したときに、戦斗巡りをして、バスガイドさんが沖縄の激戦のお話しをして下さいました。沖縄決戦をお話しして下さいましてありがとうございました。
こちらこそご視聴ありがとうございました
沖縄県民ですが、戦争の事は学校の授業だったり、資料館などで目にするくらいでした。
祖父母の口からは語られる事はなく、僕からも聞くこともなく、、、
ですが、辛い経験を口にしたくない気持ちを今では分かります。
伝えていくことは大切です。
でも皆が皆口には出せない事もあるのかもですね、、
それはありますよね
涙が出ます。
胸が飛び出そうな気持ちになりました。
なぜ沖縄戦の敗戦で昭和天皇は降伏をしなかたったのかが疑問です。
命より大切なものなんてないと強く思いました。
それは終戦の動画で詳しく解説してますよ!
一撃講和論にこだわり降伏しなかった。原爆落とされても迷ってたがソ連参戦にて諦めた。天皇に責任がないなんて嘘です。米国が天皇の責任を不問にしたのは戦後日本を味方にしたかったからです。天皇崇拝論者は米国に感謝しないとね。
昔から沖縄は捨て駒扱い、それは今でも続いている。沖縄で基地反対の人は昔から内地の捨て駒で、基地があることで戦争になった時に真っ先に狙われるのではと考えているから。小さい島に日本の約70%の米軍基地がある。だから何?横浜や他にも基地はあるから沖縄だけが特別じゃ無いと言う人も居るが、規模が違う。今の世の中一国だけで自衛できる国は無く、沖縄に基地がある事は反対では無いのだが、問題はバランス。日本の平和のために沖縄は犠牲になっている感が否めない。って言うとお前は半日かとか中華かとか言う奴が居るが実際に沖縄の基地の現状を目にして体感すると少しは考えも変わるかもね。
なかなか本州の人には伝わらないです
涙が出て止まりません。当時の日本ではですが、最高の働きと生き方をされて居たわけですね。このような地獄で良く頑張られた沖縄の方々と日本軍に敬意と感謝の言葉を贈りたいと思いました。理性的に解説して下さったあなたにも感謝です。
@@user-yq4ec7hv4k
もっとリアルに考えてみて下さい、あの当時あの状況で、、、国民を守る事をプライドにしていた軍人たちに正常な判断は出来なかったと思います。例えば太田実中将の決別電文を読んでみてからにして下さい。
高校の修学旅行で沖縄に言ったとき、元ひめゆりの方からお話を聞きました。
兵隊さんに、お腹をやられて(撃たれて?)しまうとすぐには死ねずに苦しんでしまうと聞いたから、友人とお腹やられて死にたくないねとよく話していた、というお話が一番印象に残っています。
自分たちと同じ年頃の子が、死がすぐそばにある状況で生きていたなんてとショックをうけました。
文章下手ですみません。いつも動画楽しみにしてます。
@@あいうえお-o5m5l それを言うなら、
"日本人"は覚悟するだろ。お前、それを声高らかに人に言うのであれば、あまりにも無責任。
沖縄だけの問題じゃないだろ。 腐っても覇権主義だぞ、中国は。
戦争以前の外交でもそうだけど
大日本帝国はもうちょっとうまいやり方を模索して欲しかった
国全体の雰囲気もそうだけど合理性を欠いて根性論と精神論が支配してたから無理かな
あとは参謀本部と軍令部の暴走ね
日露までは相当外交もうまかったですけどね
上層部すらも冷静ではいられない状況だったのかも
沖縄の人はないちゃー(沖縄県外の内地の人)とか、うちなんちゅという感覚を強くお持ちの方もいらっしゃいます。
私の家系は軍人家系。
沖縄は日本領土だからこそ、親族は特攻で数十名が沖縄近海に散りました。
遺書には、沖縄は命を懸けて守るべき国土という内容がありました。
地域の感覚差はあっても、日本人として沖縄を見捨てたなんて絶対ないことだけはいつの時代になっても理解してもらいたいです!!
沖縄県民です。ご先祖様は当時で言う名誉の戦死をされたのですね。国を守る為沖縄を守る為散ってしまいました、とてもとても残念で悔しいです。戦争がなければきっと優秀な子孫が更に増えたと思うと日本国が許せません。私の母の兄も頭脳明晰で将来を有望視されていた学徒でしたが戦死してしまいました。今年の慰霊の日は母が行けず私達子どもたちが慰霊に行きました。
『島唄』って、アメリカ軍上陸の時のことを歌った歌だったのですよね。昨年まで知りませんでした。沖縄旅行に行って、この歌の意味を知ったとき、号泣しました。
その通り!
ざわわ
さとうきび畑もモロですよ。
コロナなのに!?
是非72年の本土復帰までの道のりを調べてみて下さい。今の日本の未来が見えてきます。
何故ナイチャー(本土の人)がおばぁ、おじぃに嫌われるのか、何故戦果アギァーをしなくてはならなかったのか。何故飲み屋が繁盛したのか。何故アメ女になってアメリカ妻なったのか。何故今辺野古に基地なのか。何故地位協定が出来たのか。
沖縄問題を解決出来れば、日本は立ち直れると思います。
是非取材してみて下さい。
リクエストありがとうございます!調べてみますね!
近所の人はシベリア徴兵により戦ったものの帰還してきました。当時は帰還を情けないと言われていたそうですが帰って来れてよかったと本人が誇らしそうに言っていますし生きているってことが1番えらいと改めて感じました。お国のためとは、、、、?考えさせられました
民主主義ではお国のためとは国民のためです
自分の祖母も当時、家に日本軍が来て家を使うから出ろと言われて追い出されたというのを聞いたことがある
詳しく聞いてほしいです
今でも沖縄では不発弾が見つかり処理されている。遠い昔の物語ではなく、日本のために死ぬ気で散っていった英霊達のためにも、自分たちも死ぬ気で日本のために何かをしていかなければならない。永続的な平和、自然環境保護、国民の豊かな生活。やり方は違えど、気持ちは一つにしなければならない。
何か
ってなんなんですかね
太平洋戦争末期に 沖縄県知事だった 島田叡 氏と 沖縄県警察部長の荒井退造氏が 命懸けで一般市民を守って助けた事が、もっと沢山の人に知って貰いたいです。2022年に「島守りの塔」映画上演されるので、絶対観たいです👮
えーみたい
島守の塔、楽しみにしています。有難うございます
非常に勉強になりました。
『沖縄スパイ戦史』という映画があります。内容はタイトルとは違い、沖縄戦の背後を描いたようなものです。保守系はサヨク視点だと嫌うだろうけれど、ワタシが観ての感想はそんなとも思わなかったですね。客観的でした。決定的に分かったことのひとつは「軍隊は住民を守らない」ということです。それは当然で、軍隊の至上目的は軍の保存と敵を少しでも撃滅することです。「住民を守る軍隊」なんてありえません。沖縄戦の後半では、珊瑚礁で出来た無数の洞窟にこもってのゲリラ戦。軍と住民が混在していましたが、ほとんど住民は邪魔者扱い。末期には住民の子どもの食糧さえ奪い、住民を虐殺する始末。沖縄のローティーンの少年たちも駆り出され、爆弾抱えて戦車に突撃です。陸軍としては、そんなゲリラ戦を本土でも完遂するつもりだったようです。保守のアホ作家が「集団自決の強要はなかった」なんて、おバカなことを言ってますが、実際には証言多々、証拠も多々あります。コレはクソ東条の「死して虜囚の辱めを受けず」からですけれどね。お陰で沖縄住民は五人にひとりの死亡という悲惨な結果となり、10万人の死亡者と言われています。元々、琉球として独立国だった沖縄は、日本に属したために悲惨な目に遭って、さらに長い米軍による占領。今も在日米軍のほとんどが沖縄に集中。対中国に必要だからしょうがないんだいうアホ保守は、沖縄人を同じ日本人と思ってないんですねえ。それに戦術的にも、アメリカ軍はグアムから出撃してもらっても、モンダイありません(日本防衛に強力してくれれば、のハナシですが)。在日米軍が必要だというなら、そういう国民が多い県に在日米軍基地を移転すべきです。ワタシは沖縄だけに迷惑をかけるのはイヤなので、地元に移転してもらってもかまわないですよ。もっともワタシは「日本は日本人で守る」で、米軍にはすぐにも出てって欲しいですけれど。
米軍基地は元々本土に多かったんや
しかし、新安保闘争で反対運動が起きたから、当時沖縄は独立してなくて米軍が管理してたから
そこに移動したんや
@@赤い国のプーさん そもそも吉田首相から始まっていることを、いちいち追っていると長くなるだけ。最優先のモンダイは原因ではなく現状。沖縄からの基地移転、本来は在日米軍の撤退。
祖母や親戚から直接聞いた生々しい話はどうしても嘘だらけなんて思えないもんです。「集団自決が本当にあったら誰が生き残って証言したんだお前は嘘つき土人だー」「日本軍に号を奪われたという話と日本軍と一緒に豪に隠れてた話は矛盾する!嘘つき土人が!」などと言われてしまえば口をつぐむしかないです。何万人いて何万人死んだと思ってるんだ、そりゃいろんなケースや人がいていろんな出来事があっただろうに。まあでも、いつまでも悲惨な出来事を語り伝える必要もないと思うので忘れられてもいい出来事だと自分は思ってますが。中国があんだけ出ばってきたら沖縄は平和平和なんて言ってられないだろうし、あと、少し世代交代が進めば直接生き残りから戦争の話を聞いた世代の影響力はなくなっていくだろう
@@karyu0in0japan 話をズラしてすり替えてるでしょ
「集団自決を軍が命令したなら何で陣地内の婦人会は「生きろ」と命令されたの?」
「手榴弾は3月26日に部隊の実弾配給で兵隊に配ったのに何で20日って嘘ついたの?」
「村の青年に手榴弾を配ったって青年は根こそぎ招集されているんだから兵隊でしょ、何で住民って嘘つくの?」
「嘉数高地の壕に住民が居ていいわけないでしょ、誰でも追い出すよ」
「兵隊さんに守って貰う安全な壕?兵隊がいる激戦地が安全なわけないでしょ」
「何で日本兵が住民を殺したって証言はどこもここも日本兵が居ない場所と時間なの?」
住民が近所の人達に集団自決を強要したり、当時16歳の少年グループが殺したり、スパイ容疑で私刑したことを孫に正直に話せると思う?
今月、沖縄に行って集団自決の件とかを知ったので、この動画の内容とてもよく理解できました。
勝てないと分かってる戦争をいつまでも続けたことが問題だとは思いますが、どこかでやめられるタイミングはあったのでしょうか?
正直、ミッドウェー海戦に敗北後、それ以降の日本の戦いは多少の戦果をあげても無意味で無駄だった。負けたことがない、負けることはないという分けの分からぬ傲り、本当の戦場の悲惨さを知らぬ、戦争を将棋かのように、兵隊達を駒のように扱う軍上層部達は、多くの犠牲者を出す結果となり、勝ち目のない戦いを続け、終戦を遅らせたことは大罪。
どこで幸福してればよかったですかね
沖縄人でオジーオバーから、戦争の話は聞いてたけど、改めて聞くと何故か涙が出そうになるな。
オジーオバーが『アメリカーは……アメリカーは……』って、アメリカ人の悪口を言ってたのを思い出しました。
オジーに関しては、私が小さい時にアメリカーを見たら、『ユーファイトミー』って言うんだよって言われて、意味も分からずアメリカ人に言って、アメリカ人が困った顔をしてたのも思い出しました。
日本兵とアメリカ兵のどちらが悪いと議論もあると思いますが、戦争に参加したオジーオバー達は、公に口に出さない人も多いですが、本土の人とアメリカ人を嫌ってる人が多いんだと思いました。
当時の沖縄人は、『何で、俺達が戦わないといけんばー?』って思う人も多かったと思いますが、沖縄人は仲間意識が強いので、一人がやろうと言えば、こいつが行くなら俺も行くって人も少なからず居たんだろうなぁって考えてました。
俺らの時代、また下の世代でも、絶対に戦争なんてやるもんじゃないよ。
戦争だけじゃない。争いをする事自体がダメだ!って思ったね。止めよう、そんな事。
教えてくださってありがとうございます。伝えていきます
すごく わかりやすいですね
ありがとうございます
登録しました
こちらこそご視聴ありがとうございました。他の動画も見てみてくださいね!
とにかく言えるのは、思想とか関係なく国を守る為に命を懸けて戦った先祖の方々には頭が上がらない。感謝しかありません。
今でも沖縄の看護師が日本一と聞いている。それは生き残った先輩達から
伝えられている心だそうだ。沖縄生まれの兵は台湾に移動して米軍を待ったが
米軍は沖縄に直接来たから本土から兵が派遣された。故郷を護れなかった兵隊
はさぞ悔しかったでしょう。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵既に出発し、身寄り無き重傷者を助けて□□、真面目にして、一時の感情に駆られたるものとは思われず。
沖縄戦に参加した太田司令官
話を何度と聞いても悲惨な戦争だったんですね。沖縄の皆さんは地獄を見たんですね。当時は生死の境をさ迷っていたんですね。
アメリカのせいで地獄を見ましたね。それなのに米軍基地があるなんて、
日本軍も始まるずーっと前から県民を疎開させてたりするんやで
@@あいうえお-o5m5l はい?日本軍は本土決戦を唱えていましたがどうして嘘つくんですか?
@@tuyosaranking
日本が本土決戦で固まるほど一枚岩の優秀な組織なわけないだろ。
海軍は沖縄で決着つけようとしてるし、陸軍も一撃講和という沖縄で米軍に一撃を与えて講和するという考えもあったし。だから米軍に一撃を加えるため飛行場を整備しようとしてたわけで(捨て石作戦に飛行場は不要、そのリソースで要塞を作る方がいい)
「戦果」「大戦果」ってなんだか悲しい言葉だ。誰かが亡くなっている以上「成果」とはなり得ない。喜べない言葉だなぁ。
ねー
軍事を勉強した方が良いですよ。誰も死なない戦争なんてありません
@@先輩一色 誰も死なない戦争があるとはもちろん思っていません。むしろそう思ってる人いないのではないでしょうか。軍事は勉強し始めです。貴重なご意見ありがとうございます。
沖縄県出身ですが小学中学で習いましたでも変らんないことあったので勉強なりました
良かったです!
最初に出てきたシーサーは自分が住んでる地域にあります
元々は琉球王国時代にその地域に火事が多発していた為火除けの役割として設置したと聞いてます。
聞くところによると一番古いシーサーらしいです。
そうなんですね
実物を見に行きたいです
沖縄旅行のホテルでこの動画を見ています
沖縄の人は方言や土地独特の名前も奪われ、美しい故郷を地獄の戦場にされ、たくさんの命を奪われ、悔しくてたまらなかっただろうと思います
沖縄で失われた全ての命のご冥福をお祈りします
平和への祈りを込めて
動画ありがとうございます。
六人に1人が戦死してしまう、残虐さと、洞窟内の悲惨さを痛感しました
こちらこそご視聴ありがとうございました
4人ひとりです正確には
とても分かりやすかったです。事実起こった歴史がネジ塞がれようとされる今日で、本当に起こった歴史をきちんと伝えていくことが、本当に大事な事だと思います。私の母も戦争体験者で、近所の人達と祖父が作った防空壕に隠れていた所をアメリカ兵に発見され銃を向けられたそうです。当時母は5歳でした。英語を話せた祖父がアメリカ兵を説得したそうです。自分はどうなってもいいから皆の命を助けて!と。祖父のお陰で今の私がいます。
戦争になるまでの過程を知れば、ふざけんなって思う。
沖縄人ですが、日本軍のやった事、アメリカのやった事、許せないです。
2度と繰り返したくないですよね
私の母が祖母(私にとって曾祖母)から聞いた話です。
私の母方の実家は国際通りの裏手なのですが、家の敷地が大きかったので
内地から来た兵隊さんの寝泊まりする場所として離れの建物を貸していたそうです。
その敷地内で上官が乗る馬も世話しており、馬のエサとして芋の皮をあげていたそうなのですが
世話していた沖縄の兵隊はお腹が空いていたのでその芋の皮を食べて飢えを凌いでいたそうです。
それを見つかったら内地の兵隊に殴る蹴るの暴行を受ける。その反面、
上官は白米、味噌汁のご飯を食べていたそうです。
私も父から聞きましたが、戦争当時日本軍が宮古島に来て祖父が所有する馬数頭を日本軍が使うからと、接収され結局全頭死んだとのこと。
とにかく何があっても戦争はダメ
@@ころ-o3l 戦争は動物や自然も犠牲になりますね…調べてみるととても心が痛いです。
そう遠くない過去に日本は戦争を拡大し、たくさんの命が失われたことを我々は忘れてはいけませんね。
戦争に怯えることなく、気ままに出歩けて、ネット使えてる。それが日常である事に感謝。
日本人もアメリカ人も尊い命を失った訳でとても悲しいなぁ。硫黄島もだけど、アメリカが憎いとか思わない。お互いに苦しんだんだな。
戦争はあかん。だけど人間だからそれもまた仕方ない事だ。
なんとか避けたいです
私の祖父はフィリピン、マレーシアと兵士として戦い、命からがら生き延びて帰ってきました。子供ながら戦争の生の話を聞けて今となれば貴重な体験をし、できる限り語り継いでいきたい。
フィリピンの戦いの動画も見てみてほしいです!
今ウクライナが沖縄戦の様な惨劇がおきています。なぜ、民間人が戦争の犠牲者にならないのか。勝っても兵士の死者が報われるわけもなく…戦後の風化を繰り返す。
御願いだから、暴力で奪い合う無意味さに一分一秒でも早く気づいてくれ!
そこの力学の理解ですね
日本軍内部の意見の分裂が分かりやすく表現されていて勉強になりました。また、ひめゆり学徒隊の生存者の方々が「思い出したくもない」過去を語って下さって、という言葉に、リスペクトを感じました。
わずか31分の動画で語って下さる事に敬意を払いつつも、1つ情報を加えると、
米軍の沖縄上陸は、ダイビングスポットにもなっている、慶良間諸島に3月26日に上陸したのが最初です。
また、私自身疑問に感じたのは、民間人の自決者はどのくらいいたのか、ということです。データとして全体像はわからないかもしれませんが、くだんの慶良間諸島と、沖縄島中部のアブチラガマの犠牲者の実数は、わかっています。
丁寧な解説、ありがとうございます。
こちらこそご視聴ありがとうございました。他の動画も見てみてほしいです
涙しか有りません 二度と悲劇が起きない様に 行動すると思いました
その思いを大切にされてください
伊江島の戦いも凄まじいものだったそうです。とても小さな島ですが、大きな飛行場と日本軍が駐屯してたせいで狙われてしまい、激戦区に。
女性まで斬り込み隊に動員されたそうです。
戦後は多い時で島の半分を米軍基地に取られたこともあります。現在は三分の一くらいです。
調べてみますね
私は3年程沖縄に赴任しましたが感じた事は今でも戦死した兵隊が国際通りを歩いているらしく
霊感の強い人が向こうから来る兵隊を避けたらその人に向かって”お前見えるのか”と言ったと云う話なども聞きました。
私の同僚も霊感が強かったらしいのですが見えるものについては一切語りませんでした。
他にもこのような話は聞きました。
沖縄戦で忘れてはならない人と言えば南部摩文仁の丘に県民が感謝の石碑を建てた最後の県知事”島田アキラ”でしょう。
日本本土にもたくさん霊がいるんですかね…
死んだら無、それだけです。
霊は存在しません。
@@user-po9lx2yk5s 他の人で申し訳ないんですがもしよろしければお聞きしたいです。
今 寝がらユーチューブみている自宅(国際通りの真裏)のこの場所で
ちょうど2年前の今日くらいに
見た夢の話。
国際通りの筋道を入った平和通りにうつむいて防災頭巾を被ったお母さんと手をつないだ4歳くらいの子供
が夢にでてきて自分とぶつかった瞬間に金縛りにあった
うつむいてこそいたが
とてもとても悲しくて暗い表情をしていたのをハッキリ覚えている
あれは
実際にいた人達なんだろう
ご冥福をお祈りします。
今自分達の出来る事は
この沖縄戦のまだ知らぬ人達にこの悲惨さを伝え考えてもらい
死んでいった方達を弔うことです
沖縄戦は日本で最も過酷だったと言っても過言ではない。でも戦争賛美はしない。しかし自分が当時の一兵士ならやっぱり戦ってたと思う。沖縄も日本軍も褒めるべき。
米軍の侵攻に対し沖縄は最前線で勇敢かつよく戦った。感謝しかない。
このコメントが大好きです。
沖縄戦での日本兵の住民虐殺が語られていないので、「沖縄県公式ホームページ」から引用して付け足しておきます。県のホームページなのでかなり緩めに記されているし、長いですが、知りたい人は読んでください。
住民犠牲の諸相
沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般住民の犠牲者数がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍の無差別砲爆撃による犠牲のほか、日本軍による住民の殺害が各地で発生した。
日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕追い出しや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などをおこなった。その他、食糧不足から住民の食糧を強奪したり、戦闘の足手まといを理由に、死を強要した。住民は逃げ場を失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった。
日本軍による住民犠牲
日本軍は、兵員、兵器、弾薬、食料などすべてが不足する中で沖縄戦に突入した。
このため、食料・避難壕などの強奪や戦場での水汲み、弾薬運搬への動員などによる多くの犠牲を住民に強いた。さらにスパイ視による住民殺害など残忍な行為もあり、なかには投降の呼びかけや説得にきた住民を殺害した例もあった。
壕追い出し
自分たちの住む町や村が戦場となった住民にとって、壕や墓などが避難場所であった。
しかし、出血持久作戦をとり首里から南部へ撤退してきた日本軍は、陣地として使用するという理由で、壕や墓などを強奪した。避難場所を追われた多くの住民は、砲弾が飛び交う戦場で犠牲となった。
スパイ視虐殺
軍民雑居の戦場となった沖縄の日本軍は、住民から軍の機密が漏れるのを極度に恐れた。「沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」という命令も出されていた。米軍の投降勧告ビラを持っていたり、投降を呼びかけてきた住民は非国民とみなされて、虐殺された例もあった。
日本軍の強制による集団死
日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生共死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、親類、知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背景には、「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義教育があった。
食料強奪
食料を入手できなくなった地域では、日本兵による住民の食料強奪が相次いだ。なけなしの食料を強制的に提供させられたり、拒否する場合には殺害されることもあった。さらに、食料の乏しい離島では、日本軍にすべての食料を管理され、住民は飢餓に苦しんだ。
聞いてるだけでつらい。。
忘れたくないです
アメリカの司令官も戦死してるんだよね。アメリカ軍のショックも相当大きかったバズだよ。
その通りだと思います