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元寇なくても分割相続で滅亡遅れただけ足利尊氏も活躍できたかなぁ
23:21鎌倉幕府滅亡時の執権は北条高時ではなく赤橋流の守時です。足利高氏の義兄に当たる人物です。
明確な裏付けはないですが金沢貞将が滅亡時の執権(第17代)だという説がありますね。いずれにしても赤橋守時は東勝寺合戦の数日前に戦死しているので厳密に言えばその時執権ではなく、幕府滅亡時の執権は空位または貞将ということになります。
特に頼朝死後の北条の動きがどうしても河内源氏の嫡流を途絶えさせて自分らが牛耳る為に奔走してたとしか思えん。
伊豆の中堅勢力が実質一代で武家の棟梁になれたのが奇跡すぎる
サムネの、“理由が『不可解』過ぎる”ここから予想して観た内容とは全然違いました。“動画の内容はある程度既知、でもそれらでは説明がつかない事実がある”、という流れで議論が進むと思ってしまい。正直、最後の『決定的な理由が分からない』にサムネの答えを収斂させられたときはガッカリしてしまいました。すみません
このコメみて途中で見るの辞めました。サンクスです👍
それよりも将軍不在(象徴としてはずっと居たが)で続いたことの方が日本史的に日本のかたちを論ずる上で重要だと思う。
将軍も形骸化し、時代と共に執権すら形骸化していったのは面白いですね。
同時期の英でジョン失地王の失政を経てマグナカルタが生まれた事を思えば、君主が無力でも国は回る下地が既にあったのは大きいのかも知れないね
平安時代の摂関政治と同じなんだよな
最後に実権を握ったのは北条家の執事だからな。もはやギャグみたい。これほど権威のない政権も珍しい
日本は、アメリカ、中華帝国と違って、権威者と権力者が分かれて統治する仕組みが1000年以上続いていたからこれって、聖徳太子のときから?卑弥呼のときから?
元寇の際、自分が執権だったらどうするかと考えても割とどうしようもないもんなー
さだまさしさんはモンゴルが攻めてきたら拳固で戦うと言ってました
全体的に良く纏めたとは思うけど、最近の研究結果が反映されてなくて残念だったね。
学生時代に日本史を調べてて清和源氏(源氏将軍、足利氏)と桓武平氏(執権北条氏など)の因果関係を知り数世紀にも渡る源平合戦の壮大さに心躍ったわ
八幡太郎義家から頼朝へと連なる河内源氏は、とても勇猛な血筋だったけど、それが故にか?身内同士での殺し合いをやり過ぎましたね。それと比べて平家は最後まで親族が仲良くて、壇ノ浦で枕を並べて美しく滅びる。そして河内源氏は最後まで実朝と公暁の身内同士の殺し合いを繰り広げて滅びてしまうけど、八幡太郎義家がやった、自腹を切って子分たちに報酬を与える。そして子分たち(関東武士団)はそれによって代々の河内源氏の跡継ぎを武家の棟梁とみなすようになる。それはまるで、ヤクザ(博徒)が親子の盃を交わすと、その親分を生みの親よりも大切にして黒い物も白と従う慣習にも通じてますね。
@@silversurfer512平家の祖先は一族の平将門と抗争を起こした平国香、その嫡流が関東から脱出して伊勢に本拠地を移したけど、傍流は関東に残り坂東八平氏(千葉氏や秩父氏、土肥、梶原、大庭、三浦など)。坂東八平氏は頼朝が挙兵したときに頼朝に荷担して、嫡流筋の平家を潰しにかかっている。 更に鎌倉時代には平氏の家系といわれてる北条によって坂東平氏の梶原や三浦が潰されたからな。平家は小さい単位だから潰し合いは起きなかったが、平氏内では平将門の乱以降は内部抗争をしてるんです。
何度も何度も書いてますが、このチャンネルの説明は古すぎます。山田徹ほか『鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像』光文社新書の解説では、「鎌倉幕府は全盛期のなかで突如滅亡したというのがおおよその学界の共通認識」になっています。まあ、そのせいで鎌倉幕府の滅亡理由が余計に分からなくなった感がありますが。おそらく当時の人々も何で鎌倉幕府が滅んだのか分からず、高時暗君説や幕府腐敗を強調したのでしょう。何だかんだ後醍醐天皇の強烈な情念が時代を動かす原動力になった事と、後醍醐側が善戦したことで多くの武士たちが「あれ、もしかしてこのまま北条倒せば、その膨大な所領の分前に与れるんじゃね?」と気づいてしまった事が大きい気がします。
この動画では元寇の際の恩賞が支払われてないとの事ですが幕府は四半世紀掛けて恩賞出しているし、元寇云々より九州等の本所一円住人との主従関係も説明されてないですしね。私の拙いRUclipsでの知識では牛田うしいち氏のRUclipsChannelがこの問題を詳しく説明しています。
幕府安定のために行われた両統迭立が後醍醐天皇の暴走を招いて幕府滅亡につながるのだから、歴史は皮肉だね。
私も本所一円の取り込みによる新参者の増加による統治の間隙に後醍醐のような強烈なキャラが嵌まり込んで亀裂が生じたものの、北条家本来の権威のなさから歯止めがきかなくなって瓦解したと思います。正直、楠も元は御内人側の出とか言うしわけわからん。
確かに文永の役とかを見てると教科書通りって感じ。
摂家将軍あたりからもう幕府という形は滅んだようなもの
今から見れば全てが手探りだったろうによくここまで発展したものだよ
鎌倉幕府は力が衰えて滅亡したものだと思っていましたが、割と力がある中で滅亡してしまったようですね。北条の独裁政権がいけなかったんですかね?幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、400年前の醍醐・村上両天皇の治世を再現しようとしたようですが、前漢を滅ぼした王莽のように時代にそぐわない政策は受け入れられなかったようですね。
まあ、足利尊氏と新田義貞の裏切りが大きいだろうな北条得宗家の権威も堕ちていたし後醍醐天皇の倒幕の呼びかけも凄まじかったし。
いちいちコメントするまでもない、誰でも知ってる話だな
平氏政権(北条)を倒し、政権を源氏(新田足利)の手に取り戻したい、という新田足利の願望朝敵である北条を滅ぼし、後鳥羽順徳以来の恨みを晴らしたい、という後醍醐ら平安京の願望
まぁ、得宗家は討幕した奴は問答無用で処断したら良かったと思いますけどね。後醍醐とかでも殺しといたら良かったやろって、そこまでの博打打って欲しかったなぁ。
個人的には粗探しと改易を行わなかったことと朝廷への監視が内輪揉めで争ってるうちに弱くなり、政治が腐敗したために偶然が重なったためとしか言えないと思う政治の運営自体は相当中世にしてはよかったと思う
暗さつがめちゃくちゃ多いけど、誰がやったかはわからないんだよな…これが一番怖いわ
北条高時に関して、『増鏡』には、「高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった」と記されており脚気もしくは血友病だったのではと言われていますね。血友病の根拠は安達氏との繰り返される同族婚。症状的には脚気も該当しますね→運動失調や無関心・意識障害などが引き起こされる。いずれにしても、高時は24歳で執権職を辞しています。高時が好んだ闘犬や田楽に関しても、運動失調により外に出ることが出来ず、不調の時には政務をとるどころではなく屋内から楽しめる娯楽で癒していたのではないでしょうか。太平記は負けた北条を貶める必要があったとは言え、高時の描写はちょっと酷い。
後家さんの統制?無理無理😮
北条得宗家は近親婚が多く、短命だった
単に病弱だっただけなのに、親父の所業を被って、暗愚扱いで可哀想(;_;)
北条氏だけじゃなく、歴代の天皇や、徳川幕府の歴代の将軍も病弱な人が散見されますが、日本のそれらの天上人たちが病弱だった原因は、近親相姦よりも、過保護に育て過ぎたことや、白米ばかり食べさせたことにあったようですよね。なので京都の公家の間では、跡継ぎの子供を田舎に預けて田舎で育てる習慣もあったようですね。
金沢貞顕が書状で心配するぐらいですからね。闘犬や田楽も恐らくは周囲の厚意でしょう。
動画に出てる肖像画は「伝」源頼朝のもの。室町時代に描かれたものらしい。今じゃ教科書にも「伝」で載るか肖像画そのものが載ってないそうだ。
1192作ろう鎌倉幕府😮
国政は箱(85)があってこそですな
護良親王の令旨、後醍醐天皇の綸旨、尊氏の御教書の3つが "討幕〜!"って言って全国を回ったんだよ3つとももらった人も居ただろうし あとは恩賞目当で 一気に情勢が動いたんだろうね北条氏がたくさん領地を持ってたから、倒せば恩賞の期待値 高いもんね❤
だから敢えて、領地を上げまくって、倒す価値のない、御家人には逆らえない、みんなの好きにして、俺はただいるだけって存在に徹したから250年も続いた足利将軍。
@@敏腕マナー講師レオ さんなるほどほんまや〜!土地をあげまくれば プラス100年生き延びれるんやな^ ^
@@memejiro7147 権力で恐怖政治した北条と、権威でみんなの好きにしてーの足利なら足利のほうがみんな好き。
@@敏腕マナー講師レオ さんうんうん、北条より足利の方がみんな好き。みんな好きで みんな好きにしたから 最後は戦国になって将軍追っぱらわれた😵なので徳川さんは 朱子学(儒教)で治めて 264年も生き延びましたとさ
滅亡時の執権は高時じゃない
本郷和人東大教授は、北条氏が一族の領地を元寇で戦った武士に与えていたら、鎌倉幕府はもっと長持ちしていただろうと言っている。『ケチは身を滅ぼす。他人は気前よく。』
そいつ、信用できるの?
@@hisayoshiyamada2044 信用したくなければ信用しなければ良い!自分で勉強して信用できるヒトを見つける!
寧ろよく140年も続いたもんだと思います2001年の大河ドラマで北条時輔が「鎌倉は常に混乱しておる!」と言ってた様に140年の間全く平穏な時期などありませんでした
元が攻めてきたのは福岡県だけじゃなくて佐賀と長崎(主に壱岐と対馬)にも攻めてきた。
安達泰盛ってすごい長生きですね。鎌倉時代初期からだと100歳超えてるじゃ?
鎌倉時代140年を生き抜いたんだから150歳位生きてますねw
粛正が滅ぶまで続いた。元寇がターニングポイントで恩賞がすくなった
伊豆の小豪族に、なんで140年も全国政権の指導をするノウハウや仕組みづくりができたのか。不思議。
鎌倉政権が全国政権であった時代など一度もない公家や寺社の方がはるかに多くの所領を持っていたし
平安時代や室町時代に蒙古襲来があったら、日本はどうなっていたのでしょうか?
平安時代には、「刀伊の入冦」があります。
たまたま鎌倉時代が武家政権で良かったですね。平安時代なら負けてたかもしれないですね。室町時代ならなんとかなるかも。
敢えて喰われたら北条は生き残り日本が喰われる未来になったかもしれません。
@@shu_goz3534平安以前の話だけど、普通に国内で内乱発生してたりするから、戦う事はできそう
説明がところどころ雑すぎやしませんか
18:52 源頼朝の側近安達盛長の曽孫が、安達泰盛ですね。作成のミスでしょう!
元寇の説明の時点で見てられなくなったわ。名乗りあげて個人戦してたっていつの説の話ですか…
俺の個人的見解だが、後醍醐天皇は鎌倉幕府……… というより北条一族に対する激しい恨みがあったので、それを実現させる事=北条氏滅亡 に直結したのだろう。北条氏は承久の変において朝廷を蔑ろにした挙げ句、更に後醍醐自身ですら皇位を追われて隠岐へ「終身刑」に処された。後醍醐が北条氏を激しく憎むのは当然だ。その怨念が北条を滅ぼした、と言っても過言ではないと思う。
逆らった奴らが皇族だろうが問答無用で殺しといたら良かったのでは?毅然とした態度で、反逆者は、身分関係なく処断、味方には寛容に徹する。なるべく平等であれば御家人は付いてきたと思う。
@@敏腕マナー講師レオ皇族ましてや上皇を殺しでもすればそれこそ御家人はついてこないと思うんやけど
1番デカイのは後醍醐天皇の執念だと思います。
なんか旧説ばかりですね
ツッコミどころの多い動画ですね。実朝が政治から離れた理由は和田合戦を契機としており、また次の将軍は公家ではなく後鳥羽上皇の血を引く皇子を望んでいました。実朝暗殺の陰謀には北条義時と三浦義村の関与はなく、公暁単独の犯行とされています。
神護寺 伝源頼朝像は今では足利直義像説が濃厚と言われているので使わない方がよろしいかと…
イメージ画なのだから別に問題ない
『鎌倉幕府』が成立したのは1192年であり、1185年ではない。何故なら『幕府』とは将軍が開いた政権の事を指すから。だから『鎌倉幕府』が成立したのは源頼朝が征夷大将軍の地位に就いた1192年以外ありえないという事になる。もちろん『征夷大将軍』の地位に就いただけでは『○○幕府』とは呼ばれない。誰も『坂上田村麻呂幕府』等と言わないし、後醍醐天皇の息子が征夷大将軍の地位に就いても『吉野幕府』とは呼ばれない。また『武士政権=幕府』だとしたら平清盛も織田信長も豊臣秀吉も幕府を開いたことになるが、彼らの政権が『○○幕府』と呼ばれる事が無いのは、彼らが征夷大将軍の地位に就いたことが無いのが理由である。以上から、政権を開いた武将が征夷大将軍の地位に就き『将軍の地位+政権』の両方がそろって『○○幕府』となるのである。例えば、徳川政権は関ヶ原の戦いがあった1600年には事実上成立しているが、『江戸幕府』が成立したのは徳川家康が征夷大将軍の地位に就いた1603年であるし、江戸幕府の終焉は大政奉還が行われた1867年であるが、その時点では徳川政権はまだ維持されていた。徳川政権が瓦解するのは戊辰戦争によってである。また、室町幕府の滅亡は織田信長による足利義昭の京都追放とされるが、この時点では足利義昭は将軍のままである。しかし、追放される事により、政権と呼べるものが完全に将軍から失われたため、室町幕府が滅亡したとされたのである。これを見ても、幕府には『将軍の地位+政権』の両方が必要だという事が分かる。もちろん『幕府』の定義自体に変更があるなら、上記の意見は当てはまらないかもしれない。しかし『室町幕府』や『江戸幕府』における『幕府』の定義に変更がない以上、『鎌倉幕府』が成立したのは源頼朝が征夷大将軍の地位に就いた1192年以外にありえないという結論になる。但し、源頼朝が征夷大将軍に任官した時点では『征夷大将軍』が政権を樹立できるような地位では無かったのは間違いない。源頼朝にとって、政権の後ろ盾になりうる地位は『右近衛大将』だったと思われる。なので『鎌倉政権』が樹立されたのは、源頼朝が右近衛大将の地位に就いた1190年が正しいと言える。ただ、2代頼家は右近衛大将に任官する前に暗殺され、3代実朝は右近衛大将を越えて左近衛大将に任官した為、3代そろって付いた公職は『征夷大将軍』であり、そこから『鎌倉殿の身分を保証する公的地位は征夷大将軍である』という認識が生まれたのである。実際に4代以降の鎌倉殿もすべて征夷大将軍に任官している。また、足利尊氏も『鎌倉殿』の地位に就くために征夷大将軍に任官しており、そういった事実の積み重ねが、今に繋がる『武家政権=幕府=征夷大将軍』という認識につながっていったのである。
確かに!全国支配と征夷大将軍の地位があって幕府ですね。学者は新説を唱えないと有名になれないから、奇をてらった説をあげがちで、周囲も新説を持ち上げすぎる。
鎌倉幕府(1192ー1333)天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の順に後醍醐天皇まで執権北条時政→北条高時
北条家はやりすぎた
元寇に関して未だにこんな的外れな説明する奴おるんかいってビビリ倒した酷すぎる
裏切りかぁ😮
有力御家人を粛正し元寇で御家人が疲弊したから北条家に権力集中しているんだよね。北条が一番強かった時期に幕府が滅んだんだよな。そりゃ何でってなるわ。
なんで実朝は公暁を養子にしなかったんだろう
もし公暁が養子になって実朝の後を継いだら反北条が台頭することを恐れたんだと思います。(北条側が)実際養子と違って相続権は確かじゃない猶子にはなっていますからね
それは北条氏がさせなかった平氏一門である北条としては源氏将軍を終わらせたかったからそして公暁に対しては「実朝こそがお前の父の仇なのだ」と吹き込んだ
源頼朝は北条義時をミスターと呼んでいたらしい
鎌倉幕府は元寇を退けた素晴らしい幕府だと思う。滅びた理由は、元寇と後醍醐天皇の親政を行いたい気持ちが、つよすぎたんだと思う。
誰でも知ってる滅亡理由をわざわざコメント 誠にお疲れ様ね
@@山ちゃん3世 わざわざコメント それはお前のことだよ 笑
元寇での論功行賞の失敗、分割相続の行き詰まり、貨幣経済の発達による御家人のプロレタリア化、更には幕府に無能で病弱な執権が続いたのが滅亡の原因。
楠木正成は?🥹
鎌倉幕府の将軍は、源氏将軍が3代で絶えた後は滅亡まで不在だったというイメージだが……( =Φ人Φ=)
いつの資料でいってるの実際は、元に日本の圧勝古い資料で動画をつくらないで
頼朝は北条家の傀儡だった。疑り深すぎて親族○しすぎたし、息子達も謀略で貶められるし、自分も貶められた。政子ともギスギスして仲が悪く、政子は婦人病を患っており、妊娠しづらい身体でもあった。義経に淡い恋心を抱いており、静御前に対抗意識を持っていた。白拍子ごときの立場であの方とみたいな感じだったなんて説はあるが、義経には本妻がおり、静御前、皆鶴姫などあちこちに浮気相手、不倫相手がいたわけで、何故静御前にだけ嫉妬したのかって違和感しかないよね。ちなみに皆鶴姫は鬼一法眼の娘です。頼朝と秀吉は親族を濡れ衣で○しすぎたことが失敗だったと有識者が言ってます。
「てつはう」を文字通りに「てつはう」と読むのか・・・笑ってしまうわ。じゃあ、君は、「てふてふ」を文字の通りに読むのかね?「とうきやう」「きやうと」「おほさか」を文字の通りに発音する人なのかね?「てつはう」は、「てつはう」ではなくて、「てっぽう」か「てつほう」か「てつぼう」のいずれかになるはずだ。読み方が旧かなづかいであるため、はっきりしないというのが正解だが、「てつはう」と文字の通りには読まないのは間違いない。
デタラメを言わないで下さい。征夷大将軍は、東国(関東・東北)にいる蝦夷などの敵対勢力を討伐する軍の最高司令官の地位ですよ。源頼朝より前に 大伴弟麻呂、坂上田村麻呂、文室綿麻呂、源(木曽)義仲、藤原忠などが征夷大将軍になってますが、「武家の棟梁」 なんですかね?この時代、征夷大将軍 = 武家の棟梁 ではないですよ。 武家の棟梁 = 鎌倉殿 ですよ。御家人、家臣から「鎌倉殿」と認められると、【武家の棟梁】と認識されるわけですが。あと、【鎌倉幕府】って、動画で説明してますが、鎌倉幕府なんて言葉は、この時代ありませんよ。嘘を教えないで下さい。
一コメです
元寇なくても分割相続で滅亡遅れただけ
足利尊氏も活躍できたかなぁ
23:21鎌倉幕府滅亡時の執権は北条高時ではなく赤橋流の守時です。足利高氏の義兄に当たる人物です。
明確な裏付けはないですが金沢貞将が滅亡時の執権(第17代)だという説がありますね。
いずれにしても赤橋守時は東勝寺合戦の数日前に戦死しているので厳密に言えばその時執権ではなく、幕府滅亡時の執権は空位または貞将ということになります。
特に頼朝死後の北条の動きがどうしても河内源氏の嫡流を途絶えさせて自分らが牛耳る為に奔走してたとしか思えん。
伊豆の中堅勢力が実質一代で武家の棟梁になれたのが奇跡すぎる
サムネの、“理由が『不可解』過ぎる”
ここから予想して観た内容とは全然違いました。“動画の内容はある程度既知、でもそれらでは説明がつかない事実がある”、という流れで議論が進むと思ってしまい。
正直、最後の『決定的な理由が分からない』にサムネの答えを収斂させられたときはガッカリしてしまいました。すみません
このコメみて途中で見るの辞めました。サンクスです👍
それよりも将軍不在(象徴としてはずっと居たが)で続いたことの方が日本史的に日本のかたちを論ずる上で重要だと思う。
将軍も形骸化し、時代と共に執権すら形骸化していったのは面白いですね。
同時期の英でジョン失地王の失政を経て
マグナカルタが生まれた事を思えば、
君主が無力でも国は回る下地が
既にあったのは大きいのかも知れないね
平安時代の摂関政治と同じなんだよな
最後に実権を握ったのは北条家の執事だからな。もはやギャグみたい。これほど権威のない政権も珍しい
日本は、アメリカ、中華帝国と違って、権威者と権力者が分かれて統治する仕組みが1000年以上続いていたから
これって、聖徳太子のときから?卑弥呼のときから?
元寇の際、自分が執権だったらどうするかと考えても割とどうしようもないもんなー
さだまさしさんはモンゴルが攻めてきたら拳固で戦うと言ってました
全体的に良く纏めたとは思うけど、最近の研究結果が反映されてなくて残念だったね。
学生時代に日本史を調べてて
清和源氏(源氏将軍、足利氏)と
桓武平氏(執権北条氏など)の因果関係を知り
数世紀にも渡る源平合戦の壮大さに心躍ったわ
八幡太郎義家から頼朝へと連なる河内源氏は、とても勇猛な血筋だったけど、それが故にか?身内同士での殺し合いをやり過ぎましたね。
それと比べて平家は最後まで親族が仲良くて、壇ノ浦で枕を並べて美しく滅びる。
そして河内源氏は最後まで実朝と公暁の身内同士の殺し合いを繰り広げて滅びてしまうけど、
八幡太郎義家がやった、自腹を切って子分たちに報酬を与える。そして子分たち(関東武士団)はそれによって代々の河内源氏の跡継ぎを武家の棟梁とみなすようになる。
それはまるで、ヤクザ(博徒)が親子の盃を交わすと、その親分を生みの親よりも大切にして黒い物も白と従う慣習にも通じてますね。
@@silversurfer512平家の祖先は一族の平将門と抗争を起こした平国香、その嫡流が関東から脱出して伊勢に本拠地を移したけど、傍流は関東に残り坂東八平氏(千葉氏や秩父氏、土肥、梶原、大庭、三浦など)。
坂東八平氏は頼朝が挙兵したときに頼朝に荷担して、嫡流筋の平家を潰しにかかっている。 更に鎌倉時代には平氏の家系といわれてる北条によって坂東平氏の梶原や三浦が潰されたからな。平家は小さい単位だから潰し合いは起きなかったが、平氏内では平将門の乱以降は内部抗争をしてるんです。
何度も何度も書いてますが、このチャンネルの説明は古すぎます。山田徹ほか『鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像』光文社新書の解説では、「鎌倉幕府は全盛期のなかで突如滅亡したというのがおおよその学界の共通認識」になっています。まあ、そのせいで鎌倉幕府の滅亡理由が余計に分からなくなった感がありますが。おそらく当時の人々も何で鎌倉幕府が滅んだのか分からず、高時暗君説や幕府腐敗を強調したのでしょう。
何だかんだ後醍醐天皇の強烈な情念が時代を動かす原動力になった事と、後醍醐側が善戦したことで多くの武士たちが「あれ、もしかしてこのまま北条倒せば、その膨大な所領の分前に与れるんじゃね?」と気づいてしまった事が大きい気がします。
この動画では元寇の際の恩賞が支払われてないとの事ですが幕府は四半世紀掛けて恩賞出しているし、元寇云々より九州等の本所一円住人との主従関係も説明されてないですしね。私の拙いRUclipsでの知識では牛田うしいち氏のRUclipsChannelがこの問題を詳しく説明しています。
幕府安定のために行われた両統迭立が後醍醐天皇の暴走を招いて幕府滅亡につながるのだから、歴史は皮肉だね。
私も本所一円の取り込みによる新参者の増加による統治の間隙に後醍醐のような強烈なキャラが嵌まり込んで亀裂が生じたものの、北条家本来の権威のなさから歯止めがきかなくなって瓦解したと思います。
正直、楠も元は御内人側の出とか言うしわけわからん。
確かに文永の役とかを見てると教科書通りって感じ。
摂家将軍あたりからもう幕府という形は滅んだようなもの
今から見れば全てが手探りだったろうに
よくここまで発展したものだよ
鎌倉幕府は力が衰えて滅亡したものだと思っていましたが、割と力がある中で滅亡してしまったようですね。北条の独裁政権がいけなかったんですかね?幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、400年前の醍醐・村上両天皇の治世を再現しようとしたようですが、前漢を滅ぼした王莽のように時代にそぐわない政策は受け入れられなかったようですね。
まあ、足利尊氏と新田義貞の裏切りが大きいだろうな
北条得宗家の権威も堕ちていたし
後醍醐天皇の倒幕の呼びかけも凄まじかったし。
いちいちコメントするまでもない、誰でも知ってる話だな
平氏政権(北条)を倒し、政権を源氏(新田足利)の手に取り戻したい、という新田足利の願望
朝敵である北条を滅ぼし、後鳥羽順徳以来の恨みを晴らしたい、という後醍醐ら平安京の願望
まぁ、得宗家は討幕した奴は問答無用で処断したら良かったと思いますけどね。後醍醐とかでも殺しといたら良かったやろって、そこまでの博打打って欲しかったなぁ。
個人的には粗探しと改易を行わなかったことと朝廷への監視が内輪揉めで争ってるうちに弱くなり、政治が腐敗したために偶然が重なったためとしか言えないと思う政治の運営自体は相当中世にしてはよかったと思う
暗さつがめちゃくちゃ多いけど、誰がやったかはわからないんだよな…これが一番怖いわ
北条高時に関して、『増鏡』には、「高時が病弱であり、鎌倉の支配者として振る舞っていたものの、虚ろでいることが多かった」と記されており脚気もしくは血友病だったのではと言われていますね。血友病の根拠は安達氏との繰り返される同族婚。症状的には脚気も該当しますね→運動失調や無関心・意識障害などが引き起こされる。
いずれにしても、高時は24歳で執権職を辞しています。
高時が好んだ闘犬や田楽に関しても、運動失調により外に出ることが出来ず、不調の時には政務をとるどころではなく屋内から楽しめる娯楽で癒していたのではないでしょうか。
太平記は負けた北条を貶める必要があったとは言え、高時の描写はちょっと酷い。
後家さんの統制?
無理無理😮
北条得宗家は近親婚が多く、短命だった
単に病弱だっただけなのに、親父の所業を被って、暗愚扱いで可哀想(;_;)
北条氏だけじゃなく、歴代の天皇や、徳川幕府の歴代の将軍も病弱な人が散見されますが、
日本のそれらの天上人たちが病弱だった原因は、近親相姦よりも、過保護に育て過ぎたことや、白米ばかり食べさせたことにあったようですよね。
なので京都の公家の間では、跡継ぎの子供を田舎に預けて田舎で育てる習慣もあったようですね。
金沢貞顕が書状で心配するぐらいですからね。闘犬や田楽も恐らくは周囲の厚意でしょう。
動画に出てる肖像画は「伝」源頼朝のもの。室町時代に描かれたものらしい。今じゃ教科書にも「伝」で載るか肖像画そのものが載ってないそうだ。
1192作ろう鎌倉幕府😮
国政は箱(85)があってこそですな
護良親王の令旨、後醍醐天皇の綸旨、尊氏の御教書の3つが "討幕〜!"って言って全国を回ったんだよ
3つとももらった人も居ただろうし あとは恩賞目当で 一気に情勢が動いたんだろうね
北条氏がたくさん領地を持ってたから、倒せば恩賞の期待値 高いもんね❤
だから敢えて、領地を上げまくって、倒す価値のない、御家人には逆らえない、みんなの好きにして、俺はただいるだけって存在に徹したから250年も続いた足利将軍。
@@敏腕マナー講師レオ さん
なるほどほんまや〜!
土地をあげまくれば プラス100年生き延びれるんやな^ ^
@@memejiro7147
権力で恐怖政治した北条と、権威でみんなの好きにしてーの足利なら足利のほうがみんな好き。
@@敏腕マナー講師レオ さん
うんうん、北条より足利の方がみんな好き。
みんな好きで みんな好きにしたから 最後は戦国になって将軍追っぱらわれた😵
なので徳川さんは 朱子学(儒教)で治めて 264年も生き延びましたとさ
滅亡時の執権は高時じゃない
本郷和人東大教授は、北条氏が一族の領地を元寇で戦った武士に与えていたら、鎌倉幕府はもっと長持ちしていただろうと言っている。『ケチは身を滅ぼす。他人は気前よく。』
そいつ、信用できるの?
@@hisayoshiyamada2044 信用したくなければ信用しなければ良い!自分で勉強して信用できるヒトを見つける!
寧ろよく140年も続いたもんだと思います
2001年の大河ドラマで北条時輔が「鎌倉は常に混乱しておる!」
と言ってた様に140年の間全く平穏な時期などありませんでした
元が攻めてきたのは福岡県だけじゃなくて佐賀と長崎(主に壱岐と対馬)にも攻めてきた。
安達泰盛ってすごい長生きですね。鎌倉時代初期からだと100歳超えてるじゃ?
鎌倉時代140年を生き抜いたんだから150歳位生きてますねw
粛正が滅ぶまで続いた。元寇がターニングポイントで恩賞がすくなった
伊豆の小豪族に、なんで140年も全国政権の指導をするノウハウや仕組みづくりができたのか。不思議。
鎌倉政権が全国政権であった時代など一度もない
公家や寺社の方がはるかに多くの所領を持っていたし
平安時代や室町時代に蒙古襲来があったら、日本はどうなっていたのでしょうか?
平安時代には、「刀伊の入冦」があります。
たまたま鎌倉時代が武家政権で良かったですね。平安時代なら負けてたかもしれないですね。室町時代ならなんとかなるかも。
敢えて喰われたら北条は生き残り日本が喰われる未来になったかもしれません。
@@shu_goz3534平安以前の話だけど、普通に国内で内乱発生してたりするから、戦う事はできそう
説明がところどころ雑すぎやしませんか
18:52 源頼朝の側近安達盛長の曽孫が、安達泰盛ですね。
作成のミスでしょう!
元寇の説明の時点で見てられなくなったわ。
名乗りあげて個人戦してたっていつの説の話ですか…
俺の個人的見解だが、後醍醐天皇は鎌倉幕府……… というより北条一族に対する激しい恨みがあったので、それを実現させる事=北条氏滅亡 に直結したのだろう。
北条氏は承久の変において朝廷を蔑ろにした挙げ句、更に後醍醐自身ですら皇位を追われて隠岐へ「終身刑」に処された。
後醍醐が北条氏を激しく憎むのは当然だ。その怨念が北条を滅ぼした、と言っても過言ではないと思う。
逆らった奴らが皇族だろうが問答無用で殺しといたら良かったのでは?毅然とした態度で、反逆者は、身分関係なく処断、味方には寛容に徹する。なるべく平等であれば御家人は付いてきたと思う。
@@敏腕マナー講師レオ
皇族ましてや上皇を殺しでもすればそれこそ御家人はついてこないと思うんやけど
1番デカイのは後醍醐天皇の執念だと思います。
なんか旧説ばかりですね
ツッコミどころの多い動画ですね。実朝が政治から離れた理由は和田合戦を契機としており、また次の将軍は公家ではなく後鳥羽上皇の血を引く皇子を望んでいました。実朝暗殺の陰謀には北条義時と三浦義村の関与はなく、公暁単独の犯行とされています。
神護寺 伝源頼朝像は今では足利直義像説が濃厚と言われているので使わない方がよろしいかと…
イメージ画なのだから別に問題ない
『鎌倉幕府』が成立したのは1192年であり、1185年ではない。
何故なら『幕府』とは将軍が開いた政権の事を指すから。
だから『鎌倉幕府』が成立したのは源頼朝が征夷大将軍の地位に就いた1192年以外ありえないという事になる。
もちろん『征夷大将軍』の地位に就いただけでは『○○幕府』とは呼ばれない。
誰も『坂上田村麻呂幕府』等と言わないし、後醍醐天皇の息子が征夷大将軍の地位に就いても『吉野幕府』とは呼ばれない。
また『武士政権=幕府』だとしたら平清盛も織田信長も豊臣秀吉も幕府を開いたことになるが、彼らの政権が『○○幕府』と呼ばれる事が無いのは、彼らが征夷大将軍の地位に就いたことが無いのが理由である。
以上から、政権を開いた武将が征夷大将軍の地位に就き『将軍の地位+政権』の両方がそろって『○○幕府』となるのである。
例えば、徳川政権は関ヶ原の戦いがあった1600年には事実上成立しているが、『江戸幕府』が成立したのは徳川家康が征夷大将軍の地位に就いた1603年であるし、江戸幕府の終焉は大政奉還が行われた1867年であるが、その時点では徳川政権はまだ維持されていた。
徳川政権が瓦解するのは戊辰戦争によってである。
また、室町幕府の滅亡は織田信長による足利義昭の京都追放とされるが、この時点では足利義昭は将軍のままである。
しかし、追放される事により、政権と呼べるものが完全に将軍から失われたため、室町幕府が滅亡したとされたのである。
これを見ても、幕府には『将軍の地位+政権』の両方が必要だという事が分かる。
もちろん『幕府』の定義自体に変更があるなら、上記の意見は当てはまらないかもしれない。
しかし『室町幕府』や『江戸幕府』における『幕府』の定義に変更がない以上、『鎌倉幕府』が成立したのは源頼朝が征夷大将軍の地位に就いた1192年以外にありえないという結論になる。
但し、源頼朝が征夷大将軍に任官した時点では『征夷大将軍』が政権を樹立できるような地位では無かったのは間違いない。
源頼朝にとって、政権の後ろ盾になりうる地位は『右近衛大将』だったと思われる。
なので『鎌倉政権』が樹立されたのは、源頼朝が右近衛大将の地位に就いた1190年が正しいと言える。
ただ、2代頼家は右近衛大将に任官する前に暗殺され、3代実朝は右近衛大将を越えて左近衛大将に任官した為、3代そろって付いた公職は『征夷大将軍』であり、そこから『鎌倉殿の身分を保証する公的地位は征夷大将軍である』という認識が生まれたのである。
実際に4代以降の鎌倉殿もすべて征夷大将軍に任官している。
また、足利尊氏も『鎌倉殿』の地位に就くために征夷大将軍に任官しており、そういった事実の積み重ねが、今に繋がる『武家政権=幕府=征夷大将軍』という認識につながっていったのである。
確かに!全国支配と征夷大将軍の地位があって幕府ですね。学者は新説を唱えないと有名になれないから、奇をてらった説をあげがちで、周囲も新説を持ち上げすぎる。
鎌倉幕府(1192ー1333)
天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇の順に後醍醐天皇まで
執権北条時政→北条高時
北条家はやりすぎた
元寇に関して未だにこんな的外れな説明する奴おるんかいってビビリ倒した
酷すぎる
裏切りかぁ😮
有力御家人を粛正し元寇で御家人が疲弊したから北条家に権力集中しているんだよね。北条が一番強かった時期に幕府が滅んだんだよな。そりゃ何でってなるわ。
なんで実朝は公暁を養子にしなかったんだろう
もし公暁が養子になって実朝の後を継いだら反北条が台頭することを恐れたんだと思います。(北条側が)
実際養子と違って相続権は確かじゃない猶子にはなっていますからね
それは北条氏がさせなかった
平氏一門である北条としては源氏将軍を終わらせたかったから
そして公暁に対しては「実朝こそがお前の父の仇なのだ」と吹き込んだ
源頼朝は北条義時を
ミスターと呼んでいたらしい
鎌倉幕府は元寇を退けた素晴らしい幕府だと思う。滅びた理由は、元寇と後醍醐天皇の親政を行いたい気持ちが、つよすぎたんだと思う。
誰でも知ってる滅亡理由をわざわざコメント 誠にお疲れ様ね
@@山ちゃん3世 わざわざコメント それはお前のことだよ 笑
元寇での論功行賞の失敗、分割相続の行き詰まり、貨幣経済の発達による御家人のプロレタリア化、更には幕府に無能で病弱な執権が続いたのが滅亡の原因。
楠木正成は?🥹
鎌倉幕府の将軍は、源氏将軍が3代で絶えた後は滅亡まで不在だったというイメージだが……
( =Φ人Φ=)
いつの資料でいってるの実際は、元に日本の圧勝古い資料で動画をつくらないで
頼朝は北条家の傀儡だった。
疑り深すぎて親族○しすぎたし、息子達も謀略で貶められるし、自分も貶められた。政子ともギスギスして仲が悪く、政子は婦人病を患っており、妊娠しづらい身体でもあった。義経に淡い恋心を抱いており、静御前に対抗意識を持っていた。白拍子ごときの立場であの方とみたいな感じだったなんて説はあるが、義経には本妻がおり、静御前、皆鶴姫などあちこちに浮気相手、不倫相手がいたわけで、何故静御前にだけ嫉妬したのかって違和感しかないよね。ちなみに皆鶴姫は鬼一法眼の娘です。
頼朝と秀吉は親族を濡れ衣で○しすぎたことが失敗だったと有識者が言ってます。
「てつはう」を文字通りに「てつはう」と読むのか・・・笑ってしまうわ。
じゃあ、君は、「てふてふ」を文字の通りに読むのかね?
「とうきやう」「きやうと」「おほさか」を文字の通りに発音する人なのかね?
「てつはう」は、「てつはう」ではなくて、「てっぽう」か「てつほう」か「てつぼう」のいずれかになるはずだ。読み方が旧かなづかいであるため、はっきりしないというのが正解だが、
「てつはう」と文字の通りには読まないのは間違いない。
デタラメを言わないで下さい。
征夷大将軍は、東国(関東・東北)にいる蝦夷などの敵対勢力を討伐する軍の最高司令官の地位ですよ。
源頼朝より前に 大伴弟麻呂、坂上田村麻呂、文室綿麻呂、源(木曽)義仲、藤原忠などが征夷大将軍になってますが、「武家の棟梁」 なんですかね?
この時代、征夷大将軍 = 武家の棟梁 ではないですよ。 武家の棟梁 = 鎌倉殿 ですよ。
御家人、家臣から「鎌倉殿」と認められると、【武家の棟梁】と認識されるわけですが。
あと、【鎌倉幕府】って、動画で説明してますが、鎌倉幕府なんて言葉は、この時代ありませんよ。
嘘を教えないで下さい。
一コメです
ツッコミどころの多い動画ですね。実朝が政治から離れた理由は和田合戦を契機としており、また次の将軍は公家ではなく後鳥羽上皇の血を引く皇子を望んでいました。実朝暗殺の陰謀には北条義時と三浦義村の関与はなく、公暁単独の犯行とされています。