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演義と正史の区別を知ってから「諸葛亮って大したことないじゃん」って思うようになったけど、更にこういう話を聞くと「諸葛亮頭おかしい」ってなるな。
演義とは別ベクトルで凄すぎるやつ
1000年以上続く「諸葛亮TUEEEEE→大したことないじゃん→…頭おかしくね?」の様式美
「そうしん」なのに太目なのか、確かに驚愕の事実やな。
山田君、三茶さんに座布団一枚。
あともう一つは蜀兵は山岳狩猟部族出身達が多かった事も見逃せない要素の一つと云えるでしょうね。
一軍の兵士が隅から隅までグルカ兵みたいなのしかいないなんて魏国からしたら恐怖でしかありませんね
ホームレスは冬の夜は寒くて寝られないので多少暖かい日中寝て、夜間は空き缶集めやゴミ箱あさりをやってますね。しかしそれは街中で照明あってのもので、冬山でそんな事をしたら八甲田山…。
古代ローマが街道を作った目的も,曹真と同じく機動防御。前線基地の狼煙によって外敵侵入の連絡を受けてから正規軍を派遣する。動員継続のコストを最小限に抑え,一種のゲリラ戦に対処するにはコレが一番合理的なんだろうね。
寒さは体験しないと理解されないですね冬山登山して寒すぎて矛盾脱衣して死にかけたことあるからわかります寒すぎると寝れないですしおかしくなりますね
十分に納得の考察でしたいつも楽しみにしています
蜀軍は他国に比べて兵卒への甲冑普及率が高かく、戦闘死亡率が極端に低いって聞いたことあるなぁこれに、ほぼ常備軍を維持できる兵站を確保できる内政力。常備軍で戦い続けれるなら兵卒の練度も上がる。民衆の命を守る大切さを乱世の中でも見失わなかった諸葛亮のメンタルは聖人の域だと思ってる
甲冑って、一式揃えるには家一軒くらいの費用はかかると聞くし(日本の戦国時代で)、多少簡素化(低コスト化)しても万単位の兵卒に行き渡らせるって予算も手間もすさまじい。それだけ大事にしてくれれば兵士の士気も上がる。さらに常備軍化してベテラン兵がの割合が高いとなれば強いだけでなく軍が崩壊しにくい。戦う相手(の雑兵)からすれば悪夢みたいな連中やな。あの状況下でこれをできた諸葛亮…すげぇ
@@heliodor555 諸葛亮は撤退戦無敗の男ですからね。その上、本軍の撤退戦で敵の大将首を取る化け物です。
孫子だと攻撃側有利、戦争論だと防御側有利って原則になってるのは、時代の変化とともに行軍や動員が変わったからなんだろうな。
火力の発達に伴い、塹壕などでの防御が攻撃側よりも圧倒的に有利になった為だと思います
クラウゼヴィッツ読んだの大分前だから記憶フワフワですけど、防御側の有利は認めているものの、あまり良くは書いてなかった気がします。あと孫子は方法論としてなら「攻撃するなら敵の弱いところを」とかはありますけど、九地と九天で並べて書いてるあたり、スタンスとして攻守に優劣はつけてないように思います。むしろ「備え不十分では攻めるな」みたいな話がなかったでしたっけ?記憶をキープできない歳になってきたので別の本の記述かもですけど。
んで戦車無線航空機の登場でまた攻撃側有利になると
クラウゼヴィッツが「防御は攻撃よりも強力な戦争形式である」としているのと同じように(純粋原則として条件が同等の思考実験においては)孫子も『防御』のほうが『攻撃』より有利であると説いています(※これは軍事思想というより当たり前のことを言葉で確認しているだけのようにも思いますが)これは原則論でありそこから各論を展開させていき 「では(基本不利であるはずの)攻撃をする時にどうすればよいのか?」という思考の結論のひとつが今回動画で触れられている『敵に防御地点を絞らせないようにして兵力を分散させろ(※動画中にあるよう孫子の『虚実編』に詳しく書いてあります)』ということでありそのために使える手段として『攻撃側の(手持ちの)有利』が『攻撃地点選択の自由』である、という話なのかと 孫子は何もない通常戦闘で攻撃に移る際の敵との戦力比を『5(攻撃):1(守備)』以上を理想としており攻撃側が倍程度、つまり『2(攻撃):1(守備)』程度の場合には上記のように「敵を分散」させ『2(攻撃):0.5(守備)以下』のような形にすることを主張します(孫子『謀攻編』)逆に言えば孫子が「『攻撃』に移るには(理想は)この程度の戦力差が欲しい」と指摘する程度には『守備』というのはコストパフォーマンスの良い形態であると言えるわけです
@@kaji1493 非対称戦も生まれたからどうなんだろう?
本当に蜀って言う国は戦争への耐性と兵士の質が良過ぎる…
蜀軍は定期的に兵士を帰したり(今でいうと有給・年休にあたるのかな)していたし、魏での事だが屯田を蜀でも一部採用して食料の目減りを押さえていたのでは?
五丈原(234)のときは、渭水を挟んで魏・蜀双方が屯田をしていたという記述がありますが、陳倉(228冬?229春?二十日間の短期戦)ではそのような記述はないです。『孫子』に「敵城兵の十倍の兵力なら包囲し、五倍なら攻めよ」とありますが、諸葛亮は素直に従ったのだと思います。ただ孫子は「城攻めの準備には時間がかかる」(大意)とも言っており、拙攻を戒めています。諸葛亮としては「そんな悠長なこと言ってられないですよ!」であったでしょうが…
7:17縮小した画像を引き延ばすことで解像度が落ちているのが実際の動員の無理くり感を表していてよい
お疲れ様です。毎回楽しみに待ってます。
よく諸葛亮は内政の人で演技のような軍師ではなく軍事面は平凡で過剰評価って聞くけど、蜀の兵站や兵の動員とか今見ても謎なくらいチートやったんやね
待ってたー、うぽつ個人的に②はありそうと思うんですよね、この時の曹真に対する指令って街亭の馬謖と似てませんか、馬謖程の人物でも初動の狂いからあんな目茶苦茶をやらかした訳ですからね本当に王平さん凄かったんやな、あの小規模の数で無事に帰還したってだけでも凄いと思う最悪、投稿か死亡の危機もあったろうに
むしろ1000人もいれば余裕で守れる程度の人数しか来てなかったという話の可能性もあります話を盛りまくるからなこの手の戦史は
秦嶺山脈の気候調べて見たけど南北で随分と気候が違う様子蜀の南側は冬でも比較的暖かく湖や川が凍るのも稀で、魏の北側は非常に寒いらしい。
調査ありがとうございます。気になってました。
と言うことは山脈の途中に前線拠点のようなものを築いて食糧の生産して蓄えておく事は不可能ではないと
ボーイスカウトで良くキャンプをしたが、夏と冬とでは難度が大違いでした。機動防御と言う予想が当たりましたが、これは主の動画の教育効果の賜物でしょう。
この動画見ていると諸葛亮が武廟十哲に選出された理由がよく分かります。
話を聞けば聞くほど蜀軍の行軍能力が凄まじい…蜀軍は普段どんな訓練をしているのだろうか?
八甲田山やインパール、それにバターンやマレー突進作戦並みの行軍をひたすらに続けているのではないでしょうか?
運搬用一輪車的な発明をしていたから、悪路運搬能力は高かった。
いくら士気が高いからって不平不満の一つや二つは出てもおかしくない状況なのに、全くないのか…孔明が上手く統治したというのもあるんだろうけど、同時に孔明が不満の声の隠蔽や弾圧を徹底した可能性も考えてしまう。
人質とかでも限度がありますからねえ家族いない兵士もいるでしょうし余程目的が明確で意識統一されて全員が納得してないと難しい気がします
蜀軍の異常な動員の凄さは圧巻ですが、これだけ異常なことをしていたらそりゃ国力も落ちるよなという。諸葛亮没後に彼の後継者たちは内政に力を注ぎますが極めて妥当な判断ですね。
蜀の民度おかしいだろ こんなの誰も予想できないよ
よお!待ってました!
三国志の解説動画あぷありがたやー
「東京〜名古屋間の、いつ・どこから敵が来るか分かりません。防衛して下さい。なおスマホなどはありません」改めて凄さが分かる
蜀軍が「いつ」「どこに」来るか分からないが、国力から「どのくらい」かは推測できるから、一拠点あたりの防衛兵力は1000人で十分だったという事かな。いつどこに来られても拠点部隊と機動防御部隊で迎撃できる。
秦嶺山脈がどれだけ降雪が多いか分からないので、八甲田山遭難事件と比較するのは難しいかもしれないですね。もしかすると中国大陸の内陸部で雪があまり降らず、低体温症になる危険性が低い?
諸葛亮は催眠術使えたって言われた方がまだ納得できる
初コメです。いつも楽しませて頂いております!
張郃が呉方面に曹真の兵を割いて行っていて、兵が足りなかったってのは十分あり得る話だけど陳倉って200m四方くらいの小城だから、1000名って必要十分な兵数だったんじゃないかな?
ああそうか、横綱はここで巨大将軍になってしまったが故に子午の役で「蜀の桟道を通れず無事死亡」となるわけですかw
皆さん、拙速してますか!実に良いよね、この言葉。扱うテーマを全てコレに集約できる。
これは、的違いな仮説ですが、蜀の兵力維持は、日本の戦国時代の武田信玄の政策に見られた、農民(または、製造業)だけやる者には戦争に行かなくていいけど税金重め、半農半士は、忙しいけど税金軽め、常に兵役を行う者は足軽身分でも税金納めなくていいし、給料がもらえる、ってのを小学生のときに本で読んだ事あるので、蜀がそれを行っていたかもしれないかもと…恐らく間違っていると思いますが、自分的に妄想でシックリきました。
確かにシックリきますね!信賞必罰を基礎とした飴とムチの使い手の諸葛亮ならやってそうです。というか、名将と伝わる方々の策として、いつの時代でも大なり小なり使われてそうですね!ありがとうございます。勉強になりました。
こうしてみると、一般に有利とされる魏側も結構ギリギリの戦いを続けてたんだな・・・そして最後のやりとりをみるに次回、あの人が来るのかな?
最後のやりとりが、メタルギア3チックで好きです。
これもう蜀は 劉備真理教 だったんじゃないかと
北伐するぞ!北伐するぞ!北伐するぞ!
確かに「曹真が陳倉に蜀軍を誘い込んだ」という可能性は有り得る話だし、正史の曹真はかなり有能な総司令官だったもんなその割には援軍に来るまでが結構時間があったのが気になるところだが…別働隊を警戒したんだろうか?あとレティの判定って実は幽々子や妖夢より横に狭いらしいッスね今更の話だけど(
冬に野宿するなら昼寝て夜動かないと死んじゃいますよそれ以前に昼野宿してたら警察に指導されそうてすね
「王双が斬られた 王双が斬られた うーん」
「おう、そうか」
正邪さん!正邪さん!しっかりしてください!!
うぽつです旧日本軍が特攻隊という過酷な作戦を実行できたのも高い内政能力が理由なのでしょうかそれとも近代戦争では孫氏とは別の理論で兵隊に無理させることが可能なのでしょうか
空の軌跡のBGMすこ
ちょいちょい入る曹真デブ煽りで毎回笑う
兵を配備するにもコストがかかったのがあるから柔よく剛を制すように防衛の計画していた可能性があるかもしれません。
曹真からしたら、軍の動員体制を何年も維持できて、秦嶺山脈も数万の軍で突破してくる孔明と蜀軍相手の防戦など、たまったものではなかったでしょう。陳倉の戦いが片付いたあと、陳羣の大反対を押し切って蜀討伐を実行したのは、孔明相手の防戦で苦汁を舐めさせられたからでしょう。
蜀はモンゴル軍よりイカれてる機動力があるとしかローマ軍より激しい工事しててもこうはいかんだろ
蜀兵謎すぎる革命期のフランス兵かよ
漢中に駐屯してる兵の話で2年間の間、何回かに分けて少人数を帰省させてたんじゃないかな?
ロウセイ地方は旧日本軍の満州のようなもので、他の肥沃な場所を奪わないと蜀は内部崩壊するかもなのかなと思いました
とても楽しみだったので日常から完全に消えてただから上がっていてびっくりした
孔明としては陳倉の兵力見て勝ちを確信したんだろうけど現実は非情だった・・・
国土面積が日本と違い過ぎて東京〜名古屋間を防衛ライン…こりゃキツい。
まじか
第一次で孔明がキ山・街亭を足止めして陳倉ルートの整備をしてた。石亭の結果を知った上で勝負は第二波陳倉電撃攻撃。となると街亭を奪われ涼州の反乱を鎮圧させた登山家は孔明の思惑をどこまで知っていたのか?(個人的な意見)
現代近代であれば職業軍人見たいのがあるけど、この時代は軍人=民衆農民だろうからなぁ…。モラルってほんとに大事なんやなって
追加で言うと、陳倉は1000しか居ないぞーって吹聴してたとしたら、攻め側も釣れる可能性があるか?
この時代に辺境で予備1000人動かせることがすごいわ赤壁とか数値バグってる
蜀軍これもうオカルトの世界やろ・・・
蜀は不思議と内部崩壊しないのが宗教染みていて怖い国街亭後は諸葛亮が官職的にトップでもないのに
本チャンネルあるある、背景のゲームが面白そうで本編の中身が入ってこない
ひとつ思うのは、蜀は金があるのではないかと、もともと劉備に、出資してる金持ちも多そうだし、後漢の金持ちが蜀に、けっこういたのではないかと?職業軍人にすれば何年も戦えるでしょ、
もし当時の蜀にそれなりの経済力があり、のちに信長が日本で行った兵農分離を諸葛亮が行っていたのだとしたら、例年のように北伐を実施できたのが説明できますね。
うーん、僕なりに考えてはみたけど、ちゃんと曹真視点で考えられていなかったな。それと蜀側の異常な動員状況なんて全然気付きもしなかった。浸透襲撃さん流石の目の付け所ですね。それを考えると、蜀の兵卒に至るまでの異常なまとまり方に関して、第一次北伐失敗時に馬謖を切ったのが功を奏したのかな。以前の動画では「泣いて馬謖を切る」の涙の理由を、個人的な感情だけだったのか?と言ってましたけど、国内向けには今に伝わる形で宣伝していたのかも。街亭の責任は馬謖にあって(実際そうなんだろうけど)、諸葛亮は有能な愛弟子を、悲痛な思いで涙を流しながら処断したって。なんか諸葛亮の見通しの甘さがそれで有耶無耶になったのかなって。蜀軍の異常なまとまりって運営側の意向が周知徹底されていた事と、運営側(特に諸葛亮個人)への不満がどこかに逸れていた事が要因なんじゃないかなぁと。馬謖は他人からの評価はやたら良いけど、実態を伴う功績が無いのに、名前の残り方が異常な気がして。邪推ついでに言うと馬謖が若い頃から有能だったとかいう部分が、実は後付けだったって事もあり得なくはないのかな、と。今回動画の背景を見ながら、彼に思いを馳せてみたのでした。
馬謖の処分を喧伝したのは賛成です。ただ馬謖が若いころから~、の部分は反対ですね。さすがに穿ち過ぎではないかと。もし実際は優秀ではないのであればなんで任命したのかという話になりますし、兵士たちへ喧伝したところで直接接した人もいるであろうことを考えるとあっさりばれて逆に不信感を抱かせることになると思いますよ。
@@manekineko0912 仰る通りですね。読み返してみると自分で整合性をぶち壊しているコメントでした。お恥ずかしい。ご指摘ありがとうございます。
この頃の蜀には、劉備に付き従って入蜀した他州出身の兵士がまだ多く残っていたのかもしれませんね。そうした者なら蜀国内に持つ土地も無いか少ないかでしょうし、仮に常時動員状態を維持したとしても、蜀国内からの徴兵は少なく済みます。国内から動員した兵士は交代制で詰めていたのかも。……とでも考えないと、どうにもつじつまが合わない。本当異常ですね、この頃の蜀の動きは(;´∀`)
待ってた
戦国史シリーズやRoNなどで多用してました
孔明も曹真もスゲエエエエ!
蜀の兵は武装と訓練はしっかりと漢中で整えてから進軍してたので行軍速度は速かったのかもしれませんな。それでも蜀の桟道や険しい山を何度も越えて行かないといけない。蜀軍の撤退理由は1回目を除けばほぼ食糧不足で孤立する前に撤退したことになりますし。
聞けば聞くほど蜀っておっそろしい国だったんやなあ…
蜀軍兵士は超人かもしれない重いであろう鎧に食料担いで長距離登山は尋常じゃない
敵の孔明は化け物か!現代アメリカ級の戦闘国家だな。(地球上のどこへでも、72時間以内に海兵隊を必要なだけお届け可能)2年も生産せずに飯食い続ける兵士が、待機状態が続いても士気も維持し続けるて。わけわからん。
蜀軍って準常備軍みたいだなw
一輪車(木牛)を開発して狭い道でも物資の輸送効率化をしたそうな。
なぜ、蜀が20日しか攻城できなかった理由がわかりました。
最後のは司馬懿ですかね?
小学生のころ、タチウオ狙いで友人と初冬の夜釣りに出かけて、一晩中新聞紙にくるまりながら震えていた俺が通りますよ・・・それはさておき、他の方も言及されてますが、陳倉城は堅牢ではあるものの規模は小さく、あまり多くの兵を置けなかったという可能性はあると思います。また、蜀軍がいつどこから攻めてくるか分からなかったとありますが、曹真だって間者を漢中に派遣していたでしょうし漢中から長安方面への各侵攻ルートも監視していたでしょうから、蜀軍の初動の把握は難しいにしても、「気がついたら蜀軍が散関を突破して陳倉を包囲していた」っていう事態は起こりにくい気がしますがいかがでしょうか?
ドラマで曹真がやたら無能に描かれる理由なんだろうけど、かなり有名な武将なので相手がうまくやっただけでしょうね。
横に伸び縮みするレティさん
敵方の平民が協力したのでは?ムタグチのチンギスハーン作戦が上手くいったのでは?(牛でも連れていき、そのまま食べた。)一回目にデポを密かに作っていたのでは?かなり謎ですね。兵たんの件は。
軍あつめると巨大になるという発想、ロードモナークっぽくていいっすな・・・
結果にコミットする曹真
よく八甲田山死のなんとかにならんかったなあ
やっぱり最後は暗室横綱オチwww
動員が続いても厭戦気分がおきない。無茶な命令も聞き入れる。ガタガタの兵站でも平気で戦闘する。・・・どっかで聞いた話やな?
①確かに、装備工夫・士気の高さは重要ですね。※弘前第31連隊と青木第5連隊の違いが凄すぎる点(八甲田)。②うぷ主殿の紹介『補給戦』中公文庫で再販されてたので買いました。(未だ読んでませんすいません。涙)③確かにいきなり攻めてこられも困りますね※満州事変でさえ、開戦時の関東軍は平時編成でしたし。④機動防御・・・→ウォーカー中将。未だ貴方の出番ではありませんよ?結果・・・あれ?・・・なんか土地盗られてる・・・?(策士孔明の声で)・・・奥様はお怒りだったのです。
金床戦術はどんな時代でも有効ってわけやな
根こそぎ動員を2年も維持できる蜀って、ブラック国家どころの騒ぎじゃありませんね。
ササン朝エーラーン(ペルシア)帝国のホスロー2世は20年以上も4方面軍を総動員して(対東ローマ戦争で)、結果メソポタミアの耕作地とシルクロードの商業都市が荒廃し、国家経済を破綻に追い込んでいました。大軍を維持するのには金がかかるし、国内産業は労働力不足に苦しむことになります。最後は王子に暗殺され、帝国は内紛が起こり、気が付いたらイスラーム帝国に滅ばされていたそうです。長期間の総動員は危険ですね。
曹真も不利な戦いしいられるなぁ
機動防御戦術って蜀への対策は常時それをしておかなければならないんじゃないだろうか?そしてそれは「動きを予測していた?」ってわざわざ書くことなのだろうかという疑問。動きを予測していたって書かれると場所か位置をバッチリ当ててるくらいの事をイメージしてしまう。
散関に物資が置いてあったげふんげふん
蜀軍兵士はSEALsだった…?
待ってました!
あれ?第3次北伐の主戦場って武都と陰平の筈じゃ…(加えて孔明の北伐で唯一勝てた戦役でもある)
蜀軍の兵站能力は内政や工夫が上手く行っていた、ってだけで説明が付かないなら正史にも記録にない今現在判明してない何かが当時はあったのかも知れませんな。大昔の話だし。
冬の野宿は沖縄でもキツかったよ
いつはともかく、何処は読んでいたと思いますね。第一次で使った2ルートは心理的に使えない。どっちにしても褒斜道は趙雲が数10㎞桟道を焼いて使えんし、長安寄りのルートは攻めるポイントがない。こうなるとほぼ陳倉一択です。張郃先生のは「囲魏救趙」の策ですな。詳細の説明は次回お願いしますw
後兵站で言うと漢中を抑えていた当時の魏も相当だから、一概に異常とも言えんかもですね。夏侯淵達って多分漢中だけでは兵站維持できなかったと思うけど、それで3年以上漢中を保持していましたからね。まあ一応、祁山側からも送れていたのでしょうが、それでも大変だったと思います。
この時代、冬山越えなんてやったら、どう考えても八甲田山行軍状態になりますよね。あれ、士気とかの次元、超えてまずぜ。なんか、カラクリがありそうですね。
もしかしたら「どこでもドア」を発明していたとか・・・。
@@1win1win1なら曹叡の部屋に繋げば良いのにwww
蜀軍兵はキングダムの犬戎族みたいに家族を人質に取られていたんじゃね?知らんけど。
「魏国は国土が広く、どこからでも攻め込まれる」と以前の解説でもあったけど季節問わず、常時動員で準備期間も無いって、無茶苦茶だな…。蜀の国力で2年間動員を維持し続けるって、それだけで滅亡レベルじゃないの?
これ蜀軍が漫画の敵役だったら、絶対悪いお薬とか使ってますねw
し、蜀は扇からビーム出せるくらい科学が発展してるから、、、
扇ビーム、虎戦車、果ては飛行機まで…
第三次まで解散してないから2年以上・・・
先生ェ…
演義と正史の区別を知ってから「諸葛亮って大したことないじゃん」って思うようになったけど、更にこういう話を聞くと「諸葛亮頭おかしい」ってなるな。
演義とは別ベクトルで凄すぎるやつ
1000年以上続く
「諸葛亮TUEEEEE→大したことないじゃん→…頭おかしくね?」
の様式美
「そうしん」なのに太目なのか、確かに驚愕の事実やな。
山田君、三茶さんに座布団一枚。
あともう一つは蜀兵は山岳狩猟部族出身達が多かった事も見逃せない要素の一つと云えるでしょうね。
一軍の兵士が隅から隅までグルカ兵みたいなのしかいないなんて
魏国からしたら恐怖でしかありませんね
ホームレスは冬の夜は寒くて寝られないので多少暖かい日中寝て、夜間は空き缶集めやゴミ箱あさりをやってますね。しかしそれは街中で照明あってのもので、冬山でそんな事をしたら八甲田山…。
古代ローマが街道を作った目的も,曹真と同じく機動防御。前線基地の狼煙によって外敵侵入の連絡を受けてから正規軍を派遣する。
動員継続のコストを最小限に抑え,一種のゲリラ戦に対処するにはコレが一番合理的なんだろうね。
寒さは体験しないと理解されないですね
冬山登山して寒すぎて矛盾脱衣して死にかけたことあるからわかります
寒すぎると寝れないですしおかしくなりますね
十分に納得の考察でした
いつも楽しみにしています
蜀軍は他国に比べて兵卒への甲冑普及率が高かく、戦闘死亡率が極端に低いって聞いたことあるなぁ
これに、ほぼ常備軍を維持できる兵站を確保できる内政力。
常備軍で戦い続けれるなら兵卒の練度も上がる。
民衆の命を守る大切さを乱世の中でも見失わなかった諸葛亮のメンタルは聖人の域だと思ってる
甲冑って、一式揃えるには家一軒くらいの費用はかかると聞くし(日本の戦国時代で)、多少簡素化(低コスト化)しても万単位の兵卒に行き渡らせるって予算も手間もすさまじい。それだけ大事にしてくれれば兵士の士気も上がる。さらに常備軍化してベテラン兵がの割合が高いとなれば強いだけでなく軍が崩壊しにくい。戦う相手(の雑兵)からすれば悪夢みたいな連中やな。あの状況下でこれをできた諸葛亮…すげぇ
@@heliodor555 諸葛亮は撤退戦無敗の男ですからね。
その上、本軍の撤退戦で敵の大将首を取る化け物です。
孫子だと攻撃側有利、戦争論だと防御側有利って原則になってるのは、時代の変化とともに行軍や動員が変わったからなんだろうな。
火力の発達に伴い、塹壕などでの防御が攻撃側よりも圧倒的に有利になった為だと思います
クラウゼヴィッツ読んだの大分前だから記憶フワフワですけど、防御側の有利は認めているものの、あまり良くは書いてなかった気がします。
あと孫子は方法論としてなら「攻撃するなら敵の弱いところを」とかはありますけど、九地と九天で並べて書いてるあたり、スタンスとして攻守に優劣はつけてないように思います。
むしろ「備え不十分では攻めるな」みたいな話がなかったでしたっけ?記憶をキープできない歳になってきたので別の本の記述かもですけど。
んで戦車無線航空機の登場でまた攻撃側有利になると
クラウゼヴィッツが「防御は攻撃よりも強力な戦争形式である」としているのと同じように
(純粋原則として条件が同等の思考実験においては)孫子も『防御』のほうが『攻撃』より有利であると説いています(※これは軍事思想というより当たり前のことを言葉で確認しているだけのようにも思いますが)
これは原則論でありそこから各論を展開させていき
「では(基本不利であるはずの)攻撃をする時にどうすればよいのか?」
という思考の結論のひとつが今回動画で触れられている『敵に防御地点を絞らせないようにして兵力を分散させろ(※動画中にあるよう孫子の『虚実編』に詳しく書いてあります)』ということであり
そのために使える手段として『攻撃側の(手持ちの)有利』が『攻撃地点選択の自由』である、という話なのかと
孫子は何もない通常戦闘で攻撃に移る際の敵との戦力比を『5(攻撃):1(守備)』以上を理想としており
攻撃側が倍程度、つまり『2(攻撃):1(守備)』程度の場合には上記のように「敵を分散」させ『2(攻撃):0.5(守備)以下』のような形にすることを主張します(孫子『謀攻編』)
逆に言えば孫子が「『攻撃』に移るには(理想は)この程度の戦力差が欲しい」と指摘する程度には『守備』というのはコストパフォーマンスの良い形態であると言えるわけです
@@kaji1493 非対称戦も生まれたからどうなんだろう?
本当に蜀って言う国は戦争への耐性と兵士の質が良過ぎる…
蜀軍は定期的に兵士を帰したり(今でいうと有給・年休にあたるのかな)していたし、魏での事だが屯田を蜀でも一部採用して食料の目減りを押さえていたのでは?
五丈原(234)のときは、渭水を挟んで魏・蜀双方が屯田をしていたという記述がありますが、陳倉(228冬?229春?二十日間の短期戦)ではそのような記述はないです。
『孫子』に「敵城兵の十倍の兵力なら包囲し、五倍なら攻めよ」とありますが、諸葛亮は素直に従ったのだと思います。ただ孫子は「城攻めの準備には時間がかかる」(大意)とも言っており、拙攻を戒めています。
諸葛亮としては「そんな悠長なこと言ってられないですよ!」であったでしょうが…
7:17
縮小した画像を引き延ばすことで解像度が落ちているのが実際の動員の無理くり感を表していてよい
お疲れ様です。毎回楽しみに待ってます。
よく諸葛亮は内政の人で演技のような軍師ではなく軍事面は平凡で過剰評価って聞くけど、蜀の兵站や兵の動員とか今見ても謎なくらいチートやったんやね
待ってたー、うぽつ
個人的に②はありそうと思うんですよね、この時の曹真に対する指令
って街亭の馬謖と似てませんか、馬謖程の人物でも初動の狂いから
あんな目茶苦茶をやらかした訳ですからね
本当に王平さん凄かったんやな、あの小規模の数で無事に
帰還したってだけでも凄いと思う
最悪、投稿か死亡の危機もあったろうに
むしろ1000人もいれば余裕で守れる程度の人数しか来てなかったという話の可能性もあります
話を盛りまくるからなこの手の戦史は
秦嶺山脈の気候調べて見たけど南北で随分と気候が違う様子
蜀の南側は冬でも比較的暖かく湖や川が凍るのも稀で、魏の北側は非常に寒いらしい。
調査ありがとうございます。気になってました。
と言うことは山脈の途中に前線拠点のようなものを築いて食糧の生産して蓄えておく事は不可能ではないと
ボーイスカウトで良くキャンプをしたが、夏と冬とでは難度が大違いでした。
機動防御と言う予想が当たりましたが、これは主の動画の教育効果の賜物でしょう。
この動画見ていると諸葛亮が武廟十哲に選出された理由がよく分かります。
話を聞けば聞くほど蜀軍の行軍能力が凄まじい…
蜀軍は普段どんな訓練をしているのだろうか?
八甲田山やインパール、それにバターンやマレー突進作戦並みの行軍をひたすらに続けているのではないでしょうか?
運搬用一輪車的な発明をしていたから、悪路運搬能力は高かった。
いくら士気が高いからって不平不満の一つや二つは出てもおかしくない状況なのに、全くないのか…
孔明が上手く統治したというのもあるんだろうけど、同時に孔明が不満の声の隠蔽や弾圧を徹底した可能性も考えてしまう。
人質とかでも限度がありますからねえ
家族いない兵士もいるでしょうし余程目的が明確で意識統一されて全員が納得してないと難しい気がします
蜀軍の異常な動員の凄さは圧巻ですが、これだけ異常なことをしていたらそりゃ国力も落ちるよなという。
諸葛亮没後に彼の後継者たちは内政に力を注ぎますが極めて妥当な判断ですね。
蜀の民度おかしいだろ こんなの誰も予想できないよ
よお!待ってました!
三国志の解説動画あぷ
ありがたやー
「東京〜名古屋間の、いつ・どこから敵が来るか分かりません。防衛して下さい。なおスマホなどはありません」
改めて凄さが分かる
蜀軍が「いつ」「どこに」来るか分からないが、国力から「どのくらい」かは推測できるから、一拠点あたりの防衛兵力は1000人で十分だったという事かな。いつどこに来られても拠点部隊と機動防御部隊で迎撃できる。
秦嶺山脈がどれだけ降雪が多いか分からないので、八甲田山遭難事件と比較するのは難しいかもしれないですね。もしかすると中国大陸の内陸部で雪があまり降らず、低体温症になる危険性が低い?
諸葛亮は催眠術使えたって言われた方がまだ納得できる
初コメです。
いつも楽しませて頂いております!
張郃が呉方面に曹真の兵を割いて行っていて、兵が足りなかったってのは十分あり得る話
だけど陳倉って200m四方くらいの小城だから、1000名って必要十分な兵数だったんじゃないかな?
ああそうか、横綱はここで巨大将軍になってしまったが故に子午の役で「蜀の桟道を通れず無事死亡」となるわけですかw
皆さん、拙速してますか!
実に良いよね、この言葉。
扱うテーマを全てコレに集約できる。
これは、的違いな仮説ですが、蜀の兵力維持は、日本の戦国時代の武田信玄の政策に見られた、農民(または、製造業)だけやる者には戦争に行かなくていいけど税金重め、半農半士は、忙しいけど税金軽め、常に兵役を行う者は足軽身分でも税金納めなくていいし、給料がもらえる、ってのを小学生のときに本で読んだ事あるので、蜀がそれを行っていたかもしれないかもと…
恐らく間違っていると思いますが、自分的に妄想でシックリきました。
確かにシックリきますね!
信賞必罰を基礎とした飴とムチの使い手の諸葛亮ならやってそうです。
というか、名将と伝わる方々の策として、いつの時代でも大なり小なり使われてそうですね!
ありがとうございます。勉強になりました。
こうしてみると、一般に有利とされる魏側も結構ギリギリの戦いを続けてたんだな・・・
そして最後のやりとりをみるに次回、あの人が来るのかな?
最後のやりとりが、メタルギア3チックで好きです。
これもう蜀は 劉備真理教 だったんじゃないかと
北伐するぞ!北伐するぞ!北伐するぞ!
確かに「曹真が陳倉に蜀軍を誘い込んだ」という可能性は有り得る話だし、正史の曹真はかなり有能な総司令官だったもんな
その割には援軍に来るまでが結構時間があったのが気になるところだが…別働隊を警戒したんだろうか?
あとレティの判定って実は幽々子や妖夢より横に狭いらしいッスね今更の話だけど(
冬に野宿するなら昼寝て夜動かないと死んじゃいますよ
それ以前に昼野宿してたら警察に指導されそうてすね
「王双が斬られた 王双が斬られた うーん」
「おう、そうか」
正邪さん!正邪さん!
しっかりしてください!!
うぽつです
旧日本軍が特攻隊という過酷な作戦を実行できたのも高い内政能力が理由なのでしょうか
それとも近代戦争では孫氏とは別の理論で兵隊に無理させることが可能なのでしょうか
空の軌跡のBGMすこ
ちょいちょい入る曹真デブ煽りで毎回笑う
兵を配備するにもコストがかかったのがあるから柔よく剛を制すように防衛の計画していた可能性があるかもしれません。
曹真からしたら、軍の動員体制を何年も維持できて、秦嶺山脈も数万の軍で突破してくる孔明と蜀軍相手の防戦など、たまったものではなかったでしょう。陳倉の戦いが片付いたあと、陳羣の大反対を押し切って蜀討伐を実行したのは、孔明相手の防戦で苦汁を舐めさせられたからでしょう。
蜀はモンゴル軍よりイカれてる機動力があるとしか
ローマ軍より激しい工事しててもこうはいかんだろ
蜀兵謎すぎる
革命期のフランス兵かよ
漢中に駐屯してる兵の話で
2年間の間、何回かに分けて少人数を帰省させてたんじゃないかな?
ロウセイ地方は旧日本軍の満州のようなもので、他の肥沃な場所を奪わないと蜀は内部崩壊するかもなのかなと思いました
とても楽しみだったので日常から完全に消えてた
だから上がっていてびっくりした
孔明としては陳倉の兵力見て勝ちを確信したんだろうけど現実は非情だった・・・
国土面積が日本と違い過ぎて東京〜名古屋間を防衛ライン…こりゃキツい。
まじか
第一次で孔明がキ山・街亭を足止めして陳倉ルートの整備をしてた。
石亭の結果を知った上で勝負は第二波陳倉電撃攻撃。
となると街亭を奪われ涼州の反乱を鎮圧させた登山家は孔明の思惑をどこまで知っていたのか?(個人的な意見)
現代近代であれば職業軍人見たいのがあるけど、この時代は軍人=民衆農民だろうからなぁ…。
モラルってほんとに大事なんやなって
追加で言うと、陳倉は1000しか居ないぞーって吹聴してたとしたら、攻め側も釣れる可能性があるか?
この時代に辺境で予備1000人動かせることがすごいわ
赤壁とか数値バグってる
蜀軍これもうオカルトの世界やろ・・・
蜀は不思議と内部崩壊しないのが宗教染みていて怖い国
街亭後は諸葛亮が官職的にトップでもないのに
本チャンネルあるある、背景のゲームが面白そうで本編の中身が入ってこない
ひとつ思うのは、蜀は金があるのではないかと、もともと劉備に、出資してる金持ちも多そうだし、後漢の金持ちが蜀に、けっこういたのではないかと?職業軍人にすれば何年も戦えるでしょ、
もし当時の蜀にそれなりの経済力があり、のちに信長が日本で行った兵農分離を諸葛亮が行っていたのだとしたら、例年のように北伐を実施できたのが説明できますね。
うーん、僕なりに考えてはみたけど、ちゃんと曹真視点で考えられていなかったな。
それと蜀側の異常な動員状況なんて全然気付きもしなかった。浸透襲撃さん流石の目の付け所ですね。
それを考えると、蜀の兵卒に至るまでの異常なまとまり方に関して、第一次北伐失敗時に馬謖を切ったのが功を奏したのかな。以前の動画では「泣いて馬謖を切る」の涙の理由を、個人的な感情だけだったのか?と言ってましたけど、国内向けには今に伝わる形で宣伝していたのかも。
街亭の責任は馬謖にあって(実際そうなんだろうけど)、諸葛亮は有能な愛弟子を、悲痛な思いで涙を流しながら処断したって。なんか諸葛亮の見通しの甘さがそれで有耶無耶になったのかなって。
蜀軍の異常なまとまりって運営側の意向が周知徹底されていた事と、運営側(特に諸葛亮個人)への不満がどこかに逸れていた事が要因なんじゃないかなぁと。
馬謖は他人からの評価はやたら良いけど、実態を伴う功績が無いのに、名前の残り方が異常な気がして。
邪推ついでに言うと馬謖が若い頃から有能だったとかいう部分が、実は後付けだったって事もあり得なくはないのかな、と。
今回動画の背景を見ながら、彼に思いを馳せてみたのでした。
馬謖の処分を喧伝したのは賛成です。
ただ馬謖が若いころから~、の部分は反対ですね。さすがに穿ち過ぎではないかと。
もし実際は優秀ではないのであればなんで任命したのかという話になりますし、兵士たちへ喧伝したところで直接接した人もいるであろうことを考えるとあっさりばれて逆に不信感を抱かせることになると思いますよ。
@@manekineko0912 仰る通りですね。読み返してみると自分で整合性をぶち壊しているコメントでした。お恥ずかしい。ご指摘ありがとうございます。
この頃の蜀には、劉備に付き従って入蜀した他州出身の兵士がまだ多く残っていたのかもしれませんね。
そうした者なら蜀国内に持つ土地も無いか少ないかでしょうし、仮に常時動員状態を維持したとしても、
蜀国内からの徴兵は少なく済みます。国内から動員した兵士は交代制で詰めていたのかも。
……とでも考えないと、どうにもつじつまが合わない。本当異常ですね、この頃の蜀の動きは(;´∀`)
待ってた
戦国史シリーズやRoNなどで多用してました
孔明も曹真もスゲエエエエ!
蜀の兵は武装と訓練はしっかりと漢中で整えてから進軍してたので行軍速度は速かったのかもしれませんな。それでも蜀の桟道や険しい山を何度も越えて行かないといけない。蜀軍の撤退理由は1回目を除けばほぼ食糧不足で孤立する前に撤退したことになりますし。
聞けば聞くほど蜀っておっそろしい国だったんやなあ…
蜀軍兵士は超人かもしれない
重いであろう鎧に食料担いで長距離登山は尋常じゃない
敵の孔明は化け物か!
現代アメリカ級の戦闘国家だな。(地球上のどこへでも、72時間以内に海兵隊を必要なだけお届け可能)
2年も生産せずに飯食い続ける兵士が、待機状態が続いても士気も維持し続けるて。わけわからん。
蜀軍って準常備軍みたいだなw
一輪車(木牛)を開発して狭い道でも物資の輸送効率化をしたそうな。
なぜ、蜀が20日しか攻城できなかった理由がわかりました。
最後のは司馬懿ですかね?
小学生のころ、タチウオ狙いで友人と初冬の夜釣りに出かけて、一晩中新聞紙にくるまりながら震えていた俺が通りますよ・・・
それはさておき、他の方も言及されてますが、陳倉城は堅牢ではあるものの規模は小さく、あまり多くの兵を置けなかったという可能性はあると思います。
また、蜀軍がいつどこから攻めてくるか分からなかったとありますが、曹真だって間者を漢中に派遣していたでしょうし漢中から長安方面への各侵攻ルートも監視していたでしょうから、蜀軍の初動の把握は難しいにしても、「気がついたら蜀軍が散関を突破して陳倉を包囲していた」っていう事態は起こりにくい気がしますがいかがでしょうか?
ドラマで曹真がやたら無能に描かれる理由なんだろうけど、かなり有名な武将なので相手がうまくやっただけでしょうね。
横に伸び縮みするレティさん
敵方の平民が協力したのでは?
ムタグチのチンギスハーン作戦が上手くいったのでは?
(牛でも連れていき、そのまま食べた。)
一回目にデポを密かに作っていたのでは?
かなり謎ですね。兵たんの件は。
軍あつめると巨大になるという発想、ロードモナークっぽくていいっすな・・・
結果にコミットする曹真
よく八甲田山死のなんとかにならんかったなあ
やっぱり最後は暗室横綱オチwww
動員が続いても厭戦気分がおきない。
無茶な命令も聞き入れる。
ガタガタの兵站でも平気で戦闘する。
・・・どっかで聞いた話やな?
①確かに、装備工夫・士気の高さは重要ですね。
※弘前第31連隊と青木第5連隊の違いが凄すぎる点(八甲田)。
②うぷ主殿の紹介『補給戦』中公文庫で再販されてたので買いました。(未だ読んでませんすいません。涙)
③確かにいきなり攻めてこられも困りますね
※満州事変でさえ、開戦時の関東軍は平時編成でしたし。
④機動防御・・・→ウォーカー中将。未だ貴方の出番ではありませんよ?
結果
・・・あれ?・・・なんか土地盗られてる・・・?(策士孔明の声で)・・・奥様はお怒りだったのです。
金床戦術はどんな時代でも有効ってわけやな
根こそぎ動員を2年も維持できる蜀って、ブラック国家どころの騒ぎじゃありませんね。
ササン朝エーラーン(ペルシア)帝国のホスロー2世は20年以上も4方面軍を総動員して(対東ローマ戦争で)、結果メソポタミアの耕作地とシルクロードの商業都市が荒廃し、国家経済を破綻に追い込んでいました。大軍を維持するのには金がかかるし、国内産業は労働力不足に苦しむことになります。最後は王子に暗殺され、帝国は内紛が起こり、気が付いたらイスラーム帝国に滅ばされていたそうです。長期間の総動員は危険ですね。
曹真も不利な戦いしいられるなぁ
機動防御戦術って蜀への対策は常時それをしておかなければならないんじゃないだろうか?そしてそれは「動きを予測していた?」ってわざわざ書くことなのだろうかという疑問。
動きを予測していたって書かれると場所か位置をバッチリ当ててるくらいの事をイメージしてしまう。
散関に物資が置いてあったげふんげふん
蜀軍兵士はSEALsだった…?
待ってました!
あれ?第3次北伐の主戦場って武都と陰平の筈じゃ…(加えて孔明の北伐で唯一勝てた戦役でもある)
蜀軍の兵站能力は内政や工夫が上手く行っていた、ってだけで説明が付かないなら
正史にも記録にない今現在判明してない何かが当時はあったのかも知れませんな。大昔の話だし。
冬の野宿は沖縄でもキツかったよ
いつはともかく、何処は読んでいたと思いますね。第一次で使った2ルートは心理的に使えない。どっちにしても
褒斜道は趙雲が数10㎞桟道を焼いて使えんし、長安寄りのルートは攻めるポイントがない。こうなるとほぼ陳倉一択です。
張郃先生のは「囲魏救趙」の策ですな。詳細の説明は次回お願いしますw
後兵站で言うと漢中を抑えていた当時の魏も相当だから、一概に異常とも言えんかもですね。
夏侯淵達って多分漢中だけでは兵站維持できなかったと思うけど、それで3年以上漢中を保持していましたからね。
まあ一応、祁山側からも送れていたのでしょうが、それでも大変だったと思います。
この時代、冬山越えなんてやったら、どう考えても八甲田山行軍状態になりますよね。あれ、士気とかの次元、超えてまずぜ。なんか、カラクリがありそうですね。
もしかしたら「どこでもドア」を発明していたとか・・・。
@@1win1win1
なら曹叡の部屋に繋げば良いのにwww
蜀軍兵はキングダムの犬戎族みたいに家族を人質に取られていたんじゃね?知らんけど。
「魏国は国土が広く、どこからでも攻め込まれる」と以前の解説でもあったけど
季節問わず、常時動員で準備期間も無いって、無茶苦茶だな…。
蜀の国力で2年間動員を維持し続けるって、それだけで滅亡レベルじゃないの?
これ蜀軍が漫画の敵役だったら、絶対悪いお薬とか使ってますねw
し、蜀は扇からビーム出せるくらい科学が発展してるから、、、
扇ビーム、虎戦車、果ては飛行機まで…
第三次まで解散してないから2年以上・・・
先生ェ…