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紀年復元のものさしの外で、どういう切り口でこられるのか全く予想できなかったのですが、構成的にも分かりやすくて、さすがと思いました。とりあげる観点も『範囲』『時代』『歴年』など似ていてびっくりです。範囲が九州島内、ここは私も一緒でした。『倭国乱が後漢の公文書に記録がなかった』。なるほどと思いました。私もそう思います。最後の紀年復元と結びつけられたあたり、目から鱗に思いました。そういう見解があったとは!
武田さん、ありがとうございます。わたしも武田さんの動画を拝見して、(結論は別として)切り口は同じだなあと思いました。6日のライブよろしくお願いします。
@@J-history 6日。ドキドキです。
さすがの内容で楽しく深く拝聴しました。わかりやすく 神業のような編集で説得力も完璧でした!!!
ありがとうございます。6日のライブよろしくお願いします!
今年もよろしくお願い申し上げます。魏志倭人伝はロマンが満載で想像を膨らませています。古代史新説さんの古代史の理解度は群を抜いているので解説をお聞きしていて納得することしきりです。
コメントありがとうございます。ご納得いただけたのでしたらとてもうれしいです。今年も古代史の界隈が盛り上がるとよいですね。本年もよろしくお願いします。
コメント&ご納得いただきありがとうございます。本年もよろしくお願いします。
15:51のスライドが九州から近畿への東遷をとても分かり易くまとめてあり納得感がありました!
コメントありがとうございます。これはこのチャンネルの「日本書紀の界隈」でひたすら訴えている紀年論と関連するところです。多少なりともご納得いただけたのであればうれしいです。今年もよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。日本書紀にも倭国乱の痕跡が残っていたという切り口には目から鱗でした。後漢の原資料に倭国乱と女王共立が記載されていなかったというお話はとても説得力ある解釈と思います。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。『後漢書』に記載がなかった件についてご同意(?)いただけたのでしたらとてもうれしいです。今年もよろしくお願いします。
段々と真実に近づいてくる考察だと思います。あと少しの頑張りを期待しています。
コメントありがとうございます。ほかの3名とのコラボ企画に参加しまして、自分自身の考えをテーマに沿ってまとめるよい機会となりました。「古代史論争の分かれ道」は今後もぼちぼちを続いていきますので、よろしくお願いします。
すんなり納得できる考察だと思いました。中でも倭国乱や卑弥呼共立のことは240年来倭時の倭側からの聞き取りによるとの考察は印象に残りました!
コメント&ご納得いただきありがとうございます。今回の企画で改めて「倭国乱」と「卑弥呼共立」について考えた結果、そのような結論に至りました。成立可能な説ではないかと思っています。今年もよろしくお願いします。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。「倭国乱」って言うのを、日本書紀から考えると「仲哀天皇」あたりになるのも面白いですよね。そうすると、日本武尊の九州征伐とか東国征伐も「倭国乱」の内容に沿った出来事のように思います。実際はどうなんだろう?今回のコラボ企画では、それぞれの動画が「非常に似てる」なぁという印象でした。 面白かったです。
コメントありがとうございます。基本的に新しい時代の方から紀年延長操作を行っていったら、仲哀天皇のあたりが該当することになった、ということでしょうか。日本武尊の活躍は3世紀中頃に実際にあったことだと思いますが、神功皇后の事績は怪しいと思います。なんといっても、ほぼ1年ほどの間に詰め込まれていますから。今年もよろしくお願いします。
丁寧で正確な読解で非常に分かり易いです! 日本書紀編者の倭国乱への距離感というのも非常に説得力があって面白いですね! 典型的な通説的な西日本全域的な「倭国大乱」像の側というのは、もうかなり説得的に説明をするのは厳しいんじゃないかと思わせる内容ですね!
岡上さん、ありがとうございます。6日のライブもよろしくお願いします。
神功皇后が九州討伐に来たのは倭国の乱を鎮めるためで卑弥呼と重なり九州に居た事を知った事に成りますね!何時もながら切れが良い説明で素人にも分かりやすいです。
コメントありがとうございます。すみません、、、このチャンネルでは神功皇后は非実在だと思っています・・・。引き続きよろしくお願いします。
今年もよろしくお願いします。年代の考察はこれ以上ないだろうと思われる当チャンネルらしい内容でした。他のチャンネルのコメント欄にも書いたんですが起因する事象や範囲とか妄想解釈するネタの多い時代ですからアレコレ盛りたくなります。日本書紀との照合は納得です。神功皇后創作説を支持します。これで一通り拝見しました。みなさんのコメントなど拝見しておさらいしてきます。
すごい結果になりました。他のチャンネルとも同じ考察です。ほぼ。角度が違っても同じところに着地しました。突き詰めたら真実により近づいた結果が出た。そんな印象です。信頼度増します。暴走気味の妄想を4チャンネル拝見して修正します。
コメントありがとうございます。神功皇后創作説、これをご支持いただけただけで最高の気分です。神功皇后実在説を覆すのはとても大変なのです・・・。今年もよろしくお願いします。
@@kyupytarou コメントありがとうございます。魏志倭人伝を真摯に読めば、同じような結論に収れんするということなのではないでしょうか。今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます!残業あり夜遅くから拝見させて頂きました。相変わらずの説得力あるご考察に感銘を受けました。出だしから「邪馬台国はなかった」並のインパクトですねwなお倭国乱の時期を考察されている175〜200の間の184年には中国大陸で黄巾の乱が勃発してますので、より信憑性高いですよね🙄余談ですが、吉野ケ里から矢尻が刺さった遺骨が発見されていて倭国乱での戦死者というのが一般的な見解ですが、そんな激しい戦いがあれば多数の遺骨の頭や腹部にも矢尻が残ってたりするのでは?とふと思ってます🙄もし吉野ケ里投馬國ほどのクニと戦うなら北の奴國か南の邪馬台国のどちらかになりますが、奴國が有力でしょうか?(¯―¯٥)笑
コメントありがとうございます。黄巾の乱と関連付ける説もよく目にしますが、具体的にどのような影響があったかは判断しようがないと思います。鏃の刺さった遺骨ですが、推定される時期にもよりますが、倭国乱、あるいは筑紫平野内の拠点集落が投馬国としてまとまる過程の戦い、卑弥呼没後の内乱などが考えられます。今年もよろしくお願いします。
ありがとうございます。概ね了承することが出来ます。ただ九州邪馬台国説ならば甘木朝倉以外比定のしようがないと思います。近畿説の桜井朝倉(纒向)と東西南北の地名の一致が著しいからです。それから九州の国名の無視が酷すぎると思うのです。卑弥呼(日神子)の西向きの外交があるため肥前肥後という日(肥)の国を主に併呑していると考え、「岩戸隠れ」の後のアマテラスである「豊」は東向きの外交を主とするため豊前豊後(豊の国)を併呑しなお日向・大隅・薩摩を従えていたと考えると背後も憂いなく併呑政策を東に伸ばし得たのだと考えることが出来ます。
コメントありがとうございます。甘木朝倉説は強力ですね。地名の一致もよく耳にします。ただ、熊本と奈良の地名の一致説もあるようですよ。
待ってました!
コメントありがとうございます。今年も待っててください!引きつづきよろしくお願いします
出雲で大量の銅剣が発掘されているのですから大乱かどうかは別として乱は日本全国で起こっていたと考えるべきです。また紀元後には鉄による武器が使われ出したでしょうから、鉄剣を備えた国が銅剣の国を侵略し従えたのは世界共通の流れだったのだと思います。出雲の国譲りなんかも鉄剣による武力制圧でしょう。九州北部はより敏感な地域ですから、局部戦は結構あったのではないでしょうか。動機はやはり水争いとか食料争いでしょう。
コメントありがとうございます。日本に弩はなかったようですが、鉄鏃が大きな威力を発揮したと思われます。各地に環濠集落が見られますから、いたるところで争いがあったのは確かだと思われます。
あけましておめでとうございます。今年も独自の新説や解説、楽しみにしています。で、「其国本亦以男子〜」の「もとまた」の「また」なんですが、これって卑弥呼の前の男王の前が女王だったってとれますか?つまり男王(帥升?)→女王→男王→卑弥呼。女王から男王に戻したのに国が乱れた…みたいな。卑弥呼以前に女王がいたのかな?ってフッと思ったものですから…すいません🙏
コメントありがとうございます。「もともと今(女王卑弥呼の時代)と同じように男子を王として治まっていた」と読めますので、卑弥呼以前の王は男子だったと思われます。別の読み方もあるかもしれませんが。。今年もよろしくお願いします。
まぁ多分気候変動で寒くなって不作になって荒れてたんやろな。中国大陸が荒れてた頃に日本も荒れてたんやろな。
古代の気候については、科学的分析からもかなり明らかになってきているようですね。黄巾の乱も気候をはじめさまざまな天災が原因とか?
14:04 ここの解釈面白い
コメントありがとうございます。魏志倭人伝を信じれば、こういう解釈もありかなあということで考えてみました。今年もよろしくお願いします。
倭国乱の魏志倭人伝は 長江文明の倭国(ワ族ら)の話です。長江文明は5000年前から始まり、漢民族の4千年前より古い。古代日本人とはイコールではありません。縄文文明は1万5千年前から1万3千年間も続いた平和な文明でした。長江文明の倭国(ワ族ら)は 漢民族に侵略されて徐々に南方に移住した。これが『倭国乱』です。記紀に記述が無いのは 日本の話じゃないから。
コメントありがとうございます。斬新な説だと思いますが、「倭国」は朝鮮半島の南東海上にあった国なのでは?また、倭国乱を経て共立された卑弥呼の使いは、対馬海峡を渡って帯方郡へ行ったのでは?と思いますが・・・。引き続きよろしくお願いします。
@@J-history 長江文明は5千年前から始まり、漢民族に侵略されて徐々に南方へ移住です。朝鮮半島南部にいた時もあります。魏志倭人伝の3世紀頃には北九州にいて混血したでしょうが、卑弥呼については子孫がいません。だから天照大御神とか天皇家とは何の関係もない野蛮族です。長江文明のDNA解析で、日本やマレーシアと混血したと考えられています。九州北部と言ったのは『水行』の和訳が間違いだったから。船で行くのではなく、海岸沿いを歩く(歩けない所は船で行く)。で、現在の北九州には問題の遺伝子がありません。近畿地方にはあるので、そこに移住し混血したと考えられています。
私の考えもほぼ同じです。倭国の男王の時代は、だいたい、『日本書紀』の紀年では景行天皇~仲哀天皇にあたります。『日本書紀』が景行天皇に当てた倭国王(倭奴国王)が九州中南部の熊襲を征討し、その後しばらくは落ち着いていたものの、熊襲圏(邪馬臺国圏)の不平不満が現れ、仲哀天皇の時に戦乱が起きたと考えることができます。仲哀天皇はこの乱で流れ矢に中り亡くなりましたが。神功皇后はその存在もいろいろ言われていますが、九州から大和へ侵攻し政権を奪いその後の「やまと」を引き継いだのですから、実在したとみるほうがよいのではと思っています。神功皇后が倭奴国王家の人物だとすると、倭国の歴史は「やまと」の歴史として残ります。ただ、この時代(景行天皇~仲哀天皇)を西暦に換算すると、334~367年(笠井倭人氏の「有記事年」による換算法を基本にして私が計算したものです)になりますので、『日本書紀』が倭国乱の時代に当てただけであり、実際はこの時代よりずっと後の時代の天皇であり、神功皇后の新羅征討は創作だと思っています。
コメントありがとうございます。このチャンネルではヤマト王権の成立を301年と考えていますから、倭国乱や卑弥呼・壹与の邪馬台国の時代は『日本書紀』の神代に相当すると考えています。
倭国大乱って、日本列島で起きたのか?という説があります。漢書、宋書、魏書などを読み込んだ方には、卑弥呼は朝鮮半島や遼東半島付近の国(公孫氏)が出自という話もあり、倭人朝鮮半島の倭人の国々との争いでは?という話もありますね。この話が本当だとすると、後に九州の渡ってきたという可能性もあります。倭国の範囲は、もっと広くとるべきなのしれません。
コメントありがとうございます。卑弥呼が公孫氏出自という説は根強く語られていますね。ただ、当チャンネルでは、動画内でも述べているように、倭国乱と卑弥呼共立という情報は240年に来倭した梯儁たちの報告書に記されていたものではないかと考えます。すると、乱れた倭国は狗邪韓国以南の領域であるということになります。引き続きよろしくお願いします。
@@J-history 倭国は長江文明(5千年前~)のワ族ら小国30余りの話。卑弥呼は職業名だから複数あった。『倭国乱』は漢民族に侵略されて徐々に南方に移住し、日本やマレーシアと混血した。魏志倭人伝の3世紀頃ならば北九州に卑弥呼はいたでしょうが、天照大御神や天皇家とは何の関係もない野蛮族ですね。
紀年復元のものさしの外で、どういう切り口でこられるのか全く予想できなかったのですが、構成的にも分かりやすくて、さすがと思いました。とりあげる観点も『範囲』『時代』『歴年』など似ていてびっくりです。範囲が九州島内、ここは私も一緒でした。『倭国乱が後漢の公文書に記録がなかった』。なるほどと思いました。私もそう思います。最後の紀年復元と結びつけられたあたり、目から鱗に思いました。そういう見解があったとは!
武田さん、ありがとうございます。
わたしも武田さんの動画を拝見して、(結論は別として)切り口は同じだなあと思いました。6日のライブよろしくお願いします。
@@J-history 6日。ドキドキです。
さすがの内容で楽しく深く拝聴しました。わかりやすく 神業のような編集で説得力も完璧でした!!!
ありがとうございます。
6日のライブよろしくお願いします!
今年もよろしくお願い申し上げます。魏志倭人伝はロマンが満載で想像を膨らませています。
古代史新説さんの古代史の理解度は群を抜いているので解説をお聞きしていて納得することしきりです。
コメントありがとうございます。
ご納得いただけたのでしたらとてもうれしいです。
今年も古代史の界隈が盛り上がるとよいですね。
本年もよろしくお願いします。
コメント&ご納得いただきありがとうございます。
本年もよろしくお願いします。
15:51のスライドが九州から近畿への東遷をとても分かり易くまとめてあり納得感がありました!
コメントありがとうございます。
これはこのチャンネルの「日本書紀の界隈」でひたすら訴えている紀年論と関連するところです。
多少なりともご納得いただけたのであればうれしいです。
今年もよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。日本書紀にも倭国乱の痕跡が残っていたという切り口には目から鱗でした。後漢の原資料に倭国乱と女王共立が記載されていなかったというお話はとても説得力ある解釈と思います。ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
『後漢書』に記載がなかった件についてご同意(?)いただけたのでしたらとてもうれしいです。
今年もよろしくお願いします。
段々と真実に近づいてくる考察だと思います。
あと少しの頑張りを期待しています。
コメントありがとうございます。
ほかの3名とのコラボ企画に参加しまして、自分自身の考えをテーマに沿ってまとめるよい機会となりました。
「古代史論争の分かれ道」は今後もぼちぼちを続いていきますので、よろしくお願いします。
すんなり納得できる考察だと思いました。中でも倭国乱や卑弥呼共立のことは240年来倭時の倭側からの聞き取りによるとの考察は印象に残りました!
コメント&ご納得いただきありがとうございます。
今回の企画で改めて「倭国乱」と「卑弥呼共立」について考えた結果、そのような結論に至りました。
成立可能な説ではないかと思っています。
今年もよろしくお願いします。
遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。
「倭国乱」って言うのを、日本書紀から考えると「仲哀天皇」あたりになるのも面白いですよね。
そうすると、日本武尊の九州征伐とか東国征伐も「倭国乱」の内容に沿った出来事のように思います。実際はどうなんだろう?
今回のコラボ企画では、それぞれの動画が「非常に似てる」なぁという印象でした。 面白かったです。
コメントありがとうございます。
基本的に新しい時代の方から紀年延長操作を行っていったら、仲哀天皇のあたりが該当することになった、ということでしょうか。
日本武尊の活躍は3世紀中頃に実際にあったことだと思いますが、神功皇后の事績は怪しいと思います。なんといっても、ほぼ1年ほどの間に詰め込まれていますから。
今年もよろしくお願いします。
丁寧で正確な読解で非常に分かり易いです! 日本書紀編者の倭国乱への距離感というのも非常に説得力があって面白いですね! 典型的な通説的な西日本全域的な「倭国大乱」像の側というのは、もうかなり説得的に説明をするのは厳しいんじゃないかと思わせる内容ですね!
岡上さん、ありがとうございます。
6日のライブもよろしくお願いします。
神功皇后が九州討伐に来たのは倭国の乱を鎮めるためで卑弥呼と重なり九州に居た事を知った事に成りますね!何時もながら切れが良い説明で素人にも分かりやすいです。
コメントありがとうございます。
すみません、、、このチャンネルでは神功皇后は非実在だと思っています・・・。
引き続きよろしくお願いします。
今年もよろしくお願いします。
年代の考察はこれ以上ないだろうと思われる当チャンネルらしい内容でした。
他のチャンネルのコメント欄にも書いたんですが
起因する事象や範囲とか妄想解釈するネタの多い時代ですからアレコレ盛りたくなります。
日本書紀との照合は納得です。神功皇后創作説を支持します。
これで一通り拝見しました。
みなさんのコメントなど拝見しておさらいしてきます。
すごい結果になりました。
他のチャンネルとも同じ考察です。ほぼ。
角度が違っても同じところに着地しました。
突き詰めたら真実により近づいた結果が出た。
そんな印象です。
信頼度増します。
暴走気味の妄想を4チャンネル拝見して修正します。
コメントありがとうございます。
神功皇后創作説、これをご支持いただけただけで最高の気分です。
神功皇后実在説を覆すのはとても大変なのです・・・。
今年もよろしくお願いします。
@@kyupytarou コメントありがとうございます。
魏志倭人伝を真摯に読めば、同じような結論に収れんするということなのではないでしょうか。
今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます!残業あり夜遅くから拝見させて頂きました。相変わらずの説得力あるご考察に感銘を受けました。出だしから「邪馬台国はなかった」並のインパクトですねwなお倭国乱の時期を考察されている175〜200の間の184年には中国大陸で黄巾の乱が勃発してますので、より信憑性高いですよね🙄余談ですが、吉野ケ里から矢尻が刺さった遺骨が発見されていて倭国乱での戦死者というのが一般的な見解ですが、そんな激しい戦いがあれば多数の遺骨の頭や腹部にも矢尻が残ってたりするのでは?とふと思ってます🙄もし吉野ケ里投馬國ほどのクニと戦うなら北の奴國か南の邪馬台国のどちらかになりますが、奴國が有力でしょうか?(¯―¯٥)笑
コメントありがとうございます。
黄巾の乱と関連付ける説もよく目にしますが、具体的にどのような影響があったかは判断しようがないと思います。
鏃の刺さった遺骨ですが、推定される時期にもよりますが、倭国乱、あるいは筑紫平野内の拠点集落が投馬国としてまとまる過程の戦い、卑弥呼没後の内乱などが考えられます。
今年もよろしくお願いします。
ありがとうございます。概ね了承することが出来ます。ただ九州邪馬台国説ならば甘木朝倉以外比定のしようがないと思います。近畿説の桜井朝倉(纒向)と東西南北の地名の一致が著しいからです。それから九州の国名の無視が酷すぎると思うのです。卑弥呼(日神子)の西向きの外交があるため肥前肥後という日(肥)の国を主に併呑していると考え、「岩戸隠れ」の後のアマテラスである「豊」は東向きの外交を主とするため豊前豊後(豊の国)を併呑しなお日向・大隅・薩摩を従えていたと考えると背後も憂いなく併呑政策を東に伸ばし得たのだと考えることが出来ます。
コメントありがとうございます。
甘木朝倉説は強力ですね。地名の一致もよく耳にします。
ただ、熊本と奈良の地名の一致説もあるようですよ。
待ってました!
コメントありがとうございます。
今年も待っててください!
引きつづきよろしくお願いします
出雲で大量の銅剣が発掘されているのですから大乱かどうかは別として乱は日本全国で起こっていたと考えるべきです。また紀元後には鉄による武器が使われ出したでしょうから、鉄剣を備えた国が銅剣の国を侵略し従えたのは世界共通の流れだったのだと思います。出雲の国譲りなんかも鉄剣による武力制圧でしょう。九州北部はより敏感な地域ですから、局部戦は結構あったのではないでしょうか。動機はやはり水争いとか食料争いでしょう。
コメントありがとうございます。
日本に弩はなかったようですが、鉄鏃が大きな威力を発揮したと思われます。
各地に環濠集落が見られますから、いたるところで争いがあったのは確かだと思われます。
あけましておめでとうございます。今年も独自の新説や解説、楽しみにしています。で、「其国本亦以男子〜」の「もとまた」の「また」なんですが、これって卑弥呼の前の男王の前が女王だったってとれますか?つまり男王(帥升?)→女王→男王→卑弥呼。女王から男王に戻したのに国が乱れた…みたいな。卑弥呼以前に女王がいたのかな?ってフッと思ったものですから…すいません🙏
コメントありがとうございます。
「もともと今(女王卑弥呼の時代)と同じように男子を王として治まっていた」と読めますので、卑弥呼以前の王は男子だったと思われます。
別の読み方もあるかもしれませんが。。
今年もよろしくお願いします。
まぁ多分気候変動で寒くなって
不作になって荒れてたんやろな。
中国大陸が荒れてた頃に日本も荒れてたん
やろな。
古代の気候については、科学的分析からもかなり明らかになってきているようですね。黄巾の乱も気候をはじめさまざまな天災が原因とか?
14:04 ここの解釈
面白い
コメントありがとうございます。
魏志倭人伝を信じれば、こういう解釈もありかなあということで考えてみました。
今年もよろしくお願いします。
倭国乱の魏志倭人伝は 長江文明の倭国(ワ族ら)の話です。
長江文明は5000年前から始まり、漢民族の4千年前より古い。
古代日本人とはイコールではありません。
縄文文明は1万5千年前から1万3千年間も続いた平和な文明でした。
長江文明の倭国(ワ族ら)は 漢民族に侵略されて徐々に南方に移住した。
これが『倭国乱』です。
記紀に記述が無いのは 日本の話じゃないから。
コメントありがとうございます。
斬新な説だと思いますが、「倭国」は朝鮮半島の南東海上にあった国なのでは?
また、倭国乱を経て共立された卑弥呼の使いは、対馬海峡を渡って帯方郡へ行ったのでは?
と思いますが・・・。
引き続きよろしくお願いします。
@@J-history 長江文明は5千年前から始まり、漢民族に侵略されて徐々に南方へ移住です。
朝鮮半島南部にいた時もあります。
魏志倭人伝の3世紀頃には北九州にいて混血したでしょうが、卑弥呼については子孫がいません。
だから天照大御神とか天皇家とは何の関係もない野蛮族です。
長江文明のDNA解析で、日本やマレーシアと混血したと考えられています。
九州北部と言ったのは『水行』の和訳が間違いだったから。
船で行くのではなく、海岸沿いを歩く(歩けない所は船で行く)。
で、現在の北九州には問題の遺伝子がありません。
近畿地方にはあるので、そこに移住し混血したと考えられています。
私の考えもほぼ同じです。
倭国の男王の時代は、だいたい、『日本書紀』の紀年では景行天皇~仲哀天皇にあたります。
『日本書紀』が景行天皇に当てた倭国王(倭奴国王)が九州中南部の熊襲を征討し、その後しばらくは落ち着いていたものの、熊襲圏(邪馬臺国圏)の不平不満が現れ、仲哀天皇の時に戦乱が起きたと考えることができます。仲哀天皇はこの乱で流れ矢に中り亡くなりましたが。
神功皇后はその存在もいろいろ言われていますが、九州から大和へ侵攻し政権を奪いその後の「やまと」を引き継いだのですから、実在したとみるほうがよいのではと思っています。神功皇后が倭奴国王家の人物だとすると、倭国の歴史は「やまと」の歴史として残ります。
ただ、この時代(景行天皇~仲哀天皇)を西暦に換算すると、334~367年(笠井倭人氏の「有記事年」による換算法を基本にして私が計算したものです)になりますので、『日本書紀』が倭国乱の時代に当てただけであり、実際はこの時代よりずっと後の時代の天皇であり、神功皇后の新羅征討は創作だと思っています。
コメントありがとうございます。
このチャンネルではヤマト王権の成立を301年と考えていますから、倭国乱や卑弥呼・壹与の邪馬台国の時代は『日本書紀』の神代に相当すると考えています。
倭国大乱って、日本列島で起きたのか?という説があります。漢書、宋書、魏書などを読み込んだ方には、卑弥呼は朝鮮半島や遼東半島付近の国(公孫氏)が出自という話もあり、倭人朝鮮半島の倭人の国々との争いでは?という話もありますね。この話が本当だとすると、後に九州の渡ってきたという可能性もあります。倭国の範囲は、もっと広くとるべきなのしれません。
コメントありがとうございます。
卑弥呼が公孫氏出自という説は根強く語られていますね。
ただ、当チャンネルでは、動画内でも述べているように、倭国乱と卑弥呼共立という情報は240年に来倭した梯儁たちの報告書に記されていたものではないかと考えます。
すると、乱れた倭国は狗邪韓国以南の領域であるということになります。
引き続きよろしくお願いします。
@@J-history 倭国は長江文明(5千年前~)のワ族ら小国30余りの話。
卑弥呼は職業名だから複数あった。
『倭国乱』は漢民族に侵略されて徐々に南方に移住し、日本やマレーシアと混血した。
魏志倭人伝の3世紀頃ならば北九州に卑弥呼はいたでしょうが、天照大御神や天皇家とは何の関係もない野蛮族ですね。