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懐かしいですね、「能登」は思い出深い列車です。1980年10月9日に、上野から富山まで乗りました。生まれて初めての母親との家族旅行、母親はシングルマザーで「たった2人」の家族旅行。当時母親は心臓病(狭心症)を患っており、生きている間に幼少期に住んでいた富山をひと目見ておきたいと願っての「富山行」でした。(病院から旅行は中止するように言われてました。)体育の日の前日とあってか、車内はものすごい混雑、走れども走れども目的地には着かず、かなり遠かった記憶があります。そんな母親も医療の進歩もあり、心臓病だったのがウソのように元気になり、今年95歳を迎えます。
若い頃、能登、金沢にいくときに乗りました。当時は、夏休みなどは、1ヶ月前の朝5時に最寄駅のみどりの窓口で申し込み、当たったら会社帰りに受け取りました。ここからドキドキでした。三段寝台の中段で身動き出来ずに一晩明けると、魚津の手前で朝焼けの海が光ってました。遠くにきたんだ…と思いました。一晩明けると別の街、夜が白々と明けていくのを見るのは非日常で旅に出たなーと思いました。魚津の手前で
この急行能登の上りだけに普通車指定席があり、下りには普通車指定席はなかったと記憶しています。間違っていたらすみません。また急行越前には普通車指定席はありませんでした。碓氷峠を超えるために編成も制限があった。
一体どれだけストックがあるのか、すごいですね
うわあ、1980年の夏休みに、金沢から上野まで乗りました。友達と1週間の北陸旅行の帰り。行きは越前で、ユースや駅で寝たから結構疲れたけど面白かったなあ。自由席確保するの夏休みだったから大変だった。旧型客車の夜行列車いいですね。また乗りたいなあ。
ホームで白山そば食べてから乗車しよう!
1982年の録音記録は、流石に、貴方の他に誰も保存所持していない程貴重なものだと思います!!👍
1990年代に上田駅から急行能登に乗車していて、1997年の長野新幹線で上越線経由になって不思議に思っていたのですが元々の信越本線経由は急行越前だったことを説明で知らされて納得しました。
凄いモノをお持ちですねぇ。先頭自由席車での録音なのか、EF81の吊り掛け音が旅情を引き立てます。大宮駅の乗り換え案内も新幹線開業直後の在来線優等列車残存期のもので急行列車も多く、川越線も非電化時代。本当に貴重品です。
1990年代熊谷に停まる最初の急行列車でした。自分の家の前の高崎線で夏場にはよく拝見いたしました。永平寺へ行くのに4から5回利用させていただきました。1度はすでに寝台車は連結されておりませんでした。立山への記憶しています。車両もいろいろ変わりました。最後は昔のこだま型の車両でした。
能登といえば、ヨンサントウ白紙ダイヤ改正前迄の東海道本線米原経由のほうが馴染みがあります。その後臨時急行で信越本線経由の上野から金沢まで繁忙期に昼行と夜行で運転されていました。
1969年に乗車しました……懐かしい! その後、特急になってからも利用しましたが、早く着き過ぎで参りました(^^;)。 特急になってからの上野→金沢では、金沢に早く着き過ぎたお客様には、次の駅で停車して、まだ寝てていいよサービスがありましたが、起きて金沢まで戻る列車は通勤ラッシュでぎゅうぎゅうずめでした。
旧型客車は、自動ドアじゃなかったですもんね。ホームドアまである現代とは大違い(笑) 動画ありがとうございます‼️
グリーン車は、ナロ10ですかね❓️
この当時の急行「能登」のグリーン車は、確かスロ62(或いはスロフ62)ではなかったかと思います。この年、直江津から米原まで普通列車522レに全区間完全乗車し、その途中の金沢駅に到着手前の車庫で見かけたスロ62(或いはスロフ62)が、もしかしたらこの急行「能登」で運行されたグリーン車であった可能性が高いと思われます。
ナロ19,型(冷房化後はオロ11型)は昭和50年3月改正の前に廃車になっています。後はスロ54型500番台とスロ62(,スロフ62)型だけですね!500番台は北海道仕様だけで本州には定期列車には連結されていません。
能登だと長岡までEF81牽引ですかね。
12両の長大編成ですね。
この日は10号車が減車されているみたいですね。8月の多客期に珍しい。このほかに1号車(Aネ)の隣りに荷物車(銀色のパレット用)が付いていました。この列車は当時石打で何度かバルブ撮影した思い出があります。座席普通車は指定席・自由席も非冷房の旧型客車でしたから、指定席の人はがっかりしたかもしれませんね。当時石打で外から見ると座席普通車は照明が明るかったですが、それ以外のG車や寝台は減光されていたのが印象的でした。途中で聞こえた無線は7号車G車の専務車掌室の辺りでしょうか。その後乗変するお客の声も入っているので、8月でも空席があったみたいですね。この年11月15日に上越新幹線が開通して「能登」は信越本線経由になりますが、最終の上野11月14日発の「能登」を石打で見た時、新幹線開通後の編成である14系寝台車+座席車で運転されていました。夜間遅くなってからの放送終了の案内も当時の夜行列車ならではですね。翌朝放送再開までの停車駅での降車は乗客の自己責任でした。寝台とかの客は予め車掌にどの駅で降りるか伝えておくと、深夜の下車駅近くなると声をかけてくれたこともありました。この列車は自動ドアではないから、動き出しても慌てて飛び降りることはできましたが危険ですね。最後上野の独特な言い回しの到着アナウンスも懐かしいですね。貴重な音声をありがとうございました。
牽引機関車はEF80かな?
失礼、ウェキペの情報から推察するに、時代が80〜82年位なら、上野から高崎までEF60-500か、EF58高崎から、牽引機を付換えて? 沼田湯沢 上越線経由 で長岡まで 峻険な峠線区に挑み、山男64-0番台長岡駅で、直流カマを切り離して方向を転換、日本海縦貫線用のEF81が、長岡〜金沢終点までかなぁ。80は、温暖地域か常磐線など、平坦かつあまり雪深くならない地区で活躍したと記憶してます。もしですが、80年代よりも前の時代なら、64を長岡駅で機回しして、糸魚川で、途中停車時間をとってるうちに昔の黒磯同様に、番線毎に電気方式を切り替えて EF70-1000が、金沢(福井)まで牽引したのかなぁ……。今もしあったら途中でカメラ何回回すポイントがあるんだろう‥‥いい時代だったんだなあ……✨
いい時代でしたね。森新幹線には乗る気にはなれないね
この当時の急行能登は、金沢−長岡カンEF81型で長岡−上野間がEF64型1000番台だと思います。EF80型は常磐線以外使われていません。交直流電気機関車ではありますが、交流区間は50ヘルツしか走行できません。EF81型は3電源機関車なので西日本の交流60ヘルツも走行できます。
@@もりわききくお 様、当時長岡-上野間は仰る通りEF64-1000でした。1980年10月のダイヤ改正まではEF58牽引で、水上-石打で山越えの補機EF16が連結されたのを当時撮影していました。
懐かしいですね、「能登」は思い出深い列車です。
1980年10月9日に、上野から富山まで乗りました。
生まれて初めての母親との家族旅行、母親はシングルマザーで「たった2人」の家族旅行。
当時母親は心臓病(狭心症)を患っており、生きている間に幼少期に住んでいた富山をひと目見ておきたいと願っての「富山行」でした。(病院から旅行は中止するように言われてました。)
体育の日の前日とあってか、車内はものすごい混雑、走れども走れども目的地には着かず、かなり遠かった記憶があります。
そんな母親も医療の進歩もあり、心臓病だったのがウソのように元気になり、今年95歳を迎えます。
若い頃、能登、金沢にいくときに乗りました。当時は、夏休みなどは、1ヶ月前の朝5時に最寄駅のみどりの窓口で申し込み、当たったら会社帰りに受け取りました。ここからドキドキでした。
三段寝台の中段で身動き出来ずに一晩明けると、魚津の手前で朝焼けの海が光ってました。遠くにきたんだ…と思いました。一晩明けると別の街、夜が白々と明けていくのを見るのは非日常で旅に出たなーと思いました。
魚津の手前で
この急行能登の上りだけに普通車指定席があり、下りには普通車指定席はなかったと記憶しています。間違っていたらすみません。また急行越前には普通車指定席はありませんでした。碓氷峠を超えるために編成も制限があった。
一体どれだけストックがあるのか、すごいですね
うわあ、1980年の夏休みに、金沢から上野まで乗りました。友達と1週間の北陸旅行の帰り。行きは越前で、ユースや駅で寝たから結構疲れたけど面白かったなあ。自由席確保するの夏休みだったから大変だった。旧型客車の夜行列車いいですね。また乗りたいなあ。
ホームで白山そば食べてから乗車しよう!
1982年の録音記録は、
流石に、貴方の他に誰も保存所持していない程貴重なものだと思います!!👍
1990年代に上田駅から急行能登に乗車していて、1997年の長野新幹線で上越線経由になって不思議に思っていたのですが元々の信越本線経由は急行越前だったことを説明で知らされて納得しました。
凄いモノをお持ちですねぇ。
先頭自由席車での録音なのか、EF81の吊り掛け音が旅情を引き立てます。大宮駅の乗り換え案内も新幹線開業直後の在来線優等列車残存期のもので急行列車も多く、川越線も非電化時代。本当に貴重品です。
1990年代熊谷に停まる最初の急行列車でした。自分の家の前の高崎線で夏場にはよく拝見いたしました。永平寺へ行くのに4から5回利用させていただきました。1度はすでに寝台車は連結されておりませんでした。立山への記憶しています。車両もいろいろ変わりました。最後は昔のこだま型の車両でした。
能登といえば、ヨンサントウ白紙ダイヤ改正前迄の東海道本線米原経由のほうが馴染みがあります。その後臨時急行で信越本線経由の上野から金沢まで繁忙期に昼行と夜行で運転されていました。
1969年に乗車しました……懐かしい! その後、特急になってからも利用しましたが、早く着き過ぎで参りました(^^;)。 特急になってからの上野→金沢では、金沢に早く着き過ぎたお客様には、次の駅で停車して、まだ寝てていいよサービスがありましたが、起きて金沢まで戻る列車は通勤ラッシュでぎゅうぎゅうずめでした。
旧型客車は、自動ドアじゃなかったですもんね。ホームドアまである現代とは大違い(笑) 動画ありがとうございます‼️
グリーン車は、ナロ10ですかね❓️
この当時の急行「能登」のグリーン車は、確かスロ62(或いはスロフ62)ではなかったかと思います。この年、直江津から米原まで普通列車522レに全区間完全乗車し、その途中の金沢駅に到着手前の車庫で見かけたスロ62(或いはスロフ62)が、もしかしたらこの急行「能登」で運行されたグリーン車であった可能性が高いと思われます。
ナロ19,型(冷房化後はオロ11型)は昭和50年3月改正の前に廃車になっています。後はスロ54型500番台とスロ62(,スロフ62)型だけですね!500番台は北海道仕様だけで本州には定期列車には連結されていません。
能登だと長岡までEF81牽引ですかね。
12両の長大編成ですね。
この日は10号車が減車されているみたいですね。8月の多客期に珍しい。このほかに1号車(Aネ)の隣りに荷物車(銀色のパレット用)が付いていました。この列車は当時石打で何度かバルブ撮影した思い出があります。座席普通車は指定席・自由席も非冷房の旧型客車でしたから、指定席の人はがっかりしたかもしれませんね。当時石打で外から見ると座席普通車は照明が明るかったですが、それ以外のG車や寝台は減光されていたのが印象的でした。途中で聞こえた無線は7号車G車の専務車掌室の辺りでしょうか。その後乗変するお客の声も入っているので、8月でも空席があったみたいですね。この年11月15日に上越新幹線が開通して「能登」は信越本線経由になりますが、最終の上野11月14日発の「能登」を石打で見た時、新幹線開通後の編成である14系寝台車+座席車で運転されていました。夜間遅くなってからの放送終了の案内も当時の夜行列車ならではですね。翌朝放送再開までの停車駅での降車は乗客の自己責任でした。寝台とかの客は予め車掌にどの駅で降りるか伝えておくと、深夜の下車駅近くなると声をかけてくれたこともありました。この列車は自動ドアではないから、動き出しても慌てて飛び降りることはできましたが危険ですね。最後上野の独特な言い回しの到着アナウンスも懐かしいですね。貴重な音声をありがとうございました。
牽引機関車はEF80かな?
失礼、ウェキペの情報から推察するに、
時代が80〜82年位なら、上野から高崎までEF60-500か、EF58
高崎から、牽引機を付換えて? 沼田湯沢 上越線経由 で長岡まで 峻険な峠線区に挑み、山男64-0番台
長岡駅で、直流カマを切り離して方向を転換、
日本海縦貫線用のEF81が、長岡〜金沢終点までかなぁ。
80は、温暖地域か常磐線など、平坦かつあまり雪深くならない地区で活躍したと記憶してます。
もしですが、80年代よりも前の時代なら、64を長岡駅で機回しして、糸魚川で、途中停車時間をとってるうちに昔の黒磯同様に、番線毎に電気方式を切り替えて EF70-1000が、金沢(福井)まで牽引したのかなぁ……。
今もしあったら途中でカメラ何回回すポイントがあるんだろう‥‥いい時代だったんだなあ……✨
いい時代でしたね。森新幹線には乗る気にはなれないね
この当時の急行能登は、金沢−長岡カンEF81型で長岡−上野間がEF64型1000番台だと思います。EF80型は常磐線以外使われていません。交直流電気機関車ではありますが、交流区間は50ヘルツしか走行できません。EF81型は3電源機関車なので西日本の交流60ヘルツも走行できます。
@@もりわききくお 様、当時長岡-上野間は仰る通りEF64-1000でした。1980年10月のダイヤ改正まではEF58牽引で、水上-石打で山越えの補機EF16が連結されたのを当時撮影していました。