REKI 大谷吉継はどうも秀次処刑に石田三成がかんでいた事を知っていた節があり 、関ヶ原の戦いで西軍についた時「人望ゼロのお前が前に出たら誰も味方せぬ。秀吉公の養子である宇喜多秀家に豊臣姓を与えて総大将、毛利輝元を副将にしてお前は参謀に徹しろ。本来なら秀吉公の養子である結城秀康公を総大将にすべきだが、秀康公は遠く関東の地におり、実父徳川家康公につくのは確実」と石田三成に直接苦言を呈しています。 実際大谷吉継は「ここに秀次公が居ればいかに徳川家康公でも豊臣家を蔑ろには出来ないものを」と生前述べたそうです。
立身出世を遂げた羽柴秀吉は英雄であり、
猜疑心に取り憑かれた豊臣秀吉は救い難い老害。
制肘する人がいなくなったので本性が出ただけ。
若い頃から結構残忍。
@@泡蟹 全く同意します。
細かいことかもしれませんが秀吉は一生羽柴秀吉ですね。
晩年になっても羽柴名字を家臣に与えていました。
豊臣は性です。
帝から頂いた新しい摂家の性です。
まあ源頼朝のような名字がなかったりする人もいるのでややこしいのですが笑
ちなみに家康も豊臣です。豊臣家康です。
豊臣内府と呼ばれていました。
この人と親交のあった人たちみんな東軍行ったよな
絶対殺しちゃダメな人だったね
秀次もそうだけど、秀長が早く亡くしたのが本当に豊臣家にとってはいたい。
秀吉もせっかく天下を取ったのに、もったいないことをしましたね。豊臣が滅んだのは自業自得です。
羽柴秀吉の頃の秀吉公は
とても戦上手で家臣から慕われていたのは間違いないが
豊臣秀吉となり、天下統一を成してから
色んな不幸が重なり、そして老いていき
精神的におかしくなったのは間違いないでしょうね。
戦国時代は身内に裏切られてもおかしくなく
身内を殺してしまうのもおかしくない時代とはいえ、秀吉は家臣や身内を大事にしていたはずです。
が、茶々を側室にし、茶々との間に子が産まれてからおかしくなったのは間違いないですね。
唯一止めれる秀長が亡くなってから
秀吉は更に暴走し始め
千利休を切腹させ、右腕的な存在である黒田官兵衛を殺そうとしますからね。
賢い官兵衛は秀吉が自分を殺そうとしてるだろうと察して出家し
黒田如水と名乗り、長政に家督を譲り隠居しますから。
官兵衛ですら、止めれない秀吉を止めるなんて無理ですからね。
まぁ私は信長、秀吉、家康の中でも
羽柴秀吉は好きだけど、豊臣秀吉は大嫌いだわ。
色んな業が重なりすぎてしまい。
豊臣家が滅亡したのは因果応報であり身から出た錆。
実際、秀吉の直系の子孫はいませんからね。
今回も、春のうららかな、うぐいすの様な綺麗な、さおりさんの声を聞きながら、歴史の勉強ができました。スゴく理解出来ました。それにしても、秀次の幼い子や女性含めた親族39名、あまりにも悲しい運命に、切ない思いになりました。来世では幸せになっていてほしいと願うだけです。
秀次を祀っている瑞泉寺に20年以上前に行きましたが、
ホントに静かなお寺でした。生きてたら、豊臣の血が秀次系で残っていたのに…
男子が4人ほどいたと思いますので、もったいない…
この事件で、最上家は反豊臣に転じたと思います。関ヶ原ではのらりくらりの伊達を頼りとせず、
直江と激戦を展開したし、戦後の石高で見れば伊達より劣りますが、城郭の規模が違うし、肥沃な庄内地方を一手に任されてます。最上が徳川にとって信用できる存在として認識され、上杉、伊達への備えとして、当時としては国内4番目の大きさを誇る山形城を築城し、さらに子供を家康の小姓に差し出す。。
ただ、これがために家中統率に苦慮し、結局、改易されちゃうんですよね。。可哀想な最上氏…
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水戸黄門で丹波哲郎や長門博之が演じた水戸藩家老の山野辺兵衛(祖父が最上義光の父で最上家当主の最上義守)は最上家の庶流で最上家が改易後に徳川光圀の父が山野辺兵衛の父と共に水戸藩に召し抱えにした。
秀次切腹の時に秀吉の母で有る大政所と秀吉弟の秀長が生きていれば二人とも秀次切腹を止めただろうな。秀次が切腹後に秀次と交流が有った大名、公家は処罰されたがその結果、伊達、最上等の大名は関ヶ原で東軍になった。
73 moto 特に娘を処刑された最上家は関ヶ原の戦いでは伊達政宗の実母の養育費を最上家持ち、勝利した暁には伊達家の家格を最上家より上げる、などの条件まで出して伊達政宗を説得、味方につけてます。
この人が無事だったなら、豊臣家は今も残っていたかもね。
どうだろ?でも秀長なら間違いなく家は残ってた
どの大河ドラマでも思いましたが、秀次が気が弱すぎです。三成が秀次の屋敷に来て、謀反の疑いがあると言っていましたが、秀次は見覚えがないなら、三成に聞くべきだ!謀反の疑いを言い出したのは誰だと言うべきですよ、噂なら気にするべきではないし、逆に三成に誰が謀反の噂を出したか調べろと言うべきです。秀次が強ければ、三成は入る好きがなくなりますし、高野山の件も、行ったら、完全に謀反しましたと言ってますね。
@@船藏督晃 言ったところで聞く相手じゃねーだろあほ
やっぱり秀吉は真っ黒やな。最上の娘も関わりないようなもんなのに処刑だもんな。
結局、決定を下したのは「秀吉」以外いない訳だし最悪なでっち上げ裁きだった。
前田利家も徳川家康も助命嘆願をしたが悪逆無道の暗君には通じず。
お疲れさまでした。これこそ秀吉の最大の茶番劇ですよね。豊臣秀次の切腹事件はさおりさんが仰る通り諸説あって歴史学者も賛否両論あってとても難しい処でもありますね。
ところが家督相続で一番解っていたのが徳川家康です。それはそれとしてまたの機会に掘り下げてコメ出来るかと思いますが、秀吉は絶対に失ってはならない後継者を失いました。
暫し考えてみても一度関白になった人物が謀反の罪で切腹なんて可笑しな話です。朝廷は?これこそが関ヶ原の戦いで東軍が勝利に導いた結果でしょう。歴史の謎は面白いですね。
この事件で当時、秀吉がもうろくしていたのが解るエピソードだと思う。
譜代の家臣が居ない秀吉にとって、自分を豊臣家を支えてくれる近親者ってのは重要だったのだがね…。
自分の死後、幼い秀頼が一人前になるまで支えてくれる自分に近い存在は秀次が最適だったはずなのに…。
能力的にも他の武将との関係性的にも秀頼が大人になるまで、豊臣政権が盤石になるまで支えられそうな人材は貴重だったのに…。
ソレを考えると誰かに良からぬ入れ知恵されたかな?
REKI 大谷吉継はどうも秀次処刑に石田三成がかんでいた事を知っていた節があり
、関ヶ原の戦いで西軍についた時「人望ゼロのお前が前に出たら誰も味方せぬ。秀吉公の養子である宇喜多秀家に豊臣姓を与えて総大将、毛利輝元を副将にしてお前は参謀に徹しろ。本来なら秀吉公の養子である結城秀康公を総大将にすべきだが、秀康公は遠く関東の地におり、実父徳川家康公につくのは確実」と石田三成に直接苦言を呈しています。
実際大谷吉継は「ここに秀次公が居ればいかに徳川家康公でも豊臣家を蔑ろには出来ないものを」と生前述べたそうです。
安定した朗読。
聞きやすく、わかりやすい。
沙織ちゃん ♡、秀吉の外道っぷりは本当にひどいですよね。
秀次事件で駒姫を巻き込む必要は全くなかったですよね。最上氏が本当に気の毒。
黒幕が誰だったは知りませんが、三条河原での殺戮は絶対に許されません。
動画でも言ってましたが秀吉はこれと朝鮮出兵が大失政でしたね。
義光が大坂の陣まで生きていたら、秀頼は義光になぶり殺しにされたと思う。
朝鮮出兵に関しては近年、間違いの行動ともいえないと言う考えもある。
海外は世界制覇を目指した侵略をする国もあったしな。
何もせずにいたら運が無ければ日本もどこかの国の傀儡になってたりしてたかもしれない。
武将たちも馬鹿じゃないから、意味もなく海外に10万以上の兵を出しての戦争はできないですよ。本当に耄碌してたらすぐに謀反起こされる時代ですからね。
みんなが納得出来る理由があったから、朝鮮出兵できたんです。
最近の研究では高野山へは自分で行ったという資料があるそうです(出奔との記事)。
切腹も自分で勝手にしてしまったので、メンツを潰された秀吉が過酷な処分をしたのだとのこと。
切腹命令の文書や悪い噂も後から取り繕って作られたとか。
少なくとも酷い殺生関白という通説は否定されつつあるでしょう。
讒言説は、事件後近江派が勢力を交代させたと見られることから取れないと思います。
家康黒幕説は状況からの憶測で行き過ぎです。
秀吉の弟、豊臣秀長が病気で死んでから豊臣家が傾き始めたと思っていましたが秀次が秀頼を補佐する形で生きていたら徳川幕府も誕生していたか分からないですねー。
いままで殺生関白は殺生関白だと思っていました‼️
いやはや面白い!まさに「歴史は強者が作る」ですねー
実際最上義光は関ヶ原の戦いではまっ先に上杉攻撃の先陣を切り、更に伊達政宗を説得して反逆させてます。
娘の仇打ちですね
最終的には秀吉は馬鹿なんだな 自分の種であるはずもない子の為に立派な人間性である甥を抹消する バカ以外の何物でもない いくら子供が欲しくても冷静に先を見通せなくては豊臣家の安泰はない 溺れてしまう愚 あちこちで罪を作った罰でもあろう それにしても妻は信頼できるのに愛妾におぼれてしまう謎 お茶々の方の陰謀か どこかで志がねじ曲がったのか 不可思議だ 天下人になっても人生とはなかなか思うようには行かないものらしい
秀頼は大野の種という噂あるな
秀吉は羽柴秀吉だった時が輝いていましたね。豊臣姓になってからロクなことがないような・・・。
豊臣は姓じゃなくて氏ね
官位に取り憑かれたのか…はたまた、運に見放さされたのか…
死ぬまで羽柴だよ
豊臣羽柴藤吉郎秀吉になっただけ
豊臣秀次と武田義信の切腹は、
お家弱体化を招いた分かりやすい例です。
追加で鎌倉時代の源範頼も。
義経や行家と違い、彼は頼朝への忠義一筋でした。
まぁ義信については、最初から仲が悪かったからなんともな。
今川とあまりにも近づきすぎたんだよ
もったいない人物。秀吉は痴呆でもなってたのかな
少なくとも秀長が生きてれば防げたかもしれないですね
当時の記録を研究した医師曰く、「秀吉は認知症を患っていた可能性が高い。」とのこと。
晩年は、前田利家や石田三成らが常に側で介護している様な状態だったという。
大事な英断を下せる才覚はあったけど家康の待遇とか秀次事件とか見直すべき点を秀吉は晩年はやはり欠落してたと思う
最近、秀吉という人を見ていると自分は悲しくなります。
若い頃は魅力的で次々と人が周りに集まってきて天下まで獲った。
なのに権力を握ると醜悪で残忍な一面が大きくなる。
若い頃から実は中々頭ぶっ飛んでるやつだよ
というより秀吉は元々残酷だったが秀長が上手く取り繕ってその姿を見せずに居られた、秀長が死んで本性が出ただけかなと思う
秀吉は秀次を殺すつもりはなく、しばらく隠居させておくつもりだったところ
抗議の切腹をしてしまったという説の方が私的には納得がいく。
やはり秀吉は秀次に会って直接意志を伝えるべきだったと思う。
秀頼溺愛のあまりにこんなことしたとしたらイカれてるとしか言えないですね。何の罪もない秀次や妻子、家臣をこんな残忍なやり方で惨すぎます。秀吉の晩年は朝鮮出兵もそうですが権力に凝り固まり猜疑心苛まれ哀れとしか言いようがありませんね。
秀次と秀長がいたら豊臣家が変わったかもしれませんね~
これ程晩年を涜した戦国武将はいない
秀吉が天下人になったのは、清州会議で3歳の三法師を使って、織田家を乗取ったから。秀頼の前にも鶴松という実子が居た。その鶴松が3歳の時に千利休は切腹させられた。秀頼が3歳の時には秀次が切腹させられた。これは偶然ではないと思う。秀吉は自分が天下を獲った方法を防いだので、後世の我々は結末を知ってるのでバカだなと思うが、秀吉はこれで豊臣家は安泰と思ってたろう。
この説初めて見るけど相当納得できる内容だと思った
最上義光は豊臣に従順していたが娘を殺されたため関ヶ原で伊達政宗と共に東軍に付いたと云われてる。
八幡山城址は❗名城ですよ❗山頂からの近江八幡市内は素晴らしい景色ですね✨
僕は、豊臣秀次公が豊臣家、豊臣政権にとっても人財的存在と言う事がわかりました。
豊臣秀次の切腹事件は、豊臣政権にとって大ダメージだと思われます。
また、豊臣秀次公は、大河ドラマでよく見てました。
男性は、戦国時代や現代においても世間、社会、家庭においても超重要な人財と言うことがあらためてわかりました。
自分の身に病気や事故と言った悪夢が襲ってくる可能性がありそうで怖くてたまりません。
家族と人間関係にわだかまりや争いが起これば、組織の崩壊があり得ると思います。
そして僕は、人間社会や家庭生活においても争いやわだかまりが起こらない事を祈ります。
以上高橋慶光
秀吉は直情的性格とは思えないが利休の件もそうだが晩年は彼の生命線とも言える人間観が損なわれてますね。
利休に関しては当代を代表した文化人だったし、全国に弟子を抱えてたから秀吉憎しの影響力はあっただろうな。
秀吉は、やっと出来た秀頼を守りたかっただけでしょ。
秀次には何の落ち度もないのは分かっていても、自分が死んだ後に家督相続で秀頼が秀次に殺されてしまうのは避けたかった。
老い先短い秀吉には、それが妄想だと分かっては居ても、頭からは離れ無くなった。妄想だけでなく、それが現実起こりえない確証も無かった。
50を過ぎ、やっと生まれた待望の後継ぎ。もう最後の最後に生まれた待望の男の子。絶対に殺させるわけには行かなかったんでしょうね。
秀次を切腹させなければ豊臣家の滅亡はなかった
残った幼い秀頼が家康に対抗できるわけがないのというのは、考えたらわかりそうですが晩年の秀吉にはそこまで考えることができなかった
この事だけでも、秀吉好きになれない。豊臣家滅んだのは、自業自得。
秀次は小牧長久手の失態で強くなってきたんだろうね、それに秀次は天皇や朝廷とも久しい中て聞きましたよそのせいで秀吉が嫉妬したて言う説もありますね
生き残ったのは真田幸村の妻だけだとか
秀次は武将では無く政治家としては優秀で、
近江八幡を今の様に発展させる為に尽力してます。
後彼が粛清されたのは「将来の天下人は自分でも秀頼でも無く、徳川家か秀康公」と言う事を考えていたからでしょうね。
関白の豊臣家では、武家を押さえての天下統一は出来なかったでしょうね。
秀吉も当初は足利将軍の養子となり武家の頭領を狙ったが失敗し、それで関白に路線変更したと聞きます。
最終的に関白の豊臣家は、軍事力を持つ武家の頭領徳川家との決戦となり、武家の徳川家が勝利していたと思う。
天下統一になってから、ここから
秀吉がおかしくなった時期だな。
秀次を貴族に、我が子を跡継ぎにすれば良かったものを
さおりさん、れきしにくわしいですね。爽やかで説明も上手です。これまでの秀次像が今回の解説でスッキリ解明しました。
普請(ふしん)ですよ
歴史に疎く、京都人なのに秀次の事を、知りませんでした。
昨日8月2日、たまたま瑞泉寺の前を通りかかり初めて知り、何かご縁を感じました。
今は平和な木屋町、三条河原でそんな地獄絵図が繰り広げられたとは!
幼い子が先に処刑されたとは、目前の母親達の恐怖と絶望は図り知れません。いかなる理由あれど、許されない酷すぎる。これから三条河原渡る時は、必ず手を合わせます。
兄は種なし女好き、弟はガチホモ一生独身、こんな癖ある天才たちの甥に生まれたが運の尽き
しかしこの血筋も松平徳川姓並みに天才多いなあ(バカ殿の筆頭みたいに言われてた小早川秀秋もどうやら最近見直されてる)
秀秋は三成に恨み骨髄で、始めから裏切る気満々だっただけ
@@Hayato_Takezawa 三成に恨みは合っても秀吉の恩を忘れた訳じゃないから西軍で豊臣家代表として戦うか家康に期待されてるから裏切るかを悩んだ訳だしな。
秀次がいきてたらねぇ、秀次の事だから、秀頼に関白を譲って後見人として秀頼を護ってくれただろうに
そうですね。勉強になりました。秀吉はかなりの悪のイメージです。すごく都合よく人を動かします。これがひとたらしか、という逸話おおですよね。小早川秀秋も養子だったそうですね。偶然じゃない。
いろいろ考えさせられますが、黄金の日日での緒方拳演じる秀吉は観ていていい感じがしません。なんかこう衝動的な感じがしたものでした、
どう考えても、淀が秀頼の為に石田三成と秀吉をそそのかして、殺したのに間違いないやろ!
何で一時は秀頼の妻を秀次の娘にすることになったのに、こんなことになったんかな?
大体、秀頼が秀吉の子だったかも怪しいのにね。
秀吉は自分に子供が出来ないのを自覚していて、それでも自分で後継者を育ててみたくて、
織田家の血筋を引いた茶々に浮気をさせていたんじゃないだろうか?
浮気と云うより精子提供を受けたと云った方が正しいかもだけど・・・
Thanks for your uploading
先日、金剛峯寺の秀次切腹の間を見て参りました。感慨深いものがありましたね。
秀次。
彼が死ななければ、家康に逆転される事も、豊臣が滅亡する事も無かったかも知れないのに。
秀吉も認知症を患っていた可能性が高いとはいえ、庶民からも公家からも一目置かれる名君を粛清するとは、愚かな事をしたな。
多分、石田三成ら五奉行も、秀吉の腰巾着でしかなかったから、秀吉を停める処か、更に煽ったのかも知れない。
結論。秀吉の失敗は、
一。自分に意見する人間を自分から遠ざけ、自分の言いなりになる人間だけを側に置いたこと。
二。子供を作って育成するには、歳を取り過ぎていたこと。
三。我が子可愛さに、既に後継者となって、一定の評価を得ていた養子を殺したこと。
四。無謀な海外への派兵と、実質的な敗北。馬鹿臭さのレベルはベトナム戦争並み。
って感じかな。
近江八幡の水郷の発展を見ると、秀次の政治力が卓越していたと想像できますね。
本当に歴史的に誤解された武将の筆頭格。
秀吉の自業自得。秀次に切腹を命じた時点で 豊臣家の滅亡フラグがたった。
晩年秀吉が耄碌して間違った指示を出したため豊臣の家は消滅。自業自得だなwww
織田もまた然り
真田丸で魅力ありすぎるキャラだったな。ある意味登場人物で一番等身大な人だったし
小一郎叔父さん(秀長)が早死にしなかったら起きなかった事件だな。やっぱり秀長の存在は大きかったね。
何度聞いても 秀次・・・気の毒な・・・ 黒幕は 淀君だとおもいますが・・・
いくら、自暴自棄でも、駒姫呼んじゃ、ダメだろう。
秀次一族一斉に粛清したあとに秀頼が幼くして世を去ったらどうなってたのか
宇喜多秀家もしくは小早川秀秋だろうな。
豊臣政権の次世代は、秀次補佐の蒲生氏郷中心と考えられていた。後の徳川幕閣においても将軍代替わりの時、権力闘争がよく起こった。この時も当然石田三成は自分の地位保全いや更なる政権の完全掌握を目指したのではないだろうか。氏郷の会津移封(秀次からの引き離し)、彼の早すぎる死と毒殺説、三成による満を持したその有能家臣たちの簒奪。氏郷遺領の大幅削減。関が原では秀次ブレーンに属した大名たちのほとんどは東軍に味方した。
さおりさん、ヘアーカットされましたね✂️。お似合いですよ‼️👍️
秀次は明るい農民でした。が秀吉に良い道具にされた弟、悲しいく限りで残酷な時代な封建時代
秀次の政治や戦の采配は諸侯が支えたくなる善良さで有名だっただけに自分を慕う家臣団への待遇もよく、秀次が身に覚えのない罪状により処刑された事で秀次の家臣団は大半が牢人になってるな
@@tikokun
秀吉は自分の保身から来た残酷な行いですね。秀吉が天下人にそして秀吉の様々な城作りや合戦の補佐役に徹した自分の弟に対する。いわれのない言い係りの結果の事でした。弟が慕われている事えの嫉妬が憎悪になって周りに兄秀吉が示した残忍な切腹と思っています。秀吉の残忍さは死期が近くなる程ひどいものでしたね。
子供の頃から散々政治利用され続け最後は捨てられた
4は絶対にない!
家康は、違うな
家康も家康で家臣本多正信の甥が切腹されてるからねぇ
当時秀吉はかなり精神的に逝かれていたようですな。これで豊臣政権を短命に導いたのでしょう
家康も秀吉の呆けを狙って都合のいい時だけ大阪で秀吉の療養をしてそれ以外は江戸で地固めのために好き勝手だからなぁ
真相1・2・3が原因になっていると思う。
1・30%(兄弟の子より生まれたての自分の子が可愛いのは当たり前。秀頼が成長してやっぱり秀次のほうが優秀かつ忠実だなあと秀吉が思えたら話が別)
2・60%(現政権と次政権の家臣が対立するのはよくある事。次政権の家臣が現政権の家臣を冷遇されるを考えると許せないと秀吉なら考えそう)
3・10%(太閤様亡くなった後、秀頼が心配です。ぐらいは言っている可能性あり。秀次一族を皆殺して欲しいまでは思っていないにしても秀吉には重い一言)
4・0%(ない と思う
豊臣秀吉は北の将軍様より残虐非道な独裁者だわ
この秀次事件の真相は何だったのか?
豊臣家の血筋を絶やそうという考えがあった様に思う。
秀次に問題が有れば当人だけでいいはずなのに子供しかも娘まで殺害させるのには何かの意図が働いたとしか思えない。
本来なら子供のいない秀吉にとっては秀次の子供は他の大名への攻略の道具に使えるはず、それをあえて斬首にしたとなると豊臣家の断絶を考えた者が裏にいた可能性がある。
秀頼の遺児の娘を僧にしたのもそこがあるのかもしれない。
世の中は自分の写し鏡だから
身内と言っても信用できなかったんでしょうね(^-^;
真相は分かりませんが、秀頼の誕生、そして秀次の死、豊臣家の運命が変わった瞬間なのかなと思いました。
凄く聞きやすい説明ありがとうございます。
豊臣秀頼が生まれた時に、関白職を秀吉に返す。
それが出来ないのが、死を招いた一因だっただろう。
秀頼がいる時点で、目立たない様に一線を退けば命は保てただろう。
その結果秀吉は
唯一の天下人として日本史に存在している
秀次が継いでいたら、秀吉の功績天下も
色あせていたかもしれない(息子じゃないからな)
そりゃ秀次天下となれば自分の功績大とするだろう
しかし豊臣の継続も秀吉一代かぎりという結末を
招いてしまった
まっ秀頼可愛さ、息子は自分自身の分身だからな
そりゃなんとしてでも息子にって思いだったんだろう
そもそも秀頼って秀吉のタネなのか、と当時から世間も疑ってた
明智光秀も狡猾で残忍な男だったというし…
直球に捉えれば、天下取りのために信長から受けた重圧と酷使、そして戦場での殺戮が精神に悪い影響を及ぼしたか。
あるいはもともとコパスな要素を持った人間しか組織ではのし上がれないのか。
光秀は比叡山焼き討ちも積極的にしていたみたいだよね。
豊臣家もう一人の養子小早川秀秋が後年寝返ったのも、この秀次への所業を間近で見ていたせいかもしれないね。
まだ若かったから養子に出されただけで済んだけど一歩間違えば殺されていたのかもしれない。この先、秀頼が力を持てばいつ自分も粛清されるかわからない。
秀秋はアルコール依存症だったという話も残ってるけど、相当のストレスを抱えてたんだろう。秀次と秀秋、二人の養子をぞんざいに扱わなければ歴史は変わっていたかもしれない。
享年には○○歳と言わないんだよ。
今回大河のササクラ秀吉はひとたらしの天才。
うそかほんとかわからない苦労話で育ちの良い光秀を誑かす。
秀長は三成辺りに謀殺されたって話もちらほら…
時折秀吉と意見が対立する秀長は三成ら秀吉のイエスマンにとって
危険な存在だったのかも…
まさか大野治長が?
三成は全然イエスマンじゃないけどな
秀吉から「三成は自分を諌める際には顔色を窺わず堂々と物申す」って評されてるくらいだし、特に秀吉によるキリシタン弾圧で起きた二十六聖人殉教も三成が奉行だったからそこまで最小限に抑えられたし(むしろ三成が何とかして助命しようとしてるのに殉教しようとする他人が後を絶たないくらいだった)
三成悪玉説の殆どは江戸時代に成立した史料だから神君家康に刃向かった逆賊ってされてる状況で悪役にされた時に出たネガキャンに信憑性は無いよ
秀次も波乱な人生だったんですね!
確かに信長が死んで一番得をしたのが秀吉なんだから。その理論でいけば秀吉は信長暗殺の黒幕で間違いないでしょうねw
豊臣政権が瓦解した一因に秀次粛正が影響したのは否定しないが、理由として秀吉が耄碌したからと言うのは納得いかない。身内の粛正なんて当時は当たり前であり、理由は違えど武田信玄や徳川家康も息子を死に追いやっている。それに秀次亡き後の豊臣政権の後継者は秀頼だけでなく、秀次の弟たちや秀秋ならびに猶子の秀家、もっと言えば親戚の加藤清正なども居る。粛正の理由は定かではないが、後継者はみんなが思っているよりは多い。恐らく秀吉も後継者候補はまだ居ると考えつつ鶴松や秀頼に譲りたいと言う親バカな考えに執着してしまったのがダメだった。
秀頼が生まれた時点で 秀吉からもらった全てのものを 返すべきだったのです。
最近見つかった資料では
秀吉が切腹を命じたわけじゃなく
秀次自らの意思で切腹したらしいよね
確かに切腹した場所というのが、母親の菩提寺だったからな。
さおり様🙇🙇🙇おはようございます🙇🙇🙇
いつもながらさおり様🙇🙇🙇にはワクワク😃💕です😊👌
これ残したら豊臣の未来変わったんじゃ何もしてねえじゃん
真相は、解らないが
やはり、戦国の世の中
の縮図~ですね
ネットTV(ヒストリーCh)で秀次の事が上がってました。近江八幡の城主時代には街の整理や様々な政策で名君としての腕を発揮した。「暴君」は殆ど嘘の噂を秀吉側が流した嘘だそうです。
家康としては次々と秀吉の親族がなくなって、しめしめとほくそ笑んだだろうね。天下を取るための障害が次々となくなったんだから。後は小早川秀秋くらいだし(笑)
むしろこの状況を見て、「ひょっとして天下とれる可能性あるのでは?」と真面目に思いだした気がする
秀吉が呆けて秀次を消したのは家康としては長生きして来たのが報われたと実感した瞬間だったかもな。
そりゃ、自分に敵う人物は数える程しかいないと悟れば天下を狙うだろうな。元々、江戸に着任してから好き勝手に縁組で地固めしてたし
それでもまだバカでかい大名として弱体化前の毛利や上杉、前田なんかがひしめいていたから天下を取り切れるとは思わなかっただろうがチャンスが転がり出してきたとは思っただろうな、
側室が多すぎたと思います。多くの大名と縁戚関係を築いていたので、取り除く際は族滅になるんでしょう。一夫一婦制の国では、族滅はないですから。跡継ぎに恵まれなくても、細川忠興みたいに側室を設けなければ、安泰だったと思います。
秀長の死去。秀次の処分…と頼れるべき身内を秀吉は自ら狭めてしまいましたね。
元々秀吉と血縁は無かったのでは、初めに養子に行った先が怪しい。農民から武家に養子に行くはずがない、待遇が良すぎる。一番不満なのは、信長の血筋を引く淀殿でしょう。
秀次様が可哀想ですね😢
真田信繫「ちょうと待った!異議あり!秀次様が、本当悪くない!秀吉様あまりひどい!」←秀次の娘、側室としてもらっている。
秀吉の姉は息子全員養子に持ってかれて孫まで殺されて、何を思って生きてたのかな
秀吉の妹なんて政略結婚のために家康の後妻にさせられてる。
秀吉には血縁者が少なすぎた…
秀吉は天下を納める器では無かった。疑心暗鬼になり噂を信じ有能な数少ない身内を殺すんだもん馬鹿でしょう。淀君の秀頼も本当に秀吉の子なのか?疑わしい話し。豊臣が滅んだのは秀吉のせい。
会津戦争で犠牲になった女性達を論うゆっくり解説なんかよりなかなか面白そうですね。
秀吉の子とされる秀頼は、秀次の子だった。秀吉は公では秀頼は秀吉の子として、自らは後見役となるという約束で
秀次に淀君と関係を持たせて、秀頼を産ませてが。
秀次は、秀吉の寿命が長くない事を知り、秀頼を自らの子として公にしようとし。
梅毒で病み正気を失いかけていた秀吉も体よく排除する事を考えていたので、秀吉は激怒して秀次と秘密を知る可能性がある
秀次の妻子など関係者まで殺害した。
何て歴史の裏を自分なりに推測した事はあるが、実際のところ不明だな
最後のさおりさまの顔を見てから涙腺崩壊しました。本当に運の欠落した才能ある人って居られるのですね。(T_T)
普請(ふしん)ですね🧐
秀長が生きていたらこんな事にはならなかったかも…天下を奪おうと考えている者がいたら一番邪魔になる存在と言えば秀次でしょう。家康がいつから天下を獲るように考えていたか?そこがネックになるのでは?
家康ニュータイプ説
さおりさんが好きでついつい見入っちゃう😍💕
歴史が好きになる♪
案内人さんが何か変わってますね。うーんどこだろう??(?_?)
沙織さん、春ですね♪