意外に知らない?『長篠の戦い』~何が勝敗を分けたのか~
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- Опубликовано: 8 фев 2025
- 意外に知らない?『長篠の戦い』~何が勝敗を分けたのか~
について紹介しています。
~目次~
■奥平貞昌と妻・おふう
■鳥居強右衛門、走る!
■清井田別れの盃・鳶ヶ巣山砦の奇襲
■決戦・設楽原!『三段撃ち戦法』の実際
■本多忠勝も嘆いた、武田重臣の大量討死
■まとめ
脚本・監修:歴史の細道
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~音源~
DOVA-SYNDROME 様
dova-s.jp/
信長賢い。それに尽きる。最後の根性論に笑った。
勝頼の妻「北条夫人」を知ると、勝頼の人となりを見ることが出来ると最近感じます。織田徳川連合軍の追撃を受け、身内の家臣達も次々に裏切る中、その身を案じて小田原へ帰還するよう勝頼から説得を受けるも頑として撥ね付けた夫人。最後は夫の傍で自害したと。
今生での勝頼の評価からすると、別人のように感じます。最後まで添い遂げたいと思える人とは本当に優れた人だったのでしょうね。そう考えると、家康や信長などがその死を悲しんだとの逸話にも納得出来ます。
最後に伊豆方面を逃亡の地として選んだ勝頼。もしこれが夫人と侍女達を小田原へ逃がすためだったとすれば・・・涙
上杉謙信の死後に起こった「御館の乱」は武田勝頼にとっては「地獄の選択肢」でした。
「御館の乱」は上杉謙信の甥の上杉景勝と北条家から養子に来た上杉景虎の間で起こった争いでした。景勝の妻は信玄の娘、要するに勝頼の妹で、勝頼の嫁は景虎と同じ北条家から来ました。嫁の実家を選ぶか、自分の妹を選ぶかの選択に迫られました。結局は妹を取り、北条家とは断絶してしまいました。その結果はご存じの通りです。しかし、嫁の実家を選んでも同じ末路だったように思えます。本当に文字通り「地獄の選択肢」しかなかった出来事でした。
長篠城を見殺しにしたら面目が立たないので織田徳川連合軍はいずれは長篠城救援に向かわざるをえない。武田軍はこれを前提に作戦を立てられなかったのだろうか。
さおりさん…素敵です。
鉄砲はせいぜい1000丁で装填の間はさゆりさんの言う通りでしょう。勝頼敗因は信玄より領土を拡げ慢心してた勝頼を焚きつけた跡部・長坂の野望のため。しかも信玄以来の重臣を犠牲に自分らは生還。ちなみに穴山も長篠で負けてから徳川に寝返ろうと画策した節もある。
三段撃ち戦法があったかなかったかについては、歴史資料ではなく“常識”で考えれば、武田の精鋭を全滅されるほどの有効な戦術が長篠以降主流にならなかったので、そもそも無かったんじゃね?
戦術は、源頼朝時代は弓騎兵が主流だったのが戦国時代には足軽兵など歩兵中心に変化したように、時代とともに変化するものです。
古代ギリシアのエパミノンダス将軍が有効性を証明した斜線陣は、それ以降の主流になりました。
信長はそもそも戦うつもりなんてなかったと思う。信長の目的は長篠から武田を「追い払う」ことであり「勝つ」必要は全くない。簡単とはいえ砦を作ったのはその目的に沿ったものでありそれを視て武田が引けばそれでよし、万が一攻めてきても三倍近い兵力を籠らせ大量の鉄砲を揃えた陣地をいかに武田といえども突破出来ないというのが信長の計算だったはずです。信長の対武田戦略は五分にやりあっていればよいというものであったはずで、五分でやりあっていれば日に日に大きくなっていく経済力の差でやがて武田を押し潰せるというものだったと思う。長篠の前年の高天神城の戦いがそれを表している。2万5千の武田軍と高天神という位置を考えた信長は戦えば負けると判断して救援は諦める一方で恐らくは補償として大量の金銭を家康に与えている。長篠の戦いでよく見落とされているのが「武田が決戦を避ければその後はどうなったのか」という視点です。引き上げて兵力を温存できても日に日に大きくなっていく織田方との経済力の差によってやがて潰されたでしょうし武田側もそれをよくわかっていたと思う。長篠で大敗せず兵力を温存しても武田の寿命は一年も延びなかったはずで、だからこそ死に物狂いで突撃を繰り返したのは理由としてはよくわかる。
銃の弾ごめ、発射と役割分担してたと思うよ。一斉射は始めだけで後は撃てる所から撃つ援護として弓に近接で刀や長槍での応戦。武田も序盤は銃で応戦してたけど質と量で劣っていて火薬を切らし援護もできず武田兵は戦力を削られたんじゃ無いの?
後は武田撤退で織田の追撃に壊滅した流れ
三段打ちじゃなくて準備した人から撃ちまくる戦法だったと思う。轟音のなかで合図なんか聞こえないし、硝煙で合図が見えないから。煙のなかから鉄砲玉や矢が飛んでくるんだったら敵もかなり怖いと思う。
長篠城を落とし、そこを拠点に織田徳川とにらみ合い。
時機を見計らって長篠城の返還を条件に和睦、安全に撤退。
これが武田にとってはベストだったんじゃないかな。
ちなみに武田の最大版図は長篠後なんだよなぁ。
古参の重臣である馬場信房、山県昌景、内藤昌秀は設楽原から撤退を主張したのは、長年の戦経験から直感したのだろう。同時に信玄も同じ状況なら、撤退するか、もっと情報を得てから行動していたはずだ。武田勝頼は若干29歳。当時の主君とは言え、これにより百戦錬磨の家臣団を失い、強い武田軍はこの時に消滅したのだと思う。信玄が遺言で家臣団に伝えたとおり、勝頼よりもその子信勝の裁量に武田を任せたかったのだろうが叶わなかった。もしも信玄が生きていたら、間違いなく2年前に岐阜城を包囲して信長は降伏するか、和睦し武田配下になっていたはずだ。この戦いで戦国最強が最強でなくなったことを何故か無念に思う。
とても論理的で、分かりやすい解説でした。
どんどん歴史の定説というのは変わっていきますので、
こういった最新の情報を配信してくださるのは、
歴史好きとしてはとても嬉しいです。
勝頼の勇み足で滅亡のきっかけになるほどの大敗を喫してしまったのは
痛かったですね。
やはりいつの時代でも勝算が立たない限りは戦うべからずですね。
自分だったら出直せばよかったのにと思います。
ギャンブルで戦ってはダメですね((+_+))💦
信長は尾張時代の村木砦の戦いで、「鉄砲を取り替え取り替え放させられ⌋とありますから、鉄砲で撃つ役と、弾込め役とのコンビで、連射するやり方は、信長だけでなく何処の大名でも行っていた戦法でしょう。地形と野戦築城で、織田、徳川連合軍の実数をかなり少なく見せたのかもしれません。
色白美人のさおりさん、今回も、美人だよ!軍事評論家の小川和久氏によると、長篠の戦いは、単純に、3000丁の鉄砲隊の3段打ちじゃなくて、『陣城』を築いたのが、勝因だそうだが!!
内容は甲陽軍鑑に準じて作成されたのですね。実際の戦闘はこの1戦のみでなく前哨戦が何度も行われており長篠の戦いの前日にも両軍数千の軍勢を出して戦闘、武田側が勝利して織田徳川連合軍が陣を下げたりと色々あったみたいです。あと長坂光堅さんは当時の記録が残っており甲府居残り組で長篠には来ていませんでした。
鉄砲の3段撃ちはなかったというのは本当だと思う。
その理由の一つ目合戦図をこの動画でも出てくるが、この合戦図が全て正しいとは言えないが、よく見てくれ。柵の前で鉄砲をかまえてる人と柵の後ろでかまえてる人がいるよね。でも、3列に並んでないよね。この動画でも柵から出ずと言っていたが、必ずしもそこは正しくない、柵の前でかまえてる人いるでしょ。
二つ目は普通に考えてくれ。鉄砲って当てるの難しいよね。動いてる的に確実に当てるって専門の訓練した人でも全部は現在の性能が上がった鉄砲でも難しいよね。ましては、例えば冬のオリンピック競技のバイアスロンを思い浮かべてください。バイアスロンは距離と射撃を合わせたような競技で走行後的を狙いますが走行直後のため呼吸や脈が速くなり筋力も直ぐには落ち着きません。つまり、的に当てやすくするためには動きまわっては難しくなるんです。3列になり前進して相手を狙うより、静止した状態から狙った方が当たるんです。ましては鉄砲の性能が現代よりも悪く弾も鉛を固めただけのものなんだよ。正確に当てるのは難しいんだ。だから、正確に当てることができる狙撃手はそんなに大量にいるわけないんだと思わないかい。信長・家康の連合軍だけでも当時3000人からの優秀な狙撃手がいたと思うかい。まだ、鉄砲の価値今ほど認められていない時代にだよ。且つ、鉄砲の弾の原料である鉛輸入品と言われてるね。つまり、凄い高価なんだ、無駄玉沢山出すわけにいかないんだ。ましては正確に当てるためには、ひきつけてから撃つよねでも敵は馬に乗ってるんだよ設楽原はまっ平らでなく川も挟んでいるとはいえ、天下の武田騎馬軍だよ、ひきつけてからはずしたら、敵もう目の前に来てるじゃないか、負けを意味するんだよ。少しでも当たる方法をとるよね。で、どうするかというと弓隊がそうしてるように補助を付けるんだよ狙う者の横で矢を渡したりする補助が付けば弓の名手が敵を狙うんだね。鉄砲も指揮官がついてるが、多分、弓と同じように補助を付けていたんじゃないかな、弾を込めたり筒を掃除するための補助がいれば連発のように打てるじゃないか。鉄砲の数は最大限の努力で両軍併せて相当な数になっていたと思うよ。しかも今言ったように、3列になるんじゃなくて特定の狙撃手のみが狙撃するんだ。鉄砲のうまいものだけが。もし仮に3000丁だとして一人に5丁ぐらいずつ与え両軍合わせ約200人の狙撃手であれば戦国の世だもの育てるのは可能だったんじゃないかな。200人が鉄砲をとっかえひっかえ撃つんだ。敵にとっては十分な脅威のはずだ。鉄砲が脅威になのはこの時が最初の頃というのは鉄砲が高く手に入りにくく弾の原料も輸入品だったから普及しずらかったんだと思うよ。
三つ目はNHKのアーカイブスで観た話なんだが、昨年亡くなった作家の半藤さんが若い時作家の坂口さんと親しくしており、坂口さんから、作家は歴史を歴史のまま語るんではなく、小説として面白くしなくては作品が面白くなく、話を面白くするために信長軍の鉄砲の3段撃ちとしたという旨の話を聴いたとの場面があったが、つまり、3段撃ちは作家の創作なんだという事を話していた場面なんだね。歴史の先生方が3段撃ちの証拠を誰も出せず、戦国時代から250年後の幕末でも行っていないし、ましてはそれ以降の戦争でもそんな戦法は誰もやってない。理由は簡単さ二つ目でも言った通りそれでは当たらないからだろうね。まあ現在では機関銃や連発銃が普及してるしね。
三段撃ちもそうですけど、一斉射撃も非現実的ですね。
一斉射撃だと目標の分担が出来ないので、目標の重複(オーバーキル)が起こって不効率です。
またNHKでも実験してたと思いますけど、号令で射撃するのは命中率が下がる。つまり射手が自分の呼吸で打つ方が良い。急かされて撃っても当たらないと云う事です。
三段撃ちって、射手が入れ替わるのでしたら不効率極まりないですし、入れ替わりですれ違うときに火縄の引火・暴発の危険もあります。
実戦を知らない江戸時代の作家が創作したのを、実戦を知らない昭和の作家がコピペしただけの話しでしょう。
せめてやっていたであろうことは、
分隊長が標的の振り分けとかを行って火力の統制を図る事とか、
射手は腕の良い人に任せて、次発装填とかはバックでやって貰う。装填と射撃を集団分業にすれば待ち時間が無くなるので、射撃の回転が効率的になるとかでしょう。
3000丁とか簡単に言っても、現場で3000人を統制するなんて出来る人は居ないですね。精々30人でしょうね。
生死が掛かっている現場で悠長に号令射撃とか射手が入れ替わるとかやっていれば、逆に部下に後ろから撃たれてしまうでしょうね。
100歩譲って、三段撃ちとかを本気でやってたとしても、戦力比が10倍とかであれば、何をやっても勝てるでしょう。
長篠では戦力比が2倍だったので、それだけで十分な勝因と言えるでしょう。
勝因が三段撃ちとかいうのは早合点でしょう。
NHKのテレビ番組で、三段撃ちができるか実験していましたね。結局弾込めから射撃まで、技量によって時間がまちまちで、タイミングを合わせての一斉射撃はできませんでした。準備ができた者から射撃したので、結果として機関銃を撃つような状態になりました。千丁単位で次々と機関銃のように撃てば、効果絶大だったでしょう。
そもそも3段撃ちは不可
弓と同じように足軽頭が目標を指して準備出来た人数の多少に拘らず発砲したようです(1番近くまで来ている敵や前線指揮官等の危険度の高い相手や指揮系統破壊を狙ったと思う)
野戦での防衛戦は弓隊や鉄砲隊は防衛に適した場所(小高い丘等)に配置して麓に槍隊等を配置して弓や鉄砲で支援するパターンが多かったようです
処刑され晒し首にされた奥平仙千代達の首は、彼らを哀れに思った彼の乳母と寺の僧が密かに持ち出して弔った。
その時に彼らの首をくるんでいだ血染めの打敷を現地の歴史博物館で見たことがある。
それを見て当時の残酷さや血なまぐささを垣間見た気がして、素直に怖いと思ったな。
攻城戦は隠れ定説ですね(爆笑)
さおり姫!流石です🤗
新作ありがとうございます。少年時代に興奮した歴史がここ数年変わりつつ有りますね!3段構えにはかなり興奮した覚えが有りましたよ!
本多忠勝は三方ヶ原の前の一言坂の戦いで馬場信春の隊の武士に情けかけて逃してもらった恩があるからね
立地を動画で見ましたが。思った以上に織田連合と武田の陣地が近くビックリしました!霧で田んぼが見えなかったら、攻めやすと思いましたが。小山に三段重ねで鉄砲の集中打を食らって初めてしまったと思いますね!戦術はどちらの立場からも間違っていないので、偵察が上手く殺されていないならば。100%武田は逃げましたねぇ~勝てないので。
愛知県の新城周辺に住んでいます。近所のお寺にその戦の資料がたくさん残っています
勉強になりました❗
ありがとうございます❗
いつもさおりさん、可愛いですね❗
この戦 地理的に見ると酒井忠次の功績がほんと大きいと思う!
でも考えてくださいここで武田をもし逃してしまったら
もしかしたら武田滅亡も少しは遅れたかもしれない
そうなると本能寺がおこっていなかったかもしれない…
モードアングレことダプリン戦術はは正面から突撃してもらわないと勝てないと言うリスキーな戦術ですし。その大博打を成功させるには酒井隊による迂回戦術は欠かせないピースだったけど、武田陣営が戦わずに逃げたら逃げたで信長のプロパガンダ攻勢に遭って自滅したと思う。
連合軍勝利のポイントは、動画に出てきた3点以外にも、以下のポイントが指摘できる。
○武田軍の3倍もの大軍を揃えたこと。
○圧倒的な兵力を揃えながら、それを武田勝頼に知られないようにしたこと。
○進軍を遅くするなどして、連合軍は決戦を恐れているかのように武田勝頼に錯覚させたこと。
信長としては、本来は長篠城から武田軍が撤兵してくれれば進軍の目的を果たした。それを武田勝頼が無茶をして設楽原に突っ込んできてくれたおかげで、大勝利を収めた、ということのようだ。騙した信長、騙された勝頼、と言う構図だね。
745 yop 無茶をしたってよりかはここで戦わなければ一方的にどんどんと差をつけられるから進軍してきたんだと思うよ。
動画をきちんと最後まで見ようね
馬対鉄砲というのは明治時代の陸軍が創作し、その後映画や小説で一般に広まったものらしいですよ。
長篠の戦い。鉄砲の3段打ち。最初の号砲後は弾込め次第ぶっ放した。音。硝煙。半端無い。声聴こえない。織田方の死傷者6000人共8000人共。武田方15000人ほぼ壊滅。戦場離脱の死傷者手酷くやられた。織田方の死傷者注目。多過ぎる。38000人の軍勢。武田の軍勢二人死んで一人殺してる。武田も強かった。。。
結果から見て 武田軍は撤退すれば良かったのかもしれませんが、 もし撤退していれば武田の威信は大いに傷つき、 德川や 織田に寝返るものも多くなり、結局、武田は滅んでいたでしょう。
勝ち目の見えない時は戦わないことです。
あれ?織田方武田方ともに戦死者は同数くらいだったと記憶しているが・・・。
違うのは戦死者の質で武田方は名のある武将がごっそり討ち死にしているが織田方はいわゆる雑兵ばかりで軍団に損害が無かった
あとそもそも動員兵力が武田軍の2倍から3倍はあったはず
兵力で不利、戦略で不利、戦術で不利、地の利も取られ、負けるべくして負けたがそれでも武田軍は強かったという風に覚えていた
可愛い😃
あまり目立たない存在だけど真田信綱、昌輝兄弟率いる真田隊は果敢に戦い馬防柵を薙ぎ倒す奮戦を見せたと言われてるから、かっこいいよね。
やっぱ真田だね
不意に陰陽師出て来てワロタ
全然知られていないけど、実は酒井隊の中には信玄率いる3万の兵に500の兵で籠城戦を挑んで負けなかった菅沼定盈がいた。信玄はその時に負った傷が原因で死んだとされてる。武田家滅亡の切っ掛けを与えた武将。
武田騎馬隊、在来種の馬ですよね、人が走るよりも少し早いだけの馬です。どちらかと言うと、らば、ロバに近い。歴史にフアンタジーはkの国のだけにしましょう。
たまたま比較的広い土地で構えてた部隊が三段撃ちを現場でしててそれが目に留まったとかじゃないかな。
全員が統制とってしていたとは限らないけど、なかったと否定することもなかなかできない気がする。
この頃の合戦では弓槍、取っ組み合い、斬りあい、馬に踏まれるがよく行われることだと思ってました。
革新的な鉄砲隊のほかにも、天気や足軽の活躍、あえてわるい地形に柵など勝利へと導く作戦があったんですね。
彩葉いろは 実は斬り合いって皆無に等しいんですよ。
あちちあちち さん
そうなんですね、ありがとうございます。私はまだまだ勉強不足でした(^^)
一回だけ高速道路の長篠SAに売ってある火縄銃サイズのバウムクーヘン。
凄く食べ応えあるよ
なぜか、ワクワクする時代歴史ですよね😃👌
その騎馬隊だけど、武田騎馬隊ったて無かったのが通説になってるけど。
まー他の軍より、馬は多かったらしいが、多くて全体の10%だよ。
真の勝因は鉄砲ではない、命懸けで織田の援軍を来ることを長篠城に伝えた鳥居強衛門である。
一番のポイントは勝頼が山県、馬場、内藤の言うことを聞かなくなっていたことでしょう。長坂と跡部のような猪武者と勝頼は気があったのでしょう。この時信長が恐れていたのは到着までに長篠が落城して武田本陣にされていることだけだった。信長来援を聞いた山県はそう進言したが長篠には鉄砲数百丁と大筒20門があり力攻めは被害が大きすぎると信長との決戦を前に兵を減らしたくない勝頼が却下した。もちろん信長は穴山だけじゃなく年寄衆と勝頼の溝を知っていたから出てきたわけですが。
火縄銃やマスケット銃などの前装式の銃は、装填の度に狙いを外さないといけないので修正射が出来ず命中精度が悪い。その命中精度を補うためには、出来るだけ多くの兵がタイミングを合わせて一斉射し、一度に撃つ弾を増やすことで補っている。ヨーロッパの戦列歩兵が一列に並んで一斉射するのはそのため。
根性が有ればって
おふうは正確には妻じゃあないでしょう
でも妻と謀っていたかと。父、祖父ともに近隣他家と縁戚関係を結ぶのに九八郎だけ「一門の娘」を正妻にするのは不自然
父も祖父もまず許さない
でも人質としての価値を上げなきゃいけない。だから正妻って事にしとこうって
佐久間信盛が寝返るという情報を武田が掴んだから決戦に臨んだとも昔聞いたことがあるが、
重臣と親類衆を反対をけって決戦に臨める事は当時の勝頼にはないと思うから、決戦の主張は家臣達じゃないのかな
左右から突撃をかけて、大軍である織田徳川を中央に閉じこめて包囲殲滅をしようとしたんではないだろうか
何十年も共に戦ってる佐久間は裏切らない。そして家臣達は撤退を勧めたが勝頼と数人の武将が攻める判断をしました。
反対する武将に楯無鎧(絶対服従)を見せてね。
当時の勝頼に家臣たちの反対を無視する力はありま線、皆が賛成したから決戦に打って出ました。
長篠城のすぐそばでに陣を築いて織田徳川軍を誘き寄せて戦ったらどうなっていたのかな?
長篠城近辺では戦う場所が無かったのかな?
長期戦に持ち込めば、信長の本拠地周辺で新たな敵が暴れだしそうだしね
この当時の火薬は黒煙が出る黒色火薬で白煙の出る火薬は明治まで開発されなかったと思います。一斉射撃すると煙幕を張った状態になりますので、連続射撃があったとしても相当の間隔があったはずです。
設楽原の所々、湿地帯と言う事もあり、先に織田軍が馬防柵を設置して、騎馬軍団の足を封じたとも言われてますね
勝頼は偉大過ぎた父を持ったことも不運、家臣たちが信玄の言う事は聞いても、信玄と比べるとどうしても劣る勝頼には従えず、勝頼自身も父に追いつこうと無理をして戦に明け暮れ、悪循環、裏切る家臣も居て残念、現代の会社、後継者問題でもありがち
織田・徳川軍にとって、この戦は負けなければいいし、劣勢で勝ちを焦る相手に余裕のカウンター狙い。たとえ、武田軍はこの戦を回避しても、いずれは甲州征伐の憂き目を見ている。戦国史上最凶のなぶり殺しだろう。
逆だ。信長は本願寺軍に備えて近畿地方や越前に大軍を残しておかねばならない状況下でも三方が原と高天神の「前科2犯」である信長は家康を自陣営に繋ぎ止めるため、まともにぶつかれば全滅する相手だと分かっていても徳川陣営の救援に出向かねばならん状況だったと言える。そんな一世一代の大博打に挑むには少ない兵力でも大軍に立ち向かうことができるダプリン戦術しかなかった。そのダプリン戦術成功のキーパーソンが徳川陣営の家老酒井忠次だったと言える。そしてもう一人のキーパーソンが長篠城守備隊を率い武田陣営を飢えさせた奥平信昌だと思う。
長篠は単純に兵力差の違いだろう
戦の目的が何だったのか?信長が此れを機に日本の中心に躍り出る、三段撃ちが虚偽だったにしても何故其の話が真しやかに残ったか?其の辺りは全体的な歴史に合致するので😁成るほどなぁ、、、🐒
これ実は撤退を進言したのは穴山梅雪、突撃を進言したのは馬場、山県、小山田
@よしよし
酒井忠次が鳶巣山砦落とす前に進言したんでしょ
(でもソースが甲陽軍艦だから信用できないかも)
何が?そんなの結果的に3倍位の兵と真っ向勝負を選んだからでしょ。相手側からすれば1/3の力で勝てる訳なので楽勝だった。
一番の驚きは広がる領土に最低限の兵を残しほぼ全軍の信長本隊3万が現れた事。
どんだけ潰す気があったのかわかる。
それにしても織田軍の戦費凄かっただろうな。
三段撃ちや鉄砲三千丁は近代では疑問視されてましたね!
四コマ漫画「信長の忍び」にあった長篠の闘いは物量戦という見方が新鮮でしたが、実際に検証するとどうなんでしょうかね
武田も鉄砲はそれなりに所持しており、織田徳川と何が違うかはその弾と火薬の数❗️
肝心の弾がなければいくら鉄砲があっても意味がありませんからね。
大量の弾があるが故に大量に発射できるので、まるで三段打ちみたいに発射したように伝わったのでは⁉️
連射する発想が新しかったというより、そもそも大量に発射できる弾数を備えていたことも勝因でしょう❗️
「信長のシェフ」でも同じようなことが書いてありました。
さゆりさんがカメラ目線になると心臓がバクバク。奇麗すぎます。今日も最高でした。
なんか知ったようなコメントやマウントより、こういう素直なコメント好きです。笑
名前を間違ってる時点でアウト!
鉄砲の重さは約5kgといわれている。んなもん持ちながらひたすら撃つは無理ゲー
武田家の宿老たちにも四男で母親の家柄(滅ぼした諏訪家の娘)もそんなによくない勝頼を見下す傾向があって
勝頼もそれに対して早く武勲を立てねばという焦りがあった、
その対立が原因で軍が空中分解してしまった、それが敗因だと思います。
あの時信玄が三国同盟をつぶさず義信を跡継ぎにしていれば、いやせめてもっと早く勝頼に実績を積ませていれば。
少なくとも勝頼一人に敗因を負わせるのは筋違いだと思うのです。
高白斎記ですら2000〜3000人の被害とありますから甚大ですね。
織田、徳川で2000丁の鉄砲はあったと個人的には考えています。
そんな中での8時間は関ヶ原の戦いよりも長丁場で正に決戦ですね。
当時、火縄銃は値段が高いけど、織田家は火縄銃の国産化に成功していたと思われます。
@@ワシントンワイン
美濃攻略の時点で国友鉄砲は出来ていた、もしくは製造の依頼をかけていましたね。
殺傷飛距離が100mはあったそうです。
勝頼、氏政…武田、北条潰した武将=ダメのイメージがあるけど、武田、北条の領土1番大きくしたのは、勝頼、氏政だったと思う!家康みたいに頭下げる事ができたらまた違う歴史になったのかとも思う
騎馬隊が弱かった訳ではなく、相手方に合わせた戦い方に対応出来なかった経験の浅さが
敗北って感じかな。3年どころじゃなく10年早かったな、勝頼では。
いずれにせよ、宿老達に信頼されていなかった感が強いので、ここで撤退していても
滅びは必定だったかもね、武田は。
元々兵力的にも織田徳川の方が有利だった・
この戦い以降、鉄砲の時代が来るみたいな表現も多いけど
これの後の織田VS上杉で織田がボコボコに負けてるので
鉄砲だけの問題ではなかったと思います。
手取川はかなり事実関係がかなり怪しいので、長篠と比較するのはどうかと。上杉側だけの資料でボコボコのイメージが独り歩きしてますけど、長篠と違って織田軍の有力武将は誰も死んでませんから。
手取川合戦の場合秀吉が柴田と対立した挙句勝手に撤退した後上杉の攻撃を食らって負けた戦いですからね。総大将が柴田勝家ではなく秀吉であれば謙信も歯が立たなかったのでは。
@@roseholland1372 まともに戦いに行った長篠と違って撤退重視なら死ぬ確率はだいぶ違いますな。
かわいい顔して根性があればとかw厳しいこと言うなーw
三段撃ちという戦法が存在していたとするなら、その後の戦にも使われているはずです。
長篠の戦い以外で聞かないのはなぜせしょう?
そもそもこんなに騎馬隊が突っ込んでる戦いがほとんどないからな。
城で迎え撃つ戦いはあっても。
3段撃ちは無理と検証してますね。3段壁の事が3段撃ちになってしまった?
今日も、お美しい、『上品な堀北真希』さん♪
日本古来の馬は、ポニーとは言わないまでも、小型で、鎧武者を乗せて駆け回る事はできなかった、て、説もありますね(笑)
映像的には、『やぁ!やぁ!我こそは…』てのは興奮しますが、『騎馬隊の真実』も、知りたいですね(笑)
日本里での1里って大体4kmくらいだから13里だったら凡そ50kmじゃないんでしょうか?
100kmの半分しかないと思いますが?🤔🤔🤔
たしかに、距離感おかしい
ルートにもよるが100kmは無い
70kmぐらいならわかるが、色つけたのかな?
織田徳川連合方も損害が大きかったんじゃなかったかな?
高橋アツシ 一説に8000と聞いたことがある
柵を越えて白兵戦に持ち込めた武田の兵は20人未満です。
それ以外は鉄棒や弓で織田、徳川の被害は考えられていません。
勝頼の撤退に追い討ちをかけましたが実際には100人にも及ばないというのが通説ですね。
また、後方の長篠城救援に動いた丹羽、酒井の被害も計算に入れてようやく100〜160人のようです。
おぐら
長篠の戦いでは、織田徳川軍も柵から出入りしながら戦ったという記述があります。
また、佐久間軍は当初柵の前の丸山に陣取っていたとも言われています。
鳶ノ巣山砦では武田勢が壊滅するまでに何度も砦を取ったり取られたりを繰り返したようです。
織田徳川軍が死者100人程度という一方的な圧勝の割には戦闘時間が追撃時間を入れても8時間というのは長すぎます。
実際には柵を挟んで白兵戦が繰り返されていたはずで、戦死者百数十人程度というのは流石に少ないかなと感じます。
@@すけたま-k3p
なるほど。
私の中で一番どの史実でも分からないのが8時間という時間です。
信長公記でも高白斎記、フロイスが遺した日本史でもその時間は違いますが短時間では決してなかったので長丁場で間違いないのでしょう。
また、追撃は信濃国境まではいっておらず追撃戦は長くはやっていない。
ただし、にらみ合いの時間は長かったようです。
個人的には連合軍が布陣してからの籠城戦も含めての8時間で野戦そのものは3時間から4時間程だったと思うのです。
私の中では全隊が馬防柵にはいたと考えます。
しかし武田軍が劣性時の中盤後期には柵を越えた隊もいたかもしれません。
信長公記にはこの戦いで家康の嫡男、信康を武勇を大変評価されています。
もしかしたら信康の隊は白兵戦に参加していたかもしれません。
その可能性がある事を承知していますが、私個人としては策の内側に全隊がいた説と思っているだけです。
決して貴方の考えを否定してのコメントではありません。
素敵な話をありがとうございます。
自分も長篠の戦いは、勝頼の無謀さと柵の内側から鉄砲を駆使した戦術で信長の圧勝に終わったと小さい頃からずっと思ってたんですよね。かなり以前ですがウィキ(だと思います)を見ていたら「馬防柵は6割程度破壊され、織田方も6000人ほどの犠牲があった」などとあり、自分の思っていたものとは違ったものでした。しかし、久々にウィキをのぞいてみると見事に書き換えられていました。勝頼方1万2000に織田方数十人と。親族衆が帰ってしまったのは変わらずでした。
数に勝る織田徳川が勝利し、一方の武田は多くの重臣を失い、また当初の目的を達成もせず敗走したことだけは揺ぎ無い事実ですが、当時の火縄銃がそれほど信頼できる武器だったかとか、一方、武田方も鉄砲を持参していますので鉄砲の威力は知らないわけがない。そして足場の悪い田んぼでどれだけの戦闘ができたかなどなど疑問だらけです。8時間一体何をしていたのかも。因みに私は織田信者でも武田信者でもありませんので誤解のないように。
長篠城は厳重な防御されていた
信玄の名言「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」まさにそれですね
失敗をあまり経験してないサラブレッドの勝頼と桶狭間や浅井の裏切りで命からがら逃げ切ってる
経験も含め修羅場をくぐり抜けてきた信長の差、後日本人の苦手な情報、諜報の差が命運分けたと思います。
信玄の名言ではなく孔子ではないですか?
お疲れさまでした。武田軍が進行したのは徳川家臣の謀反によるものでした。三河の奉行として「大賀彌四郎(おおがやしろう)」という者が三河の中心地岡崎を手に入れようと武田勝頼に書状を送った事です。こんな感じの内容で「三河で一揆を扇動し徳川軍を撹乱し、どさくさに紛れて岡崎城の門を開くので奪い取っていただきたい。成功の暁に岡崎城の城主にしてほしい。」
武田勝頼にとって岡崎が手に入れば織田と徳川を分断出来るので願ってもない機会だと思ったのでしょうね。しかし、織田や徳川との全面対決になるなど思っていなかったので兵力は半分
しか動員しなかったのが本当のところでしょう。岡崎に進行中に大賀彌四郎の企ては仲間の良心の呵責で露見し武田軍が到着する前に失敗します。武田軍は半分とはいえ一万五千の兵を
動員して来たのですが何の目的も達成出来ずに帰るわけにも行かずに作戦変更して家康に奪われていた長篠城を取り戻そうと矛先を長篠城に切り替えたのが「長篠・設楽原の戦い」の発端です。
これ雨降ってたらまた変わったのかね
@酔狂酔狂 どっち転んでも駄目だったんですね。
さおり殿‼️いつもながら天晴れです。わかりやすい説明です。そして、天晴れ❗三河武士
沙織ちゃん ♡、先日設楽原古戦場を見てきましたが、3段打ちの柵が設置されており説明書きの看板がありました。しかしセンゴクという漫画ではそうではなく一斉射撃だったと描かれていました。鉄砲の銃弾込めの手間がかかるので私も後者の一斉射撃説を信じたいですね。
3段壁の事だと思います。柵は3段壁の1番前の柵の事ですね。いつのまにか3段撃ちの話になってますね。
黒色火薬だと前の人燃えるんじゃね?
本当は騎馬隊はなかったという説もあります。あっても3~4人程の部隊。しかも、馬のサイズはポニーテールサイズだったそうです。
テールは蛇足(笑)
よかったです。
三段打ちじゃなくて狙撃が上手い者玉込めが早い者打ち終わった鉄砲を受け取り玉を込めてある次の鉄砲を渡す小隊長みたいな者三人で一組で、打ちまくったらしいよぉ~、よう知らんけど⁉️
山本正寿 でもその玉込めが上手いものが兵士が来てる中手元狂わずに込められるのかどうか気になりますね
正確には得意な者というより専門に訓練を受けた者ですね。
三段射ち説は、火縄銃隊だけで考えるから破綻するわけで、
馬防柵や、長槍隊が時間稼ぎすると考えれば成立しうる。
火縄銃の最強戦法は、『敵の侵入路を限定した上で、集中砲火を浴びせる』こと。
『絶え間なく弾を撃つ』ためではなく、『予測した侵攻ルートに火力を集中する』ため
と考えれば、バラバラに薄く鉄砲隊を配置するのではなく、
第2波、第3波も撃てるように集中配置していても不思議じゃないと思うけどなぁ。
罠を作りまくって、武田騎馬兵の動きを限定できたことが前提の案だけどね。
江戸時代に作られた創作です。一次資料にはありません。
もし3段打ちが実在して有効だったのなら長篠の戦い以降も採用されています。しかしそんな記録はありません。
返信どうもです。
妄想半分の異端の論ということは重々承知していますよ~。
ただ、謙信は夜襲をしかけることで柴田勝家の火縄銃を封じていますが、
後に継承された形跡はありません。(手取川の戦だっけ?)
試して成功もしたけど、手間なり、面倒ごとがあったのでしょう。
後に採用されなかったから、実在しないとは言い切れないかと。
火縄銃の集中砲火は、後に城郭の枡形虎口という形で広く採用されていますし、
1度、野外でそれを実践しようとした人がいたと考えても、面白いかなと思います。
音伎 ただ実際の話になると兵士が殺しに来てる中で手元を狂わせずにたんたんと玉込め出来るのかどうかがとても大事なんじゃないかと思います
従来からある説のまとめに過ぎませんが、美人のナレーションが付くとそれなりに高評価が集まりますね。
音楽と声が絶妙にあっているからね
当時の日本の馬と成人男性と鎧のことを考えると馬はただ単に徒歩で歩くより馬のほうがいいとかその程度だと、武田騎馬軍団なるものは存在しないなと思う
その話と繋がるか分かりませんが、三方原の戦いで武田の騎馬隊は徳川の全線がある程度の距離に入るまでは動かない。
縮まった距離を確認してから突撃という話が好きなんですがそれも無かったんですかね?
そもそも戦国期の軍政では騎馬軍団が有りえません。軍と言っても豪族の集団なので騎馬隊だけ抜き出しての運用は秀吉みたいな絶対権力を持ってしても成り立ちません
ただ、最近あちこちで引用されていてご存知かもしれませんが、家康が戦いの直前に配下に『武田は馬一筋に突撃するから注意しろ』と書いた書状を送っています。信長公記というほぼ同時代の資料でも『武田は馬の扱いが上手かった』と態々書き残しています。西洋のランスチャージみたいな組織だっての物では無くとも、相手が脅威に思うぐらいの騎馬運用は有ったと見て良いのでは無いでしょうか?
日本の馬って中世だと結構一般的なサイズだよねモンゴル軍の軍馬とほとんど同じだから
戦国時代に騎馬軍団が存在したかは分からないが騎馬隊は存在した。
村上義清が考案した「兵種別編成」は上杉武田両家にも影響を与え後に日本全国に広まり大陸にまで影響を与えた。
村上義清は兵種別に部隊編成をし、先ず弓、次に鉄砲の一斉射撃、そして騎馬隊の突撃、続き足軽隊の攻撃で武田軍を撃破している。
長篠の戦いはそれから数十年後なので、兵種別編成は更に改良発展されているでしょうし、結局のところ武田家は村上義清の亡霊に負けたのだと思う。
私は騎馬隊は存在しなかったという派です。
当時の馬がポニー程度の大きさということもさることながら、馬は武将のステータスであり、基本、馬に乗る中心人物的武将が居て、その周辺を槍・弓・馬回り衆で固めた一団が、言わば、中国の秦時代の伍長(5人隊の隊長)的な感じの小隊だと思います。また、騎馬隊は確かに機動力はあるものの、意外に戦闘力は低いです。仮に騎馬武者が突っ込んできても長槍の餌食になってお終い(馬上で槍を持っても馬の制御に片手、もう片手で槍を突いても不安定な上に、力は実はあまり入らない)。
例えば100人の騎馬隊が有ったとして、馬引きや馬の世話などは部下にさせて、戦いになったら騎馬武者だけを集め、隊を編成したところで、その武将の部下はどうするのでしょうか?1人の武将に5~10人くらい周囲の者が付くと思いますが、500人~1000人近くの部下は、別の人の指揮下で戦うことはありえないだろうし、ましてやどこかに避難して戦いを見物していた~も無いと思います。
さおりさん声もいいんだよなあ。
でも最後までさおりさんの映像も流してほしい。
戦争の勝利者しか歴史を残せないので都合の良い歴史が伝えられるのでしょう。(´・ω・`)
高白斎記という武田方の記録もあり史実には重用されています。
本件には勝者の歴史〜は関係ないでしょう。
逆に関ヶ原での三成の書状は三桁あるはずが、9割以上破却されているので色々と諸説生まれる原因になりました。
じゃあその反対は「敗者に都合の良い歴史」やな😂
ただ単に、信長軍の方が数が多かったからやろ?
信長軍は、金で雇ってるって感じだから正直弱い。
それを補う為に大量の火縄銃を用意したんやろ?
柵を盾にして、撃ちまくったら、そりゃー攻めて来た武田軍は撃たれ放題やろ?
武田は一気に騎馬武者の後に兵が続いて、突撃するのがパターンだからね。
突撃は、止められたらダメなんよね~
数が少ないのに攻めたのが失敗だよね~
黒髪ツヤツヤロング美人が顔出しで出ている動画なんて、高評価せざるを得ない
騎馬隊って言うけど、大河ドラマで出てくるようなサラブレッドではなく、胴長短足で体力のない日本の在来馬だから、大規模突撃が出来たか疑問やね。
モンゴル軍の軍馬とほとんど同じ品種だけどね
特徴としては病気や寒さに強く、ケガもしにくい。粗食にも耐えるから餌もそこまで必要ない。欠点は速度と体力やね。
以上の事から西洋と騎馬運用の用途が違ったと思う。
圧倒的に織田軍の方が人数が多いうえ、武田勝頼は前線が見えないところに本陣を敷設したので戦いの様子が全く把握できず無茶苦茶な突撃をさせたのが敗因。
雨が降っていたら鉄砲は使えなかったでしょう‼️ そして火縄銃ですよね。
当主と家臣の間で、反目が有ったの、無かったのってのを聞いてますが、
絶対何か読んでるだろ
織田軍将兵の25倍もの戦闘能力を誇る武田軍将兵。それを両軍参戦人数でカウントすると織田徳川陣営は38000プラス長篠城守備隊500、対して武田軍は380000にもなる。普通なら武田陣営の圧勝どころか武田軍による一方的な虐殺になっていてもおかしくない戦い。何故結果が真逆になってしまったのか。織田の経済力は戦力差10倍を跳ね返すだけの力があったのか、それとも武田軍はそれだけの強い兵を養うだけの経済力に欠けていたのか。謎だ。
武田軍が織田軍の25倍の戦闘力とか織田軍をなめすぎw
@芋けんぴ
その織田軍を舐めてかかって負けたのが武田軍ではないのか。
@@杉田竜馬 設楽原に誘い込まれた形だよね。
はじめて来ました。戦国ファンですが、詳しくないです。さおりさんスッゴク素敵ですね、声も解説もサイコーです。✨さおりさん💐ファンになりました🎉
織田信長が現代に居たら物凄い経営者になって居た。そう思って居ます。
長篠城を落とせなかったことが武田川の敗因でしょ、
長篠城は落差なかったんです落とすと高天神の時と同じよおに織田は、引き上げてしまうと考えていたようです、長篠城を餌さにして織田、徳川と決戦に打って出ると言う作戦かと、
ふと思ったんですが、細道で済んでませんよね?太道です
騎馬自体数がいたとは日本で土地で馬がそんなに揃えられるとは思えない。
そして戦自体は最初に突撃してきた騎馬や歩兵を最初に壊滅させたから織田徳川の勝ち確定。
そのあと武田が突っ込んできても馬や兵士の亡骸あるから一気に突っ込んでこれない。
雨上がりで泥濘ができてるから馬も人速くは動けない。そうなると鉄砲隊にとってはただの的当て練習。
まあ、合戦前の兵力と士気の違いも勝敗に関係してたのかもしれない。
近年 三段打ちは、ほぼ否定されていますね🤔 ずばり、勝頼が信玄亡き後の家臣団を統率し切れていない時期なのが、不味かったのでは?☹️☹️