宮崎の戦争記録継承(語り部7:ブーゲンビル島での戦闘、負傷) 10/16
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- Опубликовано: 6 фев 2025
- 宮崎県では、戦争の悲惨さや平和の尊さを受け継いでいくために、先の大戦を実際に体験した世代が「語り部」としてその経験を語る映像として記録することにより、戦争体験の風化を防ぐとともに、戦没者遺族等の精神的慰藉を図ることを目的として、「戦争体験『語り部』映像記録事業」を平成18年度に実施し、作成した映像記録はDVD3本に収録して県内の小・中・高校・大学及び公立図書館や関係団体等に広く配布しました。
この映像は、DVDに収録されている映像のうち、陸軍に17歳で志願入隊されブーゲンビル島(パプアニューギニアの島)で戦闘を経験された松谷希次さん(収録時83歳)のお話をまとめたものです。
なお、宮崎の戦争記録継承のための専用サイトを以下のとおり設けてありますので、是非ともご覧ください(この映像もご覧になれます)。
宮崎の戦争記録継承館
miyazaki-sensok...
また、以下の関連サイトもご覧ください。
ホームページ「宮崎の戦争記録継承館」のご案内
www.pref.miyaza...
平和祈念資料展示室のご案内
www.pref.miyaza...
戦争体験者の「語り」を収録したDVDを作成しました
www.pref.miyaza...
私の大伯父もブーゲンビル島に出征し、そして戦死しました。どのようにして亡くなったのかも分からず、遺品も遺骨も何一つ残っていません。でも大伯父がどんな戦地にいたのか そのことが知りたくてここに辿り着きました。
松谷さん本当に生きて帰ってきてくれて良かった。
もっと見てほしい
映画よりドラマより重みがある
祖父のことが知りたくてここに来ました。
私の祖父は南海第四守備隊という部隊に所属し、ブーゲンビル島でタロキナ作戦という戦いに参加していたそうです。
祖父はなんとか生きて終戦を迎え、2000年代に88歳で亡くなりました。
戦争のことについては全く話してくれなかったので、こちらの動画で祖父は戦時中どのような日々を送っていたのか知りたいと思います。
うちの爺ちゃん…よくこんな所行って生きて帰って来たな…
爺ちゃんが、森の中はマイク仕掛けてて、音を出したらそこに弾が飛んで来たって言ってたけど、こういう事だったんだな。
800キロ爆弾が落ちて来て爆発、でっかい穴が空いて、スコールでそこに雨水が貯まると池が出来てたって言ってたけど、笑えんて…
神戸市灘区で育ちましたが 私の小学校の担任は 陸軍中尉でブーゲンビルの隊長だったそうです。3年間受け持っていただいたので 同じ話を何度も聞きました。子ども相手ですし 昭和47年頃の戦後民主
主義が盛んだった頃ですので
子どもには云いにくいことも
あったのでしょうけど
随分聞かせてくれたと思います
どういう巡り合わせなのか
周囲からは贔屓されてるようにみえたみたいです
脚に銃弾が貫通していたので
[はっきりと穴が見えました}
屈強な人でしたがプールには
入るとしみるので、それは
無理なようでした。
休み時間に入ってすぐ、[俺は民主主義と軍国主義のどっちがええか
わからんようになった]とひとりで嘆くようにおっしゃってたのを覚えています。彼の名誉のためにも書きますが 決して戦争を肯定する人では
ありませんでした
類推や 文献だけで勝手にあの戦争について決めつける論客やRUclipsrが多くなっています。
私も全体の詳細はわからないので
もっと知りたいと思っています
教育。この方が言われる様にそれが全てですね。日本の教育、戦時と基本的に何も変わっていない。戦争はダメだとこういう方達は仰っているが、そういう事は経験した人達だからこそ感じる事。日本の教育では経験した事の無い人達には分からない。教育が変わらないと何も変わらない。
どのような教育になっているのかすら伝わらない。
質問をしても、ひらかない。
ソノワリには、税金はマルデ当たり前のように投入されている。
新しいモノ新しい事柄新しい時代、と、新しい何かを追求してはいるらしいものの、根無し草のように浮遊していて、姿としてその後ろ姿に続く育っていく姿が見えにくい。
教育委員会も日教組も上層部は非日本人の反日組織で、
日本人の子供を自殺させるばかりです。
日本は李氏以外は家畜同然だった韓国人を救った恩人です。
僕のおじいちゃんはブーゲンビル島で戦死
しました。そのことを調べてたらここへ
涙が出てきた
私の祖父はブーゲンビル島で戦死しました。生きて帰って来られたのが奇跡だと思います。
貴重なお話ありがとうございました。
酷い死に方をされた、少年、青年達はどういう思いで亡くなられたのだろうか。
家族に会いたかったでしょうし、痛い苦しい思いなんかしたくなかった、と、ソレ程度は想像は出来そうです。
俺のお爺さんもここで戦って戦死しました。
ひいおじいちゃんがパプアニューギニアで餓死して、遺骨がなく、1日でも早く遺骨を日本へ返したく、色々探してます。
現在の日本国の日本国憲法に、徴兵制度は御座いません。
自衛隊の災害時の活躍は不断の研鑽によるものです。さてしかしながら、日本国憲法には戦争を放棄することが明文化されております。
過去の恐ろしい大日本帝国憲法の教育を反省し世界の憲法を学んで制定したものであります。世界に誇る日本国憲法で御座います。
日本国憲法に明文化されております主権は日本国に生まれ日本人として国籍を有する国民で御座います。主権を有する日本国日本国民には日本国憲法によって公共の福祉の範囲内で自由が認められております。その自由には公共の福祉という言葉によって他人様の自由を強制強要によって奪ってはならないという事も教育の中で改めて学ぶ事にはなります。自由が認められております事とともに、義務も明文化されております。その義務は公共の福祉のために使われる、社会保障制度の中でお互い様に助け合うと言う理念に基づいて居ります。
戦中戦後の酷い戦火の中で、日本国内はもとより海外の戦地や陸地では無く海の底に、誰にも看取って貰うことすら無くひとり息をひきとって日本国の土を二度と踏むことが出来なかった人たちは数多くいらっしゃるのです。そのようなかたがたにも日本国内にはご家族が遺っていらっしゃいました。さらに残酷な事には戦火は日本国内でも惨劇を極め焦土灰燼に帰した日本国土の上に、そのようになる前には一緒にご飯を食べ、一緒に畑を耕すなどしていた家族まで奪い取って、たったひとり、親戚も身寄りもなく戦後を生き抜いて成人になって、苦労を苦労だとすら厭わずに働いて働いて働いた人々は、いずれ働くことが出来なくなることも当然として、お互い様だと社会保障制度を調えて下さって居られました。
還ることが出来なかった大切な家族は、白木の箱に、石コロ1つ、木片一片、ソレが遺骨だと言い聞かされて黙って納めるしかなかったそうで御座いました。
日本国内に生きて遺っていた人たちも、海外では問題になっている強制労働等々は当たり前のこととしてなされていました。ソレが出来ることを、銃後の守りと喜ばしい事だと誉められて、子ども達ですらそのようにして育てられて居ったそうで御座いました。
戦後、戦時中に使われていた教科書には、墨塗りが多くになされ、それでも青空の下で、勉強ができる喜びを似たような友垣とともに、その墨塗りばかりだとすら言える教科書を喜んで大きな声で音読なさっていたりもしたそうで御座いました。
義務教育は、当たり前では御座いません。戦前の学制の全てを否定するわけでは御座いませんが、大日本帝国憲法下において学制はやはり、あやまった道のりを描いていた教育理念が想定されていたことを全否定は出来ないと思います。
もはや戦前生まれの人々は、ご高齢になっていらっしゃいます。戦前戦中の言葉になどしたくもないご体験ご経験を多くのかたがたは、聞かせることも辛いだろうと、語ることなく先に逝ってしまった家族のところへ旅立っていらっしゃったことも忘れてはならないのです。
このようにして語って下さることのおこころを、忘れることはなしてはならないと思います。
映画やドラマでの再現は、哀しいかな参考程度として、もっと自分自身のおからだが、マサニそのようであったならばと、真摯にうけとめて考えるべきだと思います。
もとには戻らないのです。