Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
すみません、列車名「火の鳥」ではなく「火の山」です。近鉄の某特急と混同したみたいですね
急行ちくご は好きでした。心の底から乗りたいと思った列車の中で、乗れなかった列車の一つです。母方の実家が佐賀線沿線で、ちょうどお昼ごろに熊本行きの急行ちくごを見るのが夏休みの楽しみでした。昭和50年代の佐賀線はキハ20系のツートン標準色3輌編成がノーマルでしたが、1日に上下で2回のちくごのキハ58系のグリーン車付きの(当時では)豪華編成でしたので、憧れがありました。自分のお小遣いで自由に乗れる年齢でもなかったので、自由に乗れる様になると急行ちくごは廃止されていて、ついでに佐賀線まで廃止になっておりもう永久に乗れない憧れの列車になりました。私の小学生の頃は「出島」「弓張」「ちくご」 に島原鉄道直通の加津佐行きまでついていた豪華列車で、この編成の出島や弓張は乗ったことあるのに、ちくごは乗ったことが無いんですよね………ちなみに私の知っている当時は小倉発の出島5号・弓張5号に佐賀からちくごが付いた編成は肥前山口から島原鉄道線直通車が先頭になり、大変興味深い列車でした。ちなみに、通称長崎新幹線が開業するタイミングで肥前山口駅の駅名が改称されることが決まっていますが、何とか駅名だけは残らないかなぁと思う日々でございます。
佐賀線内では筑後大川、筑後柳河が「ちくご」停車駅でしたね。田園地帯の中を行く佐賀線キハ17ディーゼルカー、一日2回、キハ58の急行色が格式を感じさせた憧れの急行「ちくご」。幼い私も「ちくご」に乗る事はかないませんでしたが、懐かしい原風景です。
「いなさ」は50年改正で「出島」に改名してます。「かもめ」格上げで消えた長崎線急行は「出島」名義です。
6:00 「急行格上げ後も続いた」 6:06 「ヨンサントオ改正が行われた」この2つのシーン、小学校(準急)から一緒で、中学校(急行)でも一緒だったけど、高校生になって分かれてしまったみたいな感じで好き
急行「いなさ」ですけど、新幹線博多延伸の時に「出島」に改称されています。(それまでは大村線経由で長崎と博多を結ぶ急行の名称に使われていた)
凄いなこれいくらなんでもカオスすぎる
昔の運行体系は興味深いです。
ちょうど小倉駅が今の位置に移転したタイミングなんですね~
いなさのラストというか、かもめデビュー前は出島でしたね
確か火の鳥ではなくて急行「火の山」だったはず。
「いなさ」は新幹線博多開業後は「出島」に変わってます
ながさきは夜行寝台もありましたね。一番最後まで生き残ったながさき。
夜行のながさきは寝台券のマルスによる全国発売を機に愛称がつけられたもので、全くの別列車。(しかも普通列車)
この動画のながさき号は急行のほうですね。ヨンサントオで愛称統合で消えましたが。
キハ55から始まった、
昔は島原から小倉まで直通が出てたんか...
島鉄が国鉄乗り入れを希望し、それに合わせてキハ20(普通用、長崎と佐世保へ),キハ26、キハ55(準急→急行用)のコピー車を製造して国鉄線内は併結する形で乗り入れていました。キハ26,55は国鉄にはない両運転台仕様で、キハ26は後に冷房改造されています。
この時代、循環列車が流行りでしたね。国鉄人の趣味だったのでしょうか。同じところに戻ってくるというのは案外運用上よかったのかもしれませんが。昔は駅にたくさん人がいたので、分割併合ができたのでしょうが、今はコスト削減でそんな人員はいませんから難しいですね。昔より分割併合はやりやすくなったはずですけど。
車両が足りなくて、複数の需要を繋げていったら結果として循環することになったというのが実情のようです。当時の国鉄は需要はあるけど車両が足りないという問題があり、581・583系もその解消策の一つとして作られた訳で。
@@N--T さん、コメントありがとうございます。かつてはこのような列車が多数あったことで、結果として様々な需要に対応でき便利だったようですね。今は、対東京や、対地域の主要都市を除けば、何度も乗り換えになり不便になった部分もあります。それが効率化なので仕方がない部分もありますが。
6:25関係ないけど『だんだんさんべ号』島根県民なのでしびれるな~
関係あります。さんべの前はやえがきと名乗った。子供だから意味分からない。のちのち知りました。ちどりも知らなかった。のちのち知る。お城🏯だった。熊本行きのぎんなんもお城🏯です。
まぁ、日田彦山線や久大本線、筑豊本線の列車と併結してなかった分まだマシな気もするw当時ってどこの地方見ても多層建て列車ばっかだったもんw
当時、けっこうおもしろい列車が多かったですね。急行フェニックスとか・・・国鉄時代はマニアックなダイヤ満載でしたね😊
日産車🚗を名乗った急行もありました❗️
急行フェニックス、懐かしい列車ですね。僕は別府から博多まで乗車したのが最初で最後でした。東京から岡山迄とほぼ同じ距離をキハ58系気動車が12時間以上かけて走行していました。当時の九州は電化区間は少なくフェニックス号の停車駅は特急並みに少なく現在の振り子式車両のソニックには遠く及びませんが、乗り心地の面ではキハ58系の揺れが少なく良かったです。ヨーロピアンスタイルのグリーン車キロ28系は僕の好きな車両でした。
東北地方の多層階建て急行とどちらが凄いですかね?
急行列車名は「火の鳥」ではなく「火の山」ですよ。阿蘇からとられたと聞いたことがありますが…。
出だしが「♪阿蘇は火の山〜」の歌謡曲がありましたね。ばってん荒川さんの(^^)
昔の準急よりも停車が多い列車で今は特急料金むしり取る
ん?ひまわりが火の鳥になってる?
やってることが陸中のそれ
思い出すもなにも、ひまわりは子供時代に名前が付いた列車の二番目に乗った。博多~熊本まで。前部にちくごを併結したのはおぼろげながらかすかに思い出した。 遅れの夜行急行が朝に八代駅にやって来た。しろやまで博多への旅。小さな駅は止まらない。急行デビュー戦でした。正確には父親に載せられた。父上、ありがとうございました。
折れが死ぬ前に誰かタイムマシンを開発してくれないかな60年前に行ってこういうの乗ってくるから
すみません、列車名「火の鳥」ではなく「火の山」です。近鉄の某特急と混同したみたいですね
急行ちくご は好きでした。心の底から乗りたいと思った列車の中で、乗れなかった列車の一つです。
母方の実家が佐賀線沿線で、ちょうどお昼ごろに熊本行きの急行ちくごを見るのが夏休みの楽しみでした。
昭和50年代の佐賀線はキハ20系のツートン標準色3輌編成がノーマルでしたが、1日に上下で2回のちくごのキハ58系のグリーン車付きの(当時では)豪華編成でしたので、憧れがありました。自分のお小遣いで自由に乗れる年齢でもなかったので、自由に乗れる様になると急行ちくごは廃止されていて、ついでに佐賀線まで廃止になっておりもう永久に乗れない憧れの列車になりました。
私の小学生の頃は「出島」「弓張」「ちくご」 に島原鉄道直通の加津佐行きまでついていた豪華列車で、この編成の出島や弓張は乗ったことあるのに、ちくごは乗ったことが無いんですよね………
ちなみに私の知っている当時は小倉発の出島5号・弓張5号に佐賀からちくごが付いた編成は肥前山口から島原鉄道線直通車が先頭になり、大変興味深い列車でした。
ちなみに、通称長崎新幹線が開業するタイミングで肥前山口駅の駅名が改称されることが決まっていますが、何とか駅名だけは残らないかなぁと思う日々でございます。
佐賀線内では筑後大川、筑後柳河が「ちくご」停車駅でしたね。田園地帯の中を行く佐賀線キハ17ディーゼルカー、一日2回、キハ58の急行色が格式を感じさせた憧れの急行「ちくご」。幼い私も「ちくご」に乗る事はかないませんでしたが、懐かしい原風景です。
「いなさ」は50年改正で「出島」に改名してます。「かもめ」格上げで消えた長崎線急行は「出島」名義です。
6:00 「急行格上げ後も続いた」 6:06 「ヨンサントオ改正が行われた」この2つのシーン、小学校(準急)から一緒で、中学校(急行)でも一緒だったけど、高校生になって分かれてしまったみたいな感じで好き
急行「いなさ」ですけど、新幹線博多延伸の時に「出島」に改称されています。
(それまでは大村線経由で長崎と博多を結ぶ急行の名称に使われていた)
凄いなこれ
いくらなんでもカオスすぎる
昔の運行体系は興味深いです。
ちょうど小倉駅が今の位置に移転したタイミングなんですね~
いなさのラストというか、かもめデビュー前は出島でしたね
確か火の鳥ではなくて急行「火の山」だったはず。
「いなさ」は新幹線博多開業後は「出島」に変わってます
ながさきは夜行寝台もありましたね。一番最後まで生き残ったながさき。
夜行のながさきは寝台券のマルスによる全国発売を機に愛称がつけられたもので、全くの別列車。(しかも普通列車)
この動画のながさき号は急行のほうですね。ヨンサントオで愛称統合で消えましたが。
キハ55から始まった、
昔は島原から小倉まで直通が出てたんか...
島鉄が国鉄乗り入れを希望し、それに合わせてキハ20(普通用、長崎と佐世保へ),キハ26、キハ55(準急→急行用)のコピー車を製造して国鉄線内は併結する形で乗り入れていました。キハ26,55は国鉄にはない両運転台仕様で、キハ26は後に冷房改造されています。
この時代、循環列車が流行りでしたね。国鉄人の趣味だったのでしょうか。同じところに戻ってくるというのは案外運用上よかったのかもしれませんが。昔は駅にたくさん人がいたので、分割併合ができたのでしょうが、今はコスト削減でそんな人員はいませんから難しいですね。昔より分割併合はやりやすくなったはずですけど。
車両が足りなくて、複数の需要を繋げていったら結果として循環することになったというのが実情のようです。
当時の国鉄は需要はあるけど車両が足りないという問題があり、581・583系もその解消策の一つとして作られた訳で。
@@N--T さん、コメントありがとうございます。かつてはこのような列車が多数あったことで、結果として様々な需要に対応でき便利だったようですね。
今は、対東京や、対地域の主要都市を除けば、何度も乗り換えになり不便になった部分もあります。それが効率化なので仕方がない部分もありますが。
6:25
関係ないけど『だんだんさんべ号』
島根県民なのでしびれるな~
関係あります。さんべの前はやえがきと名乗った。子供だから意味分からない。のちのち知りました。
ちどりも知らなかった。のちのち知る。お城🏯だった。熊本行きのぎんなんもお城🏯です。
まぁ、日田彦山線や久大本線、筑豊本線の列車と併結してなかった分まだマシな気もするw
当時ってどこの地方見ても多層建て列車ばっかだったもんw
当時、けっこうおもしろい列車が多かったですね。急行フェニックスとか・・・
国鉄時代はマニアックなダイヤ満載でしたね😊
日産車🚗を名乗った急行もありました❗️
急行フェニックス、懐かしい列車ですね。僕は別府から博多まで乗車したのが最初で最後でした。東京から岡山迄とほぼ同じ距離をキハ58系気動車が12時間以上かけて走行していました。当時の九州は電化区間は少なくフェニックス号の停車駅は特急並みに少なく現在の振り子式車両のソニックには遠く及びませんが、乗り心地の面ではキハ58系の揺れが少なく良かったです。ヨーロピアンスタイルのグリーン車キロ28系は僕の好きな車両でした。
東北地方の多層階建て急行とどちらが凄いですかね?
急行列車名は「火の鳥」ではなく「火の山」ですよ。阿蘇からとられたと聞いたことがありますが…。
出だしが「♪阿蘇は火の山〜」の歌謡曲がありましたね。ばってん荒川さんの(^^)
昔の準急よりも停車が多い列車で今は特急料金むしり取る
ん?ひまわりが火の鳥になってる?
やってることが陸中のそれ
思い出すもなにも、ひまわりは子供時代に名前が付いた列車の二番目に乗った。博多~熊本まで。
前部にちくごを併結したのはおぼろげながらかすかに思い出した。
遅れの夜行急行が朝に八代駅にやって来た。しろやまで博多への旅。小さな駅は止まらない。急行デビュー戦でした。正確には父親に載せられた。父上、ありがとうございました。
折れが死ぬ前に誰かタイムマシンを開発してくれないかな
60年前に行ってこういうの乗ってくるから