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伊勢宗瑞の物語は本当に面白い。若い頃から知略にたけ、戦に強いが善政で領民に慕われている。戦国大名の良いお手本のような人物。
めちゃくちゃわかりやすい動画内での早雲呼びもわかりやすさ重視と思うと動画作成者の優しい心遣いが伝わりますね
違和感もあるけど
よくまとめられてて、分かりやすかったです。ありがとう。
学問として修めておらず、戦国時代は信長を軸にしたゲームに依るところが大きいので、北条と今川との縁が垣間見れて良かったです。小勢力から地方を統一したような有名武将も、地盤を固めた親祖父世代の働きがとても大きいんですよねえ。
早雲が居なければ、今川家がなくなっていたかもしれないくらい重要
「伊勢素浪人説否定」しておいて、50年間を備中説で「再び三重県さんすいません。また伊勢国は大事です。」なんて、現実は「深刻な問題」だと思います。何はともあれ、戎光祥出版から「戦国研究の最前線」と「在野史論第17集」近刊発売中です。超最新研究です。
やはりそこそこの家柄がないと戦国大名として成り上がるのは難しいですね。
そう考えると秀吉の立身出世は凄え。
今まさに連載中の新九郎奔る!、ですね。アニメ化早よ。
1人で後北条氏の基盤作るの明らかにレベチ
氏綱の室が北条家ゆかりの女性だったため後北条にも元々の北条家の血筋が入っていたと思われます。
玉縄の横江氏の娘という説がありますね。
地味に海岸沿いを押さえていったのが凄い
早雲のやった功績は北条家を作ったことだなあまり一揆も起きなかったらしいし
氏綱から北条と名乗りだしたんですね🤔場所も近いから鎌倉北条と何か関係があるのか思ってました。
氏綱の嫁は、鎌倉北条家の出身説は、ありますよね。
鎌倉北条も後北条も平氏出身という点では同じ
今川家は足利家の分家、足利一門でした。足利尊氏が亡くなる時に、「将来、足利本家が将軍職を全う出来なくなった時は、今川か吉良が将軍職を継ぐように」と遺言を残しました。そのような名家に伊勢氏は嫁いだので、伊勢氏も名家であったのでしょうね~(^o^)/
今川家に足利将軍家を次ぐ資格はありません。6代義教が御一家という制度を作り足利将軍家に万一の事態あれば、吉良・渋川・石橋の3家から跡継ぎを出すようにしました。そもそも今川家は吉良家の分家(足利本家からすると分家の分家)で家格も管領→相伴→国持と3番目に過ぎません。この国持は山名や土岐、六角等、非足利血統の家が多く所属する家格です室町時代はこの家格が物凄く大事で、いくら実力が有り守護国を多く持っても、家格が低ければ幕政に参加する事すら出来ません。応仁の乱の西軍主将である山名宗全は、このため斯波・畠山の内乱に介入して自分の言うことを聞く者を当主に押し立て、間接的に幕政に参加するという手法を取りました最後に「足利絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が…」というのは今川家家譜の『今川記』にしか無い記述です。そもそも足利本家には幕府成立後も多数分家が有り、鎌倉公方家も健在です。御一家も3家とも健在で今川が出る出番はどこにもないですね
@@toshis3972 toshi sさん、訂正いただき、ありがとうございます。m(_'_)m
もしかしたら伊勢宗瑞は戦国大名ではなく伊豆の新たな守護大名から始まったのかもしれない
最近の説と言っても指摘され始めたのが50年代後半で,90年代になって有力とされたというわけですね。北条家は豊臣秀吉に滅せられたとはいえ,生き残りはいたし大阪狭山に藩を構えていたわけで,「戦国の三大梟雄」に話が変わっていったのはどうしてなんでしょうね。伊勢宗瑞(北条早雲)は最晩年に至るまで今川家の相模方面軍のような感じがしなくもない。
五代氏直の室が家康の娘というのもありますから。
新九郎之凄いところは京の幕臣でありながら今川家の客将として動いてたし中央と関東の両方の騒乱を生き延びてるんだよね将軍の御由緒衆だったから8~12代将軍とのつながりをもって小田原北条家の基礎を作っていってるんだよね昔は松永久秀や斎藤道三と合わせて3梟雄なんて言われてたみたいだけども
とても重要な補足コメントだと思います。あと茶々丸が正室の子とする書籍もありますが。円満院は継室だったはずです。
扇谷上杉家の家宰の太田道灌を謀殺しなければ、歴史も変わっていたと思いますし、北条早雲も関東に進出出来なかったと思います。太田道灌の本流末裔の方々と交流があります。毎年法要を開催しNHK大河ドラマにする署名活動も行なっていますね。
大河ドラマを目指したいのなら、戎光祥出版から「戦国研究の最前線」北条早雲の真実(自費出版)の続編「在野史論第17集」近刊発売中。(応仁元年1467年足利義視卿の脇に伊勢新九郎の少年期伊勢宮千代丸11才)三重県松阪市射和町(伊勢国射和村 大判小判がひしめく大財閥の村)で伊勢素浪人説は正しいを読んだ方がよろしいでしょう。
かなり最近の研究結果を元にした説明で分かりやす。ただ、最近の研究では年齢のバラスがおかしいらしく今出川殿には仕えていないみたいです。
たくさんコメントしているので足利(今出川)義視卿に仕えていなかったという、一流学者のマインドコントロールは考え方が変わります。他の動画を見たらわかります。戎光祥出版から「戦国研究の最前線」と「在野史論第17集」に「伊勢素浪人説は正しい」が、超最新研究が近刊発売中です。超最新研究なので、一流学者が舌を巻いています。
@@MIZ-c8w 興味があるので戎光祥出版のHPに行ったのですが「戦国研究の最前線」が見当たりませんでした。検索方法を教えていただけるとありがたいです。
「戦国研究の最前線」と「在野史論第17集」です。全国歴史研究会noteを参照検索して頂けると、ありがたいです。
やべぇ。戦国時代は結構調べてたのですが、北条と今川は早期から血縁とは知らなかったです。北条の拠点の神奈川に住んでいながら...恥ずかしい。
今川氏親公は宗瑞公の甥に当たる。その辺から名門伊勢家の一族だったってことが分かる。
今川氏親の娘が北条氏康の室、氏康の娘が今川氏真の室と行ったり来たりしていますね。これに武田の姫も絡んきます。蛇足ですが、北条氏康と上杉謙信が同盟関係だったときに氏康の子が謙信の養子になっています。ついでに五代北条氏直の室が家康の娘。
山内と扇谷の上杉氏は別に内乱をきっかけに分裂したのではありません。
ご指摘の通り、内紛で分裂したのではありませんでした。扇谷上杉氏は山内上杉氏の分家でした。
ほりごえ、たつおうまる
卒論かかなきゃ
まさか、伊勢素浪人説否定のまま卒業しましたか?戎光祥出版から「戦国研究の最前線」と北条早雲の真実(自費出版)続編「在野史論第17集」近刊発売中。岡山県(備中説)から三重県(伊勢素浪人説大どんでん返し、50年間の経済的大損害は一流学者どうするの?)
呼び方がちがう
もっと本名詳しく言うと、伊勢新九郎守時です
伊勢新九郎盛時では?
早雲は名乗ったが北条は名乗ってない
「盛」は伊勢家の通字みたいな感じがします。
前世療法うけたら、北条氏康でした。
俺も北条氏康だったんだが・・
お互いに、複製かもしれませんよ。
畠山義就かと思ってたが
伊勢宗瑞の物語は本当に面白い。若い頃から知略にたけ、
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戦国大名の良いお手本のような人物。
めちゃくちゃわかりやすい
動画内での早雲呼びもわかりやすさ重視と思うと動画作成者の優しい心遣いが伝わりますね
違和感もあるけど
よくまとめられてて、分かりやすかったです。ありがとう。
学問として修めておらず、戦国時代は信長を軸にしたゲームに依るところが大きいので、
北条と今川との縁が垣間見れて良かったです。
小勢力から地方を統一したような有名武将も、地盤を固めた親祖父世代の働きがとても大きいんですよねえ。
早雲が居なければ、今川家がなくなっていたかもしれないくらい重要
「伊勢素浪人説否定」しておいて、50年間を備中説で「再び三重県さんすいません。また伊勢国は大事です。」なんて、現実は「深刻な問題」だと思います。何はともあれ、戎光祥出版から「戦国研究の最前線」と「在野史論第17集」近刊発売中です。超最新研究です。
やはりそこそこの家柄がないと戦国大名として成り上がるのは難しいですね。
そう考えると秀吉の立身出世は凄え。
今まさに連載中の新九郎奔る!、ですね。アニメ化早よ。
1人で後北条氏の基盤作るの明らかにレベチ
氏綱の室が北条家ゆかりの女性だったため後北条にも元々の北条家の血筋が入っていたと思われます。
玉縄の横江氏の娘という説がありますね。
地味に海岸沿いを押さえていったのが凄い
早雲のやった功績は北条家を作ったことだな
あまり一揆も起きなかったらしいし
氏綱から北条と名乗りだしたんですね🤔
場所も近いから鎌倉北条と何か関係があるのか思ってました。
氏綱の嫁は、鎌倉北条家の出身説は、ありますよね。
鎌倉北条も後北条も平氏出身という点では同じ
今川家は足利家の分家、足利一門でした。足利尊氏が亡くなる時に、「将来、足利本家が将軍職を全う出来なくなった時は、今川か吉良が将軍職を継ぐように」と遺言を残しました。そのような名家に伊勢氏は嫁いだので、伊勢氏も名家であったのでしょうね~(^o^)/
今川家に足利将軍家を次ぐ資格はありません。6代義教が御一家という制度を作り足利将軍家に万一の事態あれば、吉良・渋川・石橋の3家から跡継ぎを出すようにしました。そもそも今川家は吉良家の分家(足利本家からすると分家の分家)で家格も管領→相伴→国持と3番目に過ぎません。この国持は山名や土岐、六角等、非足利血統の家が多く所属する家格です
室町時代はこの家格が物凄く大事で、いくら実力が有り守護国を多く持っても、家格が低ければ幕政に参加する事すら出来ません。応仁の乱の西軍主将である山名宗全は、このため斯波・畠山の内乱に介入して自分の言うことを聞く者を当主に押し立て、間接的に幕政に参加するという手法を取りました
最後に「足利絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が…」というのは今川家家譜の『今川記』にしか無い記述です。そもそも足利本家には幕府成立後も多数分家が有り、鎌倉公方家も健在です。御一家も3家とも健在で今川が出る出番はどこにもないですね
@@toshis3972 toshi sさん、訂正いただき、ありがとうございます。m(_'_)m
もしかしたら伊勢宗瑞は戦国大名ではなく伊豆の新たな守護大名から始まったのかもしれない
最近の説と言っても指摘され始めたのが50年代後半で,90年代になって有力とされたというわけですね。北条家は豊臣秀吉に滅せられたとはいえ,生き残りはいたし大阪狭山に藩を構えていたわけで,「戦国の三大梟雄」に話が変わっていったのはどうしてなんでしょうね。伊勢宗瑞(北条早雲)は最晩年に至るまで今川家の相模方面軍のような感じがしなくもない。
五代氏直の室が家康の娘というのもありますから。
新九郎之凄いところは京の幕臣でありながら今川家の客将として動いてたし中央と関東の両方の騒乱を生き延びてるんだよね将軍の御由緒衆だったから8~12代将軍とのつながりをもって小田原北条家の基礎を作っていってるんだよね
昔は松永久秀や斎藤道三と合わせて3梟雄なんて言われてたみたいだけども
とても重要な補足コメントだと思います。あと茶々丸が正室の子とする書籍もありますが。円満院は継室だったはずです。
扇谷上杉家の家宰の太田道灌を謀殺しなければ、歴史も変わっていたと思いますし、北条早雲も関東に進出出来なかったと思います。太田道灌の本流末裔の方々と交流があります。毎年法要を開催しNHK大河ドラマにする署名活動も行なっていますね。
大河ドラマを目指したいのなら、戎光祥出版から「戦国研究の最前線」北条早雲の真実(自費出版)の続編「在野史論第17集」近刊発売中。(応仁元年1467年足利義視卿の脇に伊勢新九郎の少年期伊勢宮千代丸11才)三重県松阪市射和町(伊勢国射和村 大判小判がひしめく大財閥の村)で伊勢素浪人説は正しいを読んだ方がよろしいでしょう。
かなり最近の研究結果を元にした説明で分かりやす。ただ、最近の研究では年齢のバラスがおかしいらしく今出川殿には仕えていないみたいです。
たくさんコメントしているので足利(今出川)義視卿に仕えていなかったという、一流学者のマインドコントロールは考え方が変わります。他の動画を見たらわかります。戎光祥出版から「戦国研究の最前線」と「在野史論第17集」に「伊勢素浪人説は正しい」が、超最新研究が近刊発売中です。超最新研究なので、一流学者が舌を巻いています。
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「戦国研究の最前線」と「在野史論第17集」です。全国歴史研究会noteを参照検索して頂けると、ありがたいです。
やべぇ。
戦国時代は結構調べてたのですが、北条と今川は早期から血縁とは
知らなかったです。
北条の拠点の神奈川に住んでいながら...恥ずかしい。
今川氏親公は宗瑞公の甥に当たる。その辺から名門伊勢家の一族だったってことが分かる。
今川氏親の娘が北条氏康の室、氏康の娘が今川氏真の室と行ったり来たりしていますね。これに武田の姫も絡んきます。蛇足ですが、北条氏康と上杉謙信が同盟関係だったときに氏康の子が謙信の養子になっています。ついでに五代北条氏直の室が家康の娘。
山内と扇谷の上杉氏は別に内乱をきっかけに分裂したのではありません。
ご指摘の通り、内紛で分裂したのではありませんでした。扇谷上杉氏は山内上杉氏の分家でした。
ほりごえ、たつおうまる
卒論かかなきゃ
まさか、伊勢素浪人説否定のまま卒業しましたか?戎光祥出版から「戦国研究の最前線」と北条早雲の真実(自費出版)続編「在野史論第17集」近刊発売中。岡山県(備中説)から三重県(伊勢素浪人説大どんでん返し、50年間の経済的大損害は一流学者どうするの?)
呼び方がちがう
もっと本名詳しく言うと、伊勢新九郎守時です
伊勢新九郎盛時では?
早雲は名乗ったが北条は名乗ってない
「盛」は伊勢家の通字みたいな感じがします。
前世療法うけたら、北条氏康でした。
俺も北条氏康だったんだが・・
お互いに、複製かもしれませんよ。
畠山義就かと思ってたが