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92年のホッケンハイムのパドックで津川さんとお話しさせていただきました。すぐ横にシューマッハがいて津川さんは「シューマッハいるよ」と教えてくださいましたが、私は「津川さんのファンなので」とそのまま。津川さんは知り合いのメカニックらしき方に「見ろ。俺は日本ではシューマッハより人気があるんだ」と笑ってらっしゃいました。実はその後にマクラーレンのモーターホームに招かれ、そこでセナに挨拶し、モニターで自身の走りを確認するセナを見ていました。すべて手違いがきっかけでのラッキーだったのですがもうすぐ最期を迎える人生最高の思い出です。ありがとうございました。
セナの現役時代からのファンですが、没後25年以上経った今こんなエピソード聞けるなんて感激です!
「俺のマシン」って言えるの凄いですねパワステ無しだからこその逸話、もっと聞きたいです
とうとう昔話がきました!!ありがとうございます♪むちゃくちゃ楽しみにしてます。
生意気で神経質、けれども勝つ執念はレース後気絶して全身が包帯まみれになるほどボロボロになるまで全てを出しきって戦う。新人セナをまるで家族のように友人のように見つめた津川さんならではの懐かしくもユーモア溢れるお話に胸が熱くなりました。他の方も仰っていましたが全世界のセナファンに伝えて欲しいエピソードです
あのセナを「セナ坊」と言える事自体が凄いと思います。
昔読んだ”F1グランプリボーイズ”の続編のような内容で、ワクワクしながら見ました!
懐かしいハナシをありがとうございます。シートの件、イギリスで作ったシートにダメ出しを続けたセナに対して津川さんは「こんな暑いブラジルでいいシートは出来るわけない」って。(発泡フォームが固まりづらいため)こういうセナの実像に興味がある方は津川さんの著書である、「F1グランプリボーイズ」全4巻をオススメします。30年以上前、津川さんはベネトンで現役メカニック。その傍らに現場のハナシ、ドライバーの実像、昔のエピソードを伝えてくれた。フジTVには決して出来ない、「冠スポンサー・ホンダのエース・セナ」の実像も書かれている。
セナの6位入賞時のエピソードは、彼のレースでの集中力が体力の消耗に勝ってしまっていた、という、津川さんでなくては語れない、人間離れした驚くべき内容でした。今回も貴重なお話をありがとうございました。
F1中継で津川さんが、セナをエアトン、ベルガーをバーガーって呼んでたの思い出した
トールマン時代のセナ F1 1年目で 南アの6位の他にもイギリス、有名な雨のモナコ、最終のポルトガルと3回も表彰台に立ってたので、F3時代から派手に活躍してたとはいえスゲーなぁという印象でしたが体力がそこまでなかったとは意外でした。ワーウィック 古舘さんが昔、F1界の二谷英明だの俺と同い年なのに妙に貫禄があるだのおっしゃってたのが記憶にあります。中嶋悟さんともブランズハッチのF3,日本のF2のJAF GP、F1でもアロウズ時代と何かとご縁のあった方でした。セナがロータス時代ワーウィックがチームメイトになることを受け入れていたら中嶋さんのロータスデビューはどうなってたのかジャコメリ F2時代マーチワークスのエースドライバーでヨーロッパチャンピオンになった年、日本のF2最終戦に乗り込んできてジャコメリ旋風だの言われていたのを思い出しました。確かその頃のF2、 星野さんや中嶋さんのトップクラスでもシケインのない当時の鈴鹿一周2分切るのがやっとな時にジャコメリが1分50秒台前半のタイムをいきなり出したものだから日本人ドライバーもエキサイトしてスピン連発だった記憶が 先のワーウィックもこのレースが初のF2で中嶋さんとバトルだったでも最終的に勝ったのはジャコメリ、星野、中嶋、ワーウィックでもなく高橋国光さん、パトレーゼも3位と今思うと豪華メンバーだった。
中学生の頃ベストカーの連載楽しみにしてました。今もこうして当時の話が聞けるなんて青春時代が戻った様な気分です。
セナがデビューした1984年当時の頃を良く覚えていますよ。『AUTOSPORT』が一番の愛読書でしたから😄 記事や写真でそれらしい事を知っていましたが、現場でセナと直接接して居られた津川さんの話を大変面白く聴かせて貰いました。デレック・ウァーウィックとブルーノ・ジャコメリの名前が出てきたので懐かし~いと思わず声を出してしまいました😆
津川さんの体験談非常に分かりやすいです。F2時代に、日本製のアルミラジエターが使用されていたと聞いてます。
デレック・ワーウィック、ブルーノ・ジャコメリ・・・・懐かし過ぎる
ワーウィックがシフトレバーを折ったというエピソードをきいた時はどんな馬鹿力なんだよ!と思いました。ポジションに合わせてシフトレバーを途中でカットして溶接したからだと本人は言ってたらしいけど真相はいかに?。
とても懐かしく、興味深い話題をありがとう御座いました。その当時は、年間3回以上ポイントを獲得したドライバーをグレイテスト・ドライバーと呼んで賞賛されてましたよね!ワーウィックの晩年は、中嶋さんの直近のライバルとして戦う事が多かったのを覚えてます。
デレック・ワーウィック&ブルーノ・ジャッコメリ・・・・懐かしい・・・当時のF-1ドライバーの中でも1・2を争うマッチョでしたよね?そこへ虚弱な(まぁ~彼らから見たらですが・・・)セナ・・・(;^_^A少し可哀そうな気もしますが・・・・当時の津川さんの存在がとても羨ましくメカニックとしても憧れでした。時間が巻き戻るなら私も飛び込んでみたかった世界です。また、メカニックの事もお話しくださいね?楽しみにしてます。
もし今もセナが生きてたら「あの時は俺も若かったんだよ」って対談で笑い話が出来たんだろうなぁ
貴重な話、ありがとうございます!津川さんの話を聴いていたら94年のブラジルGPを思い出しました。当時、地元のインタビューで、体力を頻りに気にしていましたよね。
これまでにもフジの中継でセナとのやり取りはお話してくださる事がありましたがここまでじっくりレース前のシート合わせや初ポイントのレースやレース以外のやり取りをお話頂けるのはこのチャンネルのでおかげです。もし、今後機会があれば優勝未遂の雨のモナコのお話やベネトンになってからのナニーニやピケモレノの日本GPのお話がお聴きしたいです!
セナのF1デビューに津川さんがメカニックで関わっていたなんて凄すぎます‼️😄知らなくてすみませんでした😅
セナはロータスに移籍したあとも、1レース終えたら表彰台でフラフラでしたもんねなぜか覚えてるのは、その当時のインタビューで速さの秘密を聞かれたときに「秘密なんて無いよ、車高をギリギリまで下げてるだけだよ」って言ってたことですこのセナシリーズの話は、できれば英語の字幕を付けて世界中で観てもらいたいですねそれだけ貴重な話だと思います
表彰台で立ってられなくて座ってた事あったよね😃でもTOP3に入れるんだから凄いよね👍
貴重なお話、ありがとうございます。
当時読んでたAUTO SPORTSでは「エイトン・セナ・ダ・シルバ」って書いてました。ブーツェンはブートセン、ピケはピケットでしたね。シューマッハに至ってはAUTO SPORTSに限らずシュマッハーとかシューミャッヒャとか好き勝手に書かれてました。何か、記憶が一気に中学生時代まで引き戻されました、ありがとうございます。
F3時代はA・S・ダ・シルバと表記されていましたね。マーチン・ブランドルがライバルでした
ミハエルはマイケルでしたね。
この配信から一年近く経ってから観ています。もう今から40年近く前のお話になるんですね。そうそう、セナがマスコミに登場したのはF3に乗っていた頃ですよね?津川さんがおっしゃるように「アイルトン・センナ・ダ・シルヴァ」って呼ばれていましたね。ライヴァルでいつも後塵を拝していたのが、かのマーティン・ブランドルでした。
これからも、いろんな昔話しを聞かせて下さい。よろしくお願いします。
動画の途中でコメントしてるけど…貴重な話すぎてゾクゾクしてくる。津川さん、ありがとうございます!
あぁこんな貴重な話聞けて幸せ。
津川さんはセナやベルガーを真近で接しておられるのがすごくうらやましい
凄いタイヤ使ってたんですね知らなかった いろんな部分で規制が緩かった時代は面白い話がいっぱいありますねこれからも宜しくお願いします
91年のブラジルも疲労困憊のゴールでトロフィーを持ち上げるのも精一杯な状態でしたね。セナの走りは本当に命を削りながら走ってる感じだった。
92年モナコGPの表彰式でマンセルの疲労困憊も印象的
津川さんがメカニックを退かれて、TV中継の解説をなさっていた頃もセナのことを「エアトン」って呼ばれてましたよね。ベルガーもバーガーだったり。懐かしい。
91年のベネトン時代のネルソンピケの思い出もよろしくお願いします。
津川さんは、F1駆け出しの頃のセナを知る、貴重な存在ですね。セナは日本のマスコミによって完全無欠なスーパースターにされてしまいましたが、鬼気迫る速さをもつ一方で、唯一といっていいウィークポイントが体力的な面だったのかも。私もセナファンであった者の1人ですが…
セナの話はもちろん興味深く聞いたのですが、それよりも、当時のF1の雰囲気を感じました。今から見ればのどかで、車好きのメカニックと、速さを求めるドライバーがいて、、、いつから、F1は楽しくなくなってしまったのかなぁ
ブルーノ・ジャコメリの名前が出て、おぉ~~!!ってなりました。さすが現場にいた人の話は面白い!!!
懐かしいですね。セナが最初にトールマンのテストした時に「この車、パワー無いね」と言ったのを覚えております。F3乗ってる小僧がハート415Tのパワーが無いだと?生意気なヤツだと思いました。その時のセナと対峙して来た津川さんが後のワールドチャンプの育成に貢献したと今でも思ってます。同い年の津川さんはボクの憧れでしたから。
ロータスに移ったセナがトップにいて突然オイル計はフィニッシュするのに十分だったにも関わらず、突然ペースを落としたセナに津川さんがどうしてそんなことをしたのかと聞いた際、オイル計の故障を疑っていたと答えたセナに感心したという記事を読んだ記憶があります。
津川さん!昔のエピソードありがとうございます😊
93年オーストラリアGP後のインタビューでセナが訛りのキツいインタビュアーに「僕の名前はエイルトンじゃなくアイルトンだから」って笑いながら言ってたの思い出した
生ける伝説テツジイ リスペクト!!
本書けますね❗💯
津川さんってお辞めになったの90年でしたっけ? あのピケが勝ってモレノが泣いた年でしたよね。…そう、あの頃は「1ポイントの重み」が今とは比較になりませんでしたよね。ただ、今よりトラブルやガス欠で止まる車も多くて完走率も低かったから、今以上に「その時そこにいる」が重要でした。ちなみに優勝9pt.2位6pt.、その後ろ4・3・2・1pt.でした。おまけに「11戦の有効ポイント制」でしたから、これが無ければ88年のセナはチャンピオンになれていなかったんですよね。
熱い語りを聞いてたらトールマンTG184のキットを作りたくなってしまい、作り始めました。4気筒ターボはシンプルで作りやすいです。
セナの事は1983年のF3時代から応援していました。多分、日本人最初のセナファンじゃないでしょうか?当時はCGで遅れてF3の結果が知らされるくらいしか情報がありませんでした。(海外版のオートスポーツなんて自分には手に入りませんでした。)当時F3のポイントでトップにいたセナが、ウィリアムズからテストのチャンスをもらってそのテストで最終ラップの最後の裏ストレートで車が故障してセナのタイムが分からずウィリアムズのシートはセナには与えられませんでした。その最後の最速ラップを裏のストレートで見ていたF1の関係者は、セナの走りが物凄かったにも関わらずウィリアムズにセナが行くことを嫌ってそのことを内緒にしていたらしい。セナは、もう一周走らせてくれと要求したそうですが、当時の常識では新人がそういう要求をするなんてあり得なかったようですね。懐かしいです。
ウィリアムズのパトリックヘッドがセナと握手した際、セナの手が汗をかいていたので、セナの手はレーシングドライバーのそれではないとかも言っていました。まだ恐れ知らずの蛮勇がレーシングドライバーには、必要と信じられていた時代だったのですね。ただ単にセナの手には汗腺が多かっただけの話!
いやー、デビュー当時のセナのお話し最高ですね。最終戦まで聞きたいですね👍️
日本のカートレースに『高校生のダ・シルバ君』って表記でセナが出てた アグリと利男も出てた
津川さん、いつも楽しく見てます。トールマンTG183って確か、フロントウイングにラジエーターが格納されてましたよね❓
はたからでも色々注文つけてくるイヤな奴には見えますが、津川さんのリアルすぎる話にセナがそこにいるように感じました。そうでした、当時は6位までのポイントで台数も多かった。
セナ❗️もう27年なんですね、
津川さんがF1の世界に飛び込んで行ったエピソードを聞かせてください。
B.ジヤコメリとか懐かしいですww
ダ・シルバとは懐かしい、イギリスF3時代のオートスポーツの記載は「ダ・シルバ」だったな。
津川さんカッコイイ!!
デューイのジィさんも言ってましたね。ウィリアムズのテストの時もヘロヘロだったって言ってましたね。
日本では音速の貴公子とか馬鹿げた名で呼ばれ聖人のようにセナは語られていていつも馬鹿馬鹿しいと思っていました。Christopher Hiltonのいくつかの英語版の本を読んで欲しいです。セナの素晴らしい部分も嫌な部分も語られていてそれでも感動してしまいます。津川さんのようにセナの嫌な部分も語っていただけるともっと人間としてのセナが伝わると思います。
リオデジャネイロのサーキットはもうないんですね。最終コーナーのものすごいバンクとインフィールドに入っていくS字コーナーが美しかった。
オリンピックの会場になってしまいました。(´・ω・`)
津川さんの話は、他の誰にも語れんなぁ〜
やはりセナはアイルトンよりエアトンの方がしっくりきます。津川さんF1中継の解説にもっともっとTVに出てください。現場の実際を知らないジャーナリストが解説するスポーツなんてあり得ないです。津川さんの生々しい解説を聞かせてほしいです。
いつか、サーティース時代のお話も聞きたいですね。履歴書が、筆記体じゃなくきれいな楷書?だったので採用したなんて、サーティースが語ってた記事も読んだ事があるので。
サーティスとエンサイン時代の話は面白い‼🤣
トールマンの前身F2時代にラジエターが日本製のアルミラジエターを採用されました。
津川さんが、もう少しベネトンにいてくれたらシューマッハが加入してきた所でのセナとの比較話が聞けたのかと思うとやや残念🫤浜島さんがシューとアロンソ、ベッテルとの比較話を聞かせてくれてる事を考えると津川さんからセナ・シューの話が聞いてみたかった。
髪の毛かと思っていたが違った左側のテレビの上アンテナかな?
津川さん、昔週刊プレイボーイ?ですか「グランプリ日記」連載していたの見ていたいましたエヤトンくんバーガーくん覚えてます。私もじじーです。
デビュー第2戦目で6位に入り、レース後へばって気絶状態ということですが、セナが超人的走りをして競争力の無い車を6位まで持って行き、そのため体力を消耗して気絶してしまったとは考えられませんか?
セナとの会話やり取りは、英語でされていたのしょうか?それともポルトガル語で?
今回の津川さんのセナとのエピソードを伺って、その昔セナとジャッキースチュワートの対談を思い出しました。ジャッキー:「過去のチャンピオンやグランプリの中で君がこの3~4年、他のマシンと接触した回数は多過ぎると思うけど…」セナ:「貴方の様な経験豊富なレーサーがそんな事を言うとは驚きだね。レーサーであれば、その様なリスクを負っていることは承知してるはずだ。」 「相手の隙をついて仕掛けなくては、レーサーの資格はない。3位とか4位を狙うんじゃなくて、皆優勝を狙ってるんだ。」(途中省略)賛否あると思うけど、私はセナを支持する。
セナが出てきたころにはもう死亡事故がなかったからね。死んでいく仲間たちを見て何を思うか、じゃないかな。あの頃の車はスピードに対して脆すぎた。
F3から上がっていきなりドッカンターボのトールマンハートでポイント取れたんだからさぞかしフィジカル高かったと思いきや。ロングディスタンス走ったらスーツビショビショになるくらい汗かいてシートに塩縞出来るくらいハードな車だったんだね
津川さんがいたからこそ、AyrtonがすんなりHONDAにアプローチできたんだと、僕は思います。それまで日本メーカーを勘ぐるのが当たり前の集団ですから。
我はセナのチームメイトだったジョニー・チェコット氏と2輪GP繋がりで仲良しだにゃ!
今でこそそんなに悪評の立たないピレリタイヤですけど、トールマンに供給されてたタイヤがそんなに精度の低い代物だったとは驚きました。
精度が低いんじゃなくて意図的にキャンバーを付けてたんじゃないのかな?タイヤ自体にキャンバーがついてたらサスペンションジオメトリにあまり影響を受けないキャンバー角が作れるから。
92年のホッケンハイムのパドックで津川さんとお話しさせていただきました。すぐ横にシューマッハがいて津川さんは「シューマッハいるよ」と教えてくださいましたが、私は「津川さんのファンなので」とそのまま。津川さんは知り合いのメカニックらしき方に「見ろ。俺は日本ではシューマッハより人気があるんだ」と笑ってらっしゃいました。実はその後にマクラーレンのモーターホームに招かれ、そこでセナに挨拶し、モニターで自身の走りを確認するセナを見ていました。すべて手違いがきっかけでのラッキーだったのですがもうすぐ最期を迎える人生最高の思い出です。ありがとうございました。
セナの現役時代からのファンですが、没後25年以上経った今こんなエピソード聞けるなんて感激です!
「俺のマシン」って言えるの凄いですね
パワステ無しだからこその逸話、もっと聞きたいです
とうとう昔話がきました!!
ありがとうございます♪
むちゃくちゃ楽しみにしてます。
生意気で神経質、けれども勝つ執念はレース後気絶して全身が包帯まみれになるほどボロボロになるまで全てを出しきって戦う。新人セナをまるで家族のように友人のように見つめた津川さんならではの懐かしくもユーモア溢れるお話に胸が熱くなりました。
他の方も仰っていましたが全世界のセナファンに伝えて欲しいエピソードです
あのセナを「セナ坊」と言える事自体が凄いと思います。
昔読んだ”F1グランプリボーイズ”の続編のような内容で、ワクワクしながら見ました!
懐かしいハナシをありがとうございます。
シートの件、イギリスで作ったシートにダメ出しを続けたセナに対して津川さんは
「こんな暑いブラジルでいいシートは出来るわけない」って。
(発泡フォームが固まりづらいため)
こういうセナの実像に興味がある方は津川さんの著書である、
「F1グランプリボーイズ」全4巻をオススメします。
30年以上前、津川さんはベネトンで現役メカニック。
その傍らに現場のハナシ、ドライバーの実像、昔のエピソードを伝えてくれた。
フジTVには決して出来ない、「冠スポンサー・ホンダのエース・セナ」の実像も書かれている。
セナの6位入賞時のエピソードは、彼のレースでの集中力が体力の消耗に勝ってしまっていた、という、津川さんでなくては語れない、人間離れした驚くべき内容でした。今回も貴重なお話をありがとうございました。
F1中継で津川さんが、セナをエアトン、ベルガーをバーガーって呼んでたの思い出した
トールマン時代のセナ F1 1年目で 南アの6位の他にもイギリス、有名な雨のモナコ、最終のポルトガルと3回も表彰台に立ってたので、F3時代から派手に活躍してたとはいえスゲーなぁという印象でしたが体力がそこまでなかったとは意外でした。
ワーウィック 古舘さんが昔、F1界の二谷英明だの俺と同い年なのに妙に貫禄があるだのおっしゃってたのが記憶にあります。中嶋悟さんともブランズハッチのF3,日本のF2のJAF GP、F1でもアロウズ時代と何かとご縁のあった方でした。セナがロータス時代ワーウィックがチームメイトになることを受け入れていたら中嶋さんのロータスデビューはどうなってたのか
ジャコメリ F2時代マーチワークスのエースドライバーでヨーロッパチャンピオンになった年、日本のF2最終戦に乗り込んできてジャコメリ旋風だの言われていたのを思い出しました。確かその頃のF2、 星野さんや中嶋さんのトップクラスでもシケインのない当時の鈴鹿一周2分切るのがやっとな時にジャコメリが1分50秒台前半のタイムをいきなり出したものだから日本人ドライバーもエキサイトしてスピン連発だった記憶が 先のワーウィックもこのレースが初のF2で中嶋さんとバトルだったでも最終的に勝ったのはジャコメリ、星野、中嶋、ワーウィックでもなく高橋国光さん、パトレーゼも3位と今思うと豪華メンバーだった。
中学生の頃ベストカーの連載楽しみにしてました。
今もこうして当時の話が聞けるなんて青春時代が戻った様な気分です。
セナがデビューした1984年当時の頃を良く覚えていますよ。『AUTOSPORT』が一番の愛読書でしたから😄 記事や写真でそれらしい事を知っていましたが、現場でセナと直接接して居られた津川さんの話を大変面白く聴かせて貰いました。デレック・ウァーウィックとブルーノ・ジャコメリの名前が出てきたので懐かし~いと思わず声を出してしまいました😆
津川さんの体験談非常に分かりやすいです。F2時代に、日本製のアルミラジエターが使用されていたと聞いてます。
デレック・ワーウィック、ブルーノ・ジャコメリ・・・・懐かし過ぎる
ワーウィックがシフトレバーを折ったというエピソードをきいた時はどんな馬鹿力なんだよ!と思いました。ポジションに合わせてシフトレバーを途中でカットして溶接したからだと本人は言ってたらしいけど真相はいかに?。
とても懐かしく、興味深い話題をありがとう御座いました。
その当時は、年間3回以上ポイントを獲得したドライバーをグレイテスト・ドライバーと呼んで賞賛されてましたよね!
ワーウィックの晩年は、中嶋さんの直近のライバルとして戦う事が多かったのを覚えてます。
デレック・ワーウィック&ブルーノ・ジャッコメリ・・・・懐かしい・・・
当時のF-1ドライバーの中でも1・2を争うマッチョでしたよね?
そこへ虚弱な(まぁ~彼らから見たらですが・・・)セナ・・・(;^_^A
少し可哀そうな気もしますが・・・・
当時の津川さんの存在がとても羨ましく
メカニックとしても憧れでした。
時間が巻き戻るなら私も飛び込んでみたかった世界です。
また、メカニックの事もお話しくださいね?
楽しみにしてます。
もし今もセナが生きてたら
「あの時は俺も若かったんだよ」
って対談で笑い話が出来たんだろうなぁ
貴重な話、ありがとうございます!
津川さんの話を聴いていたら94年のブラジルGPを思い出しました。
当時、地元のインタビューで、体力を頻りに気にしていましたよね。
これまでにもフジの中継で
セナとのやり取りはお話してくださる事がありましたが
ここまでじっくりレース前のシート合わせや
初ポイントのレースやレース以外のやり取りを
お話頂けるのはこのチャンネルのでおかげです。
もし、今後機会があれば
優勝未遂の雨のモナコのお話や
ベネトンになってからのナニーニやピケモレノの日本GPのお話がお聴きしたいです!
セナのF1デビューに津川さんがメカニックで関わっていたなんて凄すぎます‼️😄
知らなくてすみませんでした😅
セナはロータスに移籍したあとも、1レース終えたら表彰台でフラフラでしたもんね
なぜか覚えてるのは、その当時のインタビューで速さの秘密を聞かれたときに
「秘密なんて無いよ、車高をギリギリまで下げてるだけだよ」って言ってたことです
このセナシリーズの話は、できれば英語の字幕を付けて世界中で観てもらいたいですね
それだけ貴重な話だと思います
表彰台で立ってられなくて
座ってた事あったよね😃
でもTOP3に入れるんだから
凄いよね👍
貴重なお話、ありがとうございます。
当時読んでたAUTO SPORTSでは「エイトン・セナ・ダ・シルバ」って書いてました。ブーツェンはブートセン、ピケはピケットでしたね。シューマッハに至ってはAUTO SPORTSに限らずシュマッハーとかシューミャッヒャとか好き勝手に書かれてました。
何か、記憶が一気に中学生時代まで引き戻されました、ありがとうございます。
F3時代はA・S・ダ・シルバと表記されていましたね。マーチン・ブランドルがライバルでした
ミハエルはマイケルでしたね。
この配信から一年近く経ってから観ています。もう今から40年近く前のお話になるんですね。そうそう、セナがマスコミに登場したのはF3に乗っていた頃ですよね?津川さんがおっしゃるように「アイルトン・センナ・ダ・シルヴァ」って呼ばれていましたね。ライヴァルでいつも後塵を拝していたのが、かのマーティン・ブランドルでした。
これからも、いろんな昔話しを聞かせて下さい。よろしくお願いします。
動画の途中でコメントしてるけど…貴重な話すぎてゾクゾクしてくる。
津川さん、ありがとうございます!
あぁこんな貴重な話聞けて幸せ。
津川さんはセナやベルガーを真近で接しておられるのがすごくうらやましい
凄いタイヤ使ってたんですね
知らなかった いろんな部分で規制が緩かった時代は
面白い話がいっぱいありますね
これからも宜しくお願いします
91年のブラジルも疲労困憊のゴールでトロフィーを持ち上げるのも精一杯な状態でしたね。セナの走りは本当に命を削りながら走ってる感じだった。
92年モナコGPの表彰式でマンセルの疲労困憊も印象的
津川さんがメカニックを退かれて、TV中継の解説をなさっていた頃も
セナのことを「エアトン」って呼ばれてましたよね。ベルガーもバーガーだったり。懐かしい。
91年のベネトン時代のネルソンピケの
思い出もよろしくお願いします。
津川さんは、F1駆け出しの頃のセナを知る、貴重な存在ですね。セナは日本のマスコミによって完全無欠なスーパースターにされてしまいましたが、鬼気迫る速さをもつ一方で、唯一といっていいウィークポイントが体力的な面だったのかも。私もセナファンであった者の1人ですが…
セナの話はもちろん興味深く聞いたのですが、それよりも、当時のF1の雰囲気を感じました。
今から見ればのどかで、車好きのメカニックと、速さを求めるドライバーがいて、、、
いつから、F1は楽しくなくなってしまったのかなぁ
ブルーノ・ジャコメリの名前が出て、おぉ~~!!ってなりました。さすが現場にいた人の話は面白い!!!
懐かしいですね。セナが最初にトールマンのテストした時に「この車、パワー無いね」と言ったのを覚えております。F3乗ってる小僧がハート415Tのパワーが無いだと?生意気なヤツだと思いました。その時のセナと対峙して来た津川さんが後のワールドチャンプの育成に貢献したと今でも思ってます。同い年の津川さんはボクの憧れでしたから。
ロータスに移ったセナがトップにいて突然オイル計はフィニッシュするのに十分だったにも関わらず、突然ペースを落としたセナに津川さんがどうしてそんなことをしたのかと聞いた際、オイル計の故障を疑っていたと答えたセナに感心したという記事を読んだ記憶があります。
津川さん!
昔のエピソードありがとうございます😊
93年オーストラリアGP後のインタビューでセナが訛りのキツいインタビュアーに「僕の名前はエイルトンじゃなくアイルトンだから」って笑いながら言ってたの思い出した
生ける伝説テツジイ リスペクト!!
本書けますね❗💯
津川さんってお辞めになったの90年でしたっけ? あのピケが勝ってモレノが泣いた年でしたよね。
…そう、あの頃は「1ポイントの重み」が今とは比較になりませんでしたよね。ただ、今よりトラブルやガス欠で止まる車も多くて完走率も低かったから、今以上に「その時そこにいる」が重要でした。ちなみに優勝9pt.2位6pt.、その後ろ4・3・2・1pt.でした。おまけに「11戦の有効ポイント制」でしたから、これが無ければ88年のセナはチャンピオンになれていなかったんですよね。
熱い語りを聞いてたらトールマンTG184のキットを作りたくなってしまい、作り始めました。
4気筒ターボはシンプルで作りやすいです。
セナの事は1983年のF3時代から応援していました。多分、日本人最初のセナファンじゃないでしょうか?当時はCGで遅れてF3の結果が知らされるくらいしか情報がありませんでした。(海外版のオートスポーツなんて自分には手に入りませんでした。)当時F3のポイントでトップにいたセナが、ウィリアムズからテストのチャンスをもらってそのテストで最終ラップの最後の裏ストレートで車が故障してセナのタイムが分からずウィリアムズのシートはセナには与えられませんでした。その最後の最速ラップを裏のストレートで見ていたF1の関係者は、セナの走りが物凄かったにも関わらずウィリアムズにセナが行くことを嫌ってそのことを内緒にしていたらしい。セナは、もう一周走らせてくれと要求したそうですが、当時の常識では新人がそういう要求をするなんてあり得なかったようですね。懐かしいです。
ウィリアムズのパトリックヘッドがセナと握手した際、セナの手が汗をかいていたので、セナの手はレーシングドライバーのそれではないとかも言っていました。まだ恐れ知らずの蛮勇がレーシングドライバーには、必要と信じられていた時代だったのですね。ただ単にセナの手には汗腺が多かっただけの話!
いやー、デビュー当時のセナのお話し最高ですね。最終戦まで聞きたいですね👍️
日本のカートレースに『高校生のダ・シルバ君』って表記でセナが出てた アグリと利男も出てた
津川さん、いつも楽しく見てます。トールマンTG183って確か、フロントウイングにラジエーターが格納されてましたよね❓
はたからでも色々注文つけてくるイヤな奴には見えますが、津川さんのリアルすぎる話にセナがそこにいるように感じました。そうでした、当時は6位までのポイントで台数も多かった。
セナ❗️もう27年なんですね、
津川さんがF1の世界に飛び込んで行ったエピソードを聞かせてください。
B.ジヤコメリとか懐かしいですww
ダ・シルバとは懐かしい、イギリスF3時代のオートスポーツの記載は「ダ・シルバ」だったな。
津川さんカッコイイ!!
デューイのジィさんも言ってましたね。ウィリアムズのテストの時もヘロヘロだったって言ってましたね。
日本では音速の貴公子とか馬鹿げた名で呼ばれ聖人のようにセナは語られていていつも馬鹿馬鹿しいと思っていました。Christopher Hiltonのいくつかの英語版の本を読んで欲しいです。セナの素晴らしい部分も嫌な部分も語られていてそれでも感動してしまいます。津川さんのようにセナの嫌な部分も語っていただけるともっと人間としてのセナが伝わると思います。
リオデジャネイロのサーキットはもうないんですね。最終コーナーのものすごいバンクとインフィールドに入っていくS字コーナーが美しかった。
オリンピックの会場になってしまいました。(´・ω・`)
津川さんの話は、他の誰にも語れんなぁ〜
やはりセナはアイルトンよりエアトンの方がしっくりきます。津川さんF1中継の解説にもっともっとTVに出てください。現場の実際を知らないジャーナリストが解説するスポーツなんてあり得ないです。津川さんの生々しい解説を聞かせてほしいです。
いつか、サーティース時代のお話も聞きたいですね。
履歴書が、筆記体じゃなくきれいな楷書?だったので採用したなんて、サーティースが語ってた記事も読んだ事があるので。
サーティスとエンサイン時代の話は面白い‼🤣
トールマンの前身F2時代にラジエターが日本製のアルミラジエターを採用されました。
津川さんが、もう少しベネトンにいてくれたらシューマッハが加入してきた所でのセナとの比較話が聞けたのかと思うとやや残念🫤
浜島さんがシューとアロンソ、ベッテルとの比較話を聞かせてくれてる事を考えると津川さんからセナ・シューの話が聞いてみたかった。
髪の毛かと思っていたが違った
左側のテレビの上アンテナかな?
津川さん、昔週刊プレイボーイ?ですか「グランプリ日記」連載していたの見ていたいましたエヤトンくんバーガーくん覚えてます。私もじじーです。
デビュー第2戦目で6位に入り、レース後へばって気絶状態ということですが、
セナが超人的走りをして競争力の無い車を6位まで持って行き、そのため体力を消耗して気絶してしまったとは考えられませんか?
セナとの会話やり取りは、英語でされていたのしょうか?
それともポルトガル語で?
今回の津川さんのセナとのエピソードを伺って、その昔セナとジャッキースチュワートの対談を思い出しました。
ジャッキー:「過去のチャンピオンやグランプリの中で君がこの3~4年、他のマシンと接触した回数は多過ぎると思うけど…」
セナ:「貴方の様な経験豊富なレーサーがそんな事を言うとは驚きだね。レーサーであれば、その様なリスクを負っていることは承知してるはずだ。」
「相手の隙をついて仕掛けなくては、レーサーの資格はない。3位とか4位を狙うんじゃなくて、皆優勝を狙ってるんだ。」(途中省略)
賛否あると思うけど、私はセナを支持する。
セナが出てきたころにはもう死亡事故がなかったからね。死んでいく仲間たちを見て何を思うか、じゃないかな。あの頃の車はスピードに対して脆すぎた。
F3から上がっていきなりドッカンターボのトールマンハートでポイント取れたんだからさぞかしフィジカル高かったと思いきや。ロングディスタンス走ったらスーツビショビショになるくらい汗かいてシートに塩縞出来るくらいハードな車だったんだね
津川さんがいたからこそ、AyrtonがすんなりHONDAにアプローチできたんだと、僕は思います。
それまで日本メーカーを勘ぐるのが当たり前の集団ですから。
我はセナのチームメイトだったジョニー・チェコット氏と2輪GP繋がりで仲良しだにゃ!
今でこそそんなに悪評の立たないピレリタイヤですけど、トールマンに供給されてたタイヤがそんなに精度の低い代物だったとは驚きました。
精度が低いんじゃなくて意図的にキャンバーを付けてたんじゃないのかな?
タイヤ自体にキャンバーがついてたらサスペンションジオメトリにあまり影響を受けないキャンバー角が作れるから。