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21:50発の青森行きは通しで乗った頃があります。時間帯によって乗り込んでくる客が変わるのが面白かったですね。夜中は座席のシートを床に下ろしてその上で寝ていたと思います。昭和30年代の終わり頃です。確か「急行日本海」用の急行券300円がもったいなかったのだろうと思います。その時は北海道に1ヶ月位行ってました。公衆便所の洗面の所で寝袋で寝た記憶もありますし、学校の用務員さんの部屋で休ませてもらったこともありました。今の若い方には想像も付かないでしょうが。
羨ましい😣
ほんとに羨ましい限りです!
札幌駅は少し前まで駅寝のメッカとして有名だったような。1990とかではなくもっと最近までではなかったかなあ?もう高架化から30年?? ???
昭和50年初頭まで、上野〜福島以遠の鈍行がまだ走ってた!当時、小学2年だった自分が郡山の祖父母にホームまで見送ってもらい埼玉の我が家まで一人で帰った事がある。小2でも、こんな列車が走っていたからこそで、乗り換えだらけの今じゃ絶対に出来ない芸当ですね。
例:大宮駅「到着の列車は普通列車、一ノ関行きでーす。ハイ、止まるまでお待ち下さい。ご乗車になりましたらデッキの戸を閉めて中程にお進み下さい!」
末期の急行「高千穂」が「東京↔西鹿児島(日豊本線経由)」で約28時間。長距離鈍行は停車時間がめちゃくちゃ長いので主要駅で食事ができたり買い出しに行けたりする。ちょっとした観光だってできたりする。あれっ、もしかして「ななつ星」や「トランスイート四季島」みたい。
高千穂とかも有名ですよね~四季島と同じくらいかかってますね
「桜島」もありましたね
夜行急行「さつま」は東京ー鹿児島間を約32時間でした。
いわゆる「ドカ停」ってやつですね🎵
@@ohnokazuki2029 この「さつま」のダイヤが夜遅くの発車で、到着が2日後の早朝。
この動画見ると、ぷらっとこだまで東京から新大阪乗車なんてかわいいもんですね。
そうですね~!
こういう長距離鈍行が存在していた理由の一つが当時はほぼ各駅で行われていた荷物扱いのためですよね。荷物扱い駅で丹念に停車しながら荷物を拾い、下ろし…を繰り返しながら遠方まで運ぶ。主要駅では荷物扱いのために1時間以上も停車してることもありました。荷物輸送の終焉とともにこうした長距離鈍行は急速に姿を消していきました。
荷物輸送あってこその鈍行ですね
南風崎駅から東京行きは初めて知りました。引揚港は佐世保湾内ですが、佐世保港ではなく、浦頭(うらがしら)という針尾島にある入江です。ここから山越えで当時の最寄り駅南風崎まで140万人近くが歩きました。今ならハウステンボス駅が最寄ですね、引揚記念館がありますので、佐世保訪問の折には海自佐世保史料館セイルタワーと一緒にどうぞ。どちらも無料です。
南風崎(はえのさき)駅の最寄りには戦中まで海軍海兵団(つまり学校ね)が有りまして、戦後は海外引き上げ者の検疫所になりました。現在のハウステンボスの場所です。
浦頭を訪ねようと私も問い合わせをしたことがあります。ぜひ行きたいものです。
南風崎、1度行ってみたいですね
浦頭に到着した人間が南風崎まで歩いたのではなく、現ハウステンボスとなっている敷地にあった旧針生海兵団宿舎まで歩いて給養に預かり、引揚援護局による手続きや確認を経、病気を治し体調を取り戻して帰宅できるようになってから南風崎の駅から帰ったのです。大陸では敗戦後すぐからチフス、コレラが蔓延し、島や施設で隔離期間を過ごさせる必要が大きかったのです。その点針生海兵団跡宿舎はもってこいの立地でした。占領軍からはDDTが供与されノミの駆除が一番になされました。頭から振りかけるのです。ジクロロジフェニルトリクロロエタンでジ・ジ・トリでDDTです。
ちなみに南風崎駅は現在、JR九州・大村線の無人駅として存続中です。。。
道路はほとんど未舗装、飛行機もまだ誰でも乗れる時代じゃない、鉄道が正に公共交通機関の王者だった時代ならではの列車ですね凄いとしか
正しく王者ですね
引揚列車か・・・・涙が出てくるな。こんな人たちが今の日本を作り上げてくれたんだよな。その人たちを運んだ人も、外地から引き揚げてきた人たちも。そして引き揚げて来られなかった人たちも。バンザイクリフで身を投げた人たちもこの列車に乗りたかっただろうな・・・・。みなさんのお陰て私は今ここに楽しく過ごせていますよ。合掌。
引揚げと言えば肥薩線の悲劇も辛過ぎる。
謎、西園寺、スーツ、がみ、しろはんど、ボロクハ、にっこーけん、綿貫(敬称略)全線完乗してそう
あと、鐵坊主も(^_^;)
まだ青春18切符が「のびのび切符」と言われていた時代に、京都から夜行鈍行「山陰」に乗車し、大社線で出雲大社にお参りに行きました。余部鉄橋で旧客のドアからヤッターマン乗りしたのが懐かしい……
山陰!!いいですね
良かった…オレだけじゃなかったんだ(^^);実は小生も当時…上り山陰だったけれどカマ次位のスハフ42307の前よりデッキから身を乗り出して下を眺めた[前科]持ち(^^);当時大学生、跳ねっ返りな若造の若気の至り。勿論手摺はしっかり握って…(手が滑ったら一巻の終わり)然しそれから僅か数年後まさかまさかあの橋梁で列車転落(それもデビュー間もない[みやび]編成)事故が起きるなんて…しかも6人もの尊い命が失われるとは…予想も出来ませんでした。
鉄橋に差し掛かる前に体勢を作っておかないと怖くて危ない。
上野から奥羽本線経由青森行きの普通列車には2等車(グリーン車)が連結されてました。
普通列車にグリーン……いいですね
祖父から聞いた事ですが、大正末期から昭和にかけて神戸駅発で羽越本線周りで根室駅までの普通列車が有ったらしいです、札幌駅まで実乗したようです。青函部分は連絡船でしょうが2000km弱を3昼夜かけて走っていたようです
いやはや正に国鉄ですね。一度は乗って見たかった。昭和41年常磐線松戸駅の時刻表に青森行き普通列車と示されて居ました。良い時代でしたね。
上野発青森行きの普通列車は、子供の頃に時刻表で知りました。たしか、秋田で40分くらいの停車時間があったと思います。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で」丸1日乗ってりゃそら無口になるわな
🤣🤣🤣しかし、寒い中デッキで海鳴りを聞く元気はあるのよね~
確かに寒いデッキに居ますしね笑
1:04 ということは往年の夜行鈍行”山陰”(827レ 1985年3月廃止)の下りは、829レを受け継いで出雲市で切られたスジだったのか。
出雲市から先は1両に2-3人しか乗ってなかったですから運転手の人件費も出なかったのでしょうね。
かつて国鉄時代に走っていた長距離の鈍行は、これまでの長距離鈍行の役目の一部(長距離直通)を新設の急行に移行する目的があった為、一部の鈍行は完全廃止ではなく運転区間短縮等、必要最低限の区間の列車は残して一部区間を廃止にしたり、運転系統を建て替えられたりするのが通例で、見た目的には鈍行列車の急行(晩年は更に特急)格上げが成されている。長距離鈍行の一部には1等車や2等寝台車を連結する列車もあるのはそれだけ長距離利用者が存在した故の証であろう。当時としては余りに長距離長時間走行する為に昼間時間帯だけでは目的地に到達出来ず、夜間時間帯も通して運転されるが、夜間運転主体の夜間発朝方着の現行の寝台特急や座席夜行列車とは若干意味合いが異なり、かつての長距離鈍行は…いわゆる昼夜行列車とも云うべき列車だったと思える。因みに「夜行列車」も「寝台列車」(時刻表各誌の各時代や鉄道解説誌等により様々な解釈があるが、原則は食堂車等の非定員車両を除き編成の全車両が寝台車、又は寝台車と座席車の連結があり、かつ座席車全てが座席指定の車両だけの列車の意)も当初は単に「普通」「急行」「特別急行」と呼ばれ、夜行運転や寝台を特に強調する事(一部の寝台専用列車や全車1or2等編成列車等除く)はまだ一般的ではなく、特に寝台は2等と云えども1等車同様…当時はまだまだ特別な設備であったと云える。また長距離鈍行運転廃止直後の時刻表を見ると、かつては繋がっていたであろう当時の長距離鈍行列車ダイヤを踏襲した深夜早朝時間帯に区間列車が設定されている事例があり、特に信越本線(512レ→)522レの新津始発250上り富山行(947着)や山陰本線831Dの長門市始発258下り下関行(452着)等…その他にも幾つか時刻欄に散見されて興味深い。(1967-10時刻表より)長文失礼しました🙏
鈍行ではないですが、新幹線開業前の鹿児島本線だと夜行「かいもん」の後を受けた「ドリームつばめ」の廃止後、ほぼ同じスジで博多発熊本行の「有明」が設定されてました。しかし、この列車も博多長洲間に短縮された後に廃止されてしまいました。
829レ凄いですね。山陰本線を全線走破!乗り鉄からしたらまるで銀河鉄道のリアル版みたいで夢があり過ぎますね😊
高校1年の時上野から仙台まで常磐線経由の直通鈍行に乗ったことがあります。上野を5時55分くらいに出て、仙台は確か14時くらいの到着でした。車内では地元の方からパン🍞や🍊みかんをもらった記憶があります!
昔は30時間を超える長距離の普通列車が走っていた事を考えると時代の流れを感じます。
今では長くて6時間ですもんね
どれもこれも乗ってて疲れそうな列車ばっかりですな!!でも、一度でも良いから時間を忘れてこういう時間の掛かる列車に乗ってみたいと思うのが『鉄道を愛した者』の『悲しい性』でもあり『鉄道趣味の楽しみ』の『可能性』の一つでもあります!!
本当に宿命みたいなもんですよね…
@@morimori185 さんその宿命を受け止める『器』は愛です、愛ですようp主さん鉄道の飽くなき『挑戦と言う名の』愛が私達を『さらなる沼』へと駆り立てて惹きつけているんですよ!!本当に素晴らしい! 素晴らしい!!(ボンドルド卿)
今の感覚だと「30時間!!…うへ〰️っ(;゜゜)」だと思いますが、優等列車は特別な存在で高速道路も航空機も普及してない時代にあっては歩いて旅することを思えば格段に速くて快適だったんだと思いますね。
当時は急行こそあれど一般庶民のための交通機関として長距離の普通列車があったものと思います。近隣の通勤通学、行商の方、そして数百キロの長距離乗車の方が同じ列車に乗るというのは現在ではそうそう考えられない光景です。
@@らいちゃん-t7p さんコメントありがとうございます!!確かに長時間の乗車は大変ですけどそれでも乗った事に『価値』を見出したら『底なし沼』へとどっぷりはまる事、請け合いですね!!
もう今となっては、こんな列車出てこないでしょうね。
出ないでしょうね…
長距離移動において新幹線や高速バス、飛行機が台頭してしまってる今、在来線普通列車の出番は無いでしょうね‥‥
深夜の時間帯のスジはコンテナ列車が使ってるのと、夜行列車を運行するときは、乗務員や停車駅で深夜勤務の駅員を手配しないといけないから、結構大変みたいです💧
@@ぽ号観測機 趣味仲間が「コキにコンテナハウス積んで旅客営業したら面白そうなのにな(笑)」なんて言ってたの思い出したわ。まぁトイレとかどうすんの?とか、乗り心地くそ悪いぞとかイロイロ突っ込みいれてバカ話に終始しましたが。
@@面白くない人 国鉄自体が分割されてしまいましたし。lll_ _ )
高校生の頃、大阪発米子行きの各停(これでも十分長距離、長時間)に乗って、米子で夜行のだいせんに乗り継ぐ予定でしたが、途中の御来屋駅で強風で足止め。1時間以上米子駅に着くのが遅れたが、だいせんは接続とって待っていてくれました。
大垣行き夜行は夏休みだと混雑でずっと立ったままですね。これに乗るのに昼から行列ができていました。昼から並んでも座れる保証がないというかんじです。みんな青春18のびのび切符で乗りました。80年代の話です。周遊券で乗ったこともありました。グリーン車にふんぞり返って寝ました。昭和30年代くらいまでみんな貧しかったですね。これらの普通列車は時期にもよりますが大体が満員電車並みの超満員と決まっています。上野発青森行き普通列車なんてお盆や正月は座るのは無理でしょう。到底庶民には特急なんて乗れません。急行八甲田なんかも混雑期は超満員でした。指定席が取れたら奇跡です。でも12系時代だと冷房がついているだけでもはるかに快適だったと思います。冷房なし、SLけん引なら本当の地獄です。昭和30年代まで座れれば幸運だったと思います。それでも庶民は満員普通夜行に乗るしか選択肢がなかったから我慢するしかなかったのでしょうね。ゴハチけん引で10軽寝台の寝台急行は天国でした。自分は3歳でしたが大阪発呉線経由広島行きの音戸51号と記憶しています。冷房の効いたところで寝るなんて当時は大変なぜいたくでした。しかし昭和44年ごろでもう10系寝台は車単には穴が開いていました。夜行じゃないですが昔の朝の高崎発上野行きはインドみたいに屋根に上がったり機関車のデッキに乗ったりしていますね。
今年鉄道開業150年だから、臨時列車として、運行して欲しかったね。上野~青森間の列車は乗ってみたかったですね。
南風崎発東京行の復員列車ですが東京まで行ってそれで終わりってことはなく、当然東京発の下り列車として九州へ帰って行くわけです。それが東京発早岐行普通列車で上りと違いこちらは一般の旅客が乗車できました。早岐止まりなのは早岐に車両基地があるからです。宮脇俊三氏の著書に出てきますが、東京駅で早岐行と言われても普通の人には行先がわかるわけもなく「この列車は大阪に行きますか?」などとなったそうです。
東京→早岐のサボがかかってても、そもそも「はいき」と読める人も少なかったでしょうね。
実はさらに遡ると上手が。戦時中に設定された鹿児島発の東京行き。夜行二回で41時間かかっていたようです。停まる駅は245駅!ただ、時節柄1ボックスに6人がけ、旅客列車自体の本数も少なくかなりの混雑だったものと思える上、末期には遅延どころか運行さえままならない事態にも遭遇していたのかもしれません。戦後の南風崎発の列車も大陸から命からがら引揚げ、財産もほとんど没収されなんとかたどり着いた人々でごった返していたものと思います。ただ、この列車は8000番台の臨時列車。引揚げて来られた方専用なのか途中から乗車できたのかは分かりかねます。いずれにせよ銃後を守り戦争を耐えてこられた方、そして苦難の引揚げをされた皆様にお疲れさまと伝えたいものです。
6人掛けねえ。長谷川町子さんの漫画で誰も励行しないので、登場人物が「3人掛けお願いしまーす」とか言ったら傷痍軍人専用車両だったので笑われるって話が合った。
@@TheBikkuri さま今では東海道線の混んでいる電車のボックスシートの通路にキャリーケースを置いて4人がけなのに二人しか座れなくするケースも。先日18キッパーの人がやっておりましたが、戦時中でしたら即刻注意を受けて下ろされていたことと思います。そういう人は最初から新幹線の有料の手荷物置き場かグリーン車に乗ってほしかった。
@@TSUYOS185 コロナ期には禁止になっていたが、座席を向かい合わせにすると裏に荷物を置くスペースは発生する。皆で協力し合えることはやれば良い。昨今は隣の座席に人を座らせまいと荷物を置く人が多くて困るが、戦時中のような強制を期待したりむやみに制限を望むのは異なる。新幹線の設備がキャリーケースのことを考えなさ過ぎているのが根本的な問題である。横倒しにして座席下に置かせ、持ち主には元来蹴られても気にするものではないと周知させるべきなのだ。
所要時間30時間超えの鈍行列車座り続けるのも大変腰に負担がかかりそう
大阪発の夜行列車降りた時から 体が痛くて 歩けない
大変も大変ですよね
寝台も食堂車もなかった事を考えると、かなりきついですね。
@@0730issop 大阪発青森行きの普通列車にハネとオシが連結されていたよ。
もし現在もこんな列車があったら鉄道系RUclipsrがみんな乗りに行きそうですよねw
でも、充電ができませんよ… モバイルバッテリーをたくさん持っていかなくちゃ!
乗りに行きますね笑
やるとしたらロングシート乗り継ぎとかやってる人でしょうね。スーツさんの場合、急行大和のロネで終点湊町まで行って南海電車に乗り換え、1両だけの和歌山市行き寝台車に乗ったがみさんを待ってそう(笑)
一番最初に紹介されていた門司港から西鹿児島は乗ったことがあります。東北本線は長距離各駅が無くなった時期で黒磯行が最長だったかな…常磐線は上野を6時前に出る仙台行の各駅がありましたね。東海道線は大垣夜行があったので、大垣乗換で西明石行に乗り、岡山あたりまではスムーズに移動できました。九州は鹿児島本線と日豊本線の双方を各駅で乗り通しましたが、山陰本線をはじめ、日本海側の路線が乗り通せなかったのが心残りですね。
色々と乗れたの羨ましい…!
@@morimori185 青春18切符などという便利なものが無かったので、駅の窓口で切符を路線図を見ながら発行してもらう方式でした。東京から西鹿児島までの切符の有効期間は確か三日間で途中下車前途有効でした。北海道も函館から稚内まで各駅に乗りましたので、最南端の指宿線の西大山駅から最北端の稚内駅まですべて各駅で乗ったことが有るのが(一度の旅行ではありませんが)密かな自慢です。
@@siroutodaiku 東京・西鹿児島を往復切符で買うと1か月有効期間が有る上、復路は二割引きになってたのだが、、、
こういうの見ると現代はかなり贅沢になったんだなあと。2〜3時間座りっぱなしはしんどいとか1回の乗り換えが面倒とか。
そんなこと言ってらんないですね笑
まだ電化してない時がほとんどだから、途中駅で機関車(SL)交換か給水で長時間停車などあったからこんなに長距離列車があったんだろうな。当時の大きな駅のホームには洗面台が有ったから、長時間停車の時に洗顔などした人が居たかも。
この手の列車には郵便車や荷物車が併結されていることもあったので、荷扱いのための長時間停車もあったと思う。
ちょっと疑問なんですが、例えば最後にご紹介されていた引揚げ列車など、東京行き・上野行きの2種類ある場合、当時の東京~上野は山手線や京浜東北線を通っていたんでしょうか?
かつて、山陰線は旧客の長距離鈍行列車が当たり前のように走っていた。今となっては懐かしい。
20年位前に千葉から青森まで鈍行で行って青森から『はまなす』使って札幌行って、半日位滞在して帰路も同じ行程というのをやった事がありますが、ほぼ1日乗っているだけでも疲れるものなんだなあってその時に実感しましたね。
はまなす乗ってみたかったですね!
JR九州発足時には、南風崎ツアーが決行されており、当時引き上げで帰国できた方がまだ存命だったので、当時を懐かしむ工程が組まれていたようです。
そんなものがあったんですね
読みたい本を持って、長時間停車の駅でお酒や弁当を買ったり、立ち食いそばを食べながら30時間。夢のような列車。
そんな優雅なものではないですよ。無我にならないと耐えられるものではありません。
最初は楽しいかもですね…
若い頃特急「白鳥」で青森から大阪まで乗り通したことがありますが大阪に着いた時には全身が痛いし怠いしで歩くのすら億劫になりました特急ですらこれなのに普通列車の硬い椅子でしかも30時間越えなんて昔の人はどれだけ頑丈にできてたんでしょうねこれだけで尊敬できます
食堂車でしょっつる鍋。南正時さんと兼高かおるさんはグリーン車で乗り通しました。
高崎の旧客でリバイバルとかあったらなー。2泊3日で日本海沿いの鈍行旅とか乗り鉄趣味にはたまらんて。
それは本当に乗りたいですね……!
特急列車は文字通り特別急行、急行列車も高嶺の花。準急ですら気軽には乗れない…そんな時代には長距離鈍行は庶民・下層階級・貧困層には有難い存在。郵便・荷物輸送に加えてチッキも一般的だった当時は乗り換えなし!も支持されたのでは?ただ車輛は…軽量客車やスハ43・オハ46などはまず望むべくもなく、オハ35・スハ42なら大当たり、スハ32なら儲けモノ。下手すりゃオハ61の板張り背刷り。流石に其れで全区間は…ガチ[鉄]客車沼深淵棲息族と雖も退いてしまいそう(^^);(スハ43・オハ46・スハフ42・オハフ45そしてスハ45・スハフ44の内近代改造青塗アルミサッシ車内デコラ張りで窓下テーブル付通路のドアも網目ガラスなら長時間乗車=少なくとも夜行夜明かし=は平気だけど…譲ってスハ42・オハ36・スハ40・スハ33。オハ47・オハフ46は一歩下がってオハ35・オハフ33並。そして意外と揺れた10系ナハ・ナハフ。尚スハ44・スハフ43なら文句なし!)415系だと派手に揺れた東小倉付近のカーブも、ながさき号のスハ43・オハ46・スハフ42・オハフ45は滑らかに通過したのは懐かしくも痛快な思い出(^^);(軽量客車もナハフ102003は然程じゃなかったのにナハフ1117は意外と揺れたのは今もって不思議な思い出)
もともと1950年代以前の国鉄時代の鉄道の使命は郵便、貨物輸送で客車普通列車には郵便車や荷物車を併結で走っていて、途中駅に荷下ろしなどの時間があるため長距離かつ長い運行時間になっていたようです。鉄道機能としては貨物輸送するからついでに人も運ぶ感じだったんでしょう。その後、定時運行の必要性が高くなり貨物は貨物列車となり客車はディーゼルや電車に置き換わり高速化した流れがあります。でも、こんなにゆっくりが許されるのも今にはない贅沢な感じです。しんどいでしょうけど😅
昔ならではですね~
今となってはロマンを感じるまでの列車ですね。
いやあ、思わず見てしまいました。長距離普通列車とはいえ、区間、区間での利用の需要も相当あったのでしょうね。東京から通して九州や青森まで旅行するお客さんは、そうは多く無かったのではと思います。
とかく始発から終着までの時間が話題になるが、かつて長距離鈍行では、主要駅での長時間停車は当たり前だったなぁ。
今の時代にこれらの列車を走らせても、よほどの乗り鉄でない限り乗り通すのは至難だろうな。。。
途中下車して一旦家に帰って寝て次の日に新幹線で先回りして終点前でもう一度乗る。
俺は乗り通す!!なんやったら、はしごする✊
@@大鍋生助 西村京太郎のシリーズみたいだな
乗り通したいですね!
私のテツの師匠、トワイライトエクスプレスが遅延して食堂車で4回、食事をとり、ほぼ24時間乗っていた経験があったようですが、やはり昔の長距離鈍行列車は凄いですね。🛤
トワイライト羨ましいです!
夜行列車は昔何回も乗った事がありますが、今でも鈍行でもいいから夜行長距離列車は是非定期的に復活してほしい!飛行機苦手なので・・・・・。願わくは食堂車とまでは言わなくても、夜中や早朝腹減るから車内販売か売店の号車が有れば最高!ヨーロッパやアメリカとか海外がうらやましい!
ヨーロッパも気になりますよね
@@morimori185 ヨーロッパ(ユーロナイトなど)はもちろん動画でしか見たことないけど、食堂車はなくとも車掌に頼んだら軽食や飲み物が買えるみたいだし寝台車予約なら簡単な朝食サービスもあるみたいです。それでも十分です。日本だったらコンビニや売店で事前に十分買えるからそんなもんいらんと言う人も多いでしょうが・・・。
ベトナムを縦断する長距離列車もありますよ。乗り通すと30時間余りで、車内販売の食事があります。昔の日本の長距離列車の雰囲気に近いかもしれません。この前BS朝日の番組で出てきました。
青森ー上野間(奥羽本線経由)の普通列車は、テレビのドキュメンタリー番組で放送されていたのを覚えています。テレビクルーが青森から上野までの全ルートに乗車して撮影を行っていました。ウチの母親は鹿児島の出身で、中学卒業後、愛知県の会社に集団就職しましたが、鹿児島県の川内駅から愛知県の尾張一宮駅まで、直通の普通列車で20数時間掛けて行ったと言ってました。
見てみたいですねー!
日本海縦貫線には、1945年辺りに上郡発青森行もあったらしい。所要時間は34時間7分。
そんなのがあったんですか笑
小学生の時、叔母に連れられて、青森行き普通に、大阪ー富山間に乗りました、朝大阪を出て富山に夜7時ごろでした。北陸トンネルの無かった時代、今庄で特急白鳥に抜かれましたが、それ以外、富山まで抜かれる列車はありませんでした。向かい側のオバサンは、入善まで行くとのことでした。鉄道マニアでなくても、結構皆さん普通列車を利用していました。
旧国鉄時代だったから設定できた列車ですね。今は地域毎のJRグループに分割されてしまったので、同一グループ内で完結する列車しか設定できないし、区間によっては第三セクターへ移譲したところもあるから、尚の事難しいでしょう。
国鉄末期には民営化しても会社跨ぐ列車も廃止しませんってあったんだけどね…騙されましたね
@@ゆいまーる書記長 そうそう、「ブルートレイン等の長距離列車も廃止しません」ってのも言ってた。当時、民営化は致し方ないと思っていたが、分割化には反対だった。まさに当時懸念していたことが、現実になっている(>_
姫路の小学生を草津線回りで伊勢市まで運ぶ修学旅行臨も加太越えの電化対応トンネル掘りたくないのと新造客車が無駄なのが相まってやめちゃったんですかね。早いうちに山陽電鉄にあおぞらが乗り入れすれば...
門司港・西鹿児島の列車、逆方向ですが宮崎→大分で使ったことあります。懐かしい!
新宿発の夜行登山列車を、復活させてほしい。登山は非常に早い早朝から登り始めて、「日没前に」山小屋や宿泊地に着く必要があるので、可能な限り早い早朝に着く夜行列車が必要だからです。近年、登山者も相当増えたので、需要がある。
今振り返ると、国鉄末期まで残ってた上越線の長岡行とか中央夜行なんかは明らかに登山者向けの列車だよな
この時代にRUclipsがあったら当たり前のように長距離列車をコンプリートするRUclipsrがたくさんいそう。
絶対居ますね笑
特にスーツ君のが見たい(*´・ω・`)b
他にも八代発大阪行や川内発京都行(川内発鳥栖行として川内を発車、鳥栖で列車番号が変わり京都行となる)などがあったようです。
「昭和鉄道史」と言う本には車体にチョークで大きく「引揚列車」(写真には漢字四文字)と書かれた写真がある。4:10の事だと思う。
そうですねー!
通しで乗車する人など居ないだろう…と思っていたら、引き揚げの方々の利用とあれば、通し乗車もあったのでしょうね。しかも座席に座らず(座れず)満員の立ち席で…。
動画の最後に引き揚げ列車とありましたが、私の父親一家も戦後大陸から引き揚げて来ました。引き揚げ港は博多だったようです。博多?から関門トンネルを通り、東京から私の地元まで帰って来たそうです。
今ならイベント列車として走らせれば満席間違いなしだと思いますね。乗客はもちろん、鉄道系RUclipsrとガチの乗り鉄くらいでしょうけど。
本当にそれぐらいしか乗らなそうです笑
どれもロマン溢れる素晴らしい列車だね〜、めちゃくちゃ乗りたい衝動に駆られるよ
キツそうですけど…ちょっと乗ってみたい気もします笑
濃厚な旅になりそうだよね〜
あとは上野発信越本線、北陸本線、東海道線、福知山線経由川西池田いきもあったみたいですね
824レ乗ったことあります。福知山に着いた時は二両だけでDD51が欠伸してました。確か米子でリリーフと交代したようです。
特急富士が東京~西鹿児島間約24時間30分それ超える列車があったんですね。
ありましたね~
小学生の頃、鈍行じゃないが長距離夜行乗ってました。大垣から久留米まで急行阿蘇号での経験。もちろん寝台じゃなくボックス座席でしたよ。所要時間は15時間位だったと思う。ほとんど徹夜なので疲れると思うのは大人だけ。到着したら遊び回ってましたよ。
阿蘇ですか~羨ましい…!
これは乗り通したい!
乗ってみたい気もします笑
ブルートレインの富士とか丸一日かけて西鹿児島まで行ってたからな、目的地に到着する前に次の下りが発車してる訳だからすごいことよ…
今じゃ考えられないですね
この時代ってのはトイレも線路に垂れ流しだったんですよね……😮
穴から下覗くと、枕木が見えてたな。
@@江川利文 様( ̄◇ ̄;)何とっ⁉️大変な時代に長距離列車で移動してたんですね。
当時は、列車が近づくと、ガードの下を歩いている人は、一目散に駆け出しました。
@@tosamatty1105 様そりゃ怖いっ🤣🤣
トイレの扉には「停車中は使用しないでください」のプレートが貼付されてましたね
これだけ長い長時間乗車だと飲食はどうなってたんでしょうかねぇ食堂車は無さそうだし、お弁当も戦後引揚者相手に出来てたのでしょうか??
駅弁もあったか怪しいですしね…
主要駅では婦人会や大学生のボランティアが食事や湯茶のサービスをしていたものだよ。もちろん無償だった。
昔は東京発大阪、姫路いき鈍行もあったらしいですな
大阪発青森行は割と長くまで残っていたので馴染みがある。
NHKで寝台特急日本海と普通列車の乗り比べ(大阪ー青森間)をやっていましたね。
急行日本海ではなかったですか。
@@心の親父 古い話なので記憶は定かでないのですが、普通は特急の倍時間がかかるといっていたので、普通だったと思います。
@@la_frutta3269 寝台特急日本海が登場した時は既に大阪・青森の普通列車は消滅していたと思うが、確か新潟行きに短縮されていた。したがって急行日本海との比較が正当と思われる。
確か冒頭に紹介した日豊本線の普通列車が後に門司港ー宮崎間が急行になって「みやざき」となり、50.3で「日南」に、最後は「ドリームにちりん」になった列車ですよね?
子供の頃は岡山発~下関行き普通列車を見て「めっちゃ遠いじゃん」と思っていたけどこんなの序の口ですね。黎明期の広島カープは遠征に鈍行列車を使っていたので「タヒのロード」と恐れられていたとか。
そうだったんですか笑
若い頃岡山↔️下関の列車に馴染みがありました。約7時間かかりましたが、三原から折り返して来ていてすぐに下関に向けて発車、下関到着後また小月行きとして折り返していて、普通列車の車両として毎日こんな運用(酷使)されていながらよくぶっ壊れないものだなと思ったものです。一時期は呉線経由もあり、そちらはさらに1時間ほど多くかかったはずです。また1990年代の前半に1年間ほどの間でしたが姫路発岩国行というのがあって、近畿から1本の普通列車でギリギリとは言え山口県まで行けるのか…と思ったことがあります。
所要時間ではこの動画で紹介されているものには遠く及ばないものの、全線走破として、羽越本線下り・新津発秋田行に乗ったことがあります。白新線経由とかでなく、純粋に羽越本線。また、上野発の長岡夜行(鈍行)に乗ると、終着長岡の一つ手前・宮内で、4分の待ち合わせで、北陸本線上り・長岡発米原行に乗れました。そのあと京都まで出て、福知山線 0番ホームから、福知山まで急行の夜行「大山」に乗り...
自分は日豊本線全線電化前の日豊本線でよく撮影旅行で列車旅していましたが、上り830レ西鹿児島発門司港行きは有名ですが、ほとんど同じスジで上り2532レ西鹿児島発宮崎行きが凄いんです。宮崎で上り532レとして発車するまで宮崎駅のホームに11時38分に到着後、機関車も切り離され、改札も閉められ上り13時10分まで乗り遠し客は客車内に残されたままにされるんです。本当にホームに放ったらかしの客車にお客さんも乗ったままでいましたよ?
西鹿児島から大分まで「にちりん」で行ったことがあります。特急なのに6時間ぐらいかかった記憶があります。博多から西鹿児島も特急で4時間を超えてましたから、新幹線が出来て便利になりましたよね
凄い時代になりました
1983年頃まで大分から西鹿児島までの鈍行がありました。所要時間は7時間位だったと思います。
紹介していただいた列車全部が引上げ列車なのでしょうか?それとも別の理由があったのでしょうか?ちなみに寝台車ではないとの事ですが、乗客の方々ってどう過ごしていたのでしょうね。
最後の列車だけ引き揚げ列車ですあと寝台車がないので座席で寝てました
東京〜大垣間の夜行普通列車が165系で運行されていたころ、約38時間連続普通列車乗り継ぎ乗車をした事があるけど、思ったよりも平気だった(途中休憩ほぼなし)精神的にきたのは、約20時間で47本の列車、バス、タクシー連続乗り継ぎを行った時だった昭和50年代までは、名古屋発の天王寺行き普通列車もあった、紀勢本線経由で、途中の新宮駅で10系寝台車を連結し列車名が「はやたま」になっていたけど、普通車両は名古屋から天王寺まで走っていた
乗りとおすだけならさほど負担ではないが、乗り換えをすると非常に負担が大きい。
JRグルーブ共同企画として、稚内発、函館、東北、東海道、山陽、日豊線経由西大山行普通列車が運転されたら一瞬で席が埋まりそうですね。使用客車はもちろん12系です。100時間以上かかりそうですが。沿線の駅弁、地酒付きなどにしたら、地域振興にもつながるかも。
奥羽本線経由の上野ー青森間普通列車には、昭和43年頃まで2等車(グリーン車)が連結されてました。戦前は、青森から日本海廻りの広島行き普通列車があったそうです。全線乗ると【時差ボケ】しそう。
生前うちの祖父が、戦地に向かう時に東能代駅から広島行きの鈍行乗ったと言ってました。
@@yamaya2565 昔の長距離普通列車は、新聞輸送の荷物車に合わせたダイヤになってました。昭和50年頃、上野発旧型客車普通列車の高崎行きは、高崎、長野、直江津で運行替えしながら新潟まで行ってました。(逆の上りもあり)これは、郵便輸送だったのかな?昭和50年以前のダイヤでは、隅田川発秋田行きの急行荷物列車が横手で客車1両を併結して秋田行き普通列車として運行されてました。客車1両に荷物車が5両か6両ありました。時刻表には、急行荷物列車と普通列車が別々に記載されてますが、同一時刻になってます。
@@yamaya2565 宇品から戦地に向かったという事ですね。その為の広島行きなのですよ。
37時間って凄まじいと感じますが、それでも戦地で休む間もなく命の危険に晒されるよりはずっと良かったのかもしれませんね
心が休まったと思いますね~
国と国鉄の方針、国民の自由な移動、国土の均等なる発展、から特別料金不要の長距離列車が多数設定されていたと思いますが、一部を除いて、旧客が大半だったのでサービス的には最低限度で済まされていた事で実現していたんですよね、移動の自由を実現するのに。一度乗ったので結構です(笑)。
引き上げ列車の話があるけど、戦中だと更なる長距離記録がある関門トンネル開業直後に普通34列車が鹿児島発東京行き、急行桜島や特急はやぶさの距離を走破していた所要時間41時間25分だったと聞く鹿児島を21時に出て大阪が2日経った0時11分着東京は3日目の14時25分着
三昼夜列車というやつですかね?
@@4よつば-l4l 48時間(丸2日)まであと6時間半なので3日間にまたがる行軍だったことは間違い無いようです…列車が宇野→東京へ区間短縮されたのは1943年10月で、わずか11ヶ月のみだったようですな…
歴代で再長距離の34列車は途中の通過駅が8駅と、深夜でも各駅に停車するんです。下りの設定は31列車で、八代行なんですよね~。こちらは、姫路と岡山間は全て通過で、時刻表では1時間35分ノンストップです。
最長距離が再長距離になってしまった^^
戦後の南風崎〜東京行。必死の思いで、日本に辿り着いた人が乗って故郷に帰ったのかと思うと、感無量です。戦時中の長距離普通列車の時刻をブログで検索したら、東京〜門司か博多か、鹿児島か忘れたが、30時間以上も走行。駅名も、菊川が堀之内(だから、越後堀之内と言う駅名が出来る。)だとか、共和と笠寺が無くて、大府ー大高ー熱田とか…。戦時中で、旅行は贅沢だとの国策で、急行全廃、旅行は役場で許可証貰わないと❌。兎に角、軍需輸送優先の世の中でしたから。
昔の国鉄には夢がありましたね。国鉄だからこそ設定できた長距離普通列車。
最後の引き揚げ列車は外地からの復員、引き揚げの証明書があると行先が指定出来る引揚者乗車票が交付され無賃で乗車することが出来ました。佐世保は外地からの引き揚げ船が寄港する港の一つでした。引き揚げ者にとってみると乗車時間は関係なかったと思います。それに時代を考えると一部の区間を除いてほとんどが蒸気機関車牽引の客車列車だったことは想像出来るので、長崎(南風崎)~東京まで3日かかることは想定出来ます。
昭和30年代40年代のドラマでは、これから夜行でどこどこに向かいますってのが当たり前でしたね。それだけ、夜の交通網が整備されてて、且つ、すぐ乗れる、満席ではないあるいは特別席を買う必要が無いってことなんでしょうね。旅情を取るか速達性を取るか。。悩ましいところです。
コレらの超長距離普通鈍行列車(寝台車非連結)を考えますと、今のサンライズ号が、いかに東海道山陽本線路を素晴らしいスピードで駆け抜けていくのか、ホントに良く解りますね!!特急料金をもっと取っても良いと思うし、乗継ぎ割を使わせてもらうのが、正直忍びないですね……。(岡山での山陽新🚅割引きが廃止されますが妥当だと思います。)快速も含めますと、長大距離の普通列車で思い出深いのが、ムーンライトえちご号【村上発新潟折返し⇒新宿行】、同定期時代のながら号、2001年頃乗った小牛田発盛岡行ダラ、所要の時間だけなら盛岡発青森駅行の普通も過去あったと思いますが、客レでなく当時もう701系で運転されていて本当にお尻が爆発しそうになったのは良い思い出です。💧蟹田からは流石に特急乗りましたが、金が無い中学時代に、米沢駅から、⇒山形➡新庄➡横手➡秋田➡東能代➡大館➡青森➡蟹田まですべて普通各駅停車で乗通した事も、あります。今再びやれるかと聞かれれば、出来ません!と言います…💦😭
色々乗られてて羨ましい
36秒・始発駅「門司港」・・「もじみなと」ではなく、「もじこう」と読みます(^^)
すいません
いえいえ。高校時代に、ブルトレでバイトした事が有ります。朝、門司駅(門司港駅とは別の駅です)から下リブルトレに乗り、乗り込むブルトレによって熊本、大分、長崎、鳥栖、博多、鹿児島へ行き、数時間休憩後、折り返し東京まで3泊4日の行程で(車中2泊、東京1泊)、給料もらえて観光・・楽しい思い出です。ちなみに、東京の宿泊所は、リニア建設中の品川車両基地内に有りました(^^)
サイコロの旅の時にあったら、日程消滅鈍行列車ってありそう
いやーきついですね笑
東京発西鹿児島行きの普通列車ってなかったっけ?
1942年から43年ごろまで上りだけありました、普通34列車所要時間41時間半だったとか(当時は貨客分離前で旅客のターミナル駅も鹿児島、鹿児島発東京行きです)
戦前には青森発姫路行きがあったようで、これの何が凄い!って、なんと大久保駅を2回通るのですよw
秋田県の大久保と兵庫県の大久保ですね。
あ、なるほど!面白い!
@@morimori185 同名駅の乗車券で旅行する人とかもいますけど、これなかなかレアだと思います。団臨で秋田発旭川行(室蘭線経由)が走ったことあるらしいので、追分を2回通ったと思われますが、まず間違いなく通過かと(北海道は運転停車したかもですが)
@@真喜志宏美 大久保駅はこの他東京都(中央線)と京都府(近鉄京都線)と合わせて4駅ありますね。同一駅名乗車券は新富士(北海道)→新富士(静岡県)が有名ですね。
中央線経由かと思った(停車するとは言ってない)
引き揚げの皆さんが急行や特急を使わず、鈍行に乗らなければいけない。線路事情もあったでしょうが、まさに混乱のさなかに生まれたダイヤだったんでしょうね。
終戦後の混乱期には急行特急はろくに運転されていません。
この当時、優等列車はアライドリミテッド(連合軍専用)となっており、一般の日本人は利用できなかったためです。
上野(奥羽本線経由)青森には乗った。ただ小さい頃なので記憶が曖昧^^;新庄までだけど🚃
私が子供の頃は青と茶の客車列車が末期ながらまだ現役で、最後に乗ったのは大阪発福知山線経由鳥取行きで、福知山まで乗りましたが3時間以上かかりました。青の車両は比較的近代的で、茶色の車両は古めかしかった記憶があります。その後、レッドトレインに変わり運転区間も短縮されました。
歴史があるんですね。なるほどなぁと思いました。
あるんですよ~
ヨンサントオ以前の幹線に、長距離鈍行がけっこう設定されていました。南風崎発だったのは、佐世保が進駐軍(占領軍)に接収(占領)されていて、使えなかったと聞いております。
そうだったんですか!だから南風崎だったんですね
「南風崎」と手書きのサボをつけたモノクロ記録写真を見たことがあります。復員された方々は敗戦の悲哀を実感されたでしょう。
そうじゃない。南風崎駅の近くに針尾島という島があり、ここに引き揚げ者が一時収容されていたせいで最寄り駅の南風崎から乗車するようになっていたものである。列車は早岐から推進運転で南風崎まで運転されていた。
寝台でロビー等付いていたら楽しくて仕方ないだろうけど、ボックス席の硬い木製椅子なら苦行なんて言葉じゃ片付けられない
痔になりそう。
ロビーだったらいいんですけどね…
南風崎発東京行きは引き揚げ専用で一般乗客が乗れなかったのでちょっと事情が違うが、、、
長距離鈍行復活求む🙏
同じくです!
採算は?
年に1回、貨物を除く全JRグループ協力・・・で、ようやく何とかなるか、ならないかって企画でしょうか?
それぞれの区間列車を一つにまとめるようにすれば、今でも長距離普通列車は可能ですが、今は線区ごとに走る列車の形式が違うからね。客車列車があれば可能ですが。僕も当時にタイムスリップして乗ってみたいです。
21:50発の青森行きは通しで乗った頃があります。時間帯によって乗り込んでくる客が変わるのが面白かったですね。夜中は座席のシートを床に下ろしてその上で寝ていたと思います。昭和30年代の終わり頃です。
確か「急行日本海」用の急行券300円がもったいなかったのだろうと思います。その時は北海道に1ヶ月位行ってました。公衆便所の洗面の所で寝袋で寝た記憶もありますし、学校の用務員さんの部屋で休ませてもらったこともありました。今の若い方には想像も付かないでしょうが。
羨ましい😣
ほんとに羨ましい限りです!
札幌駅は少し前まで駅寝のメッカとして有名だったような。1990とかではなくもっと最近までではなかったかなあ?もう高架化から30年?? ???
昭和50年初頭まで、上野〜福島以遠の鈍行がまだ走ってた!当時、小学2年だった自分が郡山の祖父母にホームまで見送ってもらい埼玉の我が家まで一人で帰った事がある。小2でも、こんな列車が走っていたからこそで、乗り換えだらけの今じゃ絶対に出来ない芸当ですね。
例:大宮駅
「到着の列車は普通列車、一ノ関行きでーす。ハイ、止まるまでお待ち下さい。ご乗車になりましたらデッキの戸を閉めて中程にお進み下さい!」
末期の急行「高千穂」が「東京↔西鹿児島(日豊本線経由)」で約28時間。
長距離鈍行は停車時間がめちゃくちゃ長いので主要駅で食事ができたり買い出しに行けたりする。ちょっとした観光だってできたりする。
あれっ、もしかして「ななつ星」や「トランスイート四季島」みたい。
高千穂とかも有名ですよね~
四季島と同じくらいかかってますね
「桜島」もありましたね
夜行急行「さつま」は東京ー鹿児島間を約32時間でした。
いわゆる「ドカ停」ってやつですね🎵
@@ohnokazuki2029 この「さつま」のダイヤが夜遅くの発車で、到着が2日後の早朝。
この動画見ると、ぷらっとこだまで東京から新大阪乗車なんてかわいいもんですね。
そうですね~!
こういう長距離鈍行が存在していた理由の一つが当時はほぼ各駅で行われていた荷物扱いのためですよね。
荷物扱い駅で丹念に停車しながら荷物を拾い、下ろし…を繰り返しながら遠方まで運ぶ。主要駅では荷物扱いのために1時間以上も停車してることもありました。荷物輸送の終焉とともにこうした長距離鈍行は急速に姿を消していきました。
荷物輸送あってこその鈍行ですね
南風崎駅から東京行きは初めて知りました。引揚港は佐世保湾内ですが、佐世保港ではなく、浦頭(うらがしら)という針尾島にある入江です。ここから山越えで当時の最寄り駅南風崎まで140万人近くが歩きました。今ならハウステンボス駅が最寄ですね、引揚記念館がありますので、佐世保訪問の折には海自佐世保史料館セイルタワーと一緒にどうぞ。どちらも無料です。
南風崎(はえのさき)駅の最寄りには戦中まで海軍海兵団(つまり学校ね)が有りまして、戦後は海外引き上げ者の検疫所になりました。
現在のハウステンボスの場所です。
浦頭を訪ねようと私も問い合わせをしたことがあります。ぜひ行きたいものです。
南風崎、1度行ってみたいですね
浦頭に到着した人間が南風崎まで歩いたのではなく、現ハウステンボスとなっている敷地にあった旧針生海兵団宿舎まで歩いて給養に預かり、引揚援護局による手続きや確認を経、病気を治し体調を取り戻して帰宅できるようになってから南風崎の駅から帰ったのです。大陸では敗戦後すぐからチフス、コレラが蔓延し、島や施設で隔離期間を過ごさせる必要が大きかったのです。その点針生海兵団跡宿舎はもってこいの立地でした。占領軍からはDDTが供与されノミの駆除が一番になされました。頭から振りかけるのです。ジクロロジフェニルトリクロロエタンでジ・ジ・トリでDDTです。
ちなみに南風崎駅は現在、JR九州・大村線の無人駅として存続中です。。。
道路はほとんど未舗装、飛行機もまだ誰でも乗れる時代じゃない、鉄道が正に公共交通機関の王者だった時代ならではの列車ですね
凄いとしか
正しく王者ですね
引揚列車か・・・・涙が出てくるな。
こんな人たちが今の日本を作り上げてくれたんだよな。
その人たちを運んだ人も、外地から引き揚げてきた人たちも。
そして引き揚げて来られなかった人たちも。
バンザイクリフで身を投げた人たちもこの列車に乗りたかっただろうな・・・・。
みなさんのお陰て私は今ここに楽しく過ごせていますよ。
合掌。
引揚げと言えば肥薩線の悲劇も辛過ぎる。
謎、西園寺、スーツ、がみ、しろはんど、ボロクハ、にっこーけん、綿貫(敬称略)
全線完乗してそう
あと、鐵坊主も(^_^;)
まだ青春18切符が「のびのび切符」と言われていた時代に、京都から夜行鈍行「山陰」に乗車し、大社線で出雲大社にお参りに行きました。余部鉄橋で旧客のドアからヤッターマン乗りしたのが懐かしい……
山陰!!いいですね
良かった…オレだけじゃなかったんだ(^^);
実は小生も当時…上り山陰だったけれどカマ次位のスハフ42307の前よりデッキから身を乗り出して下を眺めた[前科]持ち(^^);
当時大学生、跳ねっ返りな若造の若気の至り。勿論手摺はしっかり握って…(手が滑ったら一巻の終わり)
然しそれから僅か数年後まさかまさかあの橋梁で列車転落(それもデビュー間もない[みやび]編成)事故が起きるなんて…しかも6人もの尊い命が失われるとは…予想も出来ませんでした。
鉄橋に差し掛かる前に体勢を作っておかないと怖くて危ない。
上野から奥羽本線経由青森行きの普通列車には2等車(グリーン車)が連結されてました。
普通列車にグリーン……いいですね
祖父から聞いた事ですが、大正末期から昭和に
かけて神戸駅発で羽越本線周りで根室駅までの
普通列車が有ったらしいです、札幌駅まで実乗
したようです。青函部分は連絡船でしょうが
2000km弱を3昼夜かけて走っていたようです
いやはや正に国鉄ですね。一度は乗って見たかった。昭和41年常磐線松戸駅の時刻表に青森行き普通列車と示されて居ました。良い時代でしたね。
上野発青森行きの普通列車は、子供の頃に時刻表で知りました。たしか、秋田で40分くらいの停車時間があったと思います。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で」
丸1日乗ってりゃそら無口になるわな
🤣🤣🤣しかし、寒い中デッキで海鳴りを聞く元気はあるのよね~
確かに寒いデッキに居ますしね笑
1:04 ということは往年の夜行鈍行”山陰”(827レ 1985年3月廃止)の下りは、829レを受け継いで出雲市で切られたスジだったのか。
出雲市から先は1両に2-3人しか乗ってなかったですから運転手の人件費も出なかったのでしょうね。
かつて国鉄時代に走っていた長距離の鈍行は、これまでの長距離鈍行の役目の一部(長距離直通)を新設の急行に移行する目的があった為、一部の鈍行は完全廃止ではなく運転区間短縮等、必要最低限の区間の列車は残して一部区間を廃止にしたり、運転系統を建て替えられたりするのが通例で、見た目的には鈍行列車の急行(晩年は更に特急)格上げが成されている。
長距離鈍行の一部には1等車や2等寝台車を連結する列車もあるのはそれだけ長距離利用者が存在した故の証であろう。当時としては余りに長距離長時間走行する為に昼間時間帯だけでは目的地に到達出来ず、夜間時間帯も通して運転されるが、夜間運転主体の夜間発朝方着の現行の寝台特急や座席夜行列車とは若干意味合いが異なり、かつての長距離鈍行は…いわゆる昼夜行列車とも云うべき列車だったと思える。因みに「夜行列車」も「寝台列車」(時刻表各誌の各時代や鉄道解説誌等により様々な解釈があるが、原則は食堂車等の非定員車両を除き編成の全車両が寝台車、又は寝台車と座席車の連結があり、かつ座席車全てが座席指定の車両だけの列車の意)も当初は単に「普通」「急行」「特別急行」と呼ばれ、夜行運転や寝台を特に強調する事(一部の寝台専用列車や全車1or2等編成列車等除く)はまだ一般的ではなく、特に寝台は2等と云えども1等車同様…当時はまだまだ特別な設備であったと云える。
また長距離鈍行運転廃止直後の時刻表を見ると、かつては繋がっていたであろう当時の長距離鈍行列車ダイヤを踏襲した深夜早朝時間帯に区間列車が設定されている事例があり、特に信越本線(512レ→)522レの新津始発250上り富山行(947着)や山陰本線831Dの長門市始発258下り下関行(452着)等…その他にも幾つか時刻欄に散見されて興味深い。(1967-10時刻表より)
長文失礼しました🙏
鈍行ではないですが、新幹線開業前の鹿児島本線だと夜行「かいもん」の後を受けた「ドリームつばめ」の廃止後、ほぼ同じスジで博多発熊本行の「有明」が設定されてました。しかし、この列車も博多長洲間に短縮された後に廃止されてしまいました。
829レ凄いですね。
山陰本線を全線走破!
乗り鉄からしたらまるで銀河鉄道のリアル版みたいで夢があり過ぎますね😊
高校1年の時上野から仙台まで常磐線経由の直通鈍行に乗ったことがあります。
上野を5時55分くらいに出て、仙台は確か14時くらいの到着でした。車内では地元の方からパン🍞や🍊みかんをもらった記憶があります!
昔は30時間を超える長距離の普通列車が走っていた事を考えると時代の流れを感じます。
今では長くて6時間ですもんね
どれもこれも乗ってて疲れそうな列車ばっかりですな!!
でも、一度でも良いから時間を忘れてこういう時間の掛かる列車に乗ってみたいと思うのが『鉄道を愛した者』の『悲しい性』でもあり
『鉄道趣味の楽しみ』の『可能性』の一つでもあります!!
本当に宿命みたいなもんですよね…
@@morimori185 さん
その宿命を受け止める『器』は
愛です、愛ですようp主さん
鉄道の飽くなき『挑戦と言う名の』愛が
私達を『さらなる沼』へと駆り立てて
惹きつけているんですよ!!
本当に素晴らしい! 素晴らしい!!
(ボンドルド卿)
今の感覚だと「30時間!!…うへ〰️っ(;゜゜)」だと思いますが、優等列車は特別な存在で高速道路も航空機も普及してない時代にあっては歩いて旅することを思えば格段に速くて快適だったんだと思いますね。
当時は急行こそあれど一般庶民のための交通機関として長距離の普通列車があったものと思います。
近隣の通勤通学、行商の方、そして数百キロの長距離乗車の方が同じ列車に乗るというのは現在ではそうそう考えられない光景です。
@@らいちゃん-t7p さん
コメントありがとうございます!!
確かに長時間の乗車は大変ですけど
それでも乗った事に『価値』を
見出したら『底なし沼』へと
どっぷりはまる事、請け合いですね!!
もう今となっては、こんな列車出てこないでしょうね。
出ないでしょうね…
長距離移動において新幹線や高速バス、飛行機が台頭してしまってる今、在来線普通列車の出番は無いでしょうね‥‥
深夜の時間帯のスジはコンテナ列車が使ってるのと、夜行列車を運行するときは、乗務員や停車駅で深夜勤務の駅員を手配しないといけないから、結構大変みたいです💧
@@ぽ号観測機
趣味仲間が「コキにコンテナハウス積んで旅客営業したら面白そうなのにな(笑)」なんて言ってたの思い出したわ。
まぁトイレとかどうすんの?とか、乗り心地くそ悪いぞとかイロイロ突っ込みいれてバカ話に終始しましたが。
@@面白くない人 国鉄自体が分割されてしまいましたし。lll_ _ )
高校生の頃、大阪発米子行きの各停(これでも十分長距離、長時間)に乗って、米子で夜行のだいせんに乗り継ぐ予定でしたが、途中の御来屋駅で強風で足止め。
1時間以上米子駅に着くのが遅れたが、だいせんは接続とって待っていてくれました。
大垣行き夜行は夏休みだと混雑でずっと立ったままですね。これに乗るのに昼から行列ができていました。昼から並んでも座れる保証がないというかんじです。みんな青春18のびのび切符で乗りました。80年代の話です。周遊券で乗ったこともありました。グリーン車にふんぞり返って寝ました。
昭和30年代くらいまでみんな貧しかったですね。これらの普通列車は時期にもよりますが大体が満員電車並みの超満員と決まっています。上野発青森行き普通列車なんてお盆や正月は座るのは無理でしょう。到底庶民には特急なんて乗れません。急行八甲田なんかも混雑期は超満員でした。指定席が取れたら奇跡です。でも12系時代だと冷房がついているだけでもはるかに快適だったと思います。冷房なし、SLけん引なら本当の地獄です。昭和30年代まで座れれば幸運だったと思います。それでも庶民は満員普通夜行に乗るしか選択肢がなかったから我慢するしかなかったのでしょうね。
ゴハチけん引で10軽寝台の寝台急行は天国でした。自分は3歳でしたが大阪発呉線経由広島行きの音戸51号と記憶しています。冷房の効いたところで寝るなんて当時は大変なぜいたくでした。しかし昭和44年ごろでもう10系寝台は車単には穴が開いていました。
夜行じゃないですが昔の朝の高崎発上野行きはインドみたいに屋根に上がったり機関車のデッキに乗ったりしていますね。
今年鉄道開業150年だから、臨時列車として、運行して欲しかったね。上野~青森間の列車は乗ってみたかったですね。
そうですね~!
南風崎発東京行の復員列車ですが東京まで行ってそれで終わりってことはなく、当然東京発の下り列車として九州へ帰って行くわけです。
それが東京発早岐行普通列車で上りと違いこちらは一般の旅客が乗車できました。早岐止まりなのは早岐に車両基地があるからです。
宮脇俊三氏の著書に出てきますが、東京駅で早岐行と言われても普通の人には行先がわかるわけもなく「この列車は大阪に行きますか?」などとなったそうです。
東京→早岐のサボがかかってても、そもそも「はいき」と読める人も少なかったでしょうね。
実はさらに遡ると上手が。
戦時中に設定された鹿児島発の東京行き。夜行二回で41時間かかっていたようです。停まる駅は245駅!
ただ、時節柄1ボックスに6人がけ、旅客列車自体の本数も少なくかなりの混雑だったものと思える上、末期には遅延どころか運行さえままならない事態にも遭遇していたのかもしれません。
戦後の南風崎発の列車も大陸から命からがら引揚げ、財産もほとんど没収されなんとかたどり着いた人々でごった返していたものと思います。
ただ、この列車は8000番台の臨時列車。引揚げて来られた方専用なのか途中から乗車できたのかは分かりかねます。
いずれにせよ銃後を守り戦争を耐えてこられた方、そして苦難の引揚げをされた皆様にお疲れさまと伝えたいものです。
6人掛けねえ。長谷川町子さんの漫画で誰も励行しないので、登場人物が「3人掛けお願いしまーす」とか言ったら傷痍軍人専用車両だったので笑われるって話が合った。
@@TheBikkuri さま
今では東海道線の混んでいる電車のボックスシートの通路にキャリーケースを置いて4人がけなのに二人しか座れなくするケースも。先日18キッパーの人がやっておりましたが、戦時中でしたら即刻注意を受けて下ろされていたことと思います。そういう人は最初から新幹線の有料の手荷物置き場かグリーン車に乗ってほしかった。
@@TSUYOS185 コロナ期には禁止になっていたが、座席を向かい合わせにすると裏に荷物を置くスペースは発生する。皆で協力し合えることはやれば良い。昨今は隣の座席に人を座らせまいと荷物を置く人が多くて困るが、戦時中のような強制を期待したりむやみに制限を望むのは異なる。新幹線の設備がキャリーケースのことを考えなさ過ぎているのが根本的な問題である。横倒しにして座席下に置かせ、持ち主には元来蹴られても気にするものではないと周知させるべきなのだ。
所要時間30時間超えの鈍行列車
座り続けるのも大変
腰に負担がかかりそう
大阪発の夜行列車降りた時から 体が痛くて 歩けない
大変も大変ですよね
寝台も食堂車もなかった事を考えると、かなりきついですね。
@@0730issop
大阪発青森行きの普通列車にハネとオシが連結されていたよ。
もし現在もこんな列車があったら鉄道系RUclipsrがみんな乗りに行きそうですよねw
でも、充電ができませんよ… モバイルバッテリーをたくさん持っていかなくちゃ!
乗りに行きますね笑
やるとしたらロングシート乗り継ぎとかやってる人でしょうね。スーツさんの場合、急行大和のロネで終点湊町まで行って南海電車に乗り換え、1両だけの和歌山市行き寝台車に乗ったがみさんを待ってそう(笑)
一番最初に紹介されていた門司港から西鹿児島は乗ったことがあります。東北本線は長距離各駅が無くなった時期で黒磯行が最長だったかな…常磐線は上野を6時前に出る仙台行の各駅がありましたね。東海道線は大垣夜行があったので、大垣乗換で西明石行に乗り、岡山あたりまではスムーズに移動できました。九州は鹿児島本線と日豊本線の双方を各駅で乗り通しましたが、山陰本線をはじめ、日本海側の路線が乗り通せなかったのが心残りですね。
色々と乗れたの羨ましい…!
@@morimori185 青春18切符などという便利なものが無かったので、駅の窓口で切符を路線図を見ながら発行してもらう方式でした。東京から西鹿児島までの切符の有効期間は確か三日間で途中下車前途有効でした。北海道も函館から稚内まで各駅に乗りましたので、最南端の指宿線の西大山駅から最北端の稚内駅まですべて各駅で乗ったことが有るのが(一度の旅行ではありませんが)密かな自慢です。
@@siroutodaiku 東京・西鹿児島を往復切符で買うと1か月有効期間が有る上、復路は二割引きになってたのだが、、、
こういうの見ると現代はかなり贅沢になったんだなあと。2〜3時間座りっぱなしはしんどいとか1回の乗り換えが面倒とか。
そんなこと言ってらんないですね笑
まだ電化してない時がほとんどだから、途中駅で機関車(SL)交換か給水で長時間停車などあったからこんなに長距離列車があったんだろうな。
当時の大きな駅のホームには洗面台が有ったから、長時間停車の時に洗顔などした人が居たかも。
この手の列車には郵便車や荷物車が併結されていることもあったので、荷扱いのための長時間停車もあったと思う。
ちょっと疑問なんですが、例えば最後にご紹介されていた引揚げ列車など、東京行き・上野行きの2種類ある場合、当時の東京~上野は山手線や京浜東北線を通っていたんでしょうか?
かつて、山陰線は旧客の長距離鈍行列車が当たり前のように走っていた。今となっては懐かしい。
20年位前に千葉から青森まで鈍行で行って青森から『はまなす』使って札幌行って、半日位滞在して帰路も同じ行程というのをやった事がありますが、ほぼ1日乗っているだけでも疲れるものなんだなあってその時に実感しましたね。
はまなす乗ってみたかったですね!
JR九州発足時には、南風崎ツアーが決行されており、
当時引き上げで帰国できた方がまだ存命だったので、
当時を懐かしむ工程が組まれていたようです。
そんなものがあったんですね
読みたい本を持って、長時間停車の駅でお酒や弁当を買ったり、立ち食いそばを食べながら30時間。夢のような列車。
そんな優雅なものではないですよ。無我にならないと耐えられるものではありません。
最初は楽しいかもですね…
若い頃特急「白鳥」で青森から大阪まで乗り通したことがありますが
大阪に着いた時には全身が痛いし怠いしで歩くのすら億劫になりました
特急ですらこれなのに普通列車の硬い椅子でしかも30時間越えなんて
昔の人はどれだけ頑丈にできてたんでしょうね
これだけで尊敬できます
食堂車でしょっつる鍋。南正時さんと兼高かおるさんはグリーン車で乗り通しました。
高崎の旧客でリバイバルとかあったらなー。
2泊3日で日本海沿いの鈍行旅とか乗り鉄趣味にはたまらんて。
それは本当に乗りたいですね……!
特急列車は文字通り特別急行、急行列車も高嶺の花。準急ですら気軽には乗れない…そんな時代には長距離鈍行は庶民・下層階級・貧困層には有難い存在。郵便・荷物輸送に加えてチッキも一般的だった当時は乗り換えなし!も支持されたのでは?
ただ車輛は…軽量客車やスハ43・オハ46などはまず望むべくもなく、オハ35・スハ42なら大当たり、スハ32なら儲けモノ。下手すりゃオハ61の板張り背刷り。流石に其れで全区間は…ガチ[鉄]客車沼深淵棲息族と雖も退いてしまいそう(^^);
(スハ43・オハ46・スハフ42・オハフ45そしてスハ45・スハフ44の内近代改造青塗アルミサッシ車内デコラ張りで窓下テーブル付通路のドアも網目ガラスなら長時間乗車=少なくとも夜行夜明かし=は平気だけど…譲ってスハ42・オハ36・スハ40・スハ33。オハ47・オハフ46は一歩下がってオハ35・オハフ33並。そして意外と揺れた10系ナハ・ナハフ。尚スハ44・スハフ43なら文句なし!)
415系だと派手に揺れた東小倉付近のカーブも、ながさき号のスハ43・オハ46・スハフ42・オハフ45は滑らかに通過したのは懐かしくも痛快な思い出(^^);(軽量客車もナハフ102003は然程じゃなかったのにナハフ1117は意外と揺れたのは今もって不思議な思い出)
もともと1950年代以前の国鉄時代の鉄道の使命は郵便、貨物輸送で客車普通列車には郵便車や荷物車を併結で走っていて、途中駅に荷下ろしなどの時間があるため長距離かつ長い運行時間になっていたようです。鉄道機能としては貨物輸送するからついでに人も運ぶ感じだったんでしょう。
その後、定時運行の必要性が高くなり貨物は貨物列車となり客車はディーゼルや電車に置き換わり高速化した流れがあります。でも、こんなにゆっくりが許されるのも今にはない贅沢な感じです。しんどいでしょうけど😅
昔ならではですね~
今となってはロマンを感じるまでの列車ですね。
いやあ、思わず見てしまいました。長距離普通列車とはいえ、区間、区間での利用の需要も相当あったのでしょうね。東京から通して九州や青森まで旅行するお客さんは、そうは多く無かったのではと思います。
とかく始発から終着までの時間が話題になるが、かつて長距離鈍行では、主要駅での長時間停車は当たり前だったなぁ。
今の時代にこれらの列車を走らせても、よほどの乗り鉄でない限り乗り通すのは至難だろうな。。。
途中下車して一旦家に帰って寝て次の日に新幹線で先回りして終点前でもう一度乗る。
俺は乗り通す!!なんやったら、はしごする✊
@@大鍋生助
西村京太郎のシリーズみたいだな
乗り通したいですね!
私のテツの師匠、トワイライトエクスプレスが遅延して食堂車で4回、食事をとり、ほぼ24時間乗っていた経験があったようですが、やはり昔の長距離鈍行列車は凄いですね。🛤
トワイライト羨ましいです!
夜行列車は昔何回も乗った事がありますが、今でも鈍行でもいいから夜行長距離列車は是非定期的に復活してほしい!
飛行機苦手なので・・・・・。
願わくは食堂車とまでは言わなくても、夜中や早朝腹減るから車内販売か売店の号車が有れば最高!ヨーロッパやアメリカとか海外がうらやましい!
ヨーロッパも気になりますよね
@@morimori185 ヨーロッパ(ユーロナイトなど)はもちろん動画でしか見たことないけど、食堂車はなくとも車掌に頼んだら軽食や飲み物が買えるみたいだし寝台車予約なら簡単な朝食サービスもあるみたいです。それでも十分です。日本だったらコンビニや売店で事前に十分買えるからそんなもんいらんと言う人も多いでしょうが・・・。
ベトナムを縦断する長距離列車もありますよ。乗り通すと30時間余りで、車内販売の食事があります。昔の日本の長距離列車の雰囲気に近いかもしれません。
この前BS朝日の番組で出てきました。
青森ー上野間(奥羽本線経由)の普通列車は、テレビのドキュメンタリー番組で放送されていたのを覚えています。
テレビクルーが青森から上野までの全ルートに乗車して撮影を行っていました。
ウチの母親は鹿児島の出身で、中学卒業後、愛知県の会社に集団就職しましたが、鹿児島県の川内駅から愛知県の尾張一宮駅まで、直通の普通列車で20数時間掛けて行ったと言ってました。
見てみたいですねー!
日本海縦貫線には、1945年辺りに上郡発青森行もあったらしい。所要時間は34時間7分。
そんなのがあったんですか笑
小学生の時、叔母に連れられて、青森行き普通に、大阪ー富山間に乗りました、朝大阪を出て富山に夜7時ごろでした。北陸トンネルの無かった時代、今庄で特急白鳥に抜かれましたが、それ以外、富山まで抜かれる列車はありませんでした。向かい側のオバサンは、入善まで行くとのことでした。鉄道マニアでなくても、結構皆さん普通列車を利用していました。
旧国鉄時代だったから設定できた列車ですね。今は地域毎のJRグループに分割されてしまったので、同一グループ内で完結する列車しか設定できないし、区間によっては第三セクターへ移譲したところもあるから、尚の事難しいでしょう。
国鉄末期には民営化しても会社跨ぐ列車も廃止しませんってあったんだけどね…騙されましたね
@@ゆいまーる書記長 そうそう、「ブルートレイン等の長距離列車も廃止しません」ってのも言ってた。当時、民営化は致し方ないと思っていたが、分割化には反対だった。まさに当時懸念していたことが、現実になっている(>_
姫路の小学生を草津線回りで伊勢市まで運ぶ修学旅行臨も加太越えの電化対応トンネル掘りたくないのと新造客車が無駄なのが相まってやめちゃったんですかね。
早いうちに山陽電鉄にあおぞらが乗り入れすれば...
門司港・西鹿児島の列車、逆方向ですが宮崎→大分で使ったことあります。懐かしい!
新宿発の夜行登山列車を、復活させてほしい。
登山は非常に早い早朝から登り始めて、「日没前に」山小屋や宿泊地に着く必要があるので、可能な限り早い早朝に着く夜行列車が必要だからです。
近年、登山者も相当増えたので、需要がある。
今振り返ると、国鉄末期まで残ってた上越線の長岡行とか中央夜行なんかは明らかに登山者向けの列車だよな
この時代にRUclipsがあったら当たり前のように長距離列車をコンプリートするRUclipsrがたくさんいそう。
絶対居ますね笑
特にスーツ君のが見たい(*´・ω・`)b
他にも八代発大阪行や川内発京都行(川内発鳥栖行として川内を発車、鳥栖で列車番号が変わり京都行となる)などがあったようです。
「昭和鉄道史」
と言う本には車体にチョークで大きく「引揚列車」(写真には漢字四文字)と書かれた写真がある。4:10の事だと思う。
そうですねー!
通しで乗車する人など居ないだろう…と思っていたら、
引き揚げの方々の利用とあれば、通し乗車もあったのでしょうね。
しかも座席に座らず(座れず)満員の立ち席で…。
動画の最後に引き揚げ列車とありましたが、私の父親一家も戦後大陸から引き揚げて来ました。
引き揚げ港は博多だったようです。
博多?から関門トンネルを通り、東京から私の地元まで帰って来たそうです。
今ならイベント列車として走らせれば満席間違いなしだと思いますね。
乗客はもちろん、鉄道系RUclipsrとガチの乗り鉄くらいでしょうけど。
本当にそれぐらいしか乗らなそうです笑
どれもロマン溢れる素晴らしい列車だね〜、めちゃくちゃ乗りたい衝動に駆られるよ
キツそうですけど…ちょっと乗ってみたい気もします笑
濃厚な旅になりそうだよね〜
あとは上野発信越本線、北陸本線、東海道線、福知山線経由川西池田いきもあったみたいですね
824レ乗ったことあります。福知山に着いた時は二両だけでDD51が欠伸してました。確か米子でリリーフと交代したようです。
特急富士が東京~西鹿児島間約24時間30分それ超える列車があったんですね。
ありましたね~
小学生の頃、鈍行じゃないが長距離夜行乗ってました。大垣から久留米まで急行阿蘇号での経験。もちろん寝台じゃなくボックス座席でしたよ。所要時間は15時間位だったと思う。ほとんど徹夜なので疲れると思うのは大人だけ。到着したら遊び回ってましたよ。
阿蘇ですか~羨ましい…!
これは乗り通したい!
乗ってみたい気もします笑
ブルートレインの富士とか丸一日かけて西鹿児島まで行ってたからな、目的地に到着する前に次の下りが発車してる訳だからすごいことよ…
今じゃ考えられないですね
この時代ってのはトイレも線路に垂れ流しだったんですよね……😮
穴から下覗くと、枕木が見えてたな。
@@江川利文 様
( ̄◇ ̄;)何とっ⁉️大変な時代に長距離列車で移動してたんですね。
当時は、列車が近づくと、ガードの下を歩いている人は、一目散に駆け出しました。
@@tosamatty1105 様
そりゃ怖いっ🤣🤣
トイレの扉には「停車中は使用しないでください」のプレートが貼付されてましたね
これだけ長い長時間乗車だと
飲食はどうなってたんでしょうかねぇ
食堂車は無さそうだし、お弁当も戦後引揚者相手に出来てたのでしょうか??
駅弁もあったか怪しいですしね…
主要駅では婦人会や大学生のボランティアが食事や湯茶のサービスをしていたものだよ。もちろん無償だった。
昔は東京発大阪、姫路いき鈍行もあったらしいですな
大阪発青森行は割と長くまで残っていたので馴染みがある。
NHKで寝台特急日本海と普通列車の乗り比べ(大阪ー青森間)をやっていましたね。
急行日本海ではなかったですか。
@@心の親父 古い話なので記憶は定かでないのですが、普通は特急の倍時間がかかるといっていたので、普通だったと思います。
@@la_frutta3269 寝台特急日本海が登場した時は既に大阪・青森の普通列車は消滅していたと思うが、確か新潟行きに短縮されていた。したがって急行日本海との比較が正当と思われる。
確か冒頭に紹介した日豊本線の普通列車が後に門司港ー宮崎間が急行になって「みやざき」となり、50.3で「日南」に、最後は「ドリームにちりん」になった列車ですよね?
子供の頃は岡山発~下関行き普通列車を見て「めっちゃ遠いじゃん」と思っていたけどこんなの序の口ですね。黎明期の広島カープは遠征に鈍行列車を使っていたので「タヒのロード」と恐れられていたとか。
そうだったんですか笑
若い頃岡山↔️下関の列車に馴染みがありました。約7時間かかりましたが、三原から折り返して来ていてすぐに下関に向けて発車、下関到着後また小月行きとして折り返していて、普通列車の車両として毎日こんな運用(酷使)されていながらよくぶっ壊れないものだなと思ったものです。一時期は呉線経由もあり、そちらはさらに1時間ほど多くかかったはずです。また1990年代の前半に1年間ほどの間でしたが姫路発岩国行というのがあって、近畿から1本の普通列車でギリギリとは言え山口県まで行けるのか…と思ったことがあります。
所要時間ではこの動画で紹介されているものには遠く及ばないものの、全線走破として、
羽越本線下り・新津発秋田行に乗ったことがあります。白新線経由とかでなく、純粋に羽越本線。
また、上野発の長岡夜行(鈍行)に乗ると、終着長岡の一つ手前・宮内で、4分の待ち合わせで、北陸本線上り・長岡発米原行に乗れました。そのあと京都まで出て、福知山線 0番ホームから、福知山まで急行の夜行「大山」に乗り...
自分は日豊本線全線電化前の日豊本線でよく撮影旅行で列車旅していましたが、上り830レ西鹿児島発門司港行きは有名ですが、ほとんど同じスジで上り2532レ西鹿児島発宮崎行きが凄いんです。
宮崎で上り532レとして発車するまで宮崎駅のホームに11時38分に到着後、機関車も切り離され、改札も閉められ上り13時10分まで乗り遠し客は客車内に残されたままにされるんです。
本当にホームに放ったらかしの客車にお客さんも乗ったままでいましたよ?
西鹿児島から大分まで「にちりん」で行ったことがあります。特急なのに6時間ぐらいかかった記憶があります。博多から西鹿児島も特急で4時間を超えてましたから、新幹線が出来て便利になりましたよね
凄い時代になりました
1983年頃まで大分から西鹿児島までの鈍行がありました。
所要時間は7時間位だったと思います。
紹介していただいた列車全部が引上げ列車なのでしょうか?それとも別の理由があったのでしょうか?
ちなみに寝台車ではないとの事ですが、乗客の方々ってどう過ごしていたのでしょうね。
最後の列車だけ引き揚げ列車です
あと寝台車がないので座席で寝てました
東京〜大垣間の夜行普通列車が165系で運行されていたころ、約38時間連続普通列車乗り継ぎ乗車をした事があるけど、思ったよりも平気だった(途中休憩ほぼなし)
精神的にきたのは、約20時間で47本の列車、バス、タクシー連続乗り継ぎを行った時だった
昭和50年代までは、名古屋発の天王寺行き普通列車もあった、紀勢本線経由で、途中の新宮駅で10系寝台車を連結し列車名が「はやたま」になっていたけど、普通車両は名古屋から天王寺まで走っていた
乗りとおすだけならさほど負担ではないが、乗り換えをすると非常に負担が大きい。
JRグルーブ共同企画として、稚内発、函館、東北、東海道、山陽、日豊線経由西大山行普通列車が運転されたら
一瞬で席が埋まりそうですね。使用客車はもちろん12系です。100時間以上かかりそうですが。
沿線の駅弁、地酒付きなどにしたら、地域振興にもつながるかも。
奥羽本線経由の上野ー青森間普通列車には、昭和43年頃まで2等車(グリーン車)が連結されてました。戦前は、青森から日本海廻りの広島行き普通列車があったそうです。
全線乗ると【時差ボケ】しそう。
生前うちの祖父が、戦地に向かう時に東能代駅から広島行きの鈍行乗ったと言ってました。
@@yamaya2565
昔の長距離普通列車は、新聞輸送の荷物車に合わせたダイヤになってました。昭和50年頃、上野発旧型客車普通列車の高崎行きは、高崎、長野、直江津で運行替えしながら新潟まで行ってました。
(逆の上りもあり)これは、郵便輸送だったのかな?昭和50年以前のダイヤでは、隅田川発秋田行きの急行荷物列車が横手で客車1両を併結して秋田行き普通列車として運行されてました。客車1両に荷物車が5両か6両ありました。時刻表には、急行荷物列車と普通列車が別々に記載されてますが、同一時刻になってます。
@@yamaya2565 宇品から戦地に向かったという事ですね。その為の広島行きなのですよ。
37時間って凄まじいと感じますが、それでも戦地で休む間もなく命の危険に晒されるよりはずっと良かったのかもしれませんね
心が休まったと思いますね~
国と国鉄の方針、国民の自由な移動、国土の均等なる発展、から特別料金不要の長距離列車が多数設定されていたと思いますが、
一部を除いて、旧客が大半だったのでサービス的には最低限度で済まされていた事で実現していたんですよね、移動の自由を実現するのに。
一度乗ったので結構です(笑)。
引き上げ列車の話があるけど、戦中だと更なる長距離記録がある
関門トンネル開業直後に普通34列車が鹿児島発東京行き、急行桜島や特急はやぶさの距離を走破していた
所要時間41時間25分だったと聞く
鹿児島を21時に出て大阪が2日経った0時11分着
東京は3日目の14時25分着
三昼夜列車というやつですかね?
@@4よつば-l4l
48時間(丸2日)まであと6時間半なので
3日間にまたがる行軍だったことは間違い無いようです…
列車が宇野→東京へ区間短縮されたのは1943年10月で、わずか11ヶ月のみだったようですな…
歴代で再長距離の34列車は途中の通過駅が8駅と、深夜でも各駅に停車するんです。
下りの設定は31列車で、八代行なんですよね~。
こちらは、姫路と岡山間は全て通過で、時刻表では1時間35分ノンストップです。
最長距離が再長距離になってしまった^^
戦後の南風崎〜東京行。必死の思いで、日本に辿り着いた人が乗って故郷に帰ったのかと思うと、感無量です。
戦時中の長距離普通列車の時刻をブログで検索したら、東京〜門司か博多か、鹿児島か忘れたが、30時間以上も走行。駅名も、菊川が堀之内(だから、越後堀之内と言う駅名が出来る。)だとか、共和と笠寺が無くて、大府ー大高ー熱田とか…。
戦時中で、旅行は贅沢だとの国策で、急行全廃、旅行は役場で許可証貰わないと❌。兎に角、軍需輸送優先の世の中でしたから。
昔の国鉄には夢がありましたね。国鉄だからこそ設定できた長距離普通列車。
最後の引き揚げ列車は外地からの復員、引き揚げの証明書があると行先が指定出来る引揚者乗車票が交付され無賃で乗車することが出来ました。佐世保は外地からの引き揚げ船が寄港する港の一つでした。引き揚げ者にとってみると乗車時間は関係なかったと思います。
それに時代を考えると一部の区間を除いてほとんどが蒸気機関車牽引の客車列車だったことは想像出来るので、長崎(南風崎)~東京まで3日かかることは想定出来ます。
昭和30年代40年代のドラマでは、これから夜行でどこどこに向かいますってのが当たり前でしたね。それだけ、夜の交通網が整備されてて、且つ、すぐ乗れる、満席ではないあるいは特別席を買う必要が無いってことなんでしょうね。旅情を取るか速達性を取るか。。悩ましいところです。
コレらの超長距離普通鈍行列車(寝台車非連結)
を考えますと、
今のサンライズ号が、いかに東海道山陽本線路を素晴らしいスピードで駆け抜けていくのか、ホントに良く解りますね!!
特急料金をもっと取っても良いと思うし、乗継ぎ割を使わせてもらうのが、正直忍びないですね……。(岡山での山陽新🚅割引きが廃止されますが妥当だと思います。)
快速も含めますと、長大距離の普通列車で思い出深いのが、
ムーンライトえちご号【村上発新潟折返し⇒新宿行】、同定期時代のながら号、2001年頃乗った小牛田発盛岡行ダラ、所要の時間だけなら盛岡発青森駅行の普通も過去あったと思いますが、客レでなく当時もう701系で運転されていて本当にお尻が爆発しそうになったのは良い思い出です。💧蟹田からは流石に特急乗りましたが、金が無い中学時代に、
米沢駅から、⇒山形➡新庄➡横手➡秋田➡東能代➡大館➡青森➡蟹田まですべて普通各駅停車で乗通した事も、あります。
今再びやれるかと聞かれれば、出来ません!と言います…💦😭
色々乗られてて羨ましい
36秒・始発駅「門司港」・・「もじみなと」ではなく、「もじこう」と読みます(^^)
すいません
いえいえ。高校時代に、ブルトレでバイトした事が有ります。朝、門司駅(門司港駅とは別の駅です)から下リブルトレに乗り、乗り込むブルトレによって熊本、大分、長崎、鳥栖、博多、鹿児島へ行き、数時間休憩後、折り返し東京まで3泊4日の行程で(車中2泊、東京1泊)、給料もらえて観光・・楽しい思い出です。ちなみに、東京の宿泊所は、リニア建設中の品川車両基地内に有りました(^^)
サイコロの旅の時にあったら、日程消滅鈍行列車ってありそう
いやーきついですね笑
東京発西鹿児島行きの普通列車ってなかったっけ?
1942年から43年ごろまで上りだけありました、普通34列車
所要時間41時間半だったとか
(当時は貨客分離前で旅客のターミナル駅も鹿児島、鹿児島発東京行きです)
戦前には青森発姫路行きがあったようで、これの何が凄い!って、なんと大久保駅を2回通るのですよw
秋田県の大久保と兵庫県の大久保ですね。
あ、なるほど!面白い!
@@morimori185 同名駅の乗車券で旅行する人とかもいますけど、これなかなかレアだと思います。
団臨で秋田発旭川行(室蘭線経由)が走ったことあるらしいので、追分を2回通ったと思われますが、まず間違いなく通過かと
(北海道は運転停車したかもですが)
@@真喜志宏美
大久保駅はこの他東京都(中央線)と京都府(近鉄京都線)と合わせて4駅ありますね。同一駅名乗車券は新富士(北海道)→新富士(静岡県)が有名ですね。
中央線経由かと思った(停車するとは言ってない)
引き揚げの皆さんが急行や特急を使わず、鈍行に乗らなければいけない。
線路事情もあったでしょうが、まさに混乱のさなかに生まれたダイヤだったんでしょうね。
終戦後の混乱期には急行特急はろくに運転されていません。
この当時、優等列車はアライドリミテッド(連合軍専用)となっており、一般の日本人は利用できなかったためです。
上野(奥羽本線経由)青森には乗った。ただ小さい頃なので記憶が曖昧^^;
新庄までだけど🚃
私が子供の頃は青と茶の客車列車が末期ながらまだ現役で、最後に乗ったのは大阪発福知山線経由鳥取行きで、福知山まで乗りましたが3時間以上かかりました。青の車両は比較的近代的で、茶色の車両は古めかしかった記憶があります。その後、レッドトレインに変わり運転区間も短縮されました。
歴史があるんですね。なるほどなぁと思いました。
あるんですよ~
ヨンサントオ以前の幹線に、長距離鈍行がけっこう設定されていました。
南風崎発だったのは、佐世保が進駐軍(占領軍)に接収(占領)されていて、使えなかったと聞いております。
そうだったんですか!だから南風崎だったんですね
「南風崎」と手書きのサボをつけたモノクロ記録写真を見たことがあります。復員された方々は敗戦の悲哀を実感されたでしょう。
そうじゃない。南風崎駅の近くに針尾島という島があり、ここに引き揚げ者が一時収容されていたせいで最寄り駅の南風崎から乗車するようになっていたものである。列車は早岐から推進運転で南風崎まで運転されていた。
寝台でロビー等付いていたら楽しくて仕方ないだろうけど、ボックス席の硬い木製椅子なら苦行なんて言葉じゃ片付けられない
痔になりそう。
ロビーだったらいいんですけどね…
南風崎発東京行きは引き揚げ専用で一般乗客が乗れなかったのでちょっと事情が違うが、、、
長距離鈍行復活求む🙏
同じくです!
採算は?
年に1回、貨物を除く全JRグループ協力・・・で、ようやく何とかなるか、ならないかって企画でしょうか?
それぞれの区間列車を一つにまとめるようにすれば、今でも長距離普通列車は可能ですが、今は線区ごとに走る列車の形式が違うからね。客車列車があれば可能ですが。僕も当時にタイムスリップして乗ってみたいです。